効率や便利さと対極にある「ひとの想い」について

はじめに

「言葉を器用に語れたら、どんなに良いだろう」と思う事がしばしばです。

自分の思うことを、自分なりに表現することさえ、ままなりません。

それでも、自分の感情がどんなにめんどくさい(非生産的、非合理的)なものであっても、それから逃げてはいけないとおもうのです。

理由

感情に人間らしさを求めるからです。

人が人とわかり合うということ

そこに合理性(完全に公式化できる要素)はありません。

ただ、人と人がいて、言葉を交わし、行動を示すのみです。

そして、人と人のやり取りにおいて重要視されるのは、感情面であり、その人の人となりであり、決して合理性(いわゆる「現象としての『ただしさ』」)は必ずしも必要ありません。

自身の印象に基づく決めつけ(不確定性)でさえ、たとえばその場を楽しくさせる要素であれば受け入れられるものです。

要するに人間を「ただしさ」に当てはめるべきではない

最近、本当にそう思います。

人間は、非合理な存在です。

ルールやシステムは合理性に基づいて決められますが、人間は本質的にはその合理性になじまないものです。

あるいは、合理的な人というものは、合理的であるために、人間らしい感じ方のどこかにふたをしているのではないかとおもいます。

ひろえもんにも、実はそーいうところがあります。

それを、無自覚にやってしまって、「ただしい」だけの判断をしてしまうときがあります。

それは「かなしい」ことだなあとおもいます。

おわりに

気付けば自分語りになってしまいました。

人間が「ただしさ」というルールやシステムの上に生活している事は、十分に承知しています。

「ただしさ」を無視して生活できない事も。

でも、きっと書き残しておきたかったんだと思います。

そして、これを書き残すことは、読んでくれているひとにとってもきっと意味のあることだと確信します。

「ただしさ」のみに囚われず、人間の気持ちに真摯でありたいと思います。

いち作業療法士としても。人としても。

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