作品をつくるということについて

はじめに

作品作りは、それを通してその人が自分を知る事に繋がります。

今の世の中的には、その具体性が必要とされている気がしてなりません。

意欲喪失社会?

自分自身がどんなことが出来るのかを確認し、それを土台にして自分が次に向かうべき方向性を決めるには、本来意欲が必要不可欠では無いでしょうか。

そういう文脈の中で、こんな物を作りたいという意欲があるかどうかということはとても大切な事だと思います。

いまの世の中は、自分自身に欲がなくてもそれなりに暮らせます。

周囲がシステマティックにある程度のモノを提供してくれるからです。

生命を脅かされる機会が極度に少ないことで、日常生活は平和で穏やかなものになっていますが、その一方でマズい現象もおこっているようです。

いわゆる、意欲をはじめとした、さまざまな欲が人から失われているようです。

成熟するということ

大人になるということは、何にでもなれる存在から分化して、何か特別なものになろうとすることじゃないかと最近強く思います。

今の世の中は、ほんとうにありとあらゆる可能性を提示してくれます。

しかし、選択肢があんまり多すぎるとそのなかから一つを選び取るというのはどんどん難しくなっていくようです。

最終的には、「理」を根拠にするか「感情」を根拠にするかという部分があり、人と有機的に繋がるには後者が、システマチックに生活を組み立てるならば、前者が重要になると感じています。

いずれで選ぶにせよ、選択を続け、実践するうちに人は成熟するのだと思います。

何かを作る

作るということにはたくさんの選択があり、実践があります。

目的に応じて、方法、道具などを選択可能な範囲から選ぶ必要があります。

もしも、現在利用できないものをつかわざるを得ないときには、ひょっとすると諦めるという選択肢も必要になるかもしれません。

また、自分の選択した活動を行えば、そこには結果が伴います。

結果には責任が生じます。

自分のおこなったことによって、結果が生じるというその因果関係を見つめるきっかけにもなるでしょう。

これらの具体的な体験は、意欲を刺激し、「なにものかになろうとする」成熟をたすけるものです。

作品を作る中で、自分と世界との関係性を再構築することになります。

たとえ、作品作りがうまく行かなかったとしても、きちんとしたフォローがなされていくなら、それはそれでかまわないのだと思います。

主観の補助、客観の保証

作品作りの最中においては、とりあえずその作業に集中できることが大切になると思います。

作業に集中するということは、自分の主観に集中するということです。

作業療法士としては、作品作りの主体者が存分に自分の主観を発揮できるために、その人の主観を補助したり、客観性を引き受けることが必要と思います。

あるいは、自信を失わないよう支持することも重要な役割だなあと感じています。

おわりに

もっとアクティビティを自信をもって、どんどん提供できるといいなあと、思っています。

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