差別とは、その感情

ネット上で、とんねるずのキャラクターが差別的だと話題になっていた件について、マイノリティーの当事者のミッツマングローブ氏がコメントを寄せているのを見つけました。

差別を考える上で大切なことが書かれていたので、紹介します。

表面的な配慮は窮屈さを増すだけで、無意味

セクシュアルマイノリティーを茶化すようなキャラクターをとんねるずの石橋氏が演じていたことが世間的にバッシングされていました。

一昔前であれば、問題になっていなかったことなので、社会の関心が高まってきているのはいいことだなと思います。

ただ、そこでとまってしまっている人も多いのではないかと思うのです。

大切なのは、

「茶化しちゃだめよ」

といって、タブーにすることではなく、当事者の人が本当はどう感じているかに思いをはせ続けること、興味を持ち続けることが大切です。

「あなたはこういう人だよね」

と、興味があって、適切な距離感で関わり続けることができるならば、差別なんて起こりえませんからね。

配慮をしていますという仮面をかぶって、

実は遠ざけているだけの人は

実際、世の中に多いと思います。

精神障害者の方、認知症の方、知的障害のある方への社会としての遇し方を見るにつけ、

配慮という名の隔離が行われているのではないかと、

猜疑心にさいなまれることこの上ありません。

表面的な配慮をする人たちに囲まれて、互いが揚げ足取り合うだけの社会に、快適さがあるでしょうか?

当事者の方たちは、そんなことより、自分たちが「普通」に暮らせる社会になることを望んでおられるようにおもいます。

そして、そのために普段からの不断の、不特定多数の方々からのかかわりやら支援を望んでおられます。

「普通」を本当の意味で保障するためには、言葉面のその先こそが必要です。

ミッツマングローブ氏の言葉の引用

そのことを的確に表現しておられたので、引用しますと

過剰なほどの自重と、善意という名の偏見に塗れ、いよいよ日本も行間や心の読めない単細胞国家になってしまった……。そんな気さえします。差別や区別にも『分別』があって然るべきでしょう。『分別』というのは、無数のグラデーションの中で、その都度その都度『判断』をすることです。それが道徳であり、秩序なのだと思います。

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週刊朝日より引用

大切なのは、自分の頭で考えること

どうにも、オーバーラップしたので自白しますと、一時期はやった「障がい者」議論は、とてもとても、こっけいにみえました。

障害者という言葉に、いったいどんな感情を乗せているのでしょうね、漢字一文字にこだわる人たちは、と思いました。正直。

いや、当事者の方がそこの議論を活発にされるのは当然のことだと思います。自分自身を規定する表現ですから。

だがしかし、その周囲の人間が、「配慮」と称して、不必要なまでに騒ぎ立てているように感じられてしまい、そのことが、自分の中での違和感として残っているのだと思います。

だって、表記が変わったからといって、音・読みは変わらないわけで、つまり、そういうつもりで、そういう感情でその単語を自分の言葉として発している時点で、表記を変えたところで何の意味もないと思うからです。

そう、結局は性根の問題です。

どういうつもりで、その言葉を発するかということです。

事実は事実

個人的には、

障害者とは、

「いきづらさが比較的多い人」

という意味です。

事実です。

逆に、身体に欠損があろうと、思考力が不十分だろうと、いきづらさがない人は、障害者ではありません。

そういう理解です。

これは、単なる事実だと思います。

そこに不必要な感情を勝手に付加するから、話がややこしくなるのではないでしょうか?

たとえば、「デブ」が悪口だと思う人は、そこに差別意識があることに気がついてほしいです。

本来は単なる事実の指摘なのに、なぜそれが悪口になるのか。

それは、

言う側の人間が、言われる側の人間に対して攻撃的な意図をもって発言する

からであり

言われる本人が、自分自身の体脂肪率の高さに差別的な意識を持っている

からです。

体脂肪率が高いことが、その人個人のマイナス評価に直結するのは、感情論がそこにあるからです。それは、もっと普段から意識されるべきことです。

なぜなら、人間の社会は感情論でモノゴトを進められることが、割と多くあり、その感情論が差別意識を生み出す温床だからです。

また、侮蔑的なニュアンスや、別称としての使用などをする人は、表現を変えたところで存在し続けます。実は、まさにそういう人たちにどこまで付き合っていくかとか、そういう問題でもあるようです。言葉狩りという言葉がもてはやされた時期もありました。

いずれにしろ、差別というのは、その本質は、言葉ではなく、それを発する人間の

「つもり」

なり

「性根」

なり

「立場」

なりによって、文脈として発生する要素のようです。

まとめると

表面上は当たり障りがなくても、本心ではすごい差別意識をもってる人は少なくないです。

嫌悪感を理性でコントロールしているだけで、一皮向けば、

「自分とあのひとは違う」

という感情に左右されることは、珍しいことではありません。

障害者の方に向けられる差別は、ときとして信じがたいものがあります。

他者に対して、どうしたらそのように悪意をぶつけることができるのかと、訝りたくなることが世の中には多いです。

一方で、

「それって差別じゃなくて、事実では」

ということを、周囲が差別だのなんだのと騒ぎたてて、ことさらに問題を大きく見せようとしていることもあります。

表面上の表現に振り回されると本質が見えなくなります。

余計な感情論が、自体をよりややこしく見えにくいものに変えてしまいます。

差別意識は人間である以上、よっぽど精神的な修行をしないと取り去ることはできません。

差別意識がない人間はいますが、生来の性格だったり育ってきた環境がそうさせるもので、ある程度大人になってしまってから理性的に修正をかけるのは本当に膨大なコストが必要になります。

しかし、差別は、その多くは、自然な感情の流れの結果として無意識的に行ってしまうものです。

だからこそ、その場その場での分別というか、配慮について常に考えて更新し続けることが唯一の、差別に対抗できる手段なのではないかと思います。

精神障害領域の作業療法においては、対象者の方を中心とした自他の差別意識による問題は頻発します。

そんなこんなを考えたときに、ミッツさんの言葉は本質をよく捕らえているなーと思ったのでご紹介がてら記事といたしました。

まとめ

常に考えることが、差別に対抗する唯一の手段なのではないか


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