ある意味で、現代病な、人と活動の希薄化に、作業療法は仕事するべき。

作業療法士にとって必要なことは、なんだろうかと考えて見ると、作業をよく知っていること、作業の意味や重要性を、対象者の方と共有して、一緒にやっていく能力だと思います。

しかし、今後、その作業療法士が行う作業療法は、作業を用いて結果を出すことができなくなるということです。

どういうことでしょう。どうすれば良いでしょう。

前提としての、結果が全てな現代社会

極端な書き方をすると、現代社会は、結果を出してなんぼです。

結果とは、換金可能な価値を生み出すことです。

なぜなら、人間が生きるためには、資本主義社会では、お金がいるからです。

社会制度や仕組みでフォローするとしても、直接的にサービスを供給するのではなく、お金を当事者に渡すという仕組みをとっていますから、やっぱりお金ってのは世の中を動かしている存在として認識されていると思います。

お金を追求するためには、結果を追求することが必要です。

だから、結果が重要で、途中の過程などはあまり意識されなくなってきてしまっています。

なんだか抽象的になってしまったので、もっと身近な話をすると、要するにお金を出せば、便利なものやサービスといった結果が簡単に手に入るのだから、自分で何かをする必要性がどんどん低下しているということです。

例えば、さいきんの子育てで議論になった

「子供が泣き止むのだから、タブレット端末で遊ばせとけばいい」

というのは、子供が泣き止むという結果を手軽に得られるが故に、そのための方法論を全てタブレット端末に投げていると、こういう図式になると思います。

問題なのは、便利さに毒されて、受け身になること

じゃあ、便利な道具やお金で結果を買うなっていう話かというと、そうではないです。

結果は大事だし、過程の簡素化も大事です。

道具を使わない人間社会はナンセンスです。

また、結果に向けて過程を効率化することによって、新しい事柄に労力を向けることができたり、余暇を楽しむことができたりといった重要な効果があります。人間の生活が豊かになるには、結果を追求する必要があります。

問題なのは、豊かさが大した努力をしなくても、一定の生活水準を保証してくれるようになるので、生き方が受動的になることです。

先の話で言えば、タブレット端末の使用が悪いわけではないのです。

きちんと、タブレット端末を使用することによるメリットデメリットを精査して、デメリットのリスクにきちんと対応する準備があればそれで問題ないのです。一日当たりの接触時間の最大値を設定するとか、対人コミュニケーションの機会をちゃんと設定するとかしていれば、タブレットの使用をしても大した問題は起きないかもしれません。

せっかく結果に至るまでの過程を効率化して、時間などに余裕ができたとしてもそれを怠惰に過ごすために使ってしまうようになると、人生を受動的に生きていると言っても良いと思います。

おそらく、本人の感覚としては、積極性を持って生きているのですが、自分自身の人生をマネジメントできてはいないでしょうし、やりたいことをやっているだけです。

もちろん、それを突き詰めることができれば、それが生業になり、生計を助けてくれることもあります。しかし、スマホゲームで課金して、中級ユーザーになったところで、現実世界ではなんの役にも立たないわけです。そのゲームの世界で一番になることができれば、また、話は別かもしれません。

しかし、そこまで突き詰めることができる人間は、もやは積極性があるというべきでしょう。

人生を受動的に生きる人は、何かをする余裕も与えられ、自分が選び取っているつもりの選択肢すら与えられています。

本来であれば、100も200もあるはずの選択肢を2つか1つにされてしまって、自分の人生が閉じていっていることにも気づけていない人が、受動的な人です。

余剰や余裕をどのようにうまく使おうか、自分のために人のためにどうやって、生かそうかという、そういう考え方を育む環境が、結果を追求する現代社会においては奪われているのではないか、そう思うのです。

うん、すごく抽象的。伝わる気が全然しない。

文書に書くのは、実に難しい。

[gadr]

積極的な人は、お金は必須ではない

時間がない人は、なぜ時間がないかというと、何かしなければならないことがたくさんあるからです。

その多くは、仕事です。お金を稼ぐ仕事や生活に必要な家事やら買い物やら。

生きるためには、それをしないと生きていけないという活動が、一日の時間に占める割合を増すと、人は忙しいと感じるようになります。

その前提に立てば、低い給料で生活している人が、忙しい生活を送っているかというと、そんなことはないと思います。

むしろ、高い給料をもらっている人の生活の方が忙しいのではないでしょうか。

なぜなら、お金をたくさん使って、生活を成り立たせているので、そのお金を仕事で稼がなければならないからです。

その仕事が、生きがいでやりたいからやってる人はいいです。積極的なので。

そうではなくて、生きるためのお金を稼ぐために、気乗りしない仕事を大量に引き受けて大量にこなして、忙しさと引き換えにして、お金を稼いで、時間がないからといって、稼いだお金を使って、サービスを買う。

これは、非常に受動的な生き方で、社会や人から受けるストレスが高まりやすい生き方だと思いますし、今、世の中にはこういう人がたくさんいると感じています。自分で、自分の仕事のモチベーションをうまく作り出せないまま、給料を得るために自分を殺しながら働いている人が、少なからずおられます。

逆に、収入が月に10万円以下であっても、家賃の低い地域に住んでいて、水道電気代光熱費を、自分で用立てて、衣食住は、地域の人との関係性の中でなんとかしながら、有り余る時間を自分の趣味や生きがいに費やして、人生を謳歌している人もいます。この人やそれに類似する生活を送っている人の手の中には、「作業」があると感じます。

また、こういう人たちが強い点として、自分でビジネスを作り出す才能があることです。お金が欲しければ、仕事をする必要があります。その仕事は、自分で作り出してもよく、積極的な人たちは自分で新しい仕事を作り出すことが得意です。実践と、反省と工夫の繰り返しの中で、仕事を成長させていく術に長けていると思います。

自分の生活を自分で生み出せる人は、その一部を切り取って新しい仕事を生み出すこともできる。考えてみれば、単純で当たり前のことですね。

積極的な人の割合の減少と、作業療法の危機

今、日本では、積極的に行動を起こせる人材が減っていると思います。

特にこれからトップになっていく人たちの、受動的な感じはやばいなあと思います。

当然、そこから下の世代の受動的な感じもやばいです。

上の世代が下の世代を育てるのですから、当然、受動的な振る舞いをする人が増えます。それ以外の理由としては、先にあげたような社会の構造の変化も大いに影響していると思われます。

積極的な人が減ると、世の中に変化が起こりづらくなり、結果を追求しようにも課程がこれ以上合理化できないという頭うちになる時がやってきます。

それが、まさに、今の日本社会であり、日本の企業であり、それが先日の大企業の検査データ改ざんの不正などの形で行われているということだと思います。

そして、積極的な人が減ると、自分自身の手で「作業」を行う人が減るということになります。身の回りに「作業」ができる人が少なくなると、「作業」に触れる機会は減ります。

「作業」が身近でなくなると、「意味のある作業」という言葉は、ひょっとするとある世代以降からは全く意味のないものになる可能性すらあります。

これは、「作業をすることで人は元気になれる」という作業療法の危機かもしれません。

[gadr]

作業療法士が受動的になってはいけない

しかし、思うところがあります。

「意味のある作業」を行なってもらうこと。これは、高度に進行した認知症の方をはじめとした、自分で選び取ることが能力的にも現実的にも困難となった方々には、とてもとても大切なことだと思います。

しかしながら、一方で、これから、いくらでも能力を新たに獲得できる人に対して「意味のある作業」を行なってもらうことに、個人的に疑問を提示します。

むしろ、作業療法士はそうした人たちに積極性を獲得してもらい、新しい「意味のある作業」を増やしてもらう手伝いをすることが、作業療法士の役割なのではないかと思います。そのための手段として、途中経過ですでに獲得済みの「意味のある作業」を用いるのは、王道だと思います。

そして、そのためには、作業療法士が、自分自身の積極性を一定の水準に保つよう努力しなければならないということです。

だから、作業療法士は受動的になってはいけない。積極的に学び取ろうとしていなければならないと、そのように思う次第です。

コラム 岩崎てる子先生の言葉

作業療法士界の重鎮のお一人だと勝手に思っております。

とある作業療法の教科書のはじめの言葉に、言いたいことと同じことが書いてあったので引用させていただきます。

大量生産・大量消費という高度消費社会は、人々を生産活動から遠ざけてきた。

全てが機械化され、ものの売買さえ電子市場で行われる時代である。ものを育て・つくる現場を知らない、また売り手と買い手のコミュニケーションもないという現実は、ものと人、人と人とかかわりを稀薄にする。ものと人がである場である「作業」を対象領域とする作業療法にとって、この出会いの少ない者が治療者になっても、対象者になっても治療効果をあげるには様々な困難を伴うことが予想されれる。

ちなみに2005年のお言葉です。

しかし、時代の流れを的確に捉えておられるように感じます。

AIは作業療法の天敵かもしれないし、福音かもしれない

作業療法士の仕事には、実践による具体性を欠くことはできないですよね。

しかし、今後さらに結果を追求する社会の流れは加速していくと思います。

それを強力に後押しするのが、AI(人工知能)の急速な進歩でしょう。

究極的に、人間に変わってありとあらゆる家事や仕事を機械がするようになってしまえば、完全に受動的な生活をすることだって可能になってしまうわけです。

そうなると、いずれは、既存の「意味のある作業」を実践してもらうという形の作業療法は絶滅するでしょう。

そうではなく、人間ができることややりたいことはきちんと自分で行う。それ以外の苦手なことやできないことは、機械に補ってもらうということができるようになれば、作業療法はもっとやれることが増えると思っています。

例えば、ADL関連の補助なんかも、人間がやるのが大変なら機械にやってもらったらいいと思います。実際、その方が、当事者の方にとっても、気を使わなくてもいいし、惨めな思いをしなくて済むからいいという声を聞きます。

作業療法士がそういう機械のコーディネータをする役割を担うことができれば、今後の作業療法士はますます活躍できると思いますし、そうでなければ、作業療法士の仕事は少しづつなくなっていくのだと思います。

蛇足

なんとも読みにく文章になってしまいました。

また手直しするかもしれません。

とりあえず、作業療法士が現代社会に飲まれたらあかんということが、書きたかったというそれだけです。

[gadr]

まとめ

具体的な経験を、軽んじてはいけないです。

その経験が、世界と個人とを強く結びつけるのです。

作業療法の真髄は、その力を強化し、利用する技法だと思うです。


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