子宮頸がんワクチン問題と「医学的な真実が殺される」社会で作業療法士をやってるということ

作業療法士は、日本では医療職に分類されますが、医療関係の情報の取り扱いの闇というか難しさを感じる「子宮頸がんワクチン問題」、ご存知でしょうか?

医師でジャーナリストの村中璃子氏が、ネイチャー誌などが選出するジョン・マドックス賞の今年の受賞者に決定したことを知り、追加で関連情報を知れば知るほどに、衝撃を受けたので記事にしました。

先進国である日本の、医療情報の扱いの質には、こんなに低い面もあるんだよ、っていうところを感じていただければ幸いです。

子宮頸がんワクチン問題のここがヤバい

「科学的正しさ」が、国などの大きな組織・団体に黙殺されてしまったことです。

加えて、医療に関係する情報を受け取る側が、何を信じたらいいかわからなくなる点です。多くの人が、テレビでやってる情報は正しいと思う日本の世の中なのに、その信頼を裏切るような情報がテレビで提供されていた、と言い切ってしまって良いと思います。

この2点は、情報がスピーディーかつ大量に消費される世の中の宿痾とも言えるのではないかと思います。この問題意識は、もっと世の中から重要なものとみなされる必要があると思っています。

そもそも子宮頸がんワクチン問題

ここでいう、子宮頸がんワクチン問題とは、以下のようなものです。

そもそも、子宮頸がんには様々な原因があることを前提として、そのうちの80%以上は2つの型のヒトパピローマウィルスの感染によるものと言われています。

こうした子宮頸がんを予防するには、上記のウィルスに効果のある子宮頸がんワクチンの投与が安全かつ有効だというのが科学的意見です。

しかし、「子宮頸がんワクチンの使用によってけいれんや歩行障害、神経性の副反応が出る」という趣旨の反ワクチン運動がメディアに取り上げられ、日本政府はその主張に根拠がないと認めながらも、子宮頸がんワクチンの投与に及び腰になってしまったということがこの問題です。

このように、

子宮頸がんワクチンのリスクが過剰に強調されたが故に、

子宮頸がんワクチンが投与されていれば、本来子宮頸がんにならなかった女性が子宮を失い、

その人に本来生まれているはずの子供が失われる

というなかなかショッキングな事態が、

「国の政策によって」

引き起こされているのでは、という問題

です。

村中璃子氏の仕事

前述のような状況に強烈な違和感を感じたのが、医師でありジャーナリストの村中璃子氏でした。

子宮頸がんワクチン副作用の研究の過程で、不正があったことを指摘し、理路整然と、反ワクチン運動への反論を行いました。

その過程で、名誉毀損で不正な研究を行った科学者に訴えられるなどしながら、間違いを科学的な視点で正した功績が認められ、あの著名な科学雑誌ネイチャー誌などが選出するジョン・マドックス賞の今年の受賞者に決定しました。

コラム 「報道しない自由」を行使する日本のメディア

筆者は、ネットの情報から、今年のジョンマドックス賞について知りました。

しかし、大手のメディアでは、あまり報じられているところを見ていないです。

同じ違和感を感じているネット上の意見を見ましたが、ジョン・マドックス賞という有意義な賞を受賞したことを、もっと、日本のメディアは日本の医療情報に責任を感じるのであれば、大々的に報じるべきだと思います。

今回のことで、今の日本のメディアに正しい情報を広めることを期待してはいけないということを学びました。ある意味で、誤報を流してしまったということを認めてでも、きちんとした情報を流そうという姿勢が欲しかったです。

そうなると、ネットを使って情報収集した方が、まだ検証することを心の片隅に意識してるという面で、積極的でいいのかなと思います。

作業療法も科学性大事

リハビリ界隈にて、ある組織で大御所さんとかベテランさんの発言が影響力が強くて、科学性が失われてしまう現象と今回の件が重なりました。

心は大切です。

それを前提として、科学性を本当に大切にできているか、をきちんと問い直す時期にリハビリテーション、作業療法の世界もきてると思います。

今回のことを教訓として、作業療法士の世界にも必要になってることはなんでしょうか?

論理的思考の強化

論理的思考能力はいわゆる「できる」人たちが共通して獲得している能力ですし、科学を支える根底です。

情緒を使いこなすには、確かな論理的思考が必要です。

実践と同時に検証研究ができる環境設定

AIとかビッグデータとかを活用するのが普通になってる世の中です。

普通の臨床で、研究できるような枠組みを発明することも必要かなと思います。

実際の関わりと、その結果の相関や因果関係を検証できる仕組みの導入が作業療法の世界全体に必要になっていると思います。

作業療法士の学術的な知識技能の向上

作業療法士で学術的な分野で活躍している人は、同じ顔ぶれの人が多いです。

これは、臨床しながら研究するのが大変だからということに加えて、学術的な内容をきちんと理解するには、臨床とはまた別の能力が必要になるからだと思います。

まず必要なのは、作業療法士一人一人が研究の内容を検証できる能力を獲得していることだと思います。

そして、自分の臨床を学術的かつ科学的に説明するためには、どのようにすればそれが可能なのかということを学んでいく必要があるのだと思います。

発信能力の強化

作業療法士一人が、その治療方法や主義の有効性を認識していたとしても、それを周囲と共有することができなければ、本当は解決することができたはずの世の中や組織の課題を解決することができないということになります。

そうならないためには、科学的に正しいことを、きちんと周囲に対して説明することができ、広げることができることが必要です。

人と繋がることができ、作業療法士としての自分の意見に耳を傾けてもらうことができるような自分であること、そのためにも、情報を科学的に検証する能力を獲得する努力が必要だと思います。

疑うこと

偉い先生が言うから、

科学者が言うから、

映像があるから、

本当に正しいのか、

書籍になっているから本当に正しいのか

いろんなツールが安価に使えるようになってるんだから、

車輪の再発明するくらいの気持ちで、

疑って、試して、

「ああ、ほんとだ」

と思えることが一番必要かなと思います。

誰かが言ってることを鵜呑みにするんじゃなくて、

覚悟を持って、その情報に相対することが必要だと思います。

自分で考えて自分で決める

作業療法士として、一番大切なのはここだと思います。

お金儲けの現実といろんなバランスを取るためには、作業療法士に一番必要な能力は、心情と科学性を踏まえて、自分でしっかりと考えることだと思います。

安直な感情に惑わされず、社会とその問題解決にとって本当に必要なことを提供できることが、作業療法士が本当の意味で社会貢献できる唯一の方法論だと思います。

周囲からどれだけ圧をかけられても、貫けるだけの村中璃子氏のような強さを作業療法士一人一人が獲得するには、本当の意味で「自分で考えて自分で決める」と言うことが必要になると思います。

今も将来も大切にする

今をごまかして、将来を台無しにする無責任を、リハビリテーションと称してやってるとしたら最低なので、一作業療法士としては、そのようなことがないようにしたいと思います。戒め。

まとめ

いち作業療法士として、

「正しいこと」は、科学的に自分で見極めるべし。

参考:

https://www.buzzfeed.com/jp/satoruishido/hpv?utm_term=.xaeNn45GK#.wsxzKWamg

http://blogos.com/article/264220/

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作業療法と 「漫画 リアル」にみる、挑戦すること、失敗を恐れないこと

失敗を恐れて、何かを言い訳にして踏み出せないというのは、人間の性(さが)ですが、そんなことしてたら人生終わっちゃうし勿体無いという話です。

ということで、また、漫画の話です。ネタバレ含みます。ちなみに漫画の中に作業療法士は出てきません。残念。

概要

なんでも出来て、イケメンのAランク(自称)の高橋くん。

脊損(脊髄損傷)で、下半身は動かなくなりました。

©︎井上雄彦/集英社

なんなら、車椅子の乗り降りもままなりません。

 

そんな中で、如何にかこうにか、乗り移りができるようになった段階で、ひょんなことから車いすバスケットボールをするという目標に出会います。

失敗することがダサいという高橋くんは、移乗動作の練習そのものにもあまり乗り気ではありませんし、なんなら生きること自体にも嫌気がさして、自傷行為に走ったこともあります。

しかし、そんな状態から、「車椅子バスケが上手くなりたい」という思いを糧にして、自分からできることを増やしていこうと挑戦するようになります。

訓練中に、失敗をしても気にしなくなりました。

それどころか、車椅子バスケをするにはスピードが足りないということで、自分からプラスアルファの特訓までするようになります。

高橋くんは変わりました。

©︎井上雄彦/集英社

失敗を恐れず、挑戦するようになりました。

なぜ変わったでしょう。

目標設定が具体的である

一つは、シンプルで具体的な目標を設定することができたからです。

「車椅子バスケが上手になる」

から派生して、

「車椅子の乗り降りができるようになる」

「日常の車椅子から、競技用の車いすに乗り移ることができるようになる」

「体幹や腕の力を鍛える」

という、個々の具体的な目標を設定し、その目標に向かって行動を開始したことで、高橋くんは変わりました。

周囲に支援者がいた

実は高橋くんには、適切なタイミングで、適切な量だけ、手助けをしてくれる支援者がいました。

なんらかの支援を必要とする人であったとしても、過度な支援は、本人の自立の妨げになります。

本人のことを理解して、高橋くんが取り繕わない素の自分で頑張れるように支援する人がいたことは、障害を前提として織り込んで、本人が積極性を発揮して新しい生活を構築するという「リカバリー」を強力に推し進めることになったと思います。

似た境遇の仲間がいた

高橋くんには、リハビリテーションセンターで、リハビリ仲間ができます。

そうした仲間からの刺激が、背中を押すことになったのです。

 ©︎井上雄彦/集英社

閉じこもりがちになってしまうところで、それをさせない仲間がいるというのは、巡り合わせ的なところが大きくて、運の要素ではありますが、結構重要なファクターだったりします。

家族が変わった

「『普通』であってほしい」

©︎井上雄彦/集英社

という家族の願いとは裏腹に、脊髄損傷による後遺症を抱えて生きていくことになった高橋くんと家族との関係は拗れます。

「歩けもしないのにどうやって高校行くねん」

という、高橋くんのもっともな反論に、うまく返せないお母さんは、心労で病気になって入院してしまいます。

が、その後、衝突したりしながら、12巻あたりで一応の「家族らしさ」を取り戻します。家族としての形を取り繕うよりも、余計な取り繕いを取っ払って、互いが素直な関係を再構築できたことで、居場所が再構築された点も大きいと思います。

印象深い、高橋くんのお母様のセリフ

「久信 私は 今まであなたを見ていたかしら」

ありのままの姿を見て認める姿勢を家族が獲得できたというのは、ひじょーに大きいと思います。

ちょっとした勇気が持てた

理屈じゃわかってても、行動にできないのは、心がそれを欲してないからです。

感情の動きを表出するのは、本当の意味で勇気がいります。

その勇気を持つには、

「自分はやれる」「自分もやれる」

という気持ちになれる何かが必要です。

そういうきっかけがあったのは、かなり大きいのではないでしょうか。

必要なことは、普通にすること

ここまで読んでいただいてお分かりのように、障害のあるなしは割と関係なくて全ての人のモチベーションに関わる要素です。

作業療法では、「障害者の方には効くこと」というよりも、「人間全般にそのように働くこと」を要素として使うことが、かなり有効です。

特になんらかの障害がある場合、あるいは自分の特性、特徴が、やりたいことに対して明らかに不向きな場合に、それを言い訳にして諦めてしまうという方向に働くことがままありますが、ぶっちゃけ、できるかできないかではなく、やるかやらないかです。

周囲は、その人やその人がやりたいことを応援したいと思うなら、適度なチカラでそっと支えたり、背中をポンと押してみるとか、そのくらいの支援でいいということを心の何処かに置いておくことが大切だと思います。

普段自分が、作業療法士として関わる時には、そういう風に考えています。

自分の人生を生きるということ

これは、誰の人生にも当てはまることだと思います。

作業療法でも、短期間で結果を出す対象者の方は、失敗を恐れないで挑戦していける人ですね。そこは、無論個人差もあるでしょうけど、何歳からでも人間は変われます。割とハートの問題、自分で自分を規定するチカラの問題という感覚です。

そのチカラは、何歳からでも身につけることができます。

日本人は苦手と言われていますけれど、そうは思いません。

単に「苦手だから」と言い訳してるに過ぎないのです。

 

方法論は、求めれば情報社会ですから、ネット上にもたくさんありますし、コンビニにすら関連する本がたくさんあります。

要するに、ちょっといつもの日常と外れて、違うことを試す勇気があるかどうか、大変さと自分のやりたいという気持ちを天秤にかけて、それを優先するという決断ができるかどうか、それだけの話なのだと思います。

作業療法には挑戦が大切

作業療法士が対象者の人に、

「これやってみませんか」

という、投げかけをすることはよくあります。

作業療法の成果としては、その人がその後その作業をどのように捉え、どのように変化するかというところにあります。

本人が必要性を感じていない、単にやりなさいと言われたからやっている、というそれだけのことであれば、多分成果になって現れることは難しく、貴重な人生の時間をいたずらに消費することになるでしょう。

逆に、失敗なんか気ならないくらいに、目標に向かって挑戦を続けることができるマインドを保つことができたら、なんでもできます。

自分の能力と人生に広がりが出てくることを実感して、さらに新しい試みを試したくなるはずです。

作業療法士は、そういう挑戦をそっと後押しすることが仕事だと思います。

漫画の中に、作業療法士が出てこないのは重ねて残念です。

まとめ

人生で大切なのは、主体となる人の気持ち、やってもいいかな、やって見たいなと思えること。作業療法も同じ。大切なのは対象者の主体性。作業療法士はおまけ。なんなら、いてもいなくてもいい。くらいがちょうどいい。

おまけ

こっから買えます。

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ある意味で、現代病な、人と活動の希薄化に、作業療法は仕事するべき。

作業療法士にとって必要なことは、なんだろうかと考えて見ると、作業をよく知っていること、作業の意味や重要性を、対象者の方と共有して、一緒にやっていく能力だと思います。

しかし、今後、その作業療法士が行う作業療法は、作業を用いて結果を出すことができなくなるということです。

どういうことでしょう。どうすれば良いでしょう。

前提としての、結果が全てな現代社会

極端な書き方をすると、現代社会は、結果を出してなんぼです。

結果とは、換金可能な価値を生み出すことです。

なぜなら、人間が生きるためには、資本主義社会では、お金がいるからです。

社会制度や仕組みでフォローするとしても、直接的にサービスを供給するのではなく、お金を当事者に渡すという仕組みをとっていますから、やっぱりお金ってのは世の中を動かしている存在として認識されていると思います。

お金を追求するためには、結果を追求することが必要です。

だから、結果が重要で、途中の過程などはあまり意識されなくなってきてしまっています。

なんだか抽象的になってしまったので、もっと身近な話をすると、要するにお金を出せば、便利なものやサービスといった結果が簡単に手に入るのだから、自分で何かをする必要性がどんどん低下しているということです。

例えば、さいきんの子育てで議論になった

「子供が泣き止むのだから、タブレット端末で遊ばせとけばいい」

というのは、子供が泣き止むという結果を手軽に得られるが故に、そのための方法論を全てタブレット端末に投げていると、こういう図式になると思います。

問題なのは、便利さに毒されて、受け身になること

じゃあ、便利な道具やお金で結果を買うなっていう話かというと、そうではないです。

結果は大事だし、過程の簡素化も大事です。

道具を使わない人間社会はナンセンスです。

また、結果に向けて過程を効率化することによって、新しい事柄に労力を向けることができたり、余暇を楽しむことができたりといった重要な効果があります。人間の生活が豊かになるには、結果を追求する必要があります。

問題なのは、豊かさが大した努力をしなくても、一定の生活水準を保証してくれるようになるので、生き方が受動的になることです。

先の話で言えば、タブレット端末の使用が悪いわけではないのです。

きちんと、タブレット端末を使用することによるメリットデメリットを精査して、デメリットのリスクにきちんと対応する準備があればそれで問題ないのです。一日当たりの接触時間の最大値を設定するとか、対人コミュニケーションの機会をちゃんと設定するとかしていれば、タブレットの使用をしても大した問題は起きないかもしれません。

せっかく結果に至るまでの過程を効率化して、時間などに余裕ができたとしてもそれを怠惰に過ごすために使ってしまうようになると、人生を受動的に生きていると言っても良いと思います。

おそらく、本人の感覚としては、積極性を持って生きているのですが、自分自身の人生をマネジメントできてはいないでしょうし、やりたいことをやっているだけです。

もちろん、それを突き詰めることができれば、それが生業になり、生計を助けてくれることもあります。しかし、スマホゲームで課金して、中級ユーザーになったところで、現実世界ではなんの役にも立たないわけです。そのゲームの世界で一番になることができれば、また、話は別かもしれません。

しかし、そこまで突き詰めることができる人間は、もやは積極性があるというべきでしょう。

人生を受動的に生きる人は、何かをする余裕も与えられ、自分が選び取っているつもりの選択肢すら与えられています。

本来であれば、100も200もあるはずの選択肢を2つか1つにされてしまって、自分の人生が閉じていっていることにも気づけていない人が、受動的な人です。

余剰や余裕をどのようにうまく使おうか、自分のために人のためにどうやって、生かそうかという、そういう考え方を育む環境が、結果を追求する現代社会においては奪われているのではないか、そう思うのです。

うん、すごく抽象的。伝わる気が全然しない。

文書に書くのは、実に難しい。

積極的な人は、お金は必須ではない

時間がない人は、なぜ時間がないかというと、何かしなければならないことがたくさんあるからです。

その多くは、仕事です。お金を稼ぐ仕事や生活に必要な家事やら買い物やら。

生きるためには、それをしないと生きていけないという活動が、一日の時間に占める割合を増すと、人は忙しいと感じるようになります。

その前提に立てば、低い給料で生活している人が、忙しい生活を送っているかというと、そんなことはないと思います。

むしろ、高い給料をもらっている人の生活の方が忙しいのではないでしょうか。

なぜなら、お金をたくさん使って、生活を成り立たせているので、そのお金を仕事で稼がなければならないからです。

その仕事が、生きがいでやりたいからやってる人はいいです。積極的なので。

そうではなくて、生きるためのお金を稼ぐために、気乗りしない仕事を大量に引き受けて大量にこなして、忙しさと引き換えにして、お金を稼いで、時間がないからといって、稼いだお金を使って、サービスを買う。

これは、非常に受動的な生き方で、社会や人から受けるストレスが高まりやすい生き方だと思いますし、今、世の中にはこういう人がたくさんいると感じています。自分で、自分の仕事のモチベーションをうまく作り出せないまま、給料を得るために自分を殺しながら働いている人が、少なからずおられます。

逆に、収入が月に10万円以下であっても、家賃の低い地域に住んでいて、水道電気代光熱費を、自分で用立てて、衣食住は、地域の人との関係性の中でなんとかしながら、有り余る時間を自分の趣味や生きがいに費やして、人生を謳歌している人もいます。この人やそれに類似する生活を送っている人の手の中には、「作業」があると感じます。

また、こういう人たちが強い点として、自分でビジネスを作り出す才能があることです。お金が欲しければ、仕事をする必要があります。その仕事は、自分で作り出してもよく、積極的な人たちは自分で新しい仕事を作り出すことが得意です。実践と、反省と工夫の繰り返しの中で、仕事を成長させていく術に長けていると思います。

自分の生活を自分で生み出せる人は、その一部を切り取って新しい仕事を生み出すこともできる。考えてみれば、単純で当たり前のことですね。

積極的な人の割合の減少と、作業療法の危機

今、日本では、積極的に行動を起こせる人材が減っていると思います。

特にこれからトップになっていく人たちの、受動的な感じはやばいなあと思います。

当然、そこから下の世代の受動的な感じもやばいです。

上の世代が下の世代を育てるのですから、当然、受動的な振る舞いをする人が増えます。それ以外の理由としては、先にあげたような社会の構造の変化も大いに影響していると思われます。

積極的な人が減ると、世の中に変化が起こりづらくなり、結果を追求しようにも課程がこれ以上合理化できないという頭うちになる時がやってきます。

それが、まさに、今の日本社会であり、日本の企業であり、それが先日の大企業の検査データ改ざんの不正などの形で行われているということだと思います。

そして、積極的な人が減ると、自分自身の手で「作業」を行う人が減るということになります。身の回りに「作業」ができる人が少なくなると、「作業」に触れる機会は減ります。

「作業」が身近でなくなると、「意味のある作業」という言葉は、ひょっとするとある世代以降からは全く意味のないものになる可能性すらあります。

これは、「作業をすることで人は元気になれる」という作業療法の危機かもしれません。

作業療法士が受動的になってはいけない

しかし、思うところがあります。

「意味のある作業」を行なってもらうこと。これは、高度に進行した認知症の方をはじめとした、自分で選び取ることが能力的にも現実的にも困難となった方々には、とてもとても大切なことだと思います。

しかしながら、一方で、これから、いくらでも能力を新たに獲得できる人に対して「意味のある作業」を行なってもらうことに、個人的に疑問を提示します。

むしろ、作業療法士はそうした人たちに積極性を獲得してもらい、新しい「意味のある作業」を増やしてもらう手伝いをすることが、作業療法士の役割なのではないかと思います。そのための手段として、途中経過ですでに獲得済みの「意味のある作業」を用いるのは、王道だと思います。

そして、そのためには、作業療法士が、自分自身の積極性を一定の水準に保つよう努力しなければならないということです。

だから、作業療法士は受動的になってはいけない。積極的に学び取ろうとしていなければならないと、そのように思う次第です。

コラム 岩崎てる子先生の言葉

作業療法士界の重鎮のお一人だと勝手に思っております。

とある作業療法の教科書のはじめの言葉に、言いたいことと同じことが書いてあったので引用させていただきます。

大量生産・大量消費という高度消費社会は、人々を生産活動から遠ざけてきた。

全てが機械化され、ものの売買さえ電子市場で行われる時代である。ものを育て・つくる現場を知らない、また売り手と買い手のコミュニケーションもないという現実は、ものと人、人と人とかかわりを稀薄にする。ものと人がである場である「作業」を対象領域とする作業療法にとって、この出会いの少ない者が治療者になっても、対象者になっても治療効果をあげるには様々な困難を伴うことが予想されれる。

ちなみに2005年のお言葉です。

しかし、時代の流れを的確に捉えておられるように感じます。

AIは作業療法の天敵かもしれないし、福音かもしれない

作業療法士の仕事には、実践による具体性を欠くことはできないですよね。

しかし、今後さらに結果を追求する社会の流れは加速していくと思います。

それを強力に後押しするのが、AI(人工知能)の急速な進歩でしょう。

究極的に、人間に変わってありとあらゆる家事や仕事を機械がするようになってしまえば、完全に受動的な生活をすることだって可能になってしまうわけです。

そうなると、いずれは、既存の「意味のある作業」を実践してもらうという形の作業療法は絶滅するでしょう。

そうではなく、人間ができることややりたいことはきちんと自分で行う。それ以外の苦手なことやできないことは、機械に補ってもらうということができるようになれば、作業療法はもっとやれることが増えると思っています。

例えば、ADL関連の補助なんかも、人間がやるのが大変なら機械にやってもらったらいいと思います。実際、その方が、当事者の方にとっても、気を使わなくてもいいし、惨めな思いをしなくて済むからいいという声を聞きます。

作業療法士がそういう機械のコーディネータをする役割を担うことができれば、今後の作業療法士はますます活躍できると思いますし、そうでなければ、作業療法士の仕事は少しづつなくなっていくのだと思います。

蛇足

なんとも読みにく文章になってしまいました。

また手直しするかもしれません。

とりあえず、作業療法士が現代社会に飲まれたらあかんということが、書きたかったというそれだけです。

まとめ

具体的な経験を、軽んじてはいけないです。

その経験が、世界と個人とを強く結びつけるのです。

作業療法の真髄は、その力を強化し、利用する技法だと思うです。

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作業療法.netをリニューアルしました。

どうもお世話になっております。作業療法.netの管理人です。作業療法.net改修工事が一定程度区切りがついたかなと思います。作業療法.netの改修はこれまでに何度かやってきましたが、今回はこれまでになく本格的に大変でした。Web素人の手に負える範囲での技術な話を踏まえながら、何で改修に至ったのかについて説明します。

作業療法.net リニューアルの背景

端的に言えば、時代に合わなくなったからです。

作業療法.netは、作業療法の知名度が上がればいいなと思って管理人が学生時代に始めたサイトです。確かその頃は、ちょうど世の中でブログが流行り始めた時代でした。

もっとも、ブログをやるつもりはなかったので、ウェブサイトとして、しっかりと作業療法についてアピールできるサイトを作れる仕組みとして、MovableType(ムーバブルタイプと読みます)を採用しました。

ホームページビルダーなどの専門的なソフトを使わなくても、自分の文章がウェブサイトになって表示できるというのは、当時は非常に画期的だったんですよ。

あの頃は、まだインスタグラムはもちろん、facebookも今ほど市民権を得ていなかったような気がします。

ともあれ、MovableTypeというプログラムをコンテンツを管理する仕組みとして使っていたんです。

ところが、世の中の変化ってのはすごいもので、いつしかWordPressというコンテンツ管理の仕組みを導入しているウェブサイトのが世界的にシェアが高くなっていて、いろいろ細かい便利な機能がMovableTypeに比べて圧倒的に多くなっていました。

ということで、WordPressに切り替えました。

これは、更新が煩雑に感じるようになった点が大きいです。

もともと、WordPressはブログコンテンツを志向していたこともあって、ライトに使えるので、とても便利です。MovableTypeの良さに、非常に大きな規模のサイトであっても、スムーズに動かせるというメリットがあります。

また、更新を頻繁にしないサイトであれば、サイトが表示できなくなるリスクを軽減することができます。

しかし、それらのメリットを差し引いても、WordPressで管理した方が、更新を今後頻繁に行っていくことを考えると便利がいいだろうという結論に至りました。

 

つまり、デザイン変更はおまけみたいなもんで、その背景にあるシステムが全然変わってます。そこは皆さんの目には触れないところですが、効率よくコンテンツをお届けするためには、割と欠かせない改修でありました。

これが地味に大変で泣きそうでした。

大変だったこと

MovableTypeで表示してた、作業療法.netのコンテンツを、WordPress移行後にも同じURL(サイトアドレス)で表示できるように、調整するのが地味に大変でした。

これが変わってしまうと、今までサイトを見てくださっていた方やら、ブログにリンク貼ってくださってる方、各種SNSで紹介してくださっている方にご迷惑がかかってしまうので、調べながらリンクが変わらないように工夫しました。

また、機械的に調整するすべがなかったので、500弱のこれまで書いてきた記事のURLのほぼ全てを手動で変更しました。根性がないので、地味に泣きそうになりましたが、時間もないのですがコツコツやりきりました。

それから、サイトデザイン

今まで、使っていたサイトデザインをそのまま移行先に使うことはできないので、同じデザインを流用して作り直すか、それとも新しいデザインを作り上げるのかで悩みました。

でも、良い機会だし前回のデザインがそこまで使いやすいものでもなかったので、新しいものにすることにしました。

どうやったら見やすくなるかな、使いやすくなるかなっていうところがやっぱり難しいですが、できる範囲で色々とカスタマイズして、利便性を向上させたつもりです。

今後も、地道に修正が必要なポイントだと思います。

とりあえず、スマホからの表示がより良い感じになるように調整してます。多分今までよりも圧倒的に見やすくなってるはずです。

何かご要望あったら、お伝えいただければ幸いです。

今回アップデートしたこと

まとめると以下のような感じですね

  • CMS(コンテンツ管理の仕組み)をMovableTypeからWordPressに移行
  • トップページとブログのデザインを変更
  • 作業療法と作業療法士に関するコンテンツの統合と整理
  • Mastodon.comの再メンテナンスとotwikiの再メンテナンス(おまけみたいな)

今後の目標

運営に関して

サイトの更新は行いやすくなったので、アウトプットを念頭に置いて、しっかりと自分の作業療法の知識をアップデートさせていきたいと思います。

で、それをタイムリーにみなさんと共有できたらいいなと思います。作業療法士と、作業療法を必要とする人の利益となるようなコンテンツを効率的かつ高い質で生産していきたいと考えています。

PV目標

今までゆるーくやってきましたけど、ちょっとだけ真剣にやってみようと思います。来年から本気だす。

とりあえず、全国の作業療法士が70000万人なのでその人たちが、みんな月に一回見てくれることを目標にして月間7万PVを狙っていきたいと思います。

サイトコンセプトの徹底

そもそものスタートはブレさせずにやっていきたいと思います。

つまり、作業療法と世の中の接点を増やすということです。

そうしているうちに、作業療法って割と明るい話題が多いじゃないと思ってくれる作業療法士さんが増えて、元気に作業療法をするOTRが増えたらいいなと思います。

その結果として、作業療法に直接は関係ない人の目に当サイトのコンテンツがとまればいいなと思います。そうなれば、作業療法や作業療法士を必要としている人に直接作業療法が届けられるようになるかもしれません。

お願いごと

一人で運営しているので、なるべく不具合が起こらないように注意をしていますが、意図しない不具合が起こると予想しています。また、一人ではその不具合に気がつくことすらできない可能性が、かなりあります。

サイトに不具合があったら、各種SNSなどにメッセージを送っていただくなどして、通知をしていただけると助かります。

今後とも、作業療法.netをよろしくお願いいたします。

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差別とは、その感情

ネット上で、とんねるずのキャラクターが差別的だと話題になっていた件について、マイノリティーの当事者のミッツマングローブ氏がコメントを寄せているのを見つけました。

差別を考える上で大切なことが書かれていたので、紹介します。

表面的な配慮は窮屈さを増すだけで、無意味

セクシュアルマイノリティーを茶化すようなキャラクターをとんねるずの石橋氏が演じていたことが世間的にバッシングされていました。

一昔前であれば、問題になっていなかったことなので、社会の関心が高まってきているのはいいことだなと思います。

ただ、そこでとまってしまっている人も多いのではないかと思うのです。

大切なのは、

「茶化しちゃだめよ」

といって、タブーにすることではなく、当事者の人が本当はどう感じているかに思いをはせ続けること、興味を持ち続けることが大切です。

「あなたはこういう人だよね」

と、興味があって、適切な距離感で関わり続けることができるならば、差別なんて起こりえませんからね。

配慮をしていますという仮面をかぶって、

実は遠ざけているだけの人は

実際、世の中に多いと思います。

精神障害者の方、認知症の方、知的障害のある方への社会としての遇し方を見るにつけ、

配慮という名の隔離が行われているのではないかと、

猜疑心にさいなまれることこの上ありません。

表面的な配慮をする人たちに囲まれて、互いが揚げ足取り合うだけの社会に、快適さがあるでしょうか?

当事者の方たちは、そんなことより、自分たちが「普通」に暮らせる社会になることを望んでおられるようにおもいます。

そして、そのために普段からの不断の、不特定多数の方々からのかかわりやら支援を望んでおられます。

「普通」を本当の意味で保障するためには、言葉面のその先こそが必要です。

ミッツマングローブ氏の言葉の引用

そのことを的確に表現しておられたので、引用しますと

過剰なほどの自重と、善意という名の偏見に塗れ、いよいよ日本も行間や心の読めない単細胞国家になってしまった……。そんな気さえします。差別や区別にも『分別』があって然るべきでしょう。『分別』というのは、無数のグラデーションの中で、その都度その都度『判断』をすることです。それが道徳であり、秩序なのだと思います。

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週刊朝日より引用

大切なのは、自分の頭で考えること

どうにも、オーバーラップしたので自白しますと、一時期はやった「障がい者」議論は、とてもとても、こっけいにみえました。

障害者という言葉に、いったいどんな感情を乗せているのでしょうね、漢字一文字にこだわる人たちは、と思いました。正直。

いや、当事者の方がそこの議論を活発にされるのは当然のことだと思います。自分自身を規定する表現ですから。

だがしかし、その周囲の人間が、「配慮」と称して、不必要なまでに騒ぎ立てているように感じられてしまい、そのことが、自分の中での違和感として残っているのだと思います。

だって、表記が変わったからといって、音・読みは変わらないわけで、つまり、そういうつもりで、そういう感情でその単語を自分の言葉として発している時点で、表記を変えたところで何の意味もないと思うからです。

そう、結局は性根の問題です。

どういうつもりで、その言葉を発するかということです。

事実は事実

個人的には、

障害者とは、

「いきづらさが比較的多い人」

という意味です。

事実です。

逆に、身体に欠損があろうと、思考力が不十分だろうと、いきづらさがない人は、障害者ではありません。

そういう理解です。

これは、単なる事実だと思います。

そこに不必要な感情を勝手に付加するから、話がややこしくなるのではないでしょうか?

たとえば、「デブ」が悪口だと思う人は、そこに差別意識があることに気がついてほしいです。

本来は単なる事実の指摘なのに、なぜそれが悪口になるのか。

それは、

言う側の人間が、言われる側の人間に対して攻撃的な意図をもって発言する

からであり

言われる本人が、自分自身の体脂肪率の高さに差別的な意識を持っている

からです。

体脂肪率が高いことが、その人個人のマイナス評価に直結するのは、感情論がそこにあるからです。それは、もっと普段から意識されるべきことです。

なぜなら、人間の社会は感情論でモノゴトを進められることが、割と多くあり、その感情論が差別意識を生み出す温床だからです。

また、侮蔑的なニュアンスや、別称としての使用などをする人は、表現を変えたところで存在し続けます。実は、まさにそういう人たちにどこまで付き合っていくかとか、そういう問題でもあるようです。言葉狩りという言葉がもてはやされた時期もありました。

いずれにしろ、差別というのは、その本質は、言葉ではなく、それを発する人間の

「つもり」

なり

「性根」

なり

「立場」

なりによって、文脈として発生する要素のようです。

まとめると

表面上は当たり障りがなくても、本心ではすごい差別意識をもってる人は少なくないです。

嫌悪感を理性でコントロールしているだけで、一皮向けば、

「自分とあのひとは違う」

という感情に左右されることは、珍しいことではありません。

障害者の方に向けられる差別は、ときとして信じがたいものがあります。

他者に対して、どうしたらそのように悪意をぶつけることができるのかと、訝りたくなることが世の中には多いです。

一方で、

「それって差別じゃなくて、事実では」

ということを、周囲が差別だのなんだのと騒ぎたてて、ことさらに問題を大きく見せようとしていることもあります。

表面上の表現に振り回されると本質が見えなくなります。

余計な感情論が、自体をよりややこしく見えにくいものに変えてしまいます。

差別意識は人間である以上、よっぽど精神的な修行をしないと取り去ることはできません。

差別意識がない人間はいますが、生来の性格だったり育ってきた環境がそうさせるもので、ある程度大人になってしまってから理性的に修正をかけるのは本当に膨大なコストが必要になります。

しかし、差別は、その多くは、自然な感情の流れの結果として無意識的に行ってしまうものです。

だからこそ、その場その場での分別というか、配慮について常に考えて更新し続けることが唯一の、差別に対抗できる手段なのではないかと思います。

精神障害領域の作業療法においては、対象者の方を中心とした自他の差別意識による問題は頻発します。

そんなこんなを考えたときに、ミッツさんの言葉は本質をよく捕らえているなーと思ったのでご紹介がてら記事といたしました。

まとめ

常に考えることが、差別に対抗する唯一の手段なのではないか

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ごく最近「作業療法士冥利につきるな」とやりがいを感じた瞬間

作業療法士には、それぞれ色々なやりがいを感じる場面があると思います。

先日、自分がやりがいを強く感じたのは、自分の対象者の方が、ご本人の言葉で、実際の体験の気づきを言語化できた時でした。の巻。

作業療法ってなんだ?

作業療法とはでも触れましたが、作業療法ってなかなか一言で言い表すのが難しいのです。

確かに、やってもらうこと、やること自体はとてもシンプルです。

だからと言って、

「作業療法って、絵を描いたり、塗り絵するんでしょ」

と言われて、なんとなくそれを肯定するのに引っ掛かりがあります。

別に、活動をしてもらうこと自体が目的ではないし、全員が全員に創作活動をしてもらうわけではないからです。だから、自分の中で、そこを素直に肯定できない時があります。

大切なのは、ちゃんと「作業」かどうか

対象者の方にとって必要なことを獲得してもらうために、とか、

やりたいことや自己実現の手段や目的として、とか

作業としてアクティビティを用いるというただそれだけのことなのですから。

作業療法というのは、やはりどうして作業を使うのかが大切です。

意図を見抜かれた「作業」

そして、その目的をきちんと達成できるように協働することはもっと大切です。

作業療法として提供した作業の目的に対象者の人が自分で気づいたんです。

この間。

どういうことかと言いますと以下のようなことです。

やや、若干活動性の低い若い男性がおられました。

最初はおたのしみとして、とある活動を「作業」として提供していました。

「ちょっとやってみない」

なんて言って。

すると、ある程度定着して、自分から積極的に取り組めるようになってきていたんですね。

そして、別の集団活動に参加して、その人の成長ポイントの話になりました。

ふと、

「ああ、これって、◯◯(「作業」の名前)と一緒ってことね」

対象者の方の変化のきっかけを手伝えると楽しい

今回関わらせていただいたこの男性、おたのしみとして導入した作業を通して、自分の課題に気づいて取り組めるようになっていたのです。

そこに対する言語的な介入はほとんど行っていません。

むしろ、非言語的に、感覚的に本人が成長して変わっていることを実感できるような構造で、「作業」を提案し、そのための環境を提供しました。

「作業」を通して、蓄積された感覚が経験となって、その人の気づきにつながり、より良い決定や選択肢の幅を広げていく、そんな瞬間を目の当たりにしました。

この時はガッツポーズしたくなりましたね。本当に。

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作業療法士の仕事のやりがいをすっと感じた瞬間でした。

本当にすごいのは当事者・対象者

別に、作業療法士がすごいわけでもなんでもなくて、それは対象者の方の努力や頑張りだったり、センスだったりなんです。

本人の自発性がないと、作業療法として関わるのはかなり難易度が高いですので、作業療法士は常に対象者の方のやる気や頑張りに助けてもらってるわけです。

ですけれども、対象者の方が、作業療法としてやってるアクティビティを、自分とその活動、「作業」の意味を整理して、「ああ、こういうことなんですね」と、理解できて一歩進めた時は、それは本当に嬉しいですね。

嬉しかったです。

確かに、やってることは、切ったり、貼ったり、塗ったり、みたいな一見単純な活動なんですね。

ですけれど、そこには明確な目的と、目標設定に向けた訓練としての意図もちゃんとあるわけで、実際にそれを感じ取って、対象者の方が自ら感じ取ったものを自分の言葉で言語化してもらえる瞬間はたまらないですね。

それが聞けると、作業療法として一緒にやってることが、積み重なってる感があり、成長や回復の過程の手伝いが多少なりともできているという確信めいたものが持てるので元気が出ました。

要するに

治療としてそのアクティビティを選択した意図を、こちらから説明する前に、自分でしっくりきてもらえて、ご本人が言語化できて、そこで自発性やら積極性がてできて、自立度も高まって、汎化できて、習慣化して、生活の基盤ができて、リカバリーが高まって、リハビリテーションとして成立すると、本当に作業療法士冥利に尽きます。

なんか、そういう狙いが、うまくコーディネートできた時は、

「やったった」

感はあります。

正直。

自由ゆえの作業療法

作業療法士の仕事は、法律で規定されています。

もちろん大枠は、医師の指示の下、です。

しかし、医師が示すのはあくまで方向や大まかな結果であって、そこにどのようにして至るかという道筋は、作業療法士に委ねられるわけです。

ですから、なるべく対象者の方の作業療法の成果が最大化できるように、介入・支援を最適化しようとします。

そうした積み重ねは、単に良い治療成果がもたらされたというだけでなく、対象者の方と治療者の関係性や信頼性を強固にしてくれて、より大きな結果に繋がる提案を行いやすくなる気がします。

そうした、関係性などのトータルコーディネートも含めて考えて、作業療法ができる環境が最近はあるので、ああ、本当にありがたいなあ、と、感じています。

介入・支援の切り口は無限にあった方がいいので、やっぱり自由度って大切だなあとつくづく思います。

やっぱり勉強大事

唐突にブッコミましたが、勉強は大切だな、とその前の自由度に関連して思います。

勉強て言うと、専門知識の学習とかイメージされるかもしれません。それらは、当然大切です。

それはスタートラインとして、

けれど、それだけじゃなくって、色々なことを吸収して自分のものにしておくことはすごく大切だと思います。

人生なんでも経験とはよく言ったものです。

残念ながら、経験してないことは、思いつきで実践することは難しいです。

だから、作業療法士としては、色々なことに興味を持っておく習慣が必要です。

それさえあれば、より良い作業療法を行うために作業療法士自身ができることが増えるかもしれません。

そうすると、色々な活動を作業として使いやすくなります。

活動を作業として用いるのに、作業療法士が熟練している必要性はありません。

ありませんが、熟練している方が、作業として提供するのは楽に行うことができます。

用いる作業の幅が広がれば、作業療法対象者の方へのサポートを最大化しやすくなります。

具体的かつ、感覚的な気づきを持ってもらいやすくなります。

それは、強力な学びや経験となって、その対象者の方の判断や思考パターンをより本人の希望に沿うものに近づけ、その後の人生を自らが望む方向へコントロールする力を大きく左右することになります。

だから、勉強が大事だな、いろんな人生勉強はしておくべきだなあ、と思ったりします。

作業療法の実践にやりがいはいらない

ここまで書いておいて、じゃあ今までの文章はなんだったのかということを書きますが、作業療法に作業療法士のやりがいを持ち込んだらアウトだと思います。

客観的な判断ができなくなるし、「作業」の影響をきちんと評価できなくなるからです。

やりがいありきではなくて、たまにご褒美としてやりがいが降ってくることがある。

それくらいに思っておかないと、自分の場合はすぐに調子にのるのでいけません。

あくまでクライエント中心が、作業療法のモットーですから、それを完遂できるかどうかがまず大切です。もし、作業療法の対象者の方が、その人の望む方向に進むやくに立てたと明確な時だけは喜んで良いかもしれません。

結局この記事はなんだったのか

作業療法の場面での、対象者の方の発言に嬉しくして、調子に乗って舞い上がりそうな自分を客観視するために書きました。

現場からは以上です。

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OT評価実習生:OTSにOT五年目が感じた 実習中の成長を左右する要素の「ヤバさ」

短期(評価)、長期(総合臨床実習)に関わらず、実習中の学生目線だと理解できることがあります。

一方で、経験年数が増えて、経験値もそれなりに増えると、ここ最近はじめて感じることがありました。

その2つの間のギャップの話です。

「何をしに、実習にきたの」

実習を通して、成長する学生と、

あまり変化なく帰っていく学生との間には、いろいろな違いがあります。

その違いは、普段の臨床にも通じる大切な「違い」だと思っています。

後者の学生がよく言われるのが、

「何しに来たの」

です。

これが、その理解のためのキーワードであるように感じています。

何のための実習かがわからない

「実習に行くことになっているから、実習に行く」

という学生が少なからずおります。

実習のための実習、実習が自己目的化している学生です。

こういう実習生が、上記のような質問を実習中に繰り返しぶつけられて、あまり成長なく、実習に対する傷つきだけを感じて帰っていくことが、ままあります。

そのタイプの実習生は、なぜ生まれるのでしょうか。

そしてなぜ、実習生は傷つくのでしょうか。

作業療法学生:OTS目線での実習

申し訳ないのですが、引用できる資料もないので自分語りになります。

でも、自分の学生時代、OTSのときの実習を振り返ると、その傷つきのヒントにはなると思います。

学生の頭の使い方の典型とおもうのですが、

「学校で学んだことを、臨床で生かす」

という思考回路があります。

学生の作業療法観は、授業の中の情報や、講師の話によって構成されます。

それのみによって構成されていることがほとんどではないでしょうか。

すると、学生の行動原理は、

「いままで自分が学んできたことを実践してみること」

になります。

そして、それができることによって、実習が合格となるというモデル(妄想)が頭にあります。

これが、実習の為の実習であると、臨床家のOTRのみなさまから批判されるところだと思いますが、学生の側からすると、むしろ自然ながんばり方なのではないでしょうか。

それなりに臨床経験のある作業療法士:OTR目線での実習

一方で、かつてOTSであった作業療法士:OTRの側に立つと、今、実習で学生に求めることはシンプルです。

目の前の対象者に対して、いち作業療法士、いち臨床家としての今の自分での最善を尽くすこと、です。

作業療法士として、実地で経験をかさねていくうちに、自然と評価できるようになることはたくさんあります。

それは、養成校で学ぶこともたくさんありますが、養成校で学ばない、学べないこともたくさんあります。

身体障害領域で例にとると、ポジショニングの常識も日進月歩です。

かつては、

「隙間をうめる」

がポジショニングの王道でした。

しかし、やり方をまちがえると、日々のポジショニングの積み重ねが屈曲拘縮をつくりだしてしまうということがしられるように、徐々になってきています(多分知られて来て、浸透していると信じたい)。

別の例で言えば、かつて推奨されていた、教科書にも載っているような、移乗の方法が、実は自立度の低下につながる場合もあります。

このような学びが、学校でできたか。

告白します。

私個人の経験からすると、不真面目な学生であった私はできておりませんでした。

そして、その学びは、先進的なものであればあるほどに、教科書中心の座学授業の中では決して学ぶことができない、臨床による技術的なものや、それに基づく評価であったりします。

それは、国家試験を念頭に置いたものではない、日々の臨床、実践を念頭に置いたものだからです。

作業療法に正解はありません。現在地点が人それぞれで、ゴールも人それぞれだからです。

かつての正解が、状況によっては不正解になることもありえます。

そのことを、経験値として知っている作業療法士ほど、OTSに対して、将来の臨床家として、今現在の最善をつくすことを求めますし、実習とはそのようにするべき場所だと思っています。

だからこそ、臨床家として、実習態度がどうのこうの言うわけです。

それが臨床の結果に直結することを、経験則として痛いほどわかっているからです。

つまり、作業療法士:OTR目線での実習とは、

「実習中の事象から、素直に考えて、行動すること」

だと感じていると思います。

自分はそう感じるようになってきています。

このギャップ 「ヤバい」

実習の指導は、OTSとスーパーバイザーであるOTRの間の事象なので、目指すべき場所が共有できてないとこじれます。

作業療法士の側としては、自分の目線から、上記のような学生の実習への取り組み方を見ていると、

「なにしにきたの」

となるわけで、それを学生に伝えます。

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言われたOTSは、なんで自分がそんなことを言われるのかも、わけがわからず、萎縮してしまい、その結果としてスーパーバイザーが求める実習態度から乖離していき、その度に「なにしにきたんですか」といわれるという悪循環が生じてしまいます。

その結果として、実習中の表出が制限され、なにもかわらないままに実習終了、お疲れ様でした、となるわけです。

自分の理解としてはこういうパターンは少なくないと思ってますし、間違ってないと思います。

作業療法士としての仕事時間のほんとうに貴重な時間の一部をボランティアの実習指導に費やして何も学生が成長しないままに実習終了するとか、本当に悪夢でしかないのですが、少なくないと思います。

正直、やばいなーとおもいます。

やばいなーと思いませんか。

では何でこういうことがおきるのかというと、上記を踏まえるとOTSとOTRの双方に要素がありそうです。

作業療法士の労力に見合った分、学生がたくさん学んで、成長して帰るようにするには、どうしたらよいでしょうか。

OTSは、自分の将来像を考えると幸せになれる

いろいろあるけれど、たとえば。

実習に来る前に、どんな職場働きたいのかは、なんとなくでも決めておくことです。

べつに後で変更したってかまわないので、自分はどんな領域のどんな場所で働きたいのか、それを明確にしてそれをスーパーバイザーであるOTRに伝えることです。

そして、そこで働くためには、自分はどんなことが必要と考えているので、どんな学びをその実習で得て帰りたいかということまで明確にできると、将来の自分のために動けるので、多少能動的になれるかもしれません。

自分なりに、自分自身について、実習に行く前に真剣に考えておくことが、実習前に行う準備として必要だったのかなと思います。

自分の将来像について、明確にできるといろいろ幸せになれそうな気がします。

作業療法士が学生時代の自分の体験(忘れたい?)を思い出す

本当に真剣に取り組んでる作業療法士ほど、日々の臨床がとんでもなく忙しいので、かつての自分を振り返る機会なんてありません。

今の自分の感覚や感性を基にして学生と関わるので、上記のような問題が発生するのではないでしょうか。

過去の自分を思い出してゾッとすると、目の前の学生が少しは可愛く見えるかもしれません。

いち作業療法士として学生目線をいつか忘れる恐怖

個人的な感覚ですが。

学生のことがいつかわからなくなるのが怖いです。

そのリスクは、自分が作業療法士として経験を重ね、成長するほどに高まるものだと思います。

学生のことがわからない作業療法士は、その学生の3年後を見据えた効率のよい指導や助言ができないのではないかと考えています。

後進育成のへたくそな作業療法士にはなりたくないので、いつか自分が今の自分の感覚だけに頼りすぎることが非常に恐ろしいです。

謙虚に

自分のことは棚に上げないと指導ができない場面は、確かにあります。

だからといって、それが行き過ぎて、かつての学生時代の自分の不出来と乖離したような実習目標を学生に負わせるのは、あまりにも雑な指導だなと、自分と学生とのかかわりを通じて思います。

養成校側から、よく言われる

「学生を患者様だと思って指導してください」

というのは、

「患者様に関わるときと同じくらい謙虚な気持ちで」

と自分なりに読み替えることにして、学生の成長を自分の糧にもできたら、自分はより良い作業療法士になれるかな、と考えています。

そうしておけば、学生にも謙虚になーれ、と指導しやすいです。気持ち的に。

互いを知れば「ヤバさ」は軽減できる

認知症の方への介入は、相互理解の促進にありますよね。

OTRとOTSの関係も同じではないかと思うので、この記事を書きました。

すこしでも「ヤバさ」が軽減されれば幸いです。

やり取りがしたい

こんな独善的な文章を読んでくださり、ありがとうございました。

よんでくださっている皆さんは、なにかしらおもところがあるはずです。

なにか気になる点がありましたら、LINE@をやってるので、そちらでメッセージ飛ばしていただければ、私自身の学びになりますので、よろしくお願い存じ上げます。

作業療法.netのLINE@アカウントはこちら

特に学生諸君の等身大の意見があると非常にうれしいです。

わからなさや不安があれば、質問していただければ、答えられる範囲でクローズドにやりとりします。

年取ると頭が固くなるな、と感じる今日この頃です。よろしくおねがいします。

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目に見えないことを取り扱う難しさと重要性 作業療法士に求められること

ぱっと見やその瞬間の事実だけでは、うまく解決できない事柄にうまくアプローチ、介入して解決への方法を模索できることは、とても大切です。

たとえば、認知症の方の問題行動を、さまざまな文脈からとらえて、ご本人との共感をヒントにしながら、問題となる行動がなぜ起こるのかを整理することは、ご本人のQOLを向上させるだけでなく、その周囲の人たちと本人のつながりを健全に保ち続けるためにとても大切です。

こうした目に見えるところだけを基にしてアプローチしても解決しにくい問題を、目に見えない要素を加えて解決に導くことが得意な作業療法士は、本当に尊敬しています。

そしてこれは、作業療法士の重要な専門性のひとつだと思います。

「見えないこと」を根拠に行動するのは難しい

作業療法士は、目に見えないところが情報として集約できるので、具体的な提案ができます。

またまた例えば、認知症の方への周囲の人たちのかかわりを考えてみましょう。

周囲の人が認知症の方の特性がわかっているかどうかはもちろん重要なのです。

しかし、それは作業療法士の専門性として言い切ってしまってもよいくらいに、むずかしく、ハードルが高い事柄だと思います。それに、わかっちゃいるけどできないということもあるでしょう。

発達障害のお子さんと親御さんにも同じようなことが言えます。

家族などの周囲の人の言動、普通は害や悪影響よりも、メリットが大きいと思われるような言動が、本人の問題行動を引き起こしていることは、日々の臨床のなかでよく見ます。

良かれと思っての行動が、当人に対するストレスやプレッシャーとなって、二次障害を引き起こしていることもままあります。

それは、周囲の人が思うその人と、本人の人となりや個性・障害の間に大きなギャップがあるからです。

そして、それは目は見えないものであることが多いです。

たとえば、精神障害は目に見えません。

具体的に見えるのは、その人の表情、行動です。

それらを総合して、適切な判断をするには、情報や知識や経験が必要ですので、まず判断することがむずかしいです。そして、その判断をもとに実際に行動を起こせるかというと、それはさらに難しいです。

作業療法士が「可視化」することの重要性

だから、作業療法士は、

「こういう関わり方をすると、うまくいった」

という経験を周囲の方にしてもらえるような提案ができることが大切と感じています。

理由や理屈はとりあえずおいておいて、

「やり方しだいでなんとかなる」

という感覚を本人も周囲のひとも得られるような具体的提案ができると、まずまずな作業療法ができたといってよいかな、と自分自身に言い聞かせています。言い聞かせます。

だから、作業療法士は、その人の生活における困りごとを整理し、解決するための方法を提案するために、きちんとその方の目線に立って、同時に客観的に評価を行い、目に見えないことを情報化、可視化することとても重要で、それが求められていることであると思います。

求められるのは作業療法士の評価を共有すること

また、すぐに解決できなくても、状況をきちんと整理して評価を対象者の方やその周囲の方と共有する、そのこと自体の意義も大きいです。

それは、

「なんだかよくわからないけど困ってる」

という状態を整理できるだけでも、

「『わからないこと』がわからない」

という混沌とした状態を脱することができ、

目標やゴールが明確になります。

つまり、問題解決への道筋が明確になります。

「なんだか困ってる」を「ここが困ってる」へ

同じ暗闇のなかでも、真っ暗闇とトンネルのように、目指すべき明かりが見えているのとでは、人間の感じるしんどさはまったく違うものです。

骨折や麻痺などの身体的なリハビリテーションにおいても同様のはずで、

「これがしたい、だけどあれが問題だ、だからそのためのソレ(治療介入・プログラム)だ」

という説明が丁寧になされているかどうかは、回復の度合いに大きく影響すると思います。

患者様の主観としては、

「これまでどおりに、服を着ようとしたら着れない」

のであって、

「過剰努力によって連合反応が起こって、結果として重心が支持基底面から出てしまう」からでもないし、

「ギプス固定および三角巾による固定による運動制限によって、僧帽禁や広背筋などのビッグな筋が短縮して関節可動域が小さくなっている」からでもありません。

そういう、「みえない」「わからない」ところを、いわゆる専門的な知識をもとにして、どれだけ作業療法の対象者の方の主観とすり合わせていくか、問題の認識の合意に至るかということが、治療効果の有無を分けます。

そして、それがエビデンスのある作業療法につながると思います。

ようは、説明責任を果たすってことです。

コンパクトに伝える

主観とのすり合わせにおいて、専門用語を羅列してもらちがあきません。

専門用語を使わなければならない必然性もありません。

対象者の方が、理屈を感覚で理解できればよいのです。

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それが可能になる程度にフラットな表現でコンパクトに伝えましょう。

そうすることで、介入の中での確認が時間をかけずにつどつどコンパクトにできます。

事象の整理は作業療法士の専門性

繰り返しになりますが、「見える化」は、作業療法士の専門性の重要な柱だと思います。

何がその役に立つのかは本当にわかりません。

自身にとって趣味や、遊びの範疇の経験が、相互理解を助けることに役立ったりします。

自分の経験をフル活用して、知ろうとすること、

普段からいろいろな経験を、自分の学びにすること、

これらが作業療法士の「見える化」をスムーズにし、仕事をよりやりがいがあって面白いものに変えてくれると思います。

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キーワード「MOHO」でgoogle検索したら、OT関連じゃなかった件

あかんやろ。

MOHO大事

MOHOもとい、人間作業モデルって、作業療法士的には大事ですよね?

Model of Human Occupation ってだいじですよね?

大事でしょ?

あんまり大事じゃないかしら。

作業療法関連の概念の中では、結構重要な理論だとおもってただけに今回の検索結果は結構ショック

と、同時に結果が妥当だと思う自分も嫌い。

google検索結果

今回は、キーワード「MOHO」で普通にgoogle検索をかけました。

ふと検索したんですよ。

そして、その検索結果1ページ目は以下のような感じ。

src_moho.png

ご覧のように、1ページ目にはまったく出てこない。(2017/09/29現在)

2ページ目でようやく登場する。

これは、いかに、一般に作業療法が浸透していないかを、証明してしまっている。

そう受け取らないといけないと思いました。

危機感MAX

一般の人が検索することはまずないでしょう。

作業療法のキーワードで、どの程度の検索があるのかも微妙です。(あれも、ヒットするのは養成校の広報HPがほとんどです。インターネット検索対策をきちんとやってるサイトが多いためと思われます。)

ですが、ふと違った考えが浮かびました。

学生とか、作業療法士もひょっとして、あんまり検索してないのかなあーなんて思いました。

そもそも、人間作業モデル授業で触っただけっていう人も少なくないかもしれません。

でもそれだと、ほかの理論を学ぶときのコストも大きいし、作業療法をうまく説明できるのかも正直不安になります。

インターネット上に有意義な情報がなかったら、確かにそもそも検索する気持ちも起きんですね。

自分自身振り返ってもそうかもしれません。

MOHOの解説書きます

だから、MOHOの解説文を書くことにしました。

言い訳しておきます。

いろんなことと並行作業になるので、すぐすぐには公開できないと思います。

でも、きっとこのページを見てくださっているまじめなOTさん達や、作業療法の貴重なフォロワーの皆様におかれましては、多分、何らかの需要はあると思いますので、なるべく早く仕上げたい。

完成がいつになるかはわかりませんが、年内には書き上げたいなあ。

年末忙しくなるので、実質あと一ヶ月以内に、原稿はまとめないと年内は厳しいかもですが、ちょっとこのgoogle検索の結果はアカンと思うので、その気持ちをモチベーションにがんばります。

自分自身を追い込むために書きます。

がんばろう。

がんばれるかなぁ。

がんばります。

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漫画「マギ」が、壮大な自己決定の話だった件

作業療法関係ない作業療法の記事。
漫画大好き。
漫画は、経験したことないことでも、ある程度の想像の余地を残しながらわかりやすく提示してくれるのでいいですよね。
この記事は、サンデーで連載中の漫画「マギ」の壮大なネタバレが含まれているかもしれません。
コミック派の人は注意してください。
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©︎小学館 / 大高忍
本日、発売のサンデーに掲載されている「マギ」がとてもいい意味で衝撃的だったのです。
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自己決定の話を重くなく、かる〜く、でも本質を抑えて提示していて素晴らしかった。

自己決定の重要性

先進的なリハビリテーションでは、当たり前に主張される「自己決定」の重要性。
特に、精神で強調されることが多いですが、作業療法やってる上では避けて通れない話題です。
それに関する本もいろいろ自分なりに読んで勉強したりとかもしてたりするんで、ちょっと詳しい自負はあるし、日々の臨床で常々ぶち当たる話題でやっぱり重要だなと思うんです。
自己決定。
自己決定重要。
これがないと、生活を見据えたリハビリテーションも、生活につながる作業療法も絶対にできないという確信があります。

自己決定の重要性を伝えるのは難しい

でも、自己決定についてのフランク(平易)な説明って難しいんです。
そもそも、自己決定って言葉がまず硬い。
ハードル高いと感じちゃう。
読んで字の通りで、自己決定とは
「自分で決める」
というそれだけのことなんですが、どうしてなかなか、
その重要性を論じる
となると難しい。

「マギ」は名著

こっからちょっと読み飛ばしていただいて構わんのですが、話変わって、あまり、そんなに名作だと思える漫画がないんですよ。最近の連載。
最近の漫画は、昔の漫画の焼き直しだったり、等身大によりすぎて何を描きたいのかがよくわからないテーマのぼやけた漫画ばっかりだったりするのです。
そんな漫画ばっかりの昨今において、ファンタジーものでここまで、普遍的かつ、重要な人間の特性を掘り下げた漫画はあんまりないと思ってます。
人間を描くのが、いちばん面白い漫画のあり方かなーと思うのですが、それができてるのが「マギ」だと思います。
少年漫画なのに、ダークですし、大人こそ読んでて刺激的だと思います。
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©︎小学館 / 大高忍

ストーリー

ついでに、ストーリーも。
ファンタジーです。
アラジンとアリババというダブル主人公が冒険しながら、人間的に成長する話。
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©︎マギ製作委員会、MBS 小学館 / 大高忍
最近は、世界の破滅から世界を守るために、いろいろするという話です。
「いろいろ」は、自分で読んでください。

以下、自己決定の話とネタバレ

文章力無いので、読んで面白く無いと思います。
読み飛ばしていただいて結構です。
最近は、
神というか、世界のルールを設定している管理人と喧嘩してます。
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©︎小学館 / 大高忍
意味不明ですね、はい。
読んでください。
で、その神が、シンドバットとダビデっていう人に書き換わってるんですが、その二人は「属性」として特異点という役割が与えられているんです。
「運命」が見える、という設定なんですね。
つまり、絶対預言者というか、「必ずこうなる」というのがわかるということです。
で、運命の言いなりになるのが嫌だっていうので、自身を特異点に設定している世界の枠組みをハックして、運命の枠組みから外れようとします。
運命をハックしたことで、「人類補完計画」が発動します。
よくある、世界から個々の人類が滅亡する流れですね。
ダビデさんの行動原理としては、鋼の錬金術師のホムンクルスのアレです。
自分が高みに登るためには、なんでも利用して、エネルギー源に変換してしまえというわけです。
で、その目論見の過程で発動した「人類補完計画」をストップさせようというのが、先々週までの流れ。
そして、その危機的状況を打破するために、一人の強力なリーダーを選出する方法論の提示があったのが先週。
ちなみに、神代理のシンドバットさんが直指名。
そのリーダーは、アリババくん。
以上がここまでのあらすじ。
ここまで読み飛ばして結構です。

以下が大事

そして今週、解答編。
強力な預言者に、リーダー指定されたアリババくん。
その指名を派手に蹴ります。
かなり、表現は変えてますが、
曰く
「もっともらしい意見だけを元にして、結論が不確定な状況で、結論決めつけてどうするの?そうならない可能性は、十分存在する」
「別の問題が起こった時に、自分で意思決定してなかったら、自分で決めなかったんだからしょうがないって思うだけでしょ」
「そろそろ、自分の言動は自分で決めません?」
「だから、リーダーなんて引き受けません」
要するに
「ちゃんと自分で決めろ」
って、主人公じゃない人々に促したところで、今週の話は終わりました。

自己決定はなぜ重要か

上記のアリババ氏の発言に、自己決定の重要性の全てが詰まっているように感じました。
結論を「偉い人とか、規則がそうだから」と飛躍させて、自分自身での決定をしないと、その人は自分で責任を取って生きるということができなくなるんですよね。
本来、人が生きるということは、自己決定の連続で、だからこそ、何か問題が起きてもその状況を自分のものとして引き受けて、新しい自己決定や行動につなげることができるんですよね。
あくまで、みんながそうというわけでなく、傾向の話ですけれど、輝いて生きてる人たちはやっぱりしてますよね、自己決定。

患者様とかに読んでほしい

作業療法士ベテランの皆様は、自己決定の重要性はわかっていながら、どうやったらそれが伝わるかに苦慮する場面もあると思います。
若い漫画好きの患者様には、わかりやすくていい教材だと思います。
患者様だけでなく、自己決定の重要性がいまひとつなひとにも是非読んでほしい。
自己決定の重要性がわからないと、人権の意味もイマイチピンとこないはずですし、でもその重要性ってイマイチわかりにくい。
わからないと、リハビリテーションや作業療法の破綻や、人権侵害にもつながる。
自分が決定することの大事さがわかれば、相手を尊重することの大切さや価値もわかりますから、人間関係ももっと円滑になるし、自分で自分の治療の選択に積極的になれるし、パターナリズムも無くなるし。
大事だなーと思います。
ファンタジーを読んでたつもりが、哲学書やら自己啓発本の中核的なエッセンスを不快感なく取り込める名著ですので、ぜひ読んでください。
あるいは、待合室に買ってください。
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