ある意味で、現代病な、人と活動の希薄化に、作業療法は仕事するべき。

作業療法士にとって必要なことは、なんだろうかと考えて見ると、作業をよく知っていること、作業の意味や重要性を、対象者の方と共有して、一緒にやっていく能力だと思います。

しかし、今後、その作業療法士が行う作業療法は、作業を用いて結果を出すことができなくなるということです。

どういうことでしょう。どうすれば良いでしょう。

前提としての、結果が全てな現代社会

極端な書き方をすると、現代社会は、結果を出してなんぼです。

結果とは、換金可能な価値を生み出すことです。

なぜなら、人間が生きるためには、資本主義社会では、お金がいるからです。

社会制度や仕組みでフォローするとしても、直接的にサービスを供給するのではなく、お金を当事者に渡すという仕組みをとっていますから、やっぱりお金ってのは世の中を動かしている存在として認識されていると思います。

お金を追求するためには、結果を追求することが必要です。

だから、結果が重要で、途中の過程などはあまり意識されなくなってきてしまっています。

なんだか抽象的になってしまったので、もっと身近な話をすると、要するにお金を出せば、便利なものやサービスといった結果が簡単に手に入るのだから、自分で何かをする必要性がどんどん低下しているということです。

例えば、さいきんの子育てで議論になった

「子供が泣き止むのだから、タブレット端末で遊ばせとけばいい」

というのは、子供が泣き止むという結果を手軽に得られるが故に、そのための方法論を全てタブレット端末に投げていると、こういう図式になると思います。

問題なのは、便利さに毒されて、受け身になること

じゃあ、便利な道具やお金で結果を買うなっていう話かというと、そうではないです。

結果は大事だし、過程の簡素化も大事です。

道具を使わない人間社会はナンセンスです。

また、結果に向けて過程を効率化することによって、新しい事柄に労力を向けることができたり、余暇を楽しむことができたりといった重要な効果があります。人間の生活が豊かになるには、結果を追求する必要があります。

問題なのは、豊かさが大した努力をしなくても、一定の生活水準を保証してくれるようになるので、生き方が受動的になることです。

先の話で言えば、タブレット端末の使用が悪いわけではないのです。

きちんと、タブレット端末を使用することによるメリットデメリットを精査して、デメリットのリスクにきちんと対応する準備があればそれで問題ないのです。一日当たりの接触時間の最大値を設定するとか、対人コミュニケーションの機会をちゃんと設定するとかしていれば、タブレットの使用をしても大した問題は起きないかもしれません。

せっかく結果に至るまでの過程を効率化して、時間などに余裕ができたとしてもそれを怠惰に過ごすために使ってしまうようになると、人生を受動的に生きていると言っても良いと思います。

おそらく、本人の感覚としては、積極性を持って生きているのですが、自分自身の人生をマネジメントできてはいないでしょうし、やりたいことをやっているだけです。

もちろん、それを突き詰めることができれば、それが生業になり、生計を助けてくれることもあります。しかし、スマホゲームで課金して、中級ユーザーになったところで、現実世界ではなんの役にも立たないわけです。そのゲームの世界で一番になることができれば、また、話は別かもしれません。

しかし、そこまで突き詰めることができる人間は、もやは積極性があるというべきでしょう。

人生を受動的に生きる人は、何かをする余裕も与えられ、自分が選び取っているつもりの選択肢すら与えられています。

本来であれば、100も200もあるはずの選択肢を2つか1つにされてしまって、自分の人生が閉じていっていることにも気づけていない人が、受動的な人です。

余剰や余裕をどのようにうまく使おうか、自分のために人のためにどうやって、生かそうかという、そういう考え方を育む環境が、結果を追求する現代社会においては奪われているのではないか、そう思うのです。

うん、すごく抽象的。伝わる気が全然しない。

文書に書くのは、実に難しい。

積極的な人は、お金は必須ではない

時間がない人は、なぜ時間がないかというと、何かしなければならないことがたくさんあるからです。

その多くは、仕事です。お金を稼ぐ仕事や生活に必要な家事やら買い物やら。

生きるためには、それをしないと生きていけないという活動が、一日の時間に占める割合を増すと、人は忙しいと感じるようになります。

その前提に立てば、低い給料で生活している人が、忙しい生活を送っているかというと、そんなことはないと思います。

むしろ、高い給料をもらっている人の生活の方が忙しいのではないでしょうか。

なぜなら、お金をたくさん使って、生活を成り立たせているので、そのお金を仕事で稼がなければならないからです。

その仕事が、生きがいでやりたいからやってる人はいいです。積極的なので。

そうではなくて、生きるためのお金を稼ぐために、気乗りしない仕事を大量に引き受けて大量にこなして、忙しさと引き換えにして、お金を稼いで、時間がないからといって、稼いだお金を使って、サービスを買う。

これは、非常に受動的な生き方で、社会や人から受けるストレスが高まりやすい生き方だと思いますし、今、世の中にはこういう人がたくさんいると感じています。自分で、自分の仕事のモチベーションをうまく作り出せないまま、給料を得るために自分を殺しながら働いている人が、少なからずおられます。

逆に、収入が月に10万円以下であっても、家賃の低い地域に住んでいて、水道電気代光熱費を、自分で用立てて、衣食住は、地域の人との関係性の中でなんとかしながら、有り余る時間を自分の趣味や生きがいに費やして、人生を謳歌している人もいます。この人やそれに類似する生活を送っている人の手の中には、「作業」があると感じます。

また、こういう人たちが強い点として、自分でビジネスを作り出す才能があることです。お金が欲しければ、仕事をする必要があります。その仕事は、自分で作り出してもよく、積極的な人たちは自分で新しい仕事を作り出すことが得意です。実践と、反省と工夫の繰り返しの中で、仕事を成長させていく術に長けていると思います。

自分の生活を自分で生み出せる人は、その一部を切り取って新しい仕事を生み出すこともできる。考えてみれば、単純で当たり前のことですね。

積極的な人の割合の減少と、作業療法の危機

今、日本では、積極的に行動を起こせる人材が減っていると思います。

特にこれからトップになっていく人たちの、受動的な感じはやばいなあと思います。

当然、そこから下の世代の受動的な感じもやばいです。

上の世代が下の世代を育てるのですから、当然、受動的な振る舞いをする人が増えます。それ以外の理由としては、先にあげたような社会の構造の変化も大いに影響していると思われます。

積極的な人が減ると、世の中に変化が起こりづらくなり、結果を追求しようにも課程がこれ以上合理化できないという頭うちになる時がやってきます。

それが、まさに、今の日本社会であり、日本の企業であり、それが先日の大企業の検査データ改ざんの不正などの形で行われているということだと思います。

そして、積極的な人が減ると、自分自身の手で「作業」を行う人が減るということになります。身の回りに「作業」ができる人が少なくなると、「作業」に触れる機会は減ります。

「作業」が身近でなくなると、「意味のある作業」という言葉は、ひょっとするとある世代以降からは全く意味のないものになる可能性すらあります。

これは、「作業をすることで人は元気になれる」という作業療法の危機かもしれません。

作業療法士が受動的になってはいけない

しかし、思うところがあります。

「意味のある作業」を行なってもらうこと。これは、高度に進行した認知症の方をはじめとした、自分で選び取ることが能力的にも現実的にも困難となった方々には、とてもとても大切なことだと思います。

しかしながら、一方で、これから、いくらでも能力を新たに獲得できる人に対して「意味のある作業」を行なってもらうことに、個人的に疑問を提示します。

むしろ、作業療法士はそうした人たちに積極性を獲得してもらい、新しい「意味のある作業」を増やしてもらう手伝いをすることが、作業療法士の役割なのではないかと思います。そのための手段として、途中経過ですでに獲得済みの「意味のある作業」を用いるのは、王道だと思います。

そして、そのためには、作業療法士が、自分自身の積極性を一定の水準に保つよう努力しなければならないということです。

だから、作業療法士は受動的になってはいけない。積極的に学び取ろうとしていなければならないと、そのように思う次第です。

コラム 岩崎てる子先生の言葉

作業療法士界の重鎮のお一人だと勝手に思っております。

とある作業療法の教科書のはじめの言葉に、言いたいことと同じことが書いてあったので引用させていただきます。

大量生産・大量消費という高度消費社会は、人々を生産活動から遠ざけてきた。

全てが機械化され、ものの売買さえ電子市場で行われる時代である。ものを育て・つくる現場を知らない、また売り手と買い手のコミュニケーションもないという現実は、ものと人、人と人とかかわりを稀薄にする。ものと人がである場である「作業」を対象領域とする作業療法にとって、この出会いの少ない者が治療者になっても、対象者になっても治療効果をあげるには様々な困難を伴うことが予想されれる。

ちなみに2005年のお言葉です。

しかし、時代の流れを的確に捉えておられるように感じます。

AIは作業療法の天敵かもしれないし、福音かもしれない

作業療法士の仕事には、実践による具体性を欠くことはできないですよね。

しかし、今後さらに結果を追求する社会の流れは加速していくと思います。

それを強力に後押しするのが、AI(人工知能)の急速な進歩でしょう。

究極的に、人間に変わってありとあらゆる家事や仕事を機械がするようになってしまえば、完全に受動的な生活をすることだって可能になってしまうわけです。

そうなると、いずれは、既存の「意味のある作業」を実践してもらうという形の作業療法は絶滅するでしょう。

そうではなく、人間ができることややりたいことはきちんと自分で行う。それ以外の苦手なことやできないことは、機械に補ってもらうということができるようになれば、作業療法はもっとやれることが増えると思っています。

例えば、ADL関連の補助なんかも、人間がやるのが大変なら機械にやってもらったらいいと思います。実際、その方が、当事者の方にとっても、気を使わなくてもいいし、惨めな思いをしなくて済むからいいという声を聞きます。

作業療法士がそういう機械のコーディネータをする役割を担うことができれば、今後の作業療法士はますます活躍できると思いますし、そうでなければ、作業療法士の仕事は少しづつなくなっていくのだと思います。

蛇足

なんとも読みにく文章になってしまいました。

また手直しするかもしれません。

とりあえず、作業療法士が現代社会に飲まれたらあかんということが、書きたかったというそれだけです。

まとめ

具体的な経験を、軽んじてはいけないです。

その経験が、世界と個人とを強く結びつけるのです。

作業療法の真髄は、その力を強化し、利用する技法だと思うです。

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ごく最近「作業療法士冥利につきるな」とやりがいを感じた瞬間

作業療法士には、それぞれ色々なやりがいを感じる場面があると思います。

先日、自分がやりがいを強く感じたのは、自分の対象者の方が、ご本人の言葉で、実際の体験の気づきを言語化できた時でした。の巻。

作業療法ってなんだ?

作業療法とはでも触れましたが、作業療法ってなかなか一言で言い表すのが難しいのです。

確かに、やってもらうこと、やること自体はとてもシンプルです。

だからと言って、

「作業療法って、絵を描いたり、塗り絵するんでしょ」

と言われて、なんとなくそれを肯定するのに引っ掛かりがあります。

別に、活動をしてもらうこと自体が目的ではないし、全員が全員に創作活動をしてもらうわけではないからです。だから、自分の中で、そこを素直に肯定できない時があります。

大切なのは、ちゃんと「作業」かどうか

対象者の方にとって必要なことを獲得してもらうために、とか、

やりたいことや自己実現の手段や目的として、とか

作業としてアクティビティを用いるというただそれだけのことなのですから。

作業療法というのは、やはりどうして作業を使うのかが大切です。

意図を見抜かれた「作業」

そして、その目的をきちんと達成できるように協働することはもっと大切です。

作業療法として提供した作業の目的に対象者の人が自分で気づいたんです。

この間。

どういうことかと言いますと以下のようなことです。

やや、若干活動性の低い若い男性がおられました。

最初はおたのしみとして、とある活動を「作業」として提供していました。

「ちょっとやってみない」

なんて言って。

すると、ある程度定着して、自分から積極的に取り組めるようになってきていたんですね。

そして、別の集団活動に参加して、その人の成長ポイントの話になりました。

ふと、

「ああ、これって、◯◯(「作業」の名前)と一緒ってことね」

対象者の方の変化のきっかけを手伝えると楽しい

今回関わらせていただいたこの男性、おたのしみとして導入した作業を通して、自分の課題に気づいて取り組めるようになっていたのです。

そこに対する言語的な介入はほとんど行っていません。

むしろ、非言語的に、感覚的に本人が成長して変わっていることを実感できるような構造で、「作業」を提案し、そのための環境を提供しました。

「作業」を通して、蓄積された感覚が経験となって、その人の気づきにつながり、より良い決定や選択肢の幅を広げていく、そんな瞬間を目の当たりにしました。

この時はガッツポーズしたくなりましたね。本当に。

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作業療法士の仕事のやりがいをすっと感じた瞬間でした。

本当にすごいのは当事者・対象者

別に、作業療法士がすごいわけでもなんでもなくて、それは対象者の方の努力や頑張りだったり、センスだったりなんです。

本人の自発性がないと、作業療法として関わるのはかなり難易度が高いですので、作業療法士は常に対象者の方のやる気や頑張りに助けてもらってるわけです。

ですけれども、対象者の方が、作業療法としてやってるアクティビティを、自分とその活動、「作業」の意味を整理して、「ああ、こういうことなんですね」と、理解できて一歩進めた時は、それは本当に嬉しいですね。

嬉しかったです。

確かに、やってることは、切ったり、貼ったり、塗ったり、みたいな一見単純な活動なんですね。

ですけれど、そこには明確な目的と、目標設定に向けた訓練としての意図もちゃんとあるわけで、実際にそれを感じ取って、対象者の方が自ら感じ取ったものを自分の言葉で言語化してもらえる瞬間はたまらないですね。

それが聞けると、作業療法として一緒にやってることが、積み重なってる感があり、成長や回復の過程の手伝いが多少なりともできているという確信めいたものが持てるので元気が出ました。

要するに

治療としてそのアクティビティを選択した意図を、こちらから説明する前に、自分でしっくりきてもらえて、ご本人が言語化できて、そこで自発性やら積極性がてできて、自立度も高まって、汎化できて、習慣化して、生活の基盤ができて、リカバリーが高まって、リハビリテーションとして成立すると、本当に作業療法士冥利に尽きます。

なんか、そういう狙いが、うまくコーディネートできた時は、

「やったった」

感はあります。

正直。

自由ゆえの作業療法

作業療法士の仕事は、法律で規定されています。

もちろん大枠は、医師の指示の下、です。

しかし、医師が示すのはあくまで方向や大まかな結果であって、そこにどのようにして至るかという道筋は、作業療法士に委ねられるわけです。

ですから、なるべく対象者の方の作業療法の成果が最大化できるように、介入・支援を最適化しようとします。

そうした積み重ねは、単に良い治療成果がもたらされたというだけでなく、対象者の方と治療者の関係性や信頼性を強固にしてくれて、より大きな結果に繋がる提案を行いやすくなる気がします。

そうした、関係性などのトータルコーディネートも含めて考えて、作業療法ができる環境が最近はあるので、ああ、本当にありがたいなあ、と、感じています。

介入・支援の切り口は無限にあった方がいいので、やっぱり自由度って大切だなあとつくづく思います。

やっぱり勉強大事

唐突にブッコミましたが、勉強は大切だな、とその前の自由度に関連して思います。

勉強て言うと、専門知識の学習とかイメージされるかもしれません。それらは、当然大切です。

それはスタートラインとして、

けれど、それだけじゃなくって、色々なことを吸収して自分のものにしておくことはすごく大切だと思います。

人生なんでも経験とはよく言ったものです。

残念ながら、経験してないことは、思いつきで実践することは難しいです。

だから、作業療法士としては、色々なことに興味を持っておく習慣が必要です。

それさえあれば、より良い作業療法を行うために作業療法士自身ができることが増えるかもしれません。

そうすると、色々な活動を作業として使いやすくなります。

活動を作業として用いるのに、作業療法士が熟練している必要性はありません。

ありませんが、熟練している方が、作業として提供するのは楽に行うことができます。

用いる作業の幅が広がれば、作業療法対象者の方へのサポートを最大化しやすくなります。

具体的かつ、感覚的な気づきを持ってもらいやすくなります。

それは、強力な学びや経験となって、その対象者の方の判断や思考パターンをより本人の希望に沿うものに近づけ、その後の人生を自らが望む方向へコントロールする力を大きく左右することになります。

だから、勉強が大事だな、いろんな人生勉強はしておくべきだなあ、と思ったりします。

作業療法の実践にやりがいはいらない

ここまで書いておいて、じゃあ今までの文章はなんだったのかということを書きますが、作業療法に作業療法士のやりがいを持ち込んだらアウトだと思います。

客観的な判断ができなくなるし、「作業」の影響をきちんと評価できなくなるからです。

やりがいありきではなくて、たまにご褒美としてやりがいが降ってくることがある。

それくらいに思っておかないと、自分の場合はすぐに調子にのるのでいけません。

あくまでクライエント中心が、作業療法のモットーですから、それを完遂できるかどうかがまず大切です。もし、作業療法の対象者の方が、その人の望む方向に進むやくに立てたと明確な時だけは喜んで良いかもしれません。

結局この記事はなんだったのか

作業療法の場面での、対象者の方の発言に嬉しくして、調子に乗って舞い上がりそうな自分を客観視するために書きました。

現場からは以上です。

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OT評価実習生:OTSにOT五年目が感じた 実習中の成長を左右する要素の「ヤバさ」

短期(評価)、長期(総合臨床実習)に関わらず、実習中の学生目線だと理解できることがあります。

一方で、経験年数が増えて、経験値もそれなりに増えると、ここ最近はじめて感じることがありました。

その2つの間のギャップの話です。

「何をしに、実習にきたの」

実習を通して、成長する学生と、

あまり変化なく帰っていく学生との間には、いろいろな違いがあります。

その違いは、普段の臨床にも通じる大切な「違い」だと思っています。

後者の学生がよく言われるのが、

「何しに来たの」

です。

これが、その理解のためのキーワードであるように感じています。

何のための実習かがわからない

「実習に行くことになっているから、実習に行く」

という学生が少なからずおります。

実習のための実習、実習が自己目的化している学生です。

こういう実習生が、上記のような質問を実習中に繰り返しぶつけられて、あまり成長なく、実習に対する傷つきだけを感じて帰っていくことが、ままあります。

そのタイプの実習生は、なぜ生まれるのでしょうか。

そしてなぜ、実習生は傷つくのでしょうか。

作業療法学生:OTS目線での実習

申し訳ないのですが、引用できる資料もないので自分語りになります。

でも、自分の学生時代、OTSのときの実習を振り返ると、その傷つきのヒントにはなると思います。

学生の頭の使い方の典型とおもうのですが、

「学校で学んだことを、臨床で生かす」

という思考回路があります。

学生の作業療法観は、授業の中の情報や、講師の話によって構成されます。

それのみによって構成されていることがほとんどではないでしょうか。

すると、学生の行動原理は、

「いままで自分が学んできたことを実践してみること」

になります。

そして、それができることによって、実習が合格となるというモデル(妄想)が頭にあります。

これが、実習の為の実習であると、臨床家のOTRのみなさまから批判されるところだと思いますが、学生の側からすると、むしろ自然ながんばり方なのではないでしょうか。

それなりに臨床経験のある作業療法士:OTR目線での実習

一方で、かつてOTSであった作業療法士:OTRの側に立つと、今、実習で学生に求めることはシンプルです。

目の前の対象者に対して、いち作業療法士、いち臨床家としての今の自分での最善を尽くすこと、です。

作業療法士として、実地で経験をかさねていくうちに、自然と評価できるようになることはたくさんあります。

それは、養成校で学ぶこともたくさんありますが、養成校で学ばない、学べないこともたくさんあります。

身体障害領域で例にとると、ポジショニングの常識も日進月歩です。

かつては、

「隙間をうめる」

がポジショニングの王道でした。

しかし、やり方をまちがえると、日々のポジショニングの積み重ねが屈曲拘縮をつくりだしてしまうということがしられるように、徐々になってきています(多分知られて来て、浸透していると信じたい)。

別の例で言えば、かつて推奨されていた、教科書にも載っているような、移乗の方法が、実は自立度の低下につながる場合もあります。

このような学びが、学校でできたか。

告白します。

私個人の経験からすると、不真面目な学生であった私はできておりませんでした。

そして、その学びは、先進的なものであればあるほどに、教科書中心の座学授業の中では決して学ぶことができない、臨床による技術的なものや、それに基づく評価であったりします。

それは、国家試験を念頭に置いたものではない、日々の臨床、実践を念頭に置いたものだからです。

作業療法に正解はありません。現在地点が人それぞれで、ゴールも人それぞれだからです。

かつての正解が、状況によっては不正解になることもありえます。

そのことを、経験値として知っている作業療法士ほど、OTSに対して、将来の臨床家として、今現在の最善をつくすことを求めますし、実習とはそのようにするべき場所だと思っています。

だからこそ、臨床家として、実習態度がどうのこうの言うわけです。

それが臨床の結果に直結することを、経験則として痛いほどわかっているからです。

つまり、作業療法士:OTR目線での実習とは、

「実習中の事象から、素直に考えて、行動すること」

だと感じていると思います。

自分はそう感じるようになってきています。

このギャップ 「ヤバい」

実習の指導は、OTSとスーパーバイザーであるOTRの間の事象なので、目指すべき場所が共有できてないとこじれます。

作業療法士の側としては、自分の目線から、上記のような学生の実習への取り組み方を見ていると、

「なにしにきたの」

となるわけで、それを学生に伝えます。

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言われたOTSは、なんで自分がそんなことを言われるのかも、わけがわからず、萎縮してしまい、その結果としてスーパーバイザーが求める実習態度から乖離していき、その度に「なにしにきたんですか」といわれるという悪循環が生じてしまいます。

その結果として、実習中の表出が制限され、なにもかわらないままに実習終了、お疲れ様でした、となるわけです。

自分の理解としてはこういうパターンは少なくないと思ってますし、間違ってないと思います。

作業療法士としての仕事時間のほんとうに貴重な時間の一部をボランティアの実習指導に費やして何も学生が成長しないままに実習終了するとか、本当に悪夢でしかないのですが、少なくないと思います。

正直、やばいなーとおもいます。

やばいなーと思いませんか。

では何でこういうことがおきるのかというと、上記を踏まえるとOTSとOTRの双方に要素がありそうです。

作業療法士の労力に見合った分、学生がたくさん学んで、成長して帰るようにするには、どうしたらよいでしょうか。

OTSは、自分の将来像を考えると幸せになれる

いろいろあるけれど、たとえば。

実習に来る前に、どんな職場働きたいのかは、なんとなくでも決めておくことです。

べつに後で変更したってかまわないので、自分はどんな領域のどんな場所で働きたいのか、それを明確にしてそれをスーパーバイザーであるOTRに伝えることです。

そして、そこで働くためには、自分はどんなことが必要と考えているので、どんな学びをその実習で得て帰りたいかということまで明確にできると、将来の自分のために動けるので、多少能動的になれるかもしれません。

自分なりに、自分自身について、実習に行く前に真剣に考えておくことが、実習前に行う準備として必要だったのかなと思います。

自分の将来像について、明確にできるといろいろ幸せになれそうな気がします。

作業療法士が学生時代の自分の体験(忘れたい?)を思い出す

本当に真剣に取り組んでる作業療法士ほど、日々の臨床がとんでもなく忙しいので、かつての自分を振り返る機会なんてありません。

今の自分の感覚や感性を基にして学生と関わるので、上記のような問題が発生するのではないでしょうか。

過去の自分を思い出してゾッとすると、目の前の学生が少しは可愛く見えるかもしれません。

いち作業療法士として学生目線をいつか忘れる恐怖

個人的な感覚ですが。

学生のことがいつかわからなくなるのが怖いです。

そのリスクは、自分が作業療法士として経験を重ね、成長するほどに高まるものだと思います。

学生のことがわからない作業療法士は、その学生の3年後を見据えた効率のよい指導や助言ができないのではないかと考えています。

後進育成のへたくそな作業療法士にはなりたくないので、いつか自分が今の自分の感覚だけに頼りすぎることが非常に恐ろしいです。

謙虚に

自分のことは棚に上げないと指導ができない場面は、確かにあります。

だからといって、それが行き過ぎて、かつての学生時代の自分の不出来と乖離したような実習目標を学生に負わせるのは、あまりにも雑な指導だなと、自分と学生とのかかわりを通じて思います。

養成校側から、よく言われる

「学生を患者様だと思って指導してください」

というのは、

「患者様に関わるときと同じくらい謙虚な気持ちで」

と自分なりに読み替えることにして、学生の成長を自分の糧にもできたら、自分はより良い作業療法士になれるかな、と考えています。

そうしておけば、学生にも謙虚になーれ、と指導しやすいです。気持ち的に。

互いを知れば「ヤバさ」は軽減できる

認知症の方への介入は、相互理解の促進にありますよね。

OTRとOTSの関係も同じではないかと思うので、この記事を書きました。

すこしでも「ヤバさ」が軽減されれば幸いです。

やり取りがしたい

こんな独善的な文章を読んでくださり、ありがとうございました。

よんでくださっている皆さんは、なにかしらおもところがあるはずです。

なにか気になる点がありましたら、LINE@をやってるので、そちらでメッセージ飛ばしていただければ、私自身の学びになりますので、よろしくお願い存じ上げます。

作業療法.netのLINE@アカウントはこちら

特に学生諸君の等身大の意見があると非常にうれしいです。

わからなさや不安があれば、質問していただければ、答えられる範囲でクローズドにやりとりします。

年取ると頭が固くなるな、と感じる今日この頃です。よろしくおねがいします。

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キーワード「MOHO」でgoogle検索したら、OT関連じゃなかった件

あかんやろ。

MOHO大事

MOHOもとい、人間作業モデルって、作業療法士的には大事ですよね?

Model of Human Occupation ってだいじですよね?

大事でしょ?

あんまり大事じゃないかしら。

作業療法関連の概念の中では、結構重要な理論だとおもってただけに今回の検索結果は結構ショック

と、同時に結果が妥当だと思う自分も嫌い。

google検索結果

今回は、キーワード「MOHO」で普通にgoogle検索をかけました。

ふと検索したんですよ。

そして、その検索結果1ページ目は以下のような感じ。

src_moho.png

ご覧のように、1ページ目にはまったく出てこない。(2017/09/29現在)

2ページ目でようやく登場する。

これは、いかに、一般に作業療法が浸透していないかを、証明してしまっている。

そう受け取らないといけないと思いました。

危機感MAX

一般の人が検索することはまずないでしょう。

作業療法のキーワードで、どの程度の検索があるのかも微妙です。(あれも、ヒットするのは養成校の広報HPがほとんどです。インターネット検索対策をきちんとやってるサイトが多いためと思われます。)

ですが、ふと違った考えが浮かびました。

学生とか、作業療法士もひょっとして、あんまり検索してないのかなあーなんて思いました。

そもそも、人間作業モデル授業で触っただけっていう人も少なくないかもしれません。

でもそれだと、ほかの理論を学ぶときのコストも大きいし、作業療法をうまく説明できるのかも正直不安になります。

インターネット上に有意義な情報がなかったら、確かにそもそも検索する気持ちも起きんですね。

自分自身振り返ってもそうかもしれません。

MOHOの解説書きます

だから、MOHOの解説文を書くことにしました。

言い訳しておきます。

いろんなことと並行作業になるので、すぐすぐには公開できないと思います。

でも、きっとこのページを見てくださっているまじめなOTさん達や、作業療法の貴重なフォロワーの皆様におかれましては、多分、何らかの需要はあると思いますので、なるべく早く仕上げたい。

完成がいつになるかはわかりませんが、年内には書き上げたいなあ。

年末忙しくなるので、実質あと一ヶ月以内に、原稿はまとめないと年内は厳しいかもですが、ちょっとこのgoogle検索の結果はアカンと思うので、その気持ちをモチベーションにがんばります。

自分自身を追い込むために書きます。

がんばろう。

がんばれるかなぁ。

がんばります。

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漫画「マギ」が、壮大な自己決定の話だった件

作業療法関係ない作業療法の記事。
漫画大好き。
漫画は、経験したことないことでも、ある程度の想像の余地を残しながらわかりやすく提示してくれるのでいいですよね。
この記事は、サンデーで連載中の漫画「マギ」の壮大なネタバレが含まれているかもしれません。
コミック派の人は注意してください。
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©︎小学館 / 大高忍
本日、発売のサンデーに掲載されている「マギ」がとてもいい意味で衝撃的だったのです。
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自己決定の話を重くなく、かる〜く、でも本質を抑えて提示していて素晴らしかった。

自己決定の重要性

先進的なリハビリテーションでは、当たり前に主張される「自己決定」の重要性。
特に、精神で強調されることが多いですが、作業療法やってる上では避けて通れない話題です。
それに関する本もいろいろ自分なりに読んで勉強したりとかもしてたりするんで、ちょっと詳しい自負はあるし、日々の臨床で常々ぶち当たる話題でやっぱり重要だなと思うんです。
自己決定。
自己決定重要。
これがないと、生活を見据えたリハビリテーションも、生活につながる作業療法も絶対にできないという確信があります。

自己決定の重要性を伝えるのは難しい

でも、自己決定についてのフランク(平易)な説明って難しいんです。
そもそも、自己決定って言葉がまず硬い。
ハードル高いと感じちゃう。
読んで字の通りで、自己決定とは
「自分で決める」
というそれだけのことなんですが、どうしてなかなか、
その重要性を論じる
となると難しい。

「マギ」は名著

こっからちょっと読み飛ばしていただいて構わんのですが、話変わって、あまり、そんなに名作だと思える漫画がないんですよ。最近の連載。
最近の漫画は、昔の漫画の焼き直しだったり、等身大によりすぎて何を描きたいのかがよくわからないテーマのぼやけた漫画ばっかりだったりするのです。
そんな漫画ばっかりの昨今において、ファンタジーものでここまで、普遍的かつ、重要な人間の特性を掘り下げた漫画はあんまりないと思ってます。
人間を描くのが、いちばん面白い漫画のあり方かなーと思うのですが、それができてるのが「マギ」だと思います。
少年漫画なのに、ダークですし、大人こそ読んでて刺激的だと思います。
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©︎小学館 / 大高忍

ストーリー

ついでに、ストーリーも。
ファンタジーです。
アラジンとアリババというダブル主人公が冒険しながら、人間的に成長する話。
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©︎マギ製作委員会、MBS 小学館 / 大高忍
最近は、世界の破滅から世界を守るために、いろいろするという話です。
「いろいろ」は、自分で読んでください。

以下、自己決定の話とネタバレ

文章力無いので、読んで面白く無いと思います。
読み飛ばしていただいて結構です。
最近は、
神というか、世界のルールを設定している管理人と喧嘩してます。
Unknowns.jpg
©︎小学館 / 大高忍
意味不明ですね、はい。
読んでください。
で、その神が、シンドバットとダビデっていう人に書き換わってるんですが、その二人は「属性」として特異点という役割が与えられているんです。
「運命」が見える、という設定なんですね。
つまり、絶対預言者というか、「必ずこうなる」というのがわかるということです。
で、運命の言いなりになるのが嫌だっていうので、自身を特異点に設定している世界の枠組みをハックして、運命の枠組みから外れようとします。
運命をハックしたことで、「人類補完計画」が発動します。
よくある、世界から個々の人類が滅亡する流れですね。
ダビデさんの行動原理としては、鋼の錬金術師のホムンクルスのアレです。
自分が高みに登るためには、なんでも利用して、エネルギー源に変換してしまえというわけです。
で、その目論見の過程で発動した「人類補完計画」をストップさせようというのが、先々週までの流れ。
そして、その危機的状況を打破するために、一人の強力なリーダーを選出する方法論の提示があったのが先週。
ちなみに、神代理のシンドバットさんが直指名。
そのリーダーは、アリババくん。
以上がここまでのあらすじ。
ここまで読み飛ばして結構です。

以下が大事

そして今週、解答編。
強力な預言者に、リーダー指定されたアリババくん。
その指名を派手に蹴ります。
かなり、表現は変えてますが、
曰く
「もっともらしい意見だけを元にして、結論が不確定な状況で、結論決めつけてどうするの?そうならない可能性は、十分存在する」
「別の問題が起こった時に、自分で意思決定してなかったら、自分で決めなかったんだからしょうがないって思うだけでしょ」
「そろそろ、自分の言動は自分で決めません?」
「だから、リーダーなんて引き受けません」
要するに
「ちゃんと自分で決めろ」
って、主人公じゃない人々に促したところで、今週の話は終わりました。

自己決定はなぜ重要か

上記のアリババ氏の発言に、自己決定の重要性の全てが詰まっているように感じました。
結論を「偉い人とか、規則がそうだから」と飛躍させて、自分自身での決定をしないと、その人は自分で責任を取って生きるということができなくなるんですよね。
本来、人が生きるということは、自己決定の連続で、だからこそ、何か問題が起きてもその状況を自分のものとして引き受けて、新しい自己決定や行動につなげることができるんですよね。
あくまで、みんながそうというわけでなく、傾向の話ですけれど、輝いて生きてる人たちはやっぱりしてますよね、自己決定。

患者様とかに読んでほしい

作業療法士ベテランの皆様は、自己決定の重要性はわかっていながら、どうやったらそれが伝わるかに苦慮する場面もあると思います。
若い漫画好きの患者様には、わかりやすくていい教材だと思います。
患者様だけでなく、自己決定の重要性がいまひとつなひとにも是非読んでほしい。
自己決定の重要性がわからないと、人権の意味もイマイチピンとこないはずですし、でもその重要性ってイマイチわかりにくい。
わからないと、リハビリテーションや作業療法の破綻や、人権侵害にもつながる。
自分が決定することの大事さがわかれば、相手を尊重することの大切さや価値もわかりますから、人間関係ももっと円滑になるし、自分で自分の治療の選択に積極的になれるし、パターナリズムも無くなるし。
大事だなーと思います。
ファンタジーを読んでたつもりが、哲学書やら自己啓発本の中核的なエッセンスを不快感なく取り込める名著ですので、ぜひ読んでください。
あるいは、待合室に買ってください。
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作業療法士の養成課程でドロップアウトした人にあった

作業療法士の養成課程でドロップアウトした人にあった

なんのえんもゆかりもなく、話をした人が元OTSだった。

現在は違った仕事をされている。

その人と話をしていて思ったのが、やっぱり教育の内容と実際に臨床で用いる手技やら知識のウェイトというか、重要なポイントが違うよねっていうこと。

それから、学校の勉強が難しいと感じる人が、必ずしも作業療法士として仕事ができないというわけでも無いんだと感じたこと。

基本作業療法なんて接客業なので、手技がいくら上手だろうと、きちんと相手との信頼関係が構築できていなかったら、あんまり意味はないんで。残念ながら。

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日本作業療法士連盟は、「このハゲー」の豊田議員を応援していたそうです。

事実です。まあ、与太話というか、昼のワイドショー並みには誰も気にしていない話かもしれませんけれど。

日本作業療法士連盟のブログで読めます。

http://ot-renmei.sblo.jp/article/180693508.html

でっていう話なのですが、妄想が膨らんだので記事にします。

作業療法士連盟とは

そもそも、日本作業療法士協会と混同してもつまらないので、日本作業療法士連盟ってどんなだんたいなのってところから。

いわゆる「政治団体」「圧力団体」というやつです。

政治に積極的に働きかけて、作業療法を盛り上げるというお仕事をしてくださっております。

いや、ほんとによくモチベーションをもってやってくださってるなあと思います。

作業療法と政治力

ぶっちゃけ作業療法界隈の政治力なんて、ないに等しいです。たぶん。

というのが、作業療法士の数って少ないのですよね。

看護とか、PTとかに比べると。

そして、人材の質も高くない。経済力的な意味で。

医師や弁護士と比べると。

そういうバックグラウンドの中で政治に接触するのは、相当メンタルが強くないとできないのですごいなあと常々思うしだいです。なかなか政治家さんたち、票田から相手にするので、相手にしてくれないので。政治献金がしょぼいと相手にしてくれないので。

ということで、今後も作業療法の政治力が劇的に強まる未来はありえないと個人的にはおもっているので、日夜作業療法士の政治力強化のために尽力されている先生方には頭が上がりません。

決して、でこが禿げ上がってるからとか、顔を上げたら禿がばれるからとか、そういうわけではありません。

断じて。

作業療法士連盟の戦略

となると、政治団体なので勢力・影響力を強化・維持することが存在意義になるのですが、票田としても献金力もたいしたことないとなると、取れる戦略はその他の何かということになります。

青田買い

まずあるのが、青田買い。

早めに才能を見出す力があるかどうかですね。

才能があって、これから伸びそうだなーという人に早期に接触して、恩を売っておく。

結構有効だと思います。

人を見抜く力があれば、低コストで投資して、あとから大きなリターンが得られますから、有効ですよね。

作業療法士が経済力をつける

診療報酬の内側でがんばるだけだと限界があるので、企業する作業療法士が増える必要がありますけれどね。

作業療法士の数というか、他業界団体と比較したときの割合がそんなに増えるわけもないので、献金力を磨くしかないような気がします。

政治家を輩出する

作業療法士として、非常に優秀な人って大体政治力も一流です。

結果として。

臨床でいろいろやって自分を磨くうちに、その結果として政治力が勝手に身についているという感じ。

いわゆるたたき上げの、田中角栄タイプ。

そういう人を見出して、きちんとフォローバックアップして、政治家として育成するというは、以外と早道かもしれません。本人には、欲求がないし、汚れ役は誰かがや必要がありますけれど。

この方法をとるなら、作業療法界隈でお金がうなるほどあるという企業家さんがたくさん生まれる必要があるって言う点ではやっぱり代わりがないのです。

豊田議員の話

「このはげー」の人の経歴を見ると、厚生労働所とかのキャリアなんでしたっけ?

興味があんまりないので忘れました。

で、福祉・医療畑に精通しているんじゃないか、しかもそこそこ若手でこれからが期待できるという意味で青田買いだったのかもしれません。

日本作業療法士連盟としては、応援しておったそうです。

日本作業療法士連盟は、これまで氏の政治パーティに積極的に支援し、応援してきた。それは、氏の経歴が厚生労働省老人保健局に在籍していたことや「リハビリテーションを考える議員連盟」の事務局次長の任にあり、私たちの職種への理解者と考えたからである。

OT協会誌2017年8月号掲載 連盟便りより【倫理的文化を育む】 より

支援の根拠としては悪くないですよね。

しかし、豊田議員は問題を起こしてしまいました。

それに対して、連盟としてはこういう姿勢のようです。

氏の教育歴・学歴は実に輝かしい。
しかし、今回の出来事は、氏の知・情・意のバランスを40数年のこれまでの生活期間に整えることができなかったということなのだろう。私は、日本作業療法士連盟会長として、氏を私たちの理解者と考え、氏の政治パーティに複数回出席してきた。現時点で、連盟の公のお金を氏の政治活動のために供与したことを悔やむ。連盟会員の皆さんに、私の理解者選びの判断の誤りを深くお詫びする。

OT協会誌2017年8月号掲載 連盟便りより【倫理的文化を育む】 より

悔やむそうです。

残念。青田買いはやめるそうです。

最後には、見限りましたの意でしょうか。こんなこともかかれてありました。

さて、政治家が政治資金を集めるために開催する政治パーティは講演付と講演が付かないタイプがある。講演が付かないタイプは、派閥の重鎮や議員たちが代わる代わる壇上に登り、パーティ主催者の業績等を褒め上げる挨拶が繰り返されるものである。一方で講演付のパーティは自身が講演する場合もあるが、大抵の場合はテーマに関する専門家を呼び、弁当付きで話を聴かせてくれるものである。私のこれまでの経験では、専門家の話を聴く後者の方が、質問が許される場合もあり、学べるという印象がある。政治パーティは全て後者のようにしてほしいとずっと思っている。因みに豊田真由子氏の政治パーティは代わる代わる議員たちがお互いに褒め合う挨拶会のタイプであった。

OT協会誌2017年8月号掲載 連盟便りより【倫理的文化を育む】 より

残念。

政治って、ダーティーさというか狡猾さというか、粘り強さがないと、結局何も実現しないのですよ。

よほど勢いがあるときを除いてね。

そして、豊田議員に恩を売るなら今こそがチャンスだったのではないかと思うのですよ。

こんな感じで豊田議員を公然と支援する手もあったはずです。

「このたび明るみとなった豊田議員の言動・行為は断じて受け入れられるものではなく、当連盟としてははっきりと嫌悪感を表明せざるを得ない。しかし、氏の能力・手腕を当連盟としては非常に高く評価し、実際に政治パーティーなどで支援を行ってきた。

今回の事件が発覚して以降も、氏の能力や手腕への信頼はゆるぎない。氏が今後、人間的に成長しますます活躍されることを信じて、今後も連盟としては積極的に氏への協力関係を貫く」

とかね。

恩を売るってそういうことじゃないの。政治に必要な恩の売り方としてはね。

そうすりゃ、少ない金額でも、大きなインパクトを残すことができたかもしれない。

実際優秀な人なんだろうことは間違いないんだから、ちゃんとフォローを継続すればよかった。

「作業療法士がとばっちりを食うかもしれない」

というご心配にはあたらない。日本作業療法士連盟という組織をいったい何人が知っているだろうかしら?

きっとほとんどの人はしらない。特に一般の人たちは。

そして、たとえテレビでそのことが取り上げられて炎上したとして、上記のような表現での支援になんら後ろめたいころはないし、むしろメディアで拡散されることによる知名度向上のメリットのほうが大きかった。

残念ながら、日本作業療法士連盟はそういう規模の団体である。

だから、継続フォローを表明しておけばよかった。

組織として、ぶれない姿勢を示して、きちんと求心力を維持すればよかった。

という妄想が出てきたので、広告の裏にでも書いて置けばよかったのですが。

作業療法士の政治力とは

最後に真の政治力、超一流の政治力とは、自分のキャラクター自分のブランド、看板で戦える人たちである。

そういうのがない人々は組織にたよる。

どういう組織に頼るかというと、一人にお願いしたら、漏れなくたくさんの人が動く組織である。

それは、ワンマン経営者の企業だったり、強いリーダーのいる組織である。

そういう組織は、票田として効率がいいので政治家から相手にしてもらいやすい。

まあ、いち作業療法士にとり、あんまり縁のない話で、せいぜい将来起業の可能性も考えとかんといかんのかなあなんて思う、そんな話題でございました。

せいぜい「このハゲー」とののしられることの無いよう、世間の動きはおいといて、人として、作業療法士として大事にするべきことを大事にした臨床を心がけていきたいと思います。

もし、作業療法士が今よりも政治力を獲得するとして、一番最良のストーリーは法律や制度やお金に由来しない、技術や人格指導力などの社会的な影響力を作業療法士ひとりひとりが強固かつフレキシブルな政治力としてもつことで、作業療法士の総和としての政治力が向上することでしょうか。

つねづねそう思ってるので、とりあえず、凡人なりに臨床がんばろうと思います。

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これからの作業療法って、マネジメントが中核

学生時代からずっとおもっていたことだけれど、尊敬する先輩がやっぱり同じ考えだったので、遠慮なく書きます。

作業療法は、やっぱりマネジメントができてなんぼです。

ドラッカーのマネジメントのエッセンシャル版が一世を風靡したあのころ。

「真の顧客」はだれかという文章が忘れられない。

作業療法の真の顧客は、ドラッカー先生流に分析すれば国ということになる。

保険の仕組みのおかげで、国民は3割しか医療費を負担しない。

残りの7割は国が面倒見てくれる。

ドラッカー先生は、サラリーマンの本当の顧客は目の前のお客さんではなく、経営者であると喝破してた。

そう、結局、医療保険や介護保険の上に成り立っている作業療法っていうのは、国がいなくなったら成立しないものであることは間違いなくて、そういった意味において、作業療法の顧客はドラッカー先生流にいえばやっぱり国ということになる。

そうではなく、きちんと目の前の作業療法を必要とする人に、作業療法士として向き合いたいなら、保険の仕組みがなくなっても、きちんと顧客獲得ができるような、そういう仕事の仕方を模索しないといけないと思う。

ぶっちゃけ、病院の作業療法って、稼ぎ頭になってるのは間違いなくって、それゆえ今は経営者から重宝されている。

でもそれだけになってしまうと、まちがいなく点数が改正されるあおりをもろに受けることになる。

今後、医療費や介護報酬が増えることは絶対にない。

何とか増えないように押さえていかなければ、国家財政がもたないからだ。

となると、キチンと結果を出せないものには、お金がだされない仕組みになっていく。

あるいは、数値化できるようなリハビリテーションの結果を出していくことを強く求められるようになっていく。

そうしたときに、一から十まで全部自分でできる作業療法士になっておいたほうが良いと思う。

ぶっちゃけ、医療費を削りたかったら、病院が中抜きする余地をなくせばいい。

作業療法士や理学療法士に開業権を認めるのが一番、無駄なお金が無くなるし、能力のないセラピストを競争原理によって排除することができる。

もし、今後そうした流れになっていくとしたら、作業療法は評価や介入を行うだけでなく、マネジメントや関係調整などを行う能力をしっかり磨いていかなければならない。

むしろ、作業療法は、分析しなければならない変数も、扱う変数も非常に多くて、それらをどのように統合するかということもかなり重要になる。

あるいは、どのような職場で働くかにもよるけれど、職場のなかで作業療法士は自分ひとり。

それでも、周囲からは専門性を発揮して価値を生み出すことを求められる。

そんな状況は今後ますます拡大していくものと考えられる。

作業療法の顧客を国ではなく、きちんと目の前の対象者に引き戻すためにも、まずはきちんと結果をだして、国のシステムに頼らなくてもやっていけるような価値の構築に努めていく必要がある。

これからの作業療法士には、基礎臨床能力のみならずマネジメント能力も必須となっていくことは、ほぼ間違いない。

そう思うのでありますが、あなたはいかがお考えでしょうか。

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生活の中でちょいちょい頑張れたら最高!

人間は単純に、続けると言うことが苦手なようです。
一つのことをやり続けて結果を出す人は、世の中で一目置かれるんですが、裏を返せば、みんな何かと途中でやめちゃうんだと思うのです。

これがなかなか出来ないから、作業療法士の出番なんです。

自分自身の弱さと向き合うことができる人は、いろんな問題に対処することに長けていますよね。

って言ってもピンとこないかと思いますので、例えば、ちょっとした頭の体操です

お皿を割ってしまった時に、あなたはどんな反応をするでしょうか?

①割ってしまった事実にいつまでもくよくよしますか?

②すぐに、片付けを始めますか?

③あえて、すぐに片付けないで、一呼吸置きますか?

この例で言えば、生活の中で結果的にちょいちょい頑張れる人っていうのは、②の人です。

問題を先送る習慣や要素がないので、問題を整理する手間がないのです。

ということで、継続に支援が必要な人は①、③の人。

①の人は、効率が良くないかもしれませんし、取り組んでいる時もストレスが継続し続けています。

こんな状態で問題解決のみに焦点を当て続けるのも問題ですよね。

③の人は、問題解決できたりできなかったりすると思います。

一旦問題と距離をおくことで、整理をつけることは大切ですが、しかし、問題解決しないといけないという事実そのものが頭から消え失せてしまうこともあります。

あるいは、事実の否認というか、問題から目をそらし続けてしまうということもあると思います。

忘れた頃に、片付け忘れたガラス片が足に刺さって痛い思いをしないように、なんらかの適切なサポートが必要になると思います。

作業療法士は、生活の中の問題を解決します。

この時、「片付ける」という問題解決のみに焦点を当てるのではなく、その前後の情報を読み解いて、精神面と環境面を考慮しながら、生活に必要な行動が最適化できるように支援します。

さらに言えば、②の人にもできることはあったりして、そもそもお皿を割らないようにするためには、どんなことに気をつけたらいいか、何を身につけるべきか、そういうことは一緒に考えられると思います。

今流行りの予防の観点ですね。

一番、耳を傾けるのが難しいやつです。

実際に問題が起こっているわけではないので、自分の問題として想像力を働かせる必要があるからです。これは①の人にも、③の人にも当てはまると思います。

さて、自分の弱さに向き合えるということの話でしたが、以上のような事柄について、実際に自分がお皿を割ってしまった時や、あるいは割ってしまいそうな可能性がある時に、そのことに対して聞く耳が持てること、それが自分の弱さに向き合える強さということになると思います。

具体的なようで象徴的な話になってしましました。

が、お話したかったのは、介入するべきポイントは異なるし、それを適切に伝えるのはかなり難しいということです。

作業療法士は、各個の問題に対して、様々な切り口の中からもっとも適切と思われるものを選択し、対象者の方へ提案します。

その時に、絶対に踏まえておかなければならないことは

  1. その介入は、その人の問題を解決するか
  2. その介入は、その人の生活に組み込まれているか
  3. その介入は、その人の個性にあっているか

の3つです。

体の障害であっても、心の傷が原因で前に進めないことがあります。

その人が社会に復帰したり、家に帰ってからの生活に連続していないリハビリテーションは、果たして本当に復権につながるでしょうか?

一般的なやり方では、難しい時、その人の特性や個性がきちんと踏まえられていないのではないでしょうか。

良い作業療法とは、人に自分の弱さと向き合う勇気とゆとりをもたらし、本人ができる範囲の挑戦を、日常生活の中でちょいちょい行えることだと思います。

それを、うまく軌道に乗っけることができる技術を持った人が、作業療法士だと思います。

そんな作業療法士には、技術も理論も実践も、対人コミュニケーション技術も、どれも第1級のモノが要求されます。

一見矛盾するようですが、一生かかっても到達しないものと割り切って、それでも高みを目指して日々研鑽を積み重ねるしかないと思います。

タイトルにも書いたように、毎日ちょっとずつ、が大切だと思います。

最後に

最初の割れたお皿の話で言えば、清掃業者を読んでプロに代行してもらうという手も実はありますよね。

しかし、お皿が割れるたびにそれを行ってばかりというのも、費用面からも現実的ではありませんし、何より本来その人ができたはずの能力を発揮する機会を奪っているという風にも考えられます。

お皿を割った事実に向き合う具体的な体験をする機会もなければ、今後お皿を扱う時に同じ失敗をしないようにするという責任感も湧きにくいし、それは人間的な成長を妨げる要因と捉えることもできます。

リハビリテーションと称して、そういうことをしないように気をつけなければならないと思います。

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精神障害領域における患者様、デイケアや授産施設の利用者様の喫煙率の高さとタバコの害について思うこと

タバコの害については、小学生もなんとなーく知っている昨今。

タバコなんて二十歳でやめるものとうそくぶく若い頃にやんちゃしてたお姉さんに自動車教習所で出会ったのは個人的になかなかの衝撃でしたが、結構的を得ているのかもしれません。
精神保健の領域で働いている方はご存知のように、精神疾患を長年患っておられる方は、喫煙者が多いです。
そういう方の喫煙の実態を知りたくて、ついに筆者もめでたく二十代半ばにして、喫煙者の仲間入りをして思ったことがあります。
「タバコなんて、吸うもんじゃない。」
でも、やめられない。
気がついたら吸ってる、っていうわけでもないのですが、地味にタバコミュニケーションというか、タバコミュニティに依存している自分がいます。
結構いいんですよね。
タバコを吸いながらの会話って、結構構えずにいろいろなことを話してくれるんで、こちらもついつい多用してしまいがちです。
口さみしいだけじゃなく、寂しさを感じている人は、タバコをやめられなくなっていくのかなあと、そんなことを感じる日々です。
因みに、私は1日5本程度の喫煙量で、仕事のない日には、全く吸わないのですが、環境に置かれると、ついつい吸ってしまいます。
本当の依存は、実はそっちなんじゃないかと思うのです。
でもまあ、こんな記事もありますし、
三十代前半にはやめたいと思います。
で、そのノウハウで、禁煙プログラムなんかやったら面白いんじゃないかと思ったりしてます。

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