なぜ「作業療法士でガンガンやってる人は、研修会を大切にする」のか

作業療法の世界で活躍していると目されている人は、作業療法士の本業と一緒に、研修会を主催したり参加したり、飲み会を企画したり、なんか色々やってますよね。

なんででしょう。

知り合いが増える

他の仕事でも一緒ですが、人との繋がりが活かせる仕事です。

外の人をどれくらい知っているかで、仕事の進捗が変わりますから、必然そのような場に行けるかどうかってのは非常に大きなポイントになるんだと思います。

後述しますけれど、知り合いが多いほど、その人から受ける刺激も多面的になり自分自身の成長にもつながりますし、逆に自分自身がスキルを発揮して、自分の活躍の場所を広げるきっかけを作ることにもなるのではないかと思います。

知識のアップデート

作業療法士の知識は、他の医療職がそうであるように更新しないと錆びます。

錆びるというのは、通用しなくなるということです。

以前、王道と言われていたやり方は、むしろ害のあるもので推奨されないということになることすらあります。

そういう情報は、現状研修会などで、先端の情報を持ってる人に接触しないと得難いというのが現状かもしれません。

お金になる

これは主催したり、主催者から読んでもらえる側の話になるのですけれども。

生活が成り立つまではいかないと思いますが、講演すれば謝礼がもらえるし、主催して人が集まるならば、その繋がりを生かして、新しい企画を進めたりもできるというわけです。

そのつながりで本を出版したりとかすれば、それで印税が入ってくるわけですよね。

お金ってのは、自分がやりたいことを貫くための原動力です。

やりたいことがたくさんある人は、そのことがわかっておられるのかなと思います。

自分自身という人間の器を強化する

先ほどの卒後教育の話とも一部重複するかもしれませんが、一つの職場で必死になって仕事をしていると、視野が狭窄してしまいがちです。

幅広い視点を持ったりとか、柔軟性を失わないとかいった意味での、自分自身の人間としての器をより大きなものとする、またそれを維持するためには、新しい人との出会いや、新しい事柄への挑戦というのは非常に大切です。

リハビリテーションの本質は、変化に対する挑戦であり、作業療法の本質の一つでもあります。

だからこそ、職業人としてはもちろん、さらなる人間としての成長を目指して、仕事のできる作業療法士こそ、色々なところに飛び回っておられるんだろうなと思います。

自分の知見を広める

作業療法士としての仕事で一番難しいと感じるのは、自分の治療経験や体験を一般化して、他の作業療法士にうまく伝えたり、他の職種や家族に対して、適切な深さで説明ができることです。

新卒の頃に比べれば幾分かできるようになったという自己評価ですが、それでもまだまだ、「相手目線での説明」はできていないように思います。

自分の理解を、自分の言葉で整理し、それを他者に伝える。その人から帰ってきた意見を消化して、相手に伝わるように言葉を返す。

この繰り返しの中で、新しい気づきが得られたり、自分の知見を広めることになります。

これからの作業療法士にはこの能力を徹底して強化していくことが必要なのではと感じています。

コラム やっぱり人材不足

研修会のモチベーションの話とは少し外れますけれど、やっぱり大事な話なので作業療法士の人材不足、特に外に出ていく作業療法士の数は、やはりまだまだ足りていないというふうに感じますという話を書かせてください。

なぜかといえば、自分の周囲で作業療法士の活躍を、一般の人から見聞きすることがないからです。

作業療法士という職業について知っている人は、医療関係の仕事をしたことがある人が圧倒的に多いという状況は、私が就職してからの数年間全く変わっていません。

作業療法士自体の数は増えているにもかかわらず、です。

これは、組織の後ろ盾なくとも、社会に打って出られる水準の作業療法士の数が十分でないというふうに見るのが妥当です。

であるなら、もっと作業療法士は、色々な研修会に出ていく必要があると思っています。研修会に参加する人って結構同じ顔ぶれだったりするので、いくたびに違う人がいるってなると、その研修会自体も面白いし、職場の空気感も変わるかもしれないし、作業療法業界も変わるかもしれません。

その辺、全ての作業療法士がMTDLP(生活行為向上マネジメント)なんかをうまく使って繋がれればいいと思うんですけど、どうもそうなっていないのが現実です。

これはやはりサラリーマン作業療法士が多いことと、MTDLPの学習コストが高いことにあると思います。

便利なテクノロジーがたくさんあるのですから、その辺をうまく活用して、忙しい作業療法士でも手軽で安価に勉強ができるような環境を整えることで、必要な武器をしっかりと持って自信を持って地域にうって出ることができる、そういう作業療法士が増えたらいいな、と個人的には思っております。

そのためにこのサイトを活用してもらえたらいいなというのも個人的な思いですね。

ライフワーク

研修会に参加するのが癖になっている人も、いるのではないかと思います。

抜けたくても抜けられない的な。

これも、一種の人材不足でしょうか。

 

総括

こうやってずらりと見てみると、やはり研修会への参加を検討するのは、「作業療法士として成長したい」という、何らかの思いがあるからではないかと思います。

そして、作業療法士として自信を持って活躍している人は、自信を持ってひとの集まるところに行ってますし、研修会は結局のところそのうちの一つでしかないということだと思います。

逆説的に、自信を持って作業療法士をやっていきたいと思うなら、ライフワークになるくらい、自分で研修会に関わっていくくらいのことが必要になるのかもしれません。

しかし、作業療法士として必要な技能の全てが研修会で補えると思いませんし、むしろそれらを追求するなれば、学術的な視点の外側から、作業というものをしっかりと突き詰める必要があるように思います。

コラム 作業の「底」

「底」っていうのは、基盤ですね。

いろんなところで、いろんな遊びを具体的にやっておくという経験が作業の底になると思います。

とにかく、都市部で育つと遊びの幅が狭くなりがちなので、この底をどのように固めるかってのが、作業療法士として楽しく働くための、一つの鍵になると思っています。

まとめ

研修会に行っとけば、研修会に行かないよりは、作業療法士として成長できる。

しかし、作業療法士としての成長は研修会にいくのみにあらず。

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OT評価実習生:OTSにOT五年目が感じた 実習中の成長を左右する要素の「ヤバさ」

短期(評価)、長期(総合臨床実習)に関わらず、実習中の学生目線だと理解できることがあります。

一方で、経験年数が増えて、経験値もそれなりに増えると、ここ最近はじめて感じることがありました。

その2つの間のギャップの話です。

「何をしに、実習にきたの」

実習を通して、成長する学生と、

あまり変化なく帰っていく学生との間には、いろいろな違いがあります。

その違いは、普段の臨床にも通じる大切な「違い」だと思っています。

後者の学生がよく言われるのが、

「何しに来たの」

です。

これが、その理解のためのキーワードであるように感じています。

何のための実習かがわからない

「実習に行くことになっているから、実習に行く」

という学生が少なからずおります。

実習のための実習、実習が自己目的化している学生です。

こういう実習生が、上記のような質問を実習中に繰り返しぶつけられて、あまり成長なく、実習に対する傷つきだけを感じて帰っていくことが、ままあります。

そのタイプの実習生は、なぜ生まれるのでしょうか。

そしてなぜ、実習生は傷つくのでしょうか。

作業療法学生:OTS目線での実習

申し訳ないのですが、引用できる資料もないので自分語りになります。

でも、自分の学生時代、OTSのときの実習を振り返ると、その傷つきのヒントにはなると思います。

学生の頭の使い方の典型とおもうのですが、

「学校で学んだことを、臨床で生かす」

という思考回路があります。

学生の作業療法観は、授業の中の情報や、講師の話によって構成されます。

それのみによって構成されていることがほとんどではないでしょうか。

すると、学生の行動原理は、

「いままで自分が学んできたことを実践してみること」

になります。

そして、それができることによって、実習が合格となるというモデル(妄想)が頭にあります。

これが、実習の為の実習であると、臨床家のOTRのみなさまから批判されるところだと思いますが、学生の側からすると、むしろ自然ながんばり方なのではないでしょうか。

それなりに臨床経験のある作業療法士:OTR目線での実習

一方で、かつてOTSであった作業療法士:OTRの側に立つと、今、実習で学生に求めることはシンプルです。

目の前の対象者に対して、いち作業療法士、いち臨床家としての今の自分での最善を尽くすこと、です。

作業療法士として、実地で経験をかさねていくうちに、自然と評価できるようになることはたくさんあります。

それは、養成校で学ぶこともたくさんありますが、養成校で学ばない、学べないこともたくさんあります。

身体障害領域で例にとると、ポジショニングの常識も日進月歩です。

かつては、

「隙間をうめる」

がポジショニングの王道でした。

しかし、やり方をまちがえると、日々のポジショニングの積み重ねが屈曲拘縮をつくりだしてしまうということがしられるように、徐々になってきています(多分知られて来て、浸透していると信じたい)。

別の例で言えば、かつて推奨されていた、教科書にも載っているような、移乗の方法が、実は自立度の低下につながる場合もあります。

このような学びが、学校でできたか。

告白します。

私個人の経験からすると、不真面目な学生であった私はできておりませんでした。

そして、その学びは、先進的なものであればあるほどに、教科書中心の座学授業の中では決して学ぶことができない、臨床による技術的なものや、それに基づく評価であったりします。

それは、国家試験を念頭に置いたものではない、日々の臨床、実践を念頭に置いたものだからです。

作業療法に正解はありません。現在地点が人それぞれで、ゴールも人それぞれだからです。

かつての正解が、状況によっては不正解になることもありえます。

そのことを、経験値として知っている作業療法士ほど、OTSに対して、将来の臨床家として、今現在の最善をつくすことを求めますし、実習とはそのようにするべき場所だと思っています。

だからこそ、臨床家として、実習態度がどうのこうの言うわけです。

それが臨床の結果に直結することを、経験則として痛いほどわかっているからです。

つまり、作業療法士:OTR目線での実習とは、

「実習中の事象から、素直に考えて、行動すること」

だと感じていると思います。

自分はそう感じるようになってきています。

このギャップ 「ヤバい」

実習の指導は、OTSとスーパーバイザーであるOTRの間の事象なので、目指すべき場所が共有できてないとこじれます。

作業療法士の側としては、自分の目線から、上記のような学生の実習への取り組み方を見ていると、

「なにしにきたの」

となるわけで、それを学生に伝えます。

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言われたOTSは、なんで自分がそんなことを言われるのかも、わけがわからず、萎縮してしまい、その結果としてスーパーバイザーが求める実習態度から乖離していき、その度に「なにしにきたんですか」といわれるという悪循環が生じてしまいます。

その結果として、実習中の表出が制限され、なにもかわらないままに実習終了、お疲れ様でした、となるわけです。

自分の理解としてはこういうパターンは少なくないと思ってますし、間違ってないと思います。

作業療法士としての仕事時間のほんとうに貴重な時間の一部をボランティアの実習指導に費やして何も学生が成長しないままに実習終了するとか、本当に悪夢でしかないのですが、少なくないと思います。

正直、やばいなーとおもいます。

やばいなーと思いませんか。

では何でこういうことがおきるのかというと、上記を踏まえるとOTSとOTRの双方に要素がありそうです。

作業療法士の労力に見合った分、学生がたくさん学んで、成長して帰るようにするには、どうしたらよいでしょうか。

OTSは、自分の将来像を考えると幸せになれる

いろいろあるけれど、たとえば。

実習に来る前に、どんな職場働きたいのかは、なんとなくでも決めておくことです。

べつに後で変更したってかまわないので、自分はどんな領域のどんな場所で働きたいのか、それを明確にしてそれをスーパーバイザーであるOTRに伝えることです。

そして、そこで働くためには、自分はどんなことが必要と考えているので、どんな学びをその実習で得て帰りたいかということまで明確にできると、将来の自分のために動けるので、多少能動的になれるかもしれません。

自分なりに、自分自身について、実習に行く前に真剣に考えておくことが、実習前に行う準備として必要だったのかなと思います。

自分の将来像について、明確にできるといろいろ幸せになれそうな気がします。

作業療法士が学生時代の自分の体験(忘れたい?)を思い出す

本当に真剣に取り組んでる作業療法士ほど、日々の臨床がとんでもなく忙しいので、かつての自分を振り返る機会なんてありません。

今の自分の感覚や感性を基にして学生と関わるので、上記のような問題が発生するのではないでしょうか。

過去の自分を思い出してゾッとすると、目の前の学生が少しは可愛く見えるかもしれません。

いち作業療法士として学生目線をいつか忘れる恐怖

個人的な感覚ですが。

学生のことがいつかわからなくなるのが怖いです。

そのリスクは、自分が作業療法士として経験を重ね、成長するほどに高まるものだと思います。

学生のことがわからない作業療法士は、その学生の3年後を見据えた効率のよい指導や助言ができないのではないかと考えています。

後進育成のへたくそな作業療法士にはなりたくないので、いつか自分が今の自分の感覚だけに頼りすぎることが非常に恐ろしいです。

謙虚に

自分のことは棚に上げないと指導ができない場面は、確かにあります。

だからといって、それが行き過ぎて、かつての学生時代の自分の不出来と乖離したような実習目標を学生に負わせるのは、あまりにも雑な指導だなと、自分と学生とのかかわりを通じて思います。

養成校側から、よく言われる

「学生を患者様だと思って指導してください」

というのは、

「患者様に関わるときと同じくらい謙虚な気持ちで」

と自分なりに読み替えることにして、学生の成長を自分の糧にもできたら、自分はより良い作業療法士になれるかな、と考えています。

そうしておけば、学生にも謙虚になーれ、と指導しやすいです。気持ち的に。

互いを知れば「ヤバさ」は軽減できる

認知症の方への介入は、相互理解の促進にありますよね。

OTRとOTSの関係も同じではないかと思うので、この記事を書きました。

すこしでも「ヤバさ」が軽減されれば幸いです。

やり取りがしたい

こんな独善的な文章を読んでくださり、ありがとうございました。

よんでくださっている皆さんは、なにかしらおもところがあるはずです。

なにか気になる点がありましたら、LINE@をやってるので、そちらでメッセージ飛ばしていただければ、私自身の学びになりますので、よろしくお願い存じ上げます。

作業療法.netのLINE@アカウントはこちら

特に学生諸君の等身大の意見があると非常にうれしいです。

わからなさや不安があれば、質問していただければ、答えられる範囲でクローズドにやりとりします。

年取ると頭が固くなるな、と感じる今日この頃です。よろしくおねがいします。

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目に見えないことを取り扱う難しさと重要性 作業療法士に求められること

ぱっと見やその瞬間の事実だけでは、うまく解決できない事柄にうまくアプローチ、介入して解決への方法を模索できることは、とても大切です。

たとえば、認知症の方の問題行動を、さまざまな文脈からとらえて、ご本人との共感をヒントにしながら、問題となる行動がなぜ起こるのかを整理することは、ご本人のQOLを向上させるだけでなく、その周囲の人たちと本人のつながりを健全に保ち続けるためにとても大切です。

こうした目に見えるところだけを基にしてアプローチしても解決しにくい問題を、目に見えない要素を加えて解決に導くことが得意な作業療法士は、本当に尊敬しています。

そしてこれは、作業療法士の重要な専門性のひとつだと思います。

「見えないこと」を根拠に行動するのは難しい

作業療法士は、目に見えないところが情報として集約できるので、具体的な提案ができます。

またまた例えば、認知症の方への周囲の人たちのかかわりを考えてみましょう。

周囲の人が認知症の方の特性がわかっているかどうかはもちろん重要なのです。

しかし、それは作業療法士の専門性として言い切ってしまってもよいくらいに、むずかしく、ハードルが高い事柄だと思います。それに、わかっちゃいるけどできないということもあるでしょう。

発達障害のお子さんと親御さんにも同じようなことが言えます。

家族などの周囲の人の言動、普通は害や悪影響よりも、メリットが大きいと思われるような言動が、本人の問題行動を引き起こしていることは、日々の臨床のなかでよく見ます。

良かれと思っての行動が、当人に対するストレスやプレッシャーとなって、二次障害を引き起こしていることもままあります。

それは、周囲の人が思うその人と、本人の人となりや個性・障害の間に大きなギャップがあるからです。

そして、それは目は見えないものであることが多いです。

たとえば、精神障害は目に見えません。

具体的に見えるのは、その人の表情、行動です。

それらを総合して、適切な判断をするには、情報や知識や経験が必要ですので、まず判断することがむずかしいです。そして、その判断をもとに実際に行動を起こせるかというと、それはさらに難しいです。

作業療法士が「可視化」することの重要性

だから、作業療法士は、

「こういう関わり方をすると、うまくいった」

という経験を周囲の方にしてもらえるような提案ができることが大切と感じています。

理由や理屈はとりあえずおいておいて、

「やり方しだいでなんとかなる」

という感覚を本人も周囲のひとも得られるような具体的提案ができると、まずまずな作業療法ができたといってよいかな、と自分自身に言い聞かせています。言い聞かせます。

だから、作業療法士は、その人の生活における困りごとを整理し、解決するための方法を提案するために、きちんとその方の目線に立って、同時に客観的に評価を行い、目に見えないことを情報化、可視化することとても重要で、それが求められていることであると思います。

求められるのは作業療法士の評価を共有すること

また、すぐに解決できなくても、状況をきちんと整理して評価を対象者の方やその周囲の方と共有する、そのこと自体の意義も大きいです。

それは、

「なんだかよくわからないけど困ってる」

という状態を整理できるだけでも、

「『わからないこと』がわからない」

という混沌とした状態を脱することができ、

目標やゴールが明確になります。

つまり、問題解決への道筋が明確になります。

「なんだか困ってる」を「ここが困ってる」へ

同じ暗闇のなかでも、真っ暗闇とトンネルのように、目指すべき明かりが見えているのとでは、人間の感じるしんどさはまったく違うものです。

骨折や麻痺などの身体的なリハビリテーションにおいても同様のはずで、

「これがしたい、だけどあれが問題だ、だからそのためのソレ(治療介入・プログラム)だ」

という説明が丁寧になされているかどうかは、回復の度合いに大きく影響すると思います。

患者様の主観としては、

「これまでどおりに、服を着ようとしたら着れない」

のであって、

「過剰努力によって連合反応が起こって、結果として重心が支持基底面から出てしまう」からでもないし、

「ギプス固定および三角巾による固定による運動制限によって、僧帽禁や広背筋などのビッグな筋が短縮して関節可動域が小さくなっている」からでもありません。

そういう、「みえない」「わからない」ところを、いわゆる専門的な知識をもとにして、どれだけ作業療法の対象者の方の主観とすり合わせていくか、問題の認識の合意に至るかということが、治療効果の有無を分けます。

そして、それがエビデンスのある作業療法につながると思います。

ようは、説明責任を果たすってことです。

コンパクトに伝える

主観とのすり合わせにおいて、専門用語を羅列してもらちがあきません。

専門用語を使わなければならない必然性もありません。

対象者の方が、理屈を感覚で理解できればよいのです。

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それが可能になる程度にフラットな表現でコンパクトに伝えましょう。

そうすることで、介入の中での確認が時間をかけずにつどつどコンパクトにできます。

事象の整理は作業療法士の専門性

繰り返しになりますが、「見える化」は、作業療法士の専門性の重要な柱だと思います。

何がその役に立つのかは本当にわかりません。

自身にとって趣味や、遊びの範疇の経験が、相互理解を助けることに役立ったりします。

自分の経験をフル活用して、知ろうとすること、

普段からいろいろな経験を、自分の学びにすること、

これらが作業療法士の「見える化」をスムーズにし、仕事をよりやりがいがあって面白いものに変えてくれると思います。

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キーワード「MOHO」でgoogle検索したら、OT関連じゃなかった件

あかんやろ。

MOHO大事

MOHOもとい、人間作業モデルって、作業療法士的には大事ですよね?

Model of Human Occupation ってだいじですよね?

大事でしょ?

あんまり大事じゃないかしら。

作業療法関連の概念の中では、結構重要な理論だとおもってただけに今回の検索結果は結構ショック

と、同時に結果が妥当だと思う自分も嫌い。

google検索結果

今回は、キーワード「MOHO」で普通にgoogle検索をかけました。

ふと検索したんですよ。

そして、その検索結果1ページ目は以下のような感じ。

src_moho.png

ご覧のように、1ページ目にはまったく出てこない。(2017/09/29現在)

2ページ目でようやく登場する。

これは、いかに、一般に作業療法が浸透していないかを、証明してしまっている。

そう受け取らないといけないと思いました。

危機感MAX

一般の人が検索することはまずないでしょう。

作業療法のキーワードで、どの程度の検索があるのかも微妙です。(あれも、ヒットするのは養成校の広報HPがほとんどです。インターネット検索対策をきちんとやってるサイトが多いためと思われます。)

ですが、ふと違った考えが浮かびました。

学生とか、作業療法士もひょっとして、あんまり検索してないのかなあーなんて思いました。

そもそも、人間作業モデル授業で触っただけっていう人も少なくないかもしれません。

でもそれだと、ほかの理論を学ぶときのコストも大きいし、作業療法をうまく説明できるのかも正直不安になります。

インターネット上に有意義な情報がなかったら、確かにそもそも検索する気持ちも起きんですね。

自分自身振り返ってもそうかもしれません。

MOHOの解説書きます

だから、MOHOの解説文を書くことにしました。

言い訳しておきます。

いろんなことと並行作業になるので、すぐすぐには公開できないと思います。

でも、きっとこのページを見てくださっているまじめなOTさん達や、作業療法の貴重なフォロワーの皆様におかれましては、多分、何らかの需要はあると思いますので、なるべく早く仕上げたい。

完成がいつになるかはわかりませんが、年内には書き上げたいなあ。

年末忙しくなるので、実質あと一ヶ月以内に、原稿はまとめないと年内は厳しいかもですが、ちょっとこのgoogle検索の結果はアカンと思うので、その気持ちをモチベーションにがんばります。

自分自身を追い込むために書きます。

がんばろう。

がんばれるかなぁ。

がんばります。

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漫画「マギ」が、壮大な自己決定の話だった件

作業療法関係ない作業療法の記事。
漫画大好き。
漫画は、経験したことないことでも、ある程度の想像の余地を残しながらわかりやすく提示してくれるのでいいですよね。
この記事は、サンデーで連載中の漫画「マギ」の壮大なネタバレが含まれているかもしれません。
コミック派の人は注意してください。
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©︎小学館 / 大高忍
本日、発売のサンデーに掲載されている「マギ」がとてもいい意味で衝撃的だったのです。
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自己決定の話を重くなく、かる〜く、でも本質を抑えて提示していて素晴らしかった。

自己決定の重要性

先進的なリハビリテーションでは、当たり前に主張される「自己決定」の重要性。
特に、精神で強調されることが多いですが、作業療法やってる上では避けて通れない話題です。
それに関する本もいろいろ自分なりに読んで勉強したりとかもしてたりするんで、ちょっと詳しい自負はあるし、日々の臨床で常々ぶち当たる話題でやっぱり重要だなと思うんです。
自己決定。
自己決定重要。
これがないと、生活を見据えたリハビリテーションも、生活につながる作業療法も絶対にできないという確信があります。

自己決定の重要性を伝えるのは難しい

でも、自己決定についてのフランク(平易)な説明って難しいんです。
そもそも、自己決定って言葉がまず硬い。
ハードル高いと感じちゃう。
読んで字の通りで、自己決定とは
「自分で決める」
というそれだけのことなんですが、どうしてなかなか、
その重要性を論じる
となると難しい。

「マギ」は名著

こっからちょっと読み飛ばしていただいて構わんのですが、話変わって、あまり、そんなに名作だと思える漫画がないんですよ。最近の連載。
最近の漫画は、昔の漫画の焼き直しだったり、等身大によりすぎて何を描きたいのかがよくわからないテーマのぼやけた漫画ばっかりだったりするのです。
そんな漫画ばっかりの昨今において、ファンタジーものでここまで、普遍的かつ、重要な人間の特性を掘り下げた漫画はあんまりないと思ってます。
人間を描くのが、いちばん面白い漫画のあり方かなーと思うのですが、それができてるのが「マギ」だと思います。
少年漫画なのに、ダークですし、大人こそ読んでて刺激的だと思います。
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©︎小学館 / 大高忍

ストーリー

ついでに、ストーリーも。
ファンタジーです。
アラジンとアリババというダブル主人公が冒険しながら、人間的に成長する話。
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©︎マギ製作委員会、MBS 小学館 / 大高忍
最近は、世界の破滅から世界を守るために、いろいろするという話です。
「いろいろ」は、自分で読んでください。

以下、自己決定の話とネタバレ

文章力無いので、読んで面白く無いと思います。
読み飛ばしていただいて結構です。
最近は、
神というか、世界のルールを設定している管理人と喧嘩してます。
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©︎小学館 / 大高忍
意味不明ですね、はい。
読んでください。
で、その神が、シンドバットとダビデっていう人に書き換わってるんですが、その二人は「属性」として特異点という役割が与えられているんです。
「運命」が見える、という設定なんですね。
つまり、絶対預言者というか、「必ずこうなる」というのがわかるということです。
で、運命の言いなりになるのが嫌だっていうので、自身を特異点に設定している世界の枠組みをハックして、運命の枠組みから外れようとします。
運命をハックしたことで、「人類補完計画」が発動します。
よくある、世界から個々の人類が滅亡する流れですね。
ダビデさんの行動原理としては、鋼の錬金術師のホムンクルスのアレです。
自分が高みに登るためには、なんでも利用して、エネルギー源に変換してしまえというわけです。
で、その目論見の過程で発動した「人類補完計画」をストップさせようというのが、先々週までの流れ。
そして、その危機的状況を打破するために、一人の強力なリーダーを選出する方法論の提示があったのが先週。
ちなみに、神代理のシンドバットさんが直指名。
そのリーダーは、アリババくん。
以上がここまでのあらすじ。
ここまで読み飛ばして結構です。

以下が大事

そして今週、解答編。
強力な預言者に、リーダー指定されたアリババくん。
その指名を派手に蹴ります。
かなり、表現は変えてますが、
曰く
「もっともらしい意見だけを元にして、結論が不確定な状況で、結論決めつけてどうするの?そうならない可能性は、十分存在する」
「別の問題が起こった時に、自分で意思決定してなかったら、自分で決めなかったんだからしょうがないって思うだけでしょ」
「そろそろ、自分の言動は自分で決めません?」
「だから、リーダーなんて引き受けません」
要するに
「ちゃんと自分で決めろ」
って、主人公じゃない人々に促したところで、今週の話は終わりました。

自己決定はなぜ重要か

上記のアリババ氏の発言に、自己決定の重要性の全てが詰まっているように感じました。
結論を「偉い人とか、規則がそうだから」と飛躍させて、自分自身での決定をしないと、その人は自分で責任を取って生きるということができなくなるんですよね。
本来、人が生きるということは、自己決定の連続で、だからこそ、何か問題が起きてもその状況を自分のものとして引き受けて、新しい自己決定や行動につなげることができるんですよね。
あくまで、みんながそうというわけでなく、傾向の話ですけれど、輝いて生きてる人たちはやっぱりしてますよね、自己決定。

患者様とかに読んでほしい

作業療法士ベテランの皆様は、自己決定の重要性はわかっていながら、どうやったらそれが伝わるかに苦慮する場面もあると思います。
若い漫画好きの患者様には、わかりやすくていい教材だと思います。
患者様だけでなく、自己決定の重要性がいまひとつなひとにも是非読んでほしい。
自己決定の重要性がわからないと、人権の意味もイマイチピンとこないはずですし、でもその重要性ってイマイチわかりにくい。
わからないと、リハビリテーションや作業療法の破綻や、人権侵害にもつながる。
自分が決定することの大事さがわかれば、相手を尊重することの大切さや価値もわかりますから、人間関係ももっと円滑になるし、自分で自分の治療の選択に積極的になれるし、パターナリズムも無くなるし。
大事だなーと思います。
ファンタジーを読んでたつもりが、哲学書やら自己啓発本の中核的なエッセンスを不快感なく取り込める名著ですので、ぜひ読んでください。
あるいは、待合室に買ってください。
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作業療法の自由度の話

作業療法士っていう職業は問題解決してなんぼという側面があります。

結構若手というか経験不足なうちは、なんとなくそこであせるというか、もがく気がします。

私も例に漏れず、対象者の方にとっては、大して意味のない変化を出して自己満足したりしちゃうこともあったような気がします。これが自由度の罠ですね。

自由度の罠

無意味じゃないけど、本当はもっと重要なことがあるんじゃないのっていう。

なんかやれば、なにかは必ず変わるんですから、何かを変えることが重要なのではないのです。

優先されるべきこと

何を、何のために、どのように変えるのか。

それを対象者ご本人が、どのようにうけとめるのか。

それが、一番大事なことなんですよね。

ついつい、問題解決してなんぼっていうのが、自分のなかで大きくなりすぎると、えてしてそういう臨床におちいりがちです。

手っ取り早く解決できる問題に飛びついてしまうという。

でも、そういう臨床ってほんとの意味でのリハビリテーションと違っちゃってることもあるように思います。

リハビリテーションと魚

有名な、OTの先輩方は大体知ってるエピソードなのですけれど、ごぞんじでしょうか。

「魚を与えるよりも、魚の取り方を教えよ」

魚を与えて満腹にしたら、依存が生じることもしばしばです。

お金儲けがしたいなら、それも悪くないですが、リハビリテーションがしたいなら、ちゃんと腹減ったときのコーピングをティーチングする必要がありますし、もっといえば漁獲以外の選択肢を考えられるようコーチングするべきです。

それが、ちゃんとしたリハビリテーションだし、作業療法の自由度ってそういうことのためにあるんじゃないでしょうかね。

それを、なにか結果出さなきゃ、問題解決しなきゃと、すぐに解決できる問題の解決ばかりを繰り返していたら、そりゃあ苦しくなってきませんか。

同じことの繰り返しで。

これが自由度のワナです(繰り返し)

一緒に遊んでるだけ?

作業療法士さんは遊んで点数もらえてすばらしいといわれることもあるようです。

特にベテランOTだと、はたから見ると、そばに寄り添ってるだけで何にもしてないように見える介入もあります。

さっきの魚の話になぞらえると、一緒に釣り糸を垂れてるだけという感じでしょうか。

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っていうのも、要所要所支えてないとその人の生活やらなんやらが成り立たないという評価がきちんとあった上でほんとに要所要所しか介入しないと、一部分だけ切り取られると何もしていないように見えるんですね。

おおむね大丈夫なんだけど、不意によろけて海へ転倒転落しそうになる人とかの場合は、こけそうになったとこだけしっかりと支えればいいのです。釣竿がひいてるときとかそうかもしれません。

過剰なお手伝いは依存を作り出しかねません。

相手と対等であるためには、相手と同じように同じことをするのが一番なんですね。

そして、本人以外へ

それから、対象者の方本人に対して何かをすることだけが作業療法ではなく、釣竿使いやすい長さに調整するとか、リールは自動巻きのにするとかといった環境調整やら、つった後の魚の運搬や鮮度管理調理といった前後の連絡調整とかの段取りをするとか、そういう部分のほうが大事だったりしますよね。

それは、その人がどんな生活を送りたいと考えていて、どのような生活を目指してリハビリテーションを進めていくかによって、作業療法士がやらないといけないことは大きくかわるんで、それがいわゆる作業療法の自由度なんだと思います。

作業療法 ≒ コンサルテーション

だから、作業療法ってコンサル業とか、マネジメント業務に近い要素が多分に含まれていて、お勉強がそこそこできて、大局的に自分の業務が把握できないとこなせない仕事なのかなとおもいます。

問題解決する前に、どの問題から手をつけるのかを、対象者の方と一緒にしっかりと吟味できないとなかなかつらい仕事なのかなとも思います。

プラスアルファ、必然自分で考えることが必要になるので、そういう意味でも能力が必要です。

お給料的には絶対に割に合わない仕事です。

作業療法に完璧は定義できませんが、少なくとも自分が知ってる第一線クラスのOTさんたちは、能力に見合った給料をもらってません。ほかの職業ならもっと稼げています。

でも、あえて作業療法士やってるってのが、一番の自由度かもしれません。

そういう作業療法士さんのOTは、対象者の方にも非常に高い自由度をもたらしているように思います。

自由度を使いこなしてこそ、作業療法士ですよね。

そういう作業療法士に、私はなりたい。

こっぱずかしいことを書き連ねて、記事は以上です。

蛇足:魚の話は、実は出所不明らしいです。知ってたら教えてください。参考:http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000133786

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実習という作業療法士養成課程上必須な課程の問題点

フェイスブックのほうで、下記リンクの記事シェアをしたら、珍しくたくさんのいいねがもらえた。

理学・作業療法士学生、指導役と相次ぐトラブル 養成課程・実習環境、見直しへ―くらしなび

関心がそれだけ高い問題なのだなー、と。

それもあり、改めて内容を自分のために整理する意味も含めて記事にすることに。

別にこれから実習に行く学生さんを脅すような意図はない。

状況はかなり深刻と勝手に思っている。

実習の現場で今、なにが起こっているのか。

問題

現在起こっている問題は、結局以下に集約される。

実習生が、実習でつぶれる。

シンプルに起こっていることはそれだけのことである。

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その原因は3つある

①実習指導者の指導力不足

②学生の実力不足

③養成校の職務怠慢

この3つが、絶妙に絡み合って、実習先でつぶれる学生が続出しているように思える。

ひとつずつ見ていくと

① 実習指導者の指導力不足

実際問題として、実習生をしっかりと指導する余裕なんて、臨床にしっかりと取り組んでいる作業療法士にはあんまりない。

臨床のついでに指導する、もしくは、臨床しながら指導する。

そして、休憩時間とか、なけなしの空き時間を無理やり運用して、学生が書いたレポートを読む。

実習指導者の側に余裕がないのは、間違いない。

余裕がない中でも、人を導くことができるかどうかはよい作業療法士であるかどうかのひとつの判断材料であるとおもう。

学生の質は後述するように、芳しくないが、それを引き上げるのも、作業療法士の腕のみせどころではある。

と、思う。

そんな生易しいものじゃないけれど、人格や学習能力に問題がないのだったら、できる範囲でできるだけ伸ばして返してやるのが、できる実習指導者のあるべき姿と思ってるので、そうでない結果で学生を送り出すことが6割を超えるような指導者は、あんまり人を教えたり指導するのに向いてないかもしれない。

作業療法士向いてないかもしれない。

学生がろくでもない場合には、キチンと養成校側にその旨を伝えるのも仕事だけれど、その辺なあなあでなんのためにバイザーやってるのかわからない、そういう実習指導者もいることも事実。

②学生の実力不足

バイザーが教えてくれないと、あるいは、指示がないと実習中何をしたらよいかわかりません。

という学生が増えているが、これは学力不足というよりも社会経験の不足であり、そういう意味で実力不足が顕著である。

し、加えて、そもそも作業療法士になろうというモチベーションはあまり高くないままに、実習に来てしまう人もちらほらいる。

そして、臨床を甘く考えていたことを、いざ実習にきてみて強く突きつけられて、そこでおろおろとしてしまう人もいる。実習中に、自分が臨床を甘く見ていたことに気がついても、その後の実習で取り返すのは難しい。

臨床に見合うレベルの学生は少ない。

後述する理由で当たり前ではあるが、それで実習パスしたら、そんで国家試験に合格したら、そうしたらプロとして臨床に立つようになるわけである。

そう考えると、結構恐ろしいことだったりするので、バイザーが厳しくなるのも少しは理解してもらえるかなあどうかなあ。

実習に来ているということは、一通りの勉強は学校で終わってますよ、ということなので、学力不足は論外だし、学力をうまくいかせるように自分でなにが必要かをかんがえて動くことができることがとても大切なのだけれど、それができる学生はほとんどいない。

③養成校の職務怠慢

養成校は、学生を強く指導できないし、やる気のない学生を辞めさせることもできない。

なぜなら、学生が来ない学校はつぶれるからである。

そして、少子化によって、入学する人数自体が減少しつつある昨今においては、キチンとした指導をすることによって学生がやめるリスクをとるよりも、馴れ合いのような授業であったとしても学生に辞められないようなそういう指導をせざるをえない。

自分の指導によって学生が減少したとなれば、教職を追われることになるかもしれない。

さらにいえば、作業療法を教える作業療法士は二極化していて、ぜんぜん臨床経験ほとんどないけど研究で先生になりましたって言う人と、臨床一筋だけど論文よめませんかけませんっていう人。

その両方ができる人は少ないけれど、とくに前者の人は、いまさら臨床でがんばれないので、余計なかなか強く出ることができなかったりする。

学生が、不真面目なツケは結局のところ後のち本人に帰ってくることになるのだけれど、そうなるまえに気がつかせるのが教員の本来あるべき姿なのではないかと思うので、そういう意味では職務怠慢。

まとめ

結局のところ、誰が悪いというよりも、いろんな要因が重なって、その結果として実習生がつぶれる時代になっている。

そもそもの実習の仕組みが悪いので、たとえば医師のように、国家資格を取得した後にスーパーローテートでいろいろなジャンルのところではたらいてお給料もらいながら臨床にでるとか、そっちのほうがいい気がする。

そうじゃないと、結局学校が本人の責任を肩代わりしてしまうし、学生とバイザーの間に利害関係が強く生じてしまうので、学生のがわも指導者にしっかりとぶつかっていくことができない構造になってしまっている。

これはやっぱりよくないので、制度を変えることを考えるか、それが難しいというなら各人の不断の努力で何とかするしかないかとおもうのだが皆様いかが思われますか?

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これからの作業療法って、マネジメントが中核

学生時代からずっとおもっていたことだけれど、尊敬する先輩がやっぱり同じ考えだったので、遠慮なく書きます。

作業療法は、やっぱりマネジメントができてなんぼです。

名著「マネジメント」は読むべし

ドラッカーのマネジメントのエッセンシャル版が一世を風靡したあのころ。

「真の顧客」はだれかという文章が忘れられないですね。

作業療法の顧客は一体誰だと思いますか。

実は作業療法の対象者と同時に、作業療法の真の顧客は、ドラッカー先生流に分析すれば国ということになるのです。

これは、保険の仕組みのおかげで、国民は3割しか医療費を負担しないで、残りの7割は国が面倒見てくれるというところに由来するわけです。

ドラッカー先生は、サラリーマンの本当の顧客は目の前のお客さんではなく、経営者であると喝破してたわけですが、同様の理屈で考えると、作業療法士の顧客もまた、国と経営者やその他の職種であるということになるわけです。

公的なお金に依存する日本の作業療法

そう、結局、医療保険や介護保険の上に成り立っている作業療法っていうのは、国がいなくなったら成立しないものであることは間違いなくて、そういった意味において、作業療法の顧客はドラッカー先生流にいえばやっぱり国ということになるのです。

そうではなく、きちんと目の前の作業療法を必要とする人に、作業療法士として向き合いたいなら、保険の仕組みがなくなっても、きちんと顧客獲得ができるような、そういう仕事の仕方を模索しないといけないのです。

ぶっちゃけ、病院の作業療法って、稼ぎ頭になってるのは間違いなくって、それゆえ今は経営者から重宝されていますが、いつ状況が変わってもおかしくないのです。

作業療法が経営を支えるような状況、それだけになってしまうと、まちがいなく点数が改正されるあおりをもろに受けることになるでしょうし、それはまた、今年の診療報酬の改定の内容にもおそらく反映されることでしょう。

作業療法士のマネジメント力の向上は必須

今後、医療費や介護報酬が増えることは絶対にないです。何とか増えないように押さえていかなければ、国家財政がもたないからです。というか、もう崩壊は確定してると思います。

日本の生活水準はどんどん引き下げられることになるでしょう。つまり、キチンと結果を出せないものには、公的なお金が出ていかない仕組みになっていくということです。

あるいは、エビデンスと言われるような数値化できるようなリハビリテーションの結果を出していくことを強く求められるようになっていきますし、この傾向は今後も強まっていくと思います。

そうしたときに、一から十まで全部自分でできる、マネジメント力の高い作業療法士になっておいたほうが良いと思うのです。

作業療法士に開業権を認めるウルトラCまである

財政的に困窮すると、作業療法士に開業権を認める流れまであると思っています。なぜなら、ぶっちゃけ、医療費を削りたかったら、病院が中抜きする余地をなくせばいいからです。

つまり、リハビリテーションに必要なお金を削減しようと思えば、作業療法士や理学療法士に開業権を認めるのが一番、無駄なお金が無くなるし、能力のないセラピストを競争原理によって排除することができるということです。

もし、今後そうした流れになっていくとしたら、作業療法は評価や介入を行うだけでなく、マネジメントや関係調整などを行う能力をしっかり磨いていかなければならないでしょう。

作業療法に重要なのは統合する能力

むしろ、作業療法は、分析しなければならない変数も、扱う変数も非常に多くて、それらをどのように統合するかということもかなり重要になります。

あるいは、どのような職場で働くかにもよるけれど、職場のなかで作業療法士は自分ひとりという状況でも、専門性を発揮して価値を生み出すことができることが重要でしょう。

まとめ

作業療法の顧客を国ではなく、きちんと目の前の対象者に引き戻すためにも、まずはきちんと結果をだして、国のシステムに頼らなくてもやっていけるような価値の構築に努めていく必要がある。

これからの作業療法士には、基礎臨床能力のみならずマネジメント能力も必須となっていくことは、ほぼ間違いない。

参考

ドラッカーのマネジメント本

 

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作業療法の価値の本質的な「利用者主体」を、サラリーマンとして実践するための心得

臨床をしながら、給料のことだけ考えて仕事している人は、利用者様、患者様へのサービスの質に大きな影響を及ぼすことがわかってきました。

なんのために仕事をするのかってのは、本当に大切なことですね。
患者様の為になると言うことと、自分の家族を守るために働くことの両ばさみにあうと、作業療法士と言う資格はやっぱり難易度の高い仕事と言えると思います。
その難しさをどの程度楽しめるのかと言うことも、作業療法士の資質の一つなのかもしれません。
サラリーマンの立場で、利益を出せ出せな感じの無言のオーラを発している経営者の元で、なるべく多くのものを患者さんの元へ還元するにはどうしたら良いでしょうか。
出世するか、経営戦略の資格でもとって発言力を増強する方法以外でなにかないでしょうか?
さらに言えば、同じ志をもつスタッフが気持ちよく働けるように、繋がりを作れること、そう言うつながりができるような働き方ができることも重要です。
さて、雇われ作業療法士として、国から保険料をもらった病院からお給料をもらっているその対価を患者様に適切に返すにはどうしたら良いでしょうか。
就職してから、ずーとそのことで悩んでいます。
そして最近1つの事実に気づきました。
それは悩んでも無駄だということです。
そんなことに頭を使う暇があったら患者様は明どのようなプログラムが1番良いのかということを評価をもとに考え出し実践に移しきちんとした振り返りを行うことの方がよっぽど重要だというふうに考えるからです。
そして自らの実践にきちんとした出席がデータ等の裏づけが示せるようになったときに、国や病院に対して改めてその取り組みに対する支援を要請すれば良いなと思います。
そうそう、志を同じくする人たちとのつながりについてですが、そうした実践について雑談レベルの話の中で話題にあげて頻繁にコミニケーション取るのが良いと思います。
そして、色々な人との話題の中に自分の仕事への取り組み方を匂わせることによって、潜在的に自分の取り組みに対して味方をしてくれる人を少しずつ増やしていけば良いのだと思います。
今後、保険点数などの改定によって、作業療法士だけではなく、医療や介護に関する仕事はますます金の問題に苦しむようになると、思われますが、その財源は国である以上、来たるべき日に備えてきちんとした証拠が示せるように、きちんとした最高の作業療法を目の前の患者様一人ひとりに提供していくことが今のサラリーマンの立場での作業療法士である自分たちにできることなのではないかと思います。
利用者主体にまで、話が及ばなかったので続きはまた今度書くことにします。

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それぞれの作業療法士がそれぞれの作業療法の定義を持っているのがいいと思う理由

作業療法の定義については、当サイトでも掲載しています。

ふと、あらためて定義について見つめなおしてみようと思いました。

先行する作業療法のイメージは手工芸?

ひょっとすると、作業療法のイメージが手工芸が強いかもしれません。

しかし、作業療法の範疇とするものは、その人の生活全般をふくむものです。

特養や老健では具体的な活動をその人の活動性やその人らしさを引き出すための手段として手工芸を用いるのは非常に理に適っているし、生活の場を支援するはずの訪問介護で手工芸に偏っていたらそれはなんだか違和感がある。

全てに共通する作業療法の定義は難しい

ですから、すべての作業療法士に共通する作業療法の定義は、どうしても抽象的にならざるを得ないですね。

それぞれの作業療法士が現場で実践している作業療法の具体的内容には、非常に幅がありますし。

ですから、「ひとがおこなうこと」をつかうリハビリテーションはすべて作業療法と定義してしまっても問題ないのではないかとすら思います。

必要なのは作業療法士各個がきちんと作業療法を説明できること

そのかわり必要なのは、どうしてそれが必要なのかについての説明責任をきちんとはたすことができるかどうかです。

大切なのは、それぞれの作業療法士が、「だから、これは作業療法です」と胸をはって、当事者とその周囲の人々、同僚に説明ができることだと思います。

そして、そのための作業療法の定義を、日々の実践の中で浮き彫りにして形にしていくことが、大切なのではないでしょうか。だから、それぞれの作業療法士がひとりひとり作業療法の定義をしっかりともっていることが必要になるとおもいます。

そして、作業療法士は、作業と人と社会をつなぐ触媒のようなものでありたいですね。

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