ごく最近「作業療法士冥利につきるな」とやりがいを感じた瞬間

作業療法士には、それぞれ色々なやりがいを感じる場面があると思います。

先日、自分がやりがいを強く感じたのは、自分の対象者の方が、ご本人の言葉で、実際の体験の気づきを言語化できた時でした。の巻。

作業療法ってなんだ?

作業療法とはでも触れましたが、作業療法ってなかなか一言で言い表すのが難しいのです。

確かに、やってもらうこと、やること自体はとてもシンプルです。

だからと言って、

「作業療法って、絵を描いたり、塗り絵するんでしょ」

と言われて、なんとなくそれを肯定するのに引っ掛かりがあります。

別に、活動をしてもらうこと自体が目的ではないし、全員が全員に創作活動をしてもらうわけではないからです。だから、自分の中で、そこを素直に肯定できない時があります。

大切なのは、ちゃんと「作業」かどうか

対象者の方にとって必要なことを獲得してもらうために、とか、

やりたいことや自己実現の手段や目的として、とか

作業としてアクティビティを用いるというただそれだけのことなのですから。

作業療法というのは、やはりどうして作業を使うのかが大切です。

意図を見抜かれた「作業」

そして、その目的をきちんと達成できるように協働することはもっと大切です。

作業療法として提供した作業の目的に対象者の人が自分で気づいたんです。

この間。

どういうことかと言いますと以下のようなことです。

やや、若干活動性の低い若い男性がおられました。

最初はおたのしみとして、とある活動を「作業」として提供していました。

「ちょっとやってみない」

なんて言って。

すると、ある程度定着して、自分から積極的に取り組めるようになってきていたんですね。

そして、別の集団活動に参加して、その人の成長ポイントの話になりました。

ふと、

「ああ、これって、◯◯(「作業」の名前)と一緒ってことね」

対象者の方の変化のきっかけを手伝えると楽しい

今回関わらせていただいたこの男性、おたのしみとして導入した作業を通して、自分の課題に気づいて取り組めるようになっていたのです。

そこに対する言語的な介入はほとんど行っていません。

むしろ、非言語的に、感覚的に本人が成長して変わっていることを実感できるような構造で、「作業」を提案し、そのための環境を提供しました。

「作業」を通して、蓄積された感覚が経験となって、その人の気づきにつながり、より良い決定や選択肢の幅を広げていく、そんな瞬間を目の当たりにしました。

この時はガッツポーズしたくなりましたね。本当に。

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作業療法士の仕事のやりがいをすっと感じた瞬間でした。

本当にすごいのは当事者・対象者

別に、作業療法士がすごいわけでもなんでもなくて、それは対象者の方の努力や頑張りだったり、センスだったりなんです。

本人の自発性がないと、作業療法として関わるのはかなり難易度が高いですので、作業療法士は常に対象者の方のやる気や頑張りに助けてもらってるわけです。

ですけれども、対象者の方が、作業療法としてやってるアクティビティを、自分とその活動、「作業」の意味を整理して、「ああ、こういうことなんですね」と、理解できて一歩進めた時は、それは本当に嬉しいですね。

嬉しかったです。

確かに、やってることは、切ったり、貼ったり、塗ったり、みたいな一見単純な活動なんですね。

ですけれど、そこには明確な目的と、目標設定に向けた訓練としての意図もちゃんとあるわけで、実際にそれを感じ取って、対象者の方が自ら感じ取ったものを自分の言葉で言語化してもらえる瞬間はたまらないですね。

それが聞けると、作業療法として一緒にやってることが、積み重なってる感があり、成長や回復の過程の手伝いが多少なりともできているという確信めいたものが持てるので元気が出ました。

要するに

治療としてそのアクティビティを選択した意図を、こちらから説明する前に、自分でしっくりきてもらえて、ご本人が言語化できて、そこで自発性やら積極性がてできて、自立度も高まって、汎化できて、習慣化して、生活の基盤ができて、リカバリーが高まって、リハビリテーションとして成立すると、本当に作業療法士冥利に尽きます。

なんか、そういう狙いが、うまくコーディネートできた時は、

「やったった」

感はあります。

正直。

自由ゆえの作業療法

作業療法士の仕事は、法律で規定されています。

もちろん大枠は、医師の指示の下、です。

しかし、医師が示すのはあくまで方向や大まかな結果であって、そこにどのようにして至るかという道筋は、作業療法士に委ねられるわけです。

ですから、なるべく対象者の方の作業療法の成果が最大化できるように、介入・支援を最適化しようとします。

そうした積み重ねは、単に良い治療成果がもたらされたというだけでなく、対象者の方と治療者の関係性や信頼性を強固にしてくれて、より大きな結果に繋がる提案を行いやすくなる気がします。

そうした、関係性などのトータルコーディネートも含めて考えて、作業療法ができる環境が最近はあるので、ああ、本当にありがたいなあ、と、感じています。

介入・支援の切り口は無限にあった方がいいので、やっぱり自由度って大切だなあとつくづく思います。

やっぱり勉強大事

唐突にブッコミましたが、勉強は大切だな、とその前の自由度に関連して思います。

勉強て言うと、専門知識の学習とかイメージされるかもしれません。それらは、当然大切です。

それはスタートラインとして、

けれど、それだけじゃなくって、色々なことを吸収して自分のものにしておくことはすごく大切だと思います。

人生なんでも経験とはよく言ったものです。

残念ながら、経験してないことは、思いつきで実践することは難しいです。

だから、作業療法士としては、色々なことに興味を持っておく習慣が必要です。

それさえあれば、より良い作業療法を行うために作業療法士自身ができることが増えるかもしれません。

そうすると、色々な活動を作業として使いやすくなります。

活動を作業として用いるのに、作業療法士が熟練している必要性はありません。

ありませんが、熟練している方が、作業として提供するのは楽に行うことができます。

用いる作業の幅が広がれば、作業療法対象者の方へのサポートを最大化しやすくなります。

具体的かつ、感覚的な気づきを持ってもらいやすくなります。

それは、強力な学びや経験となって、その対象者の方の判断や思考パターンをより本人の希望に沿うものに近づけ、その後の人生を自らが望む方向へコントロールする力を大きく左右することになります。

だから、勉強が大事だな、いろんな人生勉強はしておくべきだなあ、と思ったりします。

作業療法の実践にやりがいはいらない

ここまで書いておいて、じゃあ今までの文章はなんだったのかということを書きますが、作業療法に作業療法士のやりがいを持ち込んだらアウトだと思います。

客観的な判断ができなくなるし、「作業」の影響をきちんと評価できなくなるからです。

やりがいありきではなくて、たまにご褒美としてやりがいが降ってくることがある。

それくらいに思っておかないと、自分の場合はすぐに調子にのるのでいけません。

あくまでクライエント中心が、作業療法のモットーですから、それを完遂できるかどうかがまず大切です。もし、作業療法の対象者の方が、その人の望む方向に進むやくに立てたと明確な時だけは喜んで良いかもしれません。

結局この記事はなんだったのか

作業療法の場面での、対象者の方の発言に嬉しくして、調子に乗って舞い上がりそうな自分を客観視するために書きました。

現場からは以上です。

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OT評価実習生:OTSにOT五年目が感じた 実習中の成長を左右する要素の「ヤバさ」

短期(評価)、長期(総合臨床実習)に関わらず、実習中の学生目線だと理解できることがあります。

一方で、経験年数が増えて、経験値もそれなりに増えると、ここ最近はじめて感じることがありました。

その2つの間のギャップの話です。

「何をしに、実習にきたの」

実習を通して、成長する学生と、

あまり変化なく帰っていく学生との間には、いろいろな違いがあります。

その違いは、普段の臨床にも通じる大切な「違い」だと思っています。

後者の学生がよく言われるのが、

「何しに来たの」

です。

これが、その理解のためのキーワードであるように感じています。

何のための実習かがわからない

「実習に行くことになっているから、実習に行く」

という学生が少なからずおります。

実習のための実習、実習が自己目的化している学生です。

こういう実習生が、上記のような質問を実習中に繰り返しぶつけられて、あまり成長なく、実習に対する傷つきだけを感じて帰っていくことが、ままあります。

そのタイプの実習生は、なぜ生まれるのでしょうか。

そしてなぜ、実習生は傷つくのでしょうか。

作業療法学生:OTS目線での実習

申し訳ないのですが、引用できる資料もないので自分語りになります。

でも、自分の学生時代、OTSのときの実習を振り返ると、その傷つきのヒントにはなると思います。

学生の頭の使い方の典型とおもうのですが、

「学校で学んだことを、臨床で生かす」

という思考回路があります。

学生の作業療法観は、授業の中の情報や、講師の話によって構成されます。

それのみによって構成されていることがほとんどではないでしょうか。

すると、学生の行動原理は、

「いままで自分が学んできたことを実践してみること」

になります。

そして、それができることによって、実習が合格となるというモデル(妄想)が頭にあります。

これが、実習の為の実習であると、臨床家のOTRのみなさまから批判されるところだと思いますが、学生の側からすると、むしろ自然ながんばり方なのではないでしょうか。

それなりに臨床経験のある作業療法士:OTR目線での実習

一方で、かつてOTSであった作業療法士:OTRの側に立つと、今、実習で学生に求めることはシンプルです。

目の前の対象者に対して、いち作業療法士、いち臨床家としての今の自分での最善を尽くすこと、です。

作業療法士として、実地で経験をかさねていくうちに、自然と評価できるようになることはたくさんあります。

それは、養成校で学ぶこともたくさんありますが、養成校で学ばない、学べないこともたくさんあります。

身体障害領域で例にとると、ポジショニングの常識も日進月歩です。

かつては、

「隙間をうめる」

がポジショニングの王道でした。

しかし、やり方をまちがえると、日々のポジショニングの積み重ねが屈曲拘縮をつくりだしてしまうということがしられるように、徐々になってきています(多分知られて来て、浸透していると信じたい)。

別の例で言えば、かつて推奨されていた、教科書にも載っているような、移乗の方法が、実は自立度の低下につながる場合もあります。

このような学びが、学校でできたか。

告白します。

私個人の経験からすると、不真面目な学生であった私はできておりませんでした。

そして、その学びは、先進的なものであればあるほどに、教科書中心の座学授業の中では決して学ぶことができない、臨床による技術的なものや、それに基づく評価であったりします。

それは、国家試験を念頭に置いたものではない、日々の臨床、実践を念頭に置いたものだからです。

作業療法に正解はありません。現在地点が人それぞれで、ゴールも人それぞれだからです。

かつての正解が、状況によっては不正解になることもありえます。

そのことを、経験値として知っている作業療法士ほど、OTSに対して、将来の臨床家として、今現在の最善をつくすことを求めますし、実習とはそのようにするべき場所だと思っています。

だからこそ、臨床家として、実習態度がどうのこうの言うわけです。

それが臨床の結果に直結することを、経験則として痛いほどわかっているからです。

つまり、作業療法士:OTR目線での実習とは、

「実習中の事象から、素直に考えて、行動すること」

だと感じていると思います。

自分はそう感じるようになってきています。

このギャップ 「ヤバい」

実習の指導は、OTSとスーパーバイザーであるOTRの間の事象なので、目指すべき場所が共有できてないとこじれます。

作業療法士の側としては、自分の目線から、上記のような学生の実習への取り組み方を見ていると、

「なにしにきたの」

となるわけで、それを学生に伝えます。

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言われたOTSは、なんで自分がそんなことを言われるのかも、わけがわからず、萎縮してしまい、その結果としてスーパーバイザーが求める実習態度から乖離していき、その度に「なにしにきたんですか」といわれるという悪循環が生じてしまいます。

その結果として、実習中の表出が制限され、なにもかわらないままに実習終了、お疲れ様でした、となるわけです。

自分の理解としてはこういうパターンは少なくないと思ってますし、間違ってないと思います。

作業療法士としての仕事時間のほんとうに貴重な時間の一部をボランティアの実習指導に費やして何も学生が成長しないままに実習終了するとか、本当に悪夢でしかないのですが、少なくないと思います。

正直、やばいなーとおもいます。

やばいなーと思いませんか。

では何でこういうことがおきるのかというと、上記を踏まえるとOTSとOTRの双方に要素がありそうです。

作業療法士の労力に見合った分、学生がたくさん学んで、成長して帰るようにするには、どうしたらよいでしょうか。

OTSは、自分の将来像を考えると幸せになれる

いろいろあるけれど、たとえば。

実習に来る前に、どんな職場働きたいのかは、なんとなくでも決めておくことです。

べつに後で変更したってかまわないので、自分はどんな領域のどんな場所で働きたいのか、それを明確にしてそれをスーパーバイザーであるOTRに伝えることです。

そして、そこで働くためには、自分はどんなことが必要と考えているので、どんな学びをその実習で得て帰りたいかということまで明確にできると、将来の自分のために動けるので、多少能動的になれるかもしれません。

自分なりに、自分自身について、実習に行く前に真剣に考えておくことが、実習前に行う準備として必要だったのかなと思います。

自分の将来像について、明確にできるといろいろ幸せになれそうな気がします。

作業療法士が学生時代の自分の体験(忘れたい?)を思い出す

本当に真剣に取り組んでる作業療法士ほど、日々の臨床がとんでもなく忙しいので、かつての自分を振り返る機会なんてありません。

今の自分の感覚や感性を基にして学生と関わるので、上記のような問題が発生するのではないでしょうか。

過去の自分を思い出してゾッとすると、目の前の学生が少しは可愛く見えるかもしれません。

いち作業療法士として学生目線をいつか忘れる恐怖

個人的な感覚ですが。

学生のことがいつかわからなくなるのが怖いです。

そのリスクは、自分が作業療法士として経験を重ね、成長するほどに高まるものだと思います。

学生のことがわからない作業療法士は、その学生の3年後を見据えた効率のよい指導や助言ができないのではないかと考えています。

後進育成のへたくそな作業療法士にはなりたくないので、いつか自分が今の自分の感覚だけに頼りすぎることが非常に恐ろしいです。

謙虚に

自分のことは棚に上げないと指導ができない場面は、確かにあります。

だからといって、それが行き過ぎて、かつての学生時代の自分の不出来と乖離したような実習目標を学生に負わせるのは、あまりにも雑な指導だなと、自分と学生とのかかわりを通じて思います。

養成校側から、よく言われる

「学生を患者様だと思って指導してください」

というのは、

「患者様に関わるときと同じくらい謙虚な気持ちで」

と自分なりに読み替えることにして、学生の成長を自分の糧にもできたら、自分はより良い作業療法士になれるかな、と考えています。

そうしておけば、学生にも謙虚になーれ、と指導しやすいです。気持ち的に。

互いを知れば「ヤバさ」は軽減できる

認知症の方への介入は、相互理解の促進にありますよね。

OTRとOTSの関係も同じではないかと思うので、この記事を書きました。

すこしでも「ヤバさ」が軽減されれば幸いです。

やり取りがしたい

こんな独善的な文章を読んでくださり、ありがとうございました。

よんでくださっている皆さんは、なにかしらおもところがあるはずです。

なにか気になる点がありましたら、LINE@をやってるので、そちらでメッセージ飛ばしていただければ、私自身の学びになりますので、よろしくお願い存じ上げます。

作業療法.netのLINE@アカウントはこちら

特に学生諸君の等身大の意見があると非常にうれしいです。

わからなさや不安があれば、質問していただければ、答えられる範囲でクローズドにやりとりします。

年取ると頭が固くなるな、と感じる今日この頃です。よろしくおねがいします。

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目に見えないことを取り扱う難しさと重要性 作業療法士に求められること

ぱっと見やその瞬間の事実だけでは、うまく解決できない事柄にうまくアプローチ、介入して解決への方法を模索できることは、とても大切です。

たとえば、認知症の方の問題行動を、さまざまな文脈からとらえて、ご本人との共感をヒントにしながら、問題となる行動がなぜ起こるのかを整理することは、ご本人のQOLを向上させるだけでなく、その周囲の人たちと本人のつながりを健全に保ち続けるためにとても大切です。

こうした目に見えるところだけを基にしてアプローチしても解決しにくい問題を、目に見えない要素を加えて解決に導くことが得意な作業療法士は、本当に尊敬しています。

そしてこれは、作業療法士の重要な専門性のひとつだと思います。

「見えないこと」を根拠に行動するのは難しい

作業療法士は、目に見えないところが情報として集約できるので、具体的な提案ができます。

またまた例えば、認知症の方への周囲の人たちのかかわりを考えてみましょう。

周囲の人が認知症の方の特性がわかっているかどうかはもちろん重要なのです。

しかし、それは作業療法士の専門性として言い切ってしまってもよいくらいに、むずかしく、ハードルが高い事柄だと思います。それに、わかっちゃいるけどできないということもあるでしょう。

発達障害のお子さんと親御さんにも同じようなことが言えます。

家族などの周囲の人の言動、普通は害や悪影響よりも、メリットが大きいと思われるような言動が、本人の問題行動を引き起こしていることは、日々の臨床のなかでよく見ます。

良かれと思っての行動が、当人に対するストレスやプレッシャーとなって、二次障害を引き起こしていることもままあります。

それは、周囲の人が思うその人と、本人の人となりや個性・障害の間に大きなギャップがあるからです。

そして、それは目は見えないものであることが多いです。

たとえば、精神障害は目に見えません。

具体的に見えるのは、その人の表情、行動です。

それらを総合して、適切な判断をするには、情報や知識や経験が必要ですので、まず判断することがむずかしいです。そして、その判断をもとに実際に行動を起こせるかというと、それはさらに難しいです。

作業療法士が「可視化」することの重要性

だから、作業療法士は、

「こういう関わり方をすると、うまくいった」

という経験を周囲の方にしてもらえるような提案ができることが大切と感じています。

理由や理屈はとりあえずおいておいて、

「やり方しだいでなんとかなる」

という感覚を本人も周囲のひとも得られるような具体的提案ができると、まずまずな作業療法ができたといってよいかな、と自分自身に言い聞かせています。言い聞かせます。

だから、作業療法士は、その人の生活における困りごとを整理し、解決するための方法を提案するために、きちんとその方の目線に立って、同時に客観的に評価を行い、目に見えないことを情報化、可視化することとても重要で、それが求められていることであると思います。

求められるのは作業療法士の評価を共有すること

また、すぐに解決できなくても、状況をきちんと整理して評価を対象者の方やその周囲の方と共有する、そのこと自体の意義も大きいです。

それは、

「なんだかよくわからないけど困ってる」

という状態を整理できるだけでも、

「『わからないこと』がわからない」

という混沌とした状態を脱することができ、

目標やゴールが明確になります。

つまり、問題解決への道筋が明確になります。

「なんだか困ってる」を「ここが困ってる」へ

同じ暗闇のなかでも、真っ暗闇とトンネルのように、目指すべき明かりが見えているのとでは、人間の感じるしんどさはまったく違うものです。

骨折や麻痺などの身体的なリハビリテーションにおいても同様のはずで、

「これがしたい、だけどあれが問題だ、だからそのためのソレ(治療介入・プログラム)だ」

という説明が丁寧になされているかどうかは、回復の度合いに大きく影響すると思います。

患者様の主観としては、

「これまでどおりに、服を着ようとしたら着れない」

のであって、

「過剰努力によって連合反応が起こって、結果として重心が支持基底面から出てしまう」からでもないし、

「ギプス固定および三角巾による固定による運動制限によって、僧帽禁や広背筋などのビッグな筋が短縮して関節可動域が小さくなっている」からでもありません。

そういう、「みえない」「わからない」ところを、いわゆる専門的な知識をもとにして、どれだけ作業療法の対象者の方の主観とすり合わせていくか、問題の認識の合意に至るかということが、治療効果の有無を分けます。

そして、それがエビデンスのある作業療法につながると思います。

ようは、説明責任を果たすってことです。

コンパクトに伝える

主観とのすり合わせにおいて、専門用語を羅列してもらちがあきません。

専門用語を使わなければならない必然性もありません。

対象者の方が、理屈を感覚で理解できればよいのです。

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それが可能になる程度にフラットな表現でコンパクトに伝えましょう。

そうすることで、介入の中での確認が時間をかけずにつどつどコンパクトにできます。

事象の整理は作業療法士の専門性

繰り返しになりますが、「見える化」は、作業療法士の専門性の重要な柱だと思います。

何がその役に立つのかは本当にわかりません。

自身にとって趣味や、遊びの範疇の経験が、相互理解を助けることに役立ったりします。

自分の経験をフル活用して、知ろうとすること、

普段からいろいろな経験を、自分の学びにすること、

これらが作業療法士の「見える化」をスムーズにし、仕事をよりやりがいがあって面白いものに変えてくれると思います。

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作業療法の自由度の話

作業療法士っていう職業は問題解決してなんぼという側面があります。

結構若手というか経験不足なうちは、なんとなくそこであせるというか、もがく気がします。

私も例に漏れず、対象者の方にとっては、大して意味のない変化を出して自己満足したりしちゃうこともあったような気がします。これが自由度の罠ですね。

自由度の罠

無意味じゃないけど、本当はもっと重要なことがあるんじゃないのっていう。

なんかやれば、なにかは必ず変わるんですから、何かを変えることが重要なのではないのです。

優先されるべきこと

何を、何のために、どのように変えるのか。

それを対象者ご本人が、どのようにうけとめるのか。

それが、一番大事なことなんですよね。

ついつい、問題解決してなんぼっていうのが、自分のなかで大きくなりすぎると、えてしてそういう臨床におちいりがちです。

手っ取り早く解決できる問題に飛びついてしまうという。

でも、そういう臨床ってほんとの意味でのリハビリテーションと違っちゃってることもあるように思います。

リハビリテーションと魚

有名な、OTの先輩方は大体知ってるエピソードなのですけれど、ごぞんじでしょうか。

「魚を与えるよりも、魚の取り方を教えよ」

魚を与えて満腹にしたら、依存が生じることもしばしばです。

お金儲けがしたいなら、それも悪くないですが、リハビリテーションがしたいなら、ちゃんと腹減ったときのコーピングをティーチングする必要がありますし、もっといえば漁獲以外の選択肢を考えられるようコーチングするべきです。

それが、ちゃんとしたリハビリテーションだし、作業療法の自由度ってそういうことのためにあるんじゃないでしょうかね。

それを、なにか結果出さなきゃ、問題解決しなきゃと、すぐに解決できる問題の解決ばかりを繰り返していたら、そりゃあ苦しくなってきませんか。

同じことの繰り返しで。

これが自由度のワナです(繰り返し)

一緒に遊んでるだけ?

作業療法士さんは遊んで点数もらえてすばらしいといわれることもあるようです。

特にベテランOTだと、はたから見ると、そばに寄り添ってるだけで何にもしてないように見える介入もあります。

さっきの魚の話になぞらえると、一緒に釣り糸を垂れてるだけという感じでしょうか。

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っていうのも、要所要所支えてないとその人の生活やらなんやらが成り立たないという評価がきちんとあった上でほんとに要所要所しか介入しないと、一部分だけ切り取られると何もしていないように見えるんですね。

おおむね大丈夫なんだけど、不意によろけて海へ転倒転落しそうになる人とかの場合は、こけそうになったとこだけしっかりと支えればいいのです。釣竿がひいてるときとかそうかもしれません。

過剰なお手伝いは依存を作り出しかねません。

相手と対等であるためには、相手と同じように同じことをするのが一番なんですね。

そして、本人以外へ

それから、対象者の方本人に対して何かをすることだけが作業療法ではなく、釣竿使いやすい長さに調整するとか、リールは自動巻きのにするとかといった環境調整やら、つった後の魚の運搬や鮮度管理調理といった前後の連絡調整とかの段取りをするとか、そういう部分のほうが大事だったりしますよね。

それは、その人がどんな生活を送りたいと考えていて、どのような生活を目指してリハビリテーションを進めていくかによって、作業療法士がやらないといけないことは大きくかわるんで、それがいわゆる作業療法の自由度なんだと思います。

作業療法 ≒ コンサルテーション

だから、作業療法ってコンサル業とか、マネジメント業務に近い要素が多分に含まれていて、お勉強がそこそこできて、大局的に自分の業務が把握できないとこなせない仕事なのかなとおもいます。

問題解決する前に、どの問題から手をつけるのかを、対象者の方と一緒にしっかりと吟味できないとなかなかつらい仕事なのかなとも思います。

プラスアルファ、必然自分で考えることが必要になるので、そういう意味でも能力が必要です。

お給料的には絶対に割に合わない仕事です。

作業療法に完璧は定義できませんが、少なくとも自分が知ってる第一線クラスのOTさんたちは、能力に見合った給料をもらってません。ほかの職業ならもっと稼げています。

でも、あえて作業療法士やってるってのが、一番の自由度かもしれません。

そういう作業療法士さんのOTは、対象者の方にも非常に高い自由度をもたらしているように思います。

自由度を使いこなしてこそ、作業療法士ですよね。

そういう作業療法士に、私はなりたい。

こっぱずかしいことを書き連ねて、記事は以上です。

蛇足:魚の話は、実は出所不明らしいです。知ってたら教えてください。参考:http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000133786

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実習という作業療法士養成課程上必須な課程の問題点

フェイスブックのほうで、下記リンクの記事シェアをしたら、珍しくたくさんのいいねがもらえた。

理学・作業療法士学生、指導役と相次ぐトラブル 養成課程・実習環境、見直しへ―くらしなび

関心がそれだけ高い問題なのだなー、と。

それもあり、改めて内容を自分のために整理する意味も含めて記事にすることに。

別にこれから実習に行く学生さんを脅すような意図はない。

状況はかなり深刻と勝手に思っている。

実習の現場で今、なにが起こっているのか。

問題

現在起こっている問題は、結局以下に集約される。

実習生が、実習でつぶれる。

シンプルに起こっていることはそれだけのことである。

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その原因は3つある

①実習指導者の指導力不足

②学生の実力不足

③養成校の職務怠慢

この3つが、絶妙に絡み合って、実習先でつぶれる学生が続出しているように思える。

ひとつずつ見ていくと

① 実習指導者の指導力不足

実際問題として、実習生をしっかりと指導する余裕なんて、臨床にしっかりと取り組んでいる作業療法士にはあんまりない。

臨床のついでに指導する、もしくは、臨床しながら指導する。

そして、休憩時間とか、なけなしの空き時間を無理やり運用して、学生が書いたレポートを読む。

実習指導者の側に余裕がないのは、間違いない。

余裕がない中でも、人を導くことができるかどうかはよい作業療法士であるかどうかのひとつの判断材料であるとおもう。

学生の質は後述するように、芳しくないが、それを引き上げるのも、作業療法士の腕のみせどころではある。

と、思う。

そんな生易しいものじゃないけれど、人格や学習能力に問題がないのだったら、できる範囲でできるだけ伸ばして返してやるのが、できる実習指導者のあるべき姿と思ってるので、そうでない結果で学生を送り出すことが6割を超えるような指導者は、あんまり人を教えたり指導するのに向いてないかもしれない。

作業療法士向いてないかもしれない。

学生がろくでもない場合には、キチンと養成校側にその旨を伝えるのも仕事だけれど、その辺なあなあでなんのためにバイザーやってるのかわからない、そういう実習指導者もいることも事実。

②学生の実力不足

バイザーが教えてくれないと、あるいは、指示がないと実習中何をしたらよいかわかりません。

という学生が増えているが、これは学力不足というよりも社会経験の不足であり、そういう意味で実力不足が顕著である。

し、加えて、そもそも作業療法士になろうというモチベーションはあまり高くないままに、実習に来てしまう人もちらほらいる。

そして、臨床を甘く考えていたことを、いざ実習にきてみて強く突きつけられて、そこでおろおろとしてしまう人もいる。実習中に、自分が臨床を甘く見ていたことに気がついても、その後の実習で取り返すのは難しい。

臨床に見合うレベルの学生は少ない。

後述する理由で当たり前ではあるが、それで実習パスしたら、そんで国家試験に合格したら、そうしたらプロとして臨床に立つようになるわけである。

そう考えると、結構恐ろしいことだったりするので、バイザーが厳しくなるのも少しは理解してもらえるかなあどうかなあ。

実習に来ているということは、一通りの勉強は学校で終わってますよ、ということなので、学力不足は論外だし、学力をうまくいかせるように自分でなにが必要かをかんがえて動くことができることがとても大切なのだけれど、それができる学生はほとんどいない。

③養成校の職務怠慢

養成校は、学生を強く指導できないし、やる気のない学生を辞めさせることもできない。

なぜなら、学生が来ない学校はつぶれるからである。

そして、少子化によって、入学する人数自体が減少しつつある昨今においては、キチンとした指導をすることによって学生がやめるリスクをとるよりも、馴れ合いのような授業であったとしても学生に辞められないようなそういう指導をせざるをえない。

自分の指導によって学生が減少したとなれば、教職を追われることになるかもしれない。

さらにいえば、作業療法を教える作業療法士は二極化していて、ぜんぜん臨床経験ほとんどないけど研究で先生になりましたって言う人と、臨床一筋だけど論文よめませんかけませんっていう人。

その両方ができる人は少ないけれど、とくに前者の人は、いまさら臨床でがんばれないので、余計なかなか強く出ることができなかったりする。

学生が、不真面目なツケは結局のところ後のち本人に帰ってくることになるのだけれど、そうなるまえに気がつかせるのが教員の本来あるべき姿なのではないかと思うので、そういう意味では職務怠慢。

まとめ

結局のところ、誰が悪いというよりも、いろんな要因が重なって、その結果として実習生がつぶれる時代になっている。

そもそもの実習の仕組みが悪いので、たとえば医師のように、国家資格を取得した後にスーパーローテートでいろいろなジャンルのところではたらいてお給料もらいながら臨床にでるとか、そっちのほうがいい気がする。

そうじゃないと、結局学校が本人の責任を肩代わりしてしまうし、学生とバイザーの間に利害関係が強く生じてしまうので、学生のがわも指導者にしっかりとぶつかっていくことができない構造になってしまっている。

これはやっぱりよくないので、制度を変えることを考えるか、それが難しいというなら各人の不断の努力で何とかするしかないかとおもうのだが皆様いかが思われますか?

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作業療法の価値の本質的な「利用者主体」を、サラリーマンとして実践するための心得

臨床をしながら、給料のことだけ考えて仕事している人は、利用者様、患者様へのサービスの質に大きな影響を及ぼすことがわかってきました。

なんのために仕事をするのかってのは、本当に大切なことですね。
患者様の為になると言うことと、自分の家族を守るために働くことの両ばさみにあうと、作業療法士と言う資格はやっぱり難易度の高い仕事と言えると思います。
その難しさをどの程度楽しめるのかと言うことも、作業療法士の資質の一つなのかもしれません。
サラリーマンの立場で、利益を出せ出せな感じの無言のオーラを発している経営者の元で、なるべく多くのものを患者さんの元へ還元するにはどうしたら良いでしょうか。
出世するか、経営戦略の資格でもとって発言力を増強する方法以外でなにかないでしょうか?
さらに言えば、同じ志をもつスタッフが気持ちよく働けるように、繋がりを作れること、そう言うつながりができるような働き方ができることも重要です。
さて、雇われ作業療法士として、国から保険料をもらった病院からお給料をもらっているその対価を患者様に適切に返すにはどうしたら良いでしょうか。
就職してから、ずーとそのことで悩んでいます。
そして最近1つの事実に気づきました。
それは悩んでも無駄だということです。
そんなことに頭を使う暇があったら患者様は明どのようなプログラムが1番良いのかということを評価をもとに考え出し実践に移しきちんとした振り返りを行うことの方がよっぽど重要だというふうに考えるからです。
そして自らの実践にきちんとした出席がデータ等の裏づけが示せるようになったときに、国や病院に対して改めてその取り組みに対する支援を要請すれば良いなと思います。
そうそう、志を同じくする人たちとのつながりについてですが、そうした実践について雑談レベルの話の中で話題にあげて頻繁にコミニケーション取るのが良いと思います。
そして、色々な人との話題の中に自分の仕事への取り組み方を匂わせることによって、潜在的に自分の取り組みに対して味方をしてくれる人を少しずつ増やしていけば良いのだと思います。
今後、保険点数などの改定によって、作業療法士だけではなく、医療や介護に関する仕事はますます金の問題に苦しむようになると、思われますが、その財源は国である以上、来たるべき日に備えてきちんとした証拠が示せるように、きちんとした最高の作業療法を目の前の患者様一人ひとりに提供していくことが今のサラリーマンの立場での作業療法士である自分たちにできることなのではないかと思います。
利用者主体にまで、話が及ばなかったので続きはまた今度書くことにします。

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精神障害領域における患者様、デイケアや授産施設の利用者様の喫煙率の高さとタバコの害について思うこと

タバコの害については、小学生もなんとなーく知っている昨今。

タバコなんて二十歳でやめるものとうそくぶく若い頃にやんちゃしてたお姉さんに自動車教習所で出会ったのは個人的になかなかの衝撃でしたが、結構的を得ているのかもしれません。
精神保健の領域で働いている方はご存知のように、精神疾患を長年患っておられる方は、喫煙者が多いです。
そういう方の喫煙の実態を知りたくて、ついに筆者もめでたく二十代半ばにして、喫煙者の仲間入りをして思ったことがあります。
「タバコなんて、吸うもんじゃない。」
でも、やめられない。
気がついたら吸ってる、っていうわけでもないのですが、地味にタバコミュニケーションというか、タバコミュニティに依存している自分がいます。
結構いいんですよね。
タバコを吸いながらの会話って、結構構えずにいろいろなことを話してくれるんで、こちらもついつい多用してしまいがちです。
口さみしいだけじゃなく、寂しさを感じている人は、タバコをやめられなくなっていくのかなあと、そんなことを感じる日々です。
因みに、私は1日5本程度の喫煙量で、仕事のない日には、全く吸わないのですが、環境に置かれると、ついつい吸ってしまいます。
本当の依存は、実はそっちなんじゃないかと思うのです。
でもまあ、こんな記事もありますし、
三十代前半にはやめたいと思います。
で、そのノウハウで、禁煙プログラムなんかやったら面白いんじゃないかと思ったりしてます。

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リハビリテーション職が当事者も社会も元気にするために意識するべき必要なたった一つのこと

私自身、自分が作業療法士になってから、今までの間にいろいろと悩むことがありました。

その中の一つに、『どこを向いて仕事をしているのか』ということがあります。
病院の中で作業療法士は、少数派です。
看護師や介護士の方が多い職場では、作業療法士が共通認識として、当たり前と思ってること、いわゆる暗黙知の部分は、通用しないことが多いです。
当然、患者様のために働くべきなのです。
しかし、時と場合によってはそうでないことがあるのは、昨今の老健や特養での利用者の方への虐待に象徴されるように明らかであると思います。
それは、なぜ起こるかといえば、病院や施設の経営者の怠慢であり、医師をはじめとした責任者や管理職のマネジメント力の不足であり、実践者である現場職員の倫理観や実務能力の欠如であり、それらの総体としての資本主義優先体質にあると思っています。作業療法士の優柔不断さも。
個人の働き方や価値観は尊重されなければいけませんが、あんまりユルいとフリーライダーが増えたり、発言力のあるおかしな人がおかしなことをしても、それを誰も咎められないという、おかしなことが起こります。
そうなると、だんだんみんながどうしたら自分の立ち位置を守ることができるかということに苦心するようになり、本来の仕事とは関係のない所にエネルギーを注ぐようになってしまいます。
こうして生じる、ムリムダムラは、働き手からも、サービスを利用する患者様やその家族さんからも、元気を失わせることになりかねません。
働いて、その結果が、単に施設の儲けになって、おしまいというのではあんまりだと思いませんか?
私個人の話をすると、そういう現象がいくらか垣間見える時があって、落ち込んだりもしました。
きっと、多くの施設で真面目に利用者のために働きたいと思っている人にとって共通の話題ではないでしょうか。
こうしたモヤモヤ感、決まりの悪さ、違和感を解決するのは、やはりきちんとした暗黙知を形成できるかどうかだと思います。
この人はこう言う仕事をする人だ、こんなことをお願いしたら解決してくれる、という、そういう認識をどこまで持ってもらえるかということだと思います。
そして、その暗黙知のチェック体制を整えることだと思います。チェックは、患者様やその家族に行ってもらうのが一つ筋だと思います。
ですから、相手がキチンとチェック、評価ができるように『私たちはここを売りにして仕事をします』と、きちんと相手に明示しないといけないと思います。
そして、それが実際に行えているかどうかの確認、チェックは患者様や他のスタッフと一緒に行えたら良いと思います。
そうすることによって、自分がどこを向いて仕事をしているかが周囲に伝わり、周囲から要求されることも、一定の傾向がでてきます。
そうすることによって、ムリムダムラが減り、対象者の方のために使える時間が増えていくはずです。
もうお判りかと思いますが、ムリムダムラをなくして働くために必要なたった一つのことは、自分がキチンと宣言をして働くということです。
そして、それが、人と繋がり、協業するために必要不可欠だとおもいます。社会参加の実現にもつながっていくのではないでしょうか?
こうすることで、大変な面もありますが、自分のやりたいことやるべきことが整理されて、すっきりして働けると思いますよ。

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突然の不調 いつもの日常をどのように支えるか

突然患者さんが不調になった。

ということは、よくあります。
が、それって本当に突然なのかなー、と思うことがあります。
実は、患者さんは自分なりになんらかのサインを発していて、それを単純に見逃してしまっているだけではないかとおもうことがあるのです。
自分の話をするとなんとなく、調子がわるくても、それって自分の心の持ちようでは、と思うとなんとなくそれを周りに伝えることができないことってあります。
それは、心配をかけまいとする思いだったり、自分のことを話して相手を面倒な気持ちにさせてしまわないだろうかという、周囲からの拒絶に対する不安だったりします。
「こんなこと人に話すことじゃないな、自分でなんとかしないと」
という、そういう思いにとらわれて、なんとなく周囲に直接言葉にして伝えることができないことってありますよね。
私たちは、自分のことを相手にきちんと言葉にして伝えることをついついためらいがちです。
それは、患者さんもきっと同じだとおもうのです。
もしかしたら、障害によって傷ついている分それ以上かもしれません。
あるいは、うまく言語化できなくて、なんとなく心地悪い感じがしていても、きちんとそれを表出できなかったり、知覚して整理することができないかもしれませんね。
そういう人が、小さな不調が積み重なっていつしか目に見える大きな不調が生じることはよくあることなのではないでしょうか。
ともすると、セラピストと患者さんの関係性が悪化する事態にもなりかねませんし、そうすると作業療法士として高いパフォーマンスを発揮して働くことは難しいんですね。
そうならないよう細やかな配慮が、必要です。
そのためには、何が必要でしょうか。
そういう不調の波に思いを馳せて、自分のこととしてわかろうとする努力が必要です。
そうすれば、患者さんが突然不調になることは少なくなるはずです。
小さな不調に気がつくことができるからです。
そして、その関わりの中にうまく作業を使えたら、作業療法士として言うことは無いのだと思います。
そして、常に気軽に話せる関係性が必要です。
そこでも、作業をどんどん使いましょう。
一緒にいることで、互いが安らぐ関係性が作れたら最高ですね。

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対象者の自尊心を引きだすには

「わたしなんかもうだめ」

というひとに対して、作業療法はできることがたくさんあるはず。

だってなんでもできるんだから。

何を使ってもいいという、そういう自由度の高さこそが作業療法の大きな特色だと思う。

それと同時に、自由度の高さに振り回されることなく、作業療法の現場に於ける影響力をコントロールできてこその作業療法である。

対象者の自尊心が高まるためには、その人が自分を大切に思えるような、そういう認知を促すような活動が提供できることが大切になる。

つまり気づきを促すことが大切になる。

言葉を使ってもいいし、文章を書いてもいい。

絵にしてもいいし、粘土で形作ってもいい。

紙を切り抜いて見たっていいし、縫い合わせてもいい。

削り出してもいい。

一緒に散歩に行ってもいい。

どんな活動を使ってもいいから、「自分って悪くないぞ」と思えるような体験をしてもらうことが大切になる。

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その体験の根本はやはり気づきだと思う。

「自分ってこんないいところがあったんだ」

「自分にとって心地よい、こんな体験があったんだ」

という気づきが、そしてそれを欲する気持ちが、生きるという気持ちに繋がるのだと思う。

誰かの言葉を通してではなく、生の体験から自分で言葉に起こしたそういう気づきこそがひとを変える手がかりとなるのだと思う。

その活動はきっと、新規性が高いものが良いのではないかと思う。

最初は思わず面食らってしまったり、少しハードルが高く感じられるような、そういう少しチャレンジするような活動がよいと思う。

少し高いハードルを越えた時、そこには新しい広がりがある。

できることを繰り返しても、質は向上するが同じことしかできるようにならない。

できないことに挑戦し、達成するからこそ「自分はやれる」という感覚はより強固なものとなる。

作業療法士は、馴染みの作業を提供するだけでなく、新たな作業を提案できるような存在でありたいと思う。

とくにMTDLPが、これから普及していくだろうことを想定してそう思う。

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