話題作、大今良時先生の聲の形に対する評価のまとめ

はじめに

話題沸騰「立ち読みでもいいから読んで欲しい」 20日発売の週マガ読み切り「聲の形」が大反響の末、あれよあれよという間に、連載決定(漫画「聲の形」 週刊少年マガジンで連載決定)した「聲の形(こえのかたち)」。

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©︎ 講談社 / 大今良時

面白く読ませていただきましたが、やっぱりいろいろ考えさせていただきました。なんといっても、はなしがとても、生々しい。

インターネット上では、「聲の形」について、ほんとうにいろいろな感想が見られました。今回は、それらをなるべくありのまま紹介したいと思います。

 

なるべく、作品読んでからの方がいいですけど、さすがに、もう売ってないですよね…。

買えないとか、買えるけど買わないという人は、こちらが参考になります。

「聲の形」たとえばそんなメルヘン!:ヤマカム

追記:ありました。さすが、amazonさんやで。

知らない人のための「聲の形」

2013年の週刊少年マガジン(12号)に特別読切と言う形で掲載されました。

小学校のクラスを舞台とした物語で、主人公の男の子とその同級生の難聴の女の子の話です。全日本ろうあ連盟が、監修をしてます。

この物語は、著作権に反する形で翻訳され海外でも読まれているようで、日本国内のみならず海外でも評判を博しています。きっとこーゆーことはよくある話で、人間社会ならどこでもついて回るんだろうなと思います。

さらに、詳しい情報こちらwikipedia参照

『聲の形』への批評

この記事でのメインです。

作品に対する意見で「これは!」と思ったものを、紹介できるだけ紹介してみたいと思います。

1.「リアル1級身体障害者が語る」シリーズ

『聲(こえ)の形』を読んで、リアル1級身体障害者が語る『障害者として生きる現実』-だいちゃん.com

『聲の形(こえのかたち)』を読んだ1級身体障害者の私と、喧嘩をしよう-だいちゃん.com

やっぱりこのブログは、外せないです。非常に話題になったので、どこかで見かけた方も多いのではないでしょうか。

ブログ筆者のだいちゃん氏が書く文章には、「自分の人生にはないもの」があると思います。読んでいて、非常に勉強になります。

2.聾唖者視点のつぶやきから見る聲の形

求めていたのは和解ではなく拒絶~普通学校で虐められた聴覚障害者が読んだ聲の形~ - togetter

こちらも話題でした。やっぱり、自分の知らない世界のことが、書いてありました。

そうか、やっぱり、あのマンガのあの構造のいじめは実在するんだな。

ということが、リアリティとして感じられました。重い。

結構、教師の対応が、リアルだという意見は、他のところでも見られますね。やっぱり、そんなもんでしょうね。あと、「さいごの手話が唐突」とか、「障害者は心がきれいという信仰」とかの指摘も結構勉強になります。

3.物語への違和感

「聲の形」(こえのかたち)- ありのまま。あむのまま。

2.とも関連しますが、どうもリアリティがあるところとそうでないところの落差が激しいのではないかという指摘。

西宮さん、聖人という指摘は、かなり多いですね。

4.「載せていいのか?」議論への考察

「聲の形」を巡るもの-妄想科學倶楽部

掲載を躊躇うべき理由があるとは思えないし、また同様のテーマを扱った作品が他にあっても驚くには当たらない、それぐらいにストレートな作品。だからこそ、「編集部を二分した」理由に興味が湧いた。

そもそも論として、掲載してもいいのか悪いのか、という議論が巻き起こることへの疑問と考察です。

ストレートな表現で、ストレートにありのままを書いてるんだから、特に問題ないじゃない、というスタンスから論じられており、これまた勉強になりました。

5.海外の反応

少年マガジンで掲載された「聲の形」なぜか海外エロサイトに流れ、多くのエロユーザーが感動。-お茶妖精

これも話題になってました。

海外にも、障害といじめの問題はあります。

おまけ。

「聲の形」と作者の大今良時先生について語ろうか-無駄話

原作者の大今先生のあしどりについて、非常にわかりやすく書かれています。超わかりやすいです。

あと、リメイク前のも少しだけ見れます。

話題の「聲の形(こえのかたち)」読みました!せっかくだから補聴器の話をしてみる – 1977年生まれのオタク人生

補聴器についての解説が秀逸。勉強になりました。

おわりに

まだ余裕のある方はこちらもどうぞ

【衝撃作】 週刊少年マガジン(12号)の特別読切「聲の形」(こえのかたち)は必読です。とにかく凄い作品です

疲れました。しんどいなあ。

テーマが、重たい文章を読むのって結構パワー使いますね。

また、随時追記するかもしれません。

もし、余力があれば、ひろえもんは、この話、どう思ってるのか、書いてみたいと思います。

では。

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いじめとは、日常どこにでも転がっている人間の持っている要素が組みあがった結果であるという考え方

はじめに

直接作業療法(OT)関係ないですが、いじめも、人間関係上のトラブルの一つということで。


アメリカでは「人の不幸は蜜の味」を脳科学的に立証したえげつない論文もあるそうです。
その論文によると、人間は器質的に、ヒトが不幸な状態に陥ると、快を感じる神経の活動が活発になる回路があるんだそうな。

いじめも、きっと、そういう回路が頭の中にあるんじゃなかろうか。
いじめが起こるのは、きっと人間の器質的な部分の特性に関係があるはず。

と、言う前提に立った文章です。
この前提が、よーわからん、という人は、ブラウザをそっと閉じるか、戻るを選んでください。

この前提に立つならば。
ならば、いじめは人にとってありふれたもので、決して特別なものではなく、いつどこでも起こりうるものだという意識を持つことが重要となります。

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画像:http://seiga.nicovideo.jp/seiga/im858456

「デスブログ」といじめは構造的に同質であるという意見

実は、こんな記事を読みました。

「デスブログ」といういじめ

「デスブログ」とは、とある芸能人がやってる公式ブログへの異名です。
そのブログに取り上げられた人やものが、不幸に見舞われるんじゃないか、という風説がその名前の由来です。
「この頻度は、ちょっと、偶然では説明できないよね。」「このブログには何かありそう。」という強い印象を多くの人に与えた結果、そんな名前で親しまれて(?)います。

デスブログに関しては、googleで検索していただければ、naverのまとめとかがヒットすると思うので興味のある方はそちらをご覧いただければと思います。
このデスブログに対する、ひとびとのレッテル貼りは、実はいじめのそれと同質なものであるというのが、上記の記事の趣旨となっています。

その意見に対するひろえもんの意見

上記の記事を読んで、考えたことについて、書いていきたいと思います。
ちょっと、誤解を受ける文章になってるかもしれないので、よく読んでいただけると、ありがたいです。
また、あくまで、ひろえもんの個人的な意見です。
上記の記事の管理人さんとは全く関係がないこともお断りしておきます。

では。
まず、上記の記事におけるこんな文章がありました。追記の部分になりますが。

いじめを「どこかにいる悪い奴」がやる「絶対に許せない行為」とみるのではなく、私たちの誰もが日常生活の中で思わずやってしまったりすることととらえるべき、という意見だ。

「たしかに、そうだよな。」と思いました。

同意したわけです。

いじめが起こることは、確かに問題ですが、人間の特性上仕方ないことだと割り切る理性が必要なのです。
そうしなければ、組織がいじめの存在を秘匿し、表面化するほどにことが大きくなった時には、とんでもないことが起きてしまう。
そんなことになる前に、いじめがきちんと明らかになるような体制を作らないといけない。

ということだと思います。
専門家、政治としての、いじめへの対処法としては、これで完璧だと思います。
大人は、こういう立場をとらなければならないと思います。

でなければ、結局、取り返しのつかないことになってしまった後で、問題が明るみに出てくる現状は何も変わらないでしょう。
学校側が、いじめの存在を隠ぺいしないようにするための、いってみれば、学校側がいじめを明らかにするハードルを下げるための方策が必要になってきます。

すると生じる新たな問題

しかし、子供の側からすると、また、理屈が理解できない人間からすると「いじめは絶対になくならない」「無くならないから仕方ない」と言われているようにも思われないでしょうか。
いや、それを前提として、上記の方策を組み立てているのですから、その通りなんです。
ですがが、そういわれたら、どう思うでしょうか。

「おまえは、いじめられるべくして、いじめられてるんだ」

そういわれていると感じないでしょうか。
いちゃもんレベルの論理の飛躍がありますが、そもそも感情論なんて、論理の飛躍のオンパレードです。
十分に、そう感じる可能性はあると思います。

とすると、声を大にして「いじめの要素なんて、そこらじゅうにあって、いじめなんてあってあたりまえだよ!!」なんて、自分にはとても言えません。

あっちを立てればこっちが立たず

成熟した大人として、あるいは、人間関係をマネジメントする側の人間として、そういった認識を持っておくことは重要です。
それから、実際にそういった認識をもって、人間関係の管理、調整をしている方も大勢いらっしゃると思います。

けれども、そういった認識を前面に出すことは、人間の感情面に配慮すると、できないのが実情です。

だがしかし、そういうことを言われなければ、自分で気が付かない、あるいはそういった視点を持つことが難しい人もいる。
というのも、あるんじゃないかと思っています。

だから、言わないといけないんだけど、言えない。
言えない組織づくりを進めると、結局問題が大きくなるまで表面化しない。
表面化しないと、問題が大きくなる。

一朝一夕には解決しそうにないです。

飲みの席を利用するとか

そもそも、声を大にして言えないものを、効率化を盾に、大きな声で叫ぼうとしている前提が間違っているのだと思います。
ひそひそと話して、じわじわと広めていけばいいものなのかもしれません。
「いじめって、なくなんないらしいよ」
って。
「じゃあ、どうすればいいの」
って、話をすればいいと思います。

声を大にできないのであれば、閉じた空間で、閉じたコミュニティで、誤解があってもフォローのできる関係性の中で、じわじわと広めていくのが良いのではないかと思います。
そういう意味で、飲みの席とかいいんじゃないでしょうか?

おわりに

まあ、むずかしいですね。

このブログでは、過去2回ほどいじめについての記事を書いてます。

親が我が子のいじめに対処することのむずかしさと法務省のいじめ相談サービスについて思うこと

いじめ問題と親はどうかかわったらよいのかということに関する個人的な思い付きのようななにか

そちらも参考にしていただければと思います。

今までの話の流れと全く関係ないですが、モデル化するには、数学の「ゲーム理論」とか、そのあたり参考にして考えていくことが有効なのかも。
人間の損得勘定をグラフ化する上では便利なツールですよね。
ゲーム理論。

でも、感情をどう数学的に扱うのかっていう批判とかありそう。
そもそも、ゲーム理論、意外と知名度低いし。

そもそも、理屈ばっかりこねてるから、人の気持ちがわからんのだという批判もあるでしょう。

参考:

いじめと3月のライオンと親が子どもにできること

いじめ 警察に被害訴える動き相次ぐ―【私の論評】「いじめ」という言葉は間違いではないか!!

男子生徒「根性焼き」などいじめ受けるも、学校「ほかの生徒が動揺する」として被害生徒に退学求める

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親が「我が子のいじめ」に対処する難しさ いじめ相談サービス(by法務省)への感想

人はどうして人をいじめるのかという洞察なしに、いじめを世の中からなくすことは絶対にできないと思っています。

法務省が主催するいじめ相談サイトと絡めながら、考察していきます。

長いですが。

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子供は親にいじめを相談できない

いつまでも、時代が変わっても無くならない「いじめ」。

それに関して、このような記事がありました。

いじめ被害「親には言えない」…法務局への手紙相談増加 専門家が秘密厳守で返信

上記から一部引用します。

 《いじめにあってます。菌(黴菌(ばいきん))扱いです。両親には、勇気が出ず何も言えません》《陰口を言われたり、無視されたりします。「ちくった」と言われるので学校には言わないで》

(中略)

同省によると、20年度に5567件だったいじめ相談の手紙は年々増加し、23年度は8916件に。《「震災で死ねばよかったのに」「この町から消えうせろ」と言われる》。東日本大震災に伴う転校先での嫌がらせを打ち明ける訴えも昨年は目立ったという。

OTはいじめとは無縁でない

いじめの本質は違うもの、異質なものの特徴を際立たせて攻撃することだと思います。

その特徴は具体的なものから、気が弱いまたは政治的権力が弱いと言った抽象的な特徴に至るまで多岐にわたります。また、いじめは子供だけでなく大人の社会組織の中においても頻発します。

そうすると、障害を持っている人がいじめに会うことも容易に想定できますし、障害を持っている人同士の中にもいじめのような人間関係は存在します。

そうした、人間関係の影の部分に、業務上、作業療法士として向き合うことがあると思います。

ですから、この上記の記事を読んだ時、自分自身が思ったことについて、すこし書いていこうと思います。
悲しいことではありますが、きっと、OTは、いろいろな場面で「いじめ」とは、無縁でいられないと思うのです。

いじめ問題についての本質的な理解を深めておくことはそのような状態に近い構造を解決する時に必ず役に立つことでしょう。

なぜ子供は親に相談しないか

まず、上記の記事で、「いじめられている側の心理」について。
個人的には、親に相談できないという心理は、よくわかります。

典型的な心理としては、
「大好きな親に心配をかけたくない」
「自分が、いじめられていると知ったら親は悲しむのではないか」

という親を心配する心理にすり替わっているもの。

あるいは
「親なんて頼りにならない」

という不信感。

一番ありがちだと思うのは

「親に頼らないと解決できない情けない自分」像を作ってしまい、それを否定したいがために相談する勇気が持てないこと。

兎にも角にもたくさんの心理が考えられますが、とにかく共通するのは、親と話をするのにエネルギーがもともと必要であるということです。

親子の会話がないということで片付けられる問題ではないと思いますが、親のカウンセリング能力はもう少し高めることができるのだと思います。

彼らなりに考えた結果であることは尊重するべきだと思います。

しかし、子供だけで解決できないから問題になっていることには気づかせてあげる必要があると思います。その時のやり方については後述しますが、配慮が必要だと思います。

親は子供を助けたい 助けたいあまり出すぎて、子供の集団の力学が理解できず事態を悪化させることも

親の立場から記事を読むと違った景色が見えます。

「なんで話をしないのか」

「そんなことを悩む前に一言相談してほしい」

「いくらでも力になる」

「守らなければ」

そう思うことでしょう。

立場が違う人間には、いくら仲が良かろうとは話せないことがあるのが人間です。

夫婦仲がよかろうと、女同士でなければできない旦那には聞かれたくない話というのはあると思います。

よくしてもらっている上司のことであっても、同僚としかできない話も、多かれ少なかれあるでしょう。

親子関係にしても同様です。

いくら親子関係が良好だろうと、子供の力学に関する話は、子供たちはなかなか親に話したいと思いません。

それは人間の普通の心の動きなのだと思います。

これは、親がある程度わきまえ、子供に配慮するべき部分と思います。


しかし、親の立場では、そんな悠長なことも言ってられません。
「何とか、助けになりたい。」そう考えるのは当たり前のことです。

自分の子供が置かれている危機を解消するためであれば、親は何でもすると思います。
そして、実際、自分が何かをしたいと願うでしょう。
そのため、衝動的に、さまざまに行動してしまう親御さんも、たくさんおられることと思います。

しかし、その前に、親が知っておかなければならないことがあると、個人的には思っています。
良かれと思って、迅速に行動してしまった結果として、逆に、子供へのダメージを増大させてしまう可能性が、あります。

親の介入で、子供たちの関係性がいよいよねじ曲がってしまうこともあるからです。

どうしてでしょうか?

なぜでしょうか?

「いじめ」の根本を見つめる

いじめは、人間の防衛本能に端を発していると考えられます。異質なものを遠ざけることで、群れと自分自身が生き残れるようにする機能が残存したものとも考えられます。

本能的な心の働きとするならば、誰しもが持っている心の働きということになります。

そこを認めて、理性的に自分自身の感情や衝動性をコントロールできる人ばかりの社会集団や組織であれば、「いじめ」は根絶が可能ということです。

逆に、理性的でないまたは、衝動性の高い人を集団の一員として許容するならば、必ずいじめは発生します。

いじめを使った人間集団の力動を用いて、人をコントロールしようとする人間の行動が自然発生するからです。

このように、人間の本能的な心情に根ざしている行動がいじめなので、年だけ重ねたような人間がどれだけ増えたところでいじめは社会からなくなることはあり得ません。それに、子供だからといって他人を虐めないと限らないということです。

本能に加えて、複雑化する現代のいじめ

また現代社会においてはいじめの手段も質もより複雑なものになってしまっています。

現代社会における「いじめ」問題の根は、人間の社会性、心理面の、昏い部分に端を発しており、根深く、複雑です。

それは単に異質なものを排除することで、生存の確率を上昇させるというものを超えた何かになってしまっています。

そして、多くの場合「いじめ」は、理屈で起こっているのではありません。

人間の本能に基づく、「感情的な」問題に端を発していることが多いのです。

感情論に乗せて、より複雑な手段で、多数が少数をいじめる構図がたいしたコストもかけずに実現できてしまいます。

これが問題です。

いじめ問題の解決には感情の抑制・コントロールが欠かせないが、それができない人は一定数世の中にいるということ

なぜ、世の中から「いじめ」は無くならないのでしょうか。

その理由は、繰り返しになりますが、感情を理性で制御できる人間ばかりが社会を構成しているわけではないということだと思います。

もしも、世の中にいる全ての人が理性的存在であり続けることができるならば、「いじめ」は問題にはならないでしょう。

しかし、現実問題として、いじめは起こり続けており、実際問題として感情に任せた行動をとってしまう人は、実は多いのだということを示しています。

実際、世の中には「感情的な」問題を解決できない大人はたくさんいます。

 


逆に言えば、大人でさえ「感情」に振り回されてしまうことがあるということです。
ましてや、精神的に発展途上で、未熟な子供たちは、「感情を理性でコントロールする」すべを身に着けていく途上であり、いうまでもなく、その技術も未熟です。

つまり、「いじめ」は、子供たちの本能的な部分、言い換えれば、彼ら自身の感性に深くかかわるような先天的な部分の問題に行き当たる可能性があります。
もしくは、家庭環境や、その子供が抱える心の闇などの問題が背景にあるかもしれません。
こうした、「感情」や「環境」が複雑に絡み合って「いじめ」問題が形成されているかもしれません。

「いじめ」対応の難しさ

こうした複雑な背景がある問題への対応を間違えると、当然問題は解決できません。
さらに悪いことに、問題はさらなる深みへ突入し、解決困難な事態へと悪化することも、知っている事例において決して珍しいことではありません。

たとえば、子供たちは、教師などの裁定者である大人に見える部分で、表面的に解決したようふるまっているだけかもしれません。
子供たちの心の中には、「いじめ」の原因となったような、暗い部分が解消されないまま依然として存在していて、大人の目が届かないような、深く仄暗い領域で、「いじめ」は継続しているかもしれません。
これまで表面的だった問題が、いったん表に現れなくなると、大人が能動的に動いて直接いじめを発見することの難易度が増してしまします。
大人に見えなくなることで「いじめ」は、苛烈さを増すかもしれません。

このような構造で、いじめは対応を間違えると、事態の悪化を招きます。
ですから、直感的には受け入れがたいことですが、親や教師といった大人がが中途半端にかかわるくらいなら、何もしないで、知らないふりをしてくれるほうが、子供としてははるかにありがたいことなのです。

親が「いじめ」に介入するリスク

実際、親に相談することによって更なる事態の悪化を招くことは、彼らが懸念していることでもあります。
親がもし対応を間違えて、事態を悪化させたなら、どうでしょうか?
その後、子供は親を当てにすることができるでしょうか?
たぶん、なくなるでしょう。

ですから親は、このことが、今後一生に大きくかかわる事態に発展することにもなりかねない出来事だと認識する必要があります。
安易に「いじめ」とひとくくりにして考えるべきではありません。
もし、自分たちで問題を解決しようとするのであれば、親には最低限、「場」で何が起こっているのかを整理、言語化したのち、冷静に対処するという、非常に高度な能力が要求されます。
そうでなければ、親の介入はうまくいかず、問題は解決できず、現状はさらに悪化し、親子関係の崩壊まであり得ます。

最後に

そういったリスクを考えると、上記のような制度が生まれたのは本当によいことだと思います。
確実に、親や子供を助ける一助になると思います。
冷静な対応ができる第三者の存在は、大きな支えとなるはずです。

問題は、当事者が、心理的抵抗なく利用できるかどうか。
今後、さらなる具体的解決につなげていけるかが課題だと思います。

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