いち作業療法士として、危険だと思う医療・介護・福祉の組織

お金儲けは必要ですが、行き過ぎると、不幸を振りまく存在になります。作業療法士の多くが働く、医療・介護・福祉の領域においてもそれは同様です。そういう危ない組織の見分け方を書きます。

あくまで、一個人の見解ですが、個人的な経験を共有して、ほかの人からの意見ももらいたいなと思って、いち作業療法士としての見解を書いていきたいと思います。

人の出入りが激しいのに、良い評判を聞かない会社

これは鉄板です。間違いありません。

見知った範囲の病院にしろ、施設にしろ、行政の委託にしろ、当てはまります。

ですので、これは間違いない法則だと思います。

人がたくさん入って、たくさんやめていくというだけでは、「ヤバい」とは思いません。いつでも求人があるからといって、ヤバい組織とは限らないと思います。なぜなら、その組織の要求水準が高くて、ついてこられなくてやめていく人が多いだけかもしれないからです。

例えば、プロ野球などの業界や、ファームと言われるようなコンサルタントの会社などは、たくさん優秀な人が入って、たくさんやめていきます。そういう組織は、悪い評判もありますが、反面良い評判もあるはずです。

しかし、良い評判が伝え聞こえてこない組織は本当に大変です。

「忙しいし、現場をなんとも思ってないかも」

そう考えることができるからです。

ですから、ヤバいのは、たくさん人がやめていくのに、いい評判が全くない組織です。

組織に属する前に、できる範囲で、できる限りの情報収集して良い評判が一つでも得られるかどうかというのは、大きなポイントだと思います。

未来を語れない上司

これは、組織に属してみないとわからないことではありますが、直近の上司と最高レベルの意思決定権を持つ人の振る舞いが組織の優劣を判断する大きな材料になります。

両方、いまいちだと思ったら転職を考えましょう。

一番わかりやすい判断材料としては、トップレベルの上司が3年後、5年後、10年後、20年後のビジョンを語れないともうアウトです。

それもなしに、来年のことを語っているトップは結局のところ何もわかっていないのと同じと判断されても仕方がないのだろうなと思います。

何が正しいかなんて誰にもわかるはずはない、というのは、確かにそうです。

しかし、それでも「こうなっていたい」「こういうポジションを占めたい」という欲求を持ったリーダーがいない組織は、よほど恵まれた人材がいないとただの烏合の集になってしまいがちです。社会貢献のできない組織は、ただの金儲け団体になってしまいがちです。

恵まれた人材も、その力を発揮しきることなく、時間ばかりを浪費してしまうことになるでしょう。

ましてや末端社員が方向性のマネジメントができるわけもないので、病院だったらドクターやら、院長、法人の理事・役員・理事長、株式会社なら株主様がどういう方向性やビジョンを持ってるのかを見抜こうとする努力は必要かなと思います。

変わろうとしない中堅以上、お局様

昔に固執して、いろいろな人のやる気を削ぐ人がいるとまずいです。

若手がどんどんやめていきます。

あるいは、働く若手が仕事に一生懸命にならなくなります。

そういう人に対して、人事権のある人物がきちんと権限を行使できない組織は、ダメな組織です。

経営者と繋がりがあるとかなんとかで、グダグダしている組織は最悪ですね。馴れ合いと忖度で、合理性のない組織が出来上がります。

勉強しない若手

専門職として、必要最低限のことは学校で学ぶとして、それでは全然足りないのにもかかわらず、全くその必要性を感じない若手ばかりの職場はアウトです。

そういう人が、将来役職について組織がまともに回るはずがありません。

まさに泥舟なので、沈む前に他の船にうつるなり、自分で泳げるように泳ぎの練習をするなりしておきましょう。

対象者不在の組織理論

これが最悪の組織です。

顧客からの意見をないがしろにする組織は、だめダメです。

利益優先の組織は、国とか保険とか制度ばかりをみて、対象者の結果に責任を持つことは二の次だったりします。

最悪です。

自分が、そういう組織のお客になってみるのが一番手っ取り早いのですが、できればそういう情報収集をしてみていただければなと思います。

まとめ

結局、人がしっかりとしていれば、組織はしっかりするもの

作業療法士はそこをみぬかなきゃ

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真実が人を傷つける場合にどのようにそれを扱うかという問題について

はじめに

昨日こんな記事を書きました。

OTRとして働く上で必要になると思うものシリーズ2 ストーリーの分析

この中でちらりと、「真実が人を傷つける事に対する配慮がいるんじゃないか」ということについて触れました。

で、今日こんなものを読んだので、

親の年齢と障害のリスクをめぐって

それを踏まえてもう一度思ったことを書いてみたいと思います。

科学的であるという事

個人的に、科学的であるという事は、率直かつ、端的に対応する事柄を表現することだとおもっています。

たとえば、身長150センチメートルで体重120キログラムの人がいたとしてその人に「肥満だ」と告げるのが科学的です。

人間的配慮

それとは別に、人文学的要素というか、人として大切だなあと思うのは、たとえば「肥満」である人にストレートにその事を告げないようにして、相手が傷つかない配慮をするという事だったりするのではないかと思います。

ですから、肥満の人に「デブ」なんて言うのは、あり得ない事でして、「ふくよかな」とか、「ころころとした」とか、そういう丸い言葉に置換する事によって相手を傷つけることを回避することは人として大切にすべき訳です。

紹介したtogetterまとめの内容踏まえて

近年いろいろな論文が示すところによると、子供が何らかの障害を発症する確率は、親が子づくり行った年齢が高ければ高いほど、高くなるということがわかってきています。

今の若い人にとって、このデータが意味するところは、「さっさと子供を作れ」ということになると思います。

一方で、そろそろいい年になってきた人々で、子供が欲しいなと考える人にとっては、これらは非常に厳しいデータとなり得ます。

そして、もし、ある程度高齢になってからの子供が何らかの障害を発症した場合、その親がこうしたデータを知っていると、その障害が自分のせいではないかと考える親も当然出てくるとおもわれます。

こういう、人にとって厳しい厳しい現実にどのように向き合うのかということは非常に大きな問題だと思います。

親や社会が現実主義的視点にたつ場合

論理や確率論で言えば、あるいはリスクやメリットを踏まえた合理的な考え方をするのであれば、子供は若いときに作るべきであり、若いときに作らないのであれば、その子供が障害を持ったときには、しかるべき責任をしっかりと負うことが親にも求められるでしょう。その覚悟も。

「年を取ると羊水が腐る」と発言した芸能人がいました。

彼女は、非常に強いバッシングを受け、その発言を撤回し謝罪をしたことでその件は収束をみました。

ところが、後年になって彼女の言わんとしていた事が、科学的にみて正しかったことが判明してしまいました。バッシングしていた人々は、いったいどんな気持ちになったのでしょうか。

多分相当傷ついたのでは無いでしょうか?

発言をした芸能人を必死になって攻撃してまで、拒否した現実が、科学によってお墨付きを与えられてしまったのですから。

今の社会は、自由主義社会という事になっています。自由主義社会では、あらゆる選択が個人にゆだねられている代わりに、その選択に伴う結果には選択を行った個人に責任が発生します。

つまり、社会は、バッシングをしていた人々に対して、「因果応報」と告げることになるわけです。容赦なく。

非合理性に救われること

コレだけ科学が積み重なっている現代社会においても、宗教や似非科学がなくならない訳について個人的には、人にはだまされたがる、あるいは勘違いしたがる性質があるからだと思っています。

つまり、受け入れがたい事かもしれませんが、望んでだまされるような場合や、そういった性質を持った人がいるのではないかという事です。

このような人は、現実に対して追いつめられている事が多いように思います。現状をかえる事ができない場合に、人は考え方を変える事によって精神的な安定を図ろうとする場合があります。

こうした事を無意識的に意図して、自ら無意識のうちに非合理性に救われているという事は、現実社会にはきっと良くある事なのだと思います。

「人間らしさ」の根源

極論、愛だの、友情だの、信用(貨幣経済含む)もその延長線上だと思います。無条件に信じる事によって救われている事が人間の社会にはたくさんあります。

たとえばウサギとカメという話があります。
たとえば、アリとキリギリスという話も。

これらに共通するのは、まじめにやってる存在が、才能ある存在や努力をしない存在に勝るという考え方です。

でも現実には、努力で超えられない事はたくさんたくさんあります。
リハビリテーションの現場においては、機能回復訓練をクライエントもセラピストも必死になって行っても、ある程度以上に回復する事が無いということもたくさんたくさんある訳です。
機能回復は、ある程度は努力が影響しますが、それでも努力をしたからといって、病前のような状態に回復するとは限らない訳です。

たとえば、こうした現実は、「努力をすれば勝利できる」的な考えをいとも簡単に否定してしまいます。
と、すると、考え方の地平を別の次元に持っていく事が必要になるのですが、それはまた別の話ですね。

とにかく、まじめにやっても報われない事だってきっとたくさんあるのです。

でも、人間ががんばれるのはなぜかという理由を考えたとき、「盲目的に」あるいは「無根拠に」、がんばったら報われると「信じる」ことができるから、というのは絶対にある事だと思うのです。

人間関係がうまく行くのは、そこに「愛」や「友情」や「信頼」が「存在する」と「信じている」からではないでしょうか。

科学は善くも悪くも突き詰めることができてしまう

コレらを科学的に否定してしまう事は、多分できるんでしょう。

人間が進化の過程で、生存しやすい条件を習慣化した結果がそれらであり、別の形で人間が社会のシステムを形成できるようになった時点でそれらは不要になったという、血も涙も無いような論文もきっと書く気になればかけるのではないでしょうか。

でも、そこに踏み込むのって、「人間」というものの否定につながってくるんですよねきっと。

大切なのは突き詰め過ぎない「いい加減」を知ること

作業療法はじめ、リハビリテーション職においては、人間とはなにか、という問いかけが、人権とか、その人らしさというものを考える上で密接に関連してきます。

つまり、どれだけ合理性以外のさまざまな要素に目を向ける事ができるのかという事が大きな要素になってくると考えられます。

そのためには、余裕とかゆとりとか、そういう部分が大切になるのでしょうけれども。

そして、余裕とか、ゆとりとかを生み出す上で最も大切になるのは合理性ですよね…ってあれ?

おわりに

結局、合理性に基づいていろいろやった結果として余裕のある人間が、どこで自分の合理性にストップをかけて、他人を思いやる事ができるのかというところが重要になるんですよね。

ちなみに、書いといてなんですが、これも公言する事ではないと思います…。

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フィードバックは大切だ!!でも、実践ってどうするの?そもそもフィードバックって何や?を自分なりに考えてみました。

はじめに

フィードバックは差異を作る一つの有力な方法。

リハビリテーションである、作業療法にとっては重要な意味を持つ。

フィードバックとは

ある事柄についての、情報、評価を対象者や関連する人に返すこと。

たとえば、総合臨床実習や新人研修などにおいて、一日の終わりなどに実施される。

違い(差異)を作るためのフィードバック

  1. 現状を認識する
  2. 求めている変化を自覚する
  3. 変化の起こし方を考える
  4. 変化とその周辺を継続的に、情報収集し、評価する
  5. 結果について、情報の出力を行う
  6. きちんと伝達する(フィードバックする。)

現状を認識する

あるがまま、ありのままを、情報化する。(現状認識)

求めている変化を自覚する

どうしたいのか、どうなりたいのか(目標)

変化の起こし方を考える

現状と目標の差異を認識し、それを埋めるための具体的な方法を模索する(戦略)

変化とその周辺を継続的に、情報収集し、評価する

変化を見落とさない(注意)

結果について、情報の出力を行う

変化の内容が十分に情報化されている(情報化)

きちんと伝達する

相手に伝わらなければ意味が無い(伝達)

おわりに

リハビリテーションは、変化を求めて実施したり、あるいは維持を目的におこなう期間のあるものとされています。

昨日、とある事柄がきっかけでフィードバックって大切だなと思ったので、自分なりにまとめてみました。

たとえば、フィードバックの使い方一つで、有効性を確認できたり、あるいは、自信が高まったりして、次の活動が変化していきます。

そして、作業療法実施の場面においても、常にこれを意識することによって、状況が漫然と進行したり、あるいは重要な「なにか」が流れていってしまうことを防げるのかなあ、と思います。

実習生や新人OTの一つの課題だとおもいます。

がんばろー。

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日々の気づきを文字化することの大変さについて

はじめに

実習中も感じていたことですが、振り返りが自分の成長により顕著に結びつくようになって思います。

自分には文才がないようです。

あとは、無いなりにどのように工夫するかという話です。

文章化とは

表現の対象を、文字情報にすること。

外部出力して、保存ができるので、共有したり、後で活用したりできる。

目的

自己理解を促すと同時に、他者からの批評、批判、フィードバックをもらい、自分の成長につなげること。

また、他者がみたときに、その人にとって何らかの役に立つこと。

文章化にて意識していること

他の人と共有できる内容になっているかどうかということ

自分自身が後で振り返ってみることができるような形式で書いているかどうかということ

の二点。

最近気になっていること

書きすぎないこと。

要点をまとめて端的に伝えられるようにまず、自分の頭を整理しておくこと。

そうすることによって、人に自分の考えをスムーズに伝えることができる。

同時に、自分自身も後で振り返ったときにそのときに考えていた内容を追いかけやすいという気がする。

大変なところ

最近記憶力が低下しており、自分が体験したことを思い出すのがとてもとても大変なこと。

同時に、自分がイメージしていることを、まさに、ジャストに伝えられるような、ニュアンスをできる限り正確にとらえているような表現をすることが難しい。

対策と方針

とにかく書いて書いて、量を書く。

書いてみて、自分で読みやすいと思ったものについて、他の人に呼んでもらって批評をもらう。

その批評をもとに改善するべきポイントについて考える。

いわゆる試行錯誤が、一番早道な気がしております。

あとは、淡々と、語彙力を増やすための勉強を重ねていくこと。

まとめ

自分がしていることが他人に伝わるように書くだけでなく、自分自身が後で呼んだとき、自分の成長につながるような内容にすることが大切なんだと思います。

おわりに

作業療法士にとっては、文章化という作業はさけて通ることのできないものだと思います。

リハビリテーションの臨床家、実践家であると同時に、常に作業療法学というものを学びつつ、それらを踏まえて自分の体験を他の人に伝える必要があるからです。

とは言っても、いきなりいい文章が書けるようにはなりませんし、徐々に改善してくつもりです。

いずれは、論文とか書く心づもりですし。

最終目標は、芥川龍之介先生あたりです。

まあ、今後もぼちぼち更新します。

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アルツハイマー型認知症の治療法の最先端二つの紹介+α

はじめに

アルツハイマー型認知症は、現在社会的な問題として認知され、TVなどで日常的に取り上げられています。

作業療法士協会も、認知症に関する取組みをいくつか行っているようです。

さて、現在のところ、アルツハイマー型認知症は進行性の疾患で改善が難しいとされています。

そのいっぽうで、徐々に改善効果が期待できる治療法も登場しているようです。

ネットの記事で同時に2つ見つけたので紹介します。

一つ目:脳に『ペースメーカー』を設置する

情報源:‘Brain pacemaker’ may slow effects of Alzheimer’s – TODAY Health

このペースメーカというのは、厳密に言えば比喩的な表現なのですが、脳に電気的な刺激をコンスタントに与えられるように、外科的な手法を用いて機械を取り付ける治療法だそうです。

この機会の電気刺激によって、神経細胞の委縮や変性を防ぐことができる可能性が明らかになってきているようです。

アメリカの事例では、症状に確実な改善が見られたとのことです。

2つめ:アミロイドタンパクを酵素で分解

情報源:アルツハイマー病の血管からの投与による遺伝子治療実験に成功:報道発表資料|2013年 プレスリリース|理化学研究所

アミロイドタンパクが原因とされるアルツハイマー型認知症。このアミロイドを分解する酵素「ネプリライシン」に着目した治療法。

この酵素を産生する遺伝子を、ウィルスベクターを用いて神経細胞に取り込ませることによって、症状の改善を図るというもの。

そういえば、ウィルスベクターは、山中先生がノーベル賞を受賞することとなったiPS細胞の作成にも使用されていましたよね。

今回の発表において、画期的な点は、このウィルスベクターが神経細胞だけに働くようにすることによって、血管に投与するだけで効果が得られることです。これによって、以前のように外科的手法を用いることなく、標的とする脳神経、脳組織にのみウィルスベクターを働かせることが可能になると期待されています。

まだ、マウスを使用した実験段階ですが、コストや安全面の問題が解決されれば十分臨床応用が期待できそうです。

おわりに

現在は進行性のアルツハイマー型認知症。

その治療の常識が変わるその日が待ち遠しいですね。

効果の次第によっては、アルツハイマー型認知症に対する作業療法やリハビリテーション、福祉、行政の在り方も大きく変わるかもしれません。

追記:

こんなものもありました。

Neurotrack to Detect Alzheimer’s Years Before Debilitating Symptoms Appear Wins SXSW Health Prize : Science/Tech : Counsel & Heal

アルツハイマー型認知症の事前診断法についての記事です。

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対象者の人生の文脈を踏まえた有意味な作業の、素敵な例のご紹介

はじめに

リハビリテーションを支援するときに、作業療法士は作業を用いて患者様を支援します。

この時に大切にしなければならないことがあります。

ある人が、今までにどんな人生を送ってきたか。

どんなことが好きで、何に慣れ親しんでいて、どのような習慣を持っているのか。

こういったことに着目することにはとても意味があります。

「有意味であるという事」の意義

諸事情により、難しい場合、場面も多々ありますが、提供する作業には、支援の対象となるご本人の希望が極力取り入れられているべきと、考えます。

リハビリテーションの主体であるその人が、笑顔になれるし、リハビリテーションへの活力へとつながるからです。

その具体例としてのん様(@onitree)のツイートがとても素敵でした。ご紹介させていただきます。

対象者の方、なぜ、笑顔になったのでしょうか?

もちろん、のん様(@onitree)のセッティングとか、話の運び方が素晴らしいというのは間違いないので、それは前提。

それは、ご本人の希望が、自尊心が満たされる、「したいことができた」という体験があるからだと、ひろえもんは考えました。

その人の「したい!」「やりたい!」という希望を引き出し、踏まえた活動を提供することが同時に、治療的にも、リハビリテーション的にも意義の大きなADL動作へとつながっていて、素晴らしいと感じました。

こうした支援ができる作業療法士を目指したいと思います。

おわりに

そのひとが何を大切に思っているのか。

その思いが反映されるとき、素敵な作業療法が提供できるんだな、と感じさせていただきました。

最後に、のん様(@onitree)、快くツイートの使用を許してくださり、ありがとうございました。

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町内会という組織 ~過ちに気が付いた、十年前の五十代と、ある種の諦め~

はじめに

今日は、地域に関する話題。
飲食店でのおばちゃん(初老)のお話を聴いて、考え知られたこと。

なかなか衝撃的だったので、ご紹介いたします。

状況

おひるごはんを食べました後、飲食店で少し参考書を読みながら過ごして居ました。
すると、集中力が途切れてしまいました。

そして、長居していたおばちゃん四人組のお話が耳にとまりました。
その内容は、地域に関することでした。

それはそれは考えさせられるものでした。

内容の詳細

まとまりに乏しいですが、具体的には、次に記すような内容です。

ご存知の方も多いと思いますが、地域には、大体町内会があります。
そこで、ある程度の役割があり、助け合いを行っているという背景があるようです。

しかしながら、働き盛りの世代は、全くそのような仕事を引き受けることが無いとのこと。
「仕事があり、そちらが忙しいので、町内会の仕事までできない」
と、いうのが主な理由です。

そして、自分の親が、介護などが必要になったりして、地域の助けがないと生きていけない段になってから、にわかに町内会の仕事をしたり、ご近所づきあいを始める人が多いとのことでした。
つまりに、必要性に迫られるようになってからご近所づきあいをするようになる人が多いとのこと。

それが、おおよそ60才前後。
いまの60代は確かに若い。元気。

だけど、いかに若いと言っても、40代くらいの助けがないとできないことも、実際には、割とある。
しかし、そういった人たちは、町内会の仕事を引き受けてはくれない。

そして、自分たちだって、引き受けてこなかった。
だから、何も言えない。

いまは、まだやれている。
町内会の仕事も何とかまわっている。
だけども、あと10年、あるいは、15年立った時に、きっと、今のままでは、町内会という組織はなくなっているのではないか。

まだ、その土地で、大きくなった人は、町内会や地域に対して関心を持ってくれることもある。
しかし、よそから引っ越してきた人たちは、そんなことに見向きもしない。

まあ仕方ないよね。
でも、どうなるんだろうね。

そんな内容です。

自分を振り返ると

実は、自分は、そういった、町内会関係の役割や、活動とは無縁のまま大きくなりました。
人によっては、信じられないかもしれませんが、町内会の仕事とか全く手伝ったことありません。

なので、実のところ町内会とは、どういった組織で、どのような役割があるのかということについて、ほぼ知識がありません。
おそろしいことに、割と代々その土地にて、暮らしている家なんですけど、こんな感じです。

あまり、新しく人が引っ越してくるような土地柄でもないんですが、ごくごくまれに、引っ越してきた人とのかかわりは、本当に道ですれ違った時に、あいさつをする程度です。
これは、実は、とんでもなくまずいことなのかもしれません。

そして、リハビリテーション的観点からみると

作業療法でも、 「これからは、地域だ」などといわれている。
病院で面倒を見るだけの、医療費を維持することは、人口ピラミッドとかを見ても、明らかに不可能です。
だから、当然、できることなら地域で暮らしていこうという発想になるのだと思うのです。

でも、ひょっとすると、その基盤となってくれるはずの、地域というものが、単なる幻想にすぎないのかもしれないという、そんなことを考えさせられました。
そんなわけで、おばさまたちのお話は自分にとっては、相当興味深いものでした。

このおばさま方のしていた会話は、凄く日本の構造的な問題をズバッと言ってるなあと思う処がありました。

「帰る場所」であるはずの、地域というものが、そもそも、存在しない、そういう未来が、もう、目の前に迫っているのかもしれません。

おわりに

このままでは、良くないことが、きっと将来起こるんだろうなということは、間違いないと思います。

難しいことはよくわかりませんが、地域というものを、もう一度、見つめなおすような、そういう社会全体としての動きがひつようかもしれません。

ひろえもん個人としては、必要だと思います。

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「生きるをどう定義するか。あるいは、生きるとは何か。」という哲学的問いが高齢期医療では、重くのしかかる。と感じた件について。

はじめに

実習時の個人的な体験に基づく話です。
実習にこれから行かれる方で、もし、この記事を読んでくださっている方があれば、自分なりに考えてみてもらえると、書いてみた甲斐があります。

実習に出るまで、分からない現実があります。
教科書に書かれていない要素も、臨床ではたくさん起こっています。
その中で、あえて詳しく取り上げていないことも、たくさんあると感じました。

その中の一つについてです。

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高齢期の患者さまばかりの病院

自分が、実習をさせていただいた病院では、作業療法の対象となる方は、ご高齢者の方が多かったです。
普段日常においてあまり、関わることの無い世代の方と、たくさん関わらせていただくことができました。
その経験は、自分の貴重な財産になってます。

そんな実りの多い実習ではありましたが、反面、「ままならないなあ」ということもたくさんありました。

その中の一つが、人生への満足を表明される方にどう応じたらいいのかという事でした。

「もう十分生きた。死にたい。」

という趣旨のことを、患者様が、おっしゃるわけです。
自分は、高々20年あまりを生きてきた若輩者です。
そんな人間に対して、患者様の中には

「もう十分に生きたよ」
「いい人生だった」
「満足」
「だから、苦痛が続くのに生きている必要を感じない」
「なぜ、リハビリをしないといけないのか」

という、趣旨の発言をされる方がいらっしゃったわけです。

しかも、お1人やお2人ではないんですよね…。
結構いらっしゃる。

結局、実習中、自分は
「そんなこと言わないでください」
とか
「お会いできてうれしいです」

とか返して、ある意味で、患者様の問いから逃げることしかできませんでした。

きっと、自分の中に、その問いの答えが無かったからです。

患者様は、自分の死を選べない

いくら、ご本人さまが「死にたい」といったって、そんなこと周囲が絶対に許さない環境の最たるものが病院です。
生命の危機から、脱して、社会に戻れるような基礎を作ることは、病院の重要な役割の一つだと思います。

けれども、いろいろあって、退院できない患者様(社会的入院)となっている方も、やはりたくさんいらっしゃいました。
そういった方々の中で、死にたいとおっしゃっている方がいらっしゃるわけです。

病院は、患者が入院したら、退院するまで、死なないように面倒を見続けてくれます。
たとえ本人がそれを望まなくても、ある意味、本人のそういった感情などは無視して、医療的な延命が行われているのかもしれない。
そう思ってしまうような、現実を経験しました。

今日見た記事ですがこんなのがありました。

 麻生太郎副総理は21日の社会保障制度改革国民会議で、高齢者など終末期の高額医療費に関し「死にたいと思っても生きられる。政府の金で(高額医療を)やってもらっていると思うと寝覚めが悪い。さっさと死ねるようにしてもらわないとかなわない」と述べた。

同時に「高額医療を下げて、そのあと残存生命期間が何カ月か。それにかける金が月に何千万円か、現実を厚生労働省も知っている」とも述べ、財政負担が重い現実を指摘した。

2013/01/21 13:51   【共同通信】

麻生太郎副総理の発言は、財政に配慮したものであることは間違いありませんが、その一方で、きっと、「さっさと死ねるようにしてもらわないとかなわない」という発言は本音なのだろうと勝手に思いました。

実は、自分が、患者様の問いに対してろくな返事ができなかったのには、もう一つ理由があります。

それは、自分が患者様と同じ立場に置かれたときに、自分はきっと、この患者様と、同じことを感じ、同じことを言うだろうと、そんなことを考えてしまったからです。
「相手の感情に巻き込まれるとは未熟だ」
というご意見もございますでしょうが、ともかく、そんな風に考えてしまったのです。

だから、何も言えなくなってしまいました。

逆に、「そうですよね」なんて、言ってしまいそうでした。

おわりに

最近、とみに、
「どう生きるかということは、どのように人生を終わらせるかだ」
と感じます。

人生はよく、物語にたとえられます。
物語は、いくら始まりや途中の盛り上がりが良かろうが、終わりが悪ければ、その物語への評価は下がってしまうと思います。

いくら考えても答えは出ませんが、何と答えるべきだったのでしょうか。

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科学的根拠の乏しい補完代替医療(CAM)と、医療従事者が理解しておくべき、人間のこころの動きとの重要な関係

はじめに

なぜ、ヒトは、自己への治療選択の場面において、客観的(統計学的)に見て、有意味でない(ひょっとすると自己に損失を与えかねない)行動をとってしまうのでしょうか。
ということが、この記事のテーマになるかと思います。

日本に住んでいて、公的扶助が受けられ、そこそこの生活ができているという前提のもとで話します。
もし、病気になれば、多分、病院へ行くでしょう。
そして、医師の診断を受け、処方箋を受け取り、薬を購入して帰るかもしれません。

しかし、その枠組みから大きく外れることもあると思います。
まず、入院の必要が認められるほどの病気となった時、そしてその先の話をしたいと思います。
そして、そのあと、ヒトは何を思うのだろうかということへの言及と、それにどう寄り添ったらよいのかということへの自分の考えを書いてみたいと思います。

良かったら、読んで、そして、考えてみてください。

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補完代替医療(CAM:カム)って?

まず、補完代替医療とはなんでしょうか。
厚生労働省のがん研究助成金をもとに執筆された「がんの補完代替医療ガイドブック第3版」には次のように書かれています。

 補完代替医療は、英語でComplementary and Alternative Medicine(コンプリメンタリー・アンド・オルタナティブ・メディシン)といい、頭文字を取ってCAM(カム)と呼ばれています。

補完医療:私たちが受けている現代西洋医学(通常医療)を補う「補完する」医療
代替医療:現代西洋医学(通常医療)にとって代わる、言葉通り「代替する」医療

 この二つの医療は、別々に異なるものもありますが、多くは分けることが困難な場合が多く、両者をまとめて補完代替医療といいます。


「がんの補完代替医療ガイドブック第3版」より

以下、補完代替医療という言葉を、この説明に沿うものとして使います。

さて、この説明から分かるように、通常医療の枠組みの外側に存在するセラピー(治療法)などを指す言葉であると考えることができます。
つまり、医学的根拠が、現在の医学体系からは説明困難で、その効果も説明ができていない治療法ということができます。

たとえば、がん患者に人気が高い、アガリスクなども補完代替医療の枠組みの中に含まれます。
他には、最近あまり良くない文脈で世間を騒がせたホメオパシーなども、その一つということができます。

繰り返しになりますが、これらの治療法には科学的根拠がありません。
エビデンスではなく、独自のセオリーや哲学に基づくものであり、他者に客観的な事実を示すことが困難な治療法です。
効果が全くない可能性や、ひょっとすると、良かれと思って行った治療法が、実は害を及ぼす可能性もあります。

しかし、西洋医学的な切り口から見ると、すっぽりと抜け落ちてしまいがちな、ある視点が、この補完代替医療とそれを利用する患者様との関係性築くとき、きっと重要になると思う、ということを後述します。

補完代替医療へたどり着くまで

推測ですが、西洋医学で何とかなることが理屈として把握できる場合には、その人は補完代替医療というものに全く価値を見出さないでしょう。
おそらく、人が、補完代替医療に注目するのは、病気を治すという観点において、病院で「現状の医学では治すのは難しい」と言われた場合だと思います。

末期がんとは、要するに治る見込みのないがんのステージを指している用語です。
この、末期がんのステージにある人々には、がんが治る確率の高い治療法というものが、現在の医学では存在していないということです。
そんなときに、「大切な人との、最期の時間を大切にしてください」といきなり言われても、どうでしょうか。

困りませんか。
きっと、いろいろな考えがぶわあって浮かんできて、とりとめがなくなり、考えがまとまらなくなると思います。

そんな中で、多くの人が、まず、現実を否定すると思います。
つまり、「治らないなんて嘘だ」「自分があと少しで死んでしまうなんて考えられない」です。
そして、「自分の病気を治すことができる治療法が、世の中のどこかにはきっとあるはずだ」という着想にいたるのだとおもいます。

要するに、絶対的な死に見つめられた人間の、「なんとか助かりたい」「どうにかよくなりたい」という願いが、そういった行動として現れているのではないでしょうか。

なぜ「治る」のか、そもそも西洋医学の場合だって、普通はよくわからない

代替、専門知識がないような場合には、西洋医学も、それ以外も患者にとっては治療効果があるとかないとかは、なかなか判断が難しいことだと思います。
たとえば、ホメオパシーの理屈は、「免疫(めんえき)を賦活(ふかつ)する」なんて説明されると、なんだか、とってもそれっぽく聞こえるのです。
だれでも、「免疫」くらいは知っているし、「賦活」が「働きを活発にする事」と説明され、さらに、その方法についてとうとうと語られると、なんだか、科学的根拠があるものであるかのように感じられてしまう人も多いのではないかと、おもいます。

が、西洋医学における免疫のシステムと、レメディの理論は、どう考えてもかみ合いません。
この矛盾は、「西洋医学の免疫とホメオパシーにおける『免疫』は別物である」と主張することによって回避ができますが、個人的には、「そんなん、詐欺やん」って感じです。
でも、きっと、本当にうっかり騙されている人もいるかもしれませんが、御幣のある言い方をあえてすると、そうではなく、「望んでだまされる」人も少なからずいると思うのです。

このことが、今日一番語りたいことです。

そこに希望がある。

現実的な要素を初期条件(仮定)とし、そこから論理的な思考や推論によってに導かれる結果は、その仮定や過程に誤りがない限り、揺らぎません。
その結果を、変更するには、新しい変数を登場させる必要があります。
そうすれば、出力される結果は変わります。

なにもしなければ、結果は何も変わりません。
なにかすれば、結果は変わるかもしれません。

そこには、夢があります。
現実的ではないかもしれません。
でも、それは、生きる希望となるかもしれません。
自分の生きようとする意志を、自分で確認する手段となるかもしれません。
自分が生きていることへの証となるかもしれません。

そんな微妙な差異が、きっと、補完代替医療を求める人間のこころに、とても大きな影響を、与えているのだとおもいます。
そして、そんな差異が、自ら進んで、西洋医学の範疇から飛び出すことによって得られる、心理的な状態を作りだすもとになっていると考えられます。

 医療従事者は、こんな、こころの動きがあることを、理解しておくべきではないでしょうか。

補完代替医療は宗教か?

こんな記事がありました。

私は腫瘍内科医として、免疫療法は否定する立場です。
(中略)
私もこれまで多くの患者さんを診てきて、何十名もの方に「いい治療法があるって聞いたんですけど・・・」と言われてきました。
私はその都度、それらの治療法の科学的根拠のなさ、言うなれば人体実験を自らお金を払って受けているようなもの、がんビジネス(金儲けだけ)という場合もある、など、丁寧に説明してきました。
もちろん、それで思いとどまってくれる方もいるのですが、「それでもやっぱり受けてみたいから」と治療を受けられる方も大勢いました。
(中略)
まさに「信じるものは救われる」の世界で、私がいくら「やめなさい」と言っても「信じた私たちは幸福だから」と言われると、本当の意味では何とも言えないのではないか、だとしたら私が反対している、このこころの動きは何なのだ?ということに思い至ったわけです。

免疫療法を宗教的な観点から考え直す - かわさきOncology&Palliative Care より

物理的には救われなくても、信じることによって、精神的に安楽になることができるものを宗教と呼ぶなら、補完代替医療は立派に宗教だと思います。
なので、医療従事者は、一つの宗教として、補完代替医療とお付き合いすればよいと思います。

相手の信じる神を、否定すると、不毛な戦争が起こります。

肯定するわけにはいきませんが、同時に、直接的で、強力かつ、断定的な否定は、よっぽど緊急性がある場合を除いて、避けるべきだなあと思います。
とくに、それが、生きることへの希望となっている場合には。

さいごに

医療の現場では、看取りをすることもあると思います。
その時に大切なのは、対象者が何を大切に生きようとしているのか、という事なのだと思います。

作業療法としては、対象者がしたいことを支える、というのは、一つの重要なリハビリテーションの為の手段であると思います。

その人が、最後まで前向きに生きれるような支援ができると、よいと思うのです。

関連記事:

とあるインテリの、きらきらとした、生と死の突端の記録 「流通ジャーナリスト 金子哲雄 僕の死に方 エンディングダイアリー500日」 – OT戦士ひろえもんの雑記帳 : 作業療法.net

この記事は、以下を参考にしました。
「がんの補完代替医療ガイドブック第3版」

免疫療法を宗教的な観点から考え直す - かわさきOncology&Palliative Care

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与えられるだけの人生には、きっと、互いに与え与えられる人生で得られたはずの半分がない

はじめに

こちらのサイトさんの記事を読んで思ったことです。

国家といえども贈物を与えることで人間の精神を破壊する権利はないーオクタビア・ヒル、スラム改善の武装せる女神(アテネ)

おもわず
「うむむ。」
とうなってしまいました。

内容について

要約すると、

19世紀イギリスには、社会活動の分野で活躍した著名な女性が二人いた。
一人がナイチンゲール、そして、もうひとりがオクタビア・ヒルである。
オクタビア・ヒルはナショナルトラスト運動をはじめた人物の一人として有名であるが、それ以外の功績も注目に値する。
その功績とは、「住宅管理」であった。
それは、「スラム」の根本的な問題に対処できる、きわめて有効なアプローチであった。
彼女は、「スラム」を改善するために、ただ、豊かな生活環境を支給するのではなく、スラムから移住した住民の間に相互関係を構築させ、相互に助けることを身に着けさせた。
これによって、住民の民度そのものを底上げする事につながり、ひいては、スラムがさらに荒廃していくことを防ぐことに成功した。

という内容。

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一部詳細

より詳しい内容は、もとのサイトをたどっていただければと思うのですが、個人的には非常に納得の行く内容でした。
全体的に、「ほんと、そのとおりだよ!」と思ったのですが、とくに共感した内容は次のような部分です。

 オクタビア・ヒルは「住宅管理」で、スラムを改善しようとした。
スラムをぶっつぶして公営住宅に建て替える方法には(これに先鞭をつけるのもやはりイギリスなのだが)、オクタビア・ヒルはずっと反対していた。
なぜなら、建物を取り替えても、そこに住む人たちの生活が変わらなければ、そこは再度スラムになるからだ。

これは、非常に納得の行くことではないでしょうか。

貧困の原因

その町が荒廃するか、それとも、美しくあるかということは、結局その町に住んでいる人々の行動様式や、知識、技能、規則などに準ずるわけです。
それらが乏しい人々が暮らす街は、やがて荒廃したものとなっていくでしょう。

その結果として、貧困が目に見える形になっているのではないかという意見には非常に納得します。

ある個人が、貧しい生活を継続しなければならない背景には、そもそも、その人の生活が変わっていないからという背景があるという事実にきちんと焦点を当てているわけです。
もし、生活構造を見直さずに、必要物資を周囲が与えるような生活が変わらない限り、その人には永続的な周囲からの支援が必要となります。

人は人に何を与えられるか?

ところで、人が人に与えられるものは、金的、物的なものだけでしょうか?
個人的には、そうは思いません。

人は、人がどのように生きるのかということについて、影響を与えることができます。
人は、しぐさや、言葉によって人を笑顔にすることができます。

人は、人に心理的影響を与えることができます。

これは、たとえ、お金や資産が無くても、できることだと思います。

人によっては、金銭に引き換えられないものは、資本主義的には無価値だというかもしれません。
それは一つの考え方としてありだと思いますが、でも、お金が無くても、人にあげられるものはたくさんあると思うのです。

普段から、そういったものにきちんと気が付いているかどうかってとても大切なことだと思います。
そして、それこそが、実は、人が貧困になったとき、どの程度まで生活水準が堕ちるかという部分に大きくかかわっている印象があります。

終わりに

人は、人に目に見えないものをいろいろな形で与えながら生きていると思います。

本当の意味でのリハビリテーションとは、ヒトのこういった側面もきちんと見れる必要があるのではないかと考えさせられる内容でした。
特に精神科。
生活保護の実態とか頭が痛い部分が山積みですが、今日取り上げた内容がいつか役に立つ日が来ることを願わずにはいられません。

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