ごく最近「作業療法士冥利につきるな」とやりがいを感じた瞬間

作業療法士には、それぞれ色々なやりがいを感じる場面があると思います。

先日、自分がやりがいを強く感じたのは、自分の対象者の方が、ご本人の言葉で、実際の体験の気づきを言語化できた時でした。の巻。

作業療法ってなんだ?

作業療法とはでも触れましたが、作業療法ってなかなか一言で言い表すのが難しいのです。

確かに、やってもらうこと、やること自体はとてもシンプルです。

だからと言って、

「作業療法って、絵を描いたり、塗り絵するんでしょ」

と言われて、なんとなくそれを肯定するのに引っ掛かりがあります。

別に、活動をしてもらうこと自体が目的ではないし、全員が全員に創作活動をしてもらうわけではないからです。だから、自分の中で、そこを素直に肯定できない時があります。

大切なのは、ちゃんと「作業」かどうか

対象者の方にとって必要なことを獲得してもらうために、とか、

やりたいことや自己実現の手段や目的として、とか

作業としてアクティビティを用いるというただそれだけのことなのですから。

作業療法というのは、やはりどうして作業を使うのかが大切です。

意図を見抜かれた「作業」

そして、その目的をきちんと達成できるように協働することはもっと大切です。

作業療法として提供した作業の目的に対象者の人が自分で気づいたんです。

この間。

どういうことかと言いますと以下のようなことです。

やや、若干活動性の低い若い男性がおられました。

最初はおたのしみとして、とある活動を「作業」として提供していました。

「ちょっとやってみない」

なんて言って。

すると、ある程度定着して、自分から積極的に取り組めるようになってきていたんですね。

そして、別の集団活動に参加して、その人の成長ポイントの話になりました。

ふと、

「ああ、これって、◯◯(「作業」の名前)と一緒ってことね」

対象者の方の変化のきっかけを手伝えると楽しい

今回関わらせていただいたこの男性、おたのしみとして導入した作業を通して、自分の課題に気づいて取り組めるようになっていたのです。

そこに対する言語的な介入はほとんど行っていません。

むしろ、非言語的に、感覚的に本人が成長して変わっていることを実感できるような構造で、「作業」を提案し、そのための環境を提供しました。

「作業」を通して、蓄積された感覚が経験となって、その人の気づきにつながり、より良い決定や選択肢の幅を広げていく、そんな瞬間を目の当たりにしました。

この時はガッツポーズしたくなりましたね。本当に。

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作業療法士の仕事のやりがいをすっと感じた瞬間でした。

本当にすごいのは当事者・対象者

別に、作業療法士がすごいわけでもなんでもなくて、それは対象者の方の努力や頑張りだったり、センスだったりなんです。

本人の自発性がないと、作業療法として関わるのはかなり難易度が高いですので、作業療法士は常に対象者の方のやる気や頑張りに助けてもらってるわけです。

ですけれども、対象者の方が、作業療法としてやってるアクティビティを、自分とその活動、「作業」の意味を整理して、「ああ、こういうことなんですね」と、理解できて一歩進めた時は、それは本当に嬉しいですね。

嬉しかったです。

確かに、やってることは、切ったり、貼ったり、塗ったり、みたいな一見単純な活動なんですね。

ですけれど、そこには明確な目的と、目標設定に向けた訓練としての意図もちゃんとあるわけで、実際にそれを感じ取って、対象者の方が自ら感じ取ったものを自分の言葉で言語化してもらえる瞬間はたまらないですね。

それが聞けると、作業療法として一緒にやってることが、積み重なってる感があり、成長や回復の過程の手伝いが多少なりともできているという確信めいたものが持てるので元気が出ました。

要するに

治療としてそのアクティビティを選択した意図を、こちらから説明する前に、自分でしっくりきてもらえて、ご本人が言語化できて、そこで自発性やら積極性がてできて、自立度も高まって、汎化できて、習慣化して、生活の基盤ができて、リカバリーが高まって、リハビリテーションとして成立すると、本当に作業療法士冥利に尽きます。

なんか、そういう狙いが、うまくコーディネートできた時は、

「やったった」

感はあります。

正直。

自由ゆえの作業療法

作業療法士の仕事は、法律で規定されています。

もちろん大枠は、医師の指示の下、です。

しかし、医師が示すのはあくまで方向や大まかな結果であって、そこにどのようにして至るかという道筋は、作業療法士に委ねられるわけです。

ですから、なるべく対象者の方の作業療法の成果が最大化できるように、介入・支援を最適化しようとします。

そうした積み重ねは、単に良い治療成果がもたらされたというだけでなく、対象者の方と治療者の関係性や信頼性を強固にしてくれて、より大きな結果に繋がる提案を行いやすくなる気がします。

そうした、関係性などのトータルコーディネートも含めて考えて、作業療法ができる環境が最近はあるので、ああ、本当にありがたいなあ、と、感じています。

介入・支援の切り口は無限にあった方がいいので、やっぱり自由度って大切だなあとつくづく思います。

やっぱり勉強大事

唐突にブッコミましたが、勉強は大切だな、とその前の自由度に関連して思います。

勉強て言うと、専門知識の学習とかイメージされるかもしれません。それらは、当然大切です。

それはスタートラインとして、

けれど、それだけじゃなくって、色々なことを吸収して自分のものにしておくことはすごく大切だと思います。

人生なんでも経験とはよく言ったものです。

残念ながら、経験してないことは、思いつきで実践することは難しいです。

だから、作業療法士としては、色々なことに興味を持っておく習慣が必要です。

それさえあれば、より良い作業療法を行うために作業療法士自身ができることが増えるかもしれません。

そうすると、色々な活動を作業として使いやすくなります。

活動を作業として用いるのに、作業療法士が熟練している必要性はありません。

ありませんが、熟練している方が、作業として提供するのは楽に行うことができます。

用いる作業の幅が広がれば、作業療法対象者の方へのサポートを最大化しやすくなります。

具体的かつ、感覚的な気づきを持ってもらいやすくなります。

それは、強力な学びや経験となって、その対象者の方の判断や思考パターンをより本人の希望に沿うものに近づけ、その後の人生を自らが望む方向へコントロールする力を大きく左右することになります。

だから、勉強が大事だな、いろんな人生勉強はしておくべきだなあ、と思ったりします。

作業療法の実践にやりがいはいらない

ここまで書いておいて、じゃあ今までの文章はなんだったのかということを書きますが、作業療法に作業療法士のやりがいを持ち込んだらアウトだと思います。

客観的な判断ができなくなるし、「作業」の影響をきちんと評価できなくなるからです。

やりがいありきではなくて、たまにご褒美としてやりがいが降ってくることがある。

それくらいに思っておかないと、自分の場合はすぐに調子にのるのでいけません。

あくまでクライエント中心が、作業療法のモットーですから、それを完遂できるかどうかがまず大切です。もし、作業療法の対象者の方が、その人の望む方向に進むやくに立てたと明確な時だけは喜んで良いかもしれません。

結局この記事はなんだったのか

作業療法の場面での、対象者の方の発言に嬉しくして、調子に乗って舞い上がりそうな自分を客観視するために書きました。

現場からは以上です。

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OT評価実習生:OTSにOT五年目が感じた 実習中の成長を左右する要素の「ヤバさ」

短期(評価)、長期(総合臨床実習)に関わらず、実習中の学生目線だと理解できることがあります。

一方で、経験年数が増えて、経験値もそれなりに増えると、ここ最近はじめて感じることがありました。

その2つの間のギャップの話です。

「何をしに、実習にきたの」

実習を通して、成長する学生と、

あまり変化なく帰っていく学生との間には、いろいろな違いがあります。

その違いは、普段の臨床にも通じる大切な「違い」だと思っています。

後者の学生がよく言われるのが、

「何しに来たの」

です。

これが、その理解のためのキーワードであるように感じています。

何のための実習かがわからない

「実習に行くことになっているから、実習に行く」

という学生が少なからずおります。

実習のための実習、実習が自己目的化している学生です。

こういう実習生が、上記のような質問を実習中に繰り返しぶつけられて、あまり成長なく、実習に対する傷つきだけを感じて帰っていくことが、ままあります。

そのタイプの実習生は、なぜ生まれるのでしょうか。

そしてなぜ、実習生は傷つくのでしょうか。

作業療法学生:OTS目線での実習

申し訳ないのですが、引用できる資料もないので自分語りになります。

でも、自分の学生時代、OTSのときの実習を振り返ると、その傷つきのヒントにはなると思います。

学生の頭の使い方の典型とおもうのですが、

「学校で学んだことを、臨床で生かす」

という思考回路があります。

学生の作業療法観は、授業の中の情報や、講師の話によって構成されます。

それのみによって構成されていることがほとんどではないでしょうか。

すると、学生の行動原理は、

「いままで自分が学んできたことを実践してみること」

になります。

そして、それができることによって、実習が合格となるというモデル(妄想)が頭にあります。

これが、実習の為の実習であると、臨床家のOTRのみなさまから批判されるところだと思いますが、学生の側からすると、むしろ自然ながんばり方なのではないでしょうか。

それなりに臨床経験のある作業療法士:OTR目線での実習

一方で、かつてOTSであった作業療法士:OTRの側に立つと、今、実習で学生に求めることはシンプルです。

目の前の対象者に対して、いち作業療法士、いち臨床家としての今の自分での最善を尽くすこと、です。

作業療法士として、実地で経験をかさねていくうちに、自然と評価できるようになることはたくさんあります。

それは、養成校で学ぶこともたくさんありますが、養成校で学ばない、学べないこともたくさんあります。

身体障害領域で例にとると、ポジショニングの常識も日進月歩です。

かつては、

「隙間をうめる」

がポジショニングの王道でした。

しかし、やり方をまちがえると、日々のポジショニングの積み重ねが屈曲拘縮をつくりだしてしまうということがしられるように、徐々になってきています(多分知られて来て、浸透していると信じたい)。

別の例で言えば、かつて推奨されていた、教科書にも載っているような、移乗の方法が、実は自立度の低下につながる場合もあります。

このような学びが、学校でできたか。

告白します。

私個人の経験からすると、不真面目な学生であった私はできておりませんでした。

そして、その学びは、先進的なものであればあるほどに、教科書中心の座学授業の中では決して学ぶことができない、臨床による技術的なものや、それに基づく評価であったりします。

それは、国家試験を念頭に置いたものではない、日々の臨床、実践を念頭に置いたものだからです。

作業療法に正解はありません。現在地点が人それぞれで、ゴールも人それぞれだからです。

かつての正解が、状況によっては不正解になることもありえます。

そのことを、経験値として知っている作業療法士ほど、OTSに対して、将来の臨床家として、今現在の最善をつくすことを求めますし、実習とはそのようにするべき場所だと思っています。

だからこそ、臨床家として、実習態度がどうのこうの言うわけです。

それが臨床の結果に直結することを、経験則として痛いほどわかっているからです。

つまり、作業療法士:OTR目線での実習とは、

「実習中の事象から、素直に考えて、行動すること」

だと感じていると思います。

自分はそう感じるようになってきています。

このギャップ 「ヤバい」

実習の指導は、OTSとスーパーバイザーであるOTRの間の事象なので、目指すべき場所が共有できてないとこじれます。

作業療法士の側としては、自分の目線から、上記のような学生の実習への取り組み方を見ていると、

「なにしにきたの」

となるわけで、それを学生に伝えます。

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言われたOTSは、なんで自分がそんなことを言われるのかも、わけがわからず、萎縮してしまい、その結果としてスーパーバイザーが求める実習態度から乖離していき、その度に「なにしにきたんですか」といわれるという悪循環が生じてしまいます。

その結果として、実習中の表出が制限され、なにもかわらないままに実習終了、お疲れ様でした、となるわけです。

自分の理解としてはこういうパターンは少なくないと思ってますし、間違ってないと思います。

作業療法士としての仕事時間のほんとうに貴重な時間の一部をボランティアの実習指導に費やして何も学生が成長しないままに実習終了するとか、本当に悪夢でしかないのですが、少なくないと思います。

正直、やばいなーとおもいます。

やばいなーと思いませんか。

では何でこういうことがおきるのかというと、上記を踏まえるとOTSとOTRの双方に要素がありそうです。

作業療法士の労力に見合った分、学生がたくさん学んで、成長して帰るようにするには、どうしたらよいでしょうか。

OTSは、自分の将来像を考えると幸せになれる

いろいろあるけれど、たとえば。

実習に来る前に、どんな職場働きたいのかは、なんとなくでも決めておくことです。

べつに後で変更したってかまわないので、自分はどんな領域のどんな場所で働きたいのか、それを明確にしてそれをスーパーバイザーであるOTRに伝えることです。

そして、そこで働くためには、自分はどんなことが必要と考えているので、どんな学びをその実習で得て帰りたいかということまで明確にできると、将来の自分のために動けるので、多少能動的になれるかもしれません。

自分なりに、自分自身について、実習に行く前に真剣に考えておくことが、実習前に行う準備として必要だったのかなと思います。

自分の将来像について、明確にできるといろいろ幸せになれそうな気がします。

作業療法士が学生時代の自分の体験(忘れたい?)を思い出す

本当に真剣に取り組んでる作業療法士ほど、日々の臨床がとんでもなく忙しいので、かつての自分を振り返る機会なんてありません。

今の自分の感覚や感性を基にして学生と関わるので、上記のような問題が発生するのではないでしょうか。

過去の自分を思い出してゾッとすると、目の前の学生が少しは可愛く見えるかもしれません。

いち作業療法士として学生目線をいつか忘れる恐怖

個人的な感覚ですが。

学生のことがいつかわからなくなるのが怖いです。

そのリスクは、自分が作業療法士として経験を重ね、成長するほどに高まるものだと思います。

学生のことがわからない作業療法士は、その学生の3年後を見据えた効率のよい指導や助言ができないのではないかと考えています。

後進育成のへたくそな作業療法士にはなりたくないので、いつか自分が今の自分の感覚だけに頼りすぎることが非常に恐ろしいです。

謙虚に

自分のことは棚に上げないと指導ができない場面は、確かにあります。

だからといって、それが行き過ぎて、かつての学生時代の自分の不出来と乖離したような実習目標を学生に負わせるのは、あまりにも雑な指導だなと、自分と学生とのかかわりを通じて思います。

養成校側から、よく言われる

「学生を患者様だと思って指導してください」

というのは、

「患者様に関わるときと同じくらい謙虚な気持ちで」

と自分なりに読み替えることにして、学生の成長を自分の糧にもできたら、自分はより良い作業療法士になれるかな、と考えています。

そうしておけば、学生にも謙虚になーれ、と指導しやすいです。気持ち的に。

互いを知れば「ヤバさ」は軽減できる

認知症の方への介入は、相互理解の促進にありますよね。

OTRとOTSの関係も同じではないかと思うので、この記事を書きました。

すこしでも「ヤバさ」が軽減されれば幸いです。

やり取りがしたい

こんな独善的な文章を読んでくださり、ありがとうございました。

よんでくださっている皆さんは、なにかしらおもところがあるはずです。

なにか気になる点がありましたら、LINE@をやってるので、そちらでメッセージ飛ばしていただければ、私自身の学びになりますので、よろしくお願い存じ上げます。

作業療法.netのLINE@アカウントはこちら

特に学生諸君の等身大の意見があると非常にうれしいです。

わからなさや不安があれば、質問していただければ、答えられる範囲でクローズドにやりとりします。

年取ると頭が固くなるな、と感じる今日この頃です。よろしくおねがいします。

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実習について、実習終わった人と話をしましてからの話。

はじめに

本年度養成校を卒業される方々は、そろそろ長期実習が全て実習が終わる人が多くを占める時期かと思います。

最近、そんな今年実習おわった人話しをする機会がありました。

彼と話をしまして、自分自信が実習経験者ですのでいろいろと思うところもありました。

これから、実習にむけてがんばっていくことになる後輩君にとって役に立つ内容になるかどうかはわかりませんが、正直に思うところを書いてみたいと思います。

「運次第」な現状

結構話をしていてひろえもんが感じたのは、やっぱり実習先のあう・合わないって運次第なんだなあということです。

同じ学生が実習に行ったとしても、ある実習先によってはうまく行き、ある実習先によっては実習終了になるということは、割とあるようです。

本人の特性上の問題と、実習先の環境特性の双方によるところかとはおもいますが、運の要素もかなり高いなあと思っています。

安定的に作業療法士を養成するという観点からするとあまり望ましい事ではないなあと感じました。

実習時の経験は使える

養成校では、作業療法士になるためにいろいろな勉強をします。

ひろえもんもしてやした。

当たり前ですがいま、OTRとして働いている人々はすべからく、そのような勉強を経て働いています。

その勉強についてです。

ひろえもんは「座学で2年間学ぶよりも、数ヶ月の実習での経験の方が、日常の業務で使えるなあ」という実感をしてます。

座学も全くの無駄という訳ではないですが、長期実習の時に学んだ事がダイレクトに役に立っているなあと感じています。

無駄が少ないと言ったらいいのでしょうか?

んー。

なんと言えばいいのか。

どちらかといえば、言葉で学んだイメージよりも、具体的に経験したイメージのほうが、自分の行動を決断するときの材料にしやすいといえば、意味がストレートに伝わるでしょうか。

書籍に書いてあることを理解する際にも、実際の経験が先にある方が役に立つような気がしています。

実習と座学の順番は逆の方がラク?

実習に出るまでに、座学で学べるだけ学んでから出て行くのが現在のやり方です。

が、座学での学習コストは、実習してからの方が低くてすむような気がします。

理由は先にも述べたように、実習の経験を元にして書籍の理解を進める方がわかりやすいからです。

自分の同級生でも、国家試験の勉強をするときに、精神科の実習に行っていない人たちにとって精神疾患分野の勉強は相当手こずる感じでした。

一方、精神障害分野での実習経験がある人たちは、そんなに詰め込み勉強をしなくても直感的に問題を解く事が出来るという人が多かったです。

こんな経験から、やっぱりその分野についての症例をみる事が出来ていたり、実習として経験している事は、座学の学習効率を大幅アップさせるんだろうなとおもっています。

行ける場所が少ない

実習生にとって、実質失敗できない実習というのは非常に大きなプレッシャーになっていると思います。

ひろえもん自身「失敗したら、来年もういちどかあー」という、プレッシャーにやられそうになる事が実習中ありました。

実習中、学生自身の落ち度で実習中止になるのはある程度仕方の無い事なのかなあと思います。

しかし、現実にはとんでもない実習先もあります。

裁判沙汰にもなっています。

そのような場所に運悪くあたってしまうと、実習終了、もしくはその実習は勉強の場というよりも、苦行に耐える場所になってしまいます。

そうではなく、もしも実習先が6個くらいあって、それらの平均で実習の合否が決まるのであれば、より本人の実力が反映された合否結果が出るのではないかと思います。

加えて、学生の時点で視野を広げる意味でも、いろいろな場所で実習できる方がいいのではないかなあと感じています。

それは、就職先を考えるときにも役に立つはずですから。

実習の形の提案

総合するとこんなやり方が、実習生にはラクじゃないかなあと思っています。

いろいろ勘案すると、という意味でです。

色々欠点問題はありますが、上記の二つを改善する案のような何かです。

  1. 入学後、実習先でやる事や具体的な動き方について座学で勉強。
  2. 1週間程度 実習地で雑用業務
  3. みてきた事や経験した事について、レポート作成
  4. 今後学ぶべき事とその学習方法についての検討
  5. 基本的な業務ルーティーンについて、書籍と教授からお勉強
  6. 評価実習(3週間)
  7. レポート作成
  8. 長期実習(1ヶ月)を6カ所

非常に実習を重視した感じです。

OTSにとってのメリット・デメリット

メリット

①実習する施設が増えるので色々な所をみる事が出来る。

②変な実習施設にあたっても他の実習施設で挽回できる。

③卒業するまでには、それなりに即戦力

④実践的内容に即して、自分で学びを完成する能力が身に付く

デメリット

①座学をしてる時間がほとんどない

②体力面での負担が激増

③金銭面での負担が激増

④向いてない人は資格取得できる可能性が激減

結構金銭的なコストが現実的に大きな問題なんだろうなと思います。

すむところとか、食費とか、もともとすんでいたところの家賃だとか含めると結構な額が必要になりますものね…。

おわりに

実習の経験は、OTSのその後のキャリアプランニングに非常に大きな影響を与えるモノだと思います。

優秀な人材がその優秀さを発揮できるようなシステムが出来たらいいですよね。

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ほぼ毎朝利用しているセブンイレブンのオーナーっぽいひとに話しかけられた話とそこから学んだこと。

はじめに

人と人の関係性が日常生活の行動の積み重ねで作られるんだという例から、いろいろ考えたです。

毎朝よってる

皆さんは、セブンイレブンに最近ドリップコーヒーを提供するサービスが始まったことをご存知でしょう。

ひろえもんは、無類のコーヒー好きでして、まずいコーヒーはできるならば呑みたくない人なのです。

それなりにこだわりがあるので、できる事なら、出勤前に自分の家でコーヒーを淹れて、呑んで来れるのがベストなんですが、時間の都合上、自分でコーヒードリッパーからカップから洗う時間もおっくうでなかなかソレができない事が多いです。

で、コーヒー呑めないで出勤することがふえていたのです。

が、そんなおりにふと、セブンイレブンの、あの氷入りのコーヒーカップかって、機械にセットして呑むやつを試してみたら、これが案外おいしくて、「ああ、のめるじゃん」となりまして。

最近では、自分で淹れる事はめっきりと減りまして、出勤まえにセブンイレブンによって、アイスコーヒードリップしていく事が多いです。

最近あついので、気分をすっきりさせたくて、コーヒーががっつりと呑みたくて、Lサイズの氷を買って、ドリップしております。

この商品、物流とか、人件費とか、諸々考えてみても、どうかんがえてもぼったくりですが、手間の割においしいコーヒーが飲めるので、ついつい利用してしまいます。

こうして人間は怠惰になっていくんですね。

閑話休題

さて、そんな毎日利用するセブンイレブンの店員さんにふと話しかけられました。

店員さんの一言

その店員さんは、唐突にこんな風におっしゃりました。

「コーヒー好きなんですね」

一瞬「え?」と思いました。

「なぜ、ばれた。」

内心こんな事を思わなかったといえば嘘になるのでしょうか。

すると、そのひろえもんのΣ( ̄□ ̄;)という表情を見て、

「いつも大きい方を買われるので」

と、補足が入りました。

人間関係が変化するとき

店員さんとひろえもんの関係性を表す上で、もっともシンプルな図式はなんでしょうか。

それは、客と店員という立場に成ると思います。

コンビニというのは、非常に手軽に買い物ができる場所で、ありとあらゆる煩わしいと感じるよう名部分が簡略化されています。当然、接客マナーについてもマニュアルが存在していて、対応を画一化させる事によってある意味でシンプルにしています。

しかし、今日のやり取りは、そういったシンプルな図式に当て込めるような、単なる客と店員という関係を超えた物であると自分はそのときに思いました。

つまり、ひろえもんが、「単なる客」から「常連客」という存在になった瞬間だと感じました。

いや、事実としては、その前からひろえもんはたしかに、その店の常連客であることは間違いないのですが、今日のやり取りは、店の取り仕切りをしている人間から、そのお墨付きをもらうような物で、つまり、「あなたは常連客ですよ」という認定をされたような物だとおもいました。

また、「いつも大きい方を頼まれる」という事実を指摘した事は、同時に「あなたの事を見ていますよ」というメッセージを発している物でもあると思います。

これが、何を意味しているかというと、オーナーさんはひろえもんのことを「単なる買い物客」ではなく、「ひとりの人」として見ていたという事です。

ひろえもんという人間個人に興味を持たないのであれば、買い物客が何を買おうと知ったことではないと思います。

此れに対して、「商売をするためには、その人個人をみることが必要だ」という意見を抱かれる方もおられるかもしれません。あくまで、商売的な観点に立って必要な事だから、顧客が何を買っているのか覚えていたのではないかという人もいるのではないかと思うのです。

しかし、それであれば、個別の客に関心を寄せる必要性は、実は全くありません。POSシステムがあり、それによって蓄積されたビッグデータがあり、それを運用するための統計ソフトやデータサイエンティストが存在する昨今、セブンイレブンのような大規模な商業組織においては、個々の客の関心なんて全く売り上げにはつながらないのですから。

つまり、オーナーは何の金銭的メリットも無いにも関わらず、ひろえもんという人間に関心を寄せ、その嗜好を推測し、理解しようとしたのではないでしょうか。

ちなみに、そんな、オーナーの態度をひろえもんは好ましい物として受け取りました。

難しいことでなく、自分を人間として見てもらえたことが単純に嬉しいと感じました。

画一的な関係性に囚われるべきではない

今の世の中でヒットするプロダクト(商品)のテーマとして、シンプルということがあげられることが多いと思います。

シンプルなものには、必然余計な物が含まれないということになります。

すると、ついつい余計な物を増やさないようにしようとして、さまざまなアクションやアプローチが消極的になってしまいがちではないでしょうか。

シンプルなものが良いというのは、一つの価値観として素敵だと思います。

しかし、世の中、そんなにシンプルでは無いですし、きっとシンプルな物ばかりの世界はきっとつまらない物なのではないかと思います。

特に、対人間の関係性については、その事を強く肝に銘じておく必要があるなあとおもいます。それは、普段の作業療法士として働く中で、とてもとても強く思う事でもあります。

人間は、ひとりひとりにいろいろな面があって、そのいろいろな面の一つが、行動になって現れています。

人と人の関係性にしても、客と店員という関係性だからといって、そこに固執しないと行けない訳ではな無いと思うのです。

この事は、作業療法士と患者様についてもきっと同じ事なのではないでしょうか。

つまり、作業療法士と患者様という関係性は、決してそこに固執するべき物ではないですし、そこから新しい関係性を模索し、抽象的で一般的な関係性から、より具体的で詳細に分化した関係性を構築する事ができたらいいのではないかと思うのです。

そしてその中で、人間と人間という関係性がうまく気付けたなら、「私はあなたを一人のひととしてみていますよ」ということを相手に伝える事ができたなら、きっとその相手は非常に喜んでくださるのではないかと思うのです。

今日の、ひろえもんのように。

おわりに

作業療法士という仕事は、接客業ですよ、というのはいろいろな先輩OTRからもいわれている事です。一般の接客業から、学べる事はとてもとても多いと思います。

末端で具体的に働く人間でもある訳ですが、その業務をシンプルにし、業務効率を向上させる事が、経営者から求められる事もあるでしょう。

自分が大切にしたい事がなになのか、此れをしっかりと見失わないようにしたい物だと思います。

蛇足ですが、いつも人に見られているという事をしっかりと意識して行動していかないといけないなとも、改めて思いました。

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日常のコミュニケーションを誠実に行う事がセラピストとして有るための重要な基礎になると改めて気がついた

はじめに

働き始めてはや、4ヶ月が経過しました。

4ヶ月を早いと感じる人も、そうでないと感じる方もおられると思いますが、自分は早いと感じました。

いろいろと感じる事がありすぎて、混乱する事もしばしばなのですが、だからこそ、最近思う事がありますので、それについて言葉にしてみたいと思います。

まとまりなく、長々と書いてますが、よろしければ、ご意見いただけると嬉しく思います。

やっぱり、「周囲」はとても大切

自分が働いている現場の話になってしまうので、一般化はできないかもしれませんが、現在自分が勉強している精神科および老年期作業療法のアプローチにおいては、「その人らしさ」というものをその人の今までの人生経験、人生の文脈でとらえています。

たとえば、作業療法の対象となるような患者様がいたとして、作業療法を提供するためには、情報を収集する事が欠かせません。それは、その人に関するさまざまな情報であり、現病歴、身長、体重、性別、家族構成、生育歴、学歴、職歴、生活歴、といったさまざまなストーリーがとても重要な情報になります。仕事や、家庭での生活の中で、その人が行ってきていた役割はいったいどのようなものがあるのかなどの情報をどんどん集めていきます。そして、そのようにして集めたバラバラの情報を一つ一つを線で結んでいって、その人はどんな人なのかについてのイメージを膨らませていきます。

この行程は、自分にとってはまだまだ「大変だなあ」に感じるものでありますが、同時にその人の主観にたち、寄り添うためにとても必要なことだなあと感じます。

集める情報は、ストーリーに関するものばかりではありません。具体的な関わりの中で、その人の現在できる事だったり、している事について着目します。

それは、その人はいま、どんな生活をしているのか、どんな場所でどんな事をしているのか、ある時間にはどのようなことをして過ごしているのか、といったそういう具体的なことを、まず知る事から始まります。そして、今どんな事をしているのか、から、これからどんな事ができそうかという事をある程度予想していきます。(もっとも、この予想は現実と異なることが少なくないのですが)

その次には、その人がこれからどのような事をしていく必要があるのかという必要性を具体的に検討し、その後、その必要性をみたすためにはどのような方法が現実的なのかを考えます。そして、それを実際に行ってみて、その結果を評価し、実施するというプロセスを繰り返します。

以上のようなことは、自分も座学で、学生時代に学んできた事ではありましたが、実際に業務を行いながら具体的な形で感覚に落とし込んでいくという事が、作業療法のプロフェッショナルであるOTRとして働く上で非常に重要だなあと思います。

で、上のように長々と書いて参りましたが、それと同じくらい、あるいはそれ以上に大切なんじゃないだろうかと、臨床で働くようになってから実感として感じ、おもうことがあります。

それが、患者さん本人の環境となる、周囲の人に関する情報です。

「人間として」の基本には他者との関わりがある

なにも、周囲の人の情報が大切だというのは、特別な事ではなく、むしろ当たり前の事だと思います。

自分自身について思い返したとき、自分自身を規定する物として、周囲の人間との関係性がとても重要な位置を占めるからです。

皆さんもそうではないでしょうか。

「あなたは何者か?」

という問いに対して、周囲の人間やその人との関わりというものは非常に重要な意味を持つのではないでしょうか。

それは、自分自身が生きる事や、そのために行うさまざまな活動が、ただ「生物としての生」を成り立たせるための行為であるという意味性を超えて、他の様々な物との関連性から、自分自身を位置づけ、意味を与えられるものになるために、周囲の人間とその自身との関わりが切っても切れない関係にあるからです。

言葉にすれば面倒ですが、現実はシンプルだと思います。

ある哲学者は、人間は様々な「役」を演じているにすぎないといいました。

母親としての自分、教育者としての自分、後輩としての自分、友人としての自分、子供としての自分…

ひとは様々な側面をもっており、その哲学者は人間のそうした側面を、劇における「役」にたとえたわけです。

そういった「役」は、しばしば、さまざまな人との関係性において、発生します。自然発生する事もあれば、人為的に形成されることもありますが、「役」にはそれが存在する事による何らかの意義が存在します。

そして、その意義は、それを必要とする人や、システムが存在する事によって保証されています。

逆を言えば、他者という存在がなければ、人は、親にも、教師にも、メンターにも、誰かの友人にも、成る事ができないということになります。

つまり、その人の人生が、その人個人を超えた意味性で価値づけられるためには、その周囲にからなず誰かが存在しなければなりません。その存在は、単に物理的に存在するというだけでなく、互いが互いを認識し合い、認め合っているという物である必要があると思います。

「人間として」生きるためにはこのような関連性が、必要不可分です

人と人を結びつける関連性

人は、様々な役割をもち、それにふさわしい行動をとりますし、またとる事が求められます。個々人間の様々な情報を正しく認識し、挨拶をしたり敬意を払ったり、共感したりといった態度が求められます。

この様式は、「推して知るべし」とて、言葉で教えてもらえる物でもありません。その場の状況や、相手の感情を、表情変化や様々な動作などから推察し、読み取り、その場にふさわしい言動をとる事が求められます。

つまり、感覚で学ぶ物で、具体的な関わりの中で経験を積み重ねながら、自分の中に蓄積していくものといえます。

関連性を構築するコミュニケーション

これらに関して、よく『「人間として」大切な事だよね』と職場の先輩方にフィードバックを頂くことがあります。

まさにその通りだと思います。

この関連性を形成するプロセスは、別段作業療法士に独特な物でもなんでもなく、社会的存在としての人間がだれしも日常的に行っていておかしくないものです。ですが、OTRが自分自身を治療的に使おうとするとき、あるいは、ある患者様をその人の周囲の人との人間関係という文脈からとらえようとするとき、このプロセスを普段の日常生活でどれだけ誠実に行っているかということが、大きく反映されるように思います。

いい作業療法を現実にするために

これは、ひろえもんが、実際に職場の先輩方の言動をみたり聞いたりする中であったり、ひろえもんが面白いとか、すごいと思ったOTRの方々の行動などを見ていて、ひしひしと感じる事です。

ひろえもんが「尊敬できるなあ」と思う作業療法士は、単純に作業療法学という文脈においても、すごいんですが、そのすごみの土台となる根本部分は、やっぱり人とどのような関わり方をしているのか、どんなことを意識して人との関わりを思っているのかというところに集約されるんだろうなと思います。

つまり、素敵な作業療法が提供したいのであれば、自分自身を人との関わりの中で具体的にどのように位置づけるのかという、そのリアルがとても大切になるという事だと思います。

そういう能力っていうのは、たとえば、挨拶ひとつにも現れていて、文字にしてしまえば同じ「おはようございます」でも、そういう人がする挨拶っていうのは、相手との関係性だったり関わりだったりから、口調、表情、体の動かし方といったさまざまな要素に意味性が付加され、表現されているものです。

こういった事が自然に、にじみ出るように行えると、きっと良い作業療法が提供できるのだと思います。できるように、日常生活から意識付けしないといかんなあと思う次第です。

おわりに

以上のようなことを最近よく思うのですが、他の人にわかりやすい言葉にできていない時点でまだまだだなあと思います。

でも、ニュアンスが伝われば、それで。

いろいろな関係性を、いい感じで構築するための努力を積み重ねる事が、就職後6ヶ月までの目標としたいとおもいます。

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エピソードによって評価はいくらでも変わりうることを踏まえて、どのようにするべきか

はじめに

作業療法では、ありていにいえば、患者様を全人的にとらえることを試みます。

まず、患者様と関わる中で発生した事実、現象を言語化し、情報化します。そして、その後、言語化した情報について、他の情報やエピソードを交えて説明、解釈を試みます。

これらの過程は、作業療法士が、その日常業務で、日々のように行う事です。

しかしながら、これは難しいものだなあと感じるところなのですが、同じ出来事に対する捉え方や当てはめる評価、視点が異なれば、どのように評価するのかが当然異なってきます。

それを具体的に実感する出来事があったなあと、ふと思い出しましたので紹介させてください。

園芸に取り組んだAさんの話

結構大規模に園芸をやってるとある病院に入院しているAさんは、作業療法の一環として、園芸に取り組む事がありました。

5月頃、Aさんにはひまわりの種を植えてもらっていました。

「私が植えたひまわり、芽がでたねえ」「おおきくなってるねえ」と、自分が植えた種が芽吹き、成長することを喜ばれていました。

そんなAさんについてのエピソードについて、学生さん(OTS)がニコニコしながら話しました。

その学生さんは

「Aさん、成長したひまわりをみてすごく喜ばれてましたよ。園芸ってすごいですね。しきりに『どんなふうにしたらこんなにうまく大きくできるの?わたしにもおしえてね。すごいねえ』と嬉しそうにされていました」

と、ひまわりをみて「すごい!!」と満面の笑みで感動したAさんと、そんな反応を引き出す事ができた園芸に焦点をあててOTRに話をしました。

OTRの切なさ

しかし、一緒にひまわりの種を植えるという体験をしたそのOTRにとっては、学生の発言がポジティブなものとしてはとらえられなかったようです。

Aさんが、自分で植えたものだという、その記憶、エピソードがAさんの中からすっぽりと抜け落ちてしまっていたからです。

実は、Aさんは認知症を発症しておられ、自分が経験したことについても次第に忘れていってしまうという特性をお持ちの方でした。

Aさんと園芸をするという体験を共有したOTRとしては、「関わりの無いひまわり」の成長を、天衣無縫に喜ばれているAさんの姿をみて、同時に寂しさや切なさを感じたのだという事でした。

共有した時間やイベントによって、関わり方は異なる

考えてみると、同じ物事でも、人によって受け止め方が異なるのだという事は当たり前の事だと思います。

たとえば、日常生活において、当てはめて考えても、竹馬の友と、仕事の取引先の相手とでは、使う言葉遣いも、会話の内容も姿勢や態度も全く異なる物になるはずです。

それは、病院という場であっても、リハビリテーションの場面であっても異なるものであるべきはずです。また、俗に学生が専門学校や大学時代に教わる「関係性」の本質的な部分です。

人は、一人一人違う存在である事を許されているべきだと思います。

だから、やはり作業療法士は、その人物そのものをとらえるという意識を常に持ち続けながら、ひとと関わらなければならないとおもいます。

エピソードは誰かと共有すると価値が増す

人は、その人がどのような背景をもっているかによって感じ方が異なります。

先ほどの話でいえば、学生さんがOTRにAさんについてのはなしをした事で、OTRは自分が持っている情報、エピソードと照らし合わせて、OTRなりの感じ方をしました。

学生さんは、Aさんとの関わりを微笑ましいものとして解釈していましたが、そのことをだれにもはなさなければ、それはソレまでの話で終わってしまっていたと思います。

たとえ、一回きりの出来事であったとしても、誰かにその事を話すという事にはとても意味があることです。

なかなか、自分の感じ方を伝えるという事は、練習が必要な事だと思いますし、ひろえもん自身誤解なく、すぱっと自分の伝えたい事を伝えるという事は難しい事だと感じています。

しかしながら、だからこそ、自分以外の誰かにエピソードを打ち明け、やり取りする事には、言葉で表現しきれない意味があるのだとおもいます。

おわりに

日常業務は、簡略化し、安定したクオリティーを提供することが望ましいことは否定される事ではないと思います。

しかし、その効率化で生みだされた時間をどのように使うかという事は、働く人間として、非常に重要なテーマだと思います。

エピソードや自分の感じ方を他者と共有するという事を楽しみながら行う事ができることが最も望ましい事ではありますが、ソレが一筋縄でいかない場面があったとき自分がどんな工夫ができるのか、それも作業療法士として一つ重要なことなんだろうなあと感じています。

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OTRとして働く上で必要になると思うものシリーズ2 ストーリーの分析

はじめに

OTRとして働くようになる前から、実際に今まで働いてきてから継続して必要だと思うものがいくつかあります。

その一つが、「ストーリーを分析する能力」です

今話題の「ごんぎつね」

小学校の頃、国語の教科書で読んだことがあるという方も多いのではないでしょうか。

知らない人のためにストーリーを引用しておきます。

いたずら好きなきつねのごんは、ある日兵十が病気の母親のために用意したウナギをわざと逃がしてしまいます。ところが、その後母を失って落ち込む
兵十を見てごんは反省、償いのために魚や栗を兵十の家に届けはじめます。しかし、そうとは
知らない兵十はごんがまたいたずらをしにきたのだと勘違いし、ごんを火縄銃で撃ってしまう。
そこではじめてごんが食べ物を運んでくれていたことに気付くというお話です。

今、とある小学生が書いたこの「ごんぎつね」という物語の感想文を巡って、話題が沸騰しております。

感想「ごんがわるい」

実は、某巨大掲示板に、姪っ子が書いた感想文が物議を巻き起こしているという趣旨の書き込みがありました。

その書き込みを巡って多くの人が、自分の意見を述べています。

ちなみに以下がその書き込みです。

1 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/05/08(水) 16:11:26.76 ID:0SLw7FB7O

全文まるまるは無理だから要点かいつまむ

・やったことの報いは必ず受けるものだ
・こそこそした罪滅ぼしは身勝手で自己満足でしかない撃たれて当たり前

勿論身勝手やら自己満足なんてワード実際に使っちゃいないぞ
文章読んで端的に言うとそういいたいんだろうってことな
特に二つ目が物議を醸しているらしい・・・

みなさんどう思われますか?

個人的感想

あくまで、ひろえもん個人の感想ですよ。

個人的には、ユニークな視点であり、尊重されるべきだと思いました。

確かに、あの物語の主人公は「ごんぎつね」であり、読者の感情もごんの視点に立ったものに偏りがちではないでしょうか。

安易にそのような視点に立つのではなく、見落とされがちな兵十の心理に思いを馳せることができている点で、非常に評価されるべきだと思います。

一般的な意見

ひろえもんのように、この意見を面白いという人もいる一方で、不快感をあらわにする人もいらっしゃるようです。

それは、この感想が自然に抱くようなたぐいのモノではないからではないでしょうか。

つまり、あれこれ考えるようなタイプの人間でないと浮かんでこない質の回答であるように思うのです。ここが引っかかる人は多いのではないかと思います。

もっと極端に言うなら、子供らしくない感想であるというところが問題なんだとおもいます。

冷静に考える

情動を優先するならば、感想は一択です。つまり、「ごんはかわいそうだ」となります。

基本的に、ごんに悪意はありません。

ほんの少しの出来心が大きな罪となってしまい、それを償うためにまじめに人知れずがんばっていましたが、それが報われるときには既にその命は終わってしまっているという、救いが無いような、悲しい話におもわれます。

しかし、逆に、感情よりも分析を優先したなら、論理を優先するなら、「顧みられるべきは兵十であり、ごんではない」となるのだと思います。

この意見は、論理的に正しく非常に鋭い意見で、論理的に反論の余地がないのです。しかしながら、その分、だからこそ人の感情を損なう可能性があります。

正しいからこそ気をつける必要があると思います。

OTRに必要な分析能力

さておき、思うことは、作業療法士として働く上でやはり、感情を抜きにした冷静なストーリー分析能力、つまりその場でどのようなことがどのように起こっていたのかについてまとめる能力が、絶対に必要であると言うことが1つ。

もう一つは、その能力は、思いもしなかったような視点、現実、構造を正確に浮かび上がらせ、それがいとも簡単に人を傷つけてしまうかもしれないということを知っておかなければいけないということが一つです。

OTRにとって必要な分析能力とは、分析そのものとその分析の結果をどのように運用するのかというところまで含めたモノと思います。

おわりに

自分は、まだ、きっちりと分析をするという能力自体も怪しいのですが、その分析の結果をうかつに運用してしまう可能性があると思っています。

真実が、人を傷つける場合には配慮が自然とできるようになっておきたいと思います。

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人に好かれる目的で「愛想笑い」し続けているなら、今すぐやめる方が作業療法士としては、みんな幸せになるかもしれない話

はじめに

見抜かれてることなんて、とうに知ってたって人も、そうでない人も。

そんなことをしても意味が無いよって話。です。

とあるカフェの女子高生の雑談から

なんでこんな話になったかって言うと、女子高生の雑談が耳に入ってきた結果です。

カフェで仕事をしてたら、声がやたらうるさくて集中力が途切れて、仕事をしてた手が止まってしまっただけなんですけどね。

ちなみに、二人とも、すごく威勢のいい感じの女の子で、それはそれは凄まじい声量で会話してたので、盗み聞きするまでもなく内容が丸聞こえだったんですが、その二人の話が聞こえてきたおかげさまでそれを聞きながらいろいろと考えさせられ、勉強になりました。

女子高生らしい色恋から、友達の評論まで話題はいろいろでしたが、その一つに自分的に気になったものがありましたので、取り上げてみたいと思います。

うむむとおもった話

こんな感じです。

「Aちゃんはいままで勉強ばっかりしてきたせいか、あんまりぶっちゃけトークができないんだけど。あたしが、話してるとき、『あはは』って笑うだけなんだよね。何も言ってこない。発信がかえってこない。」

「そりゃ、真に興味がないこと話すあたしも悪いけどさ、それで、関係性が悪くなるとか無いじゃん。別に笑わんくたって、『あー、おもんないんだな』っておもうだけ」

「無理して笑ってんじゃねーよって感じ」

って話でした。

コレに対して、ひろえもん、

「おお、すげえ。」「よく言語化できてるな」

と感じました。

話の整理

まとめるとこういう話だと思います。

登場人物は、女子高生自身(以下A)と、その女子高生の友人(以下B)
Aの話に、Bはいっつも、愛想笑い
Aとしては、そんなBの態度が不満・不快

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愛想笑いする友人Bの心理の推定

いろいろ思うところはありました。

まず、Aの語りから、Bがなぜ、愛想笑いをしているのかについて推測しました。

得られたAさん目線でのBさんの様子は以下のようなものでした。

Aいわく、

「Bさんは、勉強ができる人で、恋の話ができないひとで、つまり、自分をさらけ出すことができなくて、自信が無い人」

だ、ということでした。

Aさんの話を聞いていた印象ではありますが、Bさんは、人の特徴を具体的な場面をあげながら説明していました。人間観察が得意な様子で、この評価、多分正しいんだろうと思います。

これを前提としてBさんのことを推測します。

自信がない

自分の発言が、相手に受け入れられるかどうかが不安という仮説を考えます。

つまり、Bさんは自信が無いから、「本当の自分自身」を守るためのペルソナとして、「愛想笑い」をしているという考え方です。

相手の人となりを掴むのが下手

Aさんは、

「自分と相手の感性が違っても、気にしない」

と言っているわけで、それで友情関係には何の影響も無いと言ってるわけです。

そういうどっしりとした態度の人物を信頼して表出ができると人生生きやすくなると思います。

しかし、Bさんは話し相手がどんな人物なのかということがうまくつかめていないようです。

Aさんとしては、そんなBさんの態度を、「自分に対する不信」とさえ受け取ってる節がありました。

Bさんは、相手がどんな人物なのかを見極めるのが下手かもしれません。

育ってきた環境の違い

Bさんが今まで生活してきた文化圏においては、人の話はニコニコと聞くものだということがあったのかもしれません。

Aさんとしては、自分の思うことは素直にぶつけ合うような環境の中で育ってきたので、Bさんの態度に違和感というか、ギャップを感じているのだと思います。

「いつもニコニコ」なBの言動に対するAの心理

Aさんとしては、

「なんで自分自身を偽って笑うのか」

と感じるのが一番の不満のようでした。

Aさんは、気の置けないストレートな関係性を欲しているのかもしれません。

そうだとすると、Bの自分の本心を覆い隠しているように見える行動が全く持って不可解であり、別に本心が分かったから問いって、相手を嫌いになることなんて無いのに、むしろ逆に、自分に対して、本心を見せてこない、愛想笑いをしていると感じられる部分が、本当に気に入らない。

ということだったように思います。

Aさんが自分で言う所によると、Aさん自身はあんまり勉強をしてきた方ではないし、できるほうではないとのことでした。

それもあってかもしれませんが、Aさんの感想は、人間的でストレートな感情をそのまま表現していると思いました。素朴で、飾りげがなく、まっすぐな感想だなという風に感じました。

目線の違い

起こっている問題の根本にあるものは、求めているコミュニケーションの違いだと思います。やはり。

Aさんとしては、相手との意見の交換や、交流、率直な感想、相手がどのような人間なのかを見せてほしいという、そういう感じがしました。人間を求めている、イベントや変化を欲している。

Bさんとしては、衝突を避けることを思考しているように思います。とりあえずの愛想笑いを続けるのは、相手とぶつからないようにするためでしょう。安寧な生活、問題のない日常を求めている。

お互いに求めているものが食い違っているから、食い違ってしまっている。

まあよくある話です。

以下本題

でも、はたと思ったわけです。ここからが本題。

で、以下個人的に思ったこと。

作業療法の現場でも起こることでは?

実は就職してから、上司に言われたことなんですが。

上司に、臨床の相談で

自分が、

「こうこうこーいったシチュエーションで、失敗しないようにするには、患者様が問題にぶつからないようにするにはどうしたらいいのでしょう」

という質問をしたときに、それを一笑されて言われたことです。

「問題が起こるのってわるいことなの?」

ハッとさせられると同時に、非常に重い言葉でした。

就職後働くようになってから、しばらくたって、このことばの意味するところが非常によくわかるようになりました。

作業療法士はじめとしたリハビリテーションの仕事は、患者さまを問題から遠ざけることでは決して無いですよね。

そうではなくて、むしろ問題に直面して、その問題を、いかに協力して一緒に解決するかという視点や姿勢こそが、重要では無いでしょうか。

衝突をさけるのではなく、その衝突がどういった質のものであり、どのようなリスクを内包しているのか、どのようにすれば解決できるのかという、衝突を乗り越えて一緒になって先に進んでいくという視点が大切なのではじゃないかと思うのです。

Aさんの話を、

「うんうん」

と聞いていた自分は、かつて、作業療法の対象者に対して「愛想笑い」をしようとしていたわけです。

しかし、作業療法士として対象者から好かれることを念頭に置いて「愛想笑い」をして、解決するべき問題との衝突を避けてる暇なんてないですよね。もちろん笑顔は大切ですけれど。

Aさんが、Bさんに対して感じている不信感は、そのまま、

作業療法士 対 対象者・同僚

と置き換えても、不自然ありません。

作業療法士は、Bさんになっていないでしょうか。

作業療法士がするべきことは、その場限りの「愛想笑い」、問題を先送りすることでは無く、中期長期的視点に立ったストレートなコミュニケーションであり、それを対象者や他職種との協働によって解決することです。

おわりに

もちろん、時と場合によって、適切なコミュニケーションは異なる訳ですが、作業療法士として、という視点に立てば、いつもニコニコして寄り添っているだけでは、物足りない、という話でした。

個人的にはそういう教訓を得ました。

大事なことを学んだような気がしましたので書いてみましたが、巧くかけたかどうか。

うーん文章って、難しい。

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昨日先輩に「いっぱいいっぱいか(笑)!」と言われてハッとした話とか

はじめに

就職後、三週間が終わり、来週一週間がおわると、就職してから一ヶ月がすぎることになるのです。

今のありのままを書いて残しておこうと思います。

新人同志や実習生、バイザー、新人指導者OTRの諸先生方の参考にもなればいいなあ。

これを書いてる今の状況

朝Macなう。不味い。

少なくとも、ホットケーキは二度と頼まない。

macbookはすこぶる快調。

マシンパワーが無くて、もっさりする部分はあるけれど、文章を作成するためのツールとしては、使用感がとてもよいです。

こっちは買ってよかったし、人にも勧められます。

今思う、就職後の1週目と2週目

思い出すだけで、心がえぐられるようですが、自分の後学のために書き残しておこうと思います。

1週目は、緊張でガチガチになって本当にテンパっていたなぁと思います。

思い返すだけで、恥ずかしい限りです。

緊張が顔にでない方なんですが、OT部門のトップにはズバッと見抜かれてしまいました。

2週目は、とにかく吹っ切れて、細かいことを気にしないように心がけていました。

といったら語弊があるのですが、要するに萎縮しないように心がけてみました。

いざとなったら、おこられたらすむ話だと腹をくくって、とにかくやってみることにしました。

これについては、悪くなかったように思います。

実際いろいろ試してみることで、自分が勝手にだめだと思っていたことが実はやっても問題ないことであるということがわかったり、逆に自分が全く問題視していなかった部分が、実は、鈍でもなく重要な意味性を内包していたり。

と、いろいろと発見がありました。

試行錯誤は大切です。

重大な失敗は、してはけないと思いますが、より良い改善を行うために、小さな失敗を積み重ねていくことはとてもたいせつだなと思いました。

で3週目はどうだったか

2週目の延長でいろいろとやってみることにしました。

何やら講習会があるとのことなので、その講習会のスタッフに立候補してみたりとか。

いまは、とにかく新人なので時間が有り余って(?)いるので、いろいろ手探りでやってみるのも悪くないと思って、いろいろやろうと思いました。

でいろいろやっていました。

先輩の一言

そしたら、先輩に言われました。

「いっぱいいっぱいか(笑)!」

先輩はちゃかしていってくださったんですけどね。

ハッとしました。

ぐさっと、来ました。

「まーた、自分のことが見えてないな」

と思いました。

何かに夢中になると、自分に興味が行かなくなるのが、ひろえもんの悪い癖なのです。

その先輩は、こうも言ってくださいました。

「先は、長いぞ」

と。

先は長い

この言葉も、いろいろな意味合いを含んでいるなと思いました。

文字通り、就労年数には今後40年くらい先がある訳です。

そして、その40年間を継続していくためには、自分がどうあらねばならないか。

今を自分はどう生きるべきなのか。

いまが、どこにどんな風につながっていくのか。

そんなことを考えると、わくわくしてきました。

そして、ながいながい道のりを、しっかりと生きるために、今つぶれてしまわないよう、自分の管理はしっかりと責任を持ってしたいと思いました。

今後の方針

細かい業務、まだまだ身に付いていないです。

学ぶべきことは山ほどあります。

でもいまなら新人だということで、大目に見てもらえます。

とにかく、目をかけてもらえるうちにしっかりと、失敗や成功を積み重ねて行きたいです。

試行錯誤あるのみ。

先は長いのです。

その先を見据えて、今できることを今のうちにしかできないことを積み重ねていきたいです。

とりあえず、いまは日常業務の質の向上と、講習会に向けての積み重ねをしていきたいと思います。

あと、来月になっても同じことを言っていないようにしたいです。

そして、その上で自分を顧みることができるだけの余裕を持っていきたいと思います。

おわりに

やっていい失敗と、そうでない失敗の区別がつくことは大切なのでその辺は、報連相しっかりとやることで、対応していきたいです。

新人の皆さん、失敗を恐れず、がんばりましょう。

実習生諸君、おこられるのが仕事だと思って、いろいろやってみておこられましょう。

何もしないことを理由におこられるよりも遥かに有意義ですよ!!

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先輩OTから聞いた論文を書いておくべき3つの理由

はじめに

作業療法士は論文を書きます。

とある先輩がなぜ論文を書くべきかについて語ってくださったのですが、そうだなあと思ったので紹介します。

主に症例報告を想定した内容でしたが、その他の論文でも役に立つことかなと思います。

論文を書くべき理由について

自分自身が情報を整理できる

自分の体験や経験を言語化することによって、どんなことが起こっていたのかを客観的にみることができる。

また、さまざまなモデルと比較したり、いろいろな要素に分割したりと考えるきっかけになり、そこから新たな学びが始まる。

後々思い出しやすい

自分がやってきたことを記述するので、外部記憶として論文が利用できる。

人に話したりするときにも使える

論文が対象とした事柄について、話すことが必要となるような場面において論文に書いたことがそのまま流用できることがある。

また、文字化して他人と共有することが、新しいつながりを作るきっかけとなる。

おわりに

いかがでしたでしょう。

論文は、どのレベルのものでもかまわないから、2年目までにとりあえず何か1本書くことを目標にするといいんじゃないかというアドバイスもくださいました。

いろいろなメリットが実感できましたが、特に、自分が何かをしたことの証となるという点が重要なのかなと思いました。

論文書いていきたいです。

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