OT評価実習生:OTSにOT五年目が感じた 実習中の成長を左右する要素の「ヤバさ」

短期(評価)、長期(総合臨床実習)に関わらず、実習中の学生目線だと理解できることがあります。

一方で、経験年数が増えて、経験値もそれなりに増えると、ここ最近はじめて感じることがありました。

その2つの間のギャップの話です。

「何をしに、実習にきたの」

実習を通して、成長する学生と、

あまり変化なく帰っていく学生との間には、いろいろな違いがあります。

その違いは、普段の臨床にも通じる大切な「違い」だと思っています。

後者の学生がよく言われるのが、

「何しに来たの」

です。

これが、その理解のためのキーワードであるように感じています。

何のための実習かがわからない

「実習に行くことになっているから、実習に行く」

という学生が少なからずおります。

実習のための実習、実習が自己目的化している学生です。

こういう実習生が、上記のような質問を実習中に繰り返しぶつけられて、あまり成長なく、実習に対する傷つきだけを感じて帰っていくことが、ままあります。

そのタイプの実習生は、なぜ生まれるのでしょうか。

そしてなぜ、実習生は傷つくのでしょうか。

作業療法学生:OTS目線での実習

申し訳ないのですが、引用できる資料もないので自分語りになります。

でも、自分の学生時代、OTSのときの実習を振り返ると、その傷つきのヒントにはなると思います。

学生の頭の使い方の典型とおもうのですが、

「学校で学んだことを、臨床で生かす」

という思考回路があります。

学生の作業療法観は、授業の中の情報や、講師の話によって構成されます。

それのみによって構成されていることがほとんどではないでしょうか。

すると、学生の行動原理は、

「いままで自分が学んできたことを実践してみること」

になります。

そして、それができることによって、実習が合格となるというモデル(妄想)が頭にあります。

これが、実習の為の実習であると、臨床家のOTRのみなさまから批判されるところだと思いますが、学生の側からすると、むしろ自然ながんばり方なのではないでしょうか。

それなりに臨床経験のある作業療法士:OTR目線での実習

一方で、かつてOTSであった作業療法士:OTRの側に立つと、今、実習で学生に求めることはシンプルです。

目の前の対象者に対して、いち作業療法士、いち臨床家としての今の自分での最善を尽くすこと、です。

作業療法士として、実地で経験をかさねていくうちに、自然と評価できるようになることはたくさんあります。

それは、養成校で学ぶこともたくさんありますが、養成校で学ばない、学べないこともたくさんあります。

身体障害領域で例にとると、ポジショニングの常識も日進月歩です。

かつては、

「隙間をうめる」

がポジショニングの王道でした。

しかし、やり方をまちがえると、日々のポジショニングの積み重ねが屈曲拘縮をつくりだしてしまうということがしられるように、徐々になってきています(多分知られて来て、浸透していると信じたい)。

別の例で言えば、かつて推奨されていた、教科書にも載っているような、移乗の方法が、実は自立度の低下につながる場合もあります。

このような学びが、学校でできたか。

告白します。

私個人の経験からすると、不真面目な学生であった私はできておりませんでした。

そして、その学びは、先進的なものであればあるほどに、教科書中心の座学授業の中では決して学ぶことができない、臨床による技術的なものや、それに基づく評価であったりします。

それは、国家試験を念頭に置いたものではない、日々の臨床、実践を念頭に置いたものだからです。

作業療法に正解はありません。現在地点が人それぞれで、ゴールも人それぞれだからです。

かつての正解が、状況によっては不正解になることもありえます。

そのことを、経験値として知っている作業療法士ほど、OTSに対して、将来の臨床家として、今現在の最善をつくすことを求めますし、実習とはそのようにするべき場所だと思っています。

だからこそ、臨床家として、実習態度がどうのこうの言うわけです。

それが臨床の結果に直結することを、経験則として痛いほどわかっているからです。

つまり、作業療法士:OTR目線での実習とは、

「実習中の事象から、素直に考えて、行動すること」

だと感じていると思います。

自分はそう感じるようになってきています。

このギャップ 「ヤバい」

実習の指導は、OTSとスーパーバイザーであるOTRの間の事象なので、目指すべき場所が共有できてないとこじれます。

作業療法士の側としては、自分の目線から、上記のような学生の実習への取り組み方を見ていると、

「なにしにきたの」

となるわけで、それを学生に伝えます。

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言われたOTSは、なんで自分がそんなことを言われるのかも、わけがわからず、萎縮してしまい、その結果としてスーパーバイザーが求める実習態度から乖離していき、その度に「なにしにきたんですか」といわれるという悪循環が生じてしまいます。

その結果として、実習中の表出が制限され、なにもかわらないままに実習終了、お疲れ様でした、となるわけです。

自分の理解としてはこういうパターンは少なくないと思ってますし、間違ってないと思います。

作業療法士としての仕事時間のほんとうに貴重な時間の一部をボランティアの実習指導に費やして何も学生が成長しないままに実習終了するとか、本当に悪夢でしかないのですが、少なくないと思います。

正直、やばいなーとおもいます。

やばいなーと思いませんか。

では何でこういうことがおきるのかというと、上記を踏まえるとOTSとOTRの双方に要素がありそうです。

作業療法士の労力に見合った分、学生がたくさん学んで、成長して帰るようにするには、どうしたらよいでしょうか。

OTSは、自分の将来像を考えると幸せになれる

いろいろあるけれど、たとえば。

実習に来る前に、どんな職場働きたいのかは、なんとなくでも決めておくことです。

べつに後で変更したってかまわないので、自分はどんな領域のどんな場所で働きたいのか、それを明確にしてそれをスーパーバイザーであるOTRに伝えることです。

そして、そこで働くためには、自分はどんなことが必要と考えているので、どんな学びをその実習で得て帰りたいかということまで明確にできると、将来の自分のために動けるので、多少能動的になれるかもしれません。

自分なりに、自分自身について、実習に行く前に真剣に考えておくことが、実習前に行う準備として必要だったのかなと思います。

自分の将来像について、明確にできるといろいろ幸せになれそうな気がします。

作業療法士が学生時代の自分の体験(忘れたい?)を思い出す

本当に真剣に取り組んでる作業療法士ほど、日々の臨床がとんでもなく忙しいので、かつての自分を振り返る機会なんてありません。

今の自分の感覚や感性を基にして学生と関わるので、上記のような問題が発生するのではないでしょうか。

過去の自分を思い出してゾッとすると、目の前の学生が少しは可愛く見えるかもしれません。

いち作業療法士として学生目線をいつか忘れる恐怖

個人的な感覚ですが。

学生のことがいつかわからなくなるのが怖いです。

そのリスクは、自分が作業療法士として経験を重ね、成長するほどに高まるものだと思います。

学生のことがわからない作業療法士は、その学生の3年後を見据えた効率のよい指導や助言ができないのではないかと考えています。

後進育成のへたくそな作業療法士にはなりたくないので、いつか自分が今の自分の感覚だけに頼りすぎることが非常に恐ろしいです。

謙虚に

自分のことは棚に上げないと指導ができない場面は、確かにあります。

だからといって、それが行き過ぎて、かつての学生時代の自分の不出来と乖離したような実習目標を学生に負わせるのは、あまりにも雑な指導だなと、自分と学生とのかかわりを通じて思います。

養成校側から、よく言われる

「学生を患者様だと思って指導してください」

というのは、

「患者様に関わるときと同じくらい謙虚な気持ちで」

と自分なりに読み替えることにして、学生の成長を自分の糧にもできたら、自分はより良い作業療法士になれるかな、と考えています。

そうしておけば、学生にも謙虚になーれ、と指導しやすいです。気持ち的に。

互いを知れば「ヤバさ」は軽減できる

認知症の方への介入は、相互理解の促進にありますよね。

OTRとOTSの関係も同じではないかと思うので、この記事を書きました。

すこしでも「ヤバさ」が軽減されれば幸いです。

やり取りがしたい

こんな独善的な文章を読んでくださり、ありがとうございました。

よんでくださっている皆さんは、なにかしらおもところがあるはずです。

なにか気になる点がありましたら、LINE@をやってるので、そちらでメッセージ飛ばしていただければ、私自身の学びになりますので、よろしくお願い存じ上げます。

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特に学生諸君の等身大の意見があると非常にうれしいです。

わからなさや不安があれば、質問していただければ、答えられる範囲でクローズドにやりとりします。

年取ると頭が固くなるな、と感じる今日この頃です。よろしくおねがいします。

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人に好かれる目的で「愛想笑い」し続けているなら、今すぐやめる方が作業療法士としては、みんな幸せになるかもしれない話

はじめに

見抜かれてることなんて、とうに知ってたって人も、そうでない人も。

そんなことをしても意味が無いよって話。です。

とあるカフェの女子高生の雑談から

なんでこんな話になったかって言うと、女子高生の雑談が耳に入ってきた結果です。

カフェで仕事をしてたら、声がやたらうるさくて集中力が途切れて、仕事をしてた手が止まってしまっただけなんですけどね。

ちなみに、二人とも、すごく威勢のいい感じの女の子で、それはそれは凄まじい声量で会話してたので、盗み聞きするまでもなく内容が丸聞こえだったんですが、その二人の話が聞こえてきたおかげさまでそれを聞きながらいろいろと考えさせられ、勉強になりました。

女子高生らしい色恋から、友達の評論まで話題はいろいろでしたが、その一つに自分的に気になったものがありましたので、取り上げてみたいと思います。

うむむとおもった話

こんな感じです。

「Aちゃんはいままで勉強ばっかりしてきたせいか、あんまりぶっちゃけトークができないんだけど。あたしが、話してるとき、『あはは』って笑うだけなんだよね。何も言ってこない。発信がかえってこない。」

「そりゃ、真に興味がないこと話すあたしも悪いけどさ、それで、関係性が悪くなるとか無いじゃん。別に笑わんくたって、『あー、おもんないんだな』っておもうだけ」

「無理して笑ってんじゃねーよって感じ」

って話でした。

コレに対して、ひろえもん、

「おお、すげえ。」「よく言語化できてるな」

と感じました。

話の整理

まとめるとこういう話だと思います。

登場人物は、女子高生自身(以下A)と、その女子高生の友人(以下B)
Aの話に、Bはいっつも、愛想笑い
Aとしては、そんなBの態度が不満・不快

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愛想笑いする友人Bの心理の推定

いろいろ思うところはありました。

まず、Aの語りから、Bがなぜ、愛想笑いをしているのかについて推測しました。

得られたAさん目線でのBさんの様子は以下のようなものでした。

Aいわく、

「Bさんは、勉強ができる人で、恋の話ができないひとで、つまり、自分をさらけ出すことができなくて、自信が無い人」

だ、ということでした。

Aさんの話を聞いていた印象ではありますが、Bさんは、人の特徴を具体的な場面をあげながら説明していました。人間観察が得意な様子で、この評価、多分正しいんだろうと思います。

これを前提としてBさんのことを推測します。

自信がない

自分の発言が、相手に受け入れられるかどうかが不安という仮説を考えます。

つまり、Bさんは自信が無いから、「本当の自分自身」を守るためのペルソナとして、「愛想笑い」をしているという考え方です。

相手の人となりを掴むのが下手

Aさんは、

「自分と相手の感性が違っても、気にしない」

と言っているわけで、それで友情関係には何の影響も無いと言ってるわけです。

そういうどっしりとした態度の人物を信頼して表出ができると人生生きやすくなると思います。

しかし、Bさんは話し相手がどんな人物なのかということがうまくつかめていないようです。

Aさんとしては、そんなBさんの態度を、「自分に対する不信」とさえ受け取ってる節がありました。

Bさんは、相手がどんな人物なのかを見極めるのが下手かもしれません。

育ってきた環境の違い

Bさんが今まで生活してきた文化圏においては、人の話はニコニコと聞くものだということがあったのかもしれません。

Aさんとしては、自分の思うことは素直にぶつけ合うような環境の中で育ってきたので、Bさんの態度に違和感というか、ギャップを感じているのだと思います。

「いつもニコニコ」なBの言動に対するAの心理

Aさんとしては、

「なんで自分自身を偽って笑うのか」

と感じるのが一番の不満のようでした。

Aさんは、気の置けないストレートな関係性を欲しているのかもしれません。

そうだとすると、Bの自分の本心を覆い隠しているように見える行動が全く持って不可解であり、別に本心が分かったから問いって、相手を嫌いになることなんて無いのに、むしろ逆に、自分に対して、本心を見せてこない、愛想笑いをしていると感じられる部分が、本当に気に入らない。

ということだったように思います。

Aさんが自分で言う所によると、Aさん自身はあんまり勉強をしてきた方ではないし、できるほうではないとのことでした。

それもあってかもしれませんが、Aさんの感想は、人間的でストレートな感情をそのまま表現していると思いました。素朴で、飾りげがなく、まっすぐな感想だなという風に感じました。

目線の違い

起こっている問題の根本にあるものは、求めているコミュニケーションの違いだと思います。やはり。

Aさんとしては、相手との意見の交換や、交流、率直な感想、相手がどのような人間なのかを見せてほしいという、そういう感じがしました。人間を求めている、イベントや変化を欲している。

Bさんとしては、衝突を避けることを思考しているように思います。とりあえずの愛想笑いを続けるのは、相手とぶつからないようにするためでしょう。安寧な生活、問題のない日常を求めている。

お互いに求めているものが食い違っているから、食い違ってしまっている。

まあよくある話です。

以下本題

でも、はたと思ったわけです。ここからが本題。

で、以下個人的に思ったこと。

作業療法の現場でも起こることでは?

実は就職してから、上司に言われたことなんですが。

上司に、臨床の相談で

自分が、

「こうこうこーいったシチュエーションで、失敗しないようにするには、患者様が問題にぶつからないようにするにはどうしたらいいのでしょう」

という質問をしたときに、それを一笑されて言われたことです。

「問題が起こるのってわるいことなの?」

ハッとさせられると同時に、非常に重い言葉でした。

就職後働くようになってから、しばらくたって、このことばの意味するところが非常によくわかるようになりました。

作業療法士はじめとしたリハビリテーションの仕事は、患者さまを問題から遠ざけることでは決して無いですよね。

そうではなくて、むしろ問題に直面して、その問題を、いかに協力して一緒に解決するかという視点や姿勢こそが、重要では無いでしょうか。

衝突をさけるのではなく、その衝突がどういった質のものであり、どのようなリスクを内包しているのか、どのようにすれば解決できるのかという、衝突を乗り越えて一緒になって先に進んでいくという視点が大切なのではじゃないかと思うのです。

Aさんの話を、

「うんうん」

と聞いていた自分は、かつて、作業療法の対象者に対して「愛想笑い」をしようとしていたわけです。

しかし、作業療法士として対象者から好かれることを念頭に置いて「愛想笑い」をして、解決するべき問題との衝突を避けてる暇なんてないですよね。もちろん笑顔は大切ですけれど。

Aさんが、Bさんに対して感じている不信感は、そのまま、

作業療法士 対 対象者・同僚

と置き換えても、不自然ありません。

作業療法士は、Bさんになっていないでしょうか。

作業療法士がするべきことは、その場限りの「愛想笑い」、問題を先送りすることでは無く、中期長期的視点に立ったストレートなコミュニケーションであり、それを対象者や他職種との協働によって解決することです。

おわりに

もちろん、時と場合によって、適切なコミュニケーションは異なる訳ですが、作業療法士として、という視点に立てば、いつもニコニコして寄り添っているだけでは、物足りない、という話でした。

個人的にはそういう教訓を得ました。

大事なことを学んだような気がしましたので書いてみましたが、巧くかけたかどうか。

うーん文章って、難しい。

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個人的に、祖父が孫に暴力を振るうような家族関係が実在するという事実が受け入れがたい

はじめに

いたたまれない気持ちになりました。

家族が崩壊している家庭は、確実に存在するという現実を突きつけられた気分です。

記事内容

孫の男児(3)に殴るけるなどの暴力をふるって、打撲傷を負わせたとして、香川県警三豊署は19日、三豊市の無職の祖父(45)を傷害容疑で逮捕した。

 発表によると、祖父は14日午後6時30分頃、自宅で尿を漏らした孫に腹を立て、顔を殴るなどの暴行を加え、25日間のけがを負わせた疑い。

 男児は母親(23)と姉(5)の3人暮らし。母親は仕事に行く際、2人の子どもをアパートの階下に住む独り暮らしの祖父に預けていた。母親が、市子育て支援課や同署に相談していた。調べに対し、祖父は「暴力をふるったことに間違いない」などと供述しているという。

(2013年4月20日14時42分  読売新聞)

おもったこと

そもそも45歳祖父ってところにすでに違和感がありました。

いや、べつにおかしくはないのかもしれないですが、でもしかし、やっぱり50代とかが多いのかなというような気がしているので、その辺、やっぱり違和感が。

偏見なのはいなめませんが、きっと、自分が思っているような背景はあるんだろうなという気がしています。

働き盛りのはずの40代で、無職。

なんとも言えないです。

おわりに

前々から言われているように、高度成長期以降の個人主義は、それまでの家族像を一変させているという別の側面を持っているということを、改めて実感させられる、何とも言えない内容でした。

精神科において、作業療法士が関わる患者様が抱えていらっしゃる問題には、本人の疾患の問題のみならず、家庭内における人間関係が問題となっているような場合が、かなり多くみられます。

しかもそういった問題は、経時的におおくの時間を積み重ねて、かなり根の深い問題に発展してしまっている場合が多く、なかなか簡単に解決することは困難です。

そういうことになる前の予防的な支援が大切なのかなあとか、少し考えさせられました。

また、時間的余裕があれば、後日、この家族にはどのような支援が有効で、必要なのかについて考えてみたいと思います。

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「相手を思いやれない障害」の持ち主とどのように付き合っていったらいいんだろう。

はじめに

はてな増田にて気になる文章があったので、全文転載。

以下がそうなのですが、タイトルからして過激です。

記事本文ママ

どんなに会社の損失になっても辞めていただきたい

僕の職場に、鬱病になり一年休み、復帰してきた人がいる。闘病して復帰してきた、それも精神病だから、みんな腫れ物を触るようにやさしくやさしく扱っている。病気っていうのは健康な僕にはわからない大変な苦労だと思う。復帰するのは、本人だけでなく家族や周囲の協力あっての大変な努力であり、すごいことだと思う。

だけど。僕はあまり同情したくない。その人(仮にAさん(男)とする)は態度がものすごく傍若無人なのだ。病人だったとは思えないほど元気なのだ。(Aさんのプライベートをしらないから、もしかしたら職場でだけ無理矢理明るく振る舞っているのかもしれないが。。)

僕はみんなのやさしい態度には疑問を感じていたけど、病気から復帰したなんて先輩に聞くまで知らなかった。話を聞けば、うちの会社は母体は大きいが一つ一つの部署の規模は小さく、また専門職のため移動ができず、狭い人間関係と忙しい仕事の中でストレスが溜まり病気になったとのことらしい。

Aさんは頭がいい。みんなが知ってる有名国立大学の院まででている。だけど、人の気持ちに鈍感なところがあって、人を傷つけるようなことを平気でズケズケ言うし、常に自分は一番偉いし間違っていないという感じ。イライラすれば書類を机にたたきつけたり、舌打ちしたり、ドアをガッシャーンと閉めたりする。

ミスをすればなぜミスをし、どういう気持ちで仕事に取り組んでいるのか小一時間問いつめるし、分からないことを聞きに行けば、こんな事も分からないのか、お前は何年目だと叱責する。予定を立てれば批判ばかりして、Aさんの意見を聞けばそうやってすぐ人に頼ろうとするとまた怒鳴られる。あんまりにも理不尽だ、おかしい、とちょっとでも反発しようもんなら、100倍返しでまた怒鳴られる。(ちなみにこれは全部社員から見える場所で行われる)

僕は新入社員だから、何を言われても仕方がないと諦め、どんなひどいことを言われても黙って耐えてきた。だけどAさんは、新入社員のみならず、たとえ上司であろうと社内の人全員にそう言う態度をとる。本人は自分が地雷をドカドカ踏んでいることは気が付いている。しかし病気だった自分に怒るはずがない・意見を言うはずがない・高学歴の自分を切る訳がない。という自負がとっっても見える。

みんな、すっっっっっごいイライラしてる。だけど言えない、「病気だった」から。Aさんは、人から何か言われることに耐性がないから、言ったらすぐまた「病気」になってしまう。以前上司がどうでもいい雑務でAさんに注意したとき、Aさんは顔を真っ赤にして怒りながらたばこを吸いに行き、次の日には体の調子がおかしい・病気が上司のせいで再発したと怒鳴り散らして病院に行ってしまった。それにAさんはちょっとした風邪や、ただ転んですりむいても「鬱病のときみたいに大事になったら大変だ」とすぐ病院に行ってしまう。仕事を投げ出して。

僕はAさんに怒りしか覚えない。仕事ができるからと言って、周囲の人のストレスを考慮せず首を切らない会社にも腹が立つ。結局自分が悪役になりたくないから上司は彼を注意しない。僕がこんなに腹が立つのはAさんが病気になったところを知らないせいだ、復帰したのはすごい努力のたまもの、尊敬すべきことだ、Aさんは先輩だし仕事はとてもできるのだからすこしの言い方ぐらい目をつむろう。と毎日呪文のように言い聞かせているのだけれど、もう我慢の限界だ。Aさんは病気だったという事実を振りかざして、周囲の人を攻撃し怯えさせることで自分の身を守り、ぬくぬくした環境で生きているようにしか感じられない。

せめて自分が傷つきやすいのなら、どうして他の人に優しくできないのか。自分の痛みには必要以上に敏感なのに、どうして人の痛みに無関心でいられるのか。言われて嫌なことをわざわざ言って、言われたその人がどういう気持ちになるのかどうして想像できないのか。ものすごく周りに気をつかえとか、言葉遣い全て直せとか言っているわけではない。ほんのすこしの配慮でいい、考えればわかることだ。

これは病気のせいなんかじゃない、人が生きていく上で最低限持つべき思いやりだ。これができないのなら、社会になどでてこないで、自宅でひとり引きこもっていればいい。死ぬまで自分が一番だと思ってろ。(まあ、Aさんは奥さんも子供もいるのだが…)

いつまでもかわいい対象が自分だけで、他の人には無関心なまま自分を守り続けているようじゃ、永遠にあの人の病気は治らない。はやくあの人をクビにしないと、このままじゃ僕を含め周りの人の方がはやいところ病気になってしまう。

どうしたらいいんだろう

言ってることは、非常によくわかるんですよね。

他人を思いやれないのは、明らかにうつ病の症状ではないですが、これホントにうつ病なんだろうか、診断違うんじゃないかとか思わなくもないですが、パーソナリティ障害と併発しているんでしょうか。

あるいは、アスペルガー障害的なものなのかもしれません。

断定的なことは、いずれにしても上の文章からはうかがい知ることはできないです。

おわりに

近年、このような「他人を思いやることができない」ということを、障害の一つとしてとらえるという見方が一般的になって来ているように思います。

そのいっぽうで、まだまだこういった社会性に関連する不具合を障害としてみなすという考え方が十分に浸透しているとは言いにくい状況です。

また、たとえ、それが障害だと認められたとしてもそこから先が無いのも現状なのかなという気がしています。

その先の問題についての解決策が必要だと思いました。

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3.11震災後2年目の節目に被災地復興が進まないという問題点について想い、考えるコト (1)

はじめに

東北が立ち直るためには、まだまだ時間が必要だけれども、時間が癒すのを待っていたら、廃用症候群に陥ってしまうというジレンマが最大の問題点だと思うという話です。

長くなりそうなので、記事をいくつかに分割して書いてみます。

まず、東日本大震災から2年がたった今、一体、何が問題なのでしょうか?

というところに焦点を当ててみます。

テレビの3.11特集

ここのところ、毎日3.11特集ばかりです。

「これは!」という内容がある一方で、視聴率が取れるからという醜悪な理由で番組を構成しているものもあり、まさに玉石混淆。

(夏の戦争特番にも思う事なのですが、年間を通してぱらぱら定期的にやってくれた方が、視聴者は長期的な視点が必要な問題だという事を日常的に意識できていいと思うのですが。)

さておき、ここのところ、毎日のように、番組のコーナーで3.11についての番組が組まれています。

もっともテーマとなっているのが、

「復興の遅れ」

です。

こうしたテーマの番組は、震災後、なかなか復興が進まない現実をとりあげ、それがなぜ進んでいないのかについて、それぞれの視点から分析をしたり、復興が進まないことについてどう思うかということを、地元の避難民の方々に尋ねたりという構成の番組が比較的多かったように感じました。

なぜ復興が遅れているのか

そうした番組をみて、なぜ、なかなか復興が進まないのかについて思ったことがいくつかありました。

いろいろあったんですが、主要なものは以下の通りです。

1)心理的ダメージ

まず、一つ目は、まだまだ心理的な衝撃から回復できていない人々がそうとういらっしゃるのだということです。

震災から2年が経過しました。

いまだに家族の遺体を捜索し続けていらっしゃる方、亡くなった家族が使っていた部屋が、震災直後から、手つかずで整理されないままになっていたり。

周囲が、復興を唱えたところで、なかなか新たな一歩を踏み出すことができないでいる様子が見えました。

2)放射能

二つ目は、「放射能」というモノがさまざまな影響を及ぼしているという事でした。

放射能の風評によって、線量が基準値からほどとおいものであってもなかなか売ることができない農家の方々。

「放射能」が恐ろしくて、外に出るのがはばかられるという人。

小さな子供と一緒に暮らしており、子供たちへの影響を気にして、その土地へ戻ることができない家族。

そして、原発の後始末にあと30~40年もの歳月が必要になるという専門家の予測。

「放射能」は、先が見えない不安の一つになっているんだなあということが感じられました。

3)取り上げられた主体性

3つ目は、復興が進まないという意見が沢山聞かれたことです。

多く聞かれた、この、「復興がすすまない」という意見に違和感を感じました。

なぜなら、復興の主体が、地元の人々から切り離されてしまっているかのように感じられる発言だったからです。

復興は、地元の方が主体的に進めるモノであって、がやの人間達にはそれを支える事しかできないのが、本当のところだと思います。

そうでなければ、それは形だけ取りつくろった復興もどきであり、周囲の支援がなくなってしまったあと、きっとそのシステムは崩壊してしまうでしょう。

支援が無くても、回っていくような社会基盤や、経済、インフラ、そういったものを形成していくには、地元の人々の活躍がとても重要で、欠かすことのできないものです。

そうでなければ、外から入ってきた人や物、カネが引き上げたときに、その土地のさまざまなものがボロボロの、ずたずたになってしまいます。

ですが、福島県においては雇用は減少しているという話です。一向に復興がすすまず、やることが山積みの一方で、です。

これは、個人的には極めて奇妙な話に思えます。

なぜなら、問題があるということは、それを解決するだけの仕事を作り出す余地が沢山あるという事だからです。

つまり、仕事を生み出すことができる可能性の山がそこにあるにもかかわらず、なぜだか、雇用は減少しているらしいのです。

復興予算が大量につぎ込まれているはずなのに、それは、いったいどこに、どういったお金の流れとして流通しているのだろうと、思わず勘ぐらずにはいられません。

そして、このことについて、地元の人も、ニュースを見ているその他大勢も、あまり関心が無いのだろうなという気がしました。結構、重大な問題だと思うのですが。どこかの政党は、自分のところの党本部の修繕代金だか何だかに流用しようとしていたとか、信じがたいニュースもありましたので、多分そういう事なんだろうという偏見の目で物事を見てます。

 

4)先が見えない

最後に思うことですが、2年もたつのに、全くゴールが明確化されていないんだなという事を感じました。

復興とはいいつつも、その内容がまったく具体的ではないということです。

つまり、「震災以前の形にもどすこと」を言っているのか、「新しい共同体を再構築する」のかというビジョンが、復興に関連する人間に共有されていないと感じました。

これって、とんでもなく問題だと思います。

なぜなら、この2年間やってきたことは、何のために、どういう目的でやってきたことなのかという評価をすることすらできないからです。

そして、多分、その評価も十分に行われてきていないのです。

さらにいうならば、全体の復興計画についても、十分な具体性をもったものが存在していないということです。

決められない政治の影響も、非常に大きいとみてます。

この件については、前政権および、民主党の無能によるところが大きいと、個人的にはおもっています。

真相は闇の中ですが。

比較的まともな執政能力をもった政治家が沢山いるのが与党で、そこの党員が組閣してる政府が今後の復興を取り仕切ることになろうと思うので、期待をしております。

おわりに

以上が、2年目の節目にひろえもんが思う、主要な問題です。

問題は山積みなことはまちがいないのですが、少なくとも、上記の4つを優先して解決できないと、復興は難しいのではないかとおもいます。

3.11震災後2年目の節目に被災地復興が進まないという問題点について想い、考えるコト (2) に続く

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