エピソードによって評価はいくらでも変わりうることを踏まえて、どのようにするべきか

はじめに

作業療法では、ありていにいえば、患者様を全人的にとらえることを試みます。

まず、患者様と関わる中で発生した事実、現象を言語化し、情報化します。そして、その後、言語化した情報について、他の情報やエピソードを交えて説明、解釈を試みます。

これらの過程は、作業療法士が、その日常業務で、日々のように行う事です。

しかしながら、これは難しいものだなあと感じるところなのですが、同じ出来事に対する捉え方や当てはめる評価、視点が異なれば、どのように評価するのかが当然異なってきます。

それを具体的に実感する出来事があったなあと、ふと思い出しましたので紹介させてください。

園芸に取り組んだAさんの話

結構大規模に園芸をやってるとある病院に入院しているAさんは、作業療法の一環として、園芸に取り組む事がありました。

5月頃、Aさんにはひまわりの種を植えてもらっていました。

「私が植えたひまわり、芽がでたねえ」「おおきくなってるねえ」と、自分が植えた種が芽吹き、成長することを喜ばれていました。

そんなAさんについてのエピソードについて、学生さん(OTS)がニコニコしながら話しました。

その学生さんは

「Aさん、成長したひまわりをみてすごく喜ばれてましたよ。園芸ってすごいですね。しきりに『どんなふうにしたらこんなにうまく大きくできるの?わたしにもおしえてね。すごいねえ』と嬉しそうにされていました」

と、ひまわりをみて「すごい!!」と満面の笑みで感動したAさんと、そんな反応を引き出す事ができた園芸に焦点をあててOTRに話をしました。

OTRの切なさ

しかし、一緒にひまわりの種を植えるという体験をしたそのOTRにとっては、学生の発言がポジティブなものとしてはとらえられなかったようです。

Aさんが、自分で植えたものだという、その記憶、エピソードがAさんの中からすっぽりと抜け落ちてしまっていたからです。

実は、Aさんは認知症を発症しておられ、自分が経験したことについても次第に忘れていってしまうという特性をお持ちの方でした。

Aさんと園芸をするという体験を共有したOTRとしては、「関わりの無いひまわり」の成長を、天衣無縫に喜ばれているAさんの姿をみて、同時に寂しさや切なさを感じたのだという事でした。

共有した時間やイベントによって、関わり方は異なる

考えてみると、同じ物事でも、人によって受け止め方が異なるのだという事は当たり前の事だと思います。

たとえば、日常生活において、当てはめて考えても、竹馬の友と、仕事の取引先の相手とでは、使う言葉遣いも、会話の内容も姿勢や態度も全く異なる物になるはずです。

それは、病院という場であっても、リハビリテーションの場面であっても異なるものであるべきはずです。また、俗に学生が専門学校や大学時代に教わる「関係性」の本質的な部分です。

人は、一人一人違う存在である事を許されているべきだと思います。

だから、やはり作業療法士は、その人物そのものをとらえるという意識を常に持ち続けながら、ひとと関わらなければならないとおもいます。

エピソードは誰かと共有すると価値が増す

人は、その人がどのような背景をもっているかによって感じ方が異なります。

先ほどの話でいえば、学生さんがOTRにAさんについてのはなしをした事で、OTRは自分が持っている情報、エピソードと照らし合わせて、OTRなりの感じ方をしました。

学生さんは、Aさんとの関わりを微笑ましいものとして解釈していましたが、そのことをだれにもはなさなければ、それはソレまでの話で終わってしまっていたと思います。

たとえ、一回きりの出来事であったとしても、誰かにその事を話すという事にはとても意味があることです。

なかなか、自分の感じ方を伝えるという事は、練習が必要な事だと思いますし、ひろえもん自身誤解なく、すぱっと自分の伝えたい事を伝えるという事は難しい事だと感じています。

しかしながら、だからこそ、自分以外の誰かにエピソードを打ち明け、やり取りする事には、言葉で表現しきれない意味があるのだとおもいます。

おわりに

日常業務は、簡略化し、安定したクオリティーを提供することが望ましいことは否定される事ではないと思います。

しかし、その効率化で生みだされた時間をどのように使うかという事は、働く人間として、非常に重要なテーマだと思います。

エピソードや自分の感じ方を他者と共有するという事を楽しみながら行う事ができることが最も望ましい事ではありますが、ソレが一筋縄でいかない場面があったとき自分がどんな工夫ができるのか、それも作業療法士として一つ重要なことなんだろうなあと感じています。

手書きの妙と、アナログコンテンツならではのいくつかのメリットについて

はじめに

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自分は結構、デジタルなコンテンツも好きです。

閲覧や利用にいつでもどこでも、時間や場所を選ばないという事もありますが、一番大きな理由は再利用できるからという怠惰な理由だったりします。他にも、安定したクオリティーで作品作りができるという理由も。

でも就職して、作業療法士としていろいろ活動提供するようになってからは、アナログコンテンツ、もっと極めないととなあ思うようになりました。

アナログのメリット

ひろえもんが、自分でアナログコンテンツを使っていて感じたメリットについて書いてみたいと思います。

①短時間で完成

まず、パソコンがいりません。専門的な知識も。

紙と、ペンさえあれば、いつでもどこでも、自由に文字やイラストを描く事ができます。

②希少性

特性上、その場で書いたそれしかオリジナルが存在しません。また、自由に文字やイラストが書けるという事は、裏を返せばなかなか同じ物を作成する事は難しいという事になります。必然的に、作品はオリジナリティーが発生します。

ひろえもんは、作業としてイラストを用いる上で、これはとても重要なファクターだと思います。

だからこそ、患者様にご自分の作品として持ち帰っていただく意味があるんだろうなと思います。

③ストーリー

もっとも強調したいのがこれです。制作時に誰かと時間と、場を共有する事によって、いろいろなストーリーが生まれます。

目の前で、いろいろ相談しながら、そこから派生する会話を楽しみながら、作品を完成まで持っていくまでの過程には、何とも言えない楽しさがあります。

そして、作ってしまって終わるのではなく、作成した作品をふとした瞬間に振り返る事で、そのときの楽しさがよみがえったり、互いにより親密さを感じたりといったさまざまないいことがあるように思います。

事前準備がかかせません

患者様と一緒になって、手書きで書いたり描いたりする場合には、やっぱりそれなりに、イラストが上達していく必要があるなあと感じています。

上達する一番の近道は、実際に描いて描いて描きまくることだなあとも感じています。

そんなイラストやレタリングの練習も、一つの事前準備だなあと思います。

おわりに

ひろえもんはぶっちゃけ、不器用です。

抽象的、記号的な絵は得意ですが、かわいらしい絵だったり、かっこいい文字だったりを表現するのが、とっても苦手です。

が、そういうことも楽しみの要素の一つとして提供できたらソレでいいのだろうなと思います。

重要なのは、「あるもの」をどんな風に使うのかということ。

その使い方についてもっともっと修行が必要だなあ、と思います。

効率や便利さと対極にある「ひとの想い」について

はじめに

「言葉を器用に語れたら、どんなに良いだろう」と思う事がしばしばです。

自分の思うことを、自分なりに表現することさえ、ままなりません。

それでも、自分の感情がどんなにめんどくさい(非生産的、非合理的)なものであっても、それから逃げてはいけないとおもうのです。

理由

感情に人間らしさを求めるからです。

人が人とわかり合うということ

そこに合理性(完全に公式化できる要素)はありません。

ただ、人と人がいて、言葉を交わし、行動を示すのみです。

そして、人と人のやり取りにおいて重要視されるのは、感情面であり、その人の人となりであり、決して合理性(いわゆる「現象としての『ただしさ』」)は必ずしも必要ありません。

自身の印象に基づく決めつけ(不確定性)でさえ、たとえばその場を楽しくさせる要素であれば受け入れられるものです。

要するに人間を「ただしさ」に当てはめるべきではない

最近、本当にそう思います。

人間は、非合理な存在です。

ルールやシステムは合理性に基づいて決められますが、人間は本質的にはその合理性になじまないものです。

あるいは、合理的な人というものは、合理的であるために、人間らしい感じ方のどこかにふたをしているのではないかとおもいます。

ひろえもんにも、実はそーいうところがあります。

それを、無自覚にやってしまって、「ただしい」だけの判断をしてしまうときがあります。

それは「かなしい」ことだなあとおもいます。

おわりに

気付けば自分語りになってしまいました。

人間が「ただしさ」というルールやシステムの上に生活している事は、十分に承知しています。

「ただしさ」を無視して生活できない事も。

でも、きっと書き残しておきたかったんだと思います。

そして、これを書き残すことは、読んでくれているひとにとってもきっと意味のあることだと確信します。

「ただしさ」のみに囚われず、人間の気持ちに真摯でありたいと思います。

いち作業療法士としても。人としても。

等身大の認知症体験談を共有できる画期的なウェブサービスが開始されたようです。

はじめに

認知症に対しても作業療法は処方されます。

痴呆症が認知症と名前をかえてから、再来年で10年がすぎようとしています。

どんな予測をみても、認知症を患う方の人数は今後も増えていくと予想されています。

しかし、認知症についての情報は十分に世間一般に知られている訳ではないなあというのが個人的な感触です。

この状況は変える必要があります。

新しい試みが必要な時期です。

そんな試みのうち、画期的なこころみがありましたので紹介します。

認知症を経験した人の記録が読めるサイト

こちらです。

認知症・介護者の語り | 健康と病いの語りディペックス・ジャパン

ある問題について、その問題を既に経験した人が書き残した記録というものは、これからその問題に立ち向かわなければならない人々にとってとてもありがたい物であるに違いありません。

認知症もその例外ではないと思います。

認知症になると、その対応の方法によってはいままでの日常が今まで通りに遅れないという事が起こります。

本人の努力だけではどうにもなりません。

この病気は周囲の理解、協力が非常に大切な疾患であり、障害です。

つまり、認知症の情報を遠ざけるのではなく、積極的に関わってみようという姿勢が大切なのだと思いいます。

たしかに、認知症についてかかれてた書籍はたくさんあるとおもいます。

しかし、気軽に手に入れられるコンテンツはそんなに充実していないのではないのではないでしょうか。

おわりに

認知症に感する情報は、気軽にてにいれられるにこしたことはないとおもいます。

また、こんな感じのコンテンツがあればご紹介したいと思います。

進行性疾患患者の言いたい事を理解できなかったという苦痛について

はじめに

いわゆる難病というものにひとくくりにされるものには、症状が進行するにつれてコミュニケーションの障害が立ち現れてくる物があると思います。

具体的にそういう場面に出くわすこととなり、その体験が自分の無力さ加減を浮き彫りにしましたので、ぜひ共有できればと思います。

小脳変性症的疾患

決して数の多い疾患ではないですが、作業療法士養成過程における力の入れ具合はそれなりではないかとおもいます。それは、ひとえにこの疾患が、本人とその周囲に非常にたくさんの出来事を巻き起こすからではないでしょうか。

笑顔が素敵な優しいSさん

自分が、入社してすぐにおつきあいがあった患者さんの一つです。フロアなどで自分がやらかしたときには、発語が難しいので、優しい笑顔で「うんうん」とうなずいてはげましてくださったものでした。

時には、片言ながらも話しかけてくださり、会話をして楽しませてくださる事もありました。

症状が進行

いろいろイベントが忙しくしていた生もあり、最近、作業療法室にて顔を会わせることがすくなくなっていました。

今日、病棟に行ってみて、久々に会って驚きました。

ずいぶんと違う印象のSさんがそこにはいました。ベッドから体を起こす事はできず、1語ごとの発語はあるものの、まったく単語につながらず、聞き取る事ができませんでした。

腕は動かす事ができるので、指差したりなど限られた動作を駆使してジェスチャーなどでこちらに意図を伝えようとしてくださるのですが、Sさんのいいたい事が全く理解できませんでした。

申し訳なさ

相手は切々とした表情で自分の言いたい事伝えたい事を、こちらに訴えます。

可能性のありそうな事について、一つ一つこちらが言葉にして問いかける形で、確認を行い内容の特定を試みましたが、最終的に理解ができきませんでした。

理解できないふがいなさを、ただSさんに詫びる事しかできませんでした。

自助具について

コミュニケーションボードなどあれば、いいのかなあと思いました。

また試してみたいと思いますが、ほかにこんなものがあればいいのではないだろうかという案がある方はぜひ、アイディア頂けると嬉しく思います。

コミュニケーションがはかれないもどかしさについて

相手が自分に一生懸命伝えようとしている分、こちらも一生懸命になります。お互い一生懸命なのに、意味のやり取りができなかったのは、自分にとって非常につらい体験でした。Sさんはもっとつらかったと思います。

この苦痛が軽減できるような支援ができたらいいなあと思います。

おわりに

病棟に行く用事があり、その時にSさんの様子をたまたま知る事ができました。

時間の許す限り、まめに病棟に足を運ぶことも大切だと思いました。

その日のうちに思った事は、その日のうちに書き付けて残すといいと思います

はじめに

記録を書き続けるというのはなかなかおっくうなものです。

記録を残すのが良い事なのは、わかっちゃいるけどなかなかできません。

ですので、書き残す事は本当にシンプルな事から始めると良いと思います。

自分の感じ方を記録すること

たとえば、こんな感じです。

「今日は晴れていた。気分がさわやかになり、がんばろうと思えた」

こんな感じのことです。

こうした記録では、例えば晴れという事象について、自分はどのような感想を持ち、それをどのように表現したのかという事が重要になります。

なぜ、自分の感情を書くだけの事がそんなに重要なのでしょうか?

自分の感動を色あせさせない

人は、いきているだけで、いろいろな事を感じ、感動する事ができる生き物です。

感じる事に意識的になることによって、より多くの事を感じ、また、それをもとにしていろいろな事を考える事ができる用になります。これは、OTという仕事をやっているとすごく大切な事だと思います。

いろいろな切り口でいろいろ気付いて提案する事が求められる職種においては、こういう、自分の感性を磨くという事は共通して大切だといいますか、求められる事だと思います。

一方で、人間は、常に何かを感じる生き物なので、以前感じた事は常に現在感じている事に影響され、その感覚も揺らいでいく物なのではないかと思います。

極端な事を言えば、1秒後に振り返っての自分の感性のクオリアと、1年後のクオリアはまったく異なった物である可能性があります。

自分の感覚が、変化していく事自体は当たり前の事だと思います。

しかし、変化するという事は、昔自分がどんな風に感じたのかを忘れることにつながりはしないでしょうか?

自分の感性を大切にして働く事が求められる人間としては、自分の感じた事を後々まで思い返す事ができるように形にしておきたいと思うのもまた心情だと思います。

ノートやパソコンを使って書き残す

時間がたったあとも、自分が感じた感覚をその鮮度を保った状態で思い出すためには、やはり外部記憶を使用することが非常に有効だと思います。

具体的には、自分の言葉で、自分自身の体験について、感情を移入しながら記録します。それによって、後日その文章を読み返したとき、まず、その文章を書いたときの自分自身を思い出し、それをたどって、記述した内容について反芻する事ができます。

職人技には感覚が欠かせない

自分が、感じた感覚は、職人的な感性が求められる仕事上では非常に重要です。

職人の具体例ですが、1000分の1ミリの精度を人間の手で表現できる人たちがいます。彼らは何も特別な道具を使う訳ではなく、人間が生来持っている感覚を研ぎすまし、ソレを使って判別を行います。

作業療法士にも同様な感性が求められると思います。昨日と今日の様子を比べて、違いに気がつくためには、自分自身の感覚を研ぎすまし、その違いについて意識できる事が必要になるからです。

そして、その感じたことや感覚をしっかりと覚えておく事は、必ず次の問題解決の役に立つはずです。同時に、その感覚を得るに至った具体的な経緯、ストーリー、エピソードなども書き添えておくと、あとで役に立つこと間違いないです。

できれば毎日残したい

そのためには、感じたことが色あせる前に、文章にして書き留めておく事が有用で、重要だと思います。

毎日、何かを書き残す事、書き起こすことには非常に力を必要とします。大変なことだと思います。しかし、これをやってるのとやっていないのでは、伸びしろが大きく変わってくるし、業務の質の改善具合もまた違ってくるなあというのが個人的な感覚です。

仕組みを作ろう

そのためには、なるべくさぼらないで書き込みができるような、仕組みづくりをしなければ行けないなあと感じています。

たとえば寝る前に時間をちょこっととるとか。

自分にあった記録媒体をチョイス

人によって、向いている記録媒体は異なると思います。まずもって、デジタルかアナログか。アナログでも、ルーズリーフ派、メモ帳派、ノート派、広告の裏紙派などなど、さまざまだと思います。

たとえば、ひろえもんは、手書きで物を書くよりもキーボードを使用した方が、早く記録が残せる人なので、デジタル媒体をよく使います。

後は、アナログで記録した物も、スキャナーで取り込んで、デジタルで管理したい人です。

アプリ紹介

そんなデジタル人間ですので、この二つのアプリケーションが非常に重宝しています。


良かったら試してみてください。使えるようになると手放せないデス。最初は、無料で使ってみて、気に入ったら有料プランを試されると良いとおもいます。

おわりに

めんどくさがらずに、将来の自分のための投資だと思ってめんどくさがらずにきちんと記録が残せるとすてきだと思います。

作業療法の理論はやっていることの説明にはなっても、此れからやろうとするひとの助けにはなりにくい…かも

はじめに

じぶんの体験とか実感をもとにしています。

こういうやつもいるのかという生暖かい目でご覧下さい。

作業療法と理論

作業療法は、その資格が国家資格として成立してからしばらくの間、そのアイデンティティーの話でいろいろあったそうです。

「作業を使うことが作業療法なら、誰でもできるのでは?」

という至極真っ当な疑問に対してどのように答えるのかという事が、非常に大きな課題だったのではないでしょうか。

そんな作業療法は、作業を「その人にとって意味のある人間が行う活動」と定義しているので、対象となる状況、場面が非常に広範になっております。

これには、いろいろな対象者に対し、柔軟にそのときに必要なプログラムを提供し、常により良い物を提供できる可能性を保証しているという非常に大きなメリットがあります。その一方で、理論化およびモデル化が難しく、他者にやっていることが理解されにくいということがあります。

逆に言えば、理論化やモデル化ができさえすれば説明が大分簡単になります。

というわけで、作業療法士にとって、理論というのは、患者様や第三者にたいして、自分がやっている事を説明する上で非常にありがたい存在という訳です。

作業療法士という国家資格が誕生してから、作業療法士にとってはそのアイデンティティを確立することが非常に重要だったのですから、理論やモデルが教育面でも重要視されたのは特に不思議な事ではないと思います。

しかしながら、現状、そんなありがたいはずの理論が、作業療法を学ぶ学生、OTSの皆さんや、新人OTRにとって、負担になってしまう状況があるなあと思います。

なぜなのかを自分なりに考えてみました。

具体性と結びつかない専門用語

作業療法士養成過程では、非常にたくさんの専門用語を学習します。生理学、解剖学、運動学、精神医学、etc…

これらの言葉、実際に臨床にて使えるようになるには、やはり具体的な経験や体験が書かせないというのが、ひろえもんの結論です。いま、臨床の場に出てあれこれとやっているうちに、具体化されイメージを持つ事ができた言葉もあれば、書籍などで学んで得たイメージと全く違う言葉もありました。

最近だと、認知症と言う診断名や、統合失調症という診断名には、1セラピストとして患者様と対峙するときにはほとんど意味をなさないのだという事もわかってきました。(もちろん参考程度にはなりますが、その分先入観を持ってしまうというリスクも抱える事になります。)

そんな感じで、学校の授業で具体的に経験することができないことは、実際問題としてたくさんあります。そして、具体的に経験できない部分については、想像や調査などによって補わざるを得ない部分が大きいです。そして、そのような知識は、実際に臨床に出てみてすぐに使えるような物ではありません。ひろえもん個人としては、しばらくの間、自分の書籍上の知識と、実体験との間の擦り合わせを行う事が必要になりました。

理論も同じだと、ひろえもんは思います。

理論が誕生するまでには、ソレをつくったひとに膨大かつ具体的な経験があり、それを整理、体系化した結果が、理論や、モデルだと思います。

そして、理論やモデルはその生成の段階で、核心部分に焦点をあて、明確化するために、高度に抽象化されている事が多いです。

つまり、理論を学んでも得られる事は、どうやったらいいのかという方向性がぼんやりと見える程度で、具体的に何をしたらいいのかという事については、自分で考えるなり、他に詳しいひとに訪ねるなどしなければいけないのです。

ここが、理論が学生さんの負担になる部分なのではないかと思います。

とある実習生(OTS)の話

なぜ負担になるのか、その具体例としてとある実習生の話を一つ紹介してみたいと思います。

その実習生は、勉強熱心で、非常にたくさんの言葉や理論などを知っていました。非常にまじめで、学校の勉強なども卒なくこなすタイプの優等生さんでした。

が、実習ではなかなか苦労をした人でした。患者様と関わりを持つ事はできるのですが、その関わりを治療として形にしていくところにずいぶんと苦労したみたいです。

その子は、ICFやその他の枠組みに基づいて情報を収集しようとしたあまり、その他の情報をついつい見落としてしまいがちで、それについてもさんざん指導者から指導をされました。理論を先に知ってしまうと、どうしても注意の矛先が偏ってしまい、その分見落としてしまう情報が増えるという事なのかなと思います。

また、実習というのは文字通り、自分でやってみる事が求められます。つまり、実践ができること、そしてそれがうまく行ったかどうかの判定をし、次回にその結果を反映させる事が求められます。その人は、計画をたてるところまでは非常にうまくやるのですが、それを実践するのがなかなか難しいみたいでした。

この事から言えるのは、いくら理論をしっていたとしても、そのプロセスで何かを行った経験が乏しいと、まず実践する事が難しいということだとおもいます。(本人もそんな事をいってました。)

ですから、次回の実践をより楽に行えるようにしようと思うなら、机の上で勉強した事をまず、具体的に実践してすぐに使えるような形にしておく事が必要という事です。

理論より現象

まず理論ありきは何かが違う感じがします。まえまえから思っていた事ですが、働き始めてからちょっとずつ自分の中で確信となっています。

ひろえもんは、まず先立つのは、現実であり、その場におこっている現象をとらえ、それを解釈し、説明する一つの手段が理論だと思います。

つまり、理論よりもさきに、具体的かつ膨大な量の情報の集合である、現象、現実、実体が五感をとおして入力されていることが自然な流れであり、実際必要があると思います。

さらに言えば、先に理論を学んでしまう事は、先入観を産み、別の考え方で物事をとらえる機会を失ってしまう事にもつながるのではないでしょうか?ということです。

理論単品では使い物にならない

いうまでもなく理論は、非常に有用です。セラピストが行った治療手技についての価値を、構造的に説明するときには特にその威力を発揮します。つまり、介入の結果として起こった現象やその意味の解釈をする上では無くてはならないツールだと思います。

しかしながら、理論は無条件でありがたがられるべきものでもないとおもいます。

理論がありがたいのは、具体的な事象を抽象化するとき、それが簡単かつ有意義に行えるからです。つまり具体的な事例があればこそ、理論はその存在価値を発揮できるのではないでしょうか。具体的な経験が乏しいと、理論から具体性を生み出していくという事はできないと思います。

習うより慣れろ

結局そういう事だと思います。

おわりに

これは、いまのひろえもんの実体験と感じ方に基づく、個人的見解です。

ほかの意見がある方は、ぜひまたご意見いただけたらと思います。

音楽を療法として使うって、どうすればいいの?

はじめに

必要性に迫られたので、音楽療法について勉強中です。

正直、あっぷあっぷですが、がんばって勉強中です。

そんな自分のもがきを、記事にしてみました。

作業療法プログラムとしての音楽療法

病院によって、音楽療法提供の枠組みは異なると思います。当然算定の方法とかも違ってくるんじゃないかと思います。(正直詳しい事がまだまだ全然わかりません)

自分がこの四月よりつとめている病院では、作業療法の枠組みの中で認定音楽療法士の方を中心として、さまざまな音楽療法が提供されています。

で、自分は、それにがっつり参加する事に成りました。はい。

音を作業として使うって?

実は、作業療法士養成過程では、必ずしも音楽を用いた作業について学ぶとは限りません。そして、わたくしごとにはなりますが、ひろえもんの卒業した養成校は、音楽療法について授業でいっさい触れていなかったのではないかと記憶してます。

もちろん、ひろえもんは作業療法士ですので、作業療法という大枠の理論については勉強しております。ですから、使う作業が、音楽を用いた作業に成るだけといえば、それだけの話です。

別に、音楽療法にかかわったことがなくても、優秀なOTRであれば、特に困った事は無いのかもしれません。

でも、ひろえもんは困ってしまいました。

患者様に、何の目的でどのように音を使うのか、音のどのような特性をどんな形で提供するのか、さっぱり具体的な場面が思い浮かばなかったのです。提供する活動としても、歌ったり、ボディーパーカッションだったりが関の山でした。演奏できる楽器も特にありません。ギターのコード引きができる程度です。

そんな自分が、音楽を治療として使う場にセラピストとして立つと成ったとき、自分はどんな事ができるだろうと、もじどおり、頭を抱えてしまいました。

「音楽」と「療法」

音楽を治療的に用いるためには、当然作業療法で通常使用するような枠組みが必要になると思います。でも、その枠組みすらわかりません。

大枠としては、作業療法の理論がそのまま流用できるはずです。とりあえずは、当面作業療法士として自分が学習してきた枠組みや考え方を使っての解釈や学習、分析、評価、統合を行う事に成るんだと思います。

いま、まさに、総合臨床実習のときの漠然とした不安感を思いだしています。初めて患者様に活動を提供するときに、自分の手持ちのアクティビティーがこんなにも少なかったのかと愕然とした、あのときの感覚がよみがえってきました。

しかし、そこで一つ、ハッとした事があります。

いまの自分は、提供する作業は何でもかまわないと言う事を知っています。提供する作業そのものが最大の問題ではなく、提供する活動や作業がその人にとってどのような意味を持ち、どのように影響し、今後どのようなことにつながるのかという事がもっとも大切だということを知っています。

つまり音楽療法においても、ソレは変わらないはずです。患者様に活動提供を行うということになったそのときに、提供する活動は、誤解を恐れずに言えば何でもかまわないはずです。

問題は、「音楽」への無関心

そこで改めて気付かされたのが、音楽というものに対する、感性の鈍麻、無関心にも似た鈍感さでした。いま、音楽は非常に、手軽に、安価に、しかも大量に消費する事ができます。インターネットがソレを可能にしました。

自分もそれに漏れず、好きなアーティストの音楽以外は、聞き流す程度に消費する事が多くなりました。それこそ、小学生の時や、中学生までは、どんなアーティストの曲でも自分が口ずさめるまで聞き込んだものでしたが、iPodが登場し、自分の持っている曲を全部持ち歩くようになったあたりから、そういう「聞き込む」という関わり方をしなくなったと気がつきました。

つまり、そこから、音に対する感性や興味、関心が深まらず、ストップしてしまっていたのです。学校の音楽の授業も、おもしろ味は感じていましたが、あくまで教師が出す課題を受動的にこなしていただけで、自分から積極的に「音楽を発する」機会、経験がほとんど無い事に気がつきました。

それだけでなく、自分は、どんな音楽が好きなのかもよくわからなくなっている事にも気がつきました。どんな音楽を心地よく感じるのか、数年来、そういう事を意識的に考えなくなってしまっていました。そして、自分から積極的に聞きたい音楽を求めるという事もしてこなかった事に気がつきました。

ただ、ミュージックプレイヤーがランダムに再生する音楽を聞き流す。

そういう生活をしてしまっている事が、そのつけが、自分にかえってきていると感じています。

音への感性を研ぐ

セラピストとして、音を提供するためには、なまくらになってしまった自分の音楽センスをなんとかほこりを払い、研ぎすまし、使用して、磨き直す必要性があるのだと思います。

きっと、今の自分に必要なのはそういう「おとをたのしむ」という、人間としての原点、その感性に立ち返る事なんだと思います。

指針について

とはいえ闇雲に学ぶというのも、今すぐ結果を出さないといけないという現状にたいして不誠実だなあと思っておりました。一応、音楽療法士の先輩の言う事を一言も漏らさないくらいの気持ちでがんばってるのですが、それだけでは、患者様に対して申し訳無いと感じてました。

もっと、加速度的に提供できる内容を進歩させたいと感じ、そのためには、自分のリソースを集約するための指針が必要で、それをどうしたもんか、と悶々としておりました。

そんな矢先でしたので、神様仏様でした。

山根寛先生が書いてるので、OTRである自分にとって、なじみのある書式でとても助かりました。苦もなく音楽療法という物に向き合うためのたくさんのキーワードを仕入れる事ができたと思います。

この言葉達を、どんどん自分の経験と結びつけていけたらなあと思います。

今後について

自分のセンスに基づいた音楽療法という物がいつかできたらなあと思います。

そのためには、まず、先輩音楽療法士のスタッフに全力でついていきたいと思ってます。

あとは、日々の実践の中で学び、ソレを言葉にしていくことかなあと思います。

おわりに

新米作業療法士の「音楽を用いた療法」に対する挑戦は始まったばかりです。音楽療法士の先生方、先輩OTRの皆様、あるいは、柔軟な発想をお持ちのOTSのみなさん、ご意見、ご感想いただけると嬉しいです。

今後また、自分が具体的に行ったプログラムとかについても書いてみたいかなあと思います。

先週の学会とそれに対する素直な感想

はじめに

OTRの皆さんはもちろんご存知かと思いますが、先週は、大阪にて、全国の作業療法学会がありました。

ひろえもんは、2日目からの参加でしたが、その感想を率直に書きたいと思います。

1日目から行けたら良かったのに

ひろえもんは仕事の都合上どうしても金曜日参加する事が難しく、二日目の土曜日からの参加となりました。

プログラムを見ると、心引かれる感じのプログラムが、1日目にはたくさんあり、正直残念に思いました。午後のナイトセミナーでのIPSの話は直感的に面白そうだなあと感じたのですが、その他あまり惹かれる感じがしませんでした。

とはいえ、同じ料金払ってるんだからどんどん見たりしないともったいないってことで、いろいろと、時間の許す限り見てみる事にしました。タイトルでピント来ていないだけで、内容は面白いかもしれないとおもって、とりあえず、自分の業務と関連が深そうな物について参加してみる事にしました。

やる気が出た

で、時間の許す限り、いろいろなブースを見て回ったのですが、非常に面白かったです。特に、やっぱりIPS。自分は、将来的に地域に出て就労支援がやりたい人間なので、ああいう感じの発表を聞くと、非常に燃えました。

自分が、自分の患者様に同じような事を提供するにはどのようなことが必要だろうかとか、いろいろと考えるきっかけになりました。

今、自分が関わっている領域で直接生きる部分ではないかもしれませんが、でも将来的に自分がこんな事をしてみたいという、そういう気持ちに成れたのはよかったかなあと思います。

出会い

同い年の苦労人と仲良くなる事ができました。その他、今の職場を退職されて、別の活躍の場を得て、活躍されているたくさんの先輩方に出会い、貴重なお話を聞かせていただいたり、自分の話を聞いていただく事ができました。

病院外でのつながりができた点は、やっぱり参加してよかったなあと思う一つの大きなポイントだと思います。苦労人の彼とは、連絡先も交換したので、今後もいろいろやり取りできたらなあと思います。

貴重な出会いに、本当に感謝です。

再会

そして、懐かしい人にも数名あう事ができました。とはいっても、最後にあってからまだ半年も経過していない訳ですが、しかし、普段の忙しさもあってか、ほんとうに久しぶりと言った感じがしました。

お互い元気な状態で会えるっていうのは、やっぱりいいもんだなあと思いました。

いろいろ勉強になった

自分が知らない事や、新しい考え方もたくさんありました。これらについては、すぐにでも患者様とかスタッフとかに還元できたらいいなあと思います。

人の思いが見えた、伝わった

教科書や論文などでは、伝わって来にくい、先輩セラピストの思いだったり、将来への展望だったり、「ああしたい」「こうなったらいいな」が、ビビットに伝わってきました。びびっと。

そして、自分自身も自分の思いで何かを成しその結果を、そんな風にだれかに、思いを伝える事ができる人間に成長したいと思いました。

やっぱり1日目から行けたら良かった

2日目で、自分が感じた以上に多くの物を得る事ができたこともあり、1日目からしっかりと参加してみたかったという思いを強く持ちました。

蛇足

来年の横浜は、がんばって全部参加できたらなあと思います。

有給でも、病欠でも、忌引きその他何でも駆使する所存です。(冗談です