「権利」は獲得するものか、最初から手にしている物か?

はじめに

権利と制度は、密接に関わっております。

作業療法だって、その制度の中の医療システムの一つとして提供されています。診療報酬制度とか介護保険とか、お金もその辺りから頂いてます。

さて、権利について日本では、「何かをした、成し遂げた結果として得られる対価である」との教育が親からなされる事が多いように思います。

一方で、社会主義が日本に入ってきたり、欧米の思想が見習われるようになって以降は、人はみな権利を生まれながらに持った存在であるという考え方をする人も増えてきているように思います。

権利に関しては、いろいろな立場からいろいろな意見があり、その議論が生活の質を大きく左右する人も、世の中にはいます。

権利について、ちょっと考えてみる機会がありましたので、ぼちぼちと書いてみました。かなり、やさぐれた文章になってしまいました。自分の思いのまま、まとまらない文章になってしまいましたが、せっかくですのでそのまま公開させてください。

権利とは

権利(けんり)とは、一般に、ある行為をなし、あるいはしないことのできる資格。法律上は、一定の利益を主張または享受することをにより認められた地位、あるいは、他人に対し一定の行為・不作為を求めることができる地位をいう。日本において権利は権限を含む。対義語義務

(Wikipediaより引用)

要するに自分の意や、決定に基づいて振るまうことのできる裁量を指す言葉と解釈できると思います。

義務があるから権利があるのか?

社会的には、義務を果たすことによって権利を行使できるという考え方が一般的なように思います。

労働がその典型的なモデルですよね。

働くから、お金がもらえる。お金があるから、生活の自由が保障される。つまり、その金銭の範囲内で自由に行動する権利が獲得できる。

こんな感じです。

これって、とてもわかりやすいですよね。

わりとしっくりとくる考え方です。

しかし、そのモデルに入らない権利もあります。

最初から保証される権利

日本国憲法にはこんな文章があります。

 第二十五条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

日本国憲法 第25条

この権利に必要な条件は、「国民」であることのみです。

そして、国民である限りは、国がその権利を保証する義務を負いますよと、この条文には書かれています。

これは要するに、「義務がなくても享受できる権利」、俗にいう「生まれながらにして持つ権利」というやつだと思います。

その権利を本質的に保証しているのは誰か

ちょっと頭を切り替えて、頭の体操をしてみたいと思います。

率直に言うと、権利というものを、存在せしめているのは何か、を考えてみたいと思います。

たとえば、日本には、教育を受ける権利というものがあります。それは、人々に明確に意識されています。

一方で、アフリカ等の狩猟によって生活を立てている人々にはその意識があるでしょうか。きっと、日本やその他の先進国に比べたとき、ややうすいのではないかと思います。

このように、その権利を存在させているのは、「その権利がある」と意識する人がどれだけ存在するかというところに依ると考えられます。

世の中を構成するメンバーのうち多くの人が「権利だ」と思う物が、権利だという事になると思います。

コストと権利は切り離せない

ではなぜ、権利があると考える人が必要なのかといえば、「権利」を成し遂げる、あるいは形にするためには、多かれ少なかれ、さまざまなコストが発生するからです。

それに直接関わる人の、労働、時間のコスト。その人や必要な道具類へ支払われる経費としての金銭的コスト。

権利を成し遂げるためには、多額の費用が必要になります。世の中には、このコストを目当てにした人権屋と呼ばれるような人種もいるようです。ひろえもんは、そうはなりたくないなあとつねづねおもっております。

さておき、そのコストをまかなうためのお金をどこからどうやって持ってくるるのでしょうか。

それは、社会的に制度を作る事によってお金の流れを作り出す仕組みを作る事よって、そのコストをまかなうお金を持ってきています。

その制度の一つが「権利」です。

また、上記の仕組みと、人間の道徳観上、社会、規範(モラル)、文化との間には切っても切る事のできない関係性があるように思います。

このような点から、権利と社会制度、モラルは密接に関わっていると言えます。

では、発生からみた「権利」とはどんなもんでしょうか。

権利は獲得する物から、最初から存在するものへ

デジタルネイティヴという言葉があります。

今の世の中、一家に一代どころか、1人が一代パソコンを持ってます。

ipadで遊ぶ三歳児もいます。

ある程度の年齢になれば、携帯電話も使用するようになるでしょう。

暇をもて余すのであれば、テレビをつけて、何となく番組を見る事もあるでしょう。

彼らの周りには生まれながらに、さまざまな情報や情報端末があふれており、さまざまな情報はそこにあるのが当たり前になることが想像できますよね。

そんな彼らを指す言葉がデジタルネイティブです。

きっと、デジタルネイティブと、そうでない人々との間には、情報やそれを介した生き方、人生観に大きな感覚の差が存在します。

パソコン黎明期からデジタル物に関わってきた人にとっては、感慨深いかもしれないスマートフォンも、デジタルネイティブにとっては持っているのが当たり前のツールといった感じです。

これは、何も特別な現象ではなく、いままで人間が歴史の中で幾度となく繰り返してきた事だと思います。

車や、電話や、電気、ガス、水道などなど。

社会生活に必要で、空気のように当たり前に消費されているインフラという物はたくさんあります。

そういったものが登場する場面に立ち会った人と、最初からそういった物の存在を前提とした社会の中で成長した人との間には大きな感覚的な差が存在する事は間違いありません。

そして、ひろえもん個人としてはこの「差」は、権利においても存在していると考えています。

いってみれば「権利」も人間が、快適な社会生活を送るための一つのインフラなのかもしれません。

社会をよりよくするため、今の世の中でも様々にいろいろな権利が「作られたり」「認識されたり」しています。権利は、人間の存在と無関係に、絶対的に存在する概念であるとする人もいますが、どちらかというと、社会を構成する人間がその社会の中で生きる人間がより良く生きる事ができるよう、社会的な事件や出来事、かつての歴史などに学びながら、言語化し概念化して作る物だと思います。

このように考えると、作られた権利が存在する場面に立ち会って、その歴史的な経緯や重みを知っている人と、その権利が空気のようにあたり前の存在となっている社会で大きくなった人との間には、埋める事の不可能なほどの大きな感覚の差があるのではないかと思います。

たとえば、昨今の、生活保護に関する問題を話題にする際にしても、そういう感覚の差が問題の本質としてあるように感じます。

例)生活保護

必要なときに生活保護を受ける事は、日本国民の権利です。

ですが、申請に必要な条件を無理矢理書類上に作成して、生活保護を受給しなくても生活できる人が、その権利を行使してしまう事が問題視されています。

こんな事が起こるのは、そのシステムがどのような趣旨で何のために存在するのか、あるいは作られたのかというところに思いを馳せる事ができていないところに原因があるように思います。

また、一度生活保護を受けてしまうと、その生活に慣れてしまって、自分で仕事をして経済状況を改善していこうという意思が、折れてしまう人も少なくありません。

これは、生活保護の受給があくまで一時的なものであるという、表向きの建前が社会で徹底されていない事にも原因がありそうですが、やはり、そんな事よりも、「本当に必要な人」のための権利であるというところがすっぽりと抜け落ちてしまっているところに原因がありそうな気がします。

そこには、少なからず、その権利が生まれる前から存在して、どういう経緯でその権利が「作られた」のかを知らないということが要因として在ると思います。

さらに言えば、そこには、その制度や権利をどんな思いで作った人がいるのかとか、その辺りに思いが馳せれるかどうかというところなのだと思います。

想像力と、いいますか。

想像力

先ほども言いましたが、(正直言いたくないですが、)「権利」を支えるシステムをまわすためには、お金が必要になります。お金の流れを作り出すのは、まず、現在お金を持っている人であり、次に価値を提供する人です。価値を提供する人とは、おおざっぱに言えば労働者です。

つまり、「権利」の維持には、働く人が欠かせないということになります。

これは要するに、その働く人が「そんな権利みとめません」といってしまえば、今まで存在した権利がある日突然消失する可能性もあるという事を意味するとおもいます。

なんだかぞっとしませんが。

そこらへんは、飲み込んで社会を支える存在がいわゆる「大人」なのだと思いますが、今の世の中そんなに「大人」がいない事を考えると、なんだかなーとおもいます。

まあ、みんながちょっとした想像力を持つだけで、その仕組みはうまく回るような気がします。

おわりに

「権利」は生まれる時代や時期によって、獲得していく物であったり、最初からある物であったりすると考えます。

そして、「権利」は恒久的なものではなく、社会の構成メンバーが、いろいろがんばってみんなで維持していくものなのだろうなとも思います。

自分が権利を行使するときに、こんな事にふと思いを馳せられるとちょっとかっこいいかなあなんて思います。

みんなが自分なりに、自分のできる事をやってれば、権利なんてどうでもいいのでしょうけれど。

重度認知症介護を家族の力だけで遂行するには現実離れした意思の力と金銭力と時間が必要です。【前編】

はじめに

作業療法の分野の一つに老年期障害があります。

かつては、精神障害と身体障害の領域が作業療法士が関わる領域として大きかったんですが、ここ最近の高齢社会の現実が背景にありまして、次第に老年期作業療法に従事する作業療法士が必要とされるようになってきています。

病院の中には、認知症治療の専門病棟があるところもあります。

その運営と作業療法士の関わりを実際に見る機会がありました。

で、タイトルのような事を思いました。

二回に分けて書きたいと思います。

一回目は認知症そのものについて、ざっくりと見てみたいと思います。

内容について、誤りや気になる点などありましたら連絡お願いします。

info [at] saryou.net か、twitter: @otfighter もしくはfacebookpageまでお願いします。

認知症とは

後天的な脳の器質的障害により、いったん正常に発達した知能が低下した状態をいう。

らしいです。

さて、この知能という言葉が何をさすと解釈するかというところの問題があり、非常に幅広い症例を含む事になる定義ではあるのですが。

まず、有名なのは、アルツハイマー型認知症ですよね。

これは、テレビなどでもよく取り上げられるもので、痴呆症とその昔呼ばれていた時代から典型的な物として、社会的にも認知されていた症状です。

他にも、レビー小体型、水頭症に伴う認知症など、認知症にもさまざまに種類があり、その一つ一つに対して必要とされる治療方針は異なります。

まずこの事が、まだまだ、社会的に認知されていないなあと感じます。

「あれ?」っとなったらすぐに病院へ

どこか、おかしいなと感じるところがあったら、以下のような理由から、ためらわずすぐに病院へいって専門家の診断を当てにしてもらいたいと思います。

理由1 早期発見へとつながる

なにもなければ、それで安心ですし、勇気を出して早めに診断を受けておくとその後の症状の進み具合や生活の質の確保が行いやすくなると思います。

認知症は、進行を送らせる事はできても、進行した症状を改善することは、一部の疾患をのぞいて難しいといわれています。

先ほどからあがっているような、アルツハイマー型認知症も、一度進行してしまうと、現在の医学では改善が難しい疾患ということになっています。

主には、薬物療法、いわゆるお薬の処方がメインになるのですが、人によってはこれで、進行が大分緩やかになることが期待できるそうです。

理由2 心の準備が早いうちにできる

認知症は、がんなどと比較したとき、治療期間が長いです。

当然、本人さんにかかる負担も大きくなります。この負担として、心理的負担はとても大きな物があると思います。

その負担を少しでも和らげるためには、仲間を持つ事が有効といわれています。認知症と診断されてから、どのような工夫によってうまく生活して来れているのかといった体験を聞いたり、なかなか家族に明かす事ができない自分の胸の内を同じ目線同士で交換し合ったりという事が、比較的クリアな時にできることには、その人の人生にとって非常に大きな意味があると思います。

また、家族にとっても、認知症が進行してからの対応を本人と話しあっておく事はその後の手助けのあり方に迷わなくてすむことにつながります。

理由3 利用できる制度について勉強できる

世の中に浸透していないけれども、調べたらわかる社会制度って結構あります。

また、事前にいろいろと書類などを準備し、申請をする事が必要なものもあります。

病院に行って、相談員さんに訪ねることによって、そういった制度を、いざという時にすぐに使う事ができるように、知る事ができます。

きっと、ご自分であれこれ調べるよりも、わかりやすく、役に立つ情報から優先的に知る事ができると思います。

とにかくおかしいなと思ったら病院へ

繰り返しになりますが、認知症の発見は早ければ早いほど、いいです。

絶対に、家族が抱え込んでどうしようもない状態になってから病院を訪れたり、緊急入院することになるよりは、いいです。

当事者と家族という、二者関係の間に、病院やデイケアなどの第三者があることによって、同じ入院という経緯をたどるような場合であっても、より望ましい形で、問題を解決していく事ができると思います。

おわりに

認知症について書くつもりでしたが、認知症を早期発見して、病院へ行きましょうという記事になってしまいました。

ですが、いちOTRとしての本音です。

なかなか、自分が認知症であるということを受け止める事はできないものだということがわかった上で、あえてこんな記事を書いてる事をどうかお許し願いたいと思います。

客観視の世界から自分を解き放ち、「人間」としての感覚を研ぎすます。

はじめに

理屈ではなく「感じる」ままに、行動し、語り合う。

そうすることによって、わかり合える。

OTRとして、作業療法の世界で働くようになってから、よりいっそう思う事です。

人の気持ち

人間らしさの一つとして、人間らしい考え方というものや、人間らしい感じ方という物があると思います。

それそのものが一つの、人間社会の文化を形作る根底というか、原動力になってきたなあというふうにおもうのです。日本の歴史や世界の歴史をかいま見るとき、世界や世の中を動かしてきたのは常に理屈ではなく、人間の想いのように感じます。

難しい事はよくわからないけれども、こうなってほしいとか、こうなったらいいなあとか、そういった思いが社会全体で高まったときに、世の中は変わり、その変化が積み重なって現在のような世の中が作られてきたのではないでしょうか。

話がどうも大きくなりましたが、それはきっと現代社会でも変わりないのだと思います。さまざまなイデオロギーの中に私たちは生きています。反原発、憲法改正反対、強い経済政策などなど。

それらは、合理性に基づくものもあれば、単に人間の思いから始まって、あとで理屈を取り付けられたものもあると思います。中には、どうしても合理性と相容れず、合理性の方が否定されているような「無理が通れば道理が引っ込む」といったような構造が成り立ってしまっているものもあるのだと思います。

それは、単に、無理を先送りしているだけにすぎないものなのかもしれませんが、とにかく現状、そういった過去の人間の思いが尊重され、また、それを受け継いだ現在を生きる人間の不断の想いによって成り立っている「世界」というのは、地球上にそれこそ数限りなく、コミュニティーがそこにあるだけ存在しているのではないでしょうか?

そして、その「世界」を成り立たせている物こそが、「人間」の「気持ち」だと思います。

なんとなく

人間がそう感じるのはなぜだろうという問いは、非常に哲学的な問いだと思います。

実際、さまざまな哲学者が、その周辺を問題にして、自分の人生をかけてとりくんできた歴史があります。サルトルなどは、やり過ぎで世界が灰色に見え、物事を隔てている境界が失われていく過程を「嘔吐」という作品にまとめています。

ひろえもん自身もそんなことを延々と考えていた時期がありました。

感じるとはどういう事だろうか?

人は、なぜ感じるのだろうか。

人が世界を感じるというその方法には、どのような意味があるのだろうか?

などなど。
いろいろと考えたものでした。

が、どうも高度に抽象化されると、人間らしさによって立つ機会が減っていくように思います。

つまり、分析的に考えようとすればするほどに、人間本来が持つ「感じ方」から乖離した純化された別物になっていってしまうように感じたのです。

そして、そのような、実際の身体的感覚から距離を隔てた、分析的表現をいくら積み重ねたところで、過去に起こった現象を記述する際の役に立つとしても、「いま」「このしゅんかん」というその一瞬をリアルに生きる上では、まさに何の役にも立たないなあという風に感じました。

そうなってくると、感じたそのままの「感じ方」を大切にすることが大切なのだと思うようになったのです。どういう事かというと、言葉にできない身体的な感覚やそれから派生する、身体的、心理的表出(たとえば、表情、言動、欲求)を直感的に理解すること、何とも言葉にしにくい、まさにイメージそのままを感覚として、わかることが大切なんだと思うようになりました。

つながる

人と人とが、心地良い関係を築いたり、互いを理解するために必要となるものとはいったいなんだと思いますか。

ひろえもんは、相手を知りたいという強い欲求だと思います。あるいは、相手に関わりたい、触れたいという願望です。切実に、相手を求めようとする人間らしい感性が、親密な関係性を構築する上で必要になるのではないでしょうか。

この人間らしい感性は、本来的には合理性とは全く無縁の物です。

自分の感性に身を委ねた時、相手に対してわき上がる興味や好奇心に基づいて、相手にいろいろと投げかけてみたとき、きっと相手からは、イシを投げ入れられた湖のようにいろいろな形の波紋がかえってくると思います。

まず、相手のその生の反応をうけいれること、その波形をなんとかしようとするのではなく、ただ受け入れる事が、まず大切だと思います。

そして、そのような、相手に投げかける行為を互いが行いながら、お互いの心にわき上がる波紋がうまくシンクロしたとき、「わかりあえた」とか「つながっている」といった感覚を味わう事ができるのだとおもいます。

こんなことを思った人もいるのではないでしょうか。

そんな面倒な過程を経なくても、自分が相手にあわせてしまえばいいじゃない、と。

効率よく相手の心に同調するのは、ある意味簡単かもしれません。自分のこころを操作して相手にあわせることができるならば、それは、上記のプロセスを経るよりも短い時間で達成されるでしょう。

しかし、それは、自分の感性、感じ方、こころに嘘をつく事でもあります。

そうした嘘を積み重ねることは、自分を偽ることにつながっていくのではないでしょうか。

しょうじきに

自分にまっすぐであるためには、さまざまな困難がともなうとおもいます。

まず、周囲とぶつかって、自分が傷つくことは当然覚悟しなければなりませんし、相手を傷つけてしまう可能性についてもしっかりと認識し、その相手にどのような配慮をするのかという点についてもしっかりと、思いを馳せる必要があります。

発言のタイミングや、ニュアンス、伝え方などに関する工夫も絶えず必要になるでしょう。

何より、常に自分の感性を全開にして、全力で、言葉にならない情報も含めて、「感じ」続ける事が必要になります。

でもたったそれだけの事が、誰かの人生や自分の人生を大きくかえる事になるんだろうなあとおもいます。

おわりに

修行僧が修行するのは、伊達や酔狂ではないなあと思う今日この頃です。

その昔から人は、「人間」として生きることに苦心してきたんだと思います。

ひろえもんも、頭を丸めて、一年間くらい修行に行くのも悪くないかなあと本気でおもってます笑。

ほぼ毎朝利用しているセブンイレブンのオーナーっぽいひとに話しかけられた話とそこから学んだこと。

はじめに

人と人の関係性が日常生活の行動の積み重ねで作られるんだという例から、いろいろ考えたです。

毎朝よってる

皆さんは、セブンイレブンに最近ドリップコーヒーを提供するサービスが始まったことをご存知でしょう。

ひろえもんは、無類のコーヒー好きでして、まずいコーヒーはできるならば呑みたくない人なのです。

それなりにこだわりがあるので、できる事なら、出勤前に自分の家でコーヒーを淹れて、呑んで来れるのがベストなんですが、時間の都合上、自分でコーヒードリッパーからカップから洗う時間もおっくうでなかなかソレができない事が多いです。

で、コーヒー呑めないで出勤することがふえていたのです。

が、そんなおりにふと、セブンイレブンの、あの氷入りのコーヒーカップかって、機械にセットして呑むやつを試してみたら、これが案外おいしくて、「ああ、のめるじゃん」となりまして。

最近では、自分で淹れる事はめっきりと減りまして、出勤まえにセブンイレブンによって、アイスコーヒードリップしていく事が多いです。

最近あついので、気分をすっきりさせたくて、コーヒーががっつりと呑みたくて、Lサイズの氷を買って、ドリップしております。

この商品、物流とか、人件費とか、諸々考えてみても、どうかんがえてもぼったくりですが、手間の割においしいコーヒーが飲めるので、ついつい利用してしまいます。

こうして人間は怠惰になっていくんですね。

閑話休題

さて、そんな毎日利用するセブンイレブンの店員さんにふと話しかけられました。

店員さんの一言

その店員さんは、唐突にこんな風におっしゃりました。

「コーヒー好きなんですね」

一瞬「え?」と思いました。

「なぜ、ばれた。」

内心こんな事を思わなかったといえば嘘になるのでしょうか。

すると、そのひろえもんのΣ( ̄□ ̄;)という表情を見て、

「いつも大きい方を買われるので」

と、補足が入りました。

人間関係が変化するとき

店員さんとひろえもんの関係性を表す上で、もっともシンプルな図式はなんでしょうか。

それは、客と店員という立場に成ると思います。

コンビニというのは、非常に手軽に買い物ができる場所で、ありとあらゆる煩わしいと感じるよう名部分が簡略化されています。当然、接客マナーについてもマニュアルが存在していて、対応を画一化させる事によってある意味でシンプルにしています。

しかし、今日のやり取りは、そういったシンプルな図式に当て込めるような、単なる客と店員という関係を超えた物であると自分はそのときに思いました。

つまり、ひろえもんが、「単なる客」から「常連客」という存在になった瞬間だと感じました。

いや、事実としては、その前からひろえもんはたしかに、その店の常連客であることは間違いないのですが、今日のやり取りは、店の取り仕切りをしている人間から、そのお墨付きをもらうような物で、つまり、「あなたは常連客ですよ」という認定をされたような物だとおもいました。

また、「いつも大きい方を頼まれる」という事実を指摘した事は、同時に「あなたの事を見ていますよ」というメッセージを発している物でもあると思います。

これが、何を意味しているかというと、オーナーさんはひろえもんのことを「単なる買い物客」ではなく、「ひとりの人」として見ていたという事です。

ひろえもんという人間個人に興味を持たないのであれば、買い物客が何を買おうと知ったことではないと思います。

此れに対して、「商売をするためには、その人個人をみることが必要だ」という意見を抱かれる方もおられるかもしれません。あくまで、商売的な観点に立って必要な事だから、顧客が何を買っているのか覚えていたのではないかという人もいるのではないかと思うのです。

しかし、それであれば、個別の客に関心を寄せる必要性は、実は全くありません。POSシステムがあり、それによって蓄積されたビッグデータがあり、それを運用するための統計ソフトやデータサイエンティストが存在する昨今、セブンイレブンのような大規模な商業組織においては、個々の客の関心なんて全く売り上げにはつながらないのですから。

つまり、オーナーは何の金銭的メリットも無いにも関わらず、ひろえもんという人間に関心を寄せ、その嗜好を推測し、理解しようとしたのではないでしょうか。

ちなみに、そんな、オーナーの態度をひろえもんは好ましい物として受け取りました。

難しいことでなく、自分を人間として見てもらえたことが単純に嬉しいと感じました。

画一的な関係性に囚われるべきではない

今の世の中でヒットするプロダクト(商品)のテーマとして、シンプルということがあげられることが多いと思います。

シンプルなものには、必然余計な物が含まれないということになります。

すると、ついつい余計な物を増やさないようにしようとして、さまざまなアクションやアプローチが消極的になってしまいがちではないでしょうか。

シンプルなものが良いというのは、一つの価値観として素敵だと思います。

しかし、世の中、そんなにシンプルでは無いですし、きっとシンプルな物ばかりの世界はきっとつまらない物なのではないかと思います。

特に、対人間の関係性については、その事を強く肝に銘じておく必要があるなあとおもいます。それは、普段の作業療法士として働く中で、とてもとても強く思う事でもあります。

人間は、ひとりひとりにいろいろな面があって、そのいろいろな面の一つが、行動になって現れています。

人と人の関係性にしても、客と店員という関係性だからといって、そこに固執しないと行けない訳ではな無いと思うのです。

この事は、作業療法士と患者様についてもきっと同じ事なのではないでしょうか。

つまり、作業療法士と患者様という関係性は、決してそこに固執するべき物ではないですし、そこから新しい関係性を模索し、抽象的で一般的な関係性から、より具体的で詳細に分化した関係性を構築する事ができたらいいのではないかと思うのです。

そしてその中で、人間と人間という関係性がうまく気付けたなら、「私はあなたを一人のひととしてみていますよ」ということを相手に伝える事ができたなら、きっとその相手は非常に喜んでくださるのではないかと思うのです。

今日の、ひろえもんのように。

おわりに

作業療法士という仕事は、接客業ですよ、というのはいろいろな先輩OTRからもいわれている事です。一般の接客業から、学べる事はとてもとても多いと思います。

末端で具体的に働く人間でもある訳ですが、その業務をシンプルにし、業務効率を向上させる事が、経営者から求められる事もあるでしょう。

自分が大切にしたい事がなになのか、此れをしっかりと見失わないようにしたい物だと思います。

蛇足ですが、いつも人に見られているという事をしっかりと意識して行動していかないといけないなとも、改めて思いました。

日常のコミュニケーションを誠実に行う事がセラピストとして有るための重要な基礎になると改めて気がついた

はじめに

働き始めてはや、4ヶ月が経過しました。

4ヶ月を早いと感じる人も、そうでないと感じる方もおられると思いますが、自分は早いと感じました。

いろいろと感じる事がありすぎて、混乱する事もしばしばなのですが、だからこそ、最近思う事がありますので、それについて言葉にしてみたいと思います。

まとまりなく、長々と書いてますが、よろしければ、ご意見いただけると嬉しく思います。

やっぱり、「周囲」はとても大切

自分が働いている現場の話になってしまうので、一般化はできないかもしれませんが、現在自分が勉強している精神科および老年期作業療法のアプローチにおいては、「その人らしさ」というものをその人の今までの人生経験、人生の文脈でとらえています。

たとえば、作業療法の対象となるような患者様がいたとして、作業療法を提供するためには、情報を収集する事が欠かせません。それは、その人に関するさまざまな情報であり、現病歴、身長、体重、性別、家族構成、生育歴、学歴、職歴、生活歴、といったさまざまなストーリーがとても重要な情報になります。仕事や、家庭での生活の中で、その人が行ってきていた役割はいったいどのようなものがあるのかなどの情報をどんどん集めていきます。そして、そのようにして集めたバラバラの情報を一つ一つを線で結んでいって、その人はどんな人なのかについてのイメージを膨らませていきます。

この行程は、自分にとってはまだまだ「大変だなあ」に感じるものでありますが、同時にその人の主観にたち、寄り添うためにとても必要なことだなあと感じます。

集める情報は、ストーリーに関するものばかりではありません。具体的な関わりの中で、その人の現在できる事だったり、している事について着目します。

それは、その人はいま、どんな生活をしているのか、どんな場所でどんな事をしているのか、ある時間にはどのようなことをして過ごしているのか、といったそういう具体的なことを、まず知る事から始まります。そして、今どんな事をしているのか、から、これからどんな事ができそうかという事をある程度予想していきます。(もっとも、この予想は現実と異なることが少なくないのですが)

その次には、その人がこれからどのような事をしていく必要があるのかという必要性を具体的に検討し、その後、その必要性をみたすためにはどのような方法が現実的なのかを考えます。そして、それを実際に行ってみて、その結果を評価し、実施するというプロセスを繰り返します。

以上のようなことは、自分も座学で、学生時代に学んできた事ではありましたが、実際に業務を行いながら具体的な形で感覚に落とし込んでいくという事が、作業療法のプロフェッショナルであるOTRとして働く上で非常に重要だなあと思います。

で、上のように長々と書いて参りましたが、それと同じくらい、あるいはそれ以上に大切なんじゃないだろうかと、臨床で働くようになってから実感として感じ、おもうことがあります。

それが、患者さん本人の環境となる、周囲の人に関する情報です。

「人間として」の基本には他者との関わりがある

なにも、周囲の人の情報が大切だというのは、特別な事ではなく、むしろ当たり前の事だと思います。

自分自身について思い返したとき、自分自身を規定する物として、周囲の人間との関係性がとても重要な位置を占めるからです。

皆さんもそうではないでしょうか。

「あなたは何者か?」

という問いに対して、周囲の人間やその人との関わりというものは非常に重要な意味を持つのではないでしょうか。

それは、自分自身が生きる事や、そのために行うさまざまな活動が、ただ「生物としての生」を成り立たせるための行為であるという意味性を超えて、他の様々な物との関連性から、自分自身を位置づけ、意味を与えられるものになるために、周囲の人間とその自身との関わりが切っても切れない関係にあるからです。

言葉にすれば面倒ですが、現実はシンプルだと思います。

ある哲学者は、人間は様々な「役」を演じているにすぎないといいました。

母親としての自分、教育者としての自分、後輩としての自分、友人としての自分、子供としての自分…

ひとは様々な側面をもっており、その哲学者は人間のそうした側面を、劇における「役」にたとえたわけです。

そういった「役」は、しばしば、さまざまな人との関係性において、発生します。自然発生する事もあれば、人為的に形成されることもありますが、「役」にはそれが存在する事による何らかの意義が存在します。

そして、その意義は、それを必要とする人や、システムが存在する事によって保証されています。

逆を言えば、他者という存在がなければ、人は、親にも、教師にも、メンターにも、誰かの友人にも、成る事ができないということになります。

つまり、その人の人生が、その人個人を超えた意味性で価値づけられるためには、その周囲にからなず誰かが存在しなければなりません。その存在は、単に物理的に存在するというだけでなく、互いが互いを認識し合い、認め合っているという物である必要があると思います。

「人間として」生きるためにはこのような関連性が、必要不可分です

人と人を結びつける関連性

人は、様々な役割をもち、それにふさわしい行動をとりますし、またとる事が求められます。個々人間の様々な情報を正しく認識し、挨拶をしたり敬意を払ったり、共感したりといった態度が求められます。

この様式は、「推して知るべし」とて、言葉で教えてもらえる物でもありません。その場の状況や、相手の感情を、表情変化や様々な動作などから推察し、読み取り、その場にふさわしい言動をとる事が求められます。

つまり、感覚で学ぶ物で、具体的な関わりの中で経験を積み重ねながら、自分の中に蓄積していくものといえます。

関連性を構築するコミュニケーション

これらに関して、よく『「人間として」大切な事だよね』と職場の先輩方にフィードバックを頂くことがあります。

まさにその通りだと思います。

この関連性を形成するプロセスは、別段作業療法士に独特な物でもなんでもなく、社会的存在としての人間がだれしも日常的に行っていておかしくないものです。ですが、OTRが自分自身を治療的に使おうとするとき、あるいは、ある患者様をその人の周囲の人との人間関係という文脈からとらえようとするとき、このプロセスを普段の日常生活でどれだけ誠実に行っているかということが、大きく反映されるように思います。

いい作業療法を現実にするために

これは、ひろえもんが、実際に職場の先輩方の言動をみたり聞いたりする中であったり、ひろえもんが面白いとか、すごいと思ったOTRの方々の行動などを見ていて、ひしひしと感じる事です。

ひろえもんが「尊敬できるなあ」と思う作業療法士は、単純に作業療法学という文脈においても、すごいんですが、そのすごみの土台となる根本部分は、やっぱり人とどのような関わり方をしているのか、どんなことを意識して人との関わりを思っているのかというところに集約されるんだろうなと思います。

つまり、素敵な作業療法が提供したいのであれば、自分自身を人との関わりの中で具体的にどのように位置づけるのかという、そのリアルがとても大切になるという事だと思います。

そういう能力っていうのは、たとえば、挨拶ひとつにも現れていて、文字にしてしまえば同じ「おはようございます」でも、そういう人がする挨拶っていうのは、相手との関係性だったり関わりだったりから、口調、表情、体の動かし方といったさまざまな要素に意味性が付加され、表現されているものです。

こういった事が自然に、にじみ出るように行えると、きっと良い作業療法が提供できるのだと思います。できるように、日常生活から意識付けしないといかんなあと思う次第です。

おわりに

以上のようなことを最近よく思うのですが、他の人にわかりやすい言葉にできていない時点でまだまだだなあと思います。

でも、ニュアンスが伝われば、それで。

いろいろな関係性を、いい感じで構築するための努力を積み重ねる事が、就職後6ヶ月までの目標としたいとおもいます。