作業療法の身体障害領域は、知識量が判断と実践に直結するという実感

はじめに

精神科病院勤務ですが、大きな病院だと身体障害領域とは無縁ではありません。

身体障害領域の病院が、精神疾患と無縁でないように。

精神疾患に主軸を置きながらも、時に、片麻痺の患者様にかかわることがあり、そんなおりに感じたことを書いてみたいと思います。

アプローチ方法はおなじ

身体障害領域でも、精神障害領域でも、問題解決の方法は基本的には同じだと思います。

まず、観察やカルテなどによる情報収集などによって、問題点を明らかにし、集めた情報を構造化して解釈をします。

次に、構造的にとらえた問題点を解決するための方法を考えます。

最後に、その方法を実践します。

この手順は変わりないと思います。

アプローチの質が違う

大きく異なるのは、どの程度問題そのものを改善させることができるかということだと思います。

精神疾患では、疾患と一生付き合っていくことが必要になるものも多いです。

身体障害の場合も、神経系の障害によって麻痺などが発生したり、切断の場合などは、その障害と一生おつきあいをしながら生きていくことが必要になります。

その一方で、問題が発生する前の水準とほぼ同程度まで、リハビリによって回復させることができるものも身体障害では少なくないと思います。

整形疾患の手術後や、軽い脳卒中などがその例だと思います。

自然回復を適切なリハビリテーションによってサポートしていけば、ほぼ後遺症なしの水準まで回復できることも少なくないのではないかと思います。

知識量が大切

適切な治療を、時間の限られている業務時間内で適切に行っていくためには、たくさんの知識を持っている必要があると思います。

たとえ、その場での対応をおこなわず、何らかの方法で調べてから後日対応するような場合であっても、あらかじめどれほどの知識を持っているかによって、必要な知識の検索する効率は大きく異なってくるはずです。

論文をたくさん読む

身体障害領域の疾患に対してナイスなアプローチができるかどうかは、積み上げられたエビデンスをどれだけうまく利用できるかにかかっているようなきがします。

そのためには、論文をたくさん読むことが結構有効なのかなあと思います。

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実践の後に検証する

もちろん、論文の内容をただ鵜呑みにするのではなく、自分が実践したあとの結果について、きちんと検討することが必要になると思います。

その検証の方法も、知識量がたくさんあれば、きっといろいろ広がっていっていろいろな視点から眺めることができるのだと思います。

おわりに

ここに書いていることが、自分は学生時代にわかっているようでわかっていなかったなーって思います。

第一、論文を読むための知識がなかったですし。

そういう意味で、養成校での教育は、論文を読みこなすために必要な知識や考え方を身に着けることに意味があるのかなあと思います。

作業療法の身体障害へのアプローチは、昨今の医療費削減の流れによって、作業を介さない直接的なものになりがちな傾向があると思います。身体障害へのアプローチをより面白く、対象者の方にとってよりハッピーなものにするためにも、しっかりいろいろ勉強しておけば、うまい形で作業が使えるのかなあと思います。

勉強しよ。

基本的な勉強の重要さについて、忙しくなればなるほど思い知るねという話

はじめに

専門的な知識というやつが必要になる仕事であれば、きっとどんな仕事でも同じなんじゃないか思います。

作業療法士もそんな感じだと思います。

いち作業療法士として、プロ意識をもって、自分のことを自分でプロデュース&マネジメントする必要があるなあとはおもっていますがまだまだ基本的なお勉強を積み重ねていかんとあかんなあと思います。

今とにかく忙しい

オフのときはそうでもないんです。

休みの日とか。

ですが、仕事中は、業務時間始まってからは日常業務に追われたり、こまごまとした時間にもなんだかんだやることがあったりと、四六時中何かしらやってる状態です。

さらに悪いことになんですが、重要性の高いことから、低いことまで、きっちりと整理ができきっていない感じがします。

重要度の整理をしながら行動ができるようになったらもう少しましに、なるようにおもっているのですが、とにかく気合と根性で何とかしております。

疲れる

疲れてしまうと、必要最低限しかやってないという、怠惰な状況に陥ってしまいます。

特に自宅に帰ってから、気合を入れて勉強をするようなモチベーションが保てず、つい創作活動とかアクティビティの準備に逃げてしまいます。

いまの自分がそんな感じです。

実に、あかんやつです。

これ。

クオリティが上がらない

新しい事柄について学ぶことは確実にパワーになるはずです。

それは、知っていることが多ければ多いほどに、アプローチできる面が多様になったり、精度の高い介入ができるからです。

そのためには、日々勉強をして、新しい知識をまなんだり、自分自身で枠組みを作っていく必要があるんだなあと感じています。

忙しさにかまけて、勉強を怠ったら、いくら日常業務に慣れて表面的な質が上がったとしても、本当の意味でクオリティの向上にはつながらないなあとつくづく感じております。

そうだ時間を作ろう

時間を作るためには、仕事を要領よく行うといいんじゃないかと思います。

要領よく仕事を行うためには、どうしたらいいでしょうか?

勉強したらいいんだと思います。

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あれ?

無限ループ

こんな状況に陥らないためには、暇な時の勉強および学生時代における基本についての勉強の貯金がとてもとても大切になると感じています。

先日の記事で、あんまり学生時代に勉強したことは役に立たないということを書いたことがあるように思います。

実際、自分が働く分野以外の内容を仕事の中で使うことはあんまりないです。

が、逆に言うと、自分が働く分野と、身体障害系の内容については、必須だなあと感じています。

この二つについては、本当にどの程度勉強しているかが、日常の仕事の速度に大きく影響すると思います。

大事な内容だと思いますので2回書きました。

勉強しよ

勉強っていいもんですね。

実践をすればするほど思い知らされます。

おわりに

疲れたときに頑張れるように、仕組みづくりをしていこーかなと考えてます。

あと、あんまり作業療法関係なかったですね。

すみません。

現代版「姥捨て山」は、認知症高齢者のケアで現実に行われる可能性があるか?

はじめに

作業療法士として働く中で、ケアという概念はとてもとても大切なものだなあと日々感じてます。

介護業務とも重なる部分が大きく、介護職の方から学ぶ事もたくさんあります。特に何年間も勤め上げられたベテランカリスマ介護士の皆さんは、自分が実践するべき事をいくつも知っておられます。

今日は、そんな介護職に密接にかかわるニュース。

ひろえもんとしては、「ついにか」と思ったこんなニュースが。

 

スイス与党議員が「姥捨山」構想 コストが安いモロッコに「年金老人」を移住させる

高校生の時とかに妄想した事はあったのですが、ひろえもんのくだらない妄想レベルの発想が、とうとう現実の物となりつつあるようです。

これはOTも無縁ではいられないだろうなと思います。

なぜなら、日本は高齢社会であり、認知症を発症する方はさらに増えていくし、そういった方々のケアをどうするかという事は切実な社会問題で、OTはその現場に関わる職種だからです。

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なんで「現代版姨捨山」?

上記の記事に書いてある事はどういう事かというと、「海外に先進国在住の老人を移住させてその土地のひとに面倒を見てもらう」ということです。

釈然としないものを感じる方が多いのではないかと思いますが、そこにはシビアなお金の計算が絡んでいるのです。

つまり、海外で老人の面倒を見てもらった方が、自分の国の中で面倒を見るよりもお金がかからないという現実があるのです。

もっと詳しく

介護事業に先ず以て必要なのは、マンパワーであり、人件費であります。

この人件費が削減できることは、介護にかかる費用の削減を意味します。

そして、この削減のための一つの方法が、海外の安価な人材を活用することです。その人材を活用するため、老人を海外に移住させるというアイディアが考えられているようです。

要するに、お金のある先進国が、介護事業をアウトソーシングして発展途上国に引き受けてもらうという構造です。

経済学的メリット

このアイディアは経済学的には、見事なものであるとおもいます。

なぜなら、先進国と発展途上国の双方にとって経済学的なメリットのある考えだからです。

先進国の場合

先進国のメリットとしては、費用をかけて育成した人材を将来的な成長分野に投入、投資する事が出来る余剰が生まれる事です。

先進国では本国で高等教育を受けている、生産性の比較的高い人材を介護分野に投入するのではなく、発展途上国の安価な人件費を投入することによって、経費削減がはかれるだけでなく、将来的に収益化に繋がる分野であったり高い生産性の見込める分野に人材を集約する事が出来るというメリットがあります。

発展途上国の場合

発展途上国側としても非常に大きなメリットがあります。

まずもって、国として新しい外貨を稼ぐための手段を手に入れる事になり、経済的に安定するための新しい手段を手にする事になります。

発展途上国にとって、交易と自国通貨の安定の問題は、豊かな生活を求めていく上で切っても切れない悩ましい問題です。

あまり元手を必要とせず、人間がしっかり働けば成立する、いわゆるサービス業によって外貨を獲得できれば、それは発展途上国としては非常に魅力的な提案と言えます。

そして、先進国の介護事業を引き受けることは、まさにそれにあたる訳で、発展途上国としては非常に魅力的な提案なわけです。

全体的な視点

そんなこんなで、双方win-winの関係にある事から、これだけでもうまく行きそうなんですが、マクロな視点から見るともううまく行かない方が可笑しい感じです。

どういう事かと言いますと、現在のお金の流れはおおよそ、発展途上国→先進国という資本の偏りがあります。

先進国の介護事業を発展途上国から逆輸入することで、この偏りが多少改善され、お金の巡りが今よりもいい感じになることはまちがいありません。お金の巡りが良くなれば、発展途上国の購買力が向上しますし、そうなれば、先進国で生産している製品の売り上げもある程度向上し、先進国の景気もある程度よくなります。

単純に、経済学的にみれば、この「現代版 姥捨山」は、地球全体としてメリットの大きな魅力的な解決方法と言えるのではないかと思います。

海外では、金銭的な理由から、この流れが加速していると、上記の記事にはありました。

そして、既に述べたように、大きな大きな経済の面で見たときには、いろいろな人にメリットがある問題解決の方法でもあります。

何か釈然としない

が、しかし、それでいいのでしょうか。

介護を受ける側の当事者が納得できるのであれば、全く問題はないと思います。

が、やっぱり、人間自分の生まれたところとか愛着のある土地で死にたいと願うのではないでしょうか。自分の祖国の内側でその土地の土に還りたいと願うのではないでしょうか。

そういう人間的な側面は確実に経済的非合理性に属する物です。

が、その要素を全く無視するのは、人として生きる上でナンセンスだと思います。

おわりに

現在このアイディアが現実味を帯びているのは、日本よりも深刻な財政難に陥ってるヨーロッパの国々です。

裏を返せば、日本の生産性が今後も低下していくのであれば、日本でもこう言った構想が議論される事は十分に考えられると思います。

つまり、認知症の高齢者を海外に輸出し、サービスを輸入するなんて言う事が実際に行われることは十分にあり得るのではないかと思っています。

そういう日が来ない事を祈るばかりですが、そうならないためには、日本の経済が強くあるようにするしか無い訳です。

ケアをうける当事者側として、個人レベルで対処できる事といえば、しっかりと自分の面倒を自分で見れるだけの資産を形成しておくしか無いんだろうなあとか考えたりします。

それも、なんだかなーと思うのですが。