作業療法はやっぱり職人技である

作業療法が職人技だと思うようになったのは、実習中からです。

実習は本当にいろいろなことがありましたが、学校で習った教科書的な内容と折り合うのが自分的には難しいなと思いました。

学校で習うと仕事で慣れるの違い

作業療法の理論と臨床は、重なる部分もあるけどやっぱり違うところがあって、実習中の自分の姿勢というか、あり方に本当に悩んだことが思い出されます。

ある時から「いままでのことはひとまず置いておいて、弟子入り」くらいに思っておくと、自分の中の感情の整理がうまくいき始めました。

職人気質の作業療法士の世界

作業療法の実習には雑巾掛けをしながら、空いた時間で自己研鑽っていう「芸への弟子入り」が求められるようです。

さて、こんなことをいうとズルいと思われるかもしれません。

もし自分が実習生を迎える側になったら別に雑巾掛けは求めません。

自分があんまりそういうのが得意じゃなかったですから。

何より不合理と感じる向きが大きいですかね。

とはいえ、作業療法は職人芸なので教わるだけでできるものでもありません。

結論から言うと、雑巾掛けはしたほうがいいと思います。

というか、雑用とよばれるような類のことは、なんでもやる方が、成長の近道です。

作業療法はマニュアル化が難しい

それは、作業療法は、その実践がマニュアル化できないものだからです。

それは、クリニカルパスが作られている身体障害領域にあっても、本質はそうだと思っています。

自分で作業療法のマニュアルを作る気概が必要

マニュアルやエビデンスは参考にしつつも、自分でそれらをあらたに作っていく姿勢、つまり、一人一人が自分の作業療法を見つけていく、発見していく、それを他人に伝えていく、そういう技術を自分から獲得していく、そういう姿勢が求められます。

それが、作業療法が職人的なやり方で発展した理由だと思います。

職人的な仕事っていうのは、職業人としての専門性と同時に、人間力が求められる仕事でもあります。極端な話、専門性が今ひとつでも、それを補って余りある人間力があればやっていける仕事じゃあないかと思う時さえあります。努力以上に感性や、才能、センスに左右される部分も大きいといえます。自分にはないものを持っている人から、学び続けようという姿勢もまた重要です。

そういう意味で、「雑用」がしっかりとできることはとても大切なことだと思います。雑用をとおして、「そういう側面がある」と知っておけば、腐らずに根性でなんとかできる部分も増えていくのかなあとおもいます。

まとめ

作業療法士の世界が職人気質だからとびっくりするなかれ。

 

作業療法に関するWebサイトのリンク集を作りました

ぶっちゃけ自分の利便性のために作りました。

まえまえから作りたいと思っておりましたが、技術的な問題がなかなか解決せず、構想から1ヶ月くらいを要しました。

こちらのページです。

リンク集

または、ページ上部のページ内リンクの「各種項目」の中に「リンク集」がありますので、そこから辿ってみてください。

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ひどいデザインというツッコミもありましょう。

が、とりあえず、使えればいいのです。

とりあえず、今のところ大手の有名どころへのリンク集みたいな感じです。

リンクするサイトは、ゆっくりと増やしていきますので、気にしてみてください。

MTDLP(生活行為向上マネジメント)の知名度と重要性の認識について

厚生労働省の新しい算定はまだ勧告されていないみたいですね。

ですが、いろいろな団体がMTDLPの研修を開いているようです。

ひろえもんの周囲の作業療法士には、まだMTDLPを使いこなしている作業療法士は少ないです。

これから日本作業療法士協会の方向性として、MTDLPを普及せしめて、作業療法士の質を向上させると同時に社会がより安定して作業療法士の仕事の成果を享受できるようにするということに狙いがあると推定しております。

また、生活行為向上マネジメントのコンセプトとして

①より効果的かつ経済的で、生活の質の高いリハビリテーションの提供

②作業療法士の仕事の内容を普遍化し、再現性を高め応用しやすくする

の2つがあるとおもいます。

本来であれば、作業療法士一人ひとりが、このような枠組みにたよらなくても、自己の取り組みを説明できたり、自然と作業療法が社会のいろいろな場で行われているのが望ましいと思うのですが、どうしてもそうなっていかないところがあります。

そンな現状をなんとかするための枠組みだと個人的には思っています。

ということで、なにはともあれ、作業療法士自身がなぜ今MTDLPなのかという重要性と生活行為向上マネジメントそのもの知名度を向上させることが、作業療法士が社会に貢献する上で大切なんじゃないでしょうか。

また、厚生労働省や日本作業療法士協会の今後の動向にも注目です。

参考

“作業”の捉え方と評価・支援技術

3.11という日と迎えて。

未曾有の大災害、「東日本大震災」。

今なお、復興への支援が必要とされていますが、他の災害と比較してみて違和感しかありません。

たとえば、阪神大震災などと比較するのは適切ではないかもしれませんが、それにしたって復興が何一つ前に進まないという事実があります。

4年も経つのに。

むしろ、被災者の人々の心のダメージはどんどん大きくなっているような感じが、報道を見ているとしてなりません。

自分に出来ることは何かないかと考えてみると、特にないのもまた事実です。

たとえば自分の給料から募金をすることしかできませんが、これも決して効果的な復興支援の方法というわけではありません。被災地が必要としている金額からすると焼け石に水ですから。

本当に被災地が必要としているのは、実際のところ、被災地に居住して共に地域を作っていこうとする覚悟をもった人々であり、その人たちが集合してできるコミュニティーとしての力の再構築だとおもいます。

そういう視点で見たときに、自分が福島に移転して支援活動をするということは現実的ではないですし、そこまでの覚悟もないというのが正直なところです。

いまの生活のいろいろな関係性をうっちゃって、引っ越すという覚悟が自分の中にないという、自分の精神的な弱さによるところが大きいです。

他の災害に比べて、復興が遅いのは、実のところ行政の規制によるところが大きいのかなと思います。

多分単純な津波被害や地震被害だけであれば、ひょっとしたらとも思うのですが、原子力の影響が色濃く影響して、事態を非常に複雑なものにしてるとおもいます。

放射線が、人に与えるリスクはライフステージによって押し引きされてもいいんじゃないかと思ったります。

いわゆる後期高齢者の人々が、自分の住み慣れた自宅で生活することを、もっと早いうちに許可しておけばまだ違ったのかなあ、と思うのです。

ここまでコミュニティーが徹底的に破壊されてしまうと、元の状態にするのは不可能なのではないかともおもいます。

一作業療法士として、この点には非常に心を痛めています。

広島の災害もそうですが、行政の采配が、人々の生活を制限してしまうというのはいかがなものかなと思います。

過激なことを言えば、「たとえ命の危険があったとしても、帰りたい」と願う人を、その人の望まない環境に押し込めるのはQOLを低下させているだけといえないでしょうか。

復興が実感できない人が多いのは、きっと「在りたい自分」「やりたいこと」に向かって、日々を進める実感が得られない生活を重ねている人が多いと言うことです。

被災者の人々の「こうありたい」「こうしたい」を、現実的に一歩一歩支える、そんな被災地支援ができたらいいなと思います。

被災地の「こころ」を支えることができたら、と思います。

点を線にしていくために必要なたった一つのこと

作業療法は、いろいろな要素の中から「これだ」と思う枠組みをみつけて、クリティカルな介入を行えることが大変重要だと思います。

同じ活動をおこなっていても、対象者のとりくみの様子や周囲環境との関連性、アライメントなどの身体の情報をどの程度深くみれるか、またその原因について洞察できるかというところは、知識量や経験に左右されます。

ここで、もしも既存の枠組みをうまく活用できたら、スムーズに結果につなげることができるでしょう。

しかし、適切な枠組みが必ずしも存在するわけではないですし、これまでに作られた枠組みが必ずしも正しいとは限らないかもしれません。

この枠組みとはいわゆる理論のことですが、それはいろいろな単体の情報の組み合わせによってなりたっています。

つまり点を結んで線を作り、その線が最終的にどんな図形や立体を構成するのかということを考えることと同じです。

一旦、大枠が見えれば、雑多な点の集合ではなく、端的な図形として全体像を手早く把握できて、みとおしが立つようになります。

さて、点を線にするためには、「点」についての情報がはっきりとした確実なものとして把握できているかどうかがキモになります。

点がはっきりとしていれば、線もはっきりとしたものになります。

ぎゃくに、理論の土台なる情報があやふやなものであれば、その理論はまったく使いたくないですよね。

また、線とは自分の気づきを普遍化して応用の効くものにしていく作業でもあると思います。

どんな点(特徴)があると、どんな図形(全体像)になるかがわかれば、全体像から線の形状が想像できるし、一部がけっそんしていれば、どんな点を用意して、どういう線をひいてくべきなのかがわかるという。

さて、タイトル。

たった一つ、必要なのは、ありとあらゆる情報をきちんと文章にして残していくことです。

これが、比較検討して、批判的に吟味し、角度の高い情報を生み出していくために必要不可欠です。

自分の独りよがりにならず、誰かとつながることにもつながります。

その積み重ねが、クリティカルな介入ができることにつながっていくとおもいます。

いち作業療法士として、「先生」と呼ばれることへの違和感

作業療法士として働き始めて、しばらくたって老人病棟にはいったとき、はじめて「先生」とよばれた。

それが気持ち悪くて気持ち悪くて、仕方がなかった。

自分としては、そんなふうにして敬われるよりも、対等でありたいと願う気持ちの方が強かったからです。

金銭的な関係を前提としている以上、対等という言葉がある意味で不適切なことは理解しつつも、人間的な態度としてはそのようにありたいと思っていました。

そこで、言われた「先生」という言葉。

やっぱり違和感がありました。(今は大分慣れましたか・・・

その違和感について考えると、やっぱり自分はそういう目線で見られることに対する責任から逃れようとしていたのかもしれません。

先生と呼ばれるだけのスキルが自分にはないと感じていたからこその、そういう感情だったのではないかと思います。

 

と、同時にやっぱり先生と呼ばれることには、いまも抵抗を覚えます。

◯◯さん、と呼ばれる方がどうもしっくりきます。

この感覚は、これからもずっと変わりそうにありません。

とはいえ、自分も◯◯先生と呼ぶ時がありまして、その点は矛盾するのかもしれませんが。

よく言われる「患者さんが私の先生です」というところは本当にそうだなと思います。

精神障害と社会規範の関係性 ー 果たしてストレングスモデルは根付くか?

精神科作業療法士として、対象となる人と関わる内に、その人が社会にでて暮らせるかどうかは、結局許容範囲の問題だと思うようになりました。

これが、現在の個人的結論です。

つまるところ、どれだけ症状が重かろうと自宅に帰る人はいるし、精神症状が軽いわりに何十年も病院で生活してきて今に至るひともたくさんおられます。

こういった事例からもわかるように、精神障害者の社会復帰に関する大きなポイントとして、受け入れ先が存在するかどうかということが挙げられます。

受け入れ先となるのは多くの場合血縁者ですので、血縁者に負担やしわ寄せがいっているという見方もできなくはありません。

こういった状況を変更することを試みるのであれば、家族以外のひとが①精神障害者の方々にもっと積極的に関わって彼らを社会の規範に沿った生活ができるようにサポートする②社会規範の方を変更して今の状態でも精神障害をもつ方々が生活できるようにする。の2つに一つです。

大概そうだと思うのですが、レベルが高く洗練された社会規範を持ったコミュニティーは、社会的に地位を持っていたり資産を持っていたり、あるいは重要な仕事を任されるような非常に能力の高い人々の集まりだったりします。

そして、彼らは人間集団の組織の意思決定を担う存在と重なる可能性が非常に高いです。

まあ鶏が先が卵が先かという話ではありますが、社会としてはそういったクラスの規範を模倣する傾向がありますので、それが一般化すると障害のために社会規範の枠内で生活することが困難な人々は入院を継続せざるを得ない状況が続くことになります。

作業療法における研究エビデンスの質の考え方

エビデンスに基づく作業療法(EBOT)は、エビエンスに基づく医療(EBM)のひとつであり、現在ホットな考え方であります。

EBOTにもいろいろな捉え方がありますが、データの蓄積を作業療法の中に生かそう、普段の作業療法の臨床にきちんとした根拠を持っていこうというそういう考え方です。

つまり、作業療法実践に後から理由をつける(考察する)だけでなく、それらの蓄積をきちんと統計処理したデータとして根拠に変換していこうじゃないか、それをもとにして作業療法の介入を行おうじゃないかというそういうこころみ。これがこの記事で使うEBOTの意味だと思ってください。

エビデンスには「質」がある

そのエビデンスには「質」があるという考え方はご存知でしょうか?

簡単にいうと、どの程度信頼が置けるか、ということの格付けです。

そもそも、エビデンスとは根拠のことです。根拠とは、人が何かの行動をしたり判断を下したりするときの判断材料となるような情報のことですから、「質」とはつまり、こういうことです。

判断を下すうえで、

とても参考になる情報は、エビデンスとして質が高く

あまりあてにならない情報は質が低い

こういうことになります。

「何を当たり前のことを」

と思われるかもしれませんが、とても大切なことです。

 

なぜなら、自分の感覚であてになると確信して判断したことが、実際にはあんまりいい結果につながらなかったという事はよくあることだからです。

たとえば、目の錯覚は、人の視覚が現実を歪めて認識するために起こる現象です。

感覚の歪みと同様に、歪みは人間の思考や判断にも起こり得るため、どんな情報が根拠として優れているのかということを主観的に判断する事はあまり得策ではありません。

どういった情報があてになって、どういった情報には価値が低いのかということを客観的に明らかにしておくことにはとても意味があるのです。

エビデンスの「質」 本題

前置きが長くなりましたが、本題の研究エビデンスの質の話です。

皆さんは、自分が書いた事例報告と、権威ある先生がいった一言はどちらがよりエビデンスとしての質が高いと思いますか?

研究エビデンスの質のクラスは、以下のようになります。(上から順に質が高い

1a 複数のランダム化比較試験(RCT)の体系的レビュー

1b RCTが一つ

2a 複数のコホート研究の体系的レビュー

2b コホート研究が一つ

3a 複数のケースコントロール研究の体系的レビュー

3b ケースコントロール研究が一つ

4  事例研究、報告

5  権威者の意見

ご覧の通り、権威者の意見は、裏付けとなる証拠がない場合や批判的吟味がされていない場合、あなたが書いた事例検討に劣るエビデンスしかありません。(と、EBM Oxford Centerは言ってます

補足

ランダム化比較試験というのは、統計学的な研究手法の一つです。

素晴らしい手法なんですが、その理由が気になる方は、下記参考文献をご参照ください。

コホート研究は、影響を与える因子の投入・暴露の前後を比較対照する実験で、放射線の健康調査などでよく行われます。

ケースコントロール研究は、後ろ向き研究ともいわれ、結果が得られている状態で、その結果を左右した因子は何かを比較対照によって明らかにする研究です。

研究法の詳細については、各種研究法の教科書が出版されているのでこちらもとりあえず下記参考文献にてご紹介します。

最後に

作業療法のエビデンスの最新情報は、やっぱりインターネット上で、しかも英語で確認ができるとのことです。

英語、大事ですね。

参考文献

文光堂;作業療法士 プロフェッショナル・ガイド 作業療法とは何か;編集主幹 杉原素子 古川宏

三輪書店;作業療法士のための研究法入門;鎌倉矩子

医学書院;作業療法研究法 (標準作業療法学 専門分野);山田孝

ダイヤモンド社;統計学が最強の学問である[実践編]—データ分析のための思想と方法;西内 啓

本当はおもしろい作業分析のはなし

作業分析とは、文字通り、「作業」を分析することです。

作業を用いてひとを癒すことが仕事の作業療法士にとってはとても大切な技術なのです。

が、作業分析は、作業療法の学生さんがイマイチ掴みどころがないと感じる内容でもあるのです。

ひょっとすると「こんなことして何になるの?」と意味を疑うOTSもいるかもしれません。

さて、作業分析や動作分析という言葉をインターネットで検索してみると、トップには工業的な内容が出てきます。

この工業的な内容の作業分析は、基本的に作業療法士が行うそれと重なる部分が沢山あります。

工業における作業分析の意義を見ていきましょう。

実は、工場で人が実際に行う業務内容を情報化し、確認することはとても大切になります。

なぜならば、工業、特に製造業においては、ほんのちょっとの効率の違いが、利益を大きく左右することになるからです。

これによって大きく成果を上げているのが、自動車メーカーとして世界にその名をはせるトヨタ自動車です。

「カイゼン」とよばれる、業務効率を向上させる取り組みは、世界の製造業の模範として様々な成長企業が取り入れています。

その基礎となっているのが、作業分析あるいは動作分析の手法であり考え方です。

労働者の動きについて、時間や成果量、持続可能性などのさまざまな視点で分析を行い、比較検討を行いながらより効率の良い動きを模索するための基盤となる情報を、作業分析は与えてくれることになるのです。

こうして集めた情報を統計にかけることによって、より効率的に生産性を向上させ、利益を上げることができるようになります。

そして、それこそが工業における作業分析の目的です。

このように、工業の世界でよりよい利益を上げるために行われる作業分析の内容は、作業療法のそれとほぼ変わりないように思われます。

そして、作業療法と工業における作業分析の違いは、目的だけといえるとおもいます。

工業における作業分析の目的は、利益をあげることです。

一方、作業療法における作業分析の目的は、作業を行う人が自尊心を高め、自分の生活の質を向上させることにあります。

ですが、そのための手段として実際に行うのは、観察でありその観察を自然言語などを用いて情報化することです。

ここで大切になるのは、評価者である作業療法士が自分自身がどのような現象をどのような言葉や枠組みで捉えているのかを適切に表現できること、そして表現した内容をどのように治療に生かすかを具体的にイメージできることです。

特に後者は大切で、これができれば作業療法士としての仕事はほぼ終わったようなものといっても言い過ぎではないようにおもいます。

何を、どんな風に行ったら良いのかがきちんと観察の中から拾い上げた事実を根拠にして組み立てることができたら、作業療法士はそれを元にした提案を強力に行うことができ、それをもとにして他職種との連携をはかることができます。

ところで、作業分析は普段自分自身が行っている活動を意識的に行うことにもつながります。

他者の作業分析を行うためには、自分自身が同じ作業をどのようにして行っているのかについて考えるのがもっとも手っ取り早いからです。

自分自身の行動について自分で作業分析を行う中で、いままで思いもしなかったような新しい発見が、これまで毎日行ってきた行動の中から見つかるかもしれません。

たとえば、歯磨きをするときに、いつも自分が右手を使っていたとして、反対の手でそれを行ってみてください。すると、きっといかに自分が無意識のうちに効率的に歯を磨いてきたかがわかります。

もし、右手と同じように左手でも効率よく歯を磨くことができたら、右手で文字を書きながら歯磨きをすることだって可能になります。

(それで生活の質が高まる人は、ライターさんくらいのものですが。)

あるいは、片麻痺の方の利き手交換の際の参考になるかもしれません。

あるいは、単純に自分の行動の効率化のためのツールとして、工業的な作業分析と同様の使い方をすることだってできます。たとえば、通学や出勤前の自分の行動や動線をみなおすことで、無理無駄ムラをなくすことができるかもしれません。

そうすれば、ギリギリに登校・出勤することも少なくなっていくでしょう。

それから、作業分析は人を把握するためのボキャブラリーを豊かにしてくれるものでもあります。

人間の行動をより深い視点で捉えるために役立てることができるものでもあります。

もしも、「作業分析ってなんの役に立つんだろう」と思う方は、実際に自分の行動を作業分析してみてそれに基づいて、何かを改善してみてください。

それがうまくいくと、作業分析がおもしろくなりきっと日常的に作業分析を行う癖がつくとおもいます。

作業療法の生きがいの作り方。

作業療法とは何かを説明するのは、作業療法士にとっても難しいものです。

自分の実践を語ることはできるのですが、それがどのような意味を持つのか、どのようなことを大切にしているのかを語ろうとすると、ついつい抽象的になってしまったり冗長になってしまったりして、まとまりを欠いてしまうからです。

また、抽象的なことばで相手に伝えようとするのであれば、相手に自分のことばがどのように受け取られるのかについて、細心の注意が必要になります。

そんな難しさを孕む、「作業療法とは何か」という問いの一つの答えになる素敵な文章を見つけたのでご紹介します。

作業療法と生きがいの関係について、一つの事例を通して端的に紹介している素敵な文章です。

 

自立を支える(11)リハビリで高める存在価値

熊谷 隆史

人は誰でも年をとり、時には病気にもなります。そうなったら元気に暮らせないのでしょうか?

障害があっても、生き生きと暮らす人はいます。そうした生活を実現させる支援の一つが作業療法です。

2年前に出会った60歳代の男性、Aさんは、9年前の脳梗塞の影響で右半身が自由に動きません。趣味は旅先での写真撮影。Aさんが構図を決め、右手が不自由なAさんに代わり、妻がシャッターを押していました。

私と出会う少し前、その妻が亡くなり、Aさんは閉じこもりがちになっていました。身の回りの事に不自由はないのですが、生きがいをなくしてしまったのです。Aさんは、「生活での困り事はない。妻と電車で旅行して写真を撮っていたが、しなくなった。片手で撮影は難しいから」と言いました。

素敵な記事があったので引用します。

作業療法では、体の機能や心の状態などから、今、できる事、難しい事、工夫すればできる事などを判断します。私は、Aさんが、電車を利用してウォーキングのイベントに参加し、写真を撮ることは可能だと判断しました。Aさんも「頑張ってみる」と同意してくれました。

自宅周辺の散歩から始め、電車の利用方法の確認などを一緒にしました。写真撮影も、小型のデジカメを自由のきく左手で上下逆さに持てば、親指でシャッターが押せました。

練習の結果、体力も付き、電車で出かけてウォーキングを楽しみ、花の撮影もできるようになりました。「もう無理だ」と思っていた事ができるようになると、料理にも挑戦するようになりました。

リハビリというと、体を動かすための訓練と思われがちですが、それだけではありません。その人が心から好きな事をできるようにすると同時に、自身の存在価値を高めてもらう事も大切なのです。私自身、Aさんを支える中で、改めてそう感じました。(作業療法士)

(2015年3月3日 読売新聞)

生活行為向上マネジメントなどでも、強調されるところだと思います。

その人が、自分の生活に価値を見出せるよう、身体機能面をどのように生かすのかというトータルなマネジメントができる能力が、今も昔もこれからも作業療法士には求められていくんだろうなとおもいます。

何かを喪失することによって、これまでの自分の人生から切り離されてしまった人があたらしく自分の人生を組み立て直す、そんなお手伝いができるところに作業療法のつよみがあるのではないかと思います。

そして、そのためには、勇気付けや自尊心に対するアプローチをしっかりと行う必要が有ります。

身体機能に関する基本的な手技に加えて、精神面にどのように寄り添うかというところに作業療法士としての専門性が問われるのではないでしょうか。

そのためには、きちんと視野を広げていろいろなことを把握し、整理し、活用する能力を普段から養っておくことが必要で、自分自身の日常生活の中で、作業療法士はそのノウハウを身につけて磨き上げる必要があるのだろうなとおもます。