大阪都構想は社会の断絶の象徴かもしれない

17日を通して、大阪でとある選挙がありました。

そして選挙の結果、大阪の2重行政解消の切り札であった大阪都構想は頓挫しました。

いち作業療法士としてショックだったわけ

ショックでした。

実は、結構関心度たかかったのです。

ひろえもん的に、この選挙は「将来と今のどちらを優先するか」という捉え方の選挙だったのですが、やっぱり人間ってそうそう変われるものでもないんだなあということを痛感させられました。

それがやっぱり普通なんだよなあということを再確認した気分でした。

感じた世代間の断絶

同時に、高齢者と働き盛り・子育て世代と、20歳代の若者の間には大きな溝があるように思いました。

相互にお互いの気持ちがわからないというか、繋がらないというか。

特に高齢者と、その他の世代では大きな隔たりがあって、それが今回の選挙の結果にも色濃く影響したのかなあと思いました。

政治や社会における投資や選択が、あまりに軽い

将来よりも今という選択は、悪くはありません。

が、それは、自分で自分のケツを拭ける間の特権だと思います。

そもそも、今の社会に閉塞感を感じている若者が多いのは、きっと、将来性のない政策が多いからではないでしょうか。

日本は未だに世界的水準から見れば金持ちですが、以前と比べると相対的にはそうでもないのではないでしょうか。

それを改善するには、集約と投資が欠かせないと思うのです。

人材の格差

それから、世代の断絶のツケとしての若者世代平均の打たれ弱さが深刻です。

高齢者は若者に希望が託せません。

働き盛り世代は、板挟みです。

こんな世の中に誰がした。

我々ですね。

マネジメント層の人材不足も深刻です。

人生の厳しさを知っている大人はもっと独善的でいて、それと同時にもっと博愛主義でなければならないのではないかと思います。

さらに話は変わりますが、自分自身を含めて、日本という国は子供っぽい人が多いなあとおもいます。

本当の大人は一握りだけ。

それは、いまも昔も変わらないのでしょうか?

昔を知らないのでなんとも言えません。

でも子供っぽい人が目についてやたらと印象に残ります。

大人な人はみんな都会に行ってしまうからかもしれません。

未来志向の重要性をもっと語りたい

さて、話が大きく逸れましたが、今の市民の関心は自分が払う税金の量と受けられるサービスのみで、財源と政策ではないんだなあ、将来よりも今なんだなあということを再確認しました。

ああ、そういう意味で、やっぱり将来のビジョンを明確にビシッと語れて、明確に人を動かすことができるリーダーが必要だなあと思いました。

いまの社会はひょっとすると、人間の機能をはるかに超えた自由度を人間に与えすぎるのかもしれません。

改めていち作業療法士として

いち作業療法士の視点としてみると、やっぱりいろんな人と人を繋げられるような存在でなければいけないなあと思いました。

やはり今回の選挙の結果の背景には世代間の断絶とか、貧困差なんてものが背景にあると思うからです。

あとは、作業療法士の給料もその大半は保険から出ているわけで、ここに個人的には非常に大きな危機感を感じています。

なぜなら、財源は次第に確保できなくなっていく可能性が高いからです。

いずれ保険のシステムも変わっていくでしょうし。

まとめ

そのためにも、削っていいところは削って整理しないといけないステージに日本は突入していると思うのですが、どうもこの認識は社会に共通したものでもないようです。

いろいろな意味で試金石のような選挙でしたが、気づいた時にはどうにもならない状況、という社会にならないことを祈るばかりです。

療養と回復期の流れ(変化)の速さについての戸惑い

こんにちは。

だいぶん更新をサボってしまいもしわけありません。

ここ最近、公私ともにかなり忙しく、時間のやりくりが下手くそなひろえもんにとっては結構いっぱいいっぱいな日々が続いておりました故、更新が滞っておりました。

さて、ひろえもんは精神科の病院で働いているのですが、認知症の療養型病棟から認知症の窓口病棟に担当が変わってようやく一ヶ月が過ぎようとしています。

何が一番自分にとって大変だったかなと振り返ってみると、やっぱり「個性の違い」にとまどったことだと思います。

以前担当していた病棟は、いわゆる寝たきりの患者様が多く、こちらからいかに活動性をどうやって引き出すかということに一番苦心していました。

いろいろなことが難しそうに映る患者様ができることを見つけて一緒に取り組むことが主な仕事だったように思います。

しかし、ゆったりとした時間の中で関わりをもつことができたので、のんびり屋の自分にはぴったりだったのかなとも。

この度担当となった病棟は、デイケアレベルの患者様や退院直前の機能レベルの患者様が多く、こちらが活動性を引き出すというよりも、患者様が持っている活動性が発揮出来るような環境を整えることに主眼を置くようになりました。

できることの幅がひろい分、準備するべき環境設定の幅も格段に広がり、安全に活動していただくために作業療法士として自分が管理運営する内容も非常に多岐に渡るようになりました。

創作活動で参加してくださる10〜15名程度の患者様それぞれに、適切な難易度の内容を準備しながら、全体としての創作物の進捗状況を確認しつつ、都度活動援助を行いつつ、楽しみと感じていただけるような渡し方や介入を考えなければなりません。

そのためには、事前の準備がかかせないのです。

その準備が、ほぼ毎日結構な量必要なことにびっくりしてしまいました。もちろん、自分の渡し方がまだまだ未熟なせいもあるとはおもいますが。

さらに、認知症病棟特有の異食や転倒などのリスクにも常に気をくばる必要があり、目の前の患者様だけでなく参加してくださっている方全体の見守りを高いレベルで並行して常に意識し続けるというのが、今までにない経験だったのでひろもんの精神的には結構大変だったりしてます。

また、機能レベルも差が大きく、その方々全員が楽しさを共有できるような活動を考えなければ、という点も慣れるまで結構大変だなと思います

いろいろと書きましたが、今の病棟で大切にするべきことは楽しみと退院につながるような機能の維持向上の両立だと思っています。

一ヶ月後には、楽勝でできるようになっていたいなと思います。

作業療法の手法は健常者に行っても効果があってこそ本物の手法!?

だと思います。

なんてったって、作業療法の対象は本来、「すべての人」であるべきだと思っているので。

対象が障害者のみに限られる「手技」ってのはあるかも知れません。しかし、その背景にある「哲学」や「思想」は、すべての方に当てはまるものであるべきだと思います。

つまり、作業療法の実践の根底にはだれにでも当てはまり得る考え方があるべきだと思います。

もっといえば、作業療法の場合、手技にしたってすべての人にとって有用なものであることが望ましいと思います。

なぜならば、だれに対しても実践することができるものかどうかが、作業療法が社会のありとあらゆる場にて活用され、作業療法の可能性がきちんと実体験をもって理解されるというところに繋ると思うからです。

最低限、自分に効果があると感じられるものを実践するべきだとは思います。特に認知行動療法的な枠組みで行う場合には、それが当てはまると思います。

そうでなければ、相手への効果を推し量ることができませんから。

話が逸れましたが、最近自分の実践がいいものかどうかを検討する場合にそういう視点で、批判的に見るようにすると、作業療法や作業療法学はどんどん前に進んでいけるのではないかと思います。

中国で人間が、遺伝子変異を扱う技術が誕生。改造人間まったなし?

仮面ライダーは、さすがにもうしばらく登場しないと思いますが。

しかし、作られた天才というのは誕生するかも。

作業療法とはあんまり関係のない、遺伝子に関する技術のニュースが面白かったのでご紹介します。

中国で、論文化されたその技術を使えば、

病気に関係するような特定の遺伝子をピンポイントで除去したり、

優秀な遺伝子と既存の内容を置換するような遺伝子技術に関する論文が発表されました。

おおまいごっっど。

神の存在をまた一つ揺るがす技術が開発されたということで、欧米でも大きな議論になっているようです。

一般庶民には関係のない話ですが、お金持ちの人々であれば遺伝子系の難病を治療できるようになる日もそう遠くないのかなあと思いました。

中国はこれをビジネスにするだろうから、日本や欧米が倫理云々かんぬん入ってる間に技術力に差が出るかもですね。

ソース

http://www.asahi.com/articles/ASH4T5QFYH4TULBJ007.html