社会と作業療法と効率化を妨げるものの話

作業療法を必要とする人に作業療法を届け続けるために作業療法に必要なのは、イノベーションだと思っています。つまり、作業療法士がどの程度、何かを変えることに対して積極的になれるかどうかということです。

安定と変化のバランスが大切ですが、医療全体を見ていると安定にしがみつこうとしている嫌いがあり、作業療法士はそこでどのように振る舞うかが問われているようです。

作業療法と社会全体をぼんやりと眺めて、この記事を書いていきます。

林先生の授業の数学のはなし

東進の林先生のテレビ番組にて、「算数の入れ替えの問題」の問題について取り上げていました。

この問題は、twitterで探せば類似のものがたくさん出てきます。例えば、以下のようなものです。

で、交換法則を認めず、これが間違いになるのは、どうなのかという話は、以前世間一般で議論になりました。

これについて、いろいろな意見があると思います。

今読んでおられるあなたはどのように感じますか?

「学校の先生に習った通りに回答していないのだから減点すべき」

と感じるか、はたまた

「算数の先の数学においては、交換法則習うんだからさあ、バカみたい」

と思うかは、その人がどこに重きを置いて考えるかによると思います。

 

前者は、「悪法も法」つまり、暗黙のルールでも守らなければならないし、それが秩序であるという考えかたと言えるでしょう。

後者は、合理主義というか、論理的に正しければ、良いのではという考え方であると言えるでしょう。

要するに見ている世界も違うし、その背景にある物差しもおそらく違うのだと思います。

 

ちなみにこの番組では、世界的な数学の権威の意見を参考として、

「きちんと問題文で条件を提示していないのであれば、不正解とする合理的理由はない」

「ガウスという天才がいたが、彼は交換法則を見出して1〜100までの合計を瞬時に見抜いて見せたが、そこで交換法則を否定するような教師に指導されていたら彼の数学者としての人生はなかったかもしれない」

という方向で意見集約されていました。

上記の話は、「合理性」というものを考える上で非常に示唆に富んでいます。

合理性とは方法論の改善

アルゴリズムという言葉を聞いたことがあるでしょうか?

主にITの世界で使われる言葉かもしれませんが、「方法論」と言い換えても良いかもしれません。ようするにやり方、方法です。

同じ結果を得るために、様々なやり方がある、そのやる方のことをアルゴリズムと言います。

先ほどのガウスの逸話でいえば、

1〜100の合計を計算する方法は、

一から順番に100まで足す

1+2+3+4+5+6+・・・・+99+100

101掛ける50

という方法の2つのアルゴリズムがあります。

お分かりのように、そのどちらを用いるかによって、結果を得るために必要な時間が大きく異なるはずです。

多くの人は足し算の処理を頭の中で100回繰り返すの時間に比べると、一回の掛け算を頑張る方が早く計算の結果を得ることができるでしょう。

 

これは、和の交換法則が成り立つという前提と同じものが複数個あるなら積として扱えるという知識があるがゆえにできる、スムーズな回答なのです。

で、この方法にバツをつける学校の先生がいるということが問題視されているわけです。

「学校で習っていないことをするのはけしからん」ということですね。

しかし、習っていようがいまいが、賢い人は、合理的な考え方をしますし、結果が同じならば、低コストな方を選びます。それが、のちの選択肢の幅を広げる方向に影響すること、つまり自分の人生をより豊かにすることに直結することを理解しているからです。

スムーズなのはずるいか

不思議なことにこうしたスムーズな解法は賞賛されるか、非難されるかという真逆の評価を受けることになるのです。

率直に、スムーズで素晴らしいと褒められる場合もあれば、逆に正攻法ではなくてずるい、手を抜いているという評価を受けることもあるということです。

前者は合理的感性であり、短い時間で多くの成果をあげることは素晴らしいですねという感覚ですね。

後者は、自分が持っている文化的社会的公正さのイメージにそぐわないので、好ましくないと感じるという人間的な感覚でしょう。自分は真面目にやってるのに、少ない労力でズルをしているというそういう感覚です。要するに嫉妬です。

これはもう、どう感じるかという世界の問題です。

その人が、どのように感じてどのように行動するかというのは自由です。

その結果も自業自得です。

結果を引き受けさえすれば、どちらのやり方であっても問題はありません。時間をかけて愚直にやるからこそ見える景色や学びというものも、間違いなく存在するからです。特に、結果が全てではない、過程が大切であるという視点においては間違いなくそうです。

ずるいかずるくないかというのは、議論のポイントがずれています。

本当に問うべきなのは、自分もそうしたいのか、そうでないか、ということです。

合理化を非難する文化に負けないことが大切

だからこそ、大した考えもなく感覚で合理化を否定する文化に安易に迎合するべきではないと考えます。

「エクセルのマクロを使って仕事をしたら、上司に理不尽に叱責された」

というのは、エクセルが仕事に使われるようになって以来の、あるあるネタでもう使い古されてしまって、未だにそんなことあるんだなーというレベルですけれど、作業療法士の世界でも、本質的にそういうところはあるかもしれません。

「時間をかけて、みっちり丁寧にやらないと、そこに愛はない」

みたいな。

でも、結局のところ、作業療法の対象者の方が求めていることに何がマッチするのかという、そういうシンプルな話だと思っています。対象者の方が愛を求めておりそれを充足することが、治療効果を大きくするのであれば、愛を追求するのも悪くないでしょう。

反対に、対象者の方が結果を求めているのなら、別にどれだけの時間がそこに費やされるか、どれだけ作業療法士が時間をかけて関わるかなんて関係ないわけです。

そういう人に対して、作業療法士が不必要なまでに長い時間関わり続けることには、違和感を感じます。

先のエクセルの話でいえば、短い時間で、大きな成果を出しているのに、それを非難するのは、機械化することで自分の仕事が奪われると考える人がいるからですし、単位時間当たりでの仕事量があまりに違うと、自分の仕事の価値が相対的に低下することを知っているからです。

このようなマインドのもと、同調圧力で、意味のない長時間作業療法と称して、対象者への関わりを継続するような関わり方をしているのであれば、それらは改めて行かないといけないと思います。

日本は医療費がただでさえ足りないということになっておりますので、本当に必要な人に必要なだけの資源を届けるという視点においては、ここは非常に重要なポイントです。

「マクロ」は、すべからく全ての作業療法士が使いこなせるようにならなければなりません。全ては、顧客である作業療法の対象者の方の利益を最大化しつつ、組織の利益にもそこそこ貢献することで、作業療法の持続可能性を高めるためです。

ずるいだの何だの言っている余裕はこれからのこの国にはありえないのですが、そこも、視野の違いだと思います。直近のことの方が気になる人もいれば、長期的な先のことを踏まえて今のことを考えるべきだという人もいます。

いわゆる合理的な人は後者であり、のちへの影響を考慮して現在の振る舞いを考えたり、またそれを実行に移したりします。

作業療法士はリハビリテーションの仕事であり、評価し目標を設定し、対象者の方に変化を迫る仕事です。その作業療法士が、自分自身を変えられないのは、作業療法士という存在の信用問題に関わると思っています。作業療法は、もっと合理化できるところはどんどんためらわずに変えていかなればならないでしょう。

ためらいが生じるのは、自分自身の「面倒だ」という気持ちと、その変化を良しとしない人からの反対を想定することによると思います。ですが、本当に価値があることであれば、その価値を理解できない人に関わる労力を使ってもったいことになるよりは、共感を得てくれる味方を増やすべきで、そうなるためには自分自身がどんどん変わっていく必要があります。

作業療法士は他人を変えることが仕事です。自分自身を変えることができないで、何を変えることができるでしょうか。合理化を非難する文化が確かにあることは認めつつも、今後を見据えて必要な変化であればそれを最後まで押し通すべきでしょう。

また、作業療法士の背景がどうとか、そんなことは、対象者の人には関係ない話で、対象者の方が本当に望んでいることはなんなのか、どうしたいのか、どのようにいきたいと願っているのか、本当に大切にするべきはそちらですから、やるべきと考えるなら遠慮なく、端折って合理化を進める利点はあると思います。

組織の秩序は何のため

往々にして合理化を妨げる要因となるのが、所属する組織のルール、つまり秩序です。

組織の秩序というと、雲をつかむみたいな話になりますが、私見としては、どのように人を動かすかということに尽きると思います。

つまり、組織に所属する人が、どのような考えや動機付けのもとで、どのように行動し、それがどのように必要とする成果に結びついているのか。

そういう視点で、人をどのように動かすかということにおいて、重要になるのが組織の秩序ということになると思います。

お分かりのようにこれは、合理主義者の視点であります。

逆に文化的社会的公正さの感覚から見ると、多数の人間がそれなりに折衝してみんなでやっていければそれでいいじゃないという感じになります。能力や生産性や成果に関係なく、組織に長く所属している人がより多くの給料をもらえるという年功序列型の会社組織の秩序も、そこに多くの人が公正さを感じており、納得のもとで働いていたからこそ、あり得た仕組みということになります。

ともあれ、組織の秩序は人を集団に縛り付けるため、もしくは集団に属する人に一定の方向性を与えることで目的の成果を揚げやすくするために存在します。

前者は、家の門限であり、国の戸籍システムなどが該当するでしょう。

後者は、道路交通法であり、国民皆保険制度でありましょう。

このような組織の秩序の働きを、組織のリーダーがうまく知覚し、活用できているかどうかを、作業療法士は敏感に感じ取らなければなりません。

つまり、上記2つのどちらの文脈で、組織の秩序を運用しようとしているのか、を理解しようとしなければならないということです。

合理性に乏しい組織であればあるほどに、「昔からこうだから」という意味もわからぬままに継承した無意味な文化が溢れかえっているはずですので、すぐにわかると思います。

大切なのは、自分が納得してその組織に所属しているのかどうかということになると思います。納得していないのなら、組織の秩序に働きかけるか、その組織から抜けることを考えましょう。

イノベーションに対抗する文化

合理性が文化や人に受け入れられるかどうかは、結局のところ、その社会がどの程度の変化を許容できるのかということにかかっています。

大相撲の話でいえば、横綱かくあれかし、という話です。

白鵬の相撲の取り方は、勝つための合理的な相撲です。相手をどのようにすれば負かすことができるかどうかに特化した相撲の取り口です。

しかし、相撲協会としてはそうした相撲は横綱らしくないから控えるべきであるという話になるそうです。相手の挑戦を受けてどっしりと組み相撲で戦わなければ、横綱の品格に欠けるというのです。

これはつまり、どういうことかというと、今の大相撲には白鵬のような強さを追求する相撲を受け入れるだけの度量、器量がないということです。相撲に勝利するにはという飽くなき探究の姿勢を持って横綱の品格とすることは、できないということです。

あれだけ相撲に対して、真面目に真摯に取り組んでいる力士は他にないと思うので、個人的には十分に横綱の品格を讃えているといって良いのではと思うのですが、相撲協会はそういう考えにはなれないということです。

一体それのどこが問題かというと、新しい価値を認められない組織は、変われない組織になります。変われない組織には、変われない人間が依存しやすいような組織の秩序が出来上がり、風通しが悪くないり、世間一般とのズレが次第に大きくなっていきます。

相撲でいえば、先輩からの暴力は指導であり、うちうちで解決すれば良いだろう、外に話すようなことではない、という話になります。

日本の法律に触れているのであれば、公に裁判までするべき話のはずなのですが、どうも、風通しが一旦悪くなると、組織というのはとことんまで腐りきってしまうようです。

作業療法士の世界も、医療の世界もそうですが、人材の流動性が低い組織においては離職率を下げるための試みが、却ってある世代の退職を促してしまっている、つまり離職率を上げている可能性すらあります。

そういう組織は、昨今の大相撲と一緒です。事故が起きれば隠蔽するし、物言えぬ人にどのような対応をしているかはお察しの通りです。

人材に流動性が乏しく、優秀な人材を外部から迎えたところで、何も変わらないという事態が起こることもしばしばです。また優秀な人材を、すぐに手放してしまうこともあります。

こうした組織において、変化を起こそうとする人間は敵です。

どんなに良い結果をもたらすイノベーションであったとしても、既存の秩序やそれを元にして成り立っている文化にあだなす害のある存在ということになります。

そんなゾンビのような組織は、早いところ絶滅すればいいと思うのですが、文化的社会的公正さの感覚に基づく組織は緩やかに衰退しながら意外と長生きです。もっとも所属している組織の構成員の表情は、どこか覇気に欠けますし、仕事をしていて楽しそうではありません。

そんな組織には存在意義を感じることができないのは私だけでしょうか。

コラム 変化耐性のはなし

自分が変われないから、変わったことをして結果を出す人を攻撃する人がいます。

ひとえに変化に対する耐性が低いからですが、それで他人を攻撃するのはナンセンスです。

なぜなら、変われないものが変われるものに変化しないことを強要するのは、変化することを強要されても文句は言えんと思うのです。

以上です。

組織の合理性追求と障害者就労の矛盾

ここまで書いて、一つ重要なことをまたここで書きます。

組織の構成員を純粋に成果で測るとしましょう。

つまり、成果を出す人間は雇用され続け、成果に乏しい人間はリリースされるというそいう組織が出来上がります。

医療や福祉の世界においては、そのような成果主義を導入することで、顧客である対象者に対して、より良いサービスを提供し、より良い結果を対象者に受け取ってもらうことができるでしょう。

そのためには、徹底して合理性を追求し無駄を省くことが重要です。なぜなら、日本の医療福祉介護の世界にはお金の余裕がないからです。

これを突き詰めると、例えば能力の乏しい作業療法士や成果の出せない作業療法士はお休みをもらうことになり、雇い続けてもらうこともできなくなるでしょう。つまり、成果の出せない人間はいらないというわけです。

一方で、障害者の方の就労においては、何も成果だけを以って就労できるできないを決めるわけではないですし、じゃあ医療介護福祉の分野においてもやっぱり働く側も合理性ばっかりを追求するのもなんか違うんでないのという、そういった感覚とはやはり矛盾するところがあると思います。

また、合理化をすすめたからといって、全ての問題が解決できるというものでもないことを感じさせてくれる矛盾でもあります。

大変でも、作業療法の合理化は必要

なぜなら、持続可能性がピンチだからです。

作業療法は無くても死にません。

資源やリソースが減れば、当然生存に関わることが最優先です。

 

そんな状況の中で、作業療法を必要としている人に、ちゃんと作業療法士が作業療法をリーチするためには、作業療法をもっともっと洗練して、短い期間でより多くのより良い変化をもたらすことができるようにしていくことが必要であり、それはまさに合理化のプロセスそのものであるといえます。

よって、作業療法には合理化が 必要であり、そのためには、作業療法士がまずは自分の頭を柔らかく保つと同時に、新しいものを厭わず、かといって周囲の評判を必要以上に気にせず、矛盾を飲み込めるだけの大きな視点を持って、いろいろな表現を行なっていくことが、これからの作業療法士には必要なのだろうと思います。

感情論と合理性をうまく統合できるか、その矛盾を相克できるかどうかは、作業療法が今後もっと進化していくための鍵になるようです。そのためには、作業療法士がもっと、自分のスキルを増やすことに貪欲であり続けること、そしてそのための正当な対価を組織に要求するだけの図太さを身につけ、組織に対する発言力やら影響力を強化することなどが必要かもしれません。

いずれにせよ、合理化をズルいなんていってる作業療法士はいないと信じたいです。

まとめ

合理的になれるかどうかは、

違うものを同じと見れるかどうか

新しいものを受け入れることができるかどうか

矛盾から、新しい到達点を見いだすことができるかどうか

 

 

作業療法の深淵「ひとと集団・場」の新版が出るらしいよという話

みなさん買いましょう。

さて、作業療法におけるパラレルな場を説明するのは難しいですが、体験してもらうのは簡単です。あと、カフェとかバーとパラレルな場って似てると思います。店員とお客さん、作業療法士と治療者。繋がっているようで、個別なことをしている。けれど、なんとも言えない一体感。それが、人に適度な刺激を与え、癒し、変化をもたらす。

作業療法にとって大切な場の概念

「場」という概念はとても治療にとって大事なことだし、その人の生活を支援するというリハビリテーションの視点においても大切なことです。

それゆえ、「場」に対する理解はある程度できている方が良いと思います。

それくらい大切です。

しかしわかりづらいのも事実です。

 

個人的な経験としては、実習前にはあまりピンと来ませんでした。

実際に経験して見て初めてわかった部分も大きかったように思います。

パラレルな場を知るには読むべき本がある

しかし、言語化ができないときちんと把握できないのもまた事実。

そして、やっぱり雰囲気な部分が大きいので説明できないパラレルな場という概念とその真髄。

その概念を確立させた、かの山根寛先生の「ひとと集団・場」の新版が、出たというニュースでございます。

こちらになりますね

まだ発売してないのです。

ので、こちらからは予約するということになります。

私も、注文しようかなと思います。

発売後にまた追記しようと思います

 

今更聞けないけど、作業療法士にとって重要な「エビデンスレベル」を理解する記事

エビデンスが大切と言われて久しいですが、エビデンスレベルというものが理解できなくて困っている作業療法士はいませんか?

なんとなく大切そうだなーというレベルから、なんとなくわかったわ、というレベルまで、作業療法士がエビデンスレベルの概念を理解できることを目標にした記事になります。

エビデンスレベルの概念は、臨床においても論文においても非常に重要ですので、なんとなくでも理解しておきましょう

エビデンスレベルがわかることのメリット

作業療法の研究では、臨床を文章に落とし込むというのが一つの大きな流れとしてあると思います。

これらが、症例報告、ケーススタディ、ケースシリーズなどと言われるものです。

こうした症例報告が、きちんとエビデンスとしての影響力を持つようにするにはどうしたらいいかがわかります。

また、論文を読むときに、その論文がどの程度信用できるのかをざっくり理解することができるようになります。

臨床では、確かな根拠を持って介入ができているという自信を強化してくれるものでもあり、きちんと自分の臨床に客観的な根拠を与えてくれるものであるといえます。

また、研究においては、自分の主張を強化するには、どうしたらいいかということがわかるようになりますので、論理的な思考力が身について、研究における無駄が減るはずです。

具体的なエビデンスレベルについて

以前、作業療法とエビデンスという記事を書きましたので、そちらで確認していただければと存じます。

作業療法(OT)とエビデンス

見ていただくと、専門用語のオンパレードであり、初見では何が何やらわからないことがわかると思います。

専門用語の意味

まずは、エビデンスレベルの説明に登場する専門用語について、一つずつ注目していきます。というか、統計で出てくる言葉なので、ちゃんと説明しようとすると統計に対する理解が必要なはずなので、ここでもざっくりとした説明で勘弁していただければと思います。

専門家の意見

専門家の、長年の経験、個人的な勘、予測を含んでの意見ということになります。漁師さんとか農家さん、伝統工芸の職人さんなどの、「こうしたらこうなるよ」という見解などがこれにあたります。

作業療法でいえば、先輩やら上司やらの発言だったり、講演会の講師の発言だったりするでしょう。

研修会などに積極的に行く作業療法士も多いと思いますので、そのエビデンスはどうなってるのかを確認するのも意義があると思います。

症例報告

何かをする前と後を前後で比較して、「ここがこんな感じで変わりました」という報告が症例報告です。

要するに専門用語でかかれた、ノンフィクションの物語です。

事実を書き溜めるという意義があります。

処置群

作業療法でいうところの介入をする、対象者、または対象者たち、ということになります。

一人ではなく、特定の作業療法を受けた人をひとかたまりとみなしているから、群なのですね。

対照群

処置群に対して、比べるための基準になる人たちの集まりですね。多くの場合は、偽薬だったり、何もしなかったりします。

処置をすることの効果を比較によってあぶり出したいからです。

ケースコントロール研究

作業療法の効果で変わったのか、それとも自然にそのような変化が見られるのか。

それを証明するのは難しいと感じたことがある人は多いと思います。

しかし、それを証明するのがこのケースコントロール研究です。

ある人の集まりの中から、作業療法の特定の介入の影響がどの程度あるのかを分析することができます。具体的には、作業療法の有る無しと、変化の有る無しも分析して、4つの群ができるのです。

バラバラに書いてみると

  1. 作業療法受けた 変化があった
  2. 作業療法受けた 変化なし
  3. 作業療法受けてない 変化があった
  4. 作業療法受けてない 変化がなかった

の4パターンの群ができる

ので、ある変化が介入によるものなのか、相関関係があるのかということをあぶり出したいときに使います。

計算の理解には、多分ベイズ統計の理解が必要なのではしょります。

これは、物事が起こってしまったあとから、ある変化は何が原因だったのかの因果関係をあぶり出すのに使えるので、作業療法の特性上は便利な方法だと思っています。

ランダム割付

無作為化といったほうが、意味が直感的にわかりやすいと思います。

作業療法する人としない人を、恣意的にならないように、偏らないように対照群と処置群にランダムに分けるという作業です。

同じ母集団からランダムに取り出したら、それぞれの集団は条件が似通ったものになるでしょうという統計学マジックです。

コホート研究

ケースコントロール研究は起こってしまった出来事を振り返ってする研究でした。

コホート研究は、起こる前からずーっと追いかける研究です。

つまり、作業療法をする人としない人の群をそれぞれ処置群と対照群として用意して、何らかの変化が起こるまでの一定期間、継続的に追跡調査をする研究ということになります。

また、同じ時間の中で、同時に行うことができるので、その辺りの年代的な条件を揃えることができるのも強みです。

要因対照研究とも呼ばれています。

時間も人手もかかるのでコストがかかるのが問題な手法ですが、わかりやすい研究手法であり、多くの人がしっくりくるのがこの研究手法ではないでしょうか。

過去のコントロール

比較対象ですね。

時間軸を問わないので、昔の比較対象という意味でしょう。

同時コントロール

同じ時間軸の中の、比較対象という意味でしょう。多分。

ランダム化比較試験

デザインされた研究でないと難しいのですが、エビデンスレベルはかなり高い試験方法です。

なぜデザインされた研究でないと難しいかというと、あらかじめ作業療法をする群と作業療法じゃないそれっぽい何かをする群をランダムに割り振りして、研究者と対象者にはどの対象者に作業療法が行われていて、行われていいないのかがわからないようにする工夫が必要になるからです。

これを作業療法の臨床でやるのは、ぶっちゃけ無理です。

効果のない作業療法もどきを対象者にするってのはありえないからです。

さておき、ランダム化比較試験というのはつまり、誰に作業療法がされていて、誰にされていないのかがわからないようにして統計処理にかけるという方法をとることで、分析する側が恣意的にデータを統計処理することを防ぐことを意図した研究方法になります。

とにかく、純粋な因果関係をあぶり出すという話です。

メタアナリシス

ランダム化比較試験をたくさんやればやるほど、信頼性が高まるようにするためのそういう方法です。そういう方法をメタアナリシスと言います。

各種データを俯瞰して、導き出す手法のことをメタアナリシスと言います。

この方法では、ランダム化比較試験では、現れてこないようなエビエンスの誤りを正すことができる力があり、より正確性をきすことができます。

矢とは違って、1本なら折れないけど、三本束ねるとおれることもあるのです。

つまり、複数のランダム化比較試験をまとめて、メタアナリシスすることでより精密にエビデンスを精査し、その真偽をはっきりとさせることができます。

今、エビデンスレベルの最も高い研究・検証の方法ということになります。

何はともあれ「症例報告」からはじめよう

さて、用語を見ながら、エビデンスとはどういうもので、エビデンスレベルの高低はどのようなものかを見てまいりました。

勘違いして欲しくないのは、エビデンスレベルが低いから、参考にするに値しないという話ではありません。また、取り組むのに値しないというものでもありません。

千里の道も一歩からです。

分析をするにも、材料がいるのです。

その材料は、なんでしょうか。

たくさんの症例の報告ということになります。

そうした報告の糸をより合わせて、太い綱にしていくことが必要です。

そう考えると、作業療法のエビデンスのもとになるような、作業療法の論文はまだまだ数が足りないでしょう。

もちろん分野にもよるとは思いますが、症例報告がたくさん集まれば、あとはいろいろな研究をいろいろな作業療法士がしてくれると思います。

エビエンスが出てくれば、きちんと国に働きかけることもできます。

本当に作業療法が必要な人への作業療法の重要性を、誰に対しても明確にすることができます。

まずは、「事実をありのままに書く」という症例報告から作業療法士は、「エビデンス道」の1歩目を踏み出す必要があると思います。

コラム エビデンスレベルの高い論文を読むには

ランダム化比較試験のメタアナリシスかどうかを判別して読めばいいということですね。

もっとも、作業療法の介入に関する論文は、日本語のものはほとんどランダムか比較試験のメタアナリシスに至るものはないでしょう。

ですから、英語で論文検索されることをお勧めします。

世界レベルならちらほら、そういう論文もあります。

まとめ

エビデンスレベルは

統計とランダムと尺度がきっちりするほど

上がる。

となんとなく理解してたら、とりあえずOKです。

 

作業療法の論文を、作業療法士は英語で書くべきか?

大相撲の初場所で、白鵬がさすがの勝利を見せて、「ああ、やっぱり強いな」と思った次第です。土俵際でも、落ち着いて冷静に裁くだけの余裕があるなあということで、冷静に対処するってのはやっぱり安心と信頼と実績につながると思いました。

さて、そういう安心と信頼と実績において、作業療法士にとってはその裏付けとなるのが、臨床での安定したアウトプットであり、その実績を論文にして書き留め公表共有することです。

さて、作業療法士が書くこの論文は、英語で書くべきでしょうか?

結論:英語で書くべき

私は、作業療法士は論文を英語で書く方がいいと思います。

実は、この話題について、論文雑誌「作業療法」2017年8月において、巻頭言で日本のOTのパイオニアの一人である清水一先生がご意見を述べておいでです。

ちなみに詳細は各人読んでいただければと思いますが、清水先生は「別に英語じゃなくてもいいじゃない」というご意見です。

ちなみに先生は、英語バリバリできる人です。

経歴みていだければと思いますし、本の翻訳とかもやってますし。

そんな先生が作業療法士は、別に論文発表は日本語でも良いじゃないのって言ってるのに、英語で書くべきと主張するのはかなり勇気がいるのですが、多分大事にしてることは一緒なんだと思うので、思うまま書きます。

作業療法士は、論文を英語で書くべきです。

理由:英語を扱えるメリットがでかいから

英語ができるメリットは、情報を扱う仕事をしている人にとっては、非常に意義が大きいのです。

例えば、英語がわかれば、海外の論文を英語で読めますよね。

英語で論文を読むことができたら、どうだというのでしょうか?

日本語で読めるのとなにが違うでしょうか?

もうお分かりと思いますが、例えば、情報が手にはいるスピードが圧倒的に違います。

具体的には、海外のOTが書いた本の翻訳版が出る前に原書を読むことができます。あるいは、海外のOTが書いたブログを読んで、向こうの動向を日本にいながらにして知ることができます。

量も違います。英語の論文の方がはるかにたくさんの、それもエビデンスレベルの高い論文があります。

メリットはあげればきりがありません

デメリットはありません。

英語で論文書けるようになるためには

英語で論文を書けるようになると、海外の作業療法士に自分の論文を批判してもらえるメリットもあります。

英語で論文を書けるようになるには、いろいろな方法があると思います。

おすすめなのは、英語の論文を読むことから始めることです。

読んでいくと、繰り返し出てくるフレーズやらパラグラフの構造なんかが見えてくるので、それらをパk…参考にさせていただくと書きやすいと、こういうことでございます。

マネから始めるのは、王道であり基本ですね。

とはいえ、最新の論文とかは、結構統計のオンパレードで、英語もさることながら、内容自体が難しいという悲しい現実もあります。正直、簡単な論文と難しい論文の見分けもつかないと思います。

では、論文読めるレベルの英語を身につけるにはどうしたらいいでしょうか?

そのためには、自分が論文を書くことを意識しながら、それに関連するキーワードを検索して翻訳しながら読んでいくのが良いと思います。

つまり、自分が書きたい分野の論文を読んでいくということです。

昔に比べて、いちいち辞書を引くことなく、英文を読むことができる環境が整っている今、英語の勉強をしないのは、もったいないと思います。

要するに、習うより慣れろなところはあると思います。

英語が必要かどうかは人それぞれ

ここまで書いておきながらなんですけれど、英語が必要かどうかは、人それぞれです。

作業療法士が、要するに世界と繋がりたいと感じるかどうかだと思います。

世界レベルの情報を取りにいきたいと考えるのであれば、やはり英語は必須アイテムです。

ですが、作業療法士として、自分の臨床を自分の中の基準でじっくりやっていきたいと考えるのであれば、英語の優先順位はそんなに高くないといえます。

むしろ必要なのは、検証可能性を向上させるための、日本語での論理的な思考能力と、それを何らかの形で人と共有し、チェックを受けることだといえます。

もし、英語が自分にとって必要だと思った作業療法士は、やはり英語でものを書く、読むを習慣化させる必要があると思います。

逆に、いらないと思うなら、いらないと思います。それよりももっと大切にするべきことがあると考えているからだと思います。そして、こういう人に向けてのメッセージが、清水はじめ先生の先の巻頭言ということになるのだと思います。

英語を勉強するためのツール

とはいえ、いきなり論文を読み出すと心がおれる人がほとんどだと思いますので、段階づけにこんな素敵な本がありますので、活用を考えてみてください。

Amazonで買うだったら、今日現在残り一冊らしいのでお早目に。

 

まとめ

作業療法士としての広がりが欲しいなら英語で論文を書いた方が良い。

作業療法を深めたいなら、英語よりも論理的な思考力を大事に。

 

参考

清水先生が英語できる証拠とか

この本の最新版とか

作業療法士が当たり前に使う”OT”、実は10以上も”その他の意味”がある

作業療法士をはじめとして、リハビリテーションや医療・介護・保健の分野で「OT」と言えば、Occupational therapy または、Occupational therapist のことですよね?つまり、OTとは作業療法もしくは作業療法士を指す言葉として用いることが多いと思います。

しかし、世界には色々なOTがあるよ、という雑学ネタでもあり、互いが誤解して使わないようにという戒めでもある記事です。作業療法士同士の話題から、ちょっと小ネタまで、幅広く使って見てください。

では、以下に色々なOTという略語を使う言葉たちを紹介して行きます。

オキシトシン

オキシトシン、最近では市民権を得てきているのではないでしょうか?

Oxytocin, OXT の略で OT

ですね。

オキシトシンは、別名「幸せホルモン」、「愛情ホルモン」とも呼ばれる、人の多幸感を引き起こすことで有名な、人の分泌物質ですね。実は、オキシトシンは良好な対人関係が築かれているときに分泌されるとされ、闘争欲や遁走欲、恐怖心を減少させる作用があると報告されています。

視床下部の室傍核と視索上核の神経分泌細胞で合成され、下垂体後葉から分泌されるのですが、この辺は、脳の構造が頭に入ってないとさっぱりわかりませんね。

ちなみに、オキシトシンは、使い方を間違えると結構危ういホルモンでもあります。オキシトシンをヒトに投与する実験では、鼻からの吸引で、金銭取引において相手への信頼感が論理的な根拠なく上昇するという結果が得られたそうです。

幸せホルモンという名前がついていますが、反対に攻撃性を高めたりする効果があることを示唆する報告もあります。

反対に、上記で述べたように、

人間の感情と密接に結びついている作業療法においても、オキシトシンの効能は注目に値すると思います。

コンピュータソフトウエア製造工程における運用試験(Operation Test)の略称

テストのない開発は、デスマーチの始まりです。きっと。

ということで、部分運用とか含めて、使えるかどうか試すやつです。

多分。

OT(オテー)=Ortsteil(オルツタイル)の略

ドイツでの歴史的な街の中の地域の表示、地区。

ドイツ語で地区という意味らしいですね。

イタリア共和国サルデーニャ州オルビア=テンピオ県の県名略記号およびISO 3166-2:IT県名コード

はい、こちらですね。

オルビアは、イタリア共和国のサルデーニャ島北東部に位置する都市で、その周辺地域を含む人口約5万3000人の基礎自治体。オルビア=テンピオ県の県都のひとつ。 中世のガッルーラ国 の首都であった。
ウィキペディア

イタリアいいですね。

行って、昼からピザを食べてワインを飲んで、シメにパスタを食べたい。

 

絶対太るやつですね。

日本オイルターミナル株式会社の略称

JRグループの関連会社のようです。

サイトURL:

http://www.oil-terminal.co.jp

略称はOT。英称のJapan Oil Terminalを素直に略すとJOTであるが、この略称を使っているのは同じく石油製品輸送を広く手がけている日本石油輸送(Japan Oil Transportation)である。

日本オイルターミナル株式会社

資本金8億円ということですし、業界では多分有名です。

ミュージシャン奥田民生の自称,他称,略称,愛称。

広島が誇るミュージシャンです。ある世代にはユニコーンのボーカルと言ったほうが伝わりが良かったりするかもね。

奥田民生ファンが、OT好きってハッシュタグを使ってて、Twitter始めたての時に困惑したのはいい思い出です。

割と、OTが奥田民生さんの略語であるということを理解するまでに、時間がかかりました。

最近は、MAZDAの車のCMでよく耳にするのが、奥田民生の「風は西から」だったり、するんですよ。

♪ 明日へ つっぱしーれ

作用温度の略称 (Operative Temperature)

人間の感じ方を考慮した温度指標の一種ですね。

同じ気温なのに、人間の感じ方が違うという現実に対応するための指標です。

Wikipediaのリンク先には、計算式もちゃんと掲載されているので興味がある方はどうぞ。

効果温度ともいい、人体に対する温熱環境を評価する指標のひとつである。 気温が同じ室内であっても、壁面温度と周囲気流の状態により体感温度は違う。

これを加味し、周囲壁面との放射熱伝達と周囲気流との対流熱伝達と同じ量の熱交換をおこうなうような均一温度の閉鎖空間での仮想気温が作用温度である。
人体の発熱は評価されないため、気流による冷却効果は評価できない。そのため、この指標は暖房時に用いられる。

Wikipediaより

漁船の登録番号において大分県を表す識別標(漁船法施行規則13条・付録第二)

付録(第十三条関係)
一 漁船の登録番号は、当該登録に係る都道府県の識別標、漁船の等級標、横線及び漁船の番号を組み合せたものとし、その組み合せ例は、左の通りとする。
TK3―1234
二 前号の例において頭書のローマ字は、当該登録に係る都道府県の識別標であつて左の甲表に掲げる通りとし、ローマ字のつぎの数字は、漁船の等級標であつて左の乙表に掲げる通りとし、横線のつぎの数字は漁船の番号であつて当該登録に係る都道府県ごと及び漁船の等級ごとに一貫番号で定められるものとする。
甲表
都道府県名
識別標
都道府県名
識別標
北海道
HK
滋賀
SG
青森
AM
京都
KT
岩手
IT
大阪
OS
宮城
MG
兵庫
HG
秋田
AT
奈良
NR
山形
YM
和歌山
WK
福島
FS
鳥取
TT
茨城
IG
島根
SN
栃木
TG
岡山
OY
群馬
GM
広島
HS
埼玉
ST
山口
YG
千葉
CB
徳島
TO
東京
TK
香川
KA
神奈川
KN
愛媛
EH
新潟
NG
高知
KO
富山
TY
福岡
FO
石川
IK
佐賀
SA
福井
FK
長崎
NS
山梨
YN
熊本
KM
長野
NN
大分
OT
岐阜
GF
宮崎
MZ
静岡
SO
鹿児島
KG
愛知
AC
沖縄
ON
三重
ME

オフェンスタックル (offence tackle) – アメリカンフットボールのポジション

ラインの選手のうちのお二方のうちの一人ということです。

アメフトのルールがわからないと、わからないですね。

(特にアメリカンフットボールで)延長戦。Over timeの略。

まんまです。

特に書くことはありませんね。

光トポグラフィー(Optical Topography)

これは、脳科学に明るいOTじゃなくても聞いたことがあるOTかもしれません。

NIRSと同じだけど厳密には違うらしい。

近赤外光を用いて大脳皮質機能を脳表面に沿ってマッピングすることを目的とした方法である。また、光トポグラフィの語は日立製作所の登録商標であるが利用は公開されている。

wikipediaより

さすが日立。

インスパイア ざ ネクスト。

Old Testament

旧約聖書のこと。

最適性理論(Optimality Theory)

最適性理論とは,人間言語の普遍性を「すべての言語に共通の(普遍的な)制約の集合」によってとらえ,言語間の差異を「制約の優先順位の違い」として説明する新しい理論である。

ということで、言語を色々な数とすると、その数の最大公約数を見つけて、それに対してどのような積を処理すればその数になるか、というような考え方ですね。多分。

小田急多摩線を意味する記号

鉄オタじゃないので、初めて知りました。

作業療法および作業療法士の略称 (Occupational Therapy,Occupational Therapist)

やっぱりこれが大トリじゃないといけませんでしょう。

作業療法士には一番馴染みがある意味合いですからね。

まとめ

当たり前のように

OT

って使うけど、全然当たり前じゃなかった件。

わかってもらえるつもりで使わないことが大切ですね。

 

参考までに

作業療法と作業療法士に関する詳細な記事を、別の記事で書いていますので、是非ともよろしければご覧ください。

日本の作業療法士へ。「ウチの文化になじまない」と合理性を排除して衰退する作業療法士になるなかれ

作業療法士って、本質はコンサルですから。

ビジネス上適切な助言は、合理性に裏付けられている必要があります。

一方で、作業療法士には情緒的な助言を行う能力も極めて高い水準で要求されることも事実です。世の中が変わりつづていているのだから、提案する側もがっつり変化しないと奇妙な歪みが強まるばかりです。

加えて、情緒的になりすぎると身動きが取れなくなるのが、日本の組織文化であり、作業療法士が影響を受けやすいところでもあると思います。

どうしたら良いでしょうか。

適度に合理的にやる

作業療法士という仕事は、仕事の特性上完全に合理的にやるのは無理です。また、そんな作業療法はやってもつまらないし、つまらないということは結果が出ないと思います。

適度に合理的にやるには、日本という国の全体的な傾向を把握しておく必要があります。

日本人の傾向

日本人は本音と建て前の生き物ということになっています。

先日の相撲協会の後だごだも、由緒正しい日本文化です。

法律・法令よりも、身内の秩序が優先する。

つまりローカルールの方が、より強力な権限を持つということです。

身近な権威に、影響を受けやすい、もっと強い言葉を使えば支配されやすいということになると思います。

伝統ある国であれば、どこの国にもあることには違いないでしょうし、今更取り立てて問題にすることでもないのかもしれません。このシステムには、安定性という意味でそれなりに、利点があります。

しかし、反面で、合理的ではく、時に理不尽です。

先の相撲の話で言えば、先輩は後輩をボコボコにカラオケのリモコンで殴りつけても、不問にされていたかもしれないのです。

こうして、大きな組織であればあるほどに隠蔽体質が強化されていくことになります。いちいち細かな問題まで対処すると、仕事が増えて大変になりますから、「空気読めよ」ということになります。そうして、上の判断でもみ消されることが増えていくということです。

そういう雰囲気を感じるから、モリカケ問題やら、豊洲市場の話があそこまで大きな問題かのように扱われているわけです。実際に、どうかはわかりませんが、日本にはありとあらゆるところにそういう文化があります。

こういう組織は、急激には壊れませんが、「うちの文化には合わないから」と合理性を排除し続けることによって、徐々に緩やかな死を迎えることになります。

日本の地方の集落はまさに、良い具体例でしょう。若い人が寄り付かないのは、集落の人間関係が若い人に合わせて変わらないからであり、若い人のニーズなんて本当はどうでも良いからです。

日本の地方都市に未来がないのは、若者が好きな「合理性」をあまりに軽んじているからだと思います。文化や伝統の担い手の第一線にいる人たちが、口を揃えて言うのは伝統は革新とともにある、と言うことです。

ただうけつぐだけでは、どんどん衰退していくだけであると言うことを、一流の人々は肌身に感じているが故の言葉だと思います。常に世の中や顧客の変化に合わせて、自分が提供するもの、技、考え方も常に変化させて行かなければならないと、そう考えている。

一方で、「上から言われたから」と、ただ担っている人が大きな結果を残すことができるかと言えば、そうではないし、何かを変えろと言われてそれがすぐにできない、これが日本の現代病なのかなと思います。

作業療法士の世界にある非合理性

作業療法士という仕事は、人間を相手にする仕事です。

そして、対象者とその家族、同じ職場の人々との繋がりが、大切になる仕事です。

その人間関係の中には、非合理性がつきものです。それを併せ飲む度量が、作業療法士として仕事を続ける上では必要なのは間違いありません。

その一方で、変化を嫌う文化もあるようです。

冒頭で述べたように、顧客や社会の側が変わるなら、作業療法士は提供するものをどんどんと変化させていくことが必要です。

しかし、昔ながらのやり方に執着したり、今は必要とされないだろうところをゴールにしたり、過度に合理的だったり、極端に情緒的だったり、バランスが取れていない人が作業療法士にいないとはとても言えません。

というか、作業療法士という仕事の環境・特性上、そのような人々が一定数存在してしまうことは、これはどうしようもないことだと思います。

こういう意味での「非合理性」を伝統とするのは、あまり意味がないし、メリット何も感じないし、若い人から見ると泥舟だ、と感じるようです。

そうなると、なんだか怪しげなセミナーに頑張って通っている若手の療法士たちとかもいて、なんだかなーという感じです。もちろん本物もあるでしょう。そういう本物を見抜くためには、きちんとした形でのエビエンスが添えられているのかどうかというところが、大切になるのですが、そういう勉強はあまりしたくないと思うのが人情なのでしょうか。

どうも、怪しげな高額セミナーにうっかり行ってしまう人もいるみたいです。そういう人が、一生懸命な割にあまり成果が出せていないのを見ると、「そこじゃないんだよな」と悲しい気持ちになります。

コラム ボバース法のエビデンス

そんなもんと一緒にすると怒られるでしょうけれど、過去流行していたと伝え聞くボバース法に、エビデンスが確立したという話をついぞ聞いたことがありません。根拠なき、学説、仮説は、宗教と区別ができません。両方とも、存在証明ができなくて、結局対象となる人がどのように感じるかというスピリチュアルな世界の話となるからです。

もっとも、スピリチュアルな領域まできちんと責任範囲として抑えていくと、そういう気概を持って、リハビリテーション、運動療法をやるぶんには構わないでしょうけれど、「なんだか効果が出るらしい」と、インスタントな手技・主張に飛びつくのは、いけてないと思います。

これからの時代、その気になれば、個人でも統計データとってエビデンスを示していくことはできるんですから、非合理と合理性の間を縫って、作業療法士として楽しく仕事をするためには、そういうエビデンスという考え方をきちんと理解して「結果が出る」とは本当はどういうことなのかということについて、知っておくことが必要なのではないかと思います。

やりたいようにやったらいい

上記を、踏まえて作業療法士はどうするべきでしょうか。

ズバリ、やりたいようにやったらいい、です。

お忘れかもしれませんが、作業療法士という仕事は、売り手市場です。

万が一クビになっても、範囲を広げて探せば、次の職場はすぐに見つかります。

給与面を気にして毒饅頭を食い続けるのも悪くないですが、精神的健康を害してまで続けるべき仕事ってのはそうたくさんないだろうなと感じるのが私の思うところです。

結果を出せ

この結果というのは、単一顧客の治療効果のみならず、組織としての経営、もっと言えば売り上げにも貢献するような原動力となれ、ということです。

あるいは、組織として病んでるところを、作業療法士としてメスを入れていく、そういうあたらしい挑戦の中で結果を出していくことができれば、それもまた自分自身が作業療法士としてやっていく中での新しい力になると思います。

やりたいことをやるために、適度に合理的になれ、そして結果を出せってことです。

合理化を学べ

実践しなくてもいいから、知っておくだけでも全く違います。

例えば、電子カルテ。

このIT全盛の時代に、未だに、電子カルテじゃない病院なんて、かなりやばい病院と言わざるを得ないと思うのですが、やっぱりまだ存在するようです。

逆に、株式会社で訪問看護やってるところなんかは、出先でカルテの記入と、確認ができるように社員にタブレット端末を一人一台支給しているところもあって、差は現状でもすごいし、そういう法人間の格差というものは、今後ますます開いていくことになるのだろうなと思います。

電子カルテにすることで、余計な転記の手間も省くことができるし、月あたりにすれば相当な時間の人件費の削減に繋がると思うのです。けれどそれをしないということは、やっぱり人を守るというのは、そういうことなんでしょうか。これが終身雇用制ということなんでしょうか。

いやいや、そんな状況を肯定するのは流石にまずいでしょう。

世の中が変わっているのだから、地域社会に求められる医療機関・福祉サービス・公共サービスを提供するためには、サービス提供側が変わらないといけないと思います。

だから、作業療法士は、自分が就労しているところが、どんなところであろうと、業務の合理化を行う観点は常に持っておく必要があると思います。

そうして空いた時間を、しっかりと対象者の人のために使えるのが、本当の意味での合理化です。そうすれば、新しい結果に繋がるし、それをきちんとした形で発信して実績として残せば、それが病院の評判を挙げることにも繋がるはずです。

この視点が、そもそもわきまえてないというか、若いだけでわかってないと言われる類のものなのですが、どの業界人でもトップレベルの人は普通にやってることです。年は関係ないでしょう。決断し、やるかやらないかというそれだけの話です。

自分・同僚・先輩・部下をまとめて育成すべし

モチベーション下がってる人の心に火をつけるのはかなり大変ですし、その相手が特に保身や高い攻撃性を秘めている人の場合には、かなり高いリスクを伴いますが、周囲の人の相互的な関係性はとても大切です。

その関係を強化していくためには、良い結果に向けて動くことができる技術、技法を、仲間内でしっかりと共有すること。

そうすれば、誰かや自分自身がいずれいなくなったところで問題はないわけです。人がいないから仕事が回らないというのは、なんというか、職員の怠慢というよりも管理者のセンスのなさというか、不勉強さに寄るところが大きいと思います。

組織内の、人の滞留をなくして、対流をよくすることはとても大切です。

それに、ポジションや役職や、職場にしがみ付かないといけない人には、作業療法の対象となる人に、きちんとした治療を提供することは難しいと思います。

みんなで、まとめて成長するために、自分の学習成果や実績は、ノウハウとしてガンガン周りと共有してしまえばいいと思います。

まとめ

やりたい作業療法ができないと感じた時は、やりたいようにやってみるべし。

ただし、結果は出せ。

そのために、合理化・数値化・厳密化・実用化は常に心の片隅に。

今こそ、作業療法士が苦手な「お金の話」をしよう

作業療法士って、お金の話は、積極的にはしません。そこには色々な理由があると多います。そもそも、作業療法の世界がそういう業界じゃないですから、お金の追求は別にいいかな、という人が長く続ける職業という感じです。

でも「お金がない」という作業療法士が多いのもまた事実です。

そういう意味で、「お金の話」が苦手な作業療法士が多いと思ってますが、それもまた程度問題で、作業療法士として対象者の利益の最大化を考えるときに、やっぱり直視しないといけない現実としてのお金の話ってのはあると思うので、そんなことを書いてきます。

お金は何かを実現するためのパワー

なぜお金が重要なのかという話に、作業療法士はもっと注目するべきです。ここをないがしろにするから、いつまでたっても自分がやりたい作業療法ができないのかなあ、という場合を目にすることがありますから、最初に書いておきたいと思います。

お金は、やりたいことをやるための力になってくれます。つまり、自己実現の後ろ盾になってくれるのがお金ということになります。

「お金がなくても、物事を動かすことはできるじゃないか」

そういうご意見もあろうかと思います。

しかし、そういう人は、悩んでないのでこの記事にもあまり注目しないと思います。色々な人を巻き込んで、人を動かす力があれば、お金は必要ないからです。

しかし、それは新しいビジネスを自分で生み出す力以上の能力、特に瞬発力が必要で、お金で物事を動かすよりもはるかにハイレベルな実践が必要です。

つまり難易度でいうと

お金の力を介在させないで事象を動かす > お金を後ろ盾にして事象を動かす

であるということです。

作業療法士は、事象を変化させることによって世の中に貢献するのが仕事ですので、お金の持つパワーをどれだけ認識できているのかというのは、大きな視点での変化を捉えることができるかどうかに大きく影響するでしょう。

作業療法士の給料の決まり方

ということで、いきなりですが、お給料の決まり方です。

一応根拠はあるんですがぶっ飛ばして、結論だけ書きます。

作業療法士の給料は、保険などの点数から稼いできた額の約3分の1です。

真面目に臨床やっても、適当に臨床やっても単価に影響はない(!)ので、単位数をたくさん稼ぐ作業療法士の給料はいいです。

だから、交通事故の事故後後遺症のリハビリをやってて、それもガンガン単位を稼いでるようなところでもない限り、今後、保険点数をあてにするビジネスモデルの中で働く作業療法士の給与は、低下はしないまでも横ばいで、上がっていくことはありません。

作業療法士の生涯年収

ざっくり、作業療法士の税金や保険料さっ引かれる前の年間の給与の平均は400万円です。

そのように仮定して、22歳から定年65歳まで働くとすると、43年働くわけで、

生涯の給与は

400 × 43 万 =  17200万円

ということですね。

ここに退職金を加算したいところですが、どうせ大した金額じゃないと思われるので、

サラリーマンとしての作業療法士の生涯年収は、2億円もいかない

ということになります。

コラム サリーマンの生涯年収の平均

上記の額を多いと見るか少ないと見るかの議論はさておいて、参考となる比較対象の資料を提示しておきますね。

男性

中卒:2億0060万円
高卒:2億2090万円
専門・短大卒:2億2880万円
大卒:2億8510万円
平均退職年齢までの生涯年収の平均(退職金含む)

男性

中卒:2億2280万円
高卒:2億4490万円
専門・短大卒:2億5520万円
大卒:3億2030万円

https://gukkin222.com/archives/6392より

この資料を信じるなら、大卒作業療法士の生涯年収は、中卒者の生涯年収とトントン、もしくはそれ以下ということになりますね。

信じるか信じないかは、あなた次第です。

お金が欲しければ、転業しよう

現実の話をしなければなりません。

サラリーマン作業療法士は、稼げません。

例えば、どれだけ、良い作業療法をしても、点数は同じです。

この辺りで心がおれる、心優しく真面目な作業療法士を何人か見てきました。

給料の多寡に関わらず、いい臨床をしてればそれでいいと思うのですが、やはりメンタルにくるものがあるようです。「正直者がバカをみる」のはやはり人のやる気を著しく低下させますね。

しかし、上記のようなそもそものお金の流れを知っていれば、サラリーマン作業療法士という職業がお金を手にするには向いていない仕事なのは明らかなのです。

作業療法士という仕事の枠組みとシステムには、いい臨床をする作業療法士にインセンティブが働くようなデザインが欠如しているからです。

また、お金の流れもへんちくりんです。

商取引における対価としての金銭の流れは

顧客 →  提供する側

ですが、作業療法士においては、医療保険だと

顧客3割 →  病院など  →  レセプト → 保険7割 → 病院 → 作業療法士

という金銭の流れです。

顧客の支払ったお金が、作業療法士の手元にいくまでに、工程があるのがお判りいただけると思います。

これは、普通のビジネスの世界では、例えば営業・セールスの仕事をしている場合には、良い仕事をしていれば売り上げに応じて給与が変動するのが当たり前ですが、良い仕事をしてもそれが給与の上昇に直結しないことを意味しています。

作業療法士はこのような業界構造の中で働いていると言って良いと思います。

コラム ダイレクトな支払いにすれば色々捗る

上記のような問題は、お金の流れが複雑だから発生する話なのですから、シンプルにしてしまえば解決する問題です。

乱暴な話、もとより作業療法士の給与は、稼いだ点数の約3割なのだから、

顧客3割 → 作業療法士

となるような仕組みにしてしまえば、おそらく作業療法士のレベルやら水準やらは恐ろしいスピードで高まると思うのです。

その方が、国家財政にも優しいですしね。

もっともそうすると、倒産する病院や関連組織が大量発生することになるでしょう。ポジティブに捉えると、医療・社会保障の設計には無駄や改善の余地が含まれているという希望と見ることもできますね。

お金が欲しいという気持ちに蓋をしない

またまた、話は変わりますが、「お金が欲しい」と思うならその気持ちを作業療法士はもっと大切にするべきです。

その気持ちに蓋をして頑張り続けるのは、本当に精神衛生上良くないです。

「お金が欲しい」と感じるなら、そのためにしっかりと行動をしましょう。結果に繋がらなくても、そうやってやってみたことが自身の作業療法の幅を広げることに必ず繋がってきます。

更に言えば、もしあなたが作業療法士として良い仕事ができる頭があれば、やり方次第で本業以外で、色々な手段でお金が稼げる時代です。

「作業療法の仕事は素敵だけど、経済的に厳しいから続けられない」という事態になって、それが作業療法の対象者の方の不利益に繋がる可能性も軽減することができる可能性を考えると、作業療法士はもっと「お金が欲しい」という気持ちがあるならそれを大切にするべきだと思います。

特に、「先が見えない」と言ってる若手作業療法士においては特にそう言えると思います。先が見えないなら、自分の気持ちに基づいて、先を作っていくべきではないでしょうか。

受け身では、作業療法の世界も尻すぼみですし、お金の流れがない業界はやっぱり外から見て元気がないですし、お金好きな面白い人がよってこないですし、「お金が欲しい」を大切にすることによる、作業療法の対象者の方のメリットにもっと焦点を当てても良いと思います。

お金に縛られると、組織に縛られるのはなぜか

今度は、組織レベルのお金の話です。日本の組織の多くは、お金で成り立っています。また、存続可能性の高い組織には、ちゃんとしたお金の流れが確立しています。

ところで、先日、やばい組織の話を書きました。

いち作業療法士として、危険だと思う医療・介護・福祉の組織

どうしてこういう組織が生まれるかというと、組織を構成する人間のうち、その組織に依存する人間の割合が一定を超えるからです。

その依存とは、

居場所的な理由と、

もう一つ

金銭的な理由

があります。

居場所的な理由

狭い地域のコミュニティのようなものの延長線上に成り立っている組織には、居心地の良さを優先して合理性を犠牲にしている面があります。

お金の周りが悪くても組織が存続できるという、経営者からするとありがたい組織でもあり、所属する側からしても根本的変化がないので、安心感があります。

一方で人材の流動性が低下しがちで、フットワークが軽い優秀な人が流れ込んでくる可能性は下がりますし、時代の変化についていけない組織になる傾向が強いです。中小企業だけでなく、最近大企業でも挑戦や変化を嫌う雰囲気のところはあります。

先輩後輩などの縦の秩序が行き過ぎると、こういう組織になりがちです。

金銭的理由

安定して低賃金でも払ってもらえる方が安心という、そういう理由です。

主には実力的に、転職が不安だったり、近くにより良い職場が無い都市部じゃ無い場所に住んでいたりということになろうかと思います。

組織に縛られているようで実は依存しているのですが、なぜ依存するかというと、組織にお金の流れを委ね切ってしまうからです。それは、労働組合とかまた別のお話ですね。

作業療法士が転職できない、転職しないから

上記2つ「居場所」「金銭面」の理由から、組織に縛られ、お金に縛られしている作業療法士は多いでしょう。

つまり、労働市場において重用されるだけの実力をプレゼンできないので転職した時に、今と同じ待遇を得られる保証がないと感じていると、そういうやばい組織でもしがみつきたくなるということです。

自分の生活はもちろん、家族の生活がかかってると、なおのことです。

ぶっちゃけ時間もありません。

ですが、より良い待遇を求めて作業療法士が転職市場に果敢に挑戦するというのは正直ありだと思いますし、むしろこれから必要になってくる作業療法士の実力の一つなのではないかと思っています。

作業療法士が副業しないから

臨床の幅が広がったり、作業療法士として将来ご飯が食べられなくなった時に備えることができます。

その保険があると、心安く、やるべきと思うことに注力できます。

それが証拠にと言いますか、あくまで私見なんですけど、

「やめざるを得なくなったとしても、アレがあるから大丈夫」

という作業療法士の先生方はやっぱりご活躍される傾向にあると思います。

腹をくくって、作業療法に腰を据えることができるからでしょう。

若手作業療法士は、これから一生作業療法士するならその辺リスクテイクの方法の一つとして考えておくことが必要と思います。

中途半端にお金がモチベーションの作業療法士は今後割と大変な思いをすると思う

作業療法士で、「お金が得られないので夢が無い」と1000万円以上稼ぎたいからとサラリーマン作業療法士に別れを告げた人がいます。

同じ思いのまま、中途半端にサラリーマン作業療法士を続けても、これまで書いてきたように作業療法士はお金になりません。

確かに作業療法士の資格は手に職ですし、資格で食いっぱぐれない職業であることもまちがいありません。

しかし、「仕事がしたい」という気持ちがないと絶対に割に合わない仕事です。

中途半端にお金をモチベーションにして作業療法士を続けても良いことはありません。作業療法士やるなら、糊口をしのぐだけじゃもったいないですし、作業療法士がダラダラとお金のために仕事をすることはともすると作業療法対象者に多大なる不利益を与える構造に加担することにもつながりかねないことを心の何処かに置いておくことが必要と思います。

まとめ

もし、作業療法士を一生やるなら、

今後のお金の問題は

今避けて通れない。

いち作業療法士として、危険だと思う医療・介護・福祉の組織

お金儲けは必要ですが、行き過ぎると、不幸を振りまく存在になります。作業療法士の多くが働く、医療・介護・福祉の領域においてもそれは同様です。そういう危ない組織の見分け方を書きます。

あくまで、一個人の見解ですが、個人的な経験を共有して、ほかの人からの意見ももらいたいなと思って、いち作業療法士としての見解を書いていきたいと思います。

人の出入りが激しいのに、良い評判を聞かない会社

これは鉄板です。間違いありません。

見知った範囲の病院にしろ、施設にしろ、行政の委託にしろ、当てはまります。

ですので、これは間違いない法則だと思います。

人がたくさん入って、たくさんやめていくというだけでは、「ヤバい」とは思いません。いつでも求人があるからといって、ヤバい組織とは限らないと思います。なぜなら、その組織の要求水準が高くて、ついてこられなくてやめていく人が多いだけかもしれないからです。

例えば、プロ野球などの業界や、ファームと言われるようなコンサルタントの会社などは、たくさん優秀な人が入って、たくさんやめていきます。そういう組織は、悪い評判もありますが、反面良い評判もあるはずです。

しかし、良い評判が伝え聞こえてこない組織は本当に大変です。

「忙しいし、現場をなんとも思ってないかも」

そう考えることができるからです。

ですから、ヤバいのは、たくさん人がやめていくのに、いい評判が全くない組織です。

組織に属する前に、できる範囲で、できる限りの情報収集して良い評判が一つでも得られるかどうかというのは、大きなポイントだと思います。

未来を語れない上司

これは、組織に属してみないとわからないことではありますが、直近の上司と最高レベルの意思決定権を持つ人の振る舞いが組織の優劣を判断する大きな材料になります。

両方、いまいちだと思ったら転職を考えましょう。

一番わかりやすい判断材料としては、トップレベルの上司が3年後、5年後、10年後、20年後のビジョンを語れないともうアウトです。

それもなしに、来年のことを語っているトップは結局のところ何もわかっていないのと同じと判断されても仕方がないのだろうなと思います。

何が正しいかなんて誰にもわかるはずはない、というのは、確かにそうです。

しかし、それでも「こうなっていたい」「こういうポジションを占めたい」という欲求を持ったリーダーがいない組織は、よほど恵まれた人材がいないとただの烏合の集になってしまいがちです。社会貢献のできない組織は、ただの金儲け団体になってしまいがちです。

恵まれた人材も、その力を発揮しきることなく、時間ばかりを浪費してしまうことになるでしょう。

ましてや末端社員が方向性のマネジメントができるわけもないので、病院だったらドクターやら、院長、法人の理事・役員・理事長、株式会社なら株主様がどういう方向性やビジョンを持ってるのかを見抜こうとする努力は必要かなと思います。

変わろうとしない中堅以上、お局様

昔に固執して、いろいろな人のやる気を削ぐ人がいるとまずいです。

若手がどんどんやめていきます。

あるいは、働く若手が仕事に一生懸命にならなくなります。

そういう人に対して、人事権のある人物がきちんと権限を行使できない組織は、ダメな組織です。

経営者と繋がりがあるとかなんとかで、グダグダしている組織は最悪ですね。馴れ合いと忖度で、合理性のない組織が出来上がります。

勉強しない若手

専門職として、必要最低限のことは学校で学ぶとして、それでは全然足りないのにもかかわらず、全くその必要性を感じない若手ばかりの職場はアウトです。

そういう人が、将来役職について組織がまともに回るはずがありません。

まさに泥舟なので、沈む前に他の船にうつるなり、自分で泳げるように泳ぎの練習をするなりしておきましょう。

対象者不在の組織理論

これが最悪の組織です。

顧客からの意見をないがしろにする組織は、だめダメです。

利益優先の組織は、国とか保険とか制度ばかりをみて、対象者の結果に責任を持つことは二の次だったりします。

最悪です。

自分が、そういう組織のお客になってみるのが一番手っ取り早いのですが、できればそういう情報収集をしてみていただければなと思います。

まとめ

結局、人がしっかりとしていれば、組織はしっかりするもの

作業療法士はそこをみぬかなきゃ

なぜ「作業療法士でガンガンやってる人は、研修会を大切にする」のか

作業療法の世界で活躍していると目されている人は、作業療法士の本業と一緒に、研修会を主催したり参加したり、飲み会を企画したり、なんか色々やってますよね。

なんででしょう。

知り合いが増える

他の仕事でも一緒ですが、人との繋がりが活かせる仕事です。

外の人をどれくらい知っているかで、仕事の進捗が変わりますから、必然そのような場に行けるかどうかってのは非常に大きなポイントになるんだと思います。

後述しますけれど、知り合いが多いほど、その人から受ける刺激も多面的になり自分自身の成長にもつながりますし、逆に自分自身がスキルを発揮して、自分の活躍の場所を広げるきっかけを作ることにもなるのではないかと思います。

知識のアップデート

作業療法士の知識は、他の医療職がそうであるように更新しないと錆びます。

錆びるというのは、通用しなくなるということです。

以前、王道と言われていたやり方は、むしろ害のあるもので推奨されないということになることすらあります。

そういう情報は、現状研修会などで、先端の情報を持ってる人に接触しないと得難いというのが現状かもしれません。

お金になる

これは主催したり、主催者から読んでもらえる側の話になるのですけれども。

生活が成り立つまではいかないと思いますが、講演すれば謝礼がもらえるし、主催して人が集まるならば、その繋がりを生かして、新しい企画を進めたりもできるというわけです。

そのつながりで本を出版したりとかすれば、それで印税が入ってくるわけですよね。

お金ってのは、自分がやりたいことを貫くための原動力です。

やりたいことがたくさんある人は、そのことがわかっておられるのかなと思います。

自分自身という人間の器を強化する

先ほどの卒後教育の話とも一部重複するかもしれませんが、一つの職場で必死になって仕事をしていると、視野が狭窄してしまいがちです。

幅広い視点を持ったりとか、柔軟性を失わないとかいった意味での、自分自身の人間としての器をより大きなものとする、またそれを維持するためには、新しい人との出会いや、新しい事柄への挑戦というのは非常に大切です。

リハビリテーションの本質は、変化に対する挑戦であり、作業療法の本質の一つでもあります。

だからこそ、職業人としてはもちろん、さらなる人間としての成長を目指して、仕事のできる作業療法士こそ、色々なところに飛び回っておられるんだろうなと思います。

自分の知見を広める

作業療法士としての仕事で一番難しいと感じるのは、自分の治療経験や体験を一般化して、他の作業療法士にうまく伝えたり、他の職種や家族に対して、適切な深さで説明ができることです。

新卒の頃に比べれば幾分かできるようになったという自己評価ですが、それでもまだまだ、「相手目線での説明」はできていないように思います。

自分の理解を、自分の言葉で整理し、それを他者に伝える。その人から帰ってきた意見を消化して、相手に伝わるように言葉を返す。

この繰り返しの中で、新しい気づきが得られたり、自分の知見を広めることになります。

これからの作業療法士にはこの能力を徹底して強化していくことが必要なのではと感じています。

コラム やっぱり人材不足

研修会のモチベーションの話とは少し外れますけれど、やっぱり大事な話なので作業療法士の人材不足、特に外に出ていく作業療法士の数は、やはりまだまだ足りていないというふうに感じますという話を書かせてください。

なぜかといえば、自分の周囲で作業療法士の活躍を、一般の人から見聞きすることがないからです。

作業療法士という職業について知っている人は、医療関係の仕事をしたことがある人が圧倒的に多いという状況は、私が就職してからの数年間全く変わっていません。

作業療法士自体の数は増えているにもかかわらず、です。

これは、組織の後ろ盾なくとも、社会に打って出られる水準の作業療法士の数が十分でないというふうに見るのが妥当です。

であるなら、もっと作業療法士は、色々な研修会に出ていく必要があると思っています。研修会に参加する人って結構同じ顔ぶれだったりするので、いくたびに違う人がいるってなると、その研修会自体も面白いし、職場の空気感も変わるかもしれないし、作業療法業界も変わるかもしれません。

その辺、全ての作業療法士がMTDLP(生活行為向上マネジメント)なんかをうまく使って繋がれればいいと思うんですけど、どうもそうなっていないのが現実です。

これはやはりサラリーマン作業療法士が多いことと、MTDLPの学習コストが高いことにあると思います。

便利なテクノロジーがたくさんあるのですから、その辺をうまく活用して、忙しい作業療法士でも手軽で安価に勉強ができるような環境を整えることで、必要な武器をしっかりと持って自信を持って地域にうって出ることができる、そういう作業療法士が増えたらいいな、と個人的には思っております。

そのためにこのサイトを活用してもらえたらいいなというのも個人的な思いですね。

ライフワーク

研修会に参加するのが癖になっている人も、いるのではないかと思います。

抜けたくても抜けられない的な。

これも、一種の人材不足でしょうか。

 

総括

こうやってずらりと見てみると、やはり研修会への参加を検討するのは、「作業療法士として成長したい」という、何らかの思いがあるからではないかと思います。

そして、作業療法士として自信を持って活躍している人は、自信を持ってひとの集まるところに行ってますし、研修会は結局のところそのうちの一つでしかないということだと思います。

逆説的に、自信を持って作業療法士をやっていきたいと思うなら、ライフワークになるくらい、自分で研修会に関わっていくくらいのことが必要になるのかもしれません。

しかし、作業療法士として必要な技能の全てが研修会で補えると思いませんし、むしろそれらを追求するなれば、学術的な視点の外側から、作業というものをしっかりと突き詰める必要があるように思います。

コラム 作業の「底」

「底」っていうのは、基盤ですね。

いろんなところで、いろんな遊びを具体的にやっておくという経験が作業の底になると思います。

とにかく、都市部で育つと遊びの幅が狭くなりがちなので、この底をどのように固めるかってのが、作業療法士として楽しく働くための、一つの鍵になると思っています。

まとめ

研修会に行っとけば、研修会に行かないよりは、作業療法士として成長できる。

しかし、作業療法士としての成長は研修会にいくのみにあらず。

「WHOがコンピュータゲーム依存症を精神疾患認定へ。」にいち作業療法士として思うこと

ご紹介する内容については、年明け前からの情報になるのであらかじめご容赦いただきたいと思いますが、この内容は、いち作業療法士としましては「そりゃそうだ。の一言に尽きます。あくまで、いち作業療法士の意見ですが。世の中が変化しても、人間が大きく変わるわけではないというところがポイントです。

WHO国(世界保健機関)が国際疾病分類(ICD-11)でゲーム依存症を精神疾患へ認定へ

現代病とも言える、ゲーム依存症がついに、世界の保健政策の総本山であるWHOに公式認定されるに至りました。

問題意識を国際団体が公式に認めるというのは、トップダウン的な影響力を考えると非常に意義があると言えます。

コラム 依存症の影響

アルコール、薬物、ニコチン、などなど、依存の対象になるものによって、色々な種類の依存症が存在しています。

生活全体の時間やお金というリソースのうち、その大部分を依存先へ投下し、生活が崩壊するのが依存症と言えるでしょう。

病名は付いていなくても、なんらかの依存がある方も多いです。生活の偏りとでもいいましょうか。

個人的には、社会が依存症の方を支援するという姿勢で臨むなら、依存症というもの全般を問題視するべきと思ってるので、今回の認定は好ましく思います。

 

コンピュータゲーム依存症とは

認定基準は、以下のような感じだそうです。

ゲームにあまりに多くの時間を費やし、これが「生活の他の関心事より優先する場合」依存症とする。

https://jp.sputniknews.com/science/201712234410308/より

コンピュータゲーム依存症と診断されたら

こんな感じみたいです。

依存症を完治するためには1年間にわたって医師の監視下に置かれねばならない

https://jp.sputniknews.com/science/201712234410308/より

効果的なシステムを構築してくことが大事でしょうね。

コラム 依存症で困るのは誰か

依存症で困るのは誰でしょうか。

もちろん、依存で、本人が困ることもあります。

しかし、本人以外の人が困ることも多いのです。

本人の生活バランスの崩れが周囲の人間や、コミュニティの崩壊をもたらすことも少なくなく、本人は全く困っていなくて、周囲が困ってるということもあります。

もし、依存症の本人の判断、決定、行動の自由を尊重するのであれば、完全放置で自己責任という話になります。

しかし、法律などで保護の必要性が認められれば本人のそうした権利を周囲が適切に制限することを、今の世の中は認めています。

依存症も、結局は自己管理の障害と言えます。

ご本人が自己管理ができるまで、周囲をどう支えるか、それまで本人の権利はどの程度までの制限が許されるのか。

結構その辺の運用は、よく言えば柔軟、悪く言えば適当なのかもしれません。

また、ICFで言えば、「参加」の障害ということになると思います。そういう目線で言えば、作業療法士としては困ってるよねと思うんですけど、そこを本人とすり合わせるのは本当に大変ですし、根気と覚悟がいりますね。

 

作業療法とパソコンゲーム依存症

依存症治療で作業療法士が一番よく関わるのは、アルコールと、その他の薬物依存ではないでしょうか。ちゃんとした統計データは探してないですが、自分の身の回りで言えばそういう感じです。

しかし、引きこもりの人は、パソコンインターネットスマホになるんじゃないかという人が多いです。

「本人の意思決定の自由なんだからほっとけば」

という目もありましょう。

本人が困ってないなら、いいじゃないかというのは最もな意見です。

しかし、上記のコラムにも書いたように、本人の「参加」が制限された状態ってどうなのという建前と、周囲の人間やら行政への負担を考えるといつか支援が途絶えて生活ができなくなってしまうというリスクを考えると、どう考えてもそのままでいいとは思えないのです。

引きこもりの人の中には、生活保護で、四六時中ネットゲームに勤しんでいる人もいますが、一生そのまま生活できる保証はないわけです。

日本の生活保護の質は今後上向く可能性はなく、むしろ下降傾向でしょうから、本人の意思決定だからと放置しておくと、いずれ対処できない問題として立ち現れてくる可能性が高いです。

そこに対して、作業療法士はアウトリーチ型の関わりを行ったり、就労支援などの枠組みで関わっていくことができれば良いと思います。

とりあえず自分に出来ることはネットでの情報発信

とは言え、パソコンゲームに熱中している人たちの傾向として、生の人間と関わるよりも、インターネット上のコンテンツの方がストレスなく摂取出来るよっ、っていう人も多いです。

リアルな人間が、密に関わる前に、ネット上で「つなぎ」になるようなコンテンツがあれば、色々捗るのかなと思います。

ですので、個人的には頑張って情報発信していきたいと思います。

そうやって、人と繋がりたいと思ってくれる依存症の人がいればいいなと思います。

参考資料

ねほりんぱほりん ”ネトゲ廃人”

NHKの尖った番組の一つである、「ねほりんぱほりん」に、ネットゲーム依存症な人が登場したことがあります。

あくまで頂点の人の例ですが、こういう人もいるよ、ということでズルズルとネットゲームを続けるから一概に悪いということもありません。

ただし、頂点に立たなければ彼のような生活はできないことを考えると現実的ではないですね。

©︎NHK

WHOの定義だと完全に生活は崩壊していると言って差し支えないと思います。

NHK公式のテキストで読めます。読んでみてください。

スプートニク日本

https://jp.sputniknews.com/science/201712234410308/