矛盾の解決に必要な次元の概念の導入の難しさ

情報を増やすという矛盾解決方法

論理の矛盾を解決法に、次元を導入する方法があります。

溺れるAさんを目の前にして、Bさんが何もしなかったとしたら、Bさんは罪に問われます。(不作為)

一方で、Bさんも、溺れていたりした時には、罪に問われることはありません。助ける余裕がないからです。

Aさんの状態という情報にたいして、Bさんがその時どうだったかという情報を付与することで、Bさんは罪に問われないわけです。

一見すると当たり前のようでいて、これは状況によってというか、前提が変われば、同じ行為をしていたとしても、評価が変わりうるという意味での矛盾が発生するわけです。

それが、矛盾と感じられないのは、Bさん自身の状態がAさんを助けることができるかどうかに大きく影響する、という感覚が前提として私たちに備わっているからと言えます。

べつの言い方をすると、これは、情報の量を増やしてやることで、分けて考えることができるということですね。

とりあえず、そういう方法があるということを認識しておくことが大切です。

なぜなら、それによって前提条件を確認することの大切さに常に思いを馳せることができるからです。

馬の顔を蹴った騎手

先に述べたように、大きな世界で矛盾することであったとしても、条件がつけばアリになることはあるのですね。

そのことを踏まえて下記の話を読んでみていただきたいのです。

競馬の話です。レースに関連して、ある騎手が、馬の顔を思い切り蹴飛ばしました。

そして、その行為について「動物虐待だ!」と非難が起こり、一部で炎上が発生しました。

さて、何もないのに馬の顔を蹴飛ばしたら、それは確かに動物虐待かもしれません。しかし、前述のように、この話を読み解くには前提となる知識が必要でした。

この馬は、砂地に顔を突っ込んでおり、窒息死や肺の中に砂を取り込んでしまい後遺症が心配される状況で一刻も早く、顔を砂地から出すことが必要であったのです。

このような情報が前提にあったとして、馬の顔を蹴った騎手の判断を、これを読んでいるあなたはどのように感じるでしょうか。

さて、なお、騎手の方に対する監督者の反応は、

市ばんえい振興課は「いかなる理由であれ認められない」として、同騎手は戒告処分。

ということです。

つまり、矛盾です。

馬が深刻な後遺症を抱えるかも知れなかった深刻な状況から馬を救出したはずの騎手が、なぜか逆に処罰されるという矛盾した状況が発生していると言えるわけですね。

この矛盾の問題を解決するには、きちんと前提条件として、命が優先される場合には、どんな手段を用いても命を救う行為を優先することにしましょう、ということが共有されていることが必要だったと言えるわけです。

感情的になると前提条件が抜け落ちる

さて、動物の顔を蹴るという一部分だけを抜き出して、そこに怒りを覚えてしまうと、それが救命の手段であったという前提条件に、自ら気づいて目を向けることは大変難しくなります。

感情的になると、善悪の判断は容易に変わってしまうことになります。

情報量が善悪の判断を本質的に左右する

ただし、善悪の判断が変わることの本質は感情的になることにあるのではありません。

その本質は、脳内に取り込んで処理する情報の量とその関連付けに左右されます。

感情的になると、扱える情報量が下がるから、判定が変わるのですね。

つまり、感情的でなくても、扱える情報量が少ない場合には、安定した信頼性の高い判断ができないということになります。

脳内で扱える情報量は一朝一夕には増えない

一方で、成長段階の人ならまだしも、情報処理能力、つまり人が単位時間あたりに脳内で扱うことができる情報量が、急激に増えることはあまり考えられません。

これは、善悪の判断を安定させることが難しい人が世の中にどうしても一定数いるということの根拠になりえます。状況や前提が、不変であることは、自由度がますます高まる現代社会においてはありえないからです。

変わり続ける前提条件や価値観を常に取り入れて、自分の中の判断材料をアップデートさせることでしか、安定し信頼性の高い判断を下すことはできません。

そのために必要最低限の情報処理能力が不足している場合には、善悪の判断も安定して行うことが難しいと考えられます。

判定や判断が困難で、矛盾や問題解決が難しい人が指導的立場になり得る社会

現代日本社会においては、ある組織のマネジメントは、その組織のマネージャーが優秀かどうかによって決定されます。

上記の競馬の管理者のように状況の整理が下手だと、保身ないし見通しの悪さによって、本来動物の命を救うという行為をした人が罰せられるという後味のわるい結果となってしまうこともあります。

こういう例はマネージャーが優秀ではない例といえます。

つまり、こういう人でも管理者に居座ってしまう可能性があるのが、現代日本社会であるといえます。

そして、その上の管理者がしっかりしていないと、全体的に滞ることになるわけですね。

学歴や年数以外の本質的なものを前提にしないとうまくいかない

上記までの話として、矛盾や問題は、次元を導入すると解決できること。その次元というのは、情報量が増えるということ。増えた情報量がうまく扱えるかどうかというのは、感情的かどうかということよりもそもそもの単位時間あたりの情報処理能力に左右されることに言及してきました。

それをふまえると、業務量やその複雑さが、すくなかったり簡単だったりすると、必要となる情報処理能力は少ないし、その逆であればどんどん問題を解決したり、まとめたり、仕組みをつくったり、判断を下したりということが必要になるわけですね。

そして、その能力というのは、学歴や年数が保証してくれるものではないのですね。

相関はするかもしれませんが、それによって検証が必要なくなるというものでもないわけです。

しかしその検証をやりきらない

しっかりと、状況証拠を集めることと、必要な投資を得るためにアクションを起こすことが大切なのはいうまでもありませんが。

まずは、しっかりと情報処理能力と業務量と質のバランスの関係について評価できるようになることが、大切と思われます。

作業療法の枠組みにとどまらず、現実社会においても普遍的な内容とおもわれます。

さもなければ、上記の騎手のように正直者が本来評価されるべき事柄で、批判者の声が大きかったり、面倒ごとを避けようとするモチベーションの結果として、全く逆の評価評定をうけるという不正義が罷り通る、温床を黙認することにつながります。

そういう状況が日本社会においては、顧客利益のために非情になりきれない日本の組織においては身内可愛さのためにありがちです。

きちんと検証し切って、判断や裁定をくだせるように、自分自身の判断力とメンタルを研磨しておくことが必要でしょう。

守りに入りすぎて、逆に状況を悪化させる人は、検証をすることをあえてさけているうちに、そもそもの検証能力が鈍ってきている人が多いです。

論理は淡々と扱う

本来たすけるべき相手を見誤らないこと、顧客利益を主たる目的に据え、中長期的視点でそこに合致しない判断や判定をする比率を下げるべく、淡々と組織を整理整頓することが大切ですし、そのために必要な前提となる情報を十分に自分の中に取り入れる学びを止めず、その結果当然導かれる答えがすでに存在する社会規範と矛盾することはよくある話です。

その時には、本来の顧客は誰なのかという大前提を、周知確認徹底すること、その組織の存在意義となっている根本の論理をしっかりと踏まえて理論武装することが大切になります。

また、そのための状況証拠を論理に基づいて淡々と収集することも大切です。

論理の骨格に感情の皮を被せていくと過剰になる

「騎手の監督者は、最低だ、命よりも自分の保身のことにしか興味がない。悲しくなる、人として恥ずかしいとおもわないのか。」

と、正論を背景として、そこに「人として」などのように感情論を纏わせて過剰に追い詰める人もいます。

個人的にはやりすぎだと思いますし、そのような言い方をされる相手も、感情的に防御反応をとるので、前提条件を十分に踏まえた論理的思考をとることが困難になります。

組織としての生産性は間違いなく低下しますので、感情に配慮するなら

「世間の批判から、馬と騎手を守ろうとしたのは立派だと思います」などのように相手を認めるところから入るがセオリーですよね。

矛盾解決は前提条件や例外で処理する

矛盾解決は、実は、難しいことはひとつもありません。私たちは普段から、矛盾解決をしています。

たとえば。

「常に、命は平等」、という建前がありますが、それが本当なら、よく美談として扱われる「自分の命を犠牲にして子供の命を守る親」などの感動系物語のテンプレートは、成立しません。立腹の対象です。命は平等なのに、誰かを犠牲にして誰かが助かるなんてまちがっていると立腹するべきです。

「親が自分の命を犠牲にしてでも、自分の子供を守ろうとするのは尊い」

という無意識の価値観は、「命は皆平等」という概念とは論理的には矛盾しないとおかしいのです。

しかし、ハリウッド映画の感動系の物語のプロットとして自己犠牲はつきものですよね。おかしいですね。という、構造論にはいやいやでも納得される人も多いのではと思います。

人間の認知は、じつは無意識的に「わたしだけはちがう」などのように自分に都合の良いように前提条件を買ってにつくって矛盾解決をする仕組みが備わっています。

上記の例では、「自ら進んで次世代や大切な人のために犠牲になる精神素晴らしい」という価値観があり、その前では「命は皆平等」という価値観は軽視される傾向にあるということですね。このように重み付けを無意識で行い条件分岐をすることで、矛盾を回避しているわけです。

私たち人間は、そのような認知を無意識・自動で行うことで、日常生活におけるストレスの量を下げるわけですね。

「人間いつ死ぬかわからない」が論理的に正しいとしつつも、「でもわたしはちがう」と無意識下で無根拠に例外処理をすることで、論理矛盾を解決するわけです。

ここが無意識なのが、差別問題などにも直結するのですが、それは別の機会に譲ります。

難しいのは矛盾解決の論理構造を意識下でつかいこなすこと

必要なものは

・感情のコントロール

・論理的思考

・そのための材料となる情報を十分に収集する能力

・上記を検証するメタ思考能力

これが全部行える人材は少ないと思われます。

またできないひとができるようになるには、相当な意識と努力が必要な場合も。それを全ての人に強いることはできないので、難しいとは言えます。

明日からできたら良いのは、自分で判断しようとすること

難しいからと思考を止めると、最初の騎手さんのような悲劇が起こり続けます。

そうならないためには、何ができるでしょうか。

優秀な人がマネージャーに収まる方向に物事を動かしていくことが大切です。

一つ前の項で述べたような素質を備えている人が、マネージャーとして腕が振るいやすいように空気感を整えることと、自分にとって都合が良いかではなく組織としての価値観に合致しているかどうかの文脈において善良かどうかを判定して、支持不支持を明確にすることができることは必要ですね。


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