どこの業界も一部のできる人が帳尻を合わせている

優秀な人ってある日突然いなくなるんですよね。本当に。毎回びっくりします。

まとめ

できる人がなんとかしてくれていることは、認識されないことが多い

その人がいなくなったとき、すべてが終わる

ただ、感謝を。

以下、そうならないためにとても大事なこと

前提 各自、自分自身が「できない側」と認めること

本来、これだけで文章が無限に書ける。

なので、ただ端的に。

自分自身が、仕事ができないと認めることができない人は多い。

そしてもうひとつ、出来ないと認めることができる人は強い。認めるひとは次々成長して次にいく。

できない人は、その場にたたずみ続ける。

眺めることしかできないで、その状況も理解でいないで「できる側の人」へ嫉妬する。ひどくなると攻撃する。顧客目線から見るとたまったものではない話。

でも現実としてそのような構図はあり続ける。

根本的解決としては、攻撃的ひとが、自分自身のできなさを含めて、自分自身をキチンと愛する方法を知ることにしかない。そのためにも偽りなく、出来なさを認める。これが大事。

管理職が本来やるべき仕事の話

それができない場合は、出来なさが認められるように管理者が、業務デザインできる能力が必要。組織に人間を合わせるのではなく、人間に合わせて組織をリデザインできる能力が本来は必要。

本題としての、帳尻合わせてくれる優秀な人が組織から出て行ってしまう要因

「できない人」が、直接顧客サービスに影響しない部分でローカルルールに依存してしまっていること。

だから、どこでもやっていける優秀な人は、そこじゃなくてもいいからどこかに行ってしまう。

そうして取り残された組織では、「人が定着しない」や「人が足りない」の怨嗟が渦巻く。その要因は、明らかに残された側にあるのに、そしてそのことを自覚しているからこそ、何かのせいにして自分を守る。だから成長もしない。

当然人は定着しない。少子高齢時代には、このような既存のやり方は詰むのですが、どの組織もそこまでの危機感を持っているようには感じません。

本来は10~20年後を見通したリクルートなどが重要になるのですが、取り組んでいる企業がどれくらいあるのか・・・。

大体のことはできる人が黙って何とかしてくれている

できないことをできないと認める人が多くてもそれなりに回る。

それはなぜかというと、出来る人がいるから。

できる人が、素早く正確にできることを、こなしてくれるから何とかなる。

参考:https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/2210/02/news054.html

横暴な人にはできる人を見繕い換装可能にする能力がある

よくある、ブラック企業の社長などが典型的な人物像。

人を自分の道具としてみなして、苛烈なストレスを与えているのに企業にひとが従属して働いているのはなぜか?と考えたことはありますでしょうか。

人が離れていくほどのストレスを振りまきながらも、事業や組織の中心にいる人には、アウトプットに必要な要素をそろえたり全体の絵図を整える力がある。

もちろんどんな経営者やリーダーであっても、どれほど自分自身が、優秀なところからスタートしていたとしても、ありとあらゆる場面ですべてを自分で何とかできるわけではない。

もし、口うるさいだけで、過剰な要求をするリーダーが組織に影響を与えるとしたら、それは事業拡大のフェーズの終了とともに、おそらく離職率が高くなる形で影響する。個々のプレイヤーが有能であることを背景とした組織での生産性など、よほど斬新な新規性がない限りたがかしれている。

ただ、そのような横暴は、本来圧倒的な結果か、金銭的賃金がないと成り立たない構造のはずなのに、最近はいろいろなところで散見される。単純な搾取以下の能力不足によるものであるわけですが、本当にいろいろなところに存在しています。

こういうゆがみは使う側の人間からするととてもありがたいし、起業する側からするとチャンスです。不当な対価でも、相手が納得了承すればその対価で相手の人生を拘束し生産性をささげさせることができるのですから。

裏をかえせば、使われる側人が気を付けておけばよかったりする。でもそれが難しい。自分に適切な自身がない人は自分がどれだけ優秀な人間なのかということをきちんと理解することができません。過去に具体的にその人に対して「あなたはできる人である」と切々と説き、長い時間をともにしたことがありましたが、その時は改善につながらなかったように思います。現在その人とは連絡を取ることもできていません。

はたして、雇用する側と雇用される側のそういう不均衡は、なかなかどうにもならない。「自由」ですから、となる。本質的な部分は、結局人間個人個人が持つ能力や特性による差ということになりますので、自由にふるまえば自然と差が開くので、それを問題視するのもなんだか変なのですが、そこの違和感を持つこともなく、「自由」が欲しいという人は多いです。

いつか、すべての人にとっての「自由」これを解決できるひが来ると良いと思っています。

そういうストレッサーな人のあれこれを何とかする人がいる

話を戻しますが、ストレス満載な人でも、企業や組織の真ん中に収まれるのはなぜかというはなしですが、そういう振りまいたストレスや、不具合が放置されたままだとすぐに組織や企業は行き詰まって、崩壊してしまいます。

では、じゃあなぜそういう組織がすぐになくなってしまわないのかというと、やっぱりそれをどこかしらで支えている人がいるからです。しかもそれが管理職とは限らず、末端のヒラでだったりします。というか、組織上層部がそのような問題を適切認識できない場合には、役職手当なしでそのあたりの仕事をしている場合がほとんどです。

じゃあそんな企業やめてしまえ、といわれるかもしれませんが、なぜか皆さん辞めずにしごとされています。そのモチベーションは、顧客に対する責任感だったりいろいろです。

しかし、その責任感が上と共有されていない個人依存の因子である以上、そしてそういう人がいなくなるとその組織は、いとも簡単にあっさり終わったり斜陽するので、やっぱり持続可能性をどのようにデザインするかということはとても大切だなあと思います。

人を対象にした事業ほどそうであると思われます。

平社員同士で黙って有能な仕事をしてくれる人へ、嫉妬ではなく、ただ感謝を

ここが一番大切なポイントです。

その組織を何とかしてくれている、人が、見抜けない人のほうが多いと思います。

ですから、すべての仕事仲間に感謝を持つのが一番良い解決方法だろうなと思います。

そうするためには、「嫉妬」は少し邪魔な感情になります。

できる人への嫉妬は、自分の頑張りの原動力にする以外は、手放してしまうほうが得策です。

嫉妬で転落する自分の人生 瓦解する組織

他人の足を引っ張るほうに使った瞬間から、人生の転落が始まります。

嫉妬自体は、手塚治虫もよくしていたといいますし、才能の有無とは関係ありません。

才能があろうと嫉妬することから無縁でいられない人はたくさんいます。

だから、嫉妬が悪い、という発想をする必要はないです。

嫉妬の感情エネルギーをコントロールすることができないで、適当に発散してしまうことは悪いことです。

黙って仕事をしてくれる優秀な人の存在がいなくなると、前述の通りの組織であれば、割と速い速度で崩壊します。

あなたの居場所を守ってくれているのは、あなたが嫉妬対象にしているその人である可能性が高いです。

どのような組織に属するかで、収入の具合が変わる現代社会においてはこの意味するところは大きいはずなのですが、このことがわからないままに学生時代のノリをそのままに働く人は多いのが実情かもしれません。

優秀で転職可能なはずのその人がその職場で働き続けることへのモチベーションは?

そもそもそういう人がなんでその組織に残っているのか、きちんと疑問に思ったことはあるでしょうか。

もちろん、そこには、仕事へのやりがいがあるかもしれません。

あるいは、その人自身がその組織そのものに恩義を感じているからというのがあるからかもしれません。

しかし、自分が知り合った有能で黙って仕事をしている人のほとんどすべては、それよりも顧客に対する責任感であったり、自分がいなくなったあとでどういう事態が発生するかということが容易に想像できるからでした。

大体、そうなんでは、ないでしょうか。とくに、医療福祉介護系は、やりがいというか楽しさよりも責任感みたいなもので仕事を回していることが多いかもしれません。そのようなものは何の経済的利益も生みませんが、とにかく生き様の問題になってきますので、そういう生き様を自分の意志で選択したいとおもって継続している方が多いように個人的には思います。

だってその人は、その職場じゃなくても結果を出すことが可能な程度には優秀なわけです。ストレッサーが多いならば、その職場にとどまる理由はありません。

むしろ優秀なんだから、少子社会であれば、転職すれば給料も待遇も上がるのに、そこに踏みとどまってるのはなぜでしょうか。それは、その人が優しいからか、その組織から離れられないような何らかの弱みがあるか、はたまたはその人はストレッサーに対して特に何も感じていないしそもそもが優秀だからまわりが思うほどに、頑張っているつもりもないかの、どれかなのではないでしょうか。

一番最後の人材足りえるほど優秀なひとは、正直そういう気質がないだけで能力的には起業なども十分に可能な力があると思います。なので、もし、いよいよ、となったら我慢せずに自分が自由を感じられるようにいきられる場所を探すか、どんな場所でも自分がうまくやっていけるように環境を最適化するのだと思います。

帳尻合わせをしてくれる優秀な人が組織を離れることは大部分の人にとってデメリットしかないという認識を組織に属するすべての人が共有を一つにするべき

「なんかよくわからないけどすごい人」っていませんか。

そういう人を自分の物差しで測って「なんでそういうことをするのか」といらだつことってありますよね。

でもそういう人が組織からいなくなったら、企業競争力が激減するんでしょう。

だから、そうですね。

そういう思考の次元が高い人を自分の枠組みでとらえることには何のメリットもありません。干渉せず自由にさせ、アウトプットの期限だけ区切って、適宜周知と報告をしてもらえばそれで充分として、あとは自由に帳尻あわせにいそしんでもらうことが大切なようです。

いちプレイヤーとして

嫉妬を手放して、ただ、一緒にいて仕事をしてもらえることに感謝したい。

そういうことができるかどうかも、正直人としての器を図りうる大きな尺度の一つだとおもうからです。

ただ感謝を。

そして腐らず、自分は自分にできることを、ひたすらに。

そうしてるうちに、雰囲気や空気はいくらでも変わるから。

2022年10月3日時点でぼんやり見る日本のアフターコロナ

個人的現状確認。

日本の余力はあまりない

COVID-19は、日本社会の余力を多いにそぎ落とした。

教育質の低下、若手教員の離脱、不足、寄せ集め

まず、人材育成の点で、教育機会を低下させたため、今後社会人になる人材は社会人となって求められる能力水準とのギャップにこれまで以上に苦労する可能性があるため各自対策が必要となるが、具体的な施策がどの程度打たれているかは報告が待たれるところである。

教育の方法を抜本的に変更するだけで、解決する問題はたくさんあるが、教育人材が抜本変更に耐久性がないため、進まない。

こうして既存の教育が惰性で継続されていく一方で、社会はとてつもないスピードで回るためそこから振り落とさる、人が増える可能性がある。

教育を変えられるのに、変えなかった人の罪は重いと個人的にはおもう。一方で、教育の世界に実力主義を持ち込むことの難しさは、そのうち資本主義とICTによる淘汰によって自然と消滅するのであろうけれども、そうした人たちが感じるむなしさを想うとやりきれない気持ちにもなる。

学校教育の質よりは、各家庭の教育力そのものが大いに影響する世の中になるのは間違いない。学校教育で教えきれる情報量には限界がある。そのことを前提にした教育がこれからの時代には必要になる。

少ないリソースで、すべての人をなるべく満足させることができる、より多くを生み出すにはどうするべきか?という問題解決に挑める人材を育てない教育に価値を見出すのは、ゆとりのない時代においてはなかなか難しい。

もともと、日本にはこのような傾向があった。そもそも少子高齢化社会といわれていた。

そして、確定的に少子高齢社会となった。若手から「知りません」といわれた瞬間にすべてが成り立たなくなる世の中の到来が少し早まった。そういう猶予がなくなった。

COVID-19は確実にこの傾向を強めたと、個人的には思われる。継承を悠長にやっている余力は確実になくなったと思われる。

その結果が、若手の離脱、そして、教育系の正規のルートを踏んでいない人材を教育登用するという施策に表れている。

財政問題のソフトランディングが極めて難しい問題に進化

もともと東日本大震災で、国の支出は増大している。今回のCOVID-19でやけくそのように支出を増やして、けた違いに支出が増大している。

新しいサービスを生み出すなどして、新しい経済が発生しない限り、先送りした財政問題は解決しないので、このままではおそらく、財政問題のソフトランディングは難しく、傷口を拡大しながら問題を先送りする、もしくは、現在の医療福祉サービスの維持はあきらめるフェーズがくることが予想される。

財政問題としては、単純に国が扱うことができるお金の力が低下するコトにある。

国が何かをカタチにする力を失うと、人は国にお金を払わなくなる。先人からの日本人に対する日本という国の一番の財産はあるいみ、日本人が国を信頼していることである。この信頼は、税金を払っておけばサービスをくれるという信頼である。その質に疑義はあれど、サービスが全く供給されなくなるとおもっている人はほとんどいない。今現在は。

しかし、財政問題がにっちもさっちもいかなくなった瞬間に、現在供給されているありとあらゆるサービスは停止される可能性が出現する。

その瞬間に、今とはレベルと質が違う意味で、「国は信頼を失う」

それは、国内からはもちろん国外からの信頼もであり、それによって、さらに日本円の価値が低下し、それによってさらに国にできないことが増える。

基本的にこのようなことにならにために、財政のソフトランディングが必要不可欠となるが、これが難しくなり続けている。基本的に、このような将来的な危機を見て見ぬふりすることでパニックになる可能性を低下させる選択を続けており、実際に一定の効果はある。そのために、全体として有効な手段はなく、危機感のある人が勝手にそれぞれ独自の「ノアの箱舟」を用意している。

そのワリを食うのは、いつだって、現在すでに困っているひと、なのに、ちょっと誠実さがなさすぎるのでは、と、社会全体に対して思う。

財政問題を無理に解決する方法

この度のCOVID-19対策の名目で、国庫から国債によって将来の償還を前提として放出されたコロナ対策費用は77兆円であり、これを返済する手段を検討する必要がある。有力な手段は、日本国円の価値を低下させることで、具体的には紙幣を大量流通させることで77兆円分のお金を印刷してそれによって返済することである。

国債の引き受け手に日本銀行がなりうるのであれば、日本銀行が印刷したお金を基に新規国債を購入、そのお金を使って既存国債を償還する、という流れになる可能性がある。

社会がこのような流れのストレスにさらされることが容易に予見されるのであれば、構成員である個人や企業はじめとした組織は、物価上昇及び、企業側は、従業員への賃金の上昇などへの備えを急ピッチで進めておかなければならない。

そのような焦りは、市中にはあまり見られず、実態と乖離があるかもしれない。とするならば、現在できることは、各自で先読みして、家計の財務基盤を多面化するなど備えておくことくらいである。あとは気が付いている人で連帯しておくことなど。ただし、この辺りは新しい弱者はめ込みビジネスの温床ともなりそうである。

財政問題と連動して、間違いなく、医療介護福祉サービスは一時的に低下

また、医療職や介護職は多くの場合その収益や賃金の前提となるお金の流通に国の仕組みが関係している。国が点数あたりの支払いを増やすなどしない限り、実質的な収入源に耐えきれなくなった職員が他業種に流出する未来も十分に考えられる。

逆に、国債返済はじめとした財政健全化目的で、医療福祉関連の支出を減らそうとする場合、いよいよ離職転職入職者減少によるサービス事業者の減少は免れない。

そのようにならないために、財政問題はソフトランディングしなければならないフェーズにあるはずにもかかわらず、国民の間できちんとした議論になっていないのが現状である。

とすると、医療介護福祉も人から別の手段に労働力が置き換えられる、もしくは、サービス事業者主体が事業そのものを消失させることを選択するかもしれない。

そうなると、施設系よりも訪問系の需要はますます高まると思われるが、それも自費で払える顧客を対象とすることが基本となるかもしれない。

このような問題意識は、あまり社会で共有されていない。しかし、日本に残されている余力は有効に使わなければ、本質的な問題は解決しない。

増税、社会保障費の値上げ

さて、新規性や投資的取り組み、挑戦的野心的政治家の出現がないのなら、つまり惰性でクリエイティビティの低い政治が今後も継続するのであれば、今後間違いなく行われるであろうことは、増税と、社会保障費の値上げとなる。そうすれば、消費マインドは冷え込む。歴史は繰り返す。

自衛手段としては、そんな中でも消費してもらえる商品を開発することがとても大切になる。

人材育ってる?

さて、そういう商品開発や実現につながるような人間を教育できるような教育を、今の教育制度が十分に行えているだろうか。いろいろな要素がつながり循環しているが、そのことをシステム論的に扱える政治家を日本人が選択しない限りにおいて抜本的改善はありえず、時点の個人防衛や地域コミュニティの開発などを地域行政と一緒に進めていくよりほかになさそうである。

プレジデントの投稿記事の4つ目の選択肢

高齢者医療において「死は全力で回避すべきもの」と捉える限りは、コロナ禍は終わらず、現役世代の生活も苦しくなる一方だろう。国民の総意として、高齢者の肺炎死を「自然の摂理」と捉え、「延命より、安らかな最後」と解釈することが、「コロナ禍の終結」ひいては「社会保障費の健全化」への一歩となるのではないだろうか。

https://president.jp/articles/-/62145

これがなかなか難しい。

手放せない。

手放して帰れるひとは、帰る方が幸せになるような気がする。

まとめ

自分で決めて、自分で考えて、自分で対処を打っておくこと。

自分で決めて、自分で考えて、自分で対処を打っておくこと。

自分で決めて、自分で考えて、自分で対処を打っておくこと。

自分で決めて、自分で考えて、自分で対処を打っておくこと。

でもそうしながらも、しっかりと

周りの人と話し合って連携をとっておくこと。

どう生きたいかは自分で考えるが、責任は自分でとるが、他人をないがしろにしないこと。

介護認定調査の書式が市区町村ごとに違う件からのデジタル庁へ「たのもー」してみる件

認定調査員の人これでよく仕事してはるわあああああ、(いらっ)っとなったので自分のための備忘録(酔)

基本的にはタイトル通り

ただですね、

腹が立つ。

必要なのは、入力されたものPCに引数として渡す仕組みなわけでしょう?

じゃあ簡略化できるじゃあないですか。

文書作成は、PCでやってるわけでしょう?

じゃあ、ウェブページで入力できるようにするか、CVS形式に変換できるようにしたらええですやん。

などなどなど。

この国って、ほんとうに脳内がお花畑だなあと、身に染みてわかったので。

どうにもならんですなあ。

デジタル庁に陳情だ

デジタル庁

送った

デジタル庁陳情後の画面

できることしかできない

できることしかできませんね。

だからこそ、できることをできるようにやるのがたいせつだとおもいます。

幸せって何か?

本日は、作業療法士中堅になってしまったひろえもん現時点での「幸せ論」について。

幸せとは笑顔で万歳したくなる状態だったり。

「幸せ」という言葉を定義する必要性

「幸せ」という言葉の持つ意味や、イメージを明確に意識することが必要不可欠。もしも、その意味を明確に意識していないと、その揺らぎにつけこむ形での、弱者はめ込みビジネスの犠牲になりかねない。

意識していれば、環境や時代背景によらず、周囲がどうであれ、自分で自分を「幸せ」に持っていくことができる。

前提1:「心地よさの認知」

自分が素敵だ、いいな、素晴らしい、こうありたい、など、「心地よさ」が存在するコト

前提2:「関連の認知」

「心地よさ」と自分が関係している状態。それを認識できる状態。

前提3:「自分の行動への認知」

自分の行動は、自分の意志で起こすことができること自覚し、心地よさと現在の自分の立ち位置を絶えず捉えながら心地よさを強める方向で、行動を起こすことができる力。

幸せになる在り方

前提を踏まえたうえで自分の味方を自分ですること。

具体的には、自分の「心地良さ」を自分にとって都合よく、現実とくっつけたり切り離したりしながら、自分が納得する方法で「心地よさ」を実現するコト。

まとめ

幸せは、自分で決めるもの。

ほかの誰も、あなたの幸せのカタチなど知らない。

阿波踊りにて、正直にコロナ感染を報告する人々

が誇らしい。です。

なぜか。

それが「真の未来志向」と感じるからです。

阿波おどりで800人超が新型コロナ感染 「マスクなしで踊る参加者も」

徳島市では、阿波おどりが先月11日の前夜祭から5日間にわたり、3年ぶりに屋外の演舞場に観客を入れて開催されました。

 実行委員会が123の団体を対象にアンケートしたところ、86の団体から回答があり、参加者3425人のうち約4分の1にあたる819人が11日から2週間の間に新型コロナウイルスに感染していたことが分かりました。

 実行委員会は「今年の結果を受け、来年に向け前向きに課題を検討していきたい」とコメントしています。

徳島市の阿波おどり 踊り手など800人余がコロナ感染

すごいのはコロナ禍で市民ベースのお祭り騒ぎをきちんとやり切ったこと

いつまでも、開催しないことは簡単で、どこも自粛をこれまでしてきました。

しかし、後から批判されるリスクをとってでも、人生に祭りは必要だということで開催しやり切ったことは素晴らしいと思います。

すばらしいのは、きちんと追跡調査をしていること

お祭りが確実にCOVID-19の感染拡大に寄与することは、これまでの新型コロナウィルスの特徴を踏まえると明らかです。

ということで、きちんと調査をすればそれなりの数の感染者数の増加傾向が表われるのは火を見るより明らかです。

それでもきちんと、祭りが終わってからも、都合の悪いデータ傾向が表れることがわかっていながら責任としての追跡調査を行っていることは素晴らしいことだな、と思いました。

感染者数よりも、死亡率と病床圧迫への影響度を明らかにしてほしい

感染者数にはそれなりのインパクトがあるため、注目を集めるためには公表もやむなしと思います。その一方で、、重要なのはそこからの重症化率と、病院の病床がどのように稼働が変化したかということではないでしょうか。

とても極端な話、踊り手が感染したのみで、その他に影響がないならば、別に800人感染し、治癒すれば全く問題ないといえます。

感染状況によって、死者数が増えたのか、それとも増えてはいたけれども市民にとって大切なお祭りが影響しているのかどうか、影響しているのなら今後の開催方法の工夫によってその影響をおさえこむことができるのか、など、きちんと分析を行う必要があると考えます。

影響度如何による場合分け。

なんとなくやってみると

社会インフラなどに対して、とても影響があった場合

社会に及ぼす悪影響があまりに強いのであれば、やはり制限には一定の正当性が発生するのではないでしょうか。

ほとんど影響がなかった

ありとあらゆる制限は、費用対効果がわるいので、すべての制限をなくしてしまいましょう、ということになるかもしれない。

影響はあったが、どの程度影響したかわからない

この場合が、一番いろいろなものごとがなあなあになってしまうのだと思いますが、それでも「まえむきに」という言葉にも見て取れるとおり、おそらく、そのような状況になったときには開催に向けて最大限努力することになるのではないでしょうか。

そのように思います。

まとめ

真の未来志向とは望みに向かってリスクを取り、説明責任をはたすことです。

今回徳島県の皆さんは、見事に阿波踊りを開催し、そのあとにも責任を持とうとする姿勢を保たれています。

このようなある程度の規模の大きさの社会実験の性質を持つイベントにおいては、正直に申告してくれる人の存在がとても重要なものになることは言うまでもありません。

それは、今後のコロナ前提社会をどのようにコントロールして、社会的なイベントを行っていくのかについて、大変に大きな貢献をすることになると思います。

ryuchell氏の離婚発表をフラットにみる

はじめに

かなりまとまってません。思うところがたくさんありすぎます。

思考整理のためにおもいのまま、あやしうこそものぐるおしけれ。

https://geitopi.com/%E7%A0%B4%E5%B1%80%E3%83%BB%E9%9B%A2%E5%A9%9A/%E3%81%BA%E3%81%93%EF%BC%86%E3%82%8A%E3%82%85%E3%81%86%E3%81%A1%E3%81%87%E3%82%8B%E3%81%8C%E9%9B%A2%E5%A9%9A%E3%80%81%E7%90%86%E7%94%B1%E3%82%92%E8%AA%AC%E6%98%8E%E3%80%82%E5%A4%AB%E5%A9%A6%E9%96%A2/
夫妻

離婚はフラットに語り

離婚って、ネガティブなイメージで受け取られることが多い。

それは、関係性の崩壊を暗示するからではないでしょうか。

でも、新しい関係性が構築できるきっかけとなるなら、離婚はクラッシュアンドビルドの起点でしかないので、あたらしい夜明け的な意味でとらえるとむしろポジティブかもしれません。

ということで、プラスマイナスゼロでフラットに、ryuchell氏の離婚を、統一教会事件以降のこれからの世の中の在り方として考えてみたいと思います。

前提としての日本の家族観

結局日本の家族観は、

1困難な自然環境、その後は、社会環境においてまとまりや組織が作りやすい単位として家族が機能する面が大きかったこと

2自尊心を子々孫々や先祖代々に帰着する人が割合的に多いこと

3破壊的更新より、安定的継承のほうが心理的負担が少ない人が多いこと

によって成り立っている。

蛇足かつ重要事項としての日本における政治と宗教と家族観

政治的には、政治団体を支援する宗教団体の意向が反映されている可能性が、政策決定の不自然なゆがみから見て取れたが、最近の旧統一教会と政治家および政治団体との関係性によってわりと確定的になっている。

家族観を利用することで、宗教は家族単位にわかりやすい秩序のフレームワークを提供する代わりに、宗教側は家族全体を信者とすることができる。また、集団として影響しあう人々の秩序として宗教が機能する場合には、個人にとって離脱にコストが発生することを意味するため信者数の安定を得ることができる。

このような理由があるので、宗教は家族観が大事、というフレームワークを好む。これは社会の変化にストレスを感じやすい親世代以上にとてもマッチしており、そこを起点にトップダウン式に布教を展開できるので、とてもコスパが良い。

政治にとって宗教が便利なのは単に票田となるだけでなく、特定の政策を売り渡すことで安価に動員可能な人員を得ることができるからである。これによって、当落線上の候補者を宗教は制御しつつ、たとえば経済重視の政治家にとっては家族観がどうでもよいと判断すれば、伝統的家族観を擁護してくれるのであれば、あなたを無償の愛で支援いたします。とすれば、政治と宗教はWINWINとなる。これを禁じたのが政教分離の概念であるが、結局現実的にはあまり意味をなしていない概念である。といえる。

その理由は、端的に、

1宗教は、弱者はめ込みビジネスとして機能しうるので富の吸い上げ装置として政治家に利便性があり、なおかつ合法であること。

2政治は、宗教によって、簡単に変容させることができるけれども、それを表立ってやると当選できないのでじわっとやる必要があること

の2点で政治家と宗教サイドそれぞれでウィンウィンということになる。

政治家が直接、一般から広くお金を集める方法は政治献金しかないが、そこに宗教団体をカマスことによって、得られる献金の額を増やすことができる。宗教団体が運営しているフロント企業などの献金などフィルターを通して献金を増やすことができる。その原資は、宗教団体の所属信者が時に自分の生活を切り詰めたり、自分の資産の一切を売り払ったり、借金をしたりして作ってくれる。

宗教団体サイドとしては、政治が政策を、自分たちの教義に近い形で打ち出せば打ち出すほどに権威が増える。また、支援する政治家が宗教的集まりに顔を出してくれると、新規の信者を開拓するときの広告塔として使えたり、既存の信者の忠誠心を高めるための装置として用いることができる。それで、増えた信者からさらに多くの富を集約することができれば政治家も宗教団体も金銭的に儲かる可能性があるのでやめられないまらない。

道徳教育と家族観

また、道徳として家族を尊重することを一般的な秩序とすることは社会の安定や子供を安定した環境で育成することに寄与するなどの点があり、日本では、父母子供に祖父母親戚を加えた一つ屋根の下ファミリー家族観が、「ふつう」として今日受け入れられるに至っているし、そのモデルから外れるほどに、「変」とみられている。と思う。

親や兄弟、家族は大切にするべきものであるという、「あたりまえ」があるように思われる。

子供の犯罪に芸能人の親が頭を下げる日本の不思議

子供が逮捕されたとき、親である芸能人が「この度は誠に申し訳ありませんでした」と頭を下げるのが当たり前のように思われている。これは日本人が、子供の人格と親の人格を同一視しており、ある組織に所属する個人はその組織から影響を受けているに違いないという色眼鏡で見ても構わないと思っている。

しかし論理的には、子供と親は人格的に同一ではないし、子供の行動の責任は親には帰属しないはずである。なぜなら自由主義社会であり、自由の属するところは本人自身の意思を除いてほかにないから。

しかし、そういうところの切り分けができなかったり、同一視がやめられないなど頭の使い方や価値観を多様化するためのエミュレータを頭の中で動かすことが難しいひとは少なくない。

道具としての家族単位

生きていかないといけないから。

そういうものだから、

やくわりがあるから、

という必要性に基づく家族観、大変ヤバい言い方をしていたある方の言葉を借りれば「道具としての家族」観というものが、これまでの日本にはあったように思われます。オブラートにはもちろん包んだうえで別の表現に変換されていますが、本質としては「利用価値のある人間の構成単位」としての家族、という大変ドライな家族もいくら血のつながりがあろうとも実在していたという厳しい現実を遠慮なく突き上げている言葉のように思います。「道具としての家族」。やっぱり体験者経験者の言葉の表現は重たいです。

政治も宗教も家族を道具としてとらえていることが多いです。企業もそういうところがあると思います。お金が絡むといろいろゆがむのは人間だもの、という感じです。

お金があまり全面に立ちすぎると、結局家族はゆがんでいって、道具としての単位になっていってしまうようです。

それだけが言いたいがための長すぎる前置き。

家族と愛の重要性

家族も愛着がなければただの構成単位。

あるいは、かくあれかし、という宗教団体であるともいえます。

一方で人間の育成において、愛情的な感情論は家族単位の形成と実際の安定運用上きわめて重要な意味を占めるという持論があります。論理的思考だけでも人は成長できますが、多くの人とうまくつながるには、感情をきちんと開放する力が必要です。

そのような感情コントロールの力というのは、結局のところ、子供の育成において特に心理的安全性の面で大きく影響する可能性が極めて大きいです。よほど、子供の認知機能が卓越していない限り、親の一挙一同に子供の思考言動は左右され、親の感情の起伏が激しいほどに子供の日常生活上必要な思考へのエネルギーコストは高まるからです。

また、失敗は成功の基というだけあって、成功に至るには、ある程度の手数が必要です。

手数を実現するには、ある程度の失敗を許容できるメンタルが必要です。

そのメンタルの基礎となる、「自分は愛されている」「自分はここにいてもいいんだ」という安心感が、新しい行動への挑戦を保証することになります。

月並みな指摘ですが、大人になっても他人に攻撃的な方というのはこの辺りの愛着形成がやっぱりうまくいっていないのだろうなと思うのです(n=1)。現代病といえばそうかもしれないですし、人類の有史以前からのお悩みなのかもしれません。

本題としてのryuchellの離婚

結局、自己肯定の問題かつ、自己規定の問題かつ、「何が幸せなのか」という問題であって「他人からどう映るか」や「道具たり得るか」は問題でない、ということと解釈しました自分は。ryuchell&peco氏の離婚を。

言い方を変えると

「日本国の規定には当てはまらないので、婚姻関係から離脱します」

ということで、新しい家族の形を模索するそうです。それは、ryuchell氏の

離婚しても彼は彼であるようで、それを相方のpeco氏も認めており、性別を前提としない1対1の人間としての愛を以て、家族を形成していきたい、ということ。

家族単位と結婚

これより引用多発注意報。

日本の結婚制度は、そののちに子供をもうけて家が続いていくようにすることをサポートするための仕組みとして作られているので、そのほかの用途で使おうとするとうまくいかないことがある。そのため、そのほかの用途でも使えるような結婚や家族単位の在り方を探す試みをryuchell氏はしようとしているのでは、と理解する。

本人も「新しい家族の形」を追求していく、としている。

具体的には

「“夫”と“妻”ではなく、人生のパートナー、そしてかけがえのない息子の親として家族で人生をすごしていく」

ということで、あたらしい枠組みを自分でつくっていく、とクリエイティブな宣言をしているわけですね。

言い換えると、男と女という関係性を超えたパートナー、かつ自分たちの子供の親としてのロールを基本単位とした家族の形を模索していきます、ということ。

本人の言葉ではさらに詳しく

妻のpecoについて「女性を好きになることは、僕の人生の中で、初めての事」だったが「“本当の自分”と、“本当の自分を隠すryuchell”との間に、少しずつ溝ができてしまいました」といい、pecoに打ち明け「どれだけ伝えても足りないほど、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいだけど、家族として、パパとしては、何があってもこの幸せは守りたいと強く思いました」

と続くわけですね。

これは、

メディアで自分のこれまでの生き方や、“夫”としての生き方についてお話しさせていただく機会が増えていく中で

という、うそじゃあないんだけど、でもじぶんってそれだけじゃないんですが、実は。という部分の割合を黙殺できなくなったということです。

だからryuchellとして、自分を認めつつ、家族としてやっていくための自己規定や家族の形の成形をこれからもう一度やっていきたいということなんですね。

いいぞ、どんどんやられたら素敵だなあとおもいます。

奥様peco氏

率直で素晴らしいです。こういう表明ができる高潔さ非常に好きです。人間的に剛。愛に満ちている。

《正直、墓場まで持っていってほしかったと一瞬たりとも思ったことはないと言えば嘘になります》

ということで、そういうお気持ちをちゃんと世間に向けて投げかけることができることも、自分自身のそういう思いともきちんと向き合っていきますよ、という覚悟を感じるし、

わたしは何よりもまず、りゅうちぇるという人間そのものがだいすきです

たぶん一緒に生活するということの優先順位の一番はこれでいいのだと思います。

好き嫌いと一緒に過ごした時間による行程による肯定。

だから正直、墓場まで持っていってほしかったと一瞬たりとも思ったことはないと言えば嘘になります。 だけどそれ以上に、もしほんとうにりゅうちぇるがこの先何十年、おじいちゃんになるまでひとりで抱え込み続けていたらと思うとほんとうに怖いし、こうして今 生きて、勇気を振り絞ってわたしに打ち明けてくれたことに、ありがとうの気持ちでいっぱいなのです。 打ち明けてくれた瞬間、ひどいとか、最低とか、だましてたの?とか、ほんとうにそんなことは思わなくて、それはりゅうちぇるがほんとうにたくさんの本物の愛をくれたからだと思います。

こういう解釈が本当に心からできるのであれば、それはとてもクリエイティブで素晴らしいことだと思いました。本質的には2人の問題で回りが話のネタにとやかく取り上げること自体がナンセンスなのですが、

みーんな弱いし、みーんな強い!

というワードは、最強なのではないかと思いました。

2人は、2021年9月にそれまで所属していた芸能事務所を退所し、ryuchellが社長を務める事務所を設立しました。そういう意味では、ビジネスパートナーでもあるわけで、単なる家族よりもさらに深い関係です。多様な家族の在り方を示す存在として、ますますメディアでの活躍、発言が期待されま

とのことですので、

さらに家族関係が複雑な中で、彼らの子供たちが幸せに育つなら、周りがとやかく言うことはないし、二人だけで困るときには遠慮なく周りを頼ってもらいつつ、だれからも肯定されることもなくても自分たちで新しい家族の形を作っていってほしいと思います。

おわりに

あたらしい家族の形

それが、今の日本社会の停滞ムードを変化させていく一つの具体的な答えになりうると思っています。

結局新しい組織形成っていうのはだれにでもできることではなくって、それゆえに結局不合理でも今までのやり方を踏襲することになることが多いのだと思います。

そういう意味で、あたらしいありようを模索する力というのは社会を変えていく力としてみたときにきわめて重要だなあと思います。

自分でも、そこまで乗っけたら乗っけすぎかなと思いつつ、結局、でもそういうことなんだろうなと思います。これまでを尊重しつつこれからが逸脱してもそれは、自己肯定のありよう次第ということで。

政治や既存の社会制度にとらわれない幸せの形を各人それぞれが自分で幸せになれるように形作っていって下さることを祈らずにはいられません。

参考:

【全文】peco「正直、墓場まで持っていってほしかった」も「打ち明けてくれてありがとう」(デイリースポーツ) – Yahoo!ニュース

ryuchellが離婚発表 夫の「カミングアウト」を受け入れたpecoに集まる賞賛の声(SmartFLASH) – Yahoo!ニュース

暑いとか、眠たいとか、しんどいとか

書き散らしです。

直感的なもの?って

感覚や感性、即時的なもの。

ここから、どのようなパターンが想起されるかがその人らしさなんだろうなと。

たとえば、起床直後

起きた、という感覚から、次に何を得るか。

寝る前の記憶?

眠たい、という感覚?

周囲の光量?

空腹感?

気温?

これからやらなければならないこと?

これらの中身には直感的でその場限りの感覚としての情報と、寝る前からの連続性に基づく内的な情報保持に由来するものがある。

直感的なものは

まぶしい、暑い、空腹、ねむたい、などなど。

感覚由来の認知機能

「〇〇だから~しよう(したい)」の構文で描かれるこの認知は、幸福感の成り立ちにとてもたいせつなものだと思う。

他者とは独立した、自分自身という存在の在り方を記述し、把握するもので、自己認識や自己愛の基盤となる。衝動に近く、意欲の根本で、すべての活動の根拠となりうる枠組み。

「熱いから窓をあけよう」

「おなかがすいたから、ご飯を食べよう。」

のみならず

「晴れてる、うれしい」

など、結局どのような人生を送ってきたかという文脈に類するものに属する価値観であっても割と直感に近い部分の因果関係の認知がこれにあたると思う。

感情で、物事を評価するときの自分自身の重みづけについて自覚的になることができる。

外的指標ではなく、自分自身にとっての重要度、内的指標を獲得するうえで非常に重要。

構造化された認知機能

「~しなきゃ」や「~することになってる」「~するのがあたりまえ」という感覚や感性は生存確率を高めたり、日々の生活のコストを低下させて、生き残りの可能性を上げるうえで役に立つ。

「朝がきたから起きなきゃ(その後、予定があることを知覚しているから)」

「顔を洗わなきゃ(身だしなみが整っていることが他者への配慮として当然であるとみなされるコミュニティーの中の一員として自分がふるまうことを自分に期待している故)」

「仕事にいかなきゃ(社会的存在として、雇用契約を全うし、給与をえることが自分の社会的存在としての存立に不可欠であり、そうすることを周囲から期待されているという感覚の知覚ゆえ)」

ともすると、自分自身の生来からの感覚とは切り離してしまいがち、というか、切り離すことで楽をしてしまいがち。

構造化が行き過ぎると自分を見失う

「おいしいものをたべておいしいと感じたら、おいしいと言葉にしてみる」という単純なコストを払わないと、別に自分でなくてもよいという感覚は実感を帯びて立ち現れてくる。

ことに、資本主義社会×情報社会によって、各種人材も互換性を高め、経営リスクを低下させるためにこの人でなければ回らないという仕事を消すことが普通になっている。顧客利益を最大化するためには当然の措置。

そうすると、別に自分でなくても、できる仕事を自分はなんでおこなっているのだろうかやりたくもないのに、という問いが立ち現れてくる。

その問いから逃げると、自分が自分の敵になる。

その構造から逃れるもっとも単純な方法は、自分の存在を社会的あるいは生物学的に抹消することである。

ひきこもりの方や周囲の環境の劣悪さによらない孤独感のようなものが影響することでの自死にはこのような構造がある、ことがある。

「うまくやる」ことだけに焦点化しすぎて、「じぶんはこう感じる」が埋没していき、リンクが薄くなって「じぶんはこう感じる」を表に出すと「うまくいかなくなる」から、「自分はこう感じる」を出せなくなる、という構造。

そこまで徹底すれば、別に自分が存在する価値はないと感じても、不思議はない。

どんなに幸福感をえられる環境であっても関係ない。本人の内的な幸福感のセンサーがうまく働かなくなっている以上、理屈で幸福であるということがわかってても感覚で実感できない、セロトニンが出ない。

肯定感も出ない。ドーパミンで興奮しても、持続はせず、自分自身の存在定義があいまいになる。日々の情報量に押し流されて、「うまくやろう」とすればするほど「自分じしんってどんなかたちだああったかけ」と崩壊していく感じ。

そこまで徹底できる人はまれかもしれないが、確実に存在する。

それゆえに、やはり、表面上は「ちゃんとしている」から、わかる人にしかわからない。

その人たちの一部が鬱病になったり、離人症にカテゴライズされているのかもしれないと思ったりはする。

自分の存在のヨスガにできる、感覚や、それに基づく自分自身のためにする何かが不足していたり、その部分と他者の利益の交わるところをうまく探せなかったり、そうなると社会やわかりやすい何かに自分の行動原理を求めるしかなくなるという構造は大いにあり得ると思う。

自分自身を見失っていることを自覚するためには、自分自身を意識する必要がある、という矛盾のような何かが、悪循環の歯止めを難しくする。

解決するには、仲間が必要

悪循環に自分ひとりで気が付けるのには、割と根性なり認知機能がいるように思われる。途中で力尽きたり、悪循環の果てまで行きついてしまうこともあるかもしれない。

自分自身を意識できる方法としては、自分で自分を意識する以外にも、人と交わることで他者と自己という存在を言語的に定義して区別したり、そもそも、ひとの言葉によって自己を強制的に認識することがある。

「しゅみはなんですか?」

という何の気ない問いかけに即答できる人は、普段から自分のことを自分で応対しているひとだと思うし、悩むひとはおそらく自分のことを直視する機会が乏しいか、意図的にそれを避けている。

他者の存在があれば、そうした問いかけから自分自身に対して自分が敬意を払えていないという現実をとらえることが、一人の時よりもはるかにしやすい。

他人の存在は大事だし、特に、自分に対して害意を向けることのない、仲間というのは大事。

別に寂しさを感じにくい人にとっては、友達は必要ないけれど、仲間は必要だと思うのです。そのような理由から。必須です。

自衛的措置

とはいえ、すぐに仲間なんて、と思う方はやっぱり、朝起きた直後に自分がどんなことを考えているのか、これからの人生どうしたいと夜考えたとして、朝にそれがどれだけ連続したものとして自分自身の認識に反映されているかということを、意識してみるのが良いのではないでしょうか、とおもいます。

逆説的ですが、そうして、自分の感情をしっていくことに誠実になればそのうちに勝手に仲間ができてくと思います。感情回路がうまく回るようになるので。

などと、おもいます。

参考と蛇足とまとめ

友達をつくると人間強度が下がるという人もいます。フィクションですが。

人間強度って、仲間がいない方がさがりますよきっと。

多数派に巻き込まれて、自分の意見が言えない、流れについていこうとするあまり無難になってしまって自分が何もできないときがある、など、そういうのは、個人の課題であって仲間云々は関係ないともおもっておりますちなみに。

物語の進展前の前振りで、人間強度が下がるといってた上記人物は、人間関係に悩みつつ自己犠牲でいろいろ解決しつつ、友達がたくさんできます。フィクションです。

直感や感覚を誘発する言語には説得力が宿ります。それらを構造的に積み上げて、事実感を作り上げる手法は、西尾維新ならでは、勉強になります。

それはそうとして、言語すら不要の自分の感覚にもう少し鋭敏になったほうが、人類は幸せなのではなかろうかという書き散らしでした。

「助長」という言葉が本来の意味から遠ざかる。そんな現象から垣間見える、社会的集団としての人が使える言葉の複雑さの限界について

つまり、

言いたいことはひとつです。

まとめ

シンプルかつ率直でないと人は受け取らないし、つかわない。 

以上

以下当たり前のことしか書いてません。いわゆる自分の感動を自分で消化するための自己満足になります。

「助長」ということばの意味、ご存じですか?

助長、なんてことばしらねーよ、という方はブラウザバックしてググってください。

ご存じの方。

助長という言葉は、「助けのばすこと」「強化すること」という意味で使われますね?

ですよね?

え?えええ?

いやいや、ちがう、ちがう、そうじゃ、そうじゃない~??

違うそうじゃない

っていう方へ。

現在は少数派になってしまったあなたへ。

問いかけます。

ズバリ。

本当に日常生活で”そういう意味”、つまり、「もともとの意味」でこの言葉をつかうことがありますか?

あまり、ないですよね

意味は、そう、たしかにその通り。

もともとの意味は「有難迷惑」「過ぎたるは猶及ばざるが如し」「得意になってだれかのためにとやることは、実は逆効果だったりしません?しますよね?笑」etc…

非常に、強力な皮肉表現だったのですよね?

それがいったいなんで、どうしてこんなことになってしまったのでしょうか。

いつしか、全く反対の意味になってしまい、そちらが市民権を得ている。

不思議でなりません。

が、この現象にこそ、社会に起こりうる変化を知り、それを踏まえて生きていくためのヒントがたくさんあるように思います。

「助長」とこの社会を生きている、僕たち私たち

昨日のことのように思い出します。

あれは小学3年生のある日のことでした。

助長という言葉の意味が本来の意味から変わってしまったことを、小学生の国語の教科書からまなんで、へぇ、となったことを。(今の教科書がどうか知らんでございます。

その時には、「文字と違う意味とかナンセンス(現代語訳)」という感想しか持ちえませんでした。

助けると長い、なので、「助けて長くするのが普通じゃあないか」、そう思ったわけです。

それを「わざわざ、言葉の見た目と反対の意味で用いるなんて」「どうかしているわ」、そうおもったのです。

その感覚、感性って、そんなにおかしなものでしょうか。

そんなことはないでしょう。

むしろ、普通だと思います。

あれから、数十年。

今日(最初の執筆日時)、改めて「助長」という言葉と出会ったとき、びっくりしました。

そのときひろえもんに電流走る。

唐突に、理解しました。

「ああ、これは集団としての人が用いることができる言葉の意味性の限界をしめしていることばなんだ」と唐突に理解してしまいました。

何を言ってるのかわからねえと思うが、ワタシにはわかりました。

・・・・

いやいやまってください、逃げないでください。

ちゃんと説明しますから。

ひろえもん、わけのわからない表現をつかわず、に、率直にいうと、冒頭のようになります。

今の助長という言葉の意味

読んで字のごとくで、シンプルです。

グーグル先生に聞くと、シンプルに以下の回答があります。

字面が、本来内包していた、ナラティブから切り離されてしまって、ただの2文字になってしまった結果といえます。

もともとの助長という言葉の意味

上でも述べた通りに強力な皮肉表現です。

単純にグーグル先生に聞いても答えてくれませんが、下記の通りわきまえて聞けば、本来の意味を教えてくださいます。グーグル先生に感謝を。

さっきと比べて、もうめんどくさい、情報量が多い。

小学生にはなかなか理解できないものを、あえて小学生のうちに紹介するは、チャレンジングで嫌いではありません。

言葉には、その言葉が生まれるエピソードやナラティブがあるんだよ、実は、ということを伝えるいい言葉だなあと、最近は特に思う様になりました。

故事成語というやつです。

つまり、ことばは情報量を圧縮するものであって、その象徴であり、その前提となる情報の到達点として音声としての情報量が圧縮された言葉となる、ということです。

「にんげんってこういうもんだよね」「わかるわかる」という、時代を超えた共感、ウィットのようなものがあり、それを理解できることは、ある側面での人間の心理や真理をとらえることに役立つでしょう。

皮肉を以て、時代を超えた人間の普遍性を慈しむ。

何とも素敵だと思いませんか。

本当は反対の意味なのにね

「伸ばすつもりが枯らした」が、「のびるようにたすける」になるのは草。((笑)的な意味で。(笑)→大草原不可避には逆の知的センスを感じてこれまた別の勉強になるのでそれはまた別のお話)

歴史をたどれば、助長という言葉は、本来であれば、「よく考えて実行しようね?」という意味合いだったのに、人間が考えることを放棄する過程をよく表しているようです。

インテリばっかりが使っていた言葉が、なぜか一般化したのだろうと推測するのですが、その詳細については、あんまりきちんと調べようとしませんで、今日まで来ております。まあ当たらずとも遠からずでしょう。

物語り→端的な言葉 という抽象化

ところで、現在の意味での助長ということばに、旧来の意味の故事成語としての助長が駆逐された背景には、以下のような点があると考えられています。

1 小学生が習う簡単な漢字の組み合わせ

2 二文字の漢字がそれぞれシンプルな意味を持っていること

3 2文字から簡単なストーリーが想像できること

4 故事成語という成り立ちからそれが間違っていることを理解するには、故事成語の成り立ちとなる話を一般的な教養として当たり前のものとして理解できることが必要であこと

5 故事成語をお互いが知ってることが当たり前となるのが当然という特殊な知的水準を前提とする人間集団の形成は、意図してそのような人間集団を形成するより成立するはずもなく、翻って、話し手と利き手のどちらかがその水準になく故事成語的な意味で誤った運用をされることも少なくないこと

6 人間は承認欲求から、無駄にいちいち正しさをひけらかすと、社会的にめんどくさい存在であると認知されることを特殊な知的水準の人たちは察知しているため、相手がまちがっていたとしても、コストを合理的に考えるといちいち訂正しないこと

7 訂正が入らないことは、正しいことの証左であると理解することが通常の人間の枠組みであり、わざわざ自分の発言がいちいち間違っているか正しいかなどを後々思い出したり、統計を取ったり比較検討したりすることなどありえず、言ったら言いっぱなしになるのが普通である、と思ってわざわざ研鑽するひとは少ないこと。

8 めんどくせえ、シンプルいずベストぉ!!

すごくないですか?

エピソードありきで成立した言葉を、使用コミュニティが変化して、数が多いのが正義になり、意味をオーバーライドしてしまったのでしょう。

まさに「助長」。知的であろうとした結果、そうでもないという、なんと強烈な皮肉。これはつらい。でも、上記6は極めて重要なポイントなので、その皮肉はことさら言葉にして突き付けられることもなく時間の流れに流されて本人には認識の機会すら与えられず。ただし、そうこうしているうちに、世間が保証する正しさは真逆になってしまったという。これも皮肉ですね。

皮肉だらけですごいです。

このように、「助長」というこの短いことばには、語りつくせないほどに、理解とコストの関係性、共通言語としての言葉の特性など、さまざまな示唆を含みまくっており、嚙めば無限のあじわいがする言葉だと思っています。

人間なんとなく、知的であること賢いことが良いことであると思っていながら、そうはなりたくないという人間の絶妙さを非常に軽妙な表現でとらえることに成功していることばが「助長」ということばであるとおもっています。

とても人間社会の民主主義のうまくいかなさの縮図を詰め込んだような現象があって、味わい深いなあなんて気が付いて、衝撃的過ぎてめまいすら覚える今日この頃です。

人間社会の分断

さて、タイトルで述べたような、統計的に操作していない人間の集団一般的な人間の集団においては、上記の8.の特性が非常に強力に現れ、それが行き過ぎたときに「人間には知性がひつようだったのだ・・・」となるのが、人間と戦争の歴史、あるいは人間と社会福祉の歴史だと思っています。

喉元過ぎれば熱さを忘れるともよく言ったもので、人間はよく、本来の制度設計の趣旨をわすれて面倒くさがったり、できないことや不遇を何かのせいにして心理的に解決します。あのブドウは酸っぱいというウソップ物語の有名な狐さんも、本質的な問題解決から逃げているともいえるし、挑み続けて結局手に入らないというリスクから自らをとおざけることに成功しているともいえます。

状況を把握し、コントロールできるのは、偶然か、はたまたセンスか、圧倒的情報量に裏打ちされた確率を背景とした正確性か。

最近では、正確性が過剰に注目されるきらいがありますが、要するにこれも、上記の8の面倒くさがりの人間の特性によるものなのだと思います。

そうした人間の営為の積み重ねという連続性の中から、差が生まれ、その一つである資本主義社会における持つものと持たざる者の本質は、理を介して行動する者とそうでない者あるいはその背景となる認知機能の総量だと思います。

試行回数が増えれば、理を味方にしている方に、富が収束するのは自明ですよね。

故事成語の意味での「助長」という言葉、「行動は効果的にしないと、何のリターンもないどころか、損失を拡大するばかりである」という経営上の示唆も含みます。こうした示唆や世界の広がりを棄却して「助けのばす!」とだけいうのも、ステイふーりっしゅな感じがしてタートルネックとジーパンで世界をかえる感じがして、まさに、8という感じ。

その間を行ったり来たりできるように、グラデーションが本来必要で、行ったり来たりできないひとにはできる人が配慮すりゃいいのだよね、という話でもあると思います。

そして、そのグラデーションを学び取るのに、助長という言葉が本来持つ残酷さが長い年月をへてさび付いてなまくらとなって使われててもなお、わかるひとにはわかる残酷さをたたえつつ、世の中のいろいろな場面で分かってない人に使われ続けるのはすごい皮肉だなとおもうのですし、それを感じ取れるひとそうでない人を分かつものはどうしようもなく確かに存在するし、それらもまた愛おしく、それを気軽に飛び越えられる存在でありたいし、故事成語としての助長ではなく、今の意味での助長を自他にできる自分であれるように、そういうめんどくささを自分に課せる存在でありたいとねがってやみません。

はい、まんぞくしました。

書いて満足する。

言って満足する。

使ってみてしっくり来たらそれでいいじゃない。

そうして多くの人のこころを満足させるような言葉の在り方もまた、上等なものなのではないでしょうか。

そして、人間だれしもが話せばわかるという幻想にとらわれず、あるがまま、お互いの理解を尊重して認め合うことが「助長」ということばから学べる本質的なところなのではと思うのです。

めっちゃいいこと言ってますね。あはは。

これもまた「助長」

できる限り日々人にやさしくありたい。~他者への危害的な意味で危ないのは、さびしいのに寂しいといえないでいる人の可能性

大阪のクリニックのビル火災のニュースは、第一報を聞いただけで胸が苦しくなりました。「またか」というやるせなさと、極端さ、予測不可能性、それゆえの対策のしようがなさ。

いろんなものが一斉に去来して、生きていくことがつらくなりました。

しかし、書きとどめておくことで解決するなにかもあるかもしれないので、気持ちを奮い起こして、今心の中にあるものを頑張ってアウトプットします。

「消えてなくなってしまいたい」という欲望について

人は、「死にたくない」「長生きしたい」と誰しもが思っています。

本当に?そうでしょうか????

あるいは、生きていることが楽しい、うれしい、喜びというより、義務感みたいになる感覚がお分かりになるでしょうか。「生きさせられる」生、という感覚とでも言いましょうか。

そうした感覚をもって生きている方方は、死にたくないから生きる、や、生きていたいから生きる、という感覚でいきているのではありません。「死ねないから仕方なく」生きている、と感じているので。

そうした感覚のしんどさをあえて最も単純化した言い方をするならば、「息をするのもしんどい」という感覚にちかいかもしれません。単純化しすぎて生ぬるいですが。本質的にはまさに、生きていることそのものが苦痛な感覚で、ただそこに生きて存在するというだけで心身にストレスを感じるのです。

この感覚は、ベッドの上であろうが、おいしいものをたべていようが関係ないのです。快刺激で上書きしようにも、その快刺激やその記憶がきちんと保持できないので、あるいは、思い出したくもない思い出ばかりが去来して、生きているだけで自分のこころがしんどくなってしまう。

「だから消えてなくなってしまいたい」「そのことで楽になりたい」

でも、死んではいけないことになっている、ないし、死んだら周囲に迷惑をかけてしまう。あるいは死ぬことはこわいけれども、もうどうにも生きていることが、あるいは生き続けることそのものが耐えられない、だからその心理的な抵抗感をやけくそ感で埋め合わせてしまいたい。面倒くさい、ないもかもどうでもいい、早く楽になりたい。

このはざまで、揺れ動くことを余儀なくされるわけです。

そして、そのようにして煮詰まった脳内からは、さまざまな想像力がうしなわれていきます。そうして、他人の痛みよりも、自分ごと、自分をうまく包摂しない周囲の環境ごと消し去ってしまいたいという欲求を抑えこむものがなくなったとき、人は自分の近くにガソリンをまいて火をつけるのだと思います。

考えてみてください。普通の人は、焼死を選べません。熱した金属に触れたときの、あの「熱い!!!」の苦痛をこれまでの人生で味わったことがあるならば、そして、その状態が全身に広がることの苦痛は、まともに考えれば正気を失わせるに十分と思います。想像を絶します。想像するだけで恐ろしくなります。

ましてや、そのような苦痛をほかのだれかにも与えてしまうかもしれない。もしそんなことになったらとおもうと、恐ろしくてたまりません。大変なことです。

しかし、その苦痛さえ、感じられなくなるほどに、脳の情報処理に偏りが出ている状態なのでしょう。そして、そのような情報処理とは、主に、悲しい、寂しい、むなしい、みじめだ、つらい、耐えがたい、面倒だななどの感情に多く割かれるのだと思います。あるいは、感情をうまく自覚してコントロールできない、そうした自らを常に責め立てる自罰的な思考があったりするのかもしれません。さらには、そうした認知のゆがみというものが、本人の中から湧き上がってきたり、環境がその人を追い込んだり、あるいはその両方があったりすると思います。

とにもかくにも、作業療法士をしていると、普通の社会ではあまり接点を持てないいろいろな方と交流させていただく機会があります。上記のような方も、世の中にはたくさんおられます。

そして、わたし自身にそういうところが全くないかというと、絶対そんなことはないとおもっています。人間だれしもがそういう「自暴自棄」スイッチを持ってると思います。そして、一旦そのようなスイッチが入ってしまうと、自分では、たてなおせなくなってしまうのです。あるいは、最初から自分ひとりでうまれて、生きてきたような感覚でふるまうことで、喪失感を無理やり埋め合わせようとして、ますます矛盾の中におぼれていってしまうのです。

そうした現象を想うとき、思い出す評論があります。

映画「ジョーカー」の主人公が表現した社会の冷やかさ

コメディアン死亡だったのにいつの間にか殺人鬼になってしまった映画のキャラクターがいます。もちろんフィクションですが。

そんあ、2020年にホアキン・フェニックスがアカデミー主演男優賞を受賞した映画「ジョーカー」の主人公「心優しいアーサー・フレック」の事を問題を起こすことでしか人とつながれない、という解説をした人がいます。岡田斗司夫さんです。彼は、「アーサー」は、社会が彼に向けたの環境の力学によって、そうならざるをえなかったと述べています。

長い動画ですが。一応リンクを張っておきます

もちろん映画「ジョーカー」はフィクションである。ゴッサムシティは実在しない。のです。

けれども、この映画は人間の心理として、憤懣やるかたなくなったり、社会とうまくつながれないと、衝動がある個人を破滅的な犯罪に駆り立てることがあることを示唆している、とおもいます。

実際、そういう人間の行動原理で起こされたと思われる犯罪のニュースはなくならないですね。

「死刑になりたかった、だれでもいいから殺せば死刑になると思った」

このような供述の事件はgoogleでざっと検索しただけで、下記のように。

京王線刺傷事件の犯人も…「人を殺して死刑になりたい」息子の“殺意”に怯える母親たち(週刊女性PRIME) – Yahoo!ニュース

平野啓一郎さんはTwitterを使っています 「「死刑になりたかった」と供述の事件。 2004年 茨木市連続ひき逃げ事件 2007年 平和記念公園殺人事件 2008年 土浦連続殺傷事件 2010年 取手駅通り通り魔事件 2012年 心斎橋通り魔事件 2014年 透析患者チューブ引き抜き事件 2015年 江戸川区女子高生殺人事件 2016年 イオンモール釧路通り魔事件」 / Twitter

「死刑になりたい」また無差別殺傷 同世代で繰り返される共通の「動機」: J-CAST ニュース【全文表示】

死刑になりたいと望んで引き起された犯罪事件の一覧 – いちらん屋(一覧屋) (ichiranya.com)

こうした、「自分が置かれた状況の理解することが困難であるか、どう解決したらわからない、もしくは解決しようとしたがうまくできなくて打ちのめされて打ちひしがれて、自暴自棄になってしまう。」人は少なくないです。

そういう人たちが世の中には必ず存在するのです。

そうした人たちに、どのようにむきあっているでしょうか。

「だれからも関係をもとめられていない」 感覚

友達でもいいし、だれでもいいから、やっぱりひとは、だれかから必要とされたいと感じている、ということだと思います。

そういう感覚が自分ではいかんともしがたい人たちが、たとえば、「さびしい」とひとに言うことでつながれると一番良いのですが、そうできない、むしろ「ほっといてほしい」というような人に、どうするのか。

普通の人は、「ほっとく」のではないでしょうか。

本人がほっといてくれというのですから。

でも真実は、それでもなお、踏み込んできてくれる誰かを待っているのだと思います。資本主義は、契約社会です。言葉が大切ですし、論理が大切です。言葉には責任がともないます。

ですが、そんな枠組みの中ではうまく生きていきにくい人たちがやっぱりいるんですよね。自分の言葉が、額面どおりの意味ではない意味でしか、口から飛び出していかない人たちがいるんですよね。

「ほっとく」と、そういうことになるのだとおもいます。

やさしさが大切

最後に、冒頭で紹介した映画「ジョーカー」の主演男優である、ホアキンの受賞時のコメントを紹介して終わりにします。

壇上に上がったホアキンは「本当に感謝していますし、自分が他の候補者よりも優れているとは思っていません。僕はすばらしい映画人生を送ることができました。なぜなら、俳優として、私たちは“声なき者”の声を代弁する機会を得ているからです。男女の平等、人種やジェンダーに対する差別、そして地球環境まで、今の世界にはまだまだ問題が山積みですが、それらは愛情や思いやりを持っていけば、解決できるのです」と想いを吐露。

【第92回アカデミー賞】主演男優賞は『ジョーカー』のホアキン・フェニックス 亡き名優に続き“ジョーカー俳優”2人目のオスカー! | cinemacafe.net

本当、

やさしさって大切にしないと。

みんな身をほろぼすよなあ、としみじみおもいます。

参考

腕利き板金工だった放火事件の容疑者 離婚後に「ひとりきりの悩み」 (msn.com)

【解決!】2021年11月末頃から「作業療法.net」が改竄攻撃されていた件の収束についての報告

一応解決しました。

ご迷惑をおかけした皆様には申し訳ありません。

具体的な状態

「作業療法.net」において、ページの内容の改ざんが行われていました。

具体的には、トップページから個別の記事ページへ移行しようとすると、攻撃者の設置した広告ページに誘導されてしまう状態となっていました。

なお、データベースの中身については変更はなかったものと思われますが、今後注視していかないといけない部分と思われます。

アクセス解析などを見ると、問題は11月末頃から生じていたようですが、解決に二週間以上の時間を要することとなってしまいました。

なぜ、解決までの対応が遅れたか

理由その1 サイトの更新を怠っていた

一つには、ひろえもんが「作業療法.net」の更新作業をサボっていたことが挙げられます。

理由その2 サーバ管理者じゃないと手が出せない攻撃内容があった。

具体的な問題が起こっている原因になっているファイル(.htaccessやindex.php)などを修正しても、残念ながらその後すぐに、改竄されてしまうといういたちごっこが起こったのであった。

ということで、素人には対応できず、レンタルサーバー会社に連絡して解決への協力をお願いしました。

理由その3 解決方法を、実行するのに時間がかかった。

レンタルサーバの運営会社からもらった情報には、改ざんされたファイルのリストがあった。

これらを全て削除しないと、また改ざんが起こる可能性がある、ということでもらったリストの中にあるファイル名のファイルを全て削除することにしました。

そのファイル数の数何と

2065 個(ファイルは主に.phpと.htaccess

これを一個一個手動で削除する・・・なんてことは、できるはずもなく。

結局 Linaxコマンドと格闘するハメになりました。

一つ一つクリックして削除とかやってられないレベルにぶち当たる日がこんなに唐突に、やってくるなんてまったくおもってもいませんでしたが。さておき、やっててよかったssh。

今後の対策

今後の対策としまして

①こまめに更新作業を行う

しょうもないコンテンツで構わないので、日々何かしら更新していこうと思います。

自分でハードル上げすぎて、結局身動きとれなくなって気がついたら問題が拡大していると言うのは非常に良くないことがよくわかりました。

更新大事。

②異常があればすぐに連絡をもらえるようにする

特に、twitterや各種SNSの重要性を痛感しました。これらがなかったら、ブログ機能が死んでしまったら何もできなくなるということがよくわかりました。

ツイッターのアカウントはこちらになりますので、よかったらフォローしてやってくださいよろしくおねがいします。

普段は、思うがままにつれづれにツイートしてるので、そんなにためにはらならないとはおもいますが。

伝達の手段を複数かくほしておくことで、異常があった時にすぐに連絡をもらえたり、逆に不具合があった時にそのことを的確に伝えられるよう、準備しておくことが非常に大切だと言うことがわかりました。

③ひろえもん自身のセキュリティに対する基本的な能力を向上させる

セキュリティ対策はしているつもりでした。今回、このような事態を招いてしまいましたことで完璧に、自分のセキュリティ対策ぜんぜん甘いものであったと言うことがよくわかりました。

こう言う時には、本当に趣味を仕事にしていなくてよかったなと、おもうばかりです。

セキュリティ対策は自分なりには、していたのですが、やはり、wordpressをたくさん一つの単一サーバーで、権限のパーテションなども考えないままに運用することのリスクを今回痛感しました。

運用しているサイト数が複数になれば、それだけ監視が疎かになってしまいます。そのことが今回のような事態を招いたのだと思っています。

とはいえ、運用しているサイトの数は関係なく、基礎的なセキュリティについてももう一度見直すだけではなく、自分自身のセキュリティスキルについての底上げを行っていくことが大切であると痛感しました。

まとめ

このたびはご迷惑をおかけしました。
セキュリティ対策は普段から
不具合あったらおしらせください。

今後

さて、ついで、というかおまけになりますが、作業療法.netの今後についてですが、作業療法.netはひろえもんが学生時代に初めて、そろそろ10年近くになります。過去の投稿などを振り返って有用性が低下している情報について整理したり、ブログの内容といわゆるWebページの内容については、一旦整理をしていく必要性があろうかなと感じています。

理屈だけではなく、そこに経験がのっかってきているので、コンテンツとしては有用さが増える方向で質を高めていけると確信しています。

情報は無料で提供することが大切と考えていますが、今回のようなトラブルがあった時に迅速に解決できるかどうかは、自分に時間とスキルがあるか、もしくは、潤沢に使える金があるかどうか、にかかっているということを痛感しましたので、そう言うトラブルであったり、あるいはコンテンツの質をあげる方向性で使えるような、そう言うお金をゲットできる方法について考えていかないといけないと思いました。

無料にしている代わりに、広告を大量発生させてしまっており、PCなどから閲覧する際にはそれが可読性を下げてしまっていますし、もう少し広告は減らす方向でいきたいので、何かしら考えて行かないと、コンテンツがいつか急に提供できなくなるという事態にも陥りかねません。

そうならないためにも、すこし、そうした金銭面も含めたコンテンツの安定供給のためにはどのようなことが必要になるのかということについての考えを深めていく必要があると感じました。

そんなところで本日は失礼いたします。