助長という言葉が本来の意味から遠ざかる現象にみる社会的集団としての人と運用言語範囲の限界について

つまり、

言いたいことはひとつです。

シンプルかつ率直でないと人は受け取らないし、つかわない。

以上

以下蛇足。当たり前のことしか書いてません。いわゆる自分の感動を自分で消化するための自己満足。

助長ということばの意味

助長という言葉は、「助けのばすこと」「強化すること」という意味で使われますね?

いやいや、ちがう、そうじゃないっていう方は、本当に日常生活でそういう意味でこの言葉をつかうことがあるかをかんがえてみてください。

たしかにもとの意味は「有難迷惑」「過ぎたるは猶及ばざるが如し」「得意になってだれかのためにとやることは、実は逆効果だったりしません?しますよね?笑」

という非常に、強力な皮肉表現だったのです。

助長と僕たち私たち

昨日のことのように思い出します。

助長という言葉の意味が本来の意味から変わってしまったことを、小学生の国語の教科書からまなんで、へぇ、となったことを。

その時には、「ことばの意味ってかわるんだあ」という感想しか持ちえませんでした。

今日改めてその言葉について向き合ったときに、「ああ、これは集団としての人が用いることができる言葉の意味性の限界をしめしていることばなんだ」と唐突に理解してしまいました。

わけのわからない表現をつかわず、に、率直にいうと、冒頭のようになります。

今の助長という言葉の意味

読んで字のごとくで、シンプルです。

グーグル先生に聞くと、シンプルに以下の回答があります。

字面が、本来内包していた、ナラティブから切り離されてしまって、ただの2文字になってしまった結果といえます。

もともとの助長という言葉の意味

上でも述べた通りに強力な皮肉表現です。

単純にグーグル先生に聞いても答えてくれませんが、下記の通りわきまえて聞けば、本来の意味を教えてくださいます。グーグル先生に感謝を。

さっきと比べて、もうめんどくさい、情報量が多い。

小学生にはなかなか理解できないものを、あえて小学生のうちに紹介するは、チャレンジングで嫌いではありません。

言葉には、その言葉が生まれるエピソードやナラティブがあるんだよ、実は、ということを伝えるいい言葉だなあと、最近は特に思う様になりました。

故事成語というやつです。

つまり、ことばは情報量を圧縮するものであって、その象徴であり、その前提となる情報の到達点として音声としての情報量が圧縮された言葉となる、ということです。

「にんげんってこういうもんだよね」「わかるわかる」という、時代を超えた共感、ウィットのようなものがあり、それを理解できることは、ある側面での人間の心理や真理をとらえることに役立つでしょう。

皮肉を以て、時代を超えた人間の普遍性を慈しむ。

何とも素敵だと思いませんか。

本当は反対の意味なのにね

「伸ばすつもりが枯らした」が、「のびるようにたすける」になるのは草。((笑)的な意味で。(笑)→大草原不可避には逆の知的センスを感じてこれまた別の勉強になるのでそれはまた別のお話)

歴史をたどれば、助長という言葉は、本来であれば、「よく考えて実行しようね?」という意味合いだったのに、人間が考えることを放棄する過程をよく表しているようです。

インテリばっかりが使っていた言葉が、なぜか一般化したのだろうと推測するのですが、その詳細については、あんまりきちんと調べようとしませんで、今日まで来ております。まあ当たらずとも遠からずでしょう。

物語り→端的な言葉 という抽象化

ところで、現在の意味での助長ということばに、旧来の意味の故事成語としての助長が駆逐された背景には、以下のような点があると考えられています。

1 小学生が習う簡単な漢字の組み合わせ

2 二文字の漢字がそれぞれシンプルな意味を持っていること

3 2文字から簡単なストーリーが想像できること

4 故事成語という成り立ちからそれが間違っていることを理解するには、故事成語の成り立ちとなる話を一般的な教養として当たり前のものとして理解できることが必要であこと

5 故事成語をお互いが知ってることが当たり前となるのが当然という特殊な知的水準を前提とする人間集団の形成は、意図してそのような人間集団を形成するより成立するはずもなく、翻って、話し手と利き手のどちらかがその水準になく故事成語的な意味で誤った運用をされることも少なくないこと

6 人間は承認欲求から、無駄にいちいち正しさをひけらかすと、社会的にめんどくさい存在であると認知されることを特殊な知的水準の人たちは察知しているため、相手がまちがっていたとしても、コストを合理的に考えるといちいち訂正しないこと

7 訂正が入らないことは、正しいことの証左であると理解することが通常の人間の枠組みであり、わざわざ自分の発言がいちいち間違っているか正しいかなどを後々思い出したり、統計を取ったり比較検討したりすることなどありえず、言ったら言いっぱなしになるのが普通である、と思ってわざわざ研鑽するひとは少ないこと。

8 めんどくせえ、シンプルいずベストぉ!!

すごくないですか?

エピソードありきで成立した言葉を、使用コミュニティが変化して、数が多いのが正義になり、意味をオーバーライドしてしまったのでしょう。

まさに「助長」。知的であろうとした結果、そうでもないという、なんと強烈な皮肉。これはつらい。でも、上記6は極めて重要なポイントなので、その皮肉はことさら言葉にして突き付けられることもなく時間の流れに流されて本人には認識の機会すら与えられず。ただし、そうこうしているうちに、世間が保証する正しさは真逆になってしまったという。これも皮肉ですね。

皮肉だらけですごいです。

このように、「助長」というこの短いことばには、語りつくせないほどに、理解とコストの関係性、共通言語としての言葉の特性など、さまざまな示唆を含みまくっており、嚙めば無限のあじわいがする言葉だと思っています。

人間なんとなく、知的であること賢いことが良いことであると思っていながら、そうはなりたくないという人間の絶妙さを非常に軽妙な表現でとらえることに成功していることばが「助長」ということばであるとおもっています。

とても人間社会の民主主義のうまくいかなさの縮図を詰め込んだような現象があって、味わい深いなあなんて気が付いて、衝撃的過ぎてめまいすら覚える今日この頃です。

人間社会の分断

さて、タイトルで述べたような、統計的に操作していない人間の集団一般的な人間の集団においては、上記の8.の特性が非常に強力に現れ、それが行き過ぎたときに「人間には知性がひつようだったのだ・・・」となるのが、人間と戦争の歴史、あるいは人間と社会福祉の歴史だと思っています。

喉元過ぎれば熱さを忘れるともよく言ったもので、人間はよく、本来の制度設計の趣旨をわすれて面倒くさがったり、できないことや不遇を何かのせいにして心理的に解決します。あのブドウは酸っぱいというウソップ物語の有名な狐さんも、本質的な問題解決から逃げているともいえるし、挑み続けて結局手に入らないというリスクから自らをとおざけることに成功しているともいえます。

状況を把握し、コントロールできるのは、偶然か、はたまたセンスか、圧倒的情報量に裏打ちされた確率を背景とした正確性か。

最近では、正確性が過剰に注目されるきらいがありますが、要するにこれも、上記の8の面倒くさがりの人間の特性によるものなのだと思います。

そうした人間の営為の積み重ねという連続性の中から、差が生まれ、その一つである資本主義社会における持つものと持たざる者の本質は、理を介して行動する者とそうでない者あるいはその背景となる認知機能の総量だと思います。

試行回数が増えれば、理を味方にしている方に、富が収束するのは自明ですよね。

故事成語の意味での「助長」という言葉、「行動は効果的にしないと、何のリターンもないどころか、損失を拡大するばかりである」という経営上の示唆も含みます。こうした示唆や世界の広がりを棄却して「助けのばす!」とだけいうのも、ステイふーりっしゅな感じがしてタートルネックとジーパンで世界をかえる感じがして、まさに、8という感じ。

その間を行ったり来たりできるように、グラデーションが本来必要で、行ったり来たりできないひとにはできる人が配慮すりゃいいのだよね、という話でもあると思います。

そして、そのグラデーションを学び取るのに、助長という言葉が本来持つ残酷さが長い年月をへてさび付いてなまくらとなって使われててもなお、わかるひとにはわかる残酷さをたたえつつ、世の中のいろいろな場面で分かってない人に使われ続けるのはすごい皮肉だなとおもうのですし、それを感じ取れるひとそうでない人を分かつものはどうしようもなく確かに存在するし、それらもまた愛おしく、それを気軽に飛び越えられる存在でありたいし、故事成語としての助長ではなく、今の意味での助長を自他にできる自分であれるように、そういうめんどくささを自分に課せる存在でありたいとねがってやみません。

はい、まんぞくしました。

書いて満足する。

言って満足する。

使ってみてしっくり来たらそれでいいじゃない。

そうして多くの人のこころを満足させるような言葉の在り方もまた、上等なものなのではないでしょうか。

そして、人間だれしもが話せばわかるという幻想にとらわれず、あるがまま、お互いの理解を尊重して認め合うことが「助長」ということばから学べる本質的なところなのではと思うのです。

めっちゃいいこと言ってますね。あはは。

これもまた「助長」

できる限り日々人にやさしくありたい。~他者への危害的な意味で危ないのは、さびしいのに寂しいといえないでいる人の可能性

大阪のクリニックのビル火災のニュースは、第一報を聞いただけで胸が苦しくなりました。「またか」というやるせなさと、極端さ、予測不可能性、それゆえの対策のしようがなさ。

いろんなものが一斉に去来して、生きていくことがつらくなりました。

しかし、書きとどめておくことで解決するなにかもあるかもしれないので、気持ちを奮い起こして、今心の中にあるものを頑張ってアウトプットします。

「消えてなくなってしまいたい」という欲望について

人は、「死にたくない」「長生きしたい」と誰しもが思っています。

本当に?そうでしょうか????

あるいは、生きていることが楽しい、うれしい、喜びというより、義務感みたいになる感覚がお分かりになるでしょうか。「生きさせられる」生、という感覚とでも言いましょうか。

そうした感覚をもって生きている方方は、死にたくないから生きる、や、生きていたいから生きる、という感覚でいきているのではありません。「死ねないから仕方なく」生きている、と感じているので。

そうした感覚のしんどさをあえて最も単純化した言い方をするならば、「息をするのもしんどい」という感覚にちかいかもしれません。単純化しすぎて生ぬるいですが。本質的にはまさに、生きていることそのものが苦痛な感覚で、ただそこに生きて存在するというだけで心身にストレスを感じるのです。

この感覚は、ベッドの上であろうが、おいしいものをたべていようが関係ないのです。快刺激で上書きしようにも、その快刺激やその記憶がきちんと保持できないので、あるいは、思い出したくもない思い出ばかりが去来して、生きているだけで自分のこころがしんどくなってしまう。

「だから消えてなくなってしまいたい」「そのことで楽になりたい」

でも、死んではいけないことになっている、ないし、死んだら周囲に迷惑をかけてしまう。あるいは死ぬことはこわいけれども、もうどうにも生きていることが、あるいは生き続けることそのものが耐えられない、だからその心理的な抵抗感をやけくそ感で埋め合わせてしまいたい。面倒くさい、ないもかもどうでもいい、早く楽になりたい。

このはざまで、揺れ動くことを余儀なくされるわけです。

そして、そのようにして煮詰まった脳内からは、さまざまな想像力がうしなわれていきます。そうして、他人の痛みよりも、自分ごと、自分をうまく包摂しない周囲の環境ごと消し去ってしまいたいという欲求を抑えこむものがなくなったとき、人は自分の近くにガソリンをまいて火をつけるのだと思います。

考えてみてください。普通の人は、焼死を選べません。熱した金属に触れたときの、あの「熱い!!!」の苦痛をこれまでの人生で味わったことがあるならば、そして、その状態が全身に広がることの苦痛は、まともに考えれば正気を失わせるに十分と思います。想像を絶します。想像するだけで恐ろしくなります。

ましてや、そのような苦痛をほかのだれかにも与えてしまうかもしれない。もしそんなことになったらとおもうと、恐ろしくてたまりません。大変なことです。

しかし、その苦痛さえ、感じられなくなるほどに、脳の情報処理に偏りが出ている状態なのでしょう。そして、そのような情報処理とは、主に、悲しい、寂しい、むなしい、みじめだ、つらい、耐えがたい、面倒だななどの感情に多く割かれるのだと思います。あるいは、感情をうまく自覚してコントロールできない、そうした自らを常に責め立てる自罰的な思考があったりするのかもしれません。さらには、そうした認知のゆがみというものが、本人の中から湧き上がってきたり、環境がその人を追い込んだり、あるいはその両方があったりすると思います。

とにもかくにも、作業療法士をしていると、普通の社会ではあまり接点を持てないいろいろな方と交流させていただく機会があります。上記のような方も、世の中にはたくさんおられます。

そして、わたし自身にそういうところが全くないかというと、絶対そんなことはないとおもっています。人間だれしもがそういう「自暴自棄」スイッチを持ってると思います。そして、一旦そのようなスイッチが入ってしまうと、自分では、たてなおせなくなってしまうのです。あるいは、最初から自分ひとりでうまれて、生きてきたような感覚でふるまうことで、喪失感を無理やり埋め合わせようとして、ますます矛盾の中におぼれていってしまうのです。

そうした現象を想うとき、思い出す評論があります。

映画「ジョーカー」の主人公が表現した社会の冷やかさ

コメディアン死亡だったのにいつの間にか殺人鬼になってしまった映画のキャラクターがいます。もちろんフィクションですが。

そんあ、2020年にホアキン・フェニックスがアカデミー主演男優賞を受賞した映画「ジョーカー」の主人公「心優しいアーサー・フレック」の事を問題を起こすことでしか人とつながれない、という解説をした人がいます。岡田斗司夫さんです。彼は、「アーサー」は、社会が彼に向けたの環境の力学によって、そうならざるをえなかったと述べています。

長い動画ですが。一応リンクを張っておきます

もちろん映画「ジョーカー」はフィクションである。ゴッサムシティは実在しない。のです。

けれども、この映画は人間の心理として、憤懣やるかたなくなったり、社会とうまくつながれないと、衝動がある個人を破滅的な犯罪に駆り立てることがあることを示唆している、とおもいます。

実際、そういう人間の行動原理で起こされたと思われる犯罪のニュースはなくならないですね。

「死刑になりたかった、だれでもいいから殺せば死刑になると思った」

このような供述の事件はgoogleでざっと検索しただけで、下記のように。

京王線刺傷事件の犯人も…「人を殺して死刑になりたい」息子の“殺意”に怯える母親たち(週刊女性PRIME) – Yahoo!ニュース

平野啓一郎さんはTwitterを使っています 「「死刑になりたかった」と供述の事件。 2004年 茨木市連続ひき逃げ事件 2007年 平和記念公園殺人事件 2008年 土浦連続殺傷事件 2010年 取手駅通り通り魔事件 2012年 心斎橋通り魔事件 2014年 透析患者チューブ引き抜き事件 2015年 江戸川区女子高生殺人事件 2016年 イオンモール釧路通り魔事件」 / Twitter

「死刑になりたい」また無差別殺傷 同世代で繰り返される共通の「動機」: J-CAST ニュース【全文表示】

死刑になりたいと望んで引き起された犯罪事件の一覧 – いちらん屋(一覧屋) (ichiranya.com)

こうした、「自分が置かれた状況の理解することが困難であるか、どう解決したらわからない、もしくは解決しようとしたがうまくできなくて打ちのめされて打ちひしがれて、自暴自棄になってしまう。」人は少なくないです。

そういう人たちが世の中には必ず存在するのです。

そうした人たちに、どのようにむきあっているでしょうか。

「だれからも関係をもとめられていない」 感覚

友達でもいいし、だれでもいいから、やっぱりひとは、だれかから必要とされたいと感じている、ということだと思います。

そういう感覚が自分ではいかんともしがたい人たちが、たとえば、「さびしい」とひとに言うことでつながれると一番良いのですが、そうできない、むしろ「ほっといてほしい」というような人に、どうするのか。

普通の人は、「ほっとく」のではないでしょうか。

本人がほっといてくれというのですから。

でも真実は、それでもなお、踏み込んできてくれる誰かを待っているのだと思います。資本主義は、契約社会です。言葉が大切ですし、論理が大切です。言葉には責任がともないます。

ですが、そんな枠組みの中ではうまく生きていきにくい人たちがやっぱりいるんですよね。自分の言葉が、額面どおりの意味ではない意味でしか、口から飛び出していかない人たちがいるんですよね。

「ほっとく」と、そういうことになるのだとおもいます。

やさしさが大切

最後に、冒頭で紹介した映画「ジョーカー」の主演男優である、ホアキンの受賞時のコメントを紹介して終わりにします。

壇上に上がったホアキンは「本当に感謝していますし、自分が他の候補者よりも優れているとは思っていません。僕はすばらしい映画人生を送ることができました。なぜなら、俳優として、私たちは“声なき者”の声を代弁する機会を得ているからです。男女の平等、人種やジェンダーに対する差別、そして地球環境まで、今の世界にはまだまだ問題が山積みですが、それらは愛情や思いやりを持っていけば、解決できるのです」と想いを吐露。

【第92回アカデミー賞】主演男優賞は『ジョーカー』のホアキン・フェニックス 亡き名優に続き“ジョーカー俳優”2人目のオスカー! | cinemacafe.net

本当、

やさしさって大切にしないと。

みんな身をほろぼすよなあ、としみじみおもいます。

参考

腕利き板金工だった放火事件の容疑者 離婚後に「ひとりきりの悩み」 (msn.com)

【解決!】2021年11月末頃から「作業療法.net」が改竄攻撃されていた件の収束についての報告

一応解決しました。

ご迷惑をおかけした皆様には申し訳ありません。

具体的な状態

「作業療法.net」において、ページの内容の改ざんが行われていました。

具体的には、トップページから個別の記事ページへ移行しようとすると、攻撃者の設置した広告ページに誘導されてしまう状態となっていました。

なお、データベースの中身については変更はなかったものと思われますが、今後注視していかないといけない部分と思われます。

アクセス解析などを見ると、問題は11月末頃から生じていたようですが、解決に二週間以上の時間を要することとなってしまいました。

なぜ、解決までの対応が遅れたか

理由その1 サイトの更新を怠っていた

一つには、ひろえもんが「作業療法.net」の更新作業をサボっていたことが挙げられます。

理由その2 サーバ管理者じゃないと手が出せない攻撃内容があった。

具体的な問題が起こっている原因になっているファイル(.htaccessやindex.php)などを修正しても、残念ながらその後すぐに、改竄されてしまうといういたちごっこが起こったのであった。

ということで、素人には対応できず、レンタルサーバー会社に連絡して解決への協力をお願いしました。

理由その3 解決方法を、実行するのに時間がかかった。

レンタルサーバの運営会社からもらった情報には、改ざんされたファイルのリストがあった。

これらを全て削除しないと、また改ざんが起こる可能性がある、ということでもらったリストの中にあるファイル名のファイルを全て削除することにしました。

そのファイル数の数何と

2065 個(ファイルは主に.phpと.htaccess

これを一個一個手動で削除する・・・なんてことは、できるはずもなく。

結局 Linaxコマンドと格闘するハメになりました。

一つ一つクリックして削除とかやってられないレベルにぶち当たる日がこんなに唐突に、やってくるなんてまったくおもってもいませんでしたが。さておき、やっててよかったssh。

今後の対策

今後の対策としまして

①こまめに更新作業を行う

しょうもないコンテンツで構わないので、日々何かしら更新していこうと思います。

自分でハードル上げすぎて、結局身動きとれなくなって気がついたら問題が拡大していると言うのは非常に良くないことがよくわかりました。

更新大事。

②異常があればすぐに連絡をもらえるようにする

特に、twitterや各種SNSの重要性を痛感しました。これらがなかったら、ブログ機能が死んでしまったら何もできなくなるということがよくわかりました。

ツイッターのアカウントはこちらになりますので、よかったらフォローしてやってくださいよろしくおねがいします。

普段は、思うがままにつれづれにツイートしてるので、そんなにためにはらならないとはおもいますが。

伝達の手段を複数かくほしておくことで、異常があった時にすぐに連絡をもらえたり、逆に不具合があった時にそのことを的確に伝えられるよう、準備しておくことが非常に大切だと言うことがわかりました。

③ひろえもん自身のセキュリティに対する基本的な能力を向上させる

セキュリティ対策はしているつもりでした。今回、このような事態を招いてしまいましたことで完璧に、自分のセキュリティ対策ぜんぜん甘いものであったと言うことがよくわかりました。

こう言う時には、本当に趣味を仕事にしていなくてよかったなと、おもうばかりです。

セキュリティ対策は自分なりには、していたのですが、やはり、wordpressをたくさん一つの単一サーバーで、権限のパーテションなども考えないままに運用することのリスクを今回痛感しました。

運用しているサイト数が複数になれば、それだけ監視が疎かになってしまいます。そのことが今回のような事態を招いたのだと思っています。

とはいえ、運用しているサイトの数は関係なく、基礎的なセキュリティについてももう一度見直すだけではなく、自分自身のセキュリティスキルについての底上げを行っていくことが大切であると痛感しました。

まとめ

このたびはご迷惑をおかけしました。
セキュリティ対策は普段から
不具合あったらおしらせください。

今後

さて、ついで、というかおまけになりますが、作業療法.netの今後についてですが、作業療法.netはひろえもんが学生時代に初めて、そろそろ10年近くになります。過去の投稿などを振り返って有用性が低下している情報について整理したり、ブログの内容といわゆるWebページの内容については、一旦整理をしていく必要性があろうかなと感じています。

理屈だけではなく、そこに経験がのっかってきているので、コンテンツとしては有用さが増える方向で質を高めていけると確信しています。

情報は無料で提供することが大切と考えていますが、今回のようなトラブルがあった時に迅速に解決できるかどうかは、自分に時間とスキルがあるか、もしくは、潤沢に使える金があるかどうか、にかかっているということを痛感しましたので、そう言うトラブルであったり、あるいはコンテンツの質をあげる方向性で使えるような、そう言うお金をゲットできる方法について考えていかないといけないと思いました。

無料にしている代わりに、広告を大量発生させてしまっており、PCなどから閲覧する際にはそれが可読性を下げてしまっていますし、もう少し広告は減らす方向でいきたいので、何かしら考えて行かないと、コンテンツがいつか急に提供できなくなるという事態にも陥りかねません。

そうならないためにも、すこし、そうした金銭面も含めたコンテンツの安定供給のためにはどのようなことが必要になるのかということについての考えを深めていく必要があると感じました。

そんなところで本日は失礼いたします。

OTwiki.orgのMediawikiバージョンを1.36にバージョンアップしました。

少し前から、サーバのPHPバージョンとかmariaSQLのバージョンアップはしたりしてたんですけれでも、バックアップとったりとか、ファイルを細々動かしたりする必要があるのですこし時間がかかりました。

トータルの作業時間で見れば二時間程度なのですけれども、マニュアルを確認したりしながら慎重にやると時間がかかりますね。

コマンドライン上でファイルの圧縮解凍移動のコマンドをこれだけ頻回にぽちぽちしたのも最近あまりなかったので、ちょっとあたまがこんがらがって

mvコマンドのつもりで

rmをうって実行してしまうという比較的やべえやらかしをしてしまいました。

対象がフォルダだったので実効性がなくてことなきを得たんですが、しっかりとはっきりと頭を働かせて作業しないとヒューマンエラーは起きるということですね!勉強になりますね!(きっとまたやる)

ということで、見た目やらサービス上は特に変わったところございませんけれども、これで対応した機能もあるということなので、これから色々とまたいじっていこうと思います。

ちなみにバージョンアップの方法は、

https://www.mediawiki.org/wiki/Manual:Upgrading/ja

と、公式サイトを普通に参考にして更新しました。

前回インストールしたときには、VPSサービスのインストール支援機能を存分に活用させていただいたのですが、バージョンアップに当たってはそういうわけにもいかないので、必要なものをコピーしたり動かしたりしてせっせと準備をするのが、性に合ってなかったです。

無事に終わってほっとしております。

ではでは。

矛盾の解決に必要な次元の概念の導入の難しさ

情報を増やすという矛盾解決方法

論理の矛盾を解決法に、次元を導入する方法があります。

溺れるAさんを目の前にして、Bさんが何もしなかったとしたら、Bさんは罪に問われます。(不作為)

一方で、Bさんも、溺れていたりした時には、罪に問われることはありません。助ける余裕がないからです。

Aさんの状態という情報にたいして、Bさんがその時どうだったかという情報を付与することで、Bさんは罪に問われないわけです。

一見すると当たり前のようでいて、これは状況によってというか、前提が変われば、同じ行為をしていたとしても、評価が変わりうるという意味での矛盾が発生するわけです。

それが、矛盾と感じられないのは、Bさん自身の状態がAさんを助けることができるかどうかに大きく影響する、という感覚が前提として私たちに備わっているからと言えます。

べつの言い方をすると、これは、情報の量を増やしてやることで、分けて考えることができるということですね。

とりあえず、そういう方法があるということを認識しておくことが大切です。

なぜなら、それによって前提条件を確認することの大切さに常に思いを馳せることができるからです。

馬の顔を蹴った騎手

先に述べたように、大きな世界で矛盾することであったとしても、条件がつけばアリになることはあるのですね。

そのことを踏まえて下記の話を読んでみていただきたいのです。

競馬の話です。レースに関連して、ある騎手が、馬の顔を思い切り蹴飛ばしました。

そして、その行為について「動物虐待だ!」と非難が起こり、一部で炎上が発生しました。

さて、何もないのに馬の顔を蹴飛ばしたら、それは確かに動物虐待かもしれません。しかし、前述のように、この話を読み解くには前提となる知識が必要でした。

この馬は、砂地に顔を突っ込んでおり、窒息死や肺の中に砂を取り込んでしまい後遺症が心配される状況で一刻も早く、顔を砂地から出すことが必要であったのです。

このような情報が前提にあったとして、馬の顔を蹴った騎手の判断を、これを読んでいるあなたはどのように感じるでしょうか。

さて、なお、騎手の方に対する監督者の反応は、

市ばんえい振興課は「いかなる理由であれ認められない」として、同騎手は戒告処分。

ということです。

つまり、矛盾です。

馬が深刻な後遺症を抱えるかも知れなかった深刻な状況から馬を救出したはずの騎手が、なぜか逆に処罰されるという矛盾した状況が発生していると言えるわけですね。

この矛盾の問題を解決するには、きちんと前提条件として、命が優先される場合には、どんな手段を用いても命を救う行為を優先することにしましょう、ということが共有されていることが必要だったと言えるわけです。

感情的になると前提条件が抜け落ちる

さて、動物の顔を蹴るという一部分だけを抜き出して、そこに怒りを覚えてしまうと、それが救命の手段であったという前提条件に、自ら気づいて目を向けることは大変難しくなります。

感情的になると、善悪の判断は容易に変わってしまうことになります。

情報量が善悪の判断を本質的に左右する

ただし、善悪の判断が変わることの本質は感情的になることにあるのではありません。

その本質は、脳内に取り込んで処理する情報の量とその関連付けに左右されます。

感情的になると、扱える情報量が下がるから、判定が変わるのですね。

つまり、感情的でなくても、扱える情報量が少ない場合には、安定した信頼性の高い判断ができないということになります。

脳内で扱える情報量は一朝一夕には増えない

一方で、成長段階の人ならまだしも、情報処理能力、つまり人が単位時間あたりに脳内で扱うことができる情報量が、急激に増えることはあまり考えられません。

これは、善悪の判断を安定させることが難しい人が世の中にどうしても一定数いるということの根拠になりえます。状況や前提が、不変であることは、自由度がますます高まる現代社会においてはありえないからです。

変わり続ける前提条件や価値観を常に取り入れて、自分の中の判断材料をアップデートさせることでしか、安定し信頼性の高い判断を下すことはできません。

そのために必要最低限の情報処理能力が不足している場合には、善悪の判断も安定して行うことが難しいと考えられます。

判定や判断が困難で、矛盾や問題解決が難しい人が指導的立場になり得る社会

現代日本社会においては、ある組織のマネジメントは、その組織のマネージャーが優秀かどうかによって決定されます。

上記の競馬の管理者のように状況の整理が下手だと、保身ないし見通しの悪さによって、本来動物の命を救うという行為をした人が罰せられるという後味のわるい結果となってしまうこともあります。

こういう例はマネージャーが優秀ではない例といえます。

つまり、こういう人でも管理者に居座ってしまう可能性があるのが、現代日本社会であるといえます。

そして、その上の管理者がしっかりしていないと、全体的に滞ることになるわけですね。

学歴や年数以外の本質的なものを前提にしないとうまくいかない

上記までの話として、矛盾や問題は、次元を導入すると解決できること。その次元というのは、情報量が増えるということ。増えた情報量がうまく扱えるかどうかというのは、感情的かどうかということよりもそもそもの単位時間あたりの情報処理能力に左右されることに言及してきました。

それをふまえると、業務量やその複雑さが、すくなかったり簡単だったりすると、必要となる情報処理能力は少ないし、その逆であればどんどん問題を解決したり、まとめたり、仕組みをつくったり、判断を下したりということが必要になるわけですね。

そして、その能力というのは、学歴や年数が保証してくれるものではないのですね。

相関はするかもしれませんが、それによって検証が必要なくなるというものでもないわけです。

しかしその検証をやりきらない

しっかりと、状況証拠を集めることと、必要な投資を得るためにアクションを起こすことが大切なのはいうまでもありませんが。

まずは、しっかりと情報処理能力と業務量と質のバランスの関係について評価できるようになることが、大切と思われます。

作業療法の枠組みにとどまらず、現実社会においても普遍的な内容とおもわれます。

さもなければ、上記の騎手のように正直者が本来評価されるべき事柄で、批判者の声が大きかったり、面倒ごとを避けようとするモチベーションの結果として、全く逆の評価評定をうけるという不正義が罷り通る、温床を黙認することにつながります。

そういう状況が日本社会においては、顧客利益のために非情になりきれない日本の組織においては身内可愛さのためにありがちです。

きちんと検証し切って、判断や裁定をくだせるように、自分自身の判断力とメンタルを研磨しておくことが必要でしょう。

守りに入りすぎて、逆に状況を悪化させる人は、検証をすることをあえてさけているうちに、そもそもの検証能力が鈍ってきている人が多いです。

論理は淡々と扱う

本来たすけるべき相手を見誤らないこと、顧客利益を主たる目的に据え、中長期的視点でそこに合致しない判断や判定をする比率を下げるべく、淡々と組織を整理整頓することが大切ですし、そのために必要な前提となる情報を十分に自分の中に取り入れる学びを止めず、その結果当然導かれる答えがすでに存在する社会規範と矛盾することはよくある話です。

その時には、本来の顧客は誰なのかという大前提を、周知確認徹底すること、その組織の存在意義となっている根本の論理をしっかりと踏まえて理論武装することが大切になります。

また、そのための状況証拠を論理に基づいて淡々と収集することも大切です。

論理の骨格に感情の皮を被せていくと過剰になる

「騎手の監督者は、最低だ、命よりも自分の保身のことにしか興味がない。悲しくなる、人として恥ずかしいとおもわないのか。」

と、正論を背景として、そこに「人として」などのように感情論を纏わせて過剰に追い詰める人もいます。

個人的にはやりすぎだと思いますし、そのような言い方をされる相手も、感情的に防御反応をとるので、前提条件を十分に踏まえた論理的思考をとることが困難になります。

組織としての生産性は間違いなく低下しますので、感情に配慮するなら

「世間の批判から、馬と騎手を守ろうとしたのは立派だと思います」などのように相手を認めるところから入るがセオリーですよね。

矛盾解決は前提条件や例外で処理する

矛盾解決は、実は、難しいことはひとつもありません。私たちは普段から、矛盾解決をしています。

たとえば。

「常に、命は平等」、という建前がありますが、それが本当なら、よく美談として扱われる「自分の命を犠牲にして子供の命を守る親」などの感動系物語のテンプレートは、成立しません。立腹の対象です。命は平等なのに、誰かを犠牲にして誰かが助かるなんてまちがっていると立腹するべきです。

「親が自分の命を犠牲にしてでも、自分の子供を守ろうとするのは尊い」

という無意識の価値観は、「命は皆平等」という概念とは論理的には矛盾しないとおかしいのです。

しかし、ハリウッド映画の感動系の物語のプロットとして自己犠牲はつきものですよね。おかしいですね。という、構造論にはいやいやでも納得される人も多いのではと思います。

人間の認知は、じつは無意識的に「わたしだけはちがう」などのように自分に都合の良いように前提条件を買ってにつくって矛盾解決をする仕組みが備わっています。

上記の例では、「自ら進んで次世代や大切な人のために犠牲になる精神素晴らしい」という価値観があり、その前では「命は皆平等」という価値観は軽視される傾向にあるということですね。このように重み付けを無意識で行い条件分岐をすることで、矛盾を回避しているわけです。

私たち人間は、そのような認知を無意識・自動で行うことで、日常生活におけるストレスの量を下げるわけですね。

「人間いつ死ぬかわからない」が論理的に正しいとしつつも、「でもわたしはちがう」と無意識下で無根拠に例外処理をすることで、論理矛盾を解決するわけです。

ここが無意識なのが、差別問題などにも直結するのですが、それは別の機会に譲ります。

難しいのは矛盾解決の論理構造を意識下でつかいこなすこと

必要なものは

・感情のコントロール

・論理的思考

・そのための材料となる情報を十分に収集する能力

・上記を検証するメタ思考能力

これが全部行える人材は少ないと思われます。

またできないひとができるようになるには、相当な意識と努力が必要な場合も。それを全ての人に強いることはできないので、難しいとは言えます。

明日からできたら良いのは、自分で判断しようとすること

難しいからと思考を止めると、最初の騎手さんのような悲劇が起こり続けます。

そうならないためには、何ができるでしょうか。

優秀な人がマネージャーに収まる方向に物事を動かしていくことが大切です。

一つ前の項で述べたような素質を備えている人が、マネージャーとして腕が振るいやすいように空気感を整えることと、自分にとって都合が良いかではなく組織としての価値観に合致しているかどうかの文脈において善良かどうかを判定して、支持不支持を明確にすることができることは必要ですね。

OTwikiをリメイクしました。ゼロからのスタートです。(約3ヶ月前から)

長年放置していた、OTwikiですが、皆さんに利用してもらいたい気軽に追記してもらいたいと、フリーでリライトできるようにしていたら、文章のクオリティが酷いことになっていました。

この際なので、書くべき内容も明確にして作業療法に関係する人にも関係のない人にも使いやすくてメリットの大きい百科事典にしたいと思いました。

そしてそのためにはどうするべきかを考えました。

結論はゼロからの再スタート

その結果出した答えは、

「全て一旦リセット」

でした。

ので、記事の内容はすべて消しました。自分以外の方が編集してくださっている部分については忍びないので残そうと思いまして、そのような部分がないかどうかについて記録を調べて、保存をしています。

そのような部分については、移行できればと考えています。

目指すのは品質の高い記事

文字通りゼロからの再スタートなので、全ての記事は引き継いでいません。飾りなく、20時間くらいトータルでかけた記事も全て消しました。

記事を書くことで新たに整理されることもたくさんあると気づきました。

大切なのは、情報を常にアップデートすることです。

その点からも、中途半端なクオリティの記事に固執するのではなく、一度きれいさっぱりと消してしまうのが良いと思いました。

その代わり、リライトする記事は、全て以前の記事よりもクオリティが高いものにしたいと思います。

どのような質の高さを目指すのか改めて、言葉にして残しておこうと思います。

作業の力とメリットを全ての人が使えるようにする

読めば誰でも作業療法のエッセンスが使えるようにしたいと思います。

一年目の新人でも。

在宅で介護をしている人でも。

老人保健施設等、高齢者向けサービスを提供する施設でのレクリエーションを必要とする介護士の方にも。

そして、リハビリテーションを必要とする方自身にとっても。

もちろん作業療法士自身にとっても。

とにもかくにも、「全ての人の役に立つ」「全人類に貢献する」をモットーにします。

作業療法士だろうと、そうでないひとだろうと、喜んでもらえるような百科辞典にしていきたいと思います。

全ての人類が利用できるを目標に、作業療法のメリットを全ての人が感じられるような記事の作成を目指していきたいと思います。

OTwikiにできること

改めて、OTwikiにできることをご紹介させていただきます。

閲覧

全ての人にご覧になっていただけます。

誰でもどこでも、必要な時にお好きな端末から、必要な情報を調べることができます。

ぜひご活用ください。(とはいえ、ゼロスタートなので今現在は記事がありません。ぜひ記事編集にご協力いただければと思います。)

記事編集

全ての人が編集できるようにしています。

ただし、アカウントの作成とログインにご協力をいただくことにしています。なぜなら、スパム、広告による記事の汚染を防ぐためです。ご理解とご協力を何卒よろしくお願いいたします。

議論

記事を編集する中で、意見の対立が発生した場合は議論しながらより良い更新を模索することができます。

編集方針

OTwikiの記事の一つとして書いています。

どんどん追記していく予定です。

その他

Google Adsense(広告)を導入させていただいております。

仕事をクビになって、サイトを継続することができなくなるリスクがこの先絶対にないとは言えないと感じたためです。コロナショックで。

ご理解、ご了承、よろしくお願いいたします。

「ゾンビ細胞」で検索流入がめちゃくちゃ増えたので、理由を調べたら、違う意味で使われるようになっていたのが原因だった。

本日は余談です。サイト運営上のおもしろかったことです。あんまり作業療法関係ないです。

検索流入ワードに「ゾンビ細胞」が急上昇

このサイト「作業療法.net」は、

今現在大して検索流入ないので、急に検索が増えると検索ワードが明確にわかるんですね。

しかもそれが変なワードだったりするので面白い。

今回そのワードが「ゾンビ細胞」。なんじゃこりゃ、おもしろい。

とおもったので、調べたので、余談としてたのしんでください。

検索数が急上昇した当サイトの「ゾンビ細胞」の記事

検索流入が増えてたのはこちらの記事です。

ということで、記事をよんでいただければ、このサイトで紹介していたゾンビ細胞は、細胞の死後も形が崩れないで、細胞の形が保てるようにしてある細胞のことであると言うことがお分かりと思います。

今回の「ゾンビ細胞」の検索原因はこちら

あくまで、ネットで調べてみた結果ですが、十中八九間違いないと思います。

https://www.ntv.co.jp/sekaju/articles/428lgvieu419re1xdhy.html

ということで、今回は、「体の中で本来代謝されて消えていくべきなのに存在し続けてしまい、ゆくゆく体にダメージを与えたり、命に関わる場合もあるような細胞」という意味になっていました。

今回の検索急上昇の実際について

造語を作ったら、以前に同じ音の造語が作られていたケース。

しかし、以前の造語が世の中から忘れられていて浸透していなかったためにこのような現象が起こったものと思われます。

同じ意味のつもりでも実は違うことがある

調べたら、全然違う意味で使われていたことがわかりました。

検索ワードの意味が変わるというのはおもしろい現象だなあと思ったので、書き留めておこうと思います。

「ポイントカードはお餅ですか」

という有名な古典がありますが、それに通じるものがあるようにおもいます。

自覚がないだけで、日常生活においてもこのような齟齬が起こっている可能性を常に考えながら、生きていきたいものです。

【成功例?】昨年実習指導させてもらったOTSからの貴重な意見も含めた、実習指導についての個人的ノウハウのまとめ

備忘録です。今後とも、いち作業療法士として実習生を指導させていただく機会があるので、OTSを指導する側のOTRとして言語化を試みます。

作業療法士の側に、確かな臨床技術と、「しょうがないやるかあ」くらいの最低限のモチベーションがあれば可能な方法だと思います。

まえがき

本当はちゃんと論文にして発表すればいいんでしょうけれど、面倒くさいのでネットでいいやと思いました。

ただし、自分なりに誠実に書いてます。

実習での体験はおそらく、実習生のその後の人生を大きく左右します。自分の一挙手一動が、実習生の考え方になんらかの影響を与えます。そのへんは、いち作業療法士として妥協してはいけないところだと思います。

実習生指導に死ぬほど悩んだ去年までの自分と、今回も悩むであろう今年の自分と、どうせこまることになる将来の自分と、悩みを同じくするみなさまへ、参考になりますようにという祈りを込めました。

特にコロナな日々で、なんでも密にならないように、負担が軽くなるようにという方向で物事がすすんでいくようですので、そのあたりも踏まえて実習指導していければいいなとおもっています。

筆者背景

ここに書いていくのは、もうおわかりのとおり、あくまで個人的体験談に基づく情報でn=1ですから、大したエビデンスにもなりません。

しかし、私の個人的な背景については多少説明が必要と思います。

作業療法.netの中の人、ぼくhiroemon。サラリーマンといいますか、一応組織に属して働いておりまして。いろんな案件が、天から降ってきます。

すると、時に実習生OTS指導のお鉢がまわってくるのであります。

近しい同僚には、こっそり申し上げるところなんですが、「正直、学生の実習ができるような人間ではない。」と生来の自分自身については評価を下します。

ですが、組織人の辛いところは、向いているいないにかかわらず好む、好まざるにかかわらず、実習指導をしないといけない時がくるのでございます。

なにより、学生は実習担当OTRを選べません。かわいそうに。私なんかのもとに回されて、という感じです。

本当に、日々作業療法士の卵たる、学生さん相手に一生懸命教育しようと試みる先生方には本当に頭が下がる思いです。学生時代の自分みたいな学生が来たら本当に困るなあと思うので、私に教育は無理と自負しております。無理というか。

「何がなんでも、教えてやりたいというモチベーションが低い」というのが正しいでしょうか。

ですが、一応、本人にやる気がある学生にはとことん報いてあげたいし、そうすることでOTSの成長が加速すればそれはやがて、その人が関わる患者様が高い質のサービスを提供されることにつながるし、ひいては作業療法自体の全体の質の向上につながると思っています。

作業療法士が、OTS実習生指導で特に困る状況の一般論

じゃあ、実習で作業療法士と学生とが、どんなことに困るのかということを考えて対処法も考えておけば、ある程度スムーズにこなせるのでは無いかと考えました。

上記のような感じで作業療法士として働くうちに実習生を指導する機会に恵まれることがあります。

作業療法士側が好む好まざるにかかわらず、です。

学生もいろんなひとが実習にきます。

実習をとおして成長したい人もいます。そうかと思えば、カリキュラムで仕方なくっていう人もいます。

特に、「できることなら、実習にはいきたくないけれど、合格、卒業はしたい。」という矛盾した感情図のOTSの指導はじつに大変ですね。いまの教育システム上、卒業には実習合格が必須です。

本人に実習での成長のモチベーションが全くなくて、かつ不合格を恐れて「失敗したくない」が先に立つから動けない、何か言えば言うほど、引き出そうとこちらが関わるほどに萎縮してしまうタイプの学生さん。

一般論として、作業療法士が実習場面でOTS指導する時にこまるのはこの手の学生さんだと思います。

決して素行不良というわけでも、不真面目と言うわけでもないけれど、エネルギー低めで挑戦が苦手で、動きが悪く、指導されたことを忘れがちで、処理できない課題も溜まりがち。

そういう人には指導する側の期待と要求との間のギャップでフラストレーション溜まりがち。

そういう構造が、作業療法士とOTSの間で、お互いこまるんだろうなあ、という仮定のもと、うまくいく方法を模索して、去年実践し、その結果がちゃんと出て、後のち本人に聞き取りもさせてもらえたので、一事例として報告します。

指導法は、いつでもだれでもどんな領域でもOTRがOTSの指導に使える方法が良い

細かい条件が変わるとできない指導方法なんて正直臨床しながら取り組むのは無理ですし、そのせいで発生したOTR側のストレスがOTSにいくとナンセンスです。

ですから、実習生のタイプによって指導法を変えるとかそんなめんどくさいことはできないので、指導法はだれにでも使えるものでなければならないとおもいました。

今回備忘録として残すやり方は、実際去年と今年と、その前とで実習指導のやり方は自分の中では、一貫させてますし、学生から特にそれで困るということも聞かないので、それでいいのだと思います。なによりちゃんと結果が出てます。結果については後述します。

そもそも論として、やる気が全くないOTS実習生を早めに評価、特定する

作業療法士って真面目なひとが多いので、なんともできないこともなんとかしたいと祈りがちです。

しかし、作業療法士が実習指導のモチベーションをへし折られないためには、「全くやる気がないOTS実習生の指導はしない、諦める」の線引きが大事かなと思います。実習という、目の前に貢献すべき患者様がいるような状況にもかかわらず、まったくやる気を示せない人がOTRになっても将来の患者様が困るだけなので、冷静にバッサリやるべきです。

このやる気がないというのは、本人のメリットになる要素への改善を要求に対し、改善の動きが全くみられないことです。全くみられないというのは、文字通りゼロです。改善の要求は極めて具体的でなければなりません。しかも、本人の最大努力の1〜2割くらいの力でできるものである必要があると思います。要するに割と簡単にできることを、全くやらないのであれば、やる気がないとみなすという簡単な理屈です。

我慢して最低でも2週間は様子を見たいですが、それでも上記の条件で指示を出して、行動変化が現れてこないOTSは、作業療法士に向いていません。さっさと実習中止にして、学校に送り返します。

なんとかしたいと願っても、作業療法士が臨床の場でそのような学生を相手にするのは、相当の教育的知識技術が必要です。いち作業療法士には正直臨床やりながらの二足は相当難易度高いです。

改めて、実習生OTSの実習に向けてのやる気の有無の確認方法です。

詳しくは、後述する「改善のやり方」について、きっちりと具体的に実習生OTSに説明をしておきます。マニュアルとして手渡します。いつでもその気があれば参照して、最悪、手続きで思考ゼロでもできるレベルで、動きが見られない時に「できない」という言い訳を封じるよう、「やらない」が明確となる形で渡します。

そうすれば、判別が非常に簡単になりますので、あとは説明マニュアル化した内容をを取り組む気があるかどうか、能力の有無の影響を極限まで減らした状態の課題を渡します。それでもなお、変化に向けた行動が全くできない場合には、やる気がないのだ、と判定します。とにかく、課題は実習生OTSにとって非常に簡単で「できない」のではなく「やらない、やっていないのだ」ということが明らかになるように構造化します。

いち作業療法士として、業務と並行して指導・育成できるOTS量には、どれだけ最低限の指導法でと言っても、限りがありますので指導不能の判断はしょうがないと思います。さすがにやる気ゼロの学生さんはやりようがないです。賛否あると思いますが、本当は臨床に費やすべき時間や労力をボランティアで策以上、コストパフォーマンスの良い学生に労力は温存しておくべきという考え方です。

学生の側としても、引導は実習終了ギリギリになって渡されるよりも早めのほうが納得できるのでは無いかと思います。

OTS実習生に改善の行動が見られるが、一切結果につながらない上に同じようなミスを繰り返す、学習に困難さを認める場合

作業療法士の側が何度言っても、同じミスは繰り返すわ結果にはつながらないわ、となると本人のやる気を疑うのは致し方ないと思います。が、上記のようにちゃんとやる気の有無は判別してあげるべきと思います。やる気はあってアクション起こすことができるけどうまくやるだけの学習スキルが乏しい場合もあります。やる気があるなら、実習はできるとみなします。

たとえ、実習指導側の作業療法士の言うことがうまく理解できず、誤解してしまい「わかりました」がそうでなく、同じ失敗を何度も繰り返し、根本的に解決に至れない枝葉の部分にとんでもなくたくさんの時間を費やしてしまうOTS実習生だったとしましょう。

だとしても、改善しようとして起こすアクションがあるならば、うまくできないだけでやる気はあるのだと判断して、やり方を教えるなどしてハードルを下げます。

決して、就職して使い物になるレベルまで育てることは、実習指導者の責務ではないと思います。本人に要求できる能力の量があまり多くないのに、あれもこれもと要求しても、OTS実習生の中には、おそらく何も積み重なりません。

実習を指導する作業療法士の側が要求ハードルを高いままにしてほうっておくと、実習生OTSはストレスが高い状況のままになってしまいますし、作業療法士のほうも無駄にイライラしてしまいます。

作業療法士は、そうした学習に困難さを抱えるOTSに対して多くを求めることは諦めましょう。どうせ、OTRの側にもともと大して教えるモチベーションは大きくなんてないんですから。それよりは、下記の大方針に基づいて各実習生の身の丈に応じた指導を行うべきと考えます。

大方針 背中で語って、学生に生じた疑問に答える時のみ、言葉で説明

やる気のある学生も、やる気のない学生もいます。

私のように、臨床に対するモチベーションと比べると比較的やる気のない作業療法士もいます。

では学生とOTRの一番の違いは何かというと、成長の方法と、その源となる「改善のやり方」について知っているということです。実習生OTSを指導する時に、作業療法士がやるべきことはただ一つです。それは、作業療法士になってからも、患者様にとって優秀な作業療法士という方向性に向かって成長するための「改善のやり方」とその哲学と方法について教えてあげることが一番だと思ってます。

ですが、本心といたしましては、恵まれるというよりもお鉢が回ってきたのでしゃあねえという感じです。あんまりモチベーション高くないので、ふだんから実習生さんが来た時のために準備をあれこれして備えるタイプじゃないんですよ、ごめんなさいね。

ですが、学生さんにおかれましては、どんな人間が実習指導につくかによってその後の人生が大きく変わってくるっていうのは正直あると思います。つまり、実習が自信を形成する土台となるかどうかによって、実習生やOTSであった人が、OTRとなったその後、作業療法を好きになって頑張れるかというところに大いに影響することは間違い無いと思います。

働く作業療法士のやってることをまずはそのままOTS実習生に見せる

指導する側の作業療法士がちゃんと働いていれば、それをみせるだけでよいのです。ぐだぐだと能書きを垂れる必要もありませんし、たれたところでうまくいきません。

経験の量に違いがあることを抜きにして、作業療法士がOTSにあれこれ説明してもどうせOTS実習生は消化できないからです。自分が普段やっていることを、そのまま見せるだけなら時間も手間も必要ありません。

これなら、身体障害、精神障害、老年期、発達、就労、行政、どこであっても関係ありません。作業療法士の側はちゃんと仕事をして、その仕事内容を見せるだけ。

この段階は、言葉がいらないので簡単だと思います。

実習指導作業療法士は自分の臨床を見せた後に質問があれば、背景とエビデンスを説明する

その後、実践に関して実習生OTSから質問があった時のみ、実践や介入、さらにはその背景について言語化したものを渡します。

とはいえ、指導する側の作業療法士の側としても、いつも考えてることだったりすでに知っていることだったり勉強済みのことを、聞かれた範囲で一問一答型で答えるだけなので簡単だし、簡潔です。

なおかつ、作業療法士側が説明することは、学生本人の興味関心気づき疑問をベースにしてすでに引っ掛かりがあるところの周辺についての情報なので、OTS本人の中に残りやすいのでコストパフォーマンスが良いのが最大の魅力です。実習指導で大切なのは、実習が終了したときに学生の中にどれだけの学びが残っているかで判定されるべきだと思うからです。

要するに普段の臨床の流れと同じ流れで実習指導するだけ → 簡単

実際問題エビデンスや根拠、確からしさに基づく作業療法は、普段から作業療法士ならみんなやっていますし、説明責任によって患者様相手に説明もします。そもそも、作業療法士は、今現在患者様に対して自分がやってる治療介入アプローチがどうしてそのようなものを選択しているか、なぜそれを選び取っているのかについての根拠に基づく臨床、評価介入を普段から仕事として実践しています。

ですから、あとは簡単で、実際にやって見せて、「なにか聞きたいことありますか」で、質問あれば答えるしなければそれで終わりです。作業療法士側はOTS実習生本人の質問、疑問が解決するように自分の意見を正解では無く一つの意見であることを明示した上で伝えます。もしも、質問がなければ、それ以上こちらから「質問はないのか」と問う必要もないと思います。

メリットは違いに、短時間、軽負担で実習指導が可能になる

この実習方法は、OTS実習生側に、臨床場面を五感を通して具体的に体験をしてもらいます。その体験を自分で言語化してもらうことで、OTS側の学習を効率化するのが狙いです。それが、本人疑問をもとにして説明する理由です。

実際、その方が、短時間で済みます。今時の潮流にも合致していてそのあたりの整合性も問題ありません。

やる気や能力のある人への個別フォローも十分可能

また、本人の興味関心モチベーションの高さ、技量能力に応じて量や密度を調整しながら本人に情報を渡すことが可能になるので、説明する側のOTRとしても、非常にやりやすいです。負担軽減が時代の流れとはいえ、やる気のある人の学習機会が奪われるのもかわいそうなので、その余地も残せるということでこのやり方が良いと思っています。

実習も臨床も長距離走であることを学生には伝える

ただし、大切なことは、学生に短期的なハイパフォーマンスをもとめてはいけないし、実際にそこは求めないことを言語化して伝えることです。

本人の疑問を主軸とした実習指導は実際やってみると、やる気やモチベーションを刺激しやすい手法ですが、その反面息切れを起こしてしまいかねないほどの頑張りを引き出してしまうこともあります。

本来実習とは、あくまで、今後の作業療法士人生を、OTS本人とその顧客である患者様にとって有利となるように行動できるその基礎づくりのための貴重な体験となるべきものが実習だと思います。

ですので、実習のパフォーマンスに全力投球して、振り返りの余力が残っていないようでは話になりません

そのことについては、実習の始めに言語化して伝えるようにしています。いくらその瞬間のパフォーマンスが高かろうと、積み重ねる余力が残っていなければ、長期的には、低いパフォーマンスを着実に積み重ねる人の長期的成長に必ず追い越される日がきます。

作業療法士が実習生OTSに実習中で指導のポイントにすべき3つのこと

すでに臨床経験がある作業療法士が実習中のOTSに実習指導をするうえで大切にするべきは、3つのポイントで説明できます。

①短期的パフォーマンスよりも長期的な成長が重要であることへの理解

②持続可能性な成長に必要な自発性とモチベーションを高める方法をつかませること

成長のサイクルの回し方についてやらせて体感させること

以上3つです。

①については、既に上記で述べたとおりで、積み重ね続けるほうが長期的なパフォーマンスは絶対に高いですので、着実に積み重ねることが大切と理解を促します。

②については、人から言われなくても自分で動き出せるようになるための方法をつかみましょうということで、そうするために必要な自己内省を求めます。

③については、本人の言葉でPDCAをやらせます。

めちゃくちゃ優秀なOTSの場合にのみ 完全アクティブラーンニング

要するに、本人の自律思考能力の強化の比重を極端に高めます。

即戦力育成モードとでもいいましょうか。

具体的には評価から、介入までのプロセスを完全に自己決定させます。

つまり指導者であるはずのOTRは、ほとんど説明指導しません。

何も教えない。

聞き役に徹する。

肯定と否定の代わりにこちらは、問いかけを投げ返す。方向性に関するヒントになりうる問いを投げ掛け続けるのみ。

不安定で曖昧な状況下のなかで、少しずつ曖昧さを仮定仮説に基づく実践によって取り除き、その結果さらに積み重ねた実践のみが教師という極めて実践的な内容です。

議論と反芻と推敲によってトライアンドエラーで車輪の再発明を行う感じです。

普段自分がやっている頭の中と行動原理を習熟してもらうことをイメージした内容です。

ですが、そもそもこれが実践できる大人って、そんなに多くないかなと思います。

能力云々ではなく、実践し続けることがしんどいからです。答えが明確になるかどうかわからない状況下で常自分を鼓舞し続けて取り組み続けるのは、自分自身との対話が欠かせません。

楽に生きることを肯定される世の中においては、なかなか難しいのではと思いますので、後輩にすらあまり勧めませんし、自分もメンタル落ちてる時にはしんどすぎてできません。

まして、自分の意思決定と指導者からのプレッシャーを混同しやすい実習という状況下においては、アクティブラーンニング的に勧めるには、学生が潰れないよう実習指導者側のOTRに相当な配慮が必要になると思います。

特に、学生が一人しかいない実習の時には精神的孤立感を深めてしまうリスクあると考えます。要注意です。

学生事例と結果

昨年までに受け持たせていただいたとある方ですが、上記までの方法で、実習指導を行いました。

見学実習と本人質問への回答から開始して、どの程度実習を進めるかは実習生OTSの自主性にまかせました。

たまたま、やる気と能力が非常に高い方でしたので、こちらが学生さんと関わらせていただく時間も質問量の増加や、質問の質の深さが増すに伴って自然と長くなりましたが、学生さんの主体性と能動性とモチベーションは比較的高く推移し続けたかと思います。必要以上に、こちらから与えないことは、教わる側の成長を促進することもあるなということを学びました。

教えたい欲求に任せて教えると、本来の意味で助長してしまう、かえって成長速度を低下させることにつながるのだと、そう教えてもらったように思います。

最終的には、アクティブラーンニングできる方でしたので、実習も終盤の頃、介入とレポートを考える段階に差し掛かった時には、こちらは問いかけを投げる程度で、自分で関わりその体験をもとに自分で考えて評価してもらい、その評価をもとに既存知識から仮説推論を行ってもらい、それらが正しいという仮定のもと介入をおこなってもらい、結果から有効性の判定までしてもらうという、今考えると鬼のような内容の実習でした。

もちろん、学生さんの失敗の全責任は、指導者作業療法士である自分にあるのでそのあたりの意味でも自分自身の成長にとってもよかったと感じています。

おかげさまで、無事に実習終了となり、無事卒業試験も合格し、国家試験も合格し、コロナの中でも無事に働いておられるとのことですが、正直どう思ってたのか実習終了してしばらくしてから(つまり、利害関係がなくなってから)聞いてみました。

曰く「実習の時には、自分で判断しなければならず、結果確信が持てずに困った」一方「今確かに経験が役に立つ場面も多く、肯定はできる」というありがたいお言葉をいただきました。

一銭の得にもならないのに、こうして教えてくださったことが、まずうれしかったですね。もう少し頑張ろうと思いました。

実習生OTS本人の学習効果は高い

この情報過多社会において、臨床に出てからも役立つというのはなぜでしょうか。

間違いなくそれが本人が自分で体験し、そのなかでのひっかかりを疑問という形で言葉にして発信し、そこから深まった情報をもとに行動する、その結果をもとに評価を再構成する、あるいは継続の判断をする、という改善のやり方を実践したからだと思います。

こちらが答えを提示して、トップダウンで行うだけでは、誤りなし学習だけでは、就職後の臨床の場面での役立ち度合いはあまり高くなかったのではないかと思います。

注意すべき点

同時に、いくら優秀でやる気があって実習生OTSがアクティブラーンニング的な学習スタイルができるからといって、正解不正解を全く示さないというのはやはりやりすぎだったのでは、とずっと悶々としていました。思い切って聞いてみると、じっさいそういうお言葉を頂いたので、本人の成長を阻害しない程度にもうちょっと確信の持てる要素をなんらかの形で手渡すのが心理的負担を軽減する上で大切だなあと思いました。

実習生OTSへの指導で大切にしたいことは自己教育への自発性を身につけさせること

実習中にたくさんのことを教えるよりも、自分なりに一人で勝手に成長していく方法を身につけてもらえればいいと、そう思っています。

実習中にたくさん食べさせても、自分一人で調達できるようにしておかないと結局痩せ細っていってしまう、そんなイメージです。

魚をあたえるより、取り方を教えろっていう話があったのではなかったでしょうか。それはきっと作業療法士が取り組むべき作業療法の本質の一つだと思います。

そのためには、それなりに自分自身のことを知り、見つめ直して貰う必要があるんですが、なんだかかなり長くなったので、それはまたの機会に譲ろうと思います。

そのための必要最低限の要素が、この文章の冒頭の実習生OTS本人が自分自身に行動を強いれるだけのやる気なのではと思っています。

まとめ

実習指導は本人が自分で頑張れたら評価する

それでいいし、それだけでいいと思います。

作業療法士も実習生もラクに効果的な実習ライフを

エビデンスベースではROM-exは拘縮に対する関節可動域の改善に寄与してるかどうかは一切不明という論文が存在する

たまには、ちゃんと臨床の役に立つ記事を書かないといけないかなと思って、書いてみます。

なかなか刺激的な記事内容と思います。

タイトルのような結論、つまり

「他動的なROM訓練は拘縮に対する関節可動域を明確に改善しなかった」

を述べた論文がありますのでご紹介します。

この論文のエビデンス力はかなり高いです。

翻訳しながら、論文を読み解いてみたので、自分の備忘録のために書いております。

ストレッチ・他動的ROM-exは神経学的・非神経学的な拘縮の治療および予防に有効か

この論文の問いは、

ストレッチは神経学的・非神経学的な拘縮の治療および予防に有効か

です。

ようするに、関節可動域の改善を目的とした他動的ROM-ex・ストレッチに意味はあるのかと言うことです。あくまで関節可動域改善に寄与するかという意味で、ですが。

結論 「明確な成果は不明」

他動的ROM-exで、成果らしい成果はないということが、論文のメタアナリシスによって報告されました。むしろ、副作用があるとな。副作用の詳細は、元の論文読んでみてください。

以上です。

但書

ただし、下記のように無意味だ、効果はないと断定した書き方はされていないようです。効果の検討の余地についても書かれています。

諦めずに頑張る余地は一応残されていますが…どうでしょう

今後の研究によって本レビューの結果が変わる可能性は低い。しかし、他の介入と併用したストレッチの効果を検討することには価値があるかもしれない。例えば、運動訓練やボツリヌス毒素を用いた神経疾患者へのストレッチの効果などである。また、長時間(例えば数年)のストレッチの有効性を具体的に検討する価値があるかもしれません。また、特に重度の拘縮を発症するリスクが非常に高い人(外傷性脳障害者など)における拘縮予防のためのストレッチの有効性をさらに検討する価値があるかもしれません。

このコクラン系統的レビューの結果は、理学療法士が長年にわたって行ってきた基本的な仮定に反するものであり、理学療法の専門家にとって挑戦的なものである。すなわち、ストレッチは拘縮の治療や予防に有効であるということである。しかし、現在では、ストレッチが関節可動性に臨床的に意味のある効果を持たないこと、また、これらの結果は様々なサブグループ分析にも頑健であることがエビデンスとして証明されています。しかし、これらの結果を何ヶ月も何年も定期的に行われているストレッチに適用する前に、注意が必要である。また、長時間のストレッチの有効性は不明である。

作業療法.netがhttps://reader.elsevier.com/reader/sd/pii/S1836955317300280?token=231984AF1F1C85C61738EC723DFEBED53EF15D8FB277016AF54823FEAAD871411BD1D239090B3C3EB7219700F6ABD512をDeepLで翻訳

「他動的ROM-exには明確な効果を認めません」をどう読み解くか

他動的ROMが全く無意味とは思いません。精神的な指示の意味において。ですが、身体障害の改善目的でなんとなくやるだけでは、コストパフォーマンスは悪いと読み解くべきと思います。

銀行がROM-exを関節可動域改善を成果指標とした事業に投資してくれるかという観点で物事を考えると、多分資金出してくれないとおもいます。

今現在、国はROM-exを関節可動域改善のために実施する療法士の働きに、お金を出してくれています。

この論文のメッセージを改めて整理すると

拘縮患者の関節可動域改善にストレッチは正直明確な効果がみられない

ただし長期的継続的に続けるストレッチの無効性は証明できない

つまり

もしROM-exストレッチを始めるなら、結果がでるまで継続してやり続けてようやく結果が出るかもしれないし出ないかもしれない

ということです。

まとめ

ストレッチや他動ROM-exには明確な改善効果を示すエビデンスがありません

リソース

Stretch for the treatment and prevention of contracture: an abridgedrepublication of a Cochrane Systematic Review

関節可動域の拡大や維持を主目的としてROM-ex・ストレッチを行うことは、短期的な場合には改善効果がほとんど期待できないので意味性は薄い

個人的意見

徒手的訓練、他動的ROM -exは、ちゃんと、触診や仮説検証をきっちりとやって、ターゲットとなる筋肉を明確にした上で、ちゃんと行えば効果はあると感じています。逆に、漫然とやっても効果は全く期待できないとも思います。

また、対象者の方の認知機能が与える影響は大きいと思います。実際、認知機能が低下した方に対して、ROM-exをやって改善がみられることはほとんどありませんでした。私個人が関わった症例様では、2例改善が見られましたが、大多数は改善が見られていません。

このように、どのような合併症のある方にたいして、どんな介入をするかで結果や成果は変わるだろうと思うのですが、一応エビデンスはないと言うことで、もし今後ROM-exやるときには、謙虚にやりたいと思います。

雨がたくさん降るのはこれからの毎年のことと決めつけて、備えて生活をしないといけない

防災グッズ

毎年豪雨災害が発生

西日本豪雨災害が印象に強いですが、強い雨がふりつづいて河川のキャパシティを超えて、その水が街中に溢れるという現象が毎年のものとなっています。

以前はこれほどの雨が毎年降るということはなかったことのように思います。

私個人としては、毎年のことになりつつあるというふうに認識を改めます。

来年以降もきっと同じような現象が起こり続けるでしょう。

原因はよくわからないですが、教科書で小学生や中学生の頃に学習した内容では対応困難な状況に変化してきているように思います。

というか、災害が発生するのが普通で、その発生に備えるような生き方ができないと、何か起こった時に「自然には勝てない」と思います。

自治体も対応が困難

その度に、インフラが破壊され、復旧工事に多額の資金が必要となっています。

実際、家を立てるときに水害まで考えて家を立てる人はそれほど多くないのではないかと思います。

災害が起こりやすいところに、家がたくさんたっているけれども、これまでの雨量では災害となってこなかったということだと思います。

農業をやっているのであれば、河川氾濫の近くに家を備えることにもそれなりの経済合理性を感じるのです。しかしその跡地に高齢者向け施設を建設するのは危ないのだという認識が広がるとよいと思います。

しかし、そのような高齢者向けの施設、既に建ててしまっているところも多いので、なかなか根が深い問題だと思います。

できる人はなるべく自衛を

自衛が困難な方にリソースを配分するためには、自分で自分の身をまもれる人が自分のことを守るのはそれだけで立派な社会貢献であるという考えが広まって然るべきとおもっています。

まずは自分のことを自分でしっかりと守る。

自分の周りの大切な人を、自分でしっかりとまもれるように準備すること。

それだけで、世の中はよくなるんだというところをモチベーションにして、自分自身を鼓舞できるというのは大切な能力なのではと思います。

もっとできる人は周りの人に備えを促す

正直ちゃんと備えている人がいる自治体は、ありとあらゆる災害後の混乱に強いです。レジリエンスという言葉が流行したことも記憶に新しいですが、東日本大震災においてもてはやされた言葉です。

しかし、できる人は普段からの備えができる人、普段からのつながりができる人。

何もない時に、何かあった時の備えの大切さを説くことができる人です。

言う人によって伝わりが良かったりするのが、日本の風潮です。あの人が言うならそうしてみようと、そういうモチベーションが世の中を動かしていることも事実です。

そういう立場にある人は、その権力を自覚して平時からまわりに大切さを説く責任があるのではないでしょうか。

雨に備えて、晴れの日に傘を買う

本来であれば、これで記事が一つ書ける内容ですが簡単に書いてみます。

雨が降ったら、傘を買う

これは実は、対応能力としては下の中ですね。

雨に備えて、晴れの日に傘を買いましょう

まあ、傘を買えるお金をもっているだけましと言う意見もあるでしょうが、普通は家に傘をかって備えていて、雨が降ったとき、あるいは天気予報で雨の予報のときにはすぐに使えるようにしておくということが大切ですよね。

何かがおこってから、いま、すぐに買おうとしても傘が売り切れていることもああるかもしれません。

このエピソードからわかるのは普段からの備えが大切ということです。

普段からの備えが大切

では災害時どのようなものがあれば、助かるでしょうか。

たとえば、とりあえず、普段から生活物資の準備と買い溜めはしておこう

時間があれば準備ができて、そんなにお金もかからないですので備えをお勧めします。

よろしければ、1ヶ月分くらいインフラが止まることを想定して、ひと家族分確保しておくと良いと思います。たとえ災害が起こらなくても、他所での支援物資として消化したり、普段使いして消費することもできるので、問題ないと思います。

たとえば、とりあえず、ハザードマップくらいは頭にいれておこう

国土交通省がお洒落なサイトをつくってくれています。

https://disaportal.gsi.go.jp

各自自体もハザードマップ出してます。確認しておきましょう。

たとえば、とりあえず、車の燃料は満タンにして、土砂崩れと水没のリスクの少なそうな、安全な場所ににがす

実体験として、ここは間違いないです。スマホと充電コードと燃料満タンの車があればなんとかなります。

生命が危ないときに逃げるのはもちろん、命がたすかったあとの経済活動でも車の有無は、大きな差となって現れます。

生活物資の確保も、車がないと本当にとんでもなく大変です。

車ごと家から離れて逃げましょう。

家は動かせませんが、車は動かせます。

物流拠点に近づく方向にむけて逃げるルートを検索しましょう。

河からきょりのある、空港の近くなど、地盤の確認をして建築されていると思しき建物の近くが良いと思います。

普段から目星をつけておかないと難しいですね。

やっぱり普段から。

たとえば、とりあえず、情報インフラにアクセスする手段を検討しておこう

スマートフォンは必須です。そう言う点も考慮して業者を選びましょう。

できればすぐに持ち出せるノートパソコンは欲しいところです。パソコンだけではもちろん役に立たないので、その周辺機器もすぐに持ち出せるようにしておきましょう。

汎用的にいろいろなことに役立ちます。

あとはラジオ。スマートフォンがダメになったときに、情報を得られる大体手段があればいいですね。車があれば、ラジオは聴けるので、車があれば大丈夫と思います。

たとえば、とりあえず、家族と連絡が取れなくなった時の対処法について考えておこう

インターネット回線が死ぬということはあり得ないですが、電話回線が使えなくなる、端末が水没などして故障する、もしくは、電源が喪失して電池がなくなるなどして、連絡手段がつかえなくなる可能性があります。

そうなったときにどのように連絡を取るかをあらかじめ決めておくと心理的安心感が段違いです。

家に帰らず、安全な場所集合など簡単で絶対のルールを設定しておくと、命を無用なリスクに晒す必要がなくて良いとおもいます。

まとめ

とりあえず そなえは ふだんから。