作業療法士が怪我をしてADLが制限され、QOLが低下した事例【ICF編】

筆者が肩をやっちまって、日常生活に支障が出ているので、作業療法目線で報告する。です。

作業療法対象

筆者。

主病名

烏口腕筋損傷疑い(自己評価なので違うかもですが・・・)

受傷時の状況

屋内の滑りやすい場所で転倒。

その際、目の前にあった手すりを、肘関節及び手首をほぼ伸展した状態で、つかむも、全体重の負荷が一挙に肩関節に伝わり

「ゴリボリゴリっ」

と、鈍い音がして損傷。

心身の状態、現在の状況

上肢を挙上すると疼痛(++)

「なんで怪我なんか」と抑うつ傾向

活動制限、生活上の困難(現状において)

・更衣動作がしたくない。

・車の運転が本当に苦痛

・家事動作がただでさえ面倒なのに、さらに億劫に

・Apple Watchで支払う時に、肩を挙上しないといけないので苦行

社会性(参加)

・通勤、余暇活動(特に運動)、支払いが本当に苦痛

・外出意欲の全体的低下

リハゴール

・余暇活動の運動が不快なくできるようになる

介入

湿布やら塗布薬を併用しながら除痛

痛みがあったら辛いので、対処療法

マッサージや無理のない範囲の運動で、血流を促進し、自己治癒を高める

おまじないみたいなものだが、血流大事

支払い方法や家事動作のフローを見直して、無駄な動きを削減する

支払いは、Apple Watchの代わりにクレジットカードを使用しお釣りを受け取らなくてもすむようにする。

洗濯と洗濯干しが一番苦痛なので、こまめに洗濯し、一回量の洗濯物を減らす。洗濯物を低い位置に干せるように、家具や調度品を工夫する。

など。

運転の方法を見直し、なるべく受傷側の肩関節の動きを必要としないよう留意する

ついつい使ってしまうので、スピード出さないようにしてゆとりのある運転を心がける

関節可動域が制限しないように、疼痛域ギリギリまで気合で動かす。

ある程度の痛みはしょうがないと納得し、受容する。

コラム 思ったこと

健康のありがたみは、やっぱり怪我とか病気するとよくわかるですね。

自己作業療法

ICFっぽくやってみております。

自分に作業療法するのはいい練習だなと思います。

こうやってみると、ICFのいいところは簡潔に情報をまとめることができるのでわかりやすいところだと思います。作業療法としてやることが明確になるだけでなく、今どんな状況なのかの共有や確認が単純な箇条書きレベルでわかりやすくまとめられるのはいいな、と思いました。

ただ、自分にするからいいや、とざっくりしてる感じもあるので、その辺は再評価に生かしたいと思います。

抑うつ傾向に対するアプローチが何もないってのは、臨床経験が浅い筆者のような人間はよくやってしまいがちですという戒めでした。

 

まとめ

ICFは、シンプルかつ強力な作業療法のツールです。

便利なので、作業療法士としてはICFは使えると良いと思います。

一方で、ICFは簡便になりすぎるリスクがあるので、もれなくだぶりなく評価できてるかはチェックが必要です。

作業療法における研究エビデンスの質の考え方

エビデンスに基づく作業療法(EBOT)は、エビエンスに基づく医療(EBM)のひとつであり、現在ホットな考え方であります。

EBOTにもいろいろな捉え方がありますが、データの蓄積を作業療法の中に生かそう、普段の作業療法の臨床にきちんとした根拠を持っていこうというそういう考え方です。

つまり、作業療法実践に後から理由をつける(考察する)だけでなく、それらの蓄積をきちんと統計処理したデータとして根拠に変換していこうじゃないか、それをもとにして作業療法の介入を行おうじゃないかというそういうこころみ。これがこの記事で使うEBOTの意味だと思ってください。

エビデンスには「質」がある

そのエビデンスには「質」があるという考え方はご存知でしょうか?

簡単にいうと、どの程度信頼が置けるか、ということの格付けです。

そもそも、エビデンスとは根拠のことです。根拠とは、人が何かの行動をしたり判断を下したりするときの判断材料となるような情報のことですから、「質」とはつまり、こういうことです。

判断を下すうえで、

とても参考になる情報は、エビデンスとして質が高く

あまりあてにならない情報は質が低い

こういうことになります。

「何を当たり前のことを」

と思われるかもしれませんが、とても大切なことです。

 

なぜなら、自分の感覚であてになると確信して判断したことが、実際にはあんまりいい結果につながらなかったという事はよくあることだからです。

たとえば、目の錯覚は、人の視覚が現実を歪めて認識するために起こる現象です。

感覚の歪みと同様に、歪みは人間の思考や判断にも起こり得るため、どんな情報が根拠として優れているのかということを主観的に判断する事はあまり得策ではありません。

どういった情報があてになって、どういった情報には価値が低いのかということを客観的に明らかにしておくことにはとても意味があるのです。

エビデンスの「質」 本題

前置きが長くなりましたが、本題の研究エビデンスの質の話です。

皆さんは、自分が書いた事例報告と、権威ある先生がいった一言はどちらがよりエビデンスとしての質が高いと思いますか?

研究エビデンスの質のクラスは、以下のようになります。(上から順に質が高い

1a 複数のランダム化比較試験(RCT)の体系的レビュー

1b RCTが一つ

2a 複数のコホート研究の体系的レビュー

2b コホート研究が一つ

3a 複数のケースコントロール研究の体系的レビュー

3b ケースコントロール研究が一つ

4  事例研究、報告

5  権威者の意見

ご覧の通り、権威者の意見は、裏付けとなる証拠がない場合や批判的吟味がされていない場合、あなたが書いた事例検討に劣るエビデンスしかありません。(と、EBM Oxford Centerは言ってます

補足

ランダム化比較試験というのは、統計学的な研究手法の一つです。

素晴らしい手法なんですが、その理由が気になる方は、下記参考文献をご参照ください。

コホート研究は、影響を与える因子の投入・暴露の前後を比較対照する実験で、放射線の健康調査などでよく行われます。

ケースコントロール研究は、後ろ向き研究ともいわれ、結果が得られている状態で、その結果を左右した因子は何かを比較対照によって明らかにする研究です。

研究法の詳細については、各種研究法の教科書が出版されているのでこちらもとりあえず下記参考文献にてご紹介します。

最後に

作業療法のエビデンスの最新情報は、やっぱりインターネット上で、しかも英語で確認ができるとのことです。

英語、大事ですね。

参考文献

文光堂;作業療法士 プロフェッショナル・ガイド 作業療法とは何か;編集主幹 杉原素子 古川宏

三輪書店;作業療法士のための研究法入門;鎌倉矩子

医学書院;作業療法研究法 (標準作業療法学 専門分野);山田孝

ダイヤモンド社;統計学が最強の学問である[実践編]—データ分析のための思想と方法;西内 啓

作業療法でやってることを公表するためのポイント

はじめに

有効なアプローチだったり視点だったりを、発表して他の人と共有するのって簡単なようでかなり難しいことだなあと思います。

いろんな先生の素敵な発表を見るにつけ、「こんなことが大切なんじゃないかなあ」と感じたことをまとめてみます。

コメント欄にて、突っ込み大募集。

まず「気がつく」こと

「あれ?」と疑問をもち不思議がってみることが大切なんだと思います。

自分なりの視点や考え方で、それを分析してみること。

時間がかかることなので、ついついとおざけてしまったり。

現状に満足してしまったり。

そもそも、言語化が困難な領域で仕事をしているせいか、ついついそんな状況に陥りがちです。

日常業務のふとした引っかかりを大切にして、きちんとその分析に力を入れることが公表するに足るネタを準備するためには必要不可欠だと感じています。

公表への「モチベーション」

自己顕示欲でも何でもいいのです。

とにかく、自分のアイディアや発見を誰かと共有したいという強い思いが必要です。

なぜなら、公表するための準備は、地味でめんどくさい作業が多いからです。

実習の成果とも言える、「評価レポート」について「二度と書きたくない」と言っているOTRの友人は多いですが、ひろえもん個人としてはそれが「地味でめんどくさい」作業だからだと思っています。

それを乗り越えるだけの「モチベーション」が必要です。

自分の何気ないところからのアイディアが他の人が困っているときに活用されて、それで誰かが幸せになれるって素敵なことですよね。

そんなことをモチベーションにしてもいいかもしれません。

推敲の遂行

人は話すときについつい自分の言葉を使ってしまうものです。

それは、相手にとってはよくわからないことばかもしれません。

自分にしかわからない言葉で発表することほどムダでむなしいことはありません。

極端に言えば、英語しか分からない人に、日本語で理屈を説明しても無意味なのと同じです。

せっかく頑張って、書いてまとめたのに、誰もその素晴らしさを分かってくれないとしたら、多分その次はないでしょう。

モチベーションが続きません。

自分自身の経験を振り返ってみても、分かりやすい言葉に置き換えたり、シンプルな文章にすることで自分自身気がつかなかったことがみえてくることもあるように思います。

魅力的な論文というのは、だれもが分かりやすい言葉をつかって書かれていたり、主張することがシンプルだったりします。

とにかく分かりやすいのです。

だから、推敲をがんばることが必要だと思います。

この段階で、他の人から違う目で意見をたくさんもらえるかどうかというところは、発表の善し悪しにずいぶん大きく関わるのではないでしょうか。

一般化をねらう

自分自身の具体的な内容を書くだけでなく、他の人が使えるように一般化することにはとても意味があるなと思います。

具体的な事例から、ポイントを抽出して抽象化すると、それはモデルになります。

次に、同じような構造の問題に自分が出会ったときに、すぐに解決の糸口を見つけることが出来たり、だれかとその糸口を簡単に共有できるようになります。

自分自身の実践の根拠ともなり得るので、この一般化までこぎ着けることが出来るかどうかはとても大切な視点ではないでしょうか。

疑問の解決方法を知る

この言葉を使ってしまうと、一気に取っ付きにくさが増すのであんまり使いたくなかったのですが、他にふさわしい言葉も見つからなかったので使わせていただきます。

疑問を解決するというのは、すなわち「研究」です。

研究と聞いて、「難しそう」という印象を持つことは仕方の無いことだと思います。

実際、疑問を解決するのは難しければ難しいほどに価値があると見なされます。

疑問を巧く解決するためには、その疑問がどういう構造の物なのかをきちんと分析し、適切な研究手法を選択する必要があります。

良く言われる大きな分類としては、「量的研究」と「質的研究」があると思います。

少なくとも、この二つの特性と違いはきちんと把握しておくことが、価値ある公開のネタを作れるかどうかの大きな鍵であることは間違いないと思います。

よくわからない場合には、大学とかの作業療法学の権威に聞いてみるのも手だと思います。

優秀な先生であれば、その辺の手法については、きっと丁寧に説明してくれるとおもいます。

おわりに

自分のアイディアや実践を公開まで、こぎ着けるのはかなり骨の折れる仕事です。

心も折れそうになることは多々あると思います。

ですので、やっぱり一番大切なのは、公開までのモチベーションをいかにして高い状態で維持し続けることが出来るかだとおもいます。

そういう意味では、著名な医学雑誌への掲載を目指してみるというのも、一つ有効な手だてかも知れません。

あとは、誰か仲間と協同研究するとか。

いずれにしろ、たくさんの賢いOTRやOTSの皆さんの面白いアイディアがもっともっと世の中に出回ったら、この世はもっと面白くなるんだろうな、そう思う今日この頃です。

精神科の集団OTでは、訴えの多い患者様に何処まで対応できるか?

はじめに

自分の所属する病院の精神科OTでは基本的に、集団の形をもちいています。

ところが、集団で提供するレクリエーションなどでは訴えの多い患者様に十分に対応することが困難な場合があります。

昨日、実際にそんな場面を経験したので、この場で共有したいと思います。

精神科作業療法の概要(集団編)

実習前の学生さんや一般的な生活を送っている方のためにちょっと精神科の作業療法がどんなモノなのかの概要を書いてみます。

基本的に、2時間の枠組みの中で作業療法としてさまざまな活動を提供しています。

うちの病院には作業療法室があり、そこに各病棟から患者様に出向いてもらって、そこで作業療法を提供しています。

集団を利用する形をとっているので、大体25〜50、多いときには60名程度の患者様に6名前後のスタッフが関わる形をとっています。

風船バレーをはじめとしたレクリエーションや、創作活動などを通して、その場で起こるさまざまな事象や関係性などをフルに活用しながら、それぞれの患者様の運動機能や精神症状の改善をめざしたり、それらの問題の原因が何処にあるのかを分析したりします。
(これがいわゆる、作業療法における評価と介入です。)

集団を用いることによる特性(メリット、デメリット)

最大のメリットとして、社会生活の中でおこるさまざまな事柄をその集団内で再現することが出来ます。

社会生活の基本である、自分自身をコントロールする能力や、対人交流、それらをなす自分自身の思考、特性などを幅広く表出、表現してもらうことで、包括的に様々な課題を設定し、それらに介入することができます。

同時に限られた時間やマンパワーで、多くの対象者に関わり課題解決につなげていくことができることも大きなメリットです。

その一方で、個別対応に比べて、個々へ集約した働きかけが疎になってしまうという特性があります。
心身機能や精神機能が不安定な急性期の方へ導入する際には、なんとなく単純に用いると刺激量などのコントロールが不十分で、精神症状の増悪などのリスクに繋がることもあり、注意が必要な手法とひろえもんは感じています。

事例紹介

昨日OTまで来ていただいたものの、個別対応が必要になった方がおられました。活動中継続して食事に関する訴えが聞かれ、集団内での活動継続が困難になったためです。

脳血管障害の既往のある方なのですが、見当識が希薄です。
「10時から昼ご飯だ」「ご飯はあるのか」と繰り返し訴えられたので、実際の食事時間を繰り返して何度も伝えたり、「ご飯はキチンと準備されていますよ」という声かけを複数回にわたって行うなどしましたが、なかなかご本人様の納得が得られず訴えが終止継続しました。

訴えの声量がかなり大きく、他の参加者の方への影響がきわめて甚大だったので、個別対応に切り替えて、活動終了時間まで継続的に関わりをおこなうことになりました。

自分の声かけだけでは、ご本人様にとって「食事はある」という確信を持つには至らなかったので、調理担当の方や病棟看護師、その人と比較的なじみのある病院スタッフからのコメントを都度もらうことで、なんとか安心感を引き出すことが出来、最終的には個別活動を行える状態にまで落ち着いてもらえました。

考えたこと

実際に関わらせていただいて上記の方の場合は、まずスタッフが個別に関わってご本人様の安心を引き出せることが大切になると感じました。

しかし、2時間の枠内で集団活動活動と並行してそれを実行するのは時間やマンパワーなどの制約上かなり厳しい事を改めて感じました。

「安心感を引き出せる」という視点で、今回の事例で治療効果を考えると、なかなか厳しい物があるというのが実感です。

以上を踏まえると集団を用いたOTでは
・集団を構成する人や、場への影響が非常に大きく
・声かけなど、少ない準備で行える介入に対する効果が低く
・不安感が強く、安定して過ごすことが難しい
ような方へのフォローは非常に作業療法士としての技量が問われると感じました。

さらにぶっちゃけると、今のひろえもんにとっては困難だと感じます。

「じゃあ、個別で関われよ」とお叱りを頂きそうですが、諸事情でそれも難しいという(おもに、算定上の)都合などがあります。

真に対象者目線に経つならば、算定外の領域に踏み出していくしかなさそうですが、持続可能性を考えると現実的ではないです。

個別算定の是否

算定が出来るようになったら即解決するかといえば、どうでしょうか。

たしかに、上記のような脳血管障害の患者様や進行性の疾患、例えば認知症の方など症状の急激な改善が認められない方対して、より効果的な治療介入は可能になるはずです。

しかし、「カネがない」と国が積極的に点数を削ろうとしている現状を考えると、継続的な個別介入ができるような算定にはならないで、例えば延べ日数1〜3ヶ月間のみといった、期間限定での算定が認められる程度が現実的だろうと思います。

この辺りに、継続的な関わりによって、修正や変容を比較的促していくことが可能な精神疾患の方との違いというか、難しさを感じます。

また、変に点数が高くなって、病院経営側から利益追求の道具されるのも嫌だなあと思うので、大変深刻かつ難しい問題です。

おわりに

今回ご紹介した事例においては、集団内での対応は困難な現実があると感じました。

しかしながら、法などの制度に依存した枠組みを提供している以上さけて通れない困難ではあります。

是非、いろいろな方に知恵を頂き、解決につなげたい問題です。

それは、とっても作業療法だなって というエピソード「認知症のお師匠さん」

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(写真と本文は何の関係もございません。受け狙いです。以下の文章は至って真面目です。本当に。)

「認知症のお師匠さん」

というタイトルで紹介されていたのですが、かいつまんで紹介したいと思います。
ちなみに作業療法士がかかわっているのかどうかはよくわかりませんが、やってることはまさに作業療法そのものだと思います。

さて。

エピソード

主人公は認知症の88才の女性なのですが、現在自宅での生活が困難となっており、施設での生活を送っています。
しかし、週に2回、現在も踊りの教室を開くために自宅に帰っておられるそうです。
実は、この方は、20年来、舞踊の先生として活躍してこられたという経歴をお持ちの方です。

なんと、現在でも200以上の楽曲の踊りを覚えておられるそうです。
実は自分が認知症だと分かった時、この方は、教え子たちに「もう踊りはやめたい」と漏らしたそうです。
しかし、教え子たちは泉さんが踊りをやめたら、認知症の症状が進むのではないかと心配し、続けて欲しいと頼んだとのこと。
この教え子の方たちも、なんだかんだ言って、結構ご高齢だったりして、なんと60代から80代。
みなさん元気です。

作業が人に与える力

この紹介を見ていて、「作業療法ってこうだよね」と思いました。

もちろんこのような話が特になんらかのエビデンスを持つわけではありません。ひょっとすると踊りの先生はもともと踊りを継続したこととは関係なく認知症に対する抵抗力を持っていたのかもしれません。

しかし、人をエンパワメントする話であることは間違いないと思いました。

このエピソードは、とても作業療法的です。

人、場、文化、ありとあらゆる要素を含んでいて、それがひょっとするとお師匠さんの症状進行を抑えている可能性はありますし、それを抜きにしても、生きがいが保たれているというそれそのものが重要であると思います。

そういう文脈で、作業療法の実例の教科書に乗っけるべきなんじゃないかとさえ思いました。

エピソード詳細

この事例に関して、さらに詳しい情報が知りたい方はこちらから。
http://www.nhk.or.jp/seikatsu-blog/500/131650.html#more

認知症の人に作業療法ができること

認知症が進行すれば、周囲の人が本人の行動や活動を制限することも少なくありません。認知症の人が、火を使って調理をしたりすることは火災のリスクがあり、危険なのでしょうか。危険とみなされることは確かに多いかもしれません。

そのような判断を下さざるを得ない場合、たとえどれだけ料理をしたいと当事者の方が祈ったとしても、リスクが大きすぎると判断されれば、作業を制限されることになります。

このような場合の認知症の方の喪失感や、生き甲斐の創出って、本当に難しい問題だと思います。人からの協力が必要になったりする前、自分自身である程度取り組める段階から積み上げが大事なのではないでしょうか。

本当に困ることになる前に協力してくれるかもしれないだれかとしっかりと本物の関係性の構築ができることが大切だし、必要なのではないでしょうか。特に、こういった事例に触れるにつけ、そのように非常に強く思います。

「長年一緒に過ごしてきた人が、当事者を支えること」を支えられるのが作業療法士という仕事

認知症を発症された方を本当の意味で支えるのは、こうした長年積み重ねた人と人とのつながりです。

上記のエピソードでは、作業療法士は一切出てきません。問題なく当事者の方と周囲の方がうまく付き合っておられるからです。

しかし、ひょっとするとうまくいかないこともあるのではないでしょうか。上記のエピソードであれば、周囲のひとがなかなか理解しづらいような問題が発生することもあるかもしれません。

そして、その人たちが、うまく支えられるように、そっと支えるのが作業療法士の重要な役割であると思います。

また、元気なうちにいろいろな人とのつながりを大切にしておくことが、冒頭のようなエピソードが成立するための重要な要素になっていると思います。

ともすると、私たちは、普段、人とのつながりがないことなどを、つい社会のせいにしてしまいがちです。しかし、人とのつながりを大切にすることが、自分自身を大切にするということにもつながるし、本当に大切にしないといけないですね。

やはり、人は自分を支えてくれる誰かがいるから、生きていけるのだと思います。

そして、作業療法と作業療法士はその構造をうまく支えることが重要な仕事の一つなのではないかと思います。