科学的根拠の乏しい補完代替医療(CAM)と、医療従事者が理解しておくべき、人間のこころの動きとの重要な関係

はじめに

なぜ、ヒトは、自己への治療選択の場面において、客観的(統計学的)に見て、有意味でない(ひょっとすると自己に損失を与えかねない)行動をとってしまうのでしょうか。
ということが、この記事のテーマになるかと思います。

日本に住んでいて、公的扶助が受けられ、そこそこの生活ができているという前提のもとで話します。
もし、病気になれば、多分、病院へ行くでしょう。
そして、医師の診断を受け、処方箋を受け取り、薬を購入して帰るかもしれません。

しかし、その枠組みから大きく外れることもあると思います。
まず、入院の必要が認められるほどの病気となった時、そしてその先の話をしたいと思います。
そして、そのあと、ヒトは何を思うのだろうかということへの言及と、それにどう寄り添ったらよいのかということへの自分の考えを書いてみたいと思います。

良かったら、読んで、そして、考えてみてください。

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補完代替医療(CAM:カム)って?

まず、補完代替医療とはなんでしょうか。
厚生労働省のがん研究助成金をもとに執筆された「がんの補完代替医療ガイドブック第3版」には次のように書かれています。

 補完代替医療は、英語でComplementary and Alternative Medicine(コンプリメンタリー・アンド・オルタナティブ・メディシン)といい、頭文字を取ってCAM(カム)と呼ばれています。

補完医療:私たちが受けている現代西洋医学(通常医療)を補う「補完する」医療
代替医療:現代西洋医学(通常医療)にとって代わる、言葉通り「代替する」医療

 この二つの医療は、別々に異なるものもありますが、多くは分けることが困難な場合が多く、両者をまとめて補完代替医療といいます。


「がんの補完代替医療ガイドブック第3版」より

以下、補完代替医療という言葉を、この説明に沿うものとして使います。

さて、この説明から分かるように、通常医療の枠組みの外側に存在するセラピー(治療法)などを指す言葉であると考えることができます。
つまり、医学的根拠が、現在の医学体系からは説明困難で、その効果も説明ができていない治療法ということができます。

たとえば、がん患者に人気が高い、アガリスクなども補完代替医療の枠組みの中に含まれます。
他には、最近あまり良くない文脈で世間を騒がせたホメオパシーなども、その一つということができます。

繰り返しになりますが、これらの治療法には科学的根拠がありません。
エビデンスではなく、独自のセオリーや哲学に基づくものであり、他者に客観的な事実を示すことが困難な治療法です。
効果が全くない可能性や、ひょっとすると、良かれと思って行った治療法が、実は害を及ぼす可能性もあります。

しかし、西洋医学的な切り口から見ると、すっぽりと抜け落ちてしまいがちな、ある視点が、この補完代替医療とそれを利用する患者様との関係性築くとき、きっと重要になると思う、ということを後述します。

補完代替医療へたどり着くまで

推測ですが、西洋医学で何とかなることが理屈として把握できる場合には、その人は補完代替医療というものに全く価値を見出さないでしょう。
おそらく、人が、補完代替医療に注目するのは、病気を治すという観点において、病院で「現状の医学では治すのは難しい」と言われた場合だと思います。

末期がんとは、要するに治る見込みのないがんのステージを指している用語です。
この、末期がんのステージにある人々には、がんが治る確率の高い治療法というものが、現在の医学では存在していないということです。
そんなときに、「大切な人との、最期の時間を大切にしてください」といきなり言われても、どうでしょうか。

困りませんか。
きっと、いろいろな考えがぶわあって浮かんできて、とりとめがなくなり、考えがまとまらなくなると思います。

そんな中で、多くの人が、まず、現実を否定すると思います。
つまり、「治らないなんて嘘だ」「自分があと少しで死んでしまうなんて考えられない」です。
そして、「自分の病気を治すことができる治療法が、世の中のどこかにはきっとあるはずだ」という着想にいたるのだとおもいます。

要するに、絶対的な死に見つめられた人間の、「なんとか助かりたい」「どうにかよくなりたい」という願いが、そういった行動として現れているのではないでしょうか。

なぜ「治る」のか、そもそも西洋医学の場合だって、普通はよくわからない

代替、専門知識がないような場合には、西洋医学も、それ以外も患者にとっては治療効果があるとかないとかは、なかなか判断が難しいことだと思います。
たとえば、ホメオパシーの理屈は、「免疫(めんえき)を賦活(ふかつ)する」なんて説明されると、なんだか、とってもそれっぽく聞こえるのです。
だれでも、「免疫」くらいは知っているし、「賦活」が「働きを活発にする事」と説明され、さらに、その方法についてとうとうと語られると、なんだか、科学的根拠があるものであるかのように感じられてしまう人も多いのではないかと、おもいます。

が、西洋医学における免疫のシステムと、レメディの理論は、どう考えてもかみ合いません。
この矛盾は、「西洋医学の免疫とホメオパシーにおける『免疫』は別物である」と主張することによって回避ができますが、個人的には、「そんなん、詐欺やん」って感じです。
でも、きっと、本当にうっかり騙されている人もいるかもしれませんが、御幣のある言い方をあえてすると、そうではなく、「望んでだまされる」人も少なからずいると思うのです。

このことが、今日一番語りたいことです。

そこに希望がある。

現実的な要素を初期条件(仮定)とし、そこから論理的な思考や推論によってに導かれる結果は、その仮定や過程に誤りがない限り、揺らぎません。
その結果を、変更するには、新しい変数を登場させる必要があります。
そうすれば、出力される結果は変わります。

なにもしなければ、結果は何も変わりません。
なにかすれば、結果は変わるかもしれません。

そこには、夢があります。
現実的ではないかもしれません。
でも、それは、生きる希望となるかもしれません。
自分の生きようとする意志を、自分で確認する手段となるかもしれません。
自分が生きていることへの証となるかもしれません。

そんな微妙な差異が、きっと、補完代替医療を求める人間のこころに、とても大きな影響を、与えているのだとおもいます。
そして、そんな差異が、自ら進んで、西洋医学の範疇から飛び出すことによって得られる、心理的な状態を作りだすもとになっていると考えられます。

 医療従事者は、こんな、こころの動きがあることを、理解しておくべきではないでしょうか。

補完代替医療は宗教か?

こんな記事がありました。

私は腫瘍内科医として、免疫療法は否定する立場です。
(中略)
私もこれまで多くの患者さんを診てきて、何十名もの方に「いい治療法があるって聞いたんですけど・・・」と言われてきました。
私はその都度、それらの治療法の科学的根拠のなさ、言うなれば人体実験を自らお金を払って受けているようなもの、がんビジネス(金儲けだけ)という場合もある、など、丁寧に説明してきました。
もちろん、それで思いとどまってくれる方もいるのですが、「それでもやっぱり受けてみたいから」と治療を受けられる方も大勢いました。
(中略)
まさに「信じるものは救われる」の世界で、私がいくら「やめなさい」と言っても「信じた私たちは幸福だから」と言われると、本当の意味では何とも言えないのではないか、だとしたら私が反対している、このこころの動きは何なのだ?ということに思い至ったわけです。

免疫療法を宗教的な観点から考え直す - かわさきOncology&Palliative Care より

物理的には救われなくても、信じることによって、精神的に安楽になることができるものを宗教と呼ぶなら、補完代替医療は立派に宗教だと思います。
なので、医療従事者は、一つの宗教として、補完代替医療とお付き合いすればよいと思います。

相手の信じる神を、否定すると、不毛な戦争が起こります。

肯定するわけにはいきませんが、同時に、直接的で、強力かつ、断定的な否定は、よっぽど緊急性がある場合を除いて、避けるべきだなあと思います。
とくに、それが、生きることへの希望となっている場合には。

さいごに

医療の現場では、看取りをすることもあると思います。
その時に大切なのは、対象者が何を大切に生きようとしているのか、という事なのだと思います。

作業療法としては、対象者がしたいことを支える、というのは、一つの重要なリハビリテーションの為の手段であると思います。

その人が、最後まで前向きに生きれるような支援ができると、よいと思うのです。

関連記事:

とあるインテリの、きらきらとした、生と死の突端の記録 「流通ジャーナリスト 金子哲雄 僕の死に方 エンディングダイアリー500日」 – OT戦士ひろえもんの雑記帳 : 作業療法.net

この記事は、以下を参考にしました。
「がんの補完代替医療ガイドブック第3版」

免疫療法を宗教的な観点から考え直す - かわさきOncology&Palliative Care

与えられるだけの人生には、きっと、互いに与え与えられる人生で得られたはずの半分がない

はじめに

こちらのサイトさんの記事を読んで思ったことです。

国家といえども贈物を与えることで人間の精神を破壊する権利はないーオクタビア・ヒル、スラム改善の武装せる女神(アテネ)

おもわず
「うむむ。」
とうなってしまいました。

内容について

要約すると、

19世紀イギリスには、社会活動の分野で活躍した著名な女性が二人いた。
一人がナイチンゲール、そして、もうひとりがオクタビア・ヒルである。
オクタビア・ヒルはナショナルトラスト運動をはじめた人物の一人として有名であるが、それ以外の功績も注目に値する。
その功績とは、「住宅管理」であった。
それは、「スラム」の根本的な問題に対処できる、きわめて有効なアプローチであった。
彼女は、「スラム」を改善するために、ただ、豊かな生活環境を支給するのではなく、スラムから移住した住民の間に相互関係を構築させ、相互に助けることを身に着けさせた。
これによって、住民の民度そのものを底上げする事につながり、ひいては、スラムがさらに荒廃していくことを防ぐことに成功した。

という内容。

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一部詳細

より詳しい内容は、もとのサイトをたどっていただければと思うのですが、個人的には非常に納得の行く内容でした。
全体的に、「ほんと、そのとおりだよ!」と思ったのですが、とくに共感した内容は次のような部分です。

 オクタビア・ヒルは「住宅管理」で、スラムを改善しようとした。
スラムをぶっつぶして公営住宅に建て替える方法には(これに先鞭をつけるのもやはりイギリスなのだが)、オクタビア・ヒルはずっと反対していた。
なぜなら、建物を取り替えても、そこに住む人たちの生活が変わらなければ、そこは再度スラムになるからだ。

これは、非常に納得の行くことではないでしょうか。

貧困の原因

その町が荒廃するか、それとも、美しくあるかということは、結局その町に住んでいる人々の行動様式や、知識、技能、規則などに準ずるわけです。
それらが乏しい人々が暮らす街は、やがて荒廃したものとなっていくでしょう。

その結果として、貧困が目に見える形になっているのではないかという意見には非常に納得します。

ある個人が、貧しい生活を継続しなければならない背景には、そもそも、その人の生活が変わっていないからという背景があるという事実にきちんと焦点を当てているわけです。
もし、生活構造を見直さずに、必要物資を周囲が与えるような生活が変わらない限り、その人には永続的な周囲からの支援が必要となります。

人は人に何を与えられるか?

ところで、人が人に与えられるものは、金的、物的なものだけでしょうか?
個人的には、そうは思いません。

人は、人がどのように生きるのかということについて、影響を与えることができます。
人は、しぐさや、言葉によって人を笑顔にすることができます。

人は、人に心理的影響を与えることができます。

これは、たとえ、お金や資産が無くても、できることだと思います。

人によっては、金銭に引き換えられないものは、資本主義的には無価値だというかもしれません。
それは一つの考え方としてありだと思いますが、でも、お金が無くても、人にあげられるものはたくさんあると思うのです。

普段から、そういったものにきちんと気が付いているかどうかってとても大切なことだと思います。
そして、それこそが、実は、人が貧困になったとき、どの程度まで生活水準が堕ちるかという部分に大きくかかわっている印象があります。

終わりに

人は、人に目に見えないものをいろいろな形で与えながら生きていると思います。

本当の意味でのリハビリテーションとは、ヒトのこういった側面もきちんと見れる必要があるのではないかと考えさせられる内容でした。
特に精神科。
生活保護の実態とか頭が痛い部分が山積みですが、今日取り上げた内容がいつか役に立つ日が来ることを願わずにはいられません。

作業療法に対する誤解をトク!!(原文:Dispelling misconceptions about Occupational Therapyの翻訳とご紹介)

作業療法をきちんと評価するって,難しいなあと思う今日この頃です.

海外に置いても「OTって何してんのよ?」という状況にあるのは,あまり変わらないみたい,です.
そして,作業療法が誤解されやすいというのも,また,同じようです.
海外のOTSによって書かれたものですが,そんな内容について書いてある文章を見つけましたので,翻訳してみました.

以下の文章は、Dispelling misconceptions about Occupational Therapy の日本語訳のような何かです。

結構,意図的に意訳をしております.
ぶっちゃけると,訳しながら,あんまり上手な文章ではないと思いました.
しかし,彼女のOTに対する情熱が伝わってきました.

それに,彼女が言わんとする事は間違いなく正しいと思いました.
そして,彼女が問題としている事を解決するための活動を,作業療法士は行っていく必要があるのではないかと思います.


OTSであるローズマリー・リーバーさんがOTの役割について説明しました。

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OT(Occupational Therapy)は、発展の可能性に満ちた、現在進行形で成長している専門職であり、OTには多くの誤解が存在していると、ローズマリー・リーバーは言う。

劇的な変化が起こっており、OTS(作業療法士養成課程の学生)にとって、今は楽な時代ではないです。

多くの不確実性があります。
特に、来年、支払いが完全に成果に対して支払われるようになった時、よりどころとするものに関してです。
作業療法士は、とりわけ名誉に対して積極的ではない傾向を持つ人々ですが、彼らのサービスを現在よりももっと売り込むことができるようになることが必要です。
そして、学際的な理解を促進するために一緒に活動することで、作業療法士はこれらの困難を真正面から解決できますし、健康や社会的ケアについての水準の高さを証明することができます。

私はOTSとして、私たちの専門性を守ることと、きちんと私たちがしている事について注目してもらえるようにすることは、大切だと思っています。
作業療法は、発展の可能性に満ちた、現在進行形で成長している専門職であり、また、多くの誤解が存在しています。

専門家の中には明白な役割を持った人々がいます。
たとえば、医師は、命を救う手術を行います。
看護士は、治療介入後のケアに欠かすことができません。
しかし、その裏には、多くの他職種の集団が控えており、社会に住まうすべての人々の健康を改善するために働いています。

OTの定義は、少し奇抜かもしれません。
なぜならば、ちょうどソーシャルワーカーのように、作業療法士は社会の様々な領域をまたいで,無数の異なった環境で働くからです。
だから、作業療法士としての私たちは,ある人の就労支援をしている間、別の場所で別のある人が創造的活動を用いて精神障害と付き合っていく手助けをしているかもしれないのです。
重要なことですが,作業療法士がリハの目的を設定するのでありません.
目標を設定するのは患者さまです.

また,私たち作業療法士は,自分たちが行っていることについてあまり喧伝しません.
もし,あなた自身が認められたいのであれば,作業療法に従事すべきではないでしょう.
作業療法士の中で最も実力のある人々は,彼ら自身を支援者であると考えています.
そして,単純に,人々が彼らの目標を達成出来るように働いています.

もし,誰かが治療に用いる活動をやり遂げて,その人が「ねえ,(作業療法士は)まったく何もしてないね,一人で全部できたよ!!」と思ったら,その時,その人の作業療法はとてもうまくいったと言えます.

私はソーシャルワーカーも同様の哲学を持っている事を知っていますが,その哲学とは,対象者から多くの自発性を引き出せれば引き出せるほどに,彼らに対する介入はより成功したといえると言うことです.
ソーシャルワーカーは,自身が対象者から必要とされる事を重要視していません.
彼らは,人々が自分で自分自身のことを管理する事ができる様な技術や自信を,人々に身につけてもらいたいと思っています.
それは,作業療法士も同じです.

作業療法士への共通した誤解は,患者さまのリカバリーに対する貢献は,医学的,あるいは精神的なセラピストが行っている貢献と比較してそれほど重要ではないというものです.
要するに,作業療法的な介入はとても単純なものとして映るのです.

この誤解は,日常生活における活動が単純で,簡単なものであるという前提に立っています.ほとんどの場合はそれは正しいでしょう.一方で,精神的または心理的な問題で苦しんでいる人々は,自分一人でお風呂に入ったり,料理をしたり,公共交通機関を利用してみようと試みる経験が通常のそれとは,大変ことなったものである(大変なこと)かもしれません.作業療法士は,彼らが日常生活における困難を取り除くにはどうすればよいのか,そして彼らが,社会一般の人々からつながりをもってもらえるようにするにはどうすればよいのかについて,学ぶ事にとても価値を置いています.

ソーシャルワーカー養成課程の学生のように,作業療法士は,業務上待ち構えている困難や楽しさについて経験する職業実習に多くの時間を割きます.

私の意見ですが,他職種が互いの役割についてより多くのことを知ろうとすればするほど,私たちはチームとしてよりよく働く事ができ,また,クライエント(患者様)のために 働く事ができるのではないかと思います.


拙い翻訳を最後まで読んで頂きありがとうございました.
もしも,原文を読まれた方で,ここは「明らかに,おかしい.」と言うのがありましたら,ぜひご指摘いただければと思います.

宜しくお願いします.

最後に,内容を読まれてみて,いかがでしたでしょうか.
どのような感想を持たれましたでしょうか.
この文章を読まれた皆様がどのような感想を持たれたのか,個人的には非常に興味をもっています.
よろしければ,お手数ですが,コメントやツイート等でご教授頂けると,恐悦至極です.

「褒める」には、人間を特定の成果へ誘導する効果がある。

「褒める」を使いこなすことで、モチベーションを高めることができると言うことは経験上誰もが納得するところだと思います。

しかし、きちんとしたエビデンスを持ってそのことを主張できる人は少ないのではないでしょうか。そういった方に参照していただきたい記事です。

生理学研究所の「褒める」の有効性についての研究

生理学研究所(愛知県岡崎市)の定藤規弘教授らの研究チームが、ほめることで人間のパフォーマンスが向上しうるという結果に至ったそうです。

 研究チームは、右利きの成人男女計48人に、左手を使って決められた順序でパソコンのキーボードを打たせ、30秒間で早く正確に入力する練習を12回させた。
続いて、練習結果の優劣に関係なく、(1)自分が褒められる映像を見る(2)他の人が褒められる映像を見る(3)自分の成績をグラフで見るだけ―の3グループに分類。翌日に再びテストし、各グループで入力がどれだけ向上したかを調べた。
その結果、自分が褒められたグループは練習より約20%多く打てたのに対し、他の2グループは約14%の向上にとどまった。

より成果を高めるには「褒める」が重要

上記の研究結果は、「褒める」と発揮される実力が向上しうると言うことを示しています。

「褒める」は、人に何かをしてもらう時に、その成果を高める上で非常に重要であると言うことですね。

「褒める」を上手に行うには

褒められて悪い気がする人はいないものですが、人をほめるということは意外と難しいかもしれません。

頑張って褒めようとするあまり、わざとらしくなったり、結果としてやりとりがちぐはぐになってしまうかもしれませんね。

ですから、普段からそういった「褒める」視点をもっておきたいです。

より具体的には、ほめるためには、さまざまな基準を自分の中に持っておく必要があると思います。

例えば、「~と比べてすごい」という場合もあるでしょうし、「今日は~だね」と、いつもと比較したときの話しをすることもあるでしょう。

比べることは、説得力を増し、褒められる側の受け入れをよくします。もちろん、「普通に比べて」とか、そういう、対象をぼかしたほめ方もあります。要するに相手がやる気になるように褒めることです。

作業療法における「褒める」の重要性

作業療法の対象となる方には、自信を喪失しておられる方も少なくありません。

なぜなら、今までできていたことができなくなっているからです。

そうした方は病前だったり、周囲の人と単純に比較してしまっていることが多いのだと思いますので、違う視点を持ってもらうことが大切です。

例えば「前回のOTの時に比べると、ここがこんな風にできるようになっていますね」などです。

いずれにせよ、作業療法の場面で使うときには、キチンと褒める側の人間がどういうことを目的にしてほめるのかも大切です。自信を回復する一助となるための「褒める」ということ、実はかなり大切です。

自分が、作業療法を提供する際にも意識していきたいと思う点です。