「だれかの笑顔のために」 withコロナ社会の今、20年前の仮面ライダーが改めて教えてくれること その1

withコロナという軽い言葉の裏にある重さを生きなければならないという困難な時代が到来

まず、今回のコロナ(COVID-19)で犠牲になられた方と、そのご家族の方にお悔やみ申し上げます。重ねて、日々前線で働かれている医療関係者の皆様お疲れ様です。

もともと、筆者の周辺ではコロナの影響はインフルエンザ程度と言われていました。次第にだんだんと蓋を開けるといろいろと、バタバタとしてきて、パニックめいた過剰反応も起こり、社会の脆さはもちろん、個人個人の課題も浮き彫りにする形になりました。わたしたちの生活は高度に経済に依存して成り立っており、経済無くして生きていけないことを突きつけられたのです。

日本では、今回たまたまウィルスの死亡率が低い形に収束しつつあります。配慮の足りない言葉、表現になりますが率直に、運が良かったと思います。他国との比較をするとそう言わざるを得ません。

ウィルス対策で人間の活動を制限すると、経済が死ぬ。経済が死ぬと経済的弱者から死ぬ。何の制限もしないと、やっぱり医療がパンクして、代替手段の取れない経済的弱者から死ぬ。普段自分が接している人たちが脅威にさらされるという危機感をこれほど覚えたことはありません。

そんな中で、amazon Prime video で仮面ライダークウガが見れたんですよね、20年ぶりに。

どんな話かというと、最終話直前になると保育園児が「ねえ、僕死なない?パパやママも死なない?」って死とその恐怖を意識するストーリーが展開されます。正直重いです。子供が死を意識する。改めて見た時に、子供向け番組でここまでやる必要があるのかと思いました。しかしよく考えると、withコロナになって、それはよく見られた光景でした。事実は小説よりも奇なり。多くの社会的弱者が死の恐怖に直面する現実が確かにあったと思います。

時間のない人向けに、今だからこそポイントを書いてみたいと思います。というか、自分向け備忘録。

実は、子供向け番組の皮を被った強烈な社会風刺番組なのが仮面ライダークウガ

上記にも書いたように、徹底した心理描写が全編にわたって貫かれています。それは、登場する全てのキャラクターに関してです。過剰なほどに、とても丁寧に。

いまや中堅〜トップ俳優な、オダギリジョーの出世作としても有名です。撮影当時からのその高い演技力は、子供向け番組の枠を超えて発揮されています。

「みんなの笑顔が見たい」好青年、暴力への嫌悪感と葛藤しながら心の痛みに耐えて頑張る、「みんなの笑顔がみたいから自分ができるだけの無理をしている、大丈夫だよ」というパーソナリティの、ともするとかなり嘘くさい感じになってしまいかねない、演じるにはかなり難易度の高いキャラクターをリアリティを持って演じるきるのがオダギリジョーなんですね。大変なキャラクターを演じてらっしゃいます。

このキャラクター性は、コロナ初期に自分の命の危険性が測れない中で最前線対応に当たった医療スタッフと重なります。この主人公のキャラクターから学ぶべきところはたくさんあります。

他にも、ワーキングママが子供との関係性に悩む場面の徹底した心理描写など、およそ子供向け番組の範疇を超えた素晴らしい描写がたくさんあり、考えさせられることは山のようです。

それらの優れた表現や描写の中でも特に、コロナで先行き不透明感が強まる今を生きていくヒントがたくさん見つかる部分があります。

それはヒトという生き物が、個人の生命の危機や社会集団に対する脅威曝露した時、それに対して、人間はどう反応するかです。

フィクションなのに、極めて現実的に描写されています。

特撮の皮を利用して、人間が目を背けたくなるけれど背けてはいけない価値観の衝突や人間のどす黒い感情などを克明にあぶり出す手法は、当時にしてもチャレンジだったのだろうなと思います。さておき。

20年前なのにまるでまさに今だからこそ必要なメッセージ性

危機、脅威、命というテーマ、人間の幸せ、社会への貢献、仕事、次の世代、成長、笑顔、祈り、新規性と既存の組織仕組みとの折り合い、勇気

こんなに大切なこと、要素がたくさん山盛りてんこ盛り。内容は古臭いどころか、一周回って新しい。なんと、そういう名称はでてこないにしても、劇中では、簡単に答えを与えるよりも、一緒に悩んで見せたり、それをそっと支えたり、今で言うアクティブラーンニングする回があるんですよ。そっと背中を押す技術は、作業療法の本質だと思っていて、そういうところにも目から鱗でした。

そういう要素が大切だと思ってる製作陣が「堪ふる限りの力を尽くしてつくった」人間讃歌がこの作品です。

リアルな人間社会に異物が混入した時、人間社会はそれに対してどんな反応をするんだろう?その異物が、何が何だかよくわからない生き物だったら、そして、人間社会や個人に対して明らかな殺意や実害があるとしたらどう対応するのか。

それらを通して、人間ってどんな生き物なんだろう、という普遍的なテーマに真摯に向き合います。

withコロナでフィクションに現実が追いついた

しかし、まさか、withコロナ社会と仮面ライダーがオーバーラップするときが来るなんて思いもしなかった。

悲しいことに、時代が追いついてしまったのだとハッとしました。

とにかく未知は恐怖の根源

まだ、コロナが今よりも未知な頃、その広がりとともに恐怖やパニックが世の中を覆う様をどう思ったでしょうか。

劇中では、未知の生物によって人が殺されまくります。殺害という言葉も飛び交い、到底子供向けとは思えないリアルな描写があります。どっちかというと、刑事物に近いかんじでしょうか。

未知が人間命を損なうかもしれない時に与える恐怖というものは、今回のCOVID-19の世の中の反応や、個人個人の胸の内からさまざまな重大な影響があることがわかったと思います。

そういう時は、なかなか恐怖に影響、左右された行動をとってしまいがちだったのではないでしょうか。マスクやトイレットペーパーが店頭から消えたのはその証左と思います。

困難な時に「だれかの笑顔のために」と思える大切さ

個人的には、今回のコロナの動向を見ていて、「ああ、こうして戦争になるんだ」と思いました。

自分と関係ないと思っていた(というかそう考えようとしていた)危機が、いつの間にか、逃れようのないものとして、人間社会や集団を巻き込んで動かすようなものとして差し迫ってきた時、安易な方向に身を任せ続けるような人間の集団は、容易に危険な方向に動き出すのだという兆候が至るところに現れる、と感じました。

「自粛警察」の出現も、女性プロレスラーの自殺に至るまでの顛末も、高いストレスがいかに人間を変容させるのか、人間の攻撃性を高め、理性の働きを弱め、優しさと余裕を奪い、想像力と思考力を低下させるのかという現象の一旦に過ぎません。高いストレスは人間に複雑な思考を放棄させ、わかりやすい正しさに人間を飛びつかせやすくなります。

また、親子関係に悩む人、働き方の変更を強いられ、その変化にとりのこされることに恐怖した人、何の保証もない中で唐突に自粛を突きつけられ戸惑う人。

こんかいまさに、いろいろな困難と、それにともなう孤独感が顕在化したと思います。あれは非常に危険な状態だったと強く感じています。

また、いち作業療法士としては、外出が制限される、という人間の作業や行動の変更が人間にどれだけ大きな影響を与えるのかということは、はからずも生物としてのヒト、社会的存在としての人間にとっての作業の大切さを改めて、人間社会に雄弁に語ったと思います。

さて、困難なとき、嫌なことと向き合うことは、快楽や愉悦の多い現代社会においてはますます困難になりつつあると感じます。その気になれば、困難はできる限り先送りにし続けることができます。しかし、このことが人間としての成長や成熟を遅らせ、困難に対応することができる人間の育成をますます難しくするという現象があるように思います。人類に民主主義は扱いきれないと思うほどです。

しかし、そんな脆弱な世の中にあっても、「だれかの笑顔のために」こうした困難や高ストレスな状況にあえて接することを選ぶ人のことを私は、ヒーローと呼びたいとおもいます。

そして、事実、そういう人たちの精神性によって大いに世の中は支えられている、そのことが今回顕在化したと思います。

「誰かの笑顔のために」という哲学は、今のこんな世の中だからこそ、とても大切なものだと気付かされました。

自分がそうしたいから、「誰かの笑顔のために」ちょっとだけ無理をする

そういうヒロイズムを、なにかと嘲笑しがちな空気を感じてすごくそれが嫌だったんですけれども、今回の極端な状況下においては、そういうヒーローが実際に存在したおかげで、なんとか社会は大きな崩壊に至らずに済んだのだと証明されたと思います。そしてそう言うヒーローはわざわざ世の中に向けて自分の頑張りをいちいち発信なんてしないんですよね。

仮面ライダークウガにおいては、主人公の人格はヒロイズムを体現しています。しかし、そのヒロイズムは極めてリアルな人間らしい悩みと共にあり、それでもなお、困難な道を「みんなの笑顔のために」選びます。それは、本人がそうしたいから、という理由で描かれています。

この本人がそうしたいと思えることが、ヒロイズムの核というか根源なのだと思います。

時に、「だれかの笑顔のために」は単なる理想論とか、お題目、綺麗事としても語られますし、それを嘲笑することも少なくありません。仮面ライダークウガの中ではそれでは結局もたないんだということが徹底して描かれています。「本人がそうしたいから」、でないと誰かのために自分自身が無理をして頑張るというのはできない、そこには本人の主体性が必要であるということが極めて丁寧に描写されており、極めてリアルです。本当に子供向けなのかしら。

ここには、たとえば仕事で自分が嫌々やってること、誰かから言われて嫌々引き受けたことを、自分がそうしたいと思えないのに「誰かの笑顔のためだから」と続けることはできないという、一つの心理、真理があると思っています。

少なくとも、今回のコロナ最前線の医療現場で、死への恐怖や理不尽、攻撃性や悪意に対する憎しみを原動力として「誰かの笑顔のために」というのは、無理でしょう。

そうしたいから、自分がやらなきゃ誰がやる、という鼓舞が少なからず現場の人たちにあったことは想像に難くありません。

仮面ライダークウガにおいては、「誰かの笑顔のために」は作品全体を貫く、大きなテーマになっています。

逆にいえば、頑張ってもそうしたいと思えない時には、逃げちゃっても良いんだという、逃げ道もちゃんと作ってくれてるんですよね。そこに関する話もちゃんと出てきます。

「だれかの笑顔のために」はきっと、誰でもできるはず

でも、特別な技能がなくても、「誰かの笑顔のために」という哲学を持ち続けることは、きっと誰しもができることだと思うんですよね。そしてそのことは、仮面ライダークウガにおいては、主人公と周囲の人間の関わりあいの中でそれぞれが変化していく様子を通して描かれています。

「だれかの笑顔のために」と言葉で言うのは簡単だけれども、日々葛藤して、自問自答して、それでも「やりたい」と思って実行できることで、他人への尊敬や他者との関係性の中で自分自身を大切にする自尊心が育つ。「だれかの笑顔のために」と頑張る人の周囲の人間への波及の描写もこの仮面ライダークウガはすばらしいんですよね。

これはつまり、別に主人公だけが、誰かを笑顔にできるわけじゃなくて、大切なのは「そうありたい」「そうあろうとする」という本人の決断、決意だということをきっちりと描いているということです。

冒頭で少し触れた、先のワーキングママの話の回なんかもまさにそういう回として描かれています。簡単に紹介すると、仕事を理由に後ろめたさもあってなかなか子供と正面から向き合うことから逃げていた、そういう自分と向き合ってそれでも「子供の笑顔のために」がんばろうと、向き合えるまでの過程が描かれています。

これはつまり、日々悩みながらも「誰かの笑顔のために」と自分で決めて、「そうしたいんだ」という思いを強く持って押し進めることは、特別な技能を持つヒーローだけでなく普通の人でもだれでもできる、そういう表現がちゃんとされています。これほんまに子供向けかいな。

面倒くさいは「誰かの笑顔のために」と思うだけで、本来楽しいと思えるはずのものではないか

今回のコロナで改めて問題として表面化したのが、

「めんどくさいこと」を楽しむのはむずかしいということです。

刺激的なコンテンツが増え、単調で同じことの繰り返しだと、退屈だと、文句をいう人は増えているように思います。短期間にドギツイものを消費することが好まれるようです。長期的に物事に向き合うことが苦手です。

事実、仮面ライダークウガでも、人間の心理描写の割合がふえ、反面で特撮画面が少なくなった後半は退屈と言われます。

日常や人間ドラマは、火薬の爆発や暴力と比べて退屈なのかもしれません。そりゃあ、面倒くさいことでしょう。

でもそれは、強すぎる刺激に慣れてしまい、自分の生活の大半を構成するものに無価値の烙印を押してしまいかねない行為のように思っています。

事実、コロナで人との関係性を強制的に絶たれたことでそのありがたみを痛感したと言う声は多かったと思います。

本来めんどくさいと思っているところに、実は楽しみのタネがあるように思います。派手なことを成功させるためにはそれ以外の日常をどれだけ大切にできてるか、周りの人をどれだけ大切にできているかが、パフォーマンスに大きく影響するんだよ、ということを後半の警察組織との連携ではメッセージとして伝えているように思います。

面倒くさいをそのままにせず、楽しみに昇華するのはこれからの時代を生きていく上で非常に重要な力になるのではと思います。

孤立の解決策は「誰かの笑顔のために」精神だ

コロナで再び孤立問題が注目を集めました。

自己責任という言葉は、真理だし正義です。でもそれは、暴力が全てに勝るという真理や正義と同じです。「そうしたいのか」とは別ということです。

孤立している、孤立していく人の要因は2つあります。

一つは外側からの迫害。

二つは自分自身が自分に対して行う差別。

そして孤立が固定化するタイプの全てには必ず、この二つの要素があります。どちらか一つしかないと言うことは論理的にありえません。

つまり、周囲にも本人にも必ず原因があります。

孤立化を解決するには二つの方法があります。

1「誰かの笑顔のために」精神を周囲が持つ

2「誰かの笑顔のために」精神を本人が持つ

要するに思いやりや気づく力や行動力が足りず脆弱な状態が孤立化なのだと互いに気づいて、対処できるかが大切ということですね。自分で助かろうとしない人を助けるのは本当に大変です。「自分には助かる価値がない」「生きている価値がない」「死んだほうがマシ」と思っている人がいたとして、その人は、自分自身と周囲の人間を不当に差別しているわけなんですけれども、それをやめて本人が助かろうと思えば、どっかの誰かが必ず助けてくれます。

ただ生きて、そうできるかどうかは別にして「誰かの笑顔のために」と言う姿勢でありさえすれば、そこにはかならず何らかのつながりが生まれます。

助かろうとしてない人へのビデオ教材としてつかえるなーと思いました仮面ライダークウガ。実際、臨床の現場で、「助かりたくない」と言う人に対してどうしたらいいかは常に迷い続けています。

自分個人としては「その人の笑顔のために」頑張っていきたいなという思いを新たにしました。

「誰かの笑顔のために」頑張ろう、自分がそうしたいから。

結局そうすることで解決することが、世の中にはあふれていると今回仮面ライダークウガを20年ぶりに見て、確信しました。

結局私たちの社会の課題は20年間かわっていないどころか、現実のほうがフィクションに追いついてしまうという、なんだか奇妙なことになってしまっています。

未知の存在によってどんどん人が死んでいく、その恐怖の中でできる対策対応を懸命にとり続ける大人の姿は、今の世の中を先取りしていたなと思います。フィクションなんですけど。

大のおとなが各文章で仮面ライダーを連呼する極めてシュールな文章に仕上がりましたが、東日本大震災や西日本豪雨といった危機が定期的にやってきたり、今回のwithコロナな世の中においては、生き方の模範とするべきことがたくさんあると改めて感じましたので、備忘録として。

ひろえもんの人生観に大きな影響を与えた「るろうに剣心」という漫画と、「所詮この世は弱肉強食」が真理かどうかという話

はじめに

今日も今日とて、日本始め、先進国は、基本資本主義社会でありますが、最近、作業療法とは何ぞやと関連して、自分の生い立ちについて考えます。関連して自分の思想についても。

さてさて、本日は

「所詮この世は弱肉強食。強ければ生き、弱ければ死ぬ」

が、真理かどうかという話。

るろうに剣心についての壮大なネタバレが含まれますので。ご注意願います。

るろうに剣心という漫画との出会いとか

るろうに剣心は、和月伸宏先生が、雑誌「週刊少年ジャンプ」にて執筆、連載していた作品で、現在も単行本を入手するなどの方法で読むことができます。

たしか、完全版も発売されていたように思います。

和月伸宏先生については、ONE PIECEの尾田栄一郎先生をはじめとして現在漫画家として第一線を張ってる著明な先生が、いろいろとアシスタントをしててそれぞれが連載もったりなんかしたもんで、その当時のアシスタントメンバーについた異名が「和月組」、なんて伝説も有名ですよね。

そういえば、つい最近、映画が実写化されてましたね。見に行っておりません。残念ながら。

99ca50f3.jpgこのコラージュも有名ですよね笑。

さて、るろうに剣心とひろえもんの、なれそめというか、なんというかですが、当時、小学生は1年生で、ジャンプなんて読むような年齢ではありませんでしたが、TVアニメ化されたのをきっかけに、母親がはまりまして、購入するようになりまして、家にあったので読んだ次第です。

読んですぐは、「絵柄が面白いなー」という事をおもいました。

初期の絵柄は、繊細というか、細やかでふわっとした曲線が印象的だったんですが、当時は志々雄編あたりだったでしょうか。

最近の話に近づくにつれ、だんだん、絵柄の表現手法が変わっていくのが、おもしろいなー、と思ってみてました。

という話はどうでもいいんですけれども。

懲悪ものかと思っていた時期が、僕にもありました・・・

さて、そんな、「るろうに剣心」ですがストーリーはこんな感じです。

幕末に「人斬り抜刀斎」として恐れられた伝説の剣客緋村剣心。明治維新後は「不殺(ころさず)」を誓い、流浪人として全国を旅していた。神谷薫との出会いや、同じ激動の時代を生き抜いた宿敵たちとの戦いを通じて、贖罪の答えと新たな時代での生き方を模索していく。

るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚- wikipedia より

まず、一周目にこの漫画を読んだ時には、正義の主人公緋村剣心が、次々に現れる悪者を倒す話としてしか映りませんでした。

「主人公は「不殺(ころさず)の誓い」とかなんとか言ってるけどなにそれ。」

「というか、明治なんだから人殺しが犯罪なのは当たり前じゃん、何言ってんのさ?」

と、へんなの。滑稽だな、と思っておりました。

当時、小学校2,3年生くらいだったかと思うんですが、ありとあらゆる犯罪は絶対的な悪だと信じて疑いませんでしたし、いかなる理由があろうとも、人殺しは絶対にやってはいけないことだと認識しておりました。今思えばですが、当時の自分はある意味で偏りがあるんでしょうね。

そんな、正義が悪者をやっつける的な構図で物語を楽しんでいたところ、「志々雄編」(いわゆる京都編)、特にその終盤にて衝撃の展開がいくつも待ち受けていたわけです…。

京都編

政府に恨みを持つ、志々雄真実一派の武力による明治政府転覆を阻止する話。戦いの場は京都と指定されたため、剣心達一行も東京を離れ京都に布陣を敷くことになった。「斎藤一編」(単行本での名称)は東京が舞台であるが、『剣心華伝』では京都編のエピソードとされている。

るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚- wikipedia より

志々雄真実というキャラクター

この人ですね。結構有名だと思うんですが。

20061111_109886.jpg©和月伸宏/集英社

(参考画像はあんまり関係ないです。)

簡単に言うと、明治政府を転覆させて、「弱肉強食」を理念とした、新しい国家を作ろうとしているキャラクターです。

漫画を流れで読んでるとあまり気になりませんが、このキャラクターは、実際かなりの小物です。

「仲間に暗殺されかけて、復活してみたら、世の中平和になってる!」

「つまらんから、復讐してやるッ、戦争じゃっ」てキャラクターです。

必殺技も、刀と手袋のギミックですし。秘剣とか言ってますが、ガトリングガンで自分が強くなったつもりになっていた実業家と大差ありませんですし。

冷静になって考えると、ショボイキャラクターですが、そんなキャラクターの発言でかなり自分の中で引っかかったものがありました。

で、それが

「所詮、この世は弱肉強食」

3ca69a7e9bbce22f6d28db90521b57c9.jpg©和月伸宏/集英社

当時、TVで「動物奇想天外」という番組をやってまして、「草食動物が肉食動物に食われる」なんてシチュエーションをみて、つねづね、食物連鎖について考える機会があり、それをふまえると

「あれ?志々雄真実というキャラクターが言ってることってじつは正しいんじゃね?」

と思ってしまったのです。

その起点になったのは、「人間も動物だ」という、理科の知識でした。(まあ安易な考えです。)

で、正しいはずの主人公サイドは、正しく思える「真理」を否定するために志々雄と戦ってる?

「??????????」

と、頭の中がくっちゃくちゃになったのを覚えてます。

でまあ、戦って、結局、主人公サイドが生き残る結果となるわけですが、しかし、志々雄真実は主人公に倒されるわけではなく、半分自殺みたいなもんで死んでいきます。

20120719081812707.jpg©和月伸宏/集英社

主人公が手を下さないで、シシオさんは死なないといけないので、ああするしかなかったのかもしれませんが、いわば勧善懲悪モノとしての構造が破たんしたわけで、ひろえもんはカタルシスが得られず、非常にもやもやしましたのを鮮明におぼえてます。

なぜ、作者は、「悪者」を直接制裁しなかったのか?

そこには何か意図があるんじゃないか、そんなことを、ふと、考えました。

そして、物語は志々雄編のクライマックスへ。

そこでまた、自分の中で、正義だの悪だのが良くわからなくなってしまったのが、駒形由美という、キャラクターの設定。

駒形由美ってのは、志々雄編の割と序盤から登場するキャラクターで、いってみれば愛人ポジションなんです。

が、終盤で志々雄サンに殺されます。

sisiyumiken.jpg©和月伸宏/集英社/フジテレビ

「志々雄サン、ホンマ救いようのないワルやでぇ。」

「最低や!」

とか思いながら、続きを読む。

で、由美姐さん、

てっきり「裏切られた」とかなんとか絶望しながら死ぬのかと思いきや。

8a3493b8c30011af6cd053e237579761.jpg©和月伸宏/集英社

「嬉しい」といいながら、歓びの涙を流しながら死んでいきます。

 どういうことか、さっぱりわかりませんでした。

当時、ひろえもん、小学生。

殺されて悦んでる、この女性は変態だあ、と思いました。頭おかしいと思いました。本当に。

で、その後、この駒形由美というキャラクターにも後日談がありました。

読んでて、意味が分からんので、いろいろ辞書とかで調べた記憶がありますが、意味が分かった時に、とってもやるせない気持ちになりました。

同時に、当時「人間の尊厳」ということばはしらないんですが、そんなことについてぼんやり、あれこれ考えた記憶があります。

 「そうか、世の中には、死ぬよりもつらいことがあるんだなあ」

「人間には、死よりも優先することがあるんだな」

ということを、はじめて認識する機会でもあったと思います。

 

正義と悪の概念について

で、それを機会に改めて、最初から漫画を読み返すと、作者が、ずっと一貫して、

「正義と悪」

「権力と個」

そういったものをテーマにしていたんだという事に、ハタと気が付きました。

「この作家すげぇ!!」

と感じた衝撃は、今も鮮明に覚えていますねえ。

そこから、しばらく、漫画を深読みしようとする癖が抜けなくなり、しばらく楽しんでなんとなく漫画を読めなくなったほどでした。

この漫画をきっかけにして、自分の中での「正義」がこれまでの絶対的なものでなくなったと思います。

そして、なんらかの影響を受けた、「相対的」なものであると考えるようになりました。

いろんなことを自分で調べて見るようにもなりました。

答えは自分で考えろ

別のキャラクターで、瀬田宗次郎というキャラクターがおりまして。

6db7c379.jpg©和月伸宏/集英社

志々雄の直属の部下なんですが、志々雄の受け売りで

「所詮この世は弱肉強食」

と考えていた人間です。

e279cb960919b59c379421d7a7387e8a.jpg©和月伸宏/集英社

そんな考えの彼は主人公と戦闘になり、結局主人公が勝つのですが、その時に瀬田宗次郎は、

「勝った主人公側の主張が正しかったんだ」

といいます。

で、それを主人公は否定します。

「勝った人間がただしいという理屈は、まさに『弱肉強食』の理屈だよ」
「答えはこれから自分の人生の中で見つけてね」

と。

4cce6203d5a75592a2e40c344a9c9ffc.jpg©和月伸宏/集英社

なるほどなー、とおもいました。

想いかけて、「あれ?」と思いました。

「それって、でも、『主人公が勝ったから』言えるんじゃないの?」

「ってことは、やっぱり、『弱肉強食』なんだろうか」

「でも、『自分で考えろ』は、敗者がいおうと、弱者が唱えようと、すべての人間に等しく当てはまるから、別に矛盾はないような」

 などと、メタが良くわかっていないばかりに、無用な混乱をしたりしました。懐かしい笑。

 

結局その時には、どっちが正しいのか、何が正しい答えなのか。

その答えは出ませんでした。

ので、考え続けてみようと思いました。

そうすればいつか、自分なりの答えにたどり着くはず。

そんなことを考えました。

 

で、それから、早くも15年間。 (マジか…笑

そろそろ

「所詮、この世は弱肉強食。強ければ生き、弱ければ死ぬ。」

について、自分なりに見てきたことから考えてきたことについて書いて、一区切りつけたいと思います。

 

現時点での結論

過去15年間の世の中を、社会のシステムというマクロな視点で見た時、

「所詮、この世は弱肉強食。強ければ生き、弱ければ死ぬ。」

は真理だと考えます。

あくまで、人の意志や手を加えない、自然の形そのままのありようを真理と呼ぶのならば、ですが。

 

冒頭触れた、資本主義経済というのは、結構弱肉強食と相性が良かったりしますが、むしろ、逆で、まず、弱肉強食な社会構造が存在し、それをベースとして資本主義は発展したと考えるのが妥当かもしれません。

特に、9.11後、リーマンショック、通貨安戦争などをふまえると、そう考えてしまいます。 世界史の授業で習った事振り返っても、多分そうですよね。

 

そして。

この真理を望ましいと思うのか、めんどくさいからそのままでいいと思うのか、あるいは、好ましくないと考えて不断の努力で、「弱肉強食」以外の別のパラダイム、構造を全面に押し出すのかは、きっとまた別な話なのだろうと思います。

つまり、人間社会もほったらかしにしておけば、他の自然の摂理と同様、「弱肉強食」になるし、それを変えようという、人間の何らかの意思が働けば、そうではなくなるのでは、そう思います。

人間が何もしなければ、世の中のシステムは、自然に、「弱肉強食」に収束していくと考えてます。

そして同時に、そのことについて、世の中の構成員一人一人が自覚を持ち、「弱肉強食」以外の尺度で動くなら、世の中はいくらでも変わると信じております。

ですから、システムのゼロ ベースは、「弱肉強食」であるということを認めたうえで、そのシステムの上に、どのようなシステムを構築するのか、その問いへの答えが次に必要な視点なのかなと今は考えてます。

 

これが15年間、無駄に考えた結論ですが、いかがでしょうや。

和月先生?

 

おわりに

明治時代から時が過ぎて、あの戦争が終わり、60年。高度成長期以降、日本では、3種の神器とよばれる白物家電がほぼすべての家庭で使われるようになり、カラーテレビも今は昔、テレビいまやインターネット、携帯電話、パソコンといった情報機器が登場し、世の中はずいぶんと便利になりました。

なったはずです。

でも、今も昔も「弱肉強食」は変わりません。

 

これからはどうでしょうね。

 

難病でも働ける、理解を

「難病でも働ける」理解を

真庭市湯原温泉の旅館のオーナーで、湯原町(まち)旅館協同組合代表理事の古林伸美(こばやしのぶよし)さん(59)が15日、難病患者の就労支援をテーマにした講演会で約20年に及ぶ難病との闘いについて語る。自らのホームページなどで、病気を抱えながら地域の観光振興などに取り組んできたことを書きつづってきたが、改めて「難病患者でも働けることを、患者仲間にも社会にも理解してほしい」と訴える。

上記の記事の中で、古林さんは

容体は決して安定せず、月5回の通院治療が欠かせない。今夏から全身が痛んでよく眠れず、病気の進行を実感しているという。それでも、「難病でも寝たきりの人ばかりではない。治療を続けながら働きたい人は多く、できる仕事がある」と強調する。

 とのこと。先日の記事とも共通点があると感じました。つまり、頭が使えれば、経営トップとしての労働は可能であるということです。働きたいという意思があってもなかなか場所を確保できないのは、難しい問題だと思います。しかし、まず、本人があきらめていないというのは、非常に重要なポイントなのではないかと感じました。

人間、こんなに強い人ばかりではないと思います。むしろ、このような人はめったにいないと思います。

しかし、こういった姿に励まされて、奮い立つことができる人がもっと増えたらいいなと思いました。

そして 、そのためにはどのようなことが、自分には支援できることがあるのかをよく考えてみようと思いました。