真実が人を傷つける場合にどのようにそれを扱うかという問題について

はじめに

昨日こんな記事を書きました。

OTRとして働く上で必要になると思うものシリーズ2 ストーリーの分析

この中でちらりと、「真実が人を傷つける事に対する配慮がいるんじゃないか」ということについて触れました。

で、今日こんなものを読んだので、

親の年齢と障害のリスクをめぐって

それを踏まえてもう一度思ったことを書いてみたいと思います。

科学的であるという事

個人的に、科学的であるという事は、率直かつ、端的に対応する事柄を表現することだとおもっています。

たとえば、身長150センチメートルで体重120キログラムの人がいたとしてその人に「肥満だ」と告げるのが科学的です。

人間的配慮

それとは別に、人文学的要素というか、人として大切だなあと思うのは、たとえば「肥満」である人にストレートにその事を告げないようにして、相手が傷つかない配慮をするという事だったりするのではないかと思います。

ですから、肥満の人に「デブ」なんて言うのは、あり得ない事でして、「ふくよかな」とか、「ころころとした」とか、そういう丸い言葉に置換する事によって相手を傷つけることを回避することは人として大切にすべき訳です。

紹介したtogetterまとめの内容踏まえて

近年いろいろな論文が示すところによると、子供が何らかの障害を発症する確率は、親が子づくり行った年齢が高ければ高いほど、高くなるということがわかってきています。

今の若い人にとって、このデータが意味するところは、「さっさと子供を作れ」ということになると思います。

一方で、そろそろいい年になってきた人々で、子供が欲しいなと考える人にとっては、これらは非常に厳しいデータとなり得ます。

そして、もし、ある程度高齢になってからの子供が何らかの障害を発症した場合、その親がこうしたデータを知っていると、その障害が自分のせいではないかと考える親も当然出てくるとおもわれます。

こういう、人にとって厳しい厳しい現実にどのように向き合うのかということは非常に大きな問題だと思います。

親や社会が現実主義的視点にたつ場合

論理や確率論で言えば、あるいはリスクやメリットを踏まえた合理的な考え方をするのであれば、子供は若いときに作るべきであり、若いときに作らないのであれば、その子供が障害を持ったときには、しかるべき責任をしっかりと負うことが親にも求められるでしょう。その覚悟も。

「年を取ると羊水が腐る」と発言した芸能人がいました。

彼女は、非常に強いバッシングを受け、その発言を撤回し謝罪をしたことでその件は収束をみました。

ところが、後年になって彼女の言わんとしていた事が、科学的にみて正しかったことが判明してしまいました。バッシングしていた人々は、いったいどんな気持ちになったのでしょうか。

多分相当傷ついたのでは無いでしょうか?

発言をした芸能人を必死になって攻撃してまで、拒否した現実が、科学によってお墨付きを与えられてしまったのですから。

今の社会は、自由主義社会という事になっています。自由主義社会では、あらゆる選択が個人にゆだねられている代わりに、その選択に伴う結果には選択を行った個人に責任が発生します。

つまり、社会は、バッシングをしていた人々に対して、「因果応報」と告げることになるわけです。容赦なく。

非合理性に救われること

コレだけ科学が積み重なっている現代社会においても、宗教や似非科学がなくならない訳について個人的には、人にはだまされたがる、あるいは勘違いしたがる性質があるからだと思っています。

つまり、受け入れがたい事かもしれませんが、望んでだまされるような場合や、そういった性質を持った人がいるのではないかという事です。

このような人は、現実に対して追いつめられている事が多いように思います。現状をかえる事ができない場合に、人は考え方を変える事によって精神的な安定を図ろうとする場合があります。

こうした事を無意識的に意図して、自ら無意識のうちに非合理性に救われているという事は、現実社会にはきっと良くある事なのだと思います。

「人間らしさ」の根源

極論、愛だの、友情だの、信用(貨幣経済含む)もその延長線上だと思います。無条件に信じる事によって救われている事が人間の社会にはたくさんあります。

たとえばウサギとカメという話があります。
たとえば、アリとキリギリスという話も。

これらに共通するのは、まじめにやってる存在が、才能ある存在や努力をしない存在に勝るという考え方です。

でも現実には、努力で超えられない事はたくさんたくさんあります。
リハビリテーションの現場においては、機能回復訓練をクライエントもセラピストも必死になって行っても、ある程度以上に回復する事が無いということもたくさんたくさんある訳です。
機能回復は、ある程度は努力が影響しますが、それでも努力をしたからといって、病前のような状態に回復するとは限らない訳です。

たとえば、こうした現実は、「努力をすれば勝利できる」的な考えをいとも簡単に否定してしまいます。
と、すると、考え方の地平を別の次元に持っていく事が必要になるのですが、それはまた別の話ですね。

とにかく、まじめにやっても報われない事だってきっとたくさんあるのです。

でも、人間ががんばれるのはなぜかという理由を考えたとき、「盲目的に」あるいは「無根拠に」、がんばったら報われると「信じる」ことができるから、というのは絶対にある事だと思うのです。

人間関係がうまく行くのは、そこに「愛」や「友情」や「信頼」が「存在する」と「信じている」からではないでしょうか。

科学は善くも悪くも突き詰めることができてしまう

コレらを科学的に否定してしまう事は、多分できるんでしょう。

人間が進化の過程で、生存しやすい条件を習慣化した結果がそれらであり、別の形で人間が社会のシステムを形成できるようになった時点でそれらは不要になったという、血も涙も無いような論文もきっと書く気になればかけるのではないでしょうか。

でも、そこに踏み込むのって、「人間」というものの否定につながってくるんですよねきっと。

大切なのは突き詰め過ぎない「いい加減」を知ること

作業療法はじめ、リハビリテーション職においては、人間とはなにか、という問いかけが、人権とか、その人らしさというものを考える上で密接に関連してきます。

つまり、どれだけ合理性以外のさまざまな要素に目を向ける事ができるのかという事が大きな要素になってくると考えられます。

そのためには、余裕とかゆとりとか、そういう部分が大切になるのでしょうけれども。

そして、余裕とか、ゆとりとかを生み出す上で最も大切になるのは合理性ですよね…ってあれ?

おわりに

結局、合理性に基づいていろいろやった結果として余裕のある人間が、どこで自分の合理性にストップをかけて、他人を思いやる事ができるのかというところが重要になるんですよね。

ちなみに、書いといてなんですが、これも公言する事ではないと思います…。

「いいな!」と思ったら、シェアをお願い致します。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。