基礎研究は、いろいろな研究機関で、いろいろな形で行われています。
ところで、日本の家電メーカーの凋落がささやかれて久しいですね。基礎研究の話題と関連するので、まず、なんでこんなことになったのかについての一説に触れてみたいと思います。
メーカーが凋落するということは、つくっている製品が売れないということです。なぜ、売れないかという説明をするときに、日本のメーカーが作るものが魅力を失ったからだという説明をされることがあります。
この魅力というのは、使い手である買い手が、それを買う時の決め手としての魅力でしょう。つまり、どうしてその商品を買わなければならないのかを、買い手にわかってもらえないということのようです。
買い手は、いろいろなことを考えて買い物をして、自分にとって一番必要なものを買い取ろうとします。その相手にとって、必要な要素を満たしているものの中で一番安いものを買うことになるでしょう。
こういった買い手の行動原則とは別の次元の観点で、モノづくりを行ってしまったが故に、ビジネスモデルとして失敗してしまったというのが一つの説です。
この問題構造は、製品を作った人が、それを使う人間に自分の作ったものの素晴らしさを伝えることができていないというところに本質があると考えられます。その製品は、ひょっとしたら使う人が求めている機能をきちんと備えているかもしれない。一見すると、使いづらそうに見える機能も、長く使っていくことを想定したときには、逆にその製品を使い安くする機能かもしれません。
しかし、直感的にわからない強みは、きちんと説明しないとわかってもらえないことが多いです。iPadは、買い手の直観に訴えかけることで、マーケティングに成功しました。しかし、世の中の製品は、あんなに単純な強みを持っている製品のほうが少なく、強みの違いは、きちんと言葉を尽くさなければわかってもらえないはずです。その言葉は、使い手である消費者が普段使っている言葉であることが必要なのです。そうでなければ、消費者はその製品について理解するまでに、一定の学習コストを支払うことになります。マニア向けの製品であれば、そういった点はむしろ強みですが、通常は、消費者が製品のことを理解できないというのは、商品の販売を行う上で非常に大きなデメリットとなるのです。
話を、基礎研究と臨床における活用法に戻します。勘の良い方は、何を言おうとしているのか読んでいる途中でお分かりになったと思いますが、基礎研究と臨床においては、基礎研究がメーカーで臨床が消費の場ということになります。ということは、基礎研究の結果、あるいは、その論文のアブストラクトは、臨床の人間が日常的に使用する言語に翻訳可能な表現になっていることが、「その研究成果が臨床で使用される」ためには必要であるということになります。
論文を読むと現状としては、マニア向けの製品が多いと思います。
むろん、専門職の矜持を支える面もあるのかもしれませんが、あまり日常生活での表現からかい離する必要はないと思います。もし、厳密性がどうしても必要な内容であれば、その厳密性を表現した論文と、それをわかりやすく解説した教科書の二つを書くことが必要なのではないかと思います。
そうでなければ、日々、生み出されている有用な研究の成果が、誰にも使われないままに埋もれてしまうことも考えられます。
使い手のことを想定することは重要なのではないか、とふと思ったので、こんなことを書きました。
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