「生きるをどう定義するか。あるいは、生きるとは何か。」という哲学的問いが高齢期医療では、重くのしかかる。と感じた件について。

はじめに

実習時の個人的な体験に基づく話です。
実習にこれから行かれる方で、もし、この記事を読んでくださっている方があれば、自分なりに考えてみてもらえると、書いてみた甲斐があります。

実習に出るまで、分からない現実があります。
教科書に書かれていない要素も、臨床ではたくさん起こっています。
その中で、あえて詳しく取り上げていないことも、たくさんあると感じました。

その中の一つについてです。

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高齢期の患者さまばかりの病院

自分が、実習をさせていただいた病院では、作業療法の対象となる方は、ご高齢者の方が多かったです。
普段日常においてあまり、関わることの無い世代の方と、たくさん関わらせていただくことができました。
その経験は、自分の貴重な財産になってます。

そんな実りの多い実習ではありましたが、反面、「ままならないなあ」ということもたくさんありました。

その中の一つが、人生への満足を表明される方にどう応じたらいいのかという事でした。

「もう十分生きた。死にたい。」

という趣旨のことを、患者様が、おっしゃるわけです。
自分は、高々20年あまりを生きてきた若輩者です。
そんな人間に対して、患者様の中には

「もう十分に生きたよ」
「いい人生だった」
「満足」
「だから、苦痛が続くのに生きている必要を感じない」
「なぜ、リハビリをしないといけないのか」

という、趣旨の発言をされる方がいらっしゃったわけです。

しかも、お1人やお2人ではないんですよね…。
結構いらっしゃる。

結局、実習中、自分は
「そんなこと言わないでください」
とか
「お会いできてうれしいです」

とか返して、ある意味で、患者様の問いから逃げることしかできませんでした。

きっと、自分の中に、その問いの答えが無かったからです。

患者様は、自分の死を選べない

いくら、ご本人さまが「死にたい」といったって、そんなこと周囲が絶対に許さない環境の最たるものが病院です。
生命の危機から、脱して、社会に戻れるような基礎を作ることは、病院の重要な役割の一つだと思います。

けれども、いろいろあって、退院できない患者様(社会的入院)となっている方も、やはりたくさんいらっしゃいました。
そういった方々の中で、死にたいとおっしゃっている方がいらっしゃるわけです。

病院は、患者が入院したら、退院するまで、死なないように面倒を見続けてくれます。
たとえ本人がそれを望まなくても、ある意味、本人のそういった感情などは無視して、医療的な延命が行われているのかもしれない。
そう思ってしまうような、現実を経験しました。

今日見た記事ですがこんなのがありました。

 麻生太郎副総理は21日の社会保障制度改革国民会議で、高齢者など終末期の高額医療費に関し「死にたいと思っても生きられる。政府の金で(高額医療を)やってもらっていると思うと寝覚めが悪い。さっさと死ねるようにしてもらわないとかなわない」と述べた。

同時に「高額医療を下げて、そのあと残存生命期間が何カ月か。それにかける金が月に何千万円か、現実を厚生労働省も知っている」とも述べ、財政負担が重い現実を指摘した。

2013/01/21 13:51   【共同通信】

麻生太郎副総理の発言は、財政に配慮したものであることは間違いありませんが、その一方で、きっと、「さっさと死ねるようにしてもらわないとかなわない」という発言は本音なのだろうと勝手に思いました。

実は、自分が、患者様の問いに対してろくな返事ができなかったのには、もう一つ理由があります。

それは、自分が患者様と同じ立場に置かれたときに、自分はきっと、この患者様と、同じことを感じ、同じことを言うだろうと、そんなことを考えてしまったからです。
「相手の感情に巻き込まれるとは未熟だ」
というご意見もございますでしょうが、ともかく、そんな風に考えてしまったのです。

だから、何も言えなくなってしまいました。

逆に、「そうですよね」なんて、言ってしまいそうでした。

おわりに

最近、とみに、
「どう生きるかということは、どのように人生を終わらせるかだ」
と感じます。

人生はよく、物語にたとえられます。
物語は、いくら始まりや途中の盛り上がりが良かろうが、終わりが悪ければ、その物語への評価は下がってしまうと思います。

いくら考えても答えは出ませんが、何と答えるべきだったのでしょうか。


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