「高機能発達不均等:High-Functioning Developemental Imbalance:HFDI」という概念

概要

「高機能発達不均等:High-Functioning Developemental Imbalance:HFDI」

という耳慣れない概念について、提唱されている斉藤清二先生がご自分でその一部をご紹介くださったみたいなので、要約・引用紹介します。

以下引用(一部要約)

私達は富山大学でのプロジェクトにおいて複数例の支援経験を積み重ねるなかから、少なくとも大学キャンパスにおいて、社会的コミュニケーションの困難さを抱えた学生達を支援しようとする時、彼らの大部分を「発達障害」とラベルすることは、有効ではない、と考えるようになった。

発達障害」とは「発達させるべき能力の生得的な障害(極端に言えばある能力の欠損)」と理解されやすい。しかしこのような理解は、少なくとも大学キャンパスというローカルなコンテクストにおいて、コミュニケーションへの支援を行おうとする時、適切とは言えないというのが私たちの実感である。

むしろ、彼らは発達させるべきいくつかの能力(少なくとも潜在能力)が高すぎるために、平行して発達させるべき他の能力との間に不均等(imbalance)を生じてしまい、それが色々な困難さを彼らにもたらしていると考えた方がよいのではないかというのが私達の仮説である。

そこで私達は、社会的なコミュニケーションに困難を抱え、発達障害と一般に呼ばれているような傾向をもっているが、ある分野においては卓越した能力をもっているような学生を、とりあえず「高機能発達不均等(HFDI)」と呼ぶことを提唱した。

HFDIの暫定的な定義は以下のようにまとめられる。

  1. 知的発達の遅れを伴わない。
  2. 興味や関心が特定のものに限られる。
  3. 特定の卓越した能力を持っている。
  4. 他者との社会的関係の形成が困難。
  5. 独特の認知・思考のパターンを持っている。
  6. 被害感、怒りを持ち続けがち。
  7. 発達障害の診断基準を満たす場合もあれば満たさない場合もある。

もちろん、上記の暫定的な定義はかなりあいまいなものであり、今後支援の継続を重ねる中で、より適切なものへと改良していく必要がある。

さらにこれは、医学的な診断基準に異議をとなえるというようなことをもくろんでいるのではなく、あくまでも大学生支援という場に限定し、とりあえずの支援方針を策定し、実践の中でより適切な状況理解を、学生と支援者の相互交流の中から作り出していくための、出発点となる暫定的な概念である。

しかし、従来「障害」とラベルされていたカテゴリーを「不均等」と呼び替えることによってもたらされるメリットもあると思われるので、期待されるメリットについていくつか整理しておきたい。

「発達障害」を「発達不均等」と呼びかえることにより期待されるメリットについてまとめていきます。なおこれは、必ずしもオリジナルの発想ではなく、すでに多くの人によって、色々な形で提唱さsれていることでもあります。その一番目は「『一生変わらない』から『バランスの回復へ』」です。

発達障害とは、概念的には「脳の何らかの異常によって、生まれつき、あるいは発達の早期に機能不全が現れて、一生持続するものである。薬で治療する病気とは異なり、できるだけ早期から周囲が理解して、環境を整え、養育的な対応をすることが重要である」と一般に理解されている。

本人の努力や心がけ、あるいは本人への治療ではなく、環境の整備やアクセスの保証の必要性を強調することは、もちろん意味がないことではない。しかし、「障害が一生持続する」ということが強調されすぎると、「障害特性は変化しない」というニュアンスもまた強調されることになる。

しかし我々の経験からも、また多くの事例研究報告からも明かなように、彼らは、他者との交流を通じて自らの経験を意味づける作業を通じて、明らかに変化していく。大学生に限らず、支援にあたっているものの多くは、彼らがまさに「成長し発達する」という実感をもっている。

「発達不均等」とは、「発達途上にある能力の間に不均衡がある」ということであり、たまたま相対的に発達の遅れている部分(多くの場合は社会性である)があるにしても、それは成長可能であるし、同時に優れている部分に対してより多くの注目を与えることが可能になる。

支援の目的は、欠損している能力を支援者が補うということよりもむしろ、学生のもつ優れた部分が発揮されるような場を提供し、学生の自我成長を促しつつ、発達のバランスを回復させていくことにおかれることになる。

「発達障害」を「発達不均等」と呼びかえることにより期待されるメリットの2番目は「『障害受容』から『特性理解へ』」と表現できる。

障害モデルとは、障害を早期に診断し環境を整えると同時に、本人およびその家族に障害受容を迫るというプロセスを必然的に内包する。障害モデルを採用するかぎり、心理教育や自己理解の促進という作業は、「自分の障害についての『正しい知識』を獲得してそれを受け入れる」ことを目指すものになる。

しかし多くの場合、「障害についての正しい知識」とはあくまでも専門家の中にある「知識」であり、それは往々にして、学生本人や家族が理解している知識内容とは一致しない。大学生の場合、すでにかなり長い人生をそれなりに乗り越えてきたという歴史を彼らは持っている。

そのような歴史に基づく自己理解のストーリーを形成している彼らにとって、「障害受容」を迫られるというような体験は、例えそれが「専門家の視点からは正しい知識」であったとしても、「侵害的」に感じられることがあるのはやむを得ないと思われる。

時にはそれまでの否定的な経験によってただでも低下している自尊感情を、さらに低めるような結果になりかねない。

これまでも再三言及されていることであるが、学生や家族の自己理解にとって重要なことは「発達障害」という診断を受け入れることというよりはむしろ「自分の特性」を理解することであり、それは具体的には「自分の得意なところと苦手なところ」を理解することである。

そうだとすれば、自己理解の内容としての「障害という概念」は、そもそもそれほど重要ではないということにはならないだろうか。

本人や家族が、「障害」というモデルを受け入れるほうにメリットがあるならばそうすればよいし、そうではなくて「障害」という言葉で表現されるものとは異なるモデルを採用することにメリットがあるならば、そうするように援助すれば良いのではないだろうか。

「発達不均等」という概念は、彼らが採用しうるモデルの選択肢を増やし、障害モデル以外の説明図式を通じての自己理解を増進することに益する可能性がある。 

「発達障害」を「発達不均等」と呼びかえることにより期待されるメリットの3番目です。それは「『異質な人たち』から『連続したスペクトラム』へ」と表現できます。

発達障害のモデルは、生得時にすでにもっていた障害が、年齢を経るにつれて次々と新たな障害を生み出していくというモデルであり、それが人生早期に「見逃される」ならば、二次的な障害という形で、次々と悪いことを産み出していくというモデルでもある。

このモデルは、発達障害とは一般的な集団とは明らかに区別できる特性を持った人であるという考え方が前提となっている。しかし現実には、中核的な発達障害の大学生がもっている特性のかなりの部分は、いわゆる一般の人も程度の差こそあれ持っている。

実際に相談室や支援の窓口を訪れる学生は、最初から彼らの特性を全て示すわけでもなければ、自分の特性を自覚しているわけでもない。彼らの特性は、支援などによる関わりを通じて次第に明らかになっていくものである。

今までの障害モデルでは、最終的に医学的診断がなされない限り、彼らはそもそも発達障害とはカテゴライズされず、彼らに対する支援の実際が公表されることはほとんどなかった。しかし大学のみならず、現代社会において、いわゆる「社会的コミュニケーションの困難」は大きな問題である。

このような問題に対する支援の方法論が確立されれば、それは中核的な発達障害の学生のみならず、キャンパスの構成員全てにとって恩恵をもたらす可能性がある。

「高機能発達不均等」という概念は、ある意味では大学で学ぶ大部分のもの(あるいは教える立場あるもの)にとって程度の差はあっても当てはまるものであるから、この問題に対する関心の領域を拡げるために有用である可能性がある。

発達不均等とは、その人が発達させている能力のうち、あるものは非常に高いが、あるものは比較的低い状態にとどまっているので、全体として能力の凸凹があり、そのために(特に社会的なパフォーマンスにおいて)苦労しているという考え方である。

そういう風に考えると、発達不均等はある意味では程度の差によって、誰にでもあるものだから、発達障害とみなされる人とそうみなされない人というのは、実は連続したスペクトラム上にあり、決してあるところで明確に線引きできるものではないということになる。

私達は、HFDIの学生が生活しやすいように大学を変える試みは、以下の2つの理由によって、全ての大学構成員にとっても良い効果をもたらすと考えている。

(1)そのような大学は、必然的に多様性を尊重する大学とならざるを得ない。 HFDIの学生は、他の人から見ればユニークな認知のしかたをしている。またHFDIの学生同士においても、認知のパターンはおそらくそれぞれ異なっている。一般にこのことは、「変わっている」とか「常識がない」というような評価をされがちであるが、それは偏ったみかたである。一人一人の人間が、それぞれ違った世界を認識しており、多様なものの見方が存在することを認めあうことによって、各自がそれぞれのユニークさを、より生かすことが可能になる。このような大学環境は、特定の学生だけではなく、全ての大学構成員にとって、より生きやすい創造的な場となると思われる。

(2)そのような大学は「暗黙のルール」に過剰に頼ることなく、明示すべきことをきちんと明示したうえで、質の高い交流が可能になる「場」を提供する。多くのHFDIの学生がもっとも苦手とすることは「暗黙のルールを読み取ること」である。テクストとして明示されることのない「暗黙のルール」がその場を支配しており、少しでも外れると、徹底的に非難されたり、その場から排除されてしまったりする世界は、HFDIにとっては恐怖の世界である。しかし、このような世界は、その他の人にとっても生きにくい世界ではないだろうか。日本の文化は、「言葉に表現されていないことを察して行動すること」を良しとする文化であり、このことにはもちろんメリットもある。しかしテクストやルールによって明示化できることはきちんと明示化した上で、その中でよりよい交流を目指していくような文化は、HFDIの人のみならず、多くの人によっても生きやすい文化なのではないだろうか。そのような質の高い交流を大学内に生み出すことが可能になる「場」を提供することは、大学の大きな責務であると考える。

詳細について

『発達障害大学生支援への挑戦』(金剛出版、2010)で紹介されているとのことです。

感想

同じ状態を示す言葉でも、用語を変えることによって、印象が変わるということは確かにあることだと思います。

メリットデメリットはあると思うので、難しい問題だと思いますが、考えたことのない視点だったので、新鮮に感じました。

今回紹介されているような定義の在り方の方が、有効な集団がいるということを知ることができたことはよかったかなぁと思います。

情報元

@SaitoSeiji(twitter)のツイートより


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