はじめに
今日も今日とて、日本始め、先進国は、基本資本主義社会でありますが、最近、作業療法とは何ぞやと関連して、自分の生い立ちについて考えます。関連して自分の思想についても。
さてさて、本日は
「所詮この世は弱肉強食。強ければ生き、弱ければ死ぬ」
が、真理かどうかという話。
るろうに剣心についての壮大なネタバレが含まれますので。ご注意願います。
るろうに剣心という漫画との出会いとか
るろうに剣心は、和月伸宏先生が、雑誌「週刊少年ジャンプ」にて執筆、連載していた作品で、現在も単行本を入手するなどの方法で読むことができます。
たしか、完全版も発売されていたように思います。
和月伸宏先生については、ONE PIECEの尾田栄一郎先生をはじめとして現在漫画家として第一線を張ってる著明な先生が、いろいろとアシスタントをしててそれぞれが連載もったりなんかしたもんで、その当時のアシスタントメンバーについた異名が「和月組」、なんて伝説も有名ですよね。
そういえば、つい最近、映画が実写化されてましたね。見に行っておりません。残念ながら。
このコラージュも有名ですよね笑。
さて、るろうに剣心とひろえもんの、なれそめというか、なんというかですが、当時、小学生は1年生で、ジャンプなんて読むような年齢ではありませんでしたが、TVアニメ化されたのをきっかけに、母親がはまりまして、購入するようになりまして、家にあったので読んだ次第です。
読んですぐは、「絵柄が面白いなー」という事をおもいました。
初期の絵柄は、繊細というか、細やかでふわっとした曲線が印象的だったんですが、当時は志々雄編あたりだったでしょうか。
最近の話に近づくにつれ、だんだん、絵柄の表現手法が変わっていくのが、おもしろいなー、と思ってみてました。
という話はどうでもいいんですけれども。
懲悪ものかと思っていた時期が、僕にもありました・・・
さて、そんな、「るろうに剣心」ですがストーリーはこんな感じです。
幕末に「人斬り抜刀斎」として恐れられた伝説の剣客緋村剣心。明治維新後は「不殺(ころさず)」を誓い、流浪人として全国を旅していた。神谷薫との出会いや、同じ激動の時代を生き抜いた宿敵たちとの戦いを通じて、贖罪の答えと新たな時代での生き方を模索していく。
まず、一周目にこの漫画を読んだ時には、正義の主人公緋村剣心が、次々に現れる悪者を倒す話としてしか映りませんでした。
「主人公は「不殺(ころさず)の誓い」とかなんとか言ってるけどなにそれ。」
「というか、明治なんだから人殺しが犯罪なのは当たり前じゃん、何言ってんのさ?」
と、へんなの。滑稽だな、と思っておりました。
当時、小学校2,3年生くらいだったかと思うんですが、ありとあらゆる犯罪は絶対的な悪だと信じて疑いませんでしたし、いかなる理由があろうとも、人殺しは絶対にやってはいけないことだと認識しておりました。今思えばですが、当時の自分はある意味で偏りがあるんでしょうね。
そんな、正義が悪者をやっつける的な構図で物語を楽しんでいたところ、「志々雄編」(いわゆる京都編)、特にその終盤にて衝撃の展開がいくつも待ち受けていたわけです…。
京都編
政府に恨みを持つ、志々雄真実一派の武力による明治政府転覆を阻止する話。戦いの場は京都と指定されたため、剣心達一行も東京を離れ京都に布陣を敷くことになった。「斎藤一編」(単行本での名称)は東京が舞台であるが、『剣心華伝』では京都編のエピソードとされている。
志々雄真実というキャラクター
この人ですね。結構有名だと思うんですが。
©和月伸宏/集英社
(参考画像はあんまり関係ないです。)
簡単に言うと、明治政府を転覆させて、「弱肉強食」を理念とした、新しい国家を作ろうとしているキャラクターです。
漫画を流れで読んでるとあまり気になりませんが、このキャラクターは、実際かなりの小物です。
「仲間に暗殺されかけて、復活してみたら、世の中平和になってる!」
「つまらんから、復讐してやるッ、戦争じゃっ」てキャラクターです。
必殺技も、刀と手袋のギミックですし。秘剣とか言ってますが、ガトリングガンで自分が強くなったつもりになっていた実業家と大差ありませんですし。
冷静になって考えると、ショボイキャラクターですが、そんなキャラクターの発言でかなり自分の中で引っかかったものがありました。
で、それが
「所詮、この世は弱肉強食」
©和月伸宏/集英社
当時、TVで「動物奇想天外」という番組をやってまして、「草食動物が肉食動物に食われる」なんてシチュエーションをみて、つねづね、食物連鎖について考える機会があり、それをふまえると
「あれ?志々雄真実というキャラクターが言ってることってじつは正しいんじゃね?」
と思ってしまったのです。
その起点になったのは、「人間も動物だ」という、理科の知識でした。(まあ安易な考えです。)
で、正しいはずの主人公サイドは、正しく思える「真理」を否定するために志々雄と戦ってる?
「??????????」
と、頭の中がくっちゃくちゃになったのを覚えてます。
でまあ、戦って、結局、主人公サイドが生き残る結果となるわけですが、しかし、志々雄真実は主人公に倒されるわけではなく、半分自殺みたいなもんで死んでいきます。
©和月伸宏/集英社
主人公が手を下さないで、シシオさんは死なないといけないので、ああするしかなかったのかもしれませんが、いわば勧善懲悪モノとしての構造が破たんしたわけで、ひろえもんはカタルシスが得られず、非常にもやもやしましたのを鮮明におぼえてます。
なぜ、作者は、「悪者」を直接制裁しなかったのか?
そこには何か意図があるんじゃないか、そんなことを、ふと、考えました。
そして、物語は志々雄編のクライマックスへ。
そこでまた、自分の中で、正義だの悪だのが良くわからなくなってしまったのが、駒形由美という、キャラクターの設定。
駒形由美ってのは、志々雄編の割と序盤から登場するキャラクターで、いってみれば愛人ポジションなんです。
が、終盤で志々雄サンに殺されます。
©和月伸宏/集英社/フジテレビ
「志々雄サン、ホンマ救いようのないワルやでぇ。」
「最低や!」
とか思いながら、続きを読む。
で、由美姐さん、
てっきり「裏切られた」とかなんとか絶望しながら死ぬのかと思いきや。
©和月伸宏/集英社
「嬉しい」といいながら、歓びの涙を流しながら死んでいきます。
どういうことか、さっぱりわかりませんでした。
当時、ひろえもん、小学生。
殺されて悦んでる、この女性は変態だあ、と思いました。頭おかしいと思いました。本当に。
で、その後、この駒形由美というキャラクターにも後日談がありました。
読んでて、意味が分からんので、いろいろ辞書とかで調べた記憶がありますが、意味が分かった時に、とってもやるせない気持ちになりました。
同時に、当時「人間の尊厳」ということばはしらないんですが、そんなことについてぼんやり、あれこれ考えた記憶があります。
「そうか、世の中には、死ぬよりもつらいことがあるんだなあ」
「人間には、死よりも優先することがあるんだな」
ということを、はじめて認識する機会でもあったと思います。
正義と悪の概念について
で、それを機会に改めて、最初から漫画を読み返すと、作者が、ずっと一貫して、
「正義と悪」
「権力と個」
そういったものをテーマにしていたんだという事に、ハタと気が付きました。
「この作家すげぇ!!」
と感じた衝撃は、今も鮮明に覚えていますねえ。
そこから、しばらく、漫画を深読みしようとする癖が抜けなくなり、しばらく楽しんでなんとなく漫画を読めなくなったほどでした。
この漫画をきっかけにして、自分の中での「正義」がこれまでの絶対的なものでなくなったと思います。
そして、なんらかの影響を受けた、「相対的」なものであると考えるようになりました。
いろんなことを自分で調べて見るようにもなりました。
答えは自分で考えろ
別のキャラクターで、瀬田宗次郎というキャラクターがおりまして。
©和月伸宏/集英社
志々雄の直属の部下なんですが、志々雄の受け売りで
「所詮この世は弱肉強食」
と考えていた人間です。
©和月伸宏/集英社
そんな考えの彼は主人公と戦闘になり、結局主人公が勝つのですが、その時に瀬田宗次郎は、
「勝った主人公側の主張が正しかったんだ」
といいます。
で、それを主人公は否定します。
「勝った人間がただしいという理屈は、まさに『弱肉強食』の理屈だよ」
「答えはこれから自分の人生の中で見つけてね」
と。
©和月伸宏/集英社
なるほどなー、とおもいました。
想いかけて、「あれ?」と思いました。
「それって、でも、『主人公が勝ったから』言えるんじゃないの?」
「ってことは、やっぱり、『弱肉強食』なんだろうか」
「でも、『自分で考えろ』は、敗者がいおうと、弱者が唱えようと、すべての人間に等しく当てはまるから、別に矛盾はないような」
などと、メタが良くわかっていないばかりに、無用な混乱をしたりしました。懐かしい笑。
結局その時には、どっちが正しいのか、何が正しい答えなのか。
その答えは出ませんでした。
ので、考え続けてみようと思いました。
そうすればいつか、自分なりの答えにたどり着くはず。
そんなことを考えました。
で、それから、早くも15年間。 (マジか…笑
そろそろ
「所詮、この世は弱肉強食。強ければ生き、弱ければ死ぬ。」
について、自分なりに見てきたことから考えてきたことについて書いて、一区切りつけたいと思います。
現時点での結論
過去15年間の世の中を、社会のシステムというマクロな視点で見た時、
「所詮、この世は弱肉強食。強ければ生き、弱ければ死ぬ。」
は真理だと考えます。
あくまで、人の意志や手を加えない、自然の形そのままのありようを真理と呼ぶのならば、ですが。
冒頭触れた、資本主義経済というのは、結構弱肉強食と相性が良かったりしますが、むしろ、逆で、まず、弱肉強食な社会構造が存在し、それをベースとして資本主義は発展したと考えるのが妥当かもしれません。
特に、9.11後、リーマンショック、通貨安戦争などをふまえると、そう考えてしまいます。 世界史の授業で習った事振り返っても、多分そうですよね。
そして。
この真理を望ましいと思うのか、めんどくさいからそのままでいいと思うのか、あるいは、好ましくないと考えて不断の努力で、「弱肉強食」以外の別のパラダイム、構造を全面に押し出すのかは、きっとまた別な話なのだろうと思います。
つまり、人間社会もほったらかしにしておけば、他の自然の摂理と同様、「弱肉強食」になるし、それを変えようという、人間の何らかの意思が働けば、そうではなくなるのでは、そう思います。
人間が何もしなければ、世の中のシステムは、自然に、「弱肉強食」に収束していくと考えてます。
そして同時に、そのことについて、世の中の構成員一人一人が自覚を持ち、「弱肉強食」以外の尺度で動くなら、世の中はいくらでも変わると信じております。
ですから、システムのゼロ ベースは、「弱肉強食」であるということを認めたうえで、そのシステムの上に、どのようなシステムを構築するのか、その問いへの答えが次に必要な視点なのかなと今は考えてます。
これが15年間、無駄に考えた結論ですが、いかがでしょうや。
和月先生?
おわりに
明治時代から時が過ぎて、あの戦争が終わり、60年。高度成長期以降、日本では、3種の神器とよばれる白物家電がほぼすべての家庭で使われるようになり、カラーテレビも今は昔、テレビいまやインターネット、携帯電話、パソコンといった情報機器が登場し、世の中はずいぶんと便利になりました。
なったはずです。
でも、今も昔も「弱肉強食」は変わりません。
これからはどうでしょうね。
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