加齢とライフステージと、余生と。

はじめに

「年を取ると、心細く感じる」

と、祖母が言いました。

また、もう一方の祖母も、こんなことを言いました。

「昔は、自分の子供に対して、『かわいい』という言葉を投げかける老人に対しては、『そんなお世辞をいって』という感想を持っていた。若いのが羨ましかったんじゃないかな。自分が年を取って思う。」

で、こんな記事がありまして、読みまして。

伸びたのは「余生」であって、「若さ」ではない – シロクマの屑籠

思いましたこととか。

ライフステージとは

人の人生を、便宜的に区切るための考え方です。

たとえば、少年期、青年期、壮年期、老年期などといった分類があります。

このライフステージという考え方は、さまざまな場面で使用されています。

たとえば、マーケティング用語として使われる場合には、ターゲット層の特徴を浮かび上がらせるために使用されたりします。

作業療法学の中では、このライフステージの概念はとても重要なものであるとみなされています。

なぜなら、その人の人生の文脈を踏まえて介入をする時に、年齢とその人が置かれている状況、今後の展望などの関係についてしっかりと検討することが、個人の特性に応じた介入を行うために必要不可欠だからです。

そんな、重要なライフステージなのに、どうも何歳以上が老年期、とはっきり決まっているわけでもないですし、なんとなく緩い枠組みの中でそういう考え方を適用している部分があるように思います。

とくに、この言葉が日常生活で使われる場面において、ひろえもんは、以前からどうも、壮年期と老年期の境目がぼやーっとしていると感じていました。

でもそれは、何も壮年期と老年期の境目だけに限ったことではなかったのかもしれません。

青年期の終わりと壮年期の終わり

青年期というのは、一般にモラトリアム的なものとみなしていいと思います。

モラトリアムというのは、本来、子供が大人になるまでの猶予期間のことです。

が、最近は30歳になってからもういっかい成人式をやってみたりするところもあり、「20歳を超えたから大人」というわけでもなくなってきているのかなという感じがします。

そんな世の中なので、自分が「大人になったな」と実感を持つ頃には、いつの間にか人生の壮年期の後半部分に突入している、なんていう恐ろしい自体が巻き起こったりするかもしれません。

人生のフェーズ

 健康管理を話題にしはじめるのは、人生のフェーズが切り替わった証かもしれない。

 伸びたのは「余生」であって、「若さ」ではない – シロクマの屑籠

人間、年を取ったなと実感するのは、精神的な衰えよりもやはり、肉体的な衰えを実感するときのような気がします。

すくなくとも、ひろえもんの周りの人はみんなそうです。

それを考えると、上の文章には妙に納得させられるものがありました。

そして、下記の内容は、なんだかとても重要な何かを提示しているように思います。

  ともあれ、不惑が迫ってくるにつれて、冗談抜きで人生の後半戦っぽさが感じられるようになってきた。同世代諸氏もきっと同じだろう。思春期の延長がいわれ、平均余命も伸び、若作りアイテムが町には溢れている。でも、そんなの関係ねぇ。思春期が延びた伸びたと言うけれど、人生の後半戦が先送りされたわけでも、生物としての加齢が伸びたわけでもない。老いているのだ。立場や責任を負わずにいられないのだ。自分自身のためにも周囲の人達のためにも、綱渡りのように、そろそろと生きていく必要がある。

from 伸びたのは「余生」であって、「若さ」ではない – シロクマの屑籠

人は死ぬ

それは、きっと

「人は、(いくら幼さを装おうと、若作りしようと、)いずれ老い、死んでいく」

という事なのかなと思います。

人は、できることなら、ずっと若くありたいと願うと思います。

その理由は、死を自分から遠ざけたいと思うからではないでしょうか。

そして、ライフステージの境界線をあいまいにすることによって、ついつい、死を遠ざけてしまいがちです。そして、若くあろうと努力をします。

が、その結果として死に向き合うことができないというのはある意味においてはとてももったいないことなのかもしれません。

なぜなら、残り時間を意識して時間を使用することから、自分を遠ざけてしまうからです。

もちろん、死ぬまでの人生を自分なりに日々の充実した繰り返しの中で生きるのもまた人生だと思います。

しかし、それとこれとは別問題です。

死の意識

年老いればきっと誰しもが聞くことになるものだと思います。

その時に「はた」と気づくのか、あるいは、自分の人生の先輩からそのことを学ぶのか。

出来ることなら、誰かから事前に学ぶことができた方が幸せなのかなと思います。その足音に若い自分から備えておけるというのは、ありがたく、幸せなことなのかなと思います。

「ライフステージ」という考え方と普段からしっかりと向き合っておくこと、そしていろいろな人と知り合う中で、自分なりの尺度や価値観をしっかりと持っておくことが必要なのではないでしょうか。

そして、その考えが自分の中でゆるぎない方が、作業療法の中でも「ライフステージ」という考え方を、ぶれずに使用できるのかなと思います。

そしてそのためには、「死の意識」を持っておくことが重要なのかなと思います。

そのはじめの第一歩は年を取っていく自分についてイメージをするという事なのかなと思っています。自分がどのように加齢していくのか、そういったことに対するイメージをリアルに持っておくことは、とても大切なことのような気がしています。

おわりに

いろいろな人生があって、その個人の人生の中にもいろいろなライフステージがあります。

きっと、今の社会のライフステージは昔ほど、はっきりしていません。

それでもいずれ必ず訪れるモノは昔と変わりません。

本来シームレスな人生を無理やり区切っている点でナンセンスなのかもしれませんが、それでも、自分がこれからどういう風に年を重ねていきたいのか、そのためにはどうしたらよいのかは、ふとした時にでも考えていきたいなと思っています。

意識していないと、いつの間にか歳を重ねてしまいそうな気がします。

そして、そのことがきっと、作業療法においても何らかの参考になるのではないかと期待をしています。


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