はじめに
自分自身を価値あるものと認め、愛する事、すなわち自己肯定感。
現代社会を生きていく上で、書かせない要素です。
でも、それが足りてない人が、ひろえもんのまわりにも結構います。
気になったので文章にしてみたいと思います。
前編は、自己肯定感とそれが育まれていない理由について書いていきます。
現代社会=先の見えない時代
高度経済成長期と現在を比較してよく言われるのが、
「先が見えない」
ということ。
より具体的には、大企業に就職したとて、倒産しない、まじめに勤め上げても報われないかもしれない、そんな世の中だと言われます。
となると、働くことに自分の存在意義を見いだすのは、少ししんどい社会とも言えます。
これは、お金を稼ぐという行為によって自分を認めることが難しくなるという事です。
つまり、まじめに働いて、(あるいは勉強して)その結果でもって自分を肯定するというモデルがなかなか成立しないという事です。
そして、その代わりに、自分で自分を肯定してあげる、そういう心理的な作業が必要になります。
自信の源
自分自身を肯定するという事は、すなわち自信を生み出す源でもあります。
新しい事柄に挑戦するためには、「自分ならできる」という自信が必要になります。
ところが、普段から自分を否定する癖がついている人は、なかなか自信がありません。「自分ならできる」と判断するための根拠が乏しいからです。
その代わりに不安になります。
たとえ、実力的に可能な事柄でさえ、自分の手には余るような気がして、挑戦する事ができません。
自分を含め、ゆとり教育世代では、そういう人材の割合が多い気がします。
自分はやればできるという感覚
これは、困難に挑んで、それが報われたときに得られる感覚です。
それもただ挑むのではなく、実現可能か微妙な事柄に対して自分の全力を持って挑んだ結果、うまくいった場合のような、そういうときに伴う心理的ストレスを経た場合に得られるような達成感と一緒に味わう性質のものです。
で、いまのゆとり世代は、こういったたぐいの困難に挑まなくても、そのまま大人になる事ができてしまってます。
つまり、自分で、自分の意志で困難なタスクに向かっていくという経験をしないままに時間を過ごしてしまって成人を迎える人が多いという事です。
場合によっては10代までにしておくべき、失敗体験を経ることのないまま大きくなる事もあります。
そういった場合、責任ある仕事に立ち向かう必要が出てる場面で太刀打ちする事ができません。
すると、タスクから逃げる事になります。
残るのはタスクに立ち向かえなかった無力感であり、これがさらに自分を肯定する事ができなくさせてしまうという悪循環が発生しています。
ようするに、「自分はできる」と実感した経験があまりに乏しいのです。
「がんばらなくても生きられる」本当にいい事か?
繰り返しになりますが、この便利な世の中は、自分ががんばるという経験がなくても、大きくなる事ができてしまいます。
無理してがんばる必要は無いかもしれませんが、しかし、全くがんばった経験がない人生というのは、その人生を生きている本人が、自分でそれを肯定できるでしょうか?
ひろえもんは、難しいと思います。
前編まとめ
引きこもってしまうと、この悪循環に陥りがちとなり、なかなか社会へ復帰する事が困難になってしまいます。
次回、自己肯定感を味わうためには、どんなふうに振る舞ったらいいのかなど、実践面について触れてみたいと思います。
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