はじめに
権利と制度は、密接に関わっております。
作業療法だって、その制度の中の医療システムの一つとして提供されています。診療報酬制度とか介護保険とか、お金もその辺りから頂いてます。
さて、権利について日本では、「何かをした、成し遂げた結果として得られる対価である」との教育が親からなされる事が多いように思います。
一方で、社会主義が日本に入ってきたり、欧米の思想が見習われるようになって以降は、人はみな権利を生まれながらに持った存在であるという考え方をする人も増えてきているように思います。
権利に関しては、いろいろな立場からいろいろな意見があり、その議論が生活の質を大きく左右する人も、世の中にはいます。
権利について、ちょっと考えてみる機会がありましたので、ぼちぼちと書いてみました。かなり、やさぐれた文章になってしまいました。自分の思いのまま、まとまらない文章になってしまいましたが、せっかくですのでそのまま公開させてください。
権利とは
権利(けんり)とは、一般に、ある行為をなし、あるいはしないことのできる資格。法律上は、一定の利益を主張または享受することを法により認められた地位、あるいは、他人に対し一定の行為・不作為を求めることができる地位をいう。日本において権利は権限を含む。対義語は義務。
(Wikipediaより引用)
要するに自分の意や、決定に基づいて振るまうことのできる裁量を指す言葉と解釈できると思います。
義務があるから権利があるのか?
社会的には、義務を果たすことによって権利を行使できるという考え方が一般的なように思います。
労働がその典型的なモデルですよね。
働くから、お金がもらえる。お金があるから、生活の自由が保障される。つまり、その金銭の範囲内で自由に行動する権利が獲得できる。
こんな感じです。
これって、とてもわかりやすいですよね。
わりとしっくりとくる考え方です。
しかし、そのモデルに入らない権利もあります。
最初から保証される権利
日本国憲法にはこんな文章があります。
第二十五条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
日本国憲法 第25条
この権利に必要な条件は、「国民」であることのみです。
そして、国民である限りは、国がその権利を保証する義務を負いますよと、この条文には書かれています。
これは要するに、「義務がなくても享受できる権利」、俗にいう「生まれながらにして持つ権利」というやつだと思います。
その権利を本質的に保証しているのは誰か
ちょっと頭を切り替えて、頭の体操をしてみたいと思います。
率直に言うと、権利というものを、存在せしめているのは何か、を考えてみたいと思います。
たとえば、日本には、教育を受ける権利というものがあります。それは、人々に明確に意識されています。
一方で、アフリカ等の狩猟によって生活を立てている人々にはその意識があるでしょうか。きっと、日本やその他の先進国に比べたとき、ややうすいのではないかと思います。
このように、その権利を存在させているのは、「その権利がある」と意識する人がどれだけ存在するかというところに依ると考えられます。
世の中を構成するメンバーのうち多くの人が「権利だ」と思う物が、権利だという事になると思います。
コストと権利は切り離せない
ではなぜ、権利があると考える人が必要なのかといえば、「権利」を成し遂げる、あるいは形にするためには、多かれ少なかれ、さまざまなコストが発生するからです。
それに直接関わる人の、労働、時間のコスト。その人や必要な道具類へ支払われる経費としての金銭的コスト。
権利を成し遂げるためには、多額の費用が必要になります。世の中には、このコストを目当てにした人権屋と呼ばれるような人種もいるようです。ひろえもんは、そうはなりたくないなあとつねづねおもっております。
さておき、そのコストをまかなうためのお金をどこからどうやって持ってくるるのでしょうか。
それは、社会的に制度を作る事によってお金の流れを作り出す仕組みを作る事よって、そのコストをまかなうお金を持ってきています。
その制度の一つが「権利」です。
また、上記の仕組みと、人間の道徳観上、社会、規範(モラル)、文化との間には切っても切る事のできない関係性があるように思います。
このような点から、権利と社会制度、モラルは密接に関わっていると言えます。
では、発生からみた「権利」とはどんなもんでしょうか。
権利は獲得する物から、最初から存在するものへ
デジタルネイティヴという言葉があります。
今の世の中、一家に一代どころか、1人が一代パソコンを持ってます。
ipadで遊ぶ三歳児もいます。
ある程度の年齢になれば、携帯電話も使用するようになるでしょう。
暇をもて余すのであれば、テレビをつけて、何となく番組を見る事もあるでしょう。
彼らの周りには生まれながらに、さまざまな情報や情報端末があふれており、さまざまな情報はそこにあるのが当たり前になることが想像できますよね。
そんな彼らを指す言葉がデジタルネイティブです。
きっと、デジタルネイティブと、そうでない人々との間には、情報やそれを介した生き方、人生観に大きな感覚の差が存在します。
パソコン黎明期からデジタル物に関わってきた人にとっては、感慨深いかもしれないスマートフォンも、デジタルネイティブにとっては持っているのが当たり前のツールといった感じです。
これは、何も特別な現象ではなく、いままで人間が歴史の中で幾度となく繰り返してきた事だと思います。
車や、電話や、電気、ガス、水道などなど。
社会生活に必要で、空気のように当たり前に消費されているインフラという物はたくさんあります。
そういったものが登場する場面に立ち会った人と、最初からそういった物の存在を前提とした社会の中で成長した人との間には大きな感覚的な差が存在する事は間違いありません。
そして、ひろえもん個人としてはこの「差」は、権利においても存在していると考えています。
いってみれば「権利」も人間が、快適な社会生活を送るための一つのインフラなのかもしれません。
社会をよりよくするため、今の世の中でも様々にいろいろな権利が「作られたり」「認識されたり」しています。権利は、人間の存在と無関係に、絶対的に存在する概念であるとする人もいますが、どちらかというと、社会を構成する人間がその社会の中で生きる人間がより良く生きる事ができるよう、社会的な事件や出来事、かつての歴史などに学びながら、言語化し概念化して作る物だと思います。
このように考えると、作られた権利が存在する場面に立ち会って、その歴史的な経緯や重みを知っている人と、その権利が空気のようにあたり前の存在となっている社会で大きくなった人との間には、埋める事の不可能なほどの大きな感覚の差があるのではないかと思います。
たとえば、昨今の、生活保護に関する問題を話題にする際にしても、そういう感覚の差が問題の本質としてあるように感じます。
例)生活保護
必要なときに生活保護を受ける事は、日本国民の権利です。
ですが、申請に必要な条件を無理矢理書類上に作成して、生活保護を受給しなくても生活できる人が、その権利を行使してしまう事が問題視されています。
こんな事が起こるのは、そのシステムがどのような趣旨で何のために存在するのか、あるいは作られたのかというところに思いを馳せる事ができていないところに原因があるように思います。
また、一度生活保護を受けてしまうと、その生活に慣れてしまって、自分で仕事をして経済状況を改善していこうという意思が、折れてしまう人も少なくありません。
これは、生活保護の受給があくまで一時的なものであるという、表向きの建前が社会で徹底されていない事にも原因がありそうですが、やはり、そんな事よりも、「本当に必要な人」のための権利であるというところがすっぽりと抜け落ちてしまっているところに原因がありそうな気がします。
そこには、少なからず、その権利が生まれる前から存在して、どういう経緯でその権利が「作られた」のかを知らないということが要因として在ると思います。
さらに言えば、そこには、その制度や権利をどんな思いで作った人がいるのかとか、その辺りに思いが馳せれるかどうかというところなのだと思います。
想像力と、いいますか。
想像力
先ほども言いましたが、(正直言いたくないですが、)「権利」を支えるシステムをまわすためには、お金が必要になります。お金の流れを作り出すのは、まず、現在お金を持っている人であり、次に価値を提供する人です。価値を提供する人とは、おおざっぱに言えば労働者です。
つまり、「権利」の維持には、働く人が欠かせないということになります。
これは要するに、その働く人が「そんな権利みとめません」といってしまえば、今まで存在した権利がある日突然消失する可能性もあるという事を意味するとおもいます。
なんだかぞっとしませんが。
そこらへんは、飲み込んで社会を支える存在がいわゆる「大人」なのだと思いますが、今の世の中そんなに「大人」がいない事を考えると、なんだかなーとおもいます。
まあ、みんながちょっとした想像力を持つだけで、その仕組みはうまく回るような気がします。
おわりに
「権利」は生まれる時代や時期によって、獲得していく物であったり、最初からある物であったりすると考えます。
そして、「権利」は恒久的なものではなく、社会の構成メンバーが、いろいろがんばってみんなで維持していくものなのだろうなとも思います。
自分が権利を行使するときに、こんな事にふと思いを馳せられるとちょっとかっこいいかなあなんて思います。
みんなが自分なりに、自分のできる事をやってれば、権利なんてどうでもいいのでしょうけれど。
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