客観視の世界から自分を解き放ち、「人間」としての感覚を研ぎすます。

はじめに

理屈ではなく「感じる」ままに、行動し、語り合う。

そうすることによって、わかり合える。

OTRとして、作業療法の世界で働くようになってから、よりいっそう思う事です。

人の気持ち

人間らしさの一つとして、人間らしい考え方というものや、人間らしい感じ方という物があると思います。

それそのものが一つの、人間社会の文化を形作る根底というか、原動力になってきたなあというふうにおもうのです。日本の歴史や世界の歴史をかいま見るとき、世界や世の中を動かしてきたのは常に理屈ではなく、人間の想いのように感じます。

難しい事はよくわからないけれども、こうなってほしいとか、こうなったらいいなあとか、そういった思いが社会全体で高まったときに、世の中は変わり、その変化が積み重なって現在のような世の中が作られてきたのではないでしょうか。

話がどうも大きくなりましたが、それはきっと現代社会でも変わりないのだと思います。さまざまなイデオロギーの中に私たちは生きています。反原発、憲法改正反対、強い経済政策などなど。

それらは、合理性に基づくものもあれば、単に人間の思いから始まって、あとで理屈を取り付けられたものもあると思います。中には、どうしても合理性と相容れず、合理性の方が否定されているような「無理が通れば道理が引っ込む」といったような構造が成り立ってしまっているものもあるのだと思います。

それは、単に、無理を先送りしているだけにすぎないものなのかもしれませんが、とにかく現状、そういった過去の人間の思いが尊重され、また、それを受け継いだ現在を生きる人間の不断の想いによって成り立っている「世界」というのは、地球上にそれこそ数限りなく、コミュニティーがそこにあるだけ存在しているのではないでしょうか?

そして、その「世界」を成り立たせている物こそが、「人間」の「気持ち」だと思います。

なんとなく

人間がそう感じるのはなぜだろうという問いは、非常に哲学的な問いだと思います。

実際、さまざまな哲学者が、その周辺を問題にして、自分の人生をかけてとりくんできた歴史があります。サルトルなどは、やり過ぎで世界が灰色に見え、物事を隔てている境界が失われていく過程を「嘔吐」という作品にまとめています。

ひろえもん自身もそんなことを延々と考えていた時期がありました。

感じるとはどういう事だろうか?

人は、なぜ感じるのだろうか。

人が世界を感じるというその方法には、どのような意味があるのだろうか?

などなど。
いろいろと考えたものでした。

が、どうも高度に抽象化されると、人間らしさによって立つ機会が減っていくように思います。

つまり、分析的に考えようとすればするほどに、人間本来が持つ「感じ方」から乖離した純化された別物になっていってしまうように感じたのです。

そして、そのような、実際の身体的感覚から距離を隔てた、分析的表現をいくら積み重ねたところで、過去に起こった現象を記述する際の役に立つとしても、「いま」「このしゅんかん」というその一瞬をリアルに生きる上では、まさに何の役にも立たないなあという風に感じました。

そうなってくると、感じたそのままの「感じ方」を大切にすることが大切なのだと思うようになったのです。どういう事かというと、言葉にできない身体的な感覚やそれから派生する、身体的、心理的表出(たとえば、表情、言動、欲求)を直感的に理解すること、何とも言葉にしにくい、まさにイメージそのままを感覚として、わかることが大切なんだと思うようになりました。

つながる

人と人とが、心地良い関係を築いたり、互いを理解するために必要となるものとはいったいなんだと思いますか。

ひろえもんは、相手を知りたいという強い欲求だと思います。あるいは、相手に関わりたい、触れたいという願望です。切実に、相手を求めようとする人間らしい感性が、親密な関係性を構築する上で必要になるのではないでしょうか。

この人間らしい感性は、本来的には合理性とは全く無縁の物です。

自分の感性に身を委ねた時、相手に対してわき上がる興味や好奇心に基づいて、相手にいろいろと投げかけてみたとき、きっと相手からは、イシを投げ入れられた湖のようにいろいろな形の波紋がかえってくると思います。

まず、相手のその生の反応をうけいれること、その波形をなんとかしようとするのではなく、ただ受け入れる事が、まず大切だと思います。

そして、そのような、相手に投げかける行為を互いが行いながら、お互いの心にわき上がる波紋がうまくシンクロしたとき、「わかりあえた」とか「つながっている」といった感覚を味わう事ができるのだとおもいます。

こんなことを思った人もいるのではないでしょうか。

そんな面倒な過程を経なくても、自分が相手にあわせてしまえばいいじゃない、と。

効率よく相手の心に同調するのは、ある意味簡単かもしれません。自分のこころを操作して相手にあわせることができるならば、それは、上記のプロセスを経るよりも短い時間で達成されるでしょう。

しかし、それは、自分の感性、感じ方、こころに嘘をつく事でもあります。

そうした嘘を積み重ねることは、自分を偽ることにつながっていくのではないでしょうか。

しょうじきに

自分にまっすぐであるためには、さまざまな困難がともなうとおもいます。

まず、周囲とぶつかって、自分が傷つくことは当然覚悟しなければなりませんし、相手を傷つけてしまう可能性についてもしっかりと認識し、その相手にどのような配慮をするのかという点についてもしっかりと、思いを馳せる必要があります。

発言のタイミングや、ニュアンス、伝え方などに関する工夫も絶えず必要になるでしょう。

何より、常に自分の感性を全開にして、全力で、言葉にならない情報も含めて、「感じ」続ける事が必要になります。

でもたったそれだけの事が、誰かの人生や自分の人生を大きくかえる事になるんだろうなあとおもいます。

おわりに

修行僧が修行するのは、伊達や酔狂ではないなあと思う今日この頃です。

その昔から人は、「人間」として生きることに苦心してきたんだと思います。

ひろえもんも、頭を丸めて、一年間くらい修行に行くのも悪くないかなあと本気でおもってます笑。


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