はじめに
こんな記事を読みました。
「IQ25」の被告、見つからぬ社会の”居場所”…刑罰か福祉か (産経新聞) – Yahoo!ニュース
この記事では、罰するのか受容するのかという2択が示されています。
捉え方
記事中から抜粋すると
「再犯の可能性が高ければ、安易に社会に戻すことこそ無責任。障害のみを理由に犯罪を見過ごしてはならない」ー元最高検検事の土本武司・筑波大名誉教授(刑事法)
と
「善悪の区別がつかなければ刑法の範囲外。後見人をつけるなど福祉による監督強化と、本人の努力が必要だ」とした上で「刑務所に閉じ込めるという発想ではなく社会が寛容に受け入れることが望ましい」ー石塚伸一・龍谷大法科大学院教授(刑事法)
いう二つの捉え方が紹介されていました。
思ったこと
作業療法的な考えでいうと、本人が変わることが出来ないなら環境を変えましょうという話になると思います。
ですので、なぜ善悪の判断が出来ないのかという理由がわからないにしても、「社会に戻ると犯罪を繰り返してしまう」という現象が発生しているということは間違いないので、社会のありようを変えなければならないという風に思います。
本人の努力を期待するのは、やっぱり人としては当然のことかと思います。
しかし、その変化を待つのは福祉的な観点になるんだと思います。
つまり、コストパフォーマンスは度外視してその人の人生の質を高めるんだという、犯罪を何度も犯してしまうひとに寄り添うような思想になると思います。
村社会的な擬似的なコミュニティを作って、そこで実際に生活しながら、認知行動療法などを行いながら永い目で行動を修正していくといった対応が必要になると思います。
おわりに
とはいえ、そんな環境も無いですし、社会で暮らすには理解が足りないし、本人の行動も形作られてしまっているし、難しいと思います。
社会になじめないのであれば、新しい環境を作るという視点とその為の政治が必要なのかなあと思うと同時に、環境設定をしているつもりが障害者を差別しているだけなんではないだろうかという思いにとらわれて、思考の袋小路にはまり込んでしまいました。
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