この記事の方向性
「学校で学ぶことは、いつかは役に立つけど、それっていつかがあんまり分からないままに勉強してるよねっていう感覚」
の確認と、
「何処で役立つかは、分かっておいた方がいいですよね?」
という問いの確認
と、雑感。
今日の臨床での気付き
今更ですが、ひろえもんは精神科勤務なので、集団をもちいて作業療法を行っております。
で、今日も集団をつかったプログラムを実施しました。
集団で行う、ゲームをしたんですが。
で、ふと思った訳です。
こういう内容って学生時代はほとんど学校でやらなかったな。
と。
木工などの作業種目についての勉強というか実習はやった覚えがあるのですが、集団で出来るレクリエーションを考案して、それを実際にやってみるという体験の覚えが、とんと無い。
多分やっていないのだと思います。
学校時代を振り返って
そんな授業が在ったら良かったとまでは思いませんが、就職するまでにそういう技能が必要とされるということについて、精神科の授業を受け持つ先生方が教えてくれていればとはちょっぴり思いました。
ちょっぴりですけどね。
というか、もしかしたらやってるけれども忘れているだけって可能性もあるわけで、単なる不勉強の可能性もあるので何とも言えませんが、ひとまずそこは置きます。
たとえば、患者様になにかをしてもらうとき。
対象となる方へ、集団活動を提供する為には作業を分析する視点をもって、活動をいろいろな要素や面で考え無ければなりません。
(そこは、難しさやおもしろさの根源ともなるところでもあります。)
そして、その考える為の道筋が無いと、学校で学んだことも生きてこないと思うのです。
さもなければ、要素に溺れて、何をしたら良いか分からずに混乱を深めてしまいます。
上記の場合でいえば、集団を用いたプログラムを企画立案、実施するにはこんな考え方が必要だよってことです。
それがどの程度分かっているかは、勉強の姿勢にも大きく影響します。
思考の大枠が分かっていると、学校の要素的な授業に自分で意味付けがしやすくなって、モチベーションがわいてくるんじゃなかろうかという訳です。
学生時代をさらに思い返せば、意味も分からず暗記したこともおおいです。
そしてまた、それが役に立っていることもしばしばなんですよね。
ひろえもんは、人体構造学(解剖学)、正直嫌いでした。
しかし、それにしたって、当時はどんな場面で役に立つのかなんてさっぱりイメージできずにただひたすらに覚えていたなあと思います。
それは、使いもしないドイツ語の単語を一つ一つ覚えるのと同じ感覚で、何となくストレスを感じながら勉強した物でした。
でも、いま精神科で働いていても、患者様の身体的な苦痛などの訴えが、生理学的なものかあるいは心理的なものかについてある程度推察するときに、とても役立っている知識でもあります。
身障領域を専門とする方々には遠く及ばないでしょうが、それでもやっていて良かったなと思います。
と、同時に、先輩方の実感がもっとわかっていれば、もっと死ぬ気で勉強したかもな〜、などと思ったりします。
今思うこと
だから、先輩になった今、各知識のありがたみについて伝えて、モチベーションを上げていくことが、自分に科せられた仕事なんじゃないかと。
そんなことを考えました。
先輩となったいま、後輩くん達に伝えるべきことで伝えられることはどんどん伝えていきたいなと思います。
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