当たり前のことにエビデンスがあるということはとても大切だと思う。
たとえば、今回ハーバード大学が行った研究は次のようなもの。
「どのような男性が将来性があり仕事で成功するのか?」というテーマに対して、268人の男性を対象に「IQ」や「飲酒の習慣」などあらゆる角度から行われ、20億円という研究費と、75年間という長い期間が費やされた。
そしてその結果は、
「将来性」は、IQや生活習慣とは関係なく、幼少期に母親と温かい関係を築けていたかどうかに左右される
というものだったらしい。
これは、多くの人が、感覚的に納得できる内容だと思う。
しかし、今までそのことを学術的に研究し、きちんとエビデンスとして示した研究は無かったはず。
だからこそハーバード大学はそれを研究したのでしょう。
たとえば、「全てカラスは黒い」の様にいくら感覚的に当たり前で、当然の事に思われることでも違うことは良くある。(例外はアルビノ)
だから、感覚としての「当然」に学術的お墨付きがつくことには非常に大きな意味があると思う。
主体としての自分の感覚で正しいことが確実であっても、異なる感覚を持つ人に客観的に伝えるには、自分の言葉だけではどうしても弱い。
だからこそ、研究を行いエビデンスとして誰もが納得できる形で示す必要がある。
ちなみにこの事実は、テレビ番組で紹介されたらしい。
そして、コメンテーターの意見や番組の構成的には、この研究に否定的だったようです。
曰く
「そんなことに75年もかけるって、ハーバードも大したことないね」と呆れながらコメント (キャスター 小倉智昭)
「ハーバードの将来性がヤバイね」と皮肉った (タレント ダウンタウン松本人志)
「簡単に言うと、両親が健在で、たっぷりと愛情を注がれたらできる男になる…」と20億円を費やした研究結果に首をかしげた (タレント ダウンタウン松本人志)
などなど。
研究の意義に対して、否定的に見るタレントが多かったようです。
そして、ひろえもんは、そのことを知って「きっとそれが研究に対する世の中の捉え方なんだろうなあ」と思いました。
皆が当たり前と思っていることに、証明の価値が無いと感じる人はきっと多いのだと思います。
ひろえもんは理系の科目が好きだったのですが、たとえば物理の運動方程式や、状態方程式などの極端な例でなくても、数学の簡単な定理の証明さえ、「そんなの当たり前」と軽んじる人が多いと、いつも感じてきました。
確かに、自分が実践するときには、必要なのは「これが正しい」と言える初期条件と結果の対応だけ。
必ずしも、プロセスを順を追って説明、または証明できる必要はありません。
しかし、誰もが納得できる施策や、その方向性を決める為には、明確な根拠を示すことが出来たり、その根拠を集めて研究を行うことにはとても大きな意味があります。
そうひろえもんは思います。
作業療法は、感覚的な「あたりまえ」やその積み重ねを根拠に実践をおこなっていますが、今回のことで改めて「それでええのかいな」と思ったので、ちょっと記事にしてみました。
個人の実践とは違う、他者への正当性の証明という次元に視点を移したときに「当たり前」を疑い、研究することにはとても大きな意味があるんじゃないのとおもうのですが、皆様いかがでしょうか。
参考:http://news.livedoor.com/article/detail/9252976/
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