以前もこんなテーマで書いたことがあるように思うのですが、ふと思ったことがあったのでもう一度書いてみます。
(多分書いたことがあると思うんだけども、最近記憶が定かではないので、もしかしたら書いてないかも。)
作業療法士として、認知症の患者様と関わりを持たせていただくことがあります。
一般に認知症の患者様でもより重度に症状進行した方であれば、言語表出による自分の表現というものは難しくなっていきます。
言語表出が難しくなって以降の状態は二つのステージにわけることができるのではないかと思います。
一つ目は、言葉が失われるけれども、感情やイメージはある。
それなのに声にならない。そういうステージ。
次に訪れるのが2つ目のステージ。
言語以外の表出すら失われる状態。
あるいは、表出はあるけれどもすべての刺激に対して同じような反応を無条件に繰り返すだけの状態。
つまり、外界からの影響が本人の言動に反映されない状態。
そんなステージ。
アルツハイマー型認知症の場合、いずれは、ステージ1を通ってステージ2へとたどり着くことが多いなあというのが実感です。
物言わぬ患者様のニーズを知ろうとしたときに、特に難しいのは上記のステージ2の患者様です。
ステージ1であれば、表情や言動などで喜怒哀楽を読み解くことで、試行錯誤しながら相手が求めているものに迫ることもできるのですが、ステージ2ではどうも手がかりが無いようです。
どんな刺激に対しても、一様に同じような反応がかえってくるので、自分が行った介入にたいして本人がどのように感じているのかということを知ることが極めて難しいと感じています。
ひょっとしたら、植物状態の家族の方も同じような悩みを持っているのかもしれないとおもうことがあります。
表出が困難であるということは、コミュニケーションが困難であるということです。
なんだか暖簾に腕押しのような感じがします。
きっとそれは、相手が表出してくれないとできないことを自分がやろうとしているからなんじゃないかと最近思うようになりました。
そして、相手が表出しようがしまいが、誰にとっても望ましいと感じることができる事柄を介入の主たる項目におくのがよいんだろうなとも思うようになりました。
たとえば、作業療法士のくせして応用的なテクニックなんてさっぱりわかりませんが、ポジショニングとか。
あるいは、徒手的なマッサージとか。
タクティールケアとかもいいなあとおもいます。
とにかくあきらめずにだれにとってもよさそうだなあと思われる事柄に関して、腐らず働きかけてみること、介入していくことが大切なんではないかと思っております。
患者様の意思表出が制限されるのは、何も認知症に限ったことではないです。
相手が、表出できない時には、有難迷惑のリスクはありますが、「もしも自分が相手の立場だったら」の考え方で、「よさそうなこと」「よろこんでもらえそうなこと」をどんどん実践していくよりほかに手はないんだろうなと。
そんなきがしております。
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