短期(評価)、長期(総合臨床実習)に関わらず、実習中の学生目線だと理解できることがあります。
一方で、経験年数が増えて、経験値もそれなりに増えると、ここ最近はじめて感じることがありました。
その2つの間のギャップの話です。
目次
「何をしに、実習にきたの」
実習を通して、成長する学生と、
あまり変化なく帰っていく学生との間には、いろいろな違いがあります。
その違いは、普段の臨床にも通じる大切な「違い」だと思っています。
後者の学生がよく言われるのが、
「何しに来たの」
です。
これが、その理解のためのキーワードであるように感じています。
何のための実習かがわからない
「実習に行くことになっているから、実習に行く」
という学生が少なからずおります。
実習のための実習、実習が自己目的化している学生です。
こういう実習生が、上記のような質問を実習中に繰り返しぶつけられて、あまり成長なく、実習に対する傷つきだけを感じて帰っていくことが、ままあります。
そのタイプの実習生は、なぜ生まれるのでしょうか。
そしてなぜ、実習生は傷つくのでしょうか。
作業療法学生:OTS目線での実習
申し訳ないのですが、引用できる資料もないので自分語りになります。
でも、自分の学生時代、OTSのときの実習を振り返ると、その傷つきのヒントにはなると思います。
学生の頭の使い方の典型とおもうのですが、
「学校で学んだことを、臨床で生かす」
という思考回路があります。
学生の作業療法観は、授業の中の情報や、講師の話によって構成されます。
それのみによって構成されていることがほとんどではないでしょうか。
すると、学生の行動原理は、
「いままで自分が学んできたことを実践してみること」
になります。
そして、それができることによって、実習が合格となるというモデル(妄想)が頭にあります。
これが、実習の為の実習であると、臨床家のOTRのみなさまから批判されるところだと思いますが、学生の側からすると、むしろ自然ながんばり方なのではないでしょうか。
それなりに臨床経験のある作業療法士:OTR目線での実習
一方で、かつてOTSであった作業療法士:OTRの側に立つと、今、実習で学生に求めることはシンプルです。
目の前の対象者に対して、いち作業療法士、いち臨床家としての今の自分での最善を尽くすこと、です。
作業療法士として、実地で経験をかさねていくうちに、自然と評価できるようになることはたくさんあります。
それは、養成校で学ぶこともたくさんありますが、養成校で学ばない、学べないこともたくさんあります。
身体障害領域で例にとると、ポジショニングの常識も日進月歩です。
かつては、
「隙間をうめる」
がポジショニングの王道でした。
しかし、やり方をまちがえると、日々のポジショニングの積み重ねが屈曲拘縮をつくりだしてしまうということがしられるように、徐々になってきています(多分知られて来て、浸透していると信じたい)。
別の例で言えば、かつて推奨されていた、教科書にも載っているような、移乗の方法が、実は自立度の低下につながる場合もあります。
このような学びが、学校でできたか。
告白します。
私個人の経験からすると、不真面目な学生であった私はできておりませんでした。
そして、その学びは、先進的なものであればあるほどに、教科書中心の座学授業の中では決して学ぶことができない、臨床による技術的なものや、それに基づく評価であったりします。
それは、国家試験を念頭に置いたものではない、日々の臨床、実践を念頭に置いたものだからです。
作業療法に正解はありません。現在地点が人それぞれで、ゴールも人それぞれだからです。
かつての正解が、状況によっては不正解になることもありえます。
そのことを、経験値として知っている作業療法士ほど、OTSに対して、将来の臨床家として、今現在の最善をつくすことを求めますし、実習とはそのようにするべき場所だと思っています。
だからこそ、臨床家として、実習態度がどうのこうの言うわけです。
それが臨床の結果に直結することを、経験則として痛いほどわかっているからです。
つまり、作業療法士:OTR目線での実習とは、
「実習中の事象から、素直に考えて、行動すること」
だと感じていると思います。
自分はそう感じるようになってきています。
このギャップ 「ヤバい」
実習の指導は、OTSとスーパーバイザーであるOTRの間の事象なので、目指すべき場所が共有できてないとこじれます。
作業療法士の側としては、自分の目線から、上記のような学生の実習への取り組み方を見ていると、
「なにしにきたの」
となるわけで、それを学生に伝えます。
言われたOTSは、なんで自分がそんなことを言われるのかも、わけがわからず、萎縮してしまい、その結果としてスーパーバイザーが求める実習態度から乖離していき、その度に「なにしにきたんですか」といわれるという悪循環が生じてしまいます。
その結果として、実習中の表出が制限され、なにもかわらないままに実習終了、お疲れ様でした、となるわけです。
自分の理解としてはこういうパターンは少なくないと思ってますし、間違ってないと思います。
作業療法士としての仕事時間のほんとうに貴重な時間の一部をボランティアの実習指導に費やして何も学生が成長しないままに実習終了するとか、本当に悪夢でしかないのですが、少なくないと思います。
正直、やばいなーとおもいます。
やばいなーと思いませんか。
では何でこういうことがおきるのかというと、上記を踏まえるとOTSとOTRの双方に要素がありそうです。
作業療法士の労力に見合った分、学生がたくさん学んで、成長して帰るようにするには、どうしたらよいでしょうか。
OTSは、自分の将来像を考えると幸せになれる
いろいろあるけれど、たとえば。
実習に来る前に、どんな職場働きたいのかは、なんとなくでも決めておくことです。
べつに後で変更したってかまわないので、自分はどんな領域のどんな場所で働きたいのか、それを明確にしてそれをスーパーバイザーであるOTRに伝えることです。
そして、そこで働くためには、自分はどんなことが必要と考えているので、どんな学びをその実習で得て帰りたいかということまで明確にできると、将来の自分のために動けるので、多少能動的になれるかもしれません。
自分なりに、自分自身について、実習に行く前に真剣に考えておくことが、実習前に行う準備として必要だったのかなと思います。
自分の将来像について、明確にできるといろいろ幸せになれそうな気がします。
作業療法士が学生時代の自分の体験(忘れたい?)を思い出す
本当に真剣に取り組んでる作業療法士ほど、日々の臨床がとんでもなく忙しいので、かつての自分を振り返る機会なんてありません。
今の自分の感覚や感性を基にして学生と関わるので、上記のような問題が発生するのではないでしょうか。
過去の自分を思い出してゾッとすると、目の前の学生が少しは可愛く見えるかもしれません。
いち作業療法士として学生目線をいつか忘れる恐怖
個人的な感覚ですが。
学生のことがいつかわからなくなるのが怖いです。
そのリスクは、自分が作業療法士として経験を重ね、成長するほどに高まるものだと思います。
学生のことがわからない作業療法士は、その学生の3年後を見据えた効率のよい指導や助言ができないのではないかと考えています。
後進育成のへたくそな作業療法士にはなりたくないので、いつか自分が今の自分の感覚だけに頼りすぎることが非常に恐ろしいです。
謙虚に
自分のことは棚に上げないと指導ができない場面は、確かにあります。
だからといって、それが行き過ぎて、かつての学生時代の自分の不出来と乖離したような実習目標を学生に負わせるのは、あまりにも雑な指導だなと、自分と学生とのかかわりを通じて思います。
養成校側から、よく言われる
「学生を患者様だと思って指導してください」
というのは、
「患者様に関わるときと同じくらい謙虚な気持ちで」
と自分なりに読み替えることにして、学生の成長を自分の糧にもできたら、自分はより良い作業療法士になれるかな、と考えています。
そうしておけば、学生にも謙虚になーれ、と指導しやすいです。気持ち的に。
互いを知れば「ヤバさ」は軽減できる
認知症の方への介入は、相互理解の促進にありますよね。
OTRとOTSの関係も同じではないかと思うので、この記事を書きました。
すこしでも「ヤバさ」が軽減されれば幸いです。
やり取りがしたい
こんな独善的な文章を読んでくださり、ありがとうございました。
よんでくださっている皆さんは、なにかしらおもところがあるはずです。
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年取ると頭が固くなるな、と感じる今日この頃です。よろしくおねがいします。