大阪のクリニックのビル火災のニュースは、第一報を聞いただけで胸が苦しくなりました。「またか」というやるせなさと、極端さ、予測不可能性、それゆえの対策のしようがなさ。
いろんなものが一斉に去来して、生きていくことがつらくなりました。
しかし、書きとどめておくことで解決するなにかもあるかもしれないので、気持ちを奮い起こして、今心の中にあるものを頑張ってアウトプットします。
「消えてなくなってしまいたい」という欲望について
人は、「死にたくない」「長生きしたい」と誰しもが思っています。
本当に?そうでしょうか????
あるいは、生きていることが楽しい、うれしい、喜びというより、義務感みたいになる感覚がお分かりになるでしょうか。「生きさせられる」生、という感覚とでも言いましょうか。
そうした感覚をもって生きている方方は、死にたくないから生きる、や、生きていたいから生きる、という感覚でいきているのではありません。「死ねないから仕方なく」生きている、と感じているので。
そうした感覚のしんどさをあえて最も単純化した言い方をするならば、「息をするのもしんどい」という感覚にちかいかもしれません。単純化しすぎて生ぬるいですが。本質的にはまさに、生きていることそのものが苦痛な感覚で、ただそこに生きて存在するというだけで心身にストレスを感じるのです。
この感覚は、ベッドの上であろうが、おいしいものをたべていようが関係ないのです。快刺激で上書きしようにも、その快刺激やその記憶がきちんと保持できないので、あるいは、思い出したくもない思い出ばかりが去来して、生きているだけで自分のこころがしんどくなってしまう。
「だから消えてなくなってしまいたい」「そのことで楽になりたい」
でも、死んではいけないことになっている、ないし、死んだら周囲に迷惑をかけてしまう。あるいは死ぬことはこわいけれども、もうどうにも生きていることが、あるいは生き続けることそのものが耐えられない、だからその心理的な抵抗感をやけくそ感で埋め合わせてしまいたい。面倒くさい、ないもかもどうでもいい、早く楽になりたい。
このはざまで、揺れ動くことを余儀なくされるわけです。
そして、そのようにして煮詰まった脳内からは、さまざまな想像力がうしなわれていきます。そうして、他人の痛みよりも、自分ごと、自分をうまく包摂しない周囲の環境ごと消し去ってしまいたいという欲求を抑えこむものがなくなったとき、人は自分の近くにガソリンをまいて火をつけるのだと思います。
考えてみてください。普通の人は、焼死を選べません。熱した金属に触れたときの、あの「熱い!!!」の苦痛をこれまでの人生で味わったことがあるならば、そして、その状態が全身に広がることの苦痛は、まともに考えれば正気を失わせるに十分と思います。想像を絶します。想像するだけで恐ろしくなります。
ましてや、そのような苦痛をほかのだれかにも与えてしまうかもしれない。もしそんなことになったらとおもうと、恐ろしくてたまりません。大変なことです。
しかし、その苦痛さえ、感じられなくなるほどに、脳の情報処理に偏りが出ている状態なのでしょう。そして、そのような情報処理とは、主に、悲しい、寂しい、むなしい、みじめだ、つらい、耐えがたい、面倒だななどの感情に多く割かれるのだと思います。あるいは、感情をうまく自覚してコントロールできない、そうした自らを常に責め立てる自罰的な思考があったりするのかもしれません。さらには、そうした認知のゆがみというものが、本人の中から湧き上がってきたり、環境がその人を追い込んだり、あるいはその両方があったりすると思います。
とにもかくにも、作業療法士をしていると、普通の社会ではあまり接点を持てないいろいろな方と交流させていただく機会があります。上記のような方も、世の中にはたくさんおられます。
そして、わたし自身にそういうところが全くないかというと、絶対そんなことはないとおもっています。人間だれしもがそういう「自暴自棄」スイッチを持ってると思います。そして、一旦そのようなスイッチが入ってしまうと、自分では、たてなおせなくなってしまうのです。あるいは、最初から自分ひとりでうまれて、生きてきたような感覚でふるまうことで、喪失感を無理やり埋め合わせようとして、ますます矛盾の中におぼれていってしまうのです。
そうした現象を想うとき、思い出す評論があります。
映画「ジョーカー」の主人公が表現した社会の冷やかさ
コメディアン死亡だったのにいつの間にか殺人鬼になってしまった映画のキャラクターがいます。もちろんフィクションですが。
そんあ、2020年にホアキン・フェニックスがアカデミー主演男優賞を受賞した映画「ジョーカー」の主人公「心優しいアーサー・フレック」の事を問題を起こすことでしか人とつながれない、という解説をした人がいます。岡田斗司夫さんです。彼は、「アーサー」は、社会が彼に向けたの環境の力学によって、そうならざるをえなかったと述べています。
長い動画ですが。一応リンクを張っておきます
もちろん映画「ジョーカー」はフィクションである。ゴッサムシティは実在しない。のです。
けれども、この映画は人間の心理として、憤懣やるかたなくなったり、社会とうまくつながれないと、衝動がある個人を破滅的な犯罪に駆り立てることがあることを示唆している、とおもいます。
実際、そういう人間の行動原理で起こされたと思われる犯罪のニュースはなくならないですね。
「死刑になりたかった、だれでもいいから殺せば死刑になると思った」
このような供述の事件はgoogleでざっと検索しただけで、下記のように。
京王線刺傷事件の犯人も…「人を殺して死刑になりたい」息子の“殺意”に怯える母親たち(週刊女性PRIME) – Yahoo!ニュース
「死刑になりたい」また無差別殺傷 同世代で繰り返される共通の「動機」: J-CAST ニュース【全文表示】
死刑になりたいと望んで引き起された犯罪事件の一覧 – いちらん屋(一覧屋) (ichiranya.com)
こうした、「自分が置かれた状況の理解することが困難であるか、どう解決したらわからない、もしくは解決しようとしたがうまくできなくて打ちのめされて打ちひしがれて、自暴自棄になってしまう。」人は少なくないです。
そういう人たちが世の中には必ず存在するのです。
そうした人たちに、どのようにむきあっているでしょうか。
「だれからも関係をもとめられていない」 感覚
友達でもいいし、だれでもいいから、やっぱりひとは、だれかから必要とされたいと感じている、ということだと思います。
そういう感覚が自分ではいかんともしがたい人たちが、たとえば、「さびしい」とひとに言うことでつながれると一番良いのですが、そうできない、むしろ「ほっといてほしい」というような人に、どうするのか。
普通の人は、「ほっとく」のではないでしょうか。
本人がほっといてくれというのですから。
でも真実は、それでもなお、踏み込んできてくれる誰かを待っているのだと思います。資本主義は、契約社会です。言葉が大切ですし、論理が大切です。言葉には責任がともないます。
ですが、そんな枠組みの中ではうまく生きていきにくい人たちがやっぱりいるんですよね。自分の言葉が、額面どおりの意味ではない意味でしか、口から飛び出していかない人たちがいるんですよね。
「ほっとく」と、そういうことになるのだとおもいます。
やさしさが大切
最後に、冒頭で紹介した映画「ジョーカー」の主演男優である、ホアキンの受賞時のコメントを紹介して終わりにします。
壇上に上がったホアキンは「本当に感謝していますし、自分が他の候補者よりも優れているとは思っていません。僕はすばらしい映画人生を送ることができました。なぜなら、俳優として、私たちは“声なき者”の声を代弁する機会を得ているからです。男女の平等、人種やジェンダーに対する差別、そして地球環境まで、今の世界にはまだまだ問題が山積みですが、それらは愛情や思いやりを持っていけば、解決できるのです」と想いを吐露。
【第92回アカデミー賞】主演男優賞は『ジョーカー』のホアキン・フェニックス 亡き名優に続き“ジョーカー俳優”2人目のオスカー! | cinemacafe.net
本当、
やさしさって大切にしないと。
みんな身をほろぼすよなあ、としみじみおもいます。
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