書き散らしです。
直感的なもの?って
感覚や感性、即時的なもの。
ここから、どのようなパターンが想起されるかがその人らしさなんだろうなと。
たとえば、起床直後
起きた、という感覚から、次に何を得るか。
寝る前の記憶?
眠たい、という感覚?
周囲の光量?
空腹感?
気温?
これからやらなければならないこと?
これらの中身には直感的でその場限りの感覚としての情報と、寝る前からの連続性に基づく内的な情報保持に由来するものがある。
直感的なものは
まぶしい、暑い、空腹、ねむたい、などなど。
感覚由来の認知機能
「〇〇だから~しよう(したい)」の構文で描かれるこの認知は、幸福感の成り立ちにとてもたいせつなものだと思う。
他者とは独立した、自分自身という存在の在り方を記述し、把握するもので、自己認識や自己愛の基盤となる。衝動に近く、意欲の根本で、すべての活動の根拠となりうる枠組み。
「熱いから窓をあけよう」
「おなかがすいたから、ご飯を食べよう。」
のみならず
「晴れてる、うれしい」
など、結局どのような人生を送ってきたかという文脈に類するものに属する価値観であっても割と直感に近い部分の因果関係の認知がこれにあたると思う。
感情で、物事を評価するときの自分自身の重みづけについて自覚的になることができる。
外的指標ではなく、自分自身にとっての重要度、内的指標を獲得するうえで非常に重要。
構造化された認知機能
「~しなきゃ」や「~することになってる」「~するのがあたりまえ」という感覚や感性は生存確率を高めたり、日々の生活のコストを低下させて、生き残りの可能性を上げるうえで役に立つ。
「朝がきたから起きなきゃ(その後、予定があることを知覚しているから)」
「顔を洗わなきゃ(身だしなみが整っていることが他者への配慮として当然であるとみなされるコミュニティーの中の一員として自分がふるまうことを自分に期待している故)」
「仕事にいかなきゃ(社会的存在として、雇用契約を全うし、給与をえることが自分の社会的存在としての存立に不可欠であり、そうすることを周囲から期待されているという感覚の知覚ゆえ)」
ともすると、自分自身の生来からの感覚とは切り離してしまいがち、というか、切り離すことで楽をしてしまいがち。
構造化が行き過ぎると自分を見失う
「おいしいものをたべておいしいと感じたら、おいしいと言葉にしてみる」という単純なコストを払わないと、別に自分でなくてもよいという感覚は実感を帯びて立ち現れてくる。
ことに、資本主義社会×情報社会によって、各種人材も互換性を高め、経営リスクを低下させるためにこの人でなければ回らないという仕事を消すことが普通になっている。顧客利益を最大化するためには当然の措置。
そうすると、別に自分でなくても、できる仕事を自分はなんでおこなっているのだろうかやりたくもないのに、という問いが立ち現れてくる。
その問いから逃げると、自分が自分の敵になる。
その構造から逃れるもっとも単純な方法は、自分の存在を社会的あるいは生物学的に抹消することである。
ひきこもりの方や周囲の環境の劣悪さによらない孤独感のようなものが影響することでの自死にはこのような構造がある、ことがある。
「うまくやる」ことだけに焦点化しすぎて、「じぶんはこう感じる」が埋没していき、リンクが薄くなって「じぶんはこう感じる」を表に出すと「うまくいかなくなる」から、「自分はこう感じる」を出せなくなる、という構造。
そこまで徹底すれば、別に自分が存在する価値はないと感じても、不思議はない。
どんなに幸福感をえられる環境であっても関係ない。本人の内的な幸福感のセンサーがうまく働かなくなっている以上、理屈で幸福であるということがわかってても感覚で実感できない、セロトニンが出ない。
肯定感も出ない。ドーパミンで興奮しても、持続はせず、自分自身の存在定義があいまいになる。日々の情報量に押し流されて、「うまくやろう」とすればするほど「自分じしんってどんなかたちだああったかけ」と崩壊していく感じ。
そこまで徹底できる人はまれかもしれないが、確実に存在する。
それゆえに、やはり、表面上は「ちゃんとしている」から、わかる人にしかわからない。
その人たちの一部が鬱病になったり、離人症にカテゴライズされているのかもしれないと思ったりはする。
自分の存在のヨスガにできる、感覚や、それに基づく自分自身のためにする何かが不足していたり、その部分と他者の利益の交わるところをうまく探せなかったり、そうなると社会やわかりやすい何かに自分の行動原理を求めるしかなくなるという構造は大いにあり得ると思う。
自分自身を見失っていることを自覚するためには、自分自身を意識する必要がある、という矛盾のような何かが、悪循環の歯止めを難しくする。
解決するには、仲間が必要
悪循環に自分ひとりで気が付けるのには、割と根性なり認知機能がいるように思われる。途中で力尽きたり、悪循環の果てまで行きついてしまうこともあるかもしれない。
自分自身を意識できる方法としては、自分で自分を意識する以外にも、人と交わることで他者と自己という存在を言語的に定義して区別したり、そもそも、ひとの言葉によって自己を強制的に認識することがある。
「しゅみはなんですか?」
という何の気ない問いかけに即答できる人は、普段から自分のことを自分で応対しているひとだと思うし、悩むひとはおそらく自分のことを直視する機会が乏しいか、意図的にそれを避けている。
他者の存在があれば、そうした問いかけから自分自身に対して自分が敬意を払えていないという現実をとらえることが、一人の時よりもはるかにしやすい。
他人の存在は大事だし、特に、自分に対して害意を向けることのない、仲間というのは大事。
別に寂しさを感じにくい人にとっては、友達は必要ないけれど、仲間は必要だと思うのです。そのような理由から。必須です。
自衛的措置
とはいえ、すぐに仲間なんて、と思う方はやっぱり、朝起きた直後に自分がどんなことを考えているのか、これからの人生どうしたいと夜考えたとして、朝にそれがどれだけ連続したものとして自分自身の認識に反映されているかということを、意識してみるのが良いのではないでしょうか、とおもいます。
逆説的ですが、そうして、自分の感情をしっていくことに誠実になればそのうちに勝手に仲間ができてくと思います。感情回路がうまく回るようになるので。
などと、おもいます。
参考と蛇足とまとめ
友達をつくると人間強度が下がるという人もいます。フィクションですが。
多数派に巻き込まれて、自分の意見が言えない、流れについていこうとするあまり無難になってしまって自分が何もできないときがある、など、そういうのは、個人の課題であって仲間云々は関係ないともおもっておりますちなみに。
物語の進展前の前振りで、人間強度が下がるといってた上記人物は、人間関係に悩みつつ自己犠牲でいろいろ解決しつつ、友達がたくさんできます。フィクションです。
直感や感覚を誘発する言語には説得力が宿ります。それらを構造的に積み上げて、事実感を作り上げる手法は、西尾維新ならでは、勉強になります。
それはそうとして、言語すら不要の自分の感覚にもう少し鋭敏になったほうが、人類は幸せなのではなかろうかという書き散らしでした。
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