はじめに
かなりまとまってません。思うところがたくさんありすぎます。
思考整理のためにおもいのまま、あやしうこそものぐるおしけれ。
離婚はフラットに語り
離婚って、ネガティブなイメージで受け取られることが多い。
それは、関係性の崩壊を暗示するからではないでしょうか。
でも、新しい関係性が構築できるきっかけとなるなら、離婚はクラッシュアンドビルドの起点でしかないので、あたらしい夜明け的な意味でとらえるとむしろポジティブかもしれません。
ということで、プラスマイナスゼロでフラットに、ryuchell氏の離婚を、統一教会事件以降のこれからの世の中の在り方として考えてみたいと思います。
前提としての日本の家族観
結局日本の家族観は、
1困難な自然環境、その後は、社会環境においてまとまりや組織が作りやすい単位として家族が機能する面が大きかったこと
2自尊心を子々孫々や先祖代々に帰着する人が割合的に多いこと
3破壊的更新より、安定的継承のほうが心理的負担が少ない人が多いこと
によって成り立っている。
蛇足かつ重要事項としての日本における政治と宗教と家族観
政治的には、政治団体を支援する宗教団体の意向が反映されている可能性が、政策決定の不自然なゆがみから見て取れたが、最近の旧統一教会と政治家および政治団体との関係性によってわりと確定的になっている。
家族観を利用することで、宗教は家族単位にわかりやすい秩序のフレームワークを提供する代わりに、宗教側は家族全体を信者とすることができる。また、集団として影響しあう人々の秩序として宗教が機能する場合には、個人にとって離脱にコストが発生することを意味するため信者数の安定を得ることができる。
このような理由があるので、宗教は家族観が大事、というフレームワークを好む。これは社会の変化にストレスを感じやすい親世代以上にとてもマッチしており、そこを起点にトップダウン式に布教を展開できるので、とてもコスパが良い。
政治にとって宗教が便利なのは単に票田となるだけでなく、特定の政策を売り渡すことで安価に動員可能な人員を得ることができるからである。これによって、当落線上の候補者を宗教は制御しつつ、たとえば経済重視の政治家にとっては家族観がどうでもよいと判断すれば、伝統的家族観を擁護してくれるのであれば、あなたを無償の愛で支援いたします。とすれば、政治と宗教はWINWINとなる。これを禁じたのが政教分離の概念であるが、結局現実的にはあまり意味をなしていない概念である。といえる。
その理由は、端的に、
1宗教は、弱者はめ込みビジネスとして機能しうるので富の吸い上げ装置として政治家に利便性があり、なおかつ合法であること。
2政治は、宗教によって、簡単に変容させることができるけれども、それを表立ってやると当選できないのでじわっとやる必要があること
の2点で政治家と宗教サイドそれぞれでウィンウィンということになる。
政治家が直接、一般から広くお金を集める方法は政治献金しかないが、そこに宗教団体をカマスことによって、得られる献金の額を増やすことができる。宗教団体が運営しているフロント企業などの献金などフィルターを通して献金を増やすことができる。その原資は、宗教団体の所属信者が時に自分の生活を切り詰めたり、自分の資産の一切を売り払ったり、借金をしたりして作ってくれる。
宗教団体サイドとしては、政治が政策を、自分たちの教義に近い形で打ち出せば打ち出すほどに権威が増える。また、支援する政治家が宗教的集まりに顔を出してくれると、新規の信者を開拓するときの広告塔として使えたり、既存の信者の忠誠心を高めるための装置として用いることができる。それで、増えた信者からさらに多くの富を集約することができれば政治家も宗教団体も金銭的に儲かる可能性があるのでやめられないまらない。
道徳教育と家族観
また、道徳として家族を尊重することを一般的な秩序とすることは社会の安定や子供を安定した環境で育成することに寄与するなどの点があり、日本では、父母子供に祖父母親戚を加えた一つ屋根の下ファミリー家族観が、「ふつう」として今日受け入れられるに至っているし、そのモデルから外れるほどに、「変」とみられている。と思う。
親や兄弟、家族は大切にするべきものであるという、「あたりまえ」があるように思われる。
子供の犯罪に芸能人の親が頭を下げる日本の不思議
子供が逮捕されたとき、親である芸能人が「この度は誠に申し訳ありませんでした」と頭を下げるのが当たり前のように思われている。これは日本人が、子供の人格と親の人格を同一視しており、ある組織に所属する個人はその組織から影響を受けているに違いないという色眼鏡で見ても構わないと思っている。
しかし論理的には、子供と親は人格的に同一ではないし、子供の行動の責任は親には帰属しないはずである。なぜなら自由主義社会であり、自由の属するところは本人自身の意思を除いてほかにないから。
しかし、そういうところの切り分けができなかったり、同一視がやめられないなど頭の使い方や価値観を多様化するためのエミュレータを頭の中で動かすことが難しいひとは少なくない。
道具としての家族単位
生きていかないといけないから。
そういうものだから、
やくわりがあるから、
という必要性に基づく家族観、大変ヤバい言い方をしていたある方の言葉を借りれば「道具としての家族」観というものが、これまでの日本にはあったように思われます。オブラートにはもちろん包んだうえで別の表現に変換されていますが、本質としては「利用価値のある人間の構成単位」としての家族、という大変ドライな家族もいくら血のつながりがあろうとも実在していたという厳しい現実を遠慮なく突き上げている言葉のように思います。「道具としての家族」。やっぱり体験者経験者の言葉の表現は重たいです。
政治も宗教も家族を道具としてとらえていることが多いです。企業もそういうところがあると思います。お金が絡むといろいろゆがむのは人間だもの、という感じです。
お金があまり全面に立ちすぎると、結局家族はゆがんでいって、道具としての単位になっていってしまうようです。
それだけが言いたいがための長すぎる前置き。
家族と愛の重要性
家族も愛着がなければただの構成単位。
あるいは、かくあれかし、という宗教団体であるともいえます。
一方で人間の育成において、愛情的な感情論は家族単位の形成と実際の安定運用上きわめて重要な意味を占めるという持論があります。論理的思考だけでも人は成長できますが、多くの人とうまくつながるには、感情をきちんと開放する力が必要です。
そのような感情コントロールの力というのは、結局のところ、子供の育成において特に心理的安全性の面で大きく影響する可能性が極めて大きいです。よほど、子供の認知機能が卓越していない限り、親の一挙一同に子供の思考言動は左右され、親の感情の起伏が激しいほどに子供の日常生活上必要な思考へのエネルギーコストは高まるからです。
また、失敗は成功の基というだけあって、成功に至るには、ある程度の手数が必要です。
手数を実現するには、ある程度の失敗を許容できるメンタルが必要です。
そのメンタルの基礎となる、「自分は愛されている」「自分はここにいてもいいんだ」という安心感が、新しい行動への挑戦を保証することになります。
月並みな指摘ですが、大人になっても他人に攻撃的な方というのはこの辺りの愛着形成がやっぱりうまくいっていないのだろうなと思うのです(n=1)。現代病といえばそうかもしれないですし、人類の有史以前からのお悩みなのかもしれません。
本題としてのryuchellの離婚
結局、自己肯定の問題かつ、自己規定の問題かつ、「何が幸せなのか」という問題であって「他人からどう映るか」や「道具たり得るか」は問題でない、ということと解釈しました自分は。ryuchell&peco氏の離婚を。
言い方を変えると
「日本国の規定には当てはまらないので、婚姻関係から離脱します」
ということで、新しい家族の形を模索するそうです。それは、ryuchell氏の
離婚しても彼は彼であるようで、それを相方のpeco氏も認めており、性別を前提としない1対1の人間としての愛を以て、家族を形成していきたい、ということ。
家族単位と結婚
これより引用多発注意報。
日本の結婚制度は、そののちに子供をもうけて家が続いていくようにすることをサポートするための仕組みとして作られているので、そのほかの用途で使おうとするとうまくいかないことがある。そのため、そのほかの用途でも使えるような結婚や家族単位の在り方を探す試みをryuchell氏はしようとしているのでは、と理解する。
本人も「新しい家族の形」を追求していく、としている。
具体的には
「“夫”と“妻”ではなく、人生のパートナー、そしてかけがえのない息子の親として家族で人生をすごしていく」
ということで、あたらしい枠組みを自分でつくっていく、とクリエイティブな宣言をしているわけですね。
言い換えると、男と女という関係性を超えたパートナー、かつ自分たちの子供の親としてのロールを基本単位とした家族の形を模索していきます、ということ。
本人の言葉ではさらに詳しく
妻のpecoについて「女性を好きになることは、僕の人生の中で、初めての事」だったが「“本当の自分”と、“本当の自分を隠すryuchell”との間に、少しずつ溝ができてしまいました」といい、pecoに打ち明け「どれだけ伝えても足りないほど、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいだけど、家族として、パパとしては、何があってもこの幸せは守りたいと強く思いました」
と続くわけですね。
これは、
メディアで自分のこれまでの生き方や、“夫”としての生き方についてお話しさせていただく機会が増えていく中で
という、うそじゃあないんだけど、でもじぶんってそれだけじゃないんですが、実は。という部分の割合を黙殺できなくなったということです。
だからryuchellとして、自分を認めつつ、家族としてやっていくための自己規定や家族の形の成形をこれからもう一度やっていきたいということなんですね。
いいぞ、どんどんやられたら素敵だなあとおもいます。
奥様peco氏
率直で素晴らしいです。こういう表明ができる高潔さ非常に好きです。人間的に剛。愛に満ちている。
《正直、墓場まで持っていってほしかったと一瞬たりとも思ったことはないと言えば嘘になります》
ということで、そういうお気持ちをちゃんと世間に向けて投げかけることができることも、自分自身のそういう思いともきちんと向き合っていきますよ、という覚悟を感じるし、
わたしは何よりもまず、りゅうちぇるという人間そのものがだいすきです
たぶん一緒に生活するということの優先順位の一番はこれでいいのだと思います。
好き嫌いと一緒に過ごした時間による行程による肯定。
だから正直、墓場まで持っていってほしかったと一瞬たりとも思ったことはないと言えば嘘になります。 だけどそれ以上に、もしほんとうにりゅうちぇるがこの先何十年、おじいちゃんになるまでひとりで抱え込み続けていたらと思うとほんとうに怖いし、こうして今 生きて、勇気を振り絞ってわたしに打ち明けてくれたことに、ありがとうの気持ちでいっぱいなのです。 打ち明けてくれた瞬間、ひどいとか、最低とか、だましてたの?とか、ほんとうにそんなことは思わなくて、それはりゅうちぇるがほんとうにたくさんの本物の愛をくれたからだと思います。
こういう解釈が本当に心からできるのであれば、それはとてもクリエイティブで素晴らしいことだと思いました。本質的には2人の問題で回りが話のネタにとやかく取り上げること自体がナンセンスなのですが、
みーんな弱いし、みーんな強い!
というワードは、最強なのではないかと思いました。
2人は、2021年9月にそれまで所属していた芸能事務所を退所し、ryuchellが社長を務める事務所を設立しました。そういう意味では、ビジネスパートナーでもあるわけで、単なる家族よりもさらに深い関係です。多様な家族の在り方を示す存在として、ますますメディアでの活躍、発言が期待されま
とのことですので、
さらに家族関係が複雑な中で、彼らの子供たちが幸せに育つなら、周りがとやかく言うことはないし、二人だけで困るときには遠慮なく周りを頼ってもらいつつ、だれからも肯定されることもなくても自分たちで新しい家族の形を作っていってほしいと思います。
おわりに
あたらしい家族の形
それが、今の日本社会の停滞ムードを変化させていく一つの具体的な答えになりうると思っています。
結局新しい組織形成っていうのはだれにでもできることではなくって、それゆえに結局不合理でも今までのやり方を踏襲することになることが多いのだと思います。
そういう意味で、あたらしいありようを模索する力というのは社会を変えていく力としてみたときにきわめて重要だなあと思います。
自分でも、そこまで乗っけたら乗っけすぎかなと思いつつ、結局、でもそういうことなんだろうなと思います。これまでを尊重しつつこれからが逸脱してもそれは、自己肯定のありよう次第ということで。
政治や既存の社会制度にとらわれない幸せの形を各人それぞれが自分で幸せになれるように形作っていって下さることを祈らずにはいられません。
参考:
【全文】peco「正直、墓場まで持っていってほしかった」も「打ち明けてくれてありがとう」(デイリースポーツ) – Yahoo!ニュース
ryuchellが離婚発表 夫の「カミングアウト」を受け入れたpecoに集まる賞賛の声(SmartFLASH) – Yahoo!ニュース
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