効率や便利さと対極にある「ひとの想い」について

はじめに

「言葉を器用に語れたら、どんなに良いだろう」と思う事がしばしばです。

自分の思うことを、自分なりに表現することさえ、ままなりません。

それでも、自分の感情がどんなにめんどくさい(非生産的、非合理的)なものであっても、それから逃げてはいけないとおもうのです。

理由

感情に人間らしさを求めるからです。

人が人とわかり合うということ

そこに合理性(完全に公式化できる要素)はありません。

ただ、人と人がいて、言葉を交わし、行動を示すのみです。

そして、人と人のやり取りにおいて重要視されるのは、感情面であり、その人の人となりであり、決して合理性(いわゆる「現象としての『ただしさ』」)は必ずしも必要ありません。

自身の印象に基づく決めつけ(不確定性)でさえ、たとえばその場を楽しくさせる要素であれば受け入れられるものです。

要するに人間を「ただしさ」に当てはめるべきではない

最近、本当にそう思います。

人間は、非合理な存在です。

ルールやシステムは合理性に基づいて決められますが、人間は本質的にはその合理性になじまないものです。

あるいは、合理的な人というものは、合理的であるために、人間らしい感じ方のどこかにふたをしているのではないかとおもいます。

ひろえもんにも、実はそーいうところがあります。

それを、無自覚にやってしまって、「ただしい」だけの判断をしてしまうときがあります。

それは「かなしい」ことだなあとおもいます。

おわりに

気付けば自分語りになってしまいました。

人間が「ただしさ」というルールやシステムの上に生活している事は、十分に承知しています。

「ただしさ」を無視して生活できない事も。

でも、きっと書き残しておきたかったんだと思います。

そして、これを書き残すことは、読んでくれているひとにとってもきっと意味のあることだと確信します。

「ただしさ」のみに囚われず、人間の気持ちに真摯でありたいと思います。

いち作業療法士としても。人としても。

その日のうちに思った事は、その日のうちに書き付けて残すといいと思います

はじめに

記録を書き続けるというのはなかなかおっくうなものです。

記録を残すのが良い事なのは、わかっちゃいるけどなかなかできません。

ですので、書き残す事は本当にシンプルな事から始めると良いと思います。

自分の感じ方を記録すること

たとえば、こんな感じです。

「今日は晴れていた。気分がさわやかになり、がんばろうと思えた」

こんな感じのことです。

こうした記録では、例えば晴れという事象について、自分はどのような感想を持ち、それをどのように表現したのかという事が重要になります。

なぜ、自分の感情を書くだけの事がそんなに重要なのでしょうか?

自分の感動を色あせさせない

人は、いきているだけで、いろいろな事を感じ、感動する事ができる生き物です。

感じる事に意識的になることによって、より多くの事を感じ、また、それをもとにしていろいろな事を考える事ができる用になります。これは、OTという仕事をやっているとすごく大切な事だと思います。

いろいろな切り口でいろいろ気付いて提案する事が求められる職種においては、こういう、自分の感性を磨くという事は共通して大切だといいますか、求められる事だと思います。

一方で、人間は、常に何かを感じる生き物なので、以前感じた事は常に現在感じている事に影響され、その感覚も揺らいでいく物なのではないかと思います。

極端な事を言えば、1秒後に振り返っての自分の感性のクオリアと、1年後のクオリアはまったく異なった物である可能性があります。

自分の感覚が、変化していく事自体は当たり前の事だと思います。

しかし、変化するという事は、昔自分がどんな風に感じたのかを忘れることにつながりはしないでしょうか?

自分の感性を大切にして働く事が求められる人間としては、自分の感じた事を後々まで思い返す事ができるように形にしておきたいと思うのもまた心情だと思います。

ノートやパソコンを使って書き残す

時間がたったあとも、自分が感じた感覚をその鮮度を保った状態で思い出すためには、やはり外部記憶を使用することが非常に有効だと思います。

具体的には、自分の言葉で、自分自身の体験について、感情を移入しながら記録します。それによって、後日その文章を読み返したとき、まず、その文章を書いたときの自分自身を思い出し、それをたどって、記述した内容について反芻する事ができます。

職人技には感覚が欠かせない

自分が、感じた感覚は、職人的な感性が求められる仕事上では非常に重要です。

職人の具体例ですが、1000分の1ミリの精度を人間の手で表現できる人たちがいます。彼らは何も特別な道具を使う訳ではなく、人間が生来持っている感覚を研ぎすまし、ソレを使って判別を行います。

作業療法士にも同様な感性が求められると思います。昨日と今日の様子を比べて、違いに気がつくためには、自分自身の感覚を研ぎすまし、その違いについて意識できる事が必要になるからです。

そして、その感じたことや感覚をしっかりと覚えておく事は、必ず次の問題解決の役に立つはずです。同時に、その感覚を得るに至った具体的な経緯、ストーリー、エピソードなども書き添えておくと、あとで役に立つこと間違いないです。

できれば毎日残したい

そのためには、感じたことが色あせる前に、文章にして書き留めておく事が有用で、重要だと思います。

毎日、何かを書き残す事、書き起こすことには非常に力を必要とします。大変なことだと思います。しかし、これをやってるのとやっていないのでは、伸びしろが大きく変わってくるし、業務の質の改善具合もまた違ってくるなあというのが個人的な感覚です。

仕組みを作ろう

そのためには、なるべくさぼらないで書き込みができるような、仕組みづくりをしなければ行けないなあと感じています。

たとえば寝る前に時間をちょこっととるとか。

自分にあった記録媒体をチョイス

人によって、向いている記録媒体は異なると思います。まずもって、デジタルかアナログか。アナログでも、ルーズリーフ派、メモ帳派、ノート派、広告の裏紙派などなど、さまざまだと思います。

たとえば、ひろえもんは、手書きで物を書くよりもキーボードを使用した方が、早く記録が残せる人なので、デジタル媒体をよく使います。

後は、アナログで記録した物も、スキャナーで取り込んで、デジタルで管理したい人です。

アプリ紹介

そんなデジタル人間ですので、この二つのアプリケーションが非常に重宝しています。


良かったら試してみてください。使えるようになると手放せないデス。最初は、無料で使ってみて、気に入ったら有料プランを試されると良いとおもいます。

おわりに

めんどくさがらずに、将来の自分のための投資だと思ってめんどくさがらずにきちんと記録が残せるとすてきだと思います。

赤ちゃんも本当はあなたの事を良く知りたいとおもっている!?顔見知りは心の葛藤であるとする研究結果

はじめに

あかちゃんは、生後数ヶ月で、特定の人間と違う人間が近づいたときに、泣くという反応をみせることがあり、これは俗に、「人見知り」とよばれる現象です。

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あかちゃんが、人の顔の違いを識別できるようになったという意味で成長の証としても解釈されますね。

そんな人見知りは、赤ちゃんの「心の葛藤」の現れでは無いかという論がありましたので紹介。

研究について

研究をしたのは、東京大学大学院総合文化研究科の岡ノ谷一夫教授や同志社大学の松田佳尚特任准教授ら。

人見知りと言う反応には、「恐怖」だけでなく、近づきたいとう「興味・関心」も同時に含まれているということが明らかになったそうです。

ソース

研究グループは、生後7-12カ月の赤ちゃん57人の母親に、赤ちゃんのもって生まれた気質についてアンケートし、「人見知り」度合いと、相手への「接近」と「怖がり」の2つの気質の関係を調べた。その結果、人見知りが強い赤ちゃんは、「接近」と「怖がり」の両方の気質が強く、「近づきたいけど怖い」という心の葛藤を持ちやすいことが推察された。

また、赤ちゃんに母親と他人の顔の映像を見せ、口、鼻、目のどこを長く見ているかを視線追跡装置で観察した。人見知りが強い赤ちゃんは、弱い赤ちゃんよりも、母親、他人にかかわらず、最初に相手と目が合ったときに「目」を長く見つめ、凝視するような目を示した。さらに人見知りが強い赤ちゃんは、相手が自分と向き合った顔よりも、よそ見をしている顔を長く観察していることが分かった。

赤ちゃんの”人見知り”は心の葛藤だった ー まいナビニュース

おもったこと

泣いている赤ちゃんをみると、どうしても「嫌なのかな?」と思ってしまいがちですが、実はそれだけではなく、相手に近づいてみたいとも思っていたという事がわかったのは、個人的に良かったなあと思います。

なんでかというと、人見知りをされたから離れた方が言いという訳では決して無いという事がわかったからです。赤ちゃんはこちらに興味を持ってくれているので、いかにしてその興味関心を充足させ、次のコミュニケーションステージへとつなげていくのかという事が大切になるのではないかと思います。

また、いっけん単純に見えるあかちゃんの行動にも、いろいろな感情や、脳での情報処理があるのだと言う事が明らかにされたという意味で意義深いなと思いました。

おわりに

小さい子供の教育に関しては、昔では経験則でしか対応ができなかったけれども、こういった学術的視点をもとにしたアプローチができるというのは、本当に面白いと思います。

「自死」と言葉の言い換えの空しさと、その向こう側の本質

少し前に、「自殺」は聞くに堪えないから、「自死」という言葉に変更しようという活動をしている人たちがいるということがニュースになってました。

いわゆる言葉狩りとの批判もありますがどうでしょうか。

「言い換え」で取り繕っても長期的には無意味

個人的には、あまり意味がないと思っています。

実際に、先の話題に対する、「言い換え」への意見が見られました。2chですけども。

「自殺」→「自死」とかやってないで

「ほんわかぱっぱ」にすりゃ暗いイメージも何も無いし、それでいいんじゃねーの?

と言う意見です。

2chの書き込みなので、実際かなりおふざけの要素が強いですので不快感を感じる方も少なくないかもしれません。

しかし、言い換え問題の本質をついた意見と言えるでしょう。

自死としたとて、内容が「自分で命を絶つ」と言う行為を指す以上、その本質とその暗い部分からはどんな言葉に言い換えたとしても、決して逃れることができないと言うことが、皮肉にも端的に表現されてしまっているのではないかと思います。

本当に必要なのは、遺族の心のケア

この提言を遺族をはじめとした、自殺した人から取り残された人たちが見たときにどのように感じるかといえば、「馬鹿にして」といった感想だと思います。

しかし、ある意味においては、本質的には「自殺」→「自死」も、「ほんわかぱっぱ」と同じであると言うことは肝に命じておく必要があります。

つまり、どのような言葉を使ったとしても、その言葉が意味する本来の事象はなにも変わらず、単なる言い換えは事実から一瞬目を背けることができるだけなのです。

さらに言うならば、

「大切な人が自ら命を絶った。」

という事実は、言葉によって印象操作できる範疇を超えているのではないかと思うのです。

もしも、言葉の言い換えでイメージを変えることを本当の目的としているのであれば、本当に「ほんわかぱっぱ」でいいと思います。
しかし、そうではないのですよね。

言い換えの活動をしている人が本当に欲しいと思っているものは、単なる言葉の言い換えではなく、傷ついた心が少しでも癒されたと思えることです。

なんとか、苦しみから逃れようともがき苦しむ結果として、そのような活動に至っているのではないでしょうか。

「行間を読む」ではないですが、そういう活動をしている人たちは、どういった心境でそういうことをしているのか、「不思議だな」と、まずそれを知ろうと思う人が増えるといいなと思った次第です。

「言い換え問題」と作業療法との関連

作業療法にかかわる人間としては、受け入れて、次の一歩へ進めるような、そんな支援ができるようになったらいいのかなと思います。

表面的な部分にとどまらず、しっかりと本質的な部分に寄り添うことを忘れてはいけないと思います。