はじめに
直接作業療法(OT)関係ないですが、いじめも、人間関係上のトラブルの一つということで。
アメリカでは「人の不幸は蜜の味」を脳科学的に立証したえげつない論文もあるそうです。
その論文によると、人間は器質的に、ヒトが不幸な状態に陥ると、快を感じる神経の活動が活発になる回路があるんだそうな。
いじめも、きっと、そういう回路が頭の中にあるんじゃなかろうか。
いじめが起こるのは、きっと人間の器質的な部分の特性に関係があるはず。
と、言う前提に立った文章です。
この前提が、よーわからん、という人は、ブラウザをそっと閉じるか、戻るを選んでください。
この前提に立つならば。
ならば、いじめは人にとってありふれたもので、決して特別なものではなく、いつどこでも起こりうるものだという意識を持つことが重要となります。
画像:http://seiga.nicovideo.jp/seiga/im858456
「デスブログ」といじめは構造的に同質であるという意見
実は、こんな記事を読みました。
「デスブログ」とは、とある芸能人がやってる公式ブログへの異名です。
そのブログに取り上げられた人やものが、不幸に見舞われるんじゃないか、という風説がその名前の由来です。
「この頻度は、ちょっと、偶然では説明できないよね。」「このブログには何かありそう。」という強い印象を多くの人に与えた結果、そんな名前で親しまれて(?)います。
デスブログに関しては、googleで検索していただければ、naverのまとめとかがヒットすると思うので興味のある方はそちらをご覧いただければと思います。
このデスブログに対する、ひとびとのレッテル貼りは、実はいじめのそれと同質なものであるというのが、上記の記事の趣旨となっています。
その意見に対するひろえもんの意見
上記の記事を読んで、考えたことについて、書いていきたいと思います。
ちょっと、誤解を受ける文章になってるかもしれないので、よく読んでいただけると、ありがたいです。
また、あくまで、ひろえもんの個人的な意見です。
上記の記事の管理人さんとは全く関係がないこともお断りしておきます。
では。
まず、上記の記事におけるこんな文章がありました。追記の部分になりますが。
いじめを「どこかにいる悪い奴」がやる「絶対に許せない行為」とみるのではなく、私たちの誰もが日常生活の中で思わずやってしまったりすることととらえるべき、という意見だ。
「たしかに、そうだよな。」と思いました。
同意したわけです。
いじめが起こることは、確かに問題ですが、人間の特性上仕方ないことだと割り切る理性が必要なのです。
そうしなければ、組織がいじめの存在を秘匿し、表面化するほどにことが大きくなった時には、とんでもないことが起きてしまう。
そんなことになる前に、いじめがきちんと明らかになるような体制を作らないといけない。
ということだと思います。
専門家、政治としての、いじめへの対処法としては、これで完璧だと思います。
大人は、こういう立場をとらなければならないと思います。
でなければ、結局、取り返しのつかないことになってしまった後で、問題が明るみに出てくる現状は何も変わらないでしょう。
学校側が、いじめの存在を隠ぺいしないようにするための、いってみれば、学校側がいじめを明らかにするハードルを下げるための方策が必要になってきます。
すると生じる新たな問題
しかし、子供の側からすると、また、理屈が理解できない人間からすると「いじめは絶対になくならない」「無くならないから仕方ない」と言われているようにも思われないでしょうか。
いや、それを前提として、上記の方策を組み立てているのですから、その通りなんです。
ですがが、そういわれたら、どう思うでしょうか。
「おまえは、いじめられるべくして、いじめられてるんだ」
そういわれていると感じないでしょうか。
いちゃもんレベルの論理の飛躍がありますが、そもそも感情論なんて、論理の飛躍のオンパレードです。
十分に、そう感じる可能性はあると思います。
とすると、声を大にして「いじめの要素なんて、そこらじゅうにあって、いじめなんてあってあたりまえだよ!!」なんて、自分にはとても言えません。
あっちを立てればこっちが立たず
成熟した大人として、あるいは、人間関係をマネジメントする側の人間として、そういった認識を持っておくことは重要です。
それから、実際にそういった認識をもって、人間関係の管理、調整をしている方も大勢いらっしゃると思います。
けれども、そういった認識を前面に出すことは、人間の感情面に配慮すると、できないのが実情です。
だがしかし、そういうことを言われなければ、自分で気が付かない、あるいはそういった視点を持つことが難しい人もいる。
というのも、あるんじゃないかと思っています。
だから、言わないといけないんだけど、言えない。
言えない組織づくりを進めると、結局問題が大きくなるまで表面化しない。
表面化しないと、問題が大きくなる。
一朝一夕には解決しそうにないです。
飲みの席を利用するとか
そもそも、声を大にして言えないものを、効率化を盾に、大きな声で叫ぼうとしている前提が間違っているのだと思います。
ひそひそと話して、じわじわと広めていけばいいものなのかもしれません。
「いじめって、なくなんないらしいよ」
って。
「じゃあ、どうすればいいの」
って、話をすればいいと思います。
声を大にできないのであれば、閉じた空間で、閉じたコミュニティで、誤解があってもフォローのできる関係性の中で、じわじわと広めていくのが良いのではないかと思います。
そういう意味で、飲みの席とかいいんじゃないでしょうか?
おわりに
まあ、むずかしいですね。
このブログでは、過去2回ほどいじめについての記事を書いてます。
親が我が子のいじめに対処することのむずかしさと法務省のいじめ相談サービスについて思うこと
いじめ問題と親はどうかかわったらよいのかということに関する個人的な思い付きのようななにか
そちらも参考にしていただければと思います。
今までの話の流れと全く関係ないですが、モデル化するには、数学の「ゲーム理論」とか、そのあたり参考にして考えていくことが有効なのかも。
人間の損得勘定をグラフ化する上では便利なツールですよね。
ゲーム理論。
でも、感情をどう数学的に扱うのかっていう批判とかありそう。
そもそも、ゲーム理論、意外と知名度低いし。
そもそも、理屈ばっかりこねてるから、人の気持ちがわからんのだという批判もあるでしょう。
参考:
いじめと3月のライオンと親が子どもにできること(リンク切れにて現在参照できません)