どこの業界も一部のできる人が帳尻を合わせている

優秀な人ってある日突然いなくなるんですよね。本当に。毎回びっくりします。

まとめ

できる人がなんとかしてくれていることは、認識されないことが多い

その人がいなくなったとき、すべてが終わる

ただ、感謝を。

以下、そうならないためにとても大事なこと

前提 各自、自分自身が「できない側」と認めること

本来、これだけで文章が無限に書ける。

なので、ただ端的に。

自分自身が、仕事ができないと認めることができない人は多い。

そしてもうひとつ、出来ないと認めることができる人は強い。認めるひとは次々成長して次にいく。

できない人は、その場にたたずみ続ける。

眺めることしかできないで、その状況も理解でいないで「できる側の人」へ嫉妬する。ひどくなると攻撃する。顧客目線から見るとたまったものではない話。

でも現実としてそのような構図はあり続ける。

根本的解決としては、攻撃的ひとが、自分自身のできなさを含めて、自分自身をキチンと愛する方法を知ることにしかない。そのためにも偽りなく、出来なさを認める。これが大事。

管理職が本来やるべき仕事の話

それができない場合は、出来なさが認められるように管理者が、業務デザインできる能力が必要。組織に人間を合わせるのではなく、人間に合わせて組織をリデザインできる能力が本来は必要。

本題としての、帳尻合わせてくれる優秀な人が組織から出て行ってしまう要因

「できない人」が、直接顧客サービスに影響しない部分でローカルルールに依存してしまっていること。

だから、どこでもやっていける優秀な人は、そこじゃなくてもいいからどこかに行ってしまう。

そうして取り残された組織では、「人が定着しない」や「人が足りない」の怨嗟が渦巻く。その要因は、明らかに残された側にあるのに、そしてそのことを自覚しているからこそ、何かのせいにして自分を守る。だから成長もしない。

当然人は定着しない。少子高齢時代には、このような既存のやり方は詰むのですが、どの組織もそこまでの危機感を持っているようには感じません。

本来は10~20年後を見通したリクルートなどが重要になるのですが、取り組んでいる企業がどれくらいあるのか・・・。

大体のことはできる人が黙って何とかしてくれている

できないことをできないと認める人が多くてもそれなりに回る。

それはなぜかというと、出来る人がいるから。

できる人が、素早く正確にできることを、こなしてくれるから何とかなる。

参考:https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/2210/02/news054.html

横暴な人にはできる人を見繕い換装可能にする能力がある

よくある、ブラック企業の社長などが典型的な人物像。

人を自分の道具としてみなして、苛烈なストレスを与えているのに企業にひとが従属して働いているのはなぜか?と考えたことはありますでしょうか。

人が離れていくほどのストレスを振りまきながらも、事業や組織の中心にいる人には、アウトプットに必要な要素をそろえたり全体の絵図を整える力がある。

もちろんどんな経営者やリーダーであっても、どれほど自分自身が、優秀なところからスタートしていたとしても、ありとあらゆる場面ですべてを自分で何とかできるわけではない。

もし、口うるさいだけで、過剰な要求をするリーダーが組織に影響を与えるとしたら、それは事業拡大のフェーズの終了とともに、おそらく離職率が高くなる形で影響する。個々のプレイヤーが有能であることを背景とした組織での生産性など、よほど斬新な新規性がない限りたがかしれている。

ただ、そのような横暴は、本来圧倒的な結果か、金銭的賃金がないと成り立たない構造のはずなのに、最近はいろいろなところで散見される。単純な搾取以下の能力不足によるものであるわけですが、本当にいろいろなところに存在しています。

こういうゆがみは使う側の人間からするととてもありがたいし、起業する側からするとチャンスです。不当な対価でも、相手が納得了承すればその対価で相手の人生を拘束し生産性をささげさせることができるのですから。

裏をかえせば、使われる側人が気を付けておけばよかったりする。でもそれが難しい。自分に適切な自身がない人は自分がどれだけ優秀な人間なのかということをきちんと理解することができません。過去に具体的にその人に対して「あなたはできる人である」と切々と説き、長い時間をともにしたことがありましたが、その時は改善につながらなかったように思います。現在その人とは連絡を取ることもできていません。

はたして、雇用する側と雇用される側のそういう不均衡は、なかなかどうにもならない。「自由」ですから、となる。本質的な部分は、結局人間個人個人が持つ能力や特性による差ということになりますので、自由にふるまえば自然と差が開くので、それを問題視するのもなんだか変なのですが、そこの違和感を持つこともなく、「自由」が欲しいという人は多いです。

いつか、すべての人にとっての「自由」これを解決できるひが来ると良いと思っています。

そういうストレッサーな人のあれこれを何とかする人がいる

話を戻しますが、ストレス満載な人でも、企業や組織の真ん中に収まれるのはなぜかというはなしですが、そういう振りまいたストレスや、不具合が放置されたままだとすぐに組織や企業は行き詰まって、崩壊してしまいます。

では、じゃあなぜそういう組織がすぐになくなってしまわないのかというと、やっぱりそれをどこかしらで支えている人がいるからです。しかもそれが管理職とは限らず、末端のヒラでだったりします。というか、組織上層部がそのような問題を適切認識できない場合には、役職手当なしでそのあたりの仕事をしている場合がほとんどです。

じゃあそんな企業やめてしまえ、といわれるかもしれませんが、なぜか皆さん辞めずにしごとされています。そのモチベーションは、顧客に対する責任感だったりいろいろです。

しかし、その責任感が上と共有されていない個人依存の因子である以上、そしてそういう人がいなくなるとその組織は、いとも簡単にあっさり終わったり斜陽するので、やっぱり持続可能性をどのようにデザインするかということはとても大切だなあと思います。

人を対象にした事業ほどそうであると思われます。

平社員同士で黙って有能な仕事をしてくれる人へ、嫉妬ではなく、ただ感謝を

ここが一番大切なポイントです。

その組織を何とかしてくれている、人が、見抜けない人のほうが多いと思います。

ですから、すべての仕事仲間に感謝を持つのが一番良い解決方法だろうなと思います。

そうするためには、「嫉妬」は少し邪魔な感情になります。

できる人への嫉妬は、自分の頑張りの原動力にする以外は、手放してしまうほうが得策です。

嫉妬で転落する自分の人生 瓦解する組織

他人の足を引っ張るほうに使った瞬間から、人生の転落が始まります。

嫉妬自体は、手塚治虫もよくしていたといいますし、才能の有無とは関係ありません。

才能があろうと嫉妬することから無縁でいられない人はたくさんいます。

だから、嫉妬が悪い、という発想をする必要はないです。

嫉妬の感情エネルギーをコントロールすることができないで、適当に発散してしまうことは悪いことです。

黙って仕事をしてくれる優秀な人の存在がいなくなると、前述の通りの組織であれば、割と速い速度で崩壊します。

あなたの居場所を守ってくれているのは、あなたが嫉妬対象にしているその人である可能性が高いです。

どのような組織に属するかで、収入の具合が変わる現代社会においてはこの意味するところは大きいはずなのですが、このことがわからないままに学生時代のノリをそのままに働く人は多いのが実情かもしれません。

優秀で転職可能なはずのその人がその職場で働き続けることへのモチベーションは?

そもそもそういう人がなんでその組織に残っているのか、きちんと疑問に思ったことはあるでしょうか。

もちろん、そこには、仕事へのやりがいがあるかもしれません。

あるいは、その人自身がその組織そのものに恩義を感じているからというのがあるからかもしれません。

しかし、自分が知り合った有能で黙って仕事をしている人のほとんどすべては、それよりも顧客に対する責任感であったり、自分がいなくなったあとでどういう事態が発生するかということが容易に想像できるからでした。

大体、そうなんでは、ないでしょうか。とくに、医療福祉介護系は、やりがいというか楽しさよりも責任感みたいなもので仕事を回していることが多いかもしれません。そのようなものは何の経済的利益も生みませんが、とにかく生き様の問題になってきますので、そういう生き様を自分の意志で選択したいとおもって継続している方が多いように個人的には思います。

だってその人は、その職場じゃなくても結果を出すことが可能な程度には優秀なわけです。ストレッサーが多いならば、その職場にとどまる理由はありません。

むしろ優秀なんだから、少子社会であれば、転職すれば給料も待遇も上がるのに、そこに踏みとどまってるのはなぜでしょうか。それは、その人が優しいからか、その組織から離れられないような何らかの弱みがあるか、はたまたはその人はストレッサーに対して特に何も感じていないしそもそもが優秀だからまわりが思うほどに、頑張っているつもりもないかの、どれかなのではないでしょうか。

一番最後の人材足りえるほど優秀なひとは、正直そういう気質がないだけで能力的には起業なども十分に可能な力があると思います。なので、もし、いよいよ、となったら我慢せずに自分が自由を感じられるようにいきられる場所を探すか、どんな場所でも自分がうまくやっていけるように環境を最適化するのだと思います。

帳尻合わせをしてくれる優秀な人が組織を離れることは大部分の人にとってデメリットしかないという認識を組織に属するすべての人が共有を一つにするべき

「なんかよくわからないけどすごい人」っていませんか。

そういう人を自分の物差しで測って「なんでそういうことをするのか」といらだつことってありますよね。

でもそういう人が組織からいなくなったら、企業競争力が激減するんでしょう。

だから、そうですね。

そういう思考の次元が高い人を自分の枠組みでとらえることには何のメリットもありません。干渉せず自由にさせ、アウトプットの期限だけ区切って、適宜周知と報告をしてもらえばそれで充分として、あとは自由に帳尻あわせにいそしんでもらうことが大切なようです。

いちプレイヤーとして

嫉妬を手放して、ただ、一緒にいて仕事をしてもらえることに感謝したい。

そういうことができるかどうかも、正直人としての器を図りうる大きな尺度の一つだとおもうからです。

ただ感謝を。

そして腐らず、自分は自分にできることを、ひたすらに。

そうしてるうちに、雰囲気や空気はいくらでも変わるから。

2022年10月3日時点でぼんやり見る日本のアフターコロナ

個人的現状確認。

日本の余力はあまりない

COVID-19は、日本社会の余力を多いにそぎ落とした。

教育質の低下、若手教員の離脱、不足、寄せ集め

まず、人材育成の点で、教育機会を低下させたため、今後社会人になる人材は社会人となって求められる能力水準とのギャップにこれまで以上に苦労する可能性があるため各自対策が必要となるが、具体的な施策がどの程度打たれているかは報告が待たれるところである。

教育の方法を抜本的に変更するだけで、解決する問題はたくさんあるが、教育人材が抜本変更に耐久性がないため、進まない。

こうして既存の教育が惰性で継続されていく一方で、社会はとてつもないスピードで回るためそこから振り落とさる、人が増える可能性がある。

教育を変えられるのに、変えなかった人の罪は重いと個人的にはおもう。一方で、教育の世界に実力主義を持ち込むことの難しさは、そのうち資本主義とICTによる淘汰によって自然と消滅するのであろうけれども、そうした人たちが感じるむなしさを想うとやりきれない気持ちにもなる。

学校教育の質よりは、各家庭の教育力そのものが大いに影響する世の中になるのは間違いない。学校教育で教えきれる情報量には限界がある。そのことを前提にした教育がこれからの時代には必要になる。

少ないリソースで、すべての人をなるべく満足させることができる、より多くを生み出すにはどうするべきか?という問題解決に挑める人材を育てない教育に価値を見出すのは、ゆとりのない時代においてはなかなか難しい。

もともと、日本にはこのような傾向があった。そもそも少子高齢化社会といわれていた。

そして、確定的に少子高齢社会となった。若手から「知りません」といわれた瞬間にすべてが成り立たなくなる世の中の到来が少し早まった。そういう猶予がなくなった。

COVID-19は確実にこの傾向を強めたと、個人的には思われる。継承を悠長にやっている余力は確実になくなったと思われる。

その結果が、若手の離脱、そして、教育系の正規のルートを踏んでいない人材を教育登用するという施策に表れている。

財政問題のソフトランディングが極めて難しい問題に進化

もともと東日本大震災で、国の支出は増大している。今回のCOVID-19でやけくそのように支出を増やして、けた違いに支出が増大している。

新しいサービスを生み出すなどして、新しい経済が発生しない限り、先送りした財政問題は解決しないので、このままではおそらく、財政問題のソフトランディングは難しく、傷口を拡大しながら問題を先送りする、もしくは、現在の医療福祉サービスの維持はあきらめるフェーズがくることが予想される。

財政問題としては、単純に国が扱うことができるお金の力が低下するコトにある。

国が何かをカタチにする力を失うと、人は国にお金を払わなくなる。先人からの日本人に対する日本という国の一番の財産はあるいみ、日本人が国を信頼していることである。この信頼は、税金を払っておけばサービスをくれるという信頼である。その質に疑義はあれど、サービスが全く供給されなくなるとおもっている人はほとんどいない。今現在は。

しかし、財政問題がにっちもさっちもいかなくなった瞬間に、現在供給されているありとあらゆるサービスは停止される可能性が出現する。

その瞬間に、今とはレベルと質が違う意味で、「国は信頼を失う」

それは、国内からはもちろん国外からの信頼もであり、それによって、さらに日本円の価値が低下し、それによってさらに国にできないことが増える。

基本的にこのようなことにならにために、財政のソフトランディングが必要不可欠となるが、これが難しくなり続けている。基本的に、このような将来的な危機を見て見ぬふりすることでパニックになる可能性を低下させる選択を続けており、実際に一定の効果はある。そのために、全体として有効な手段はなく、危機感のある人が勝手にそれぞれ独自の「ノアの箱舟」を用意している。

そのワリを食うのは、いつだって、現在すでに困っているひと、なのに、ちょっと誠実さがなさすぎるのでは、と、社会全体に対して思う。

財政問題を無理に解決する方法

この度のCOVID-19対策の名目で、国庫から国債によって将来の償還を前提として放出されたコロナ対策費用は77兆円であり、これを返済する手段を検討する必要がある。有力な手段は、日本国円の価値を低下させることで、具体的には紙幣を大量流通させることで77兆円分のお金を印刷してそれによって返済することである。

国債の引き受け手に日本銀行がなりうるのであれば、日本銀行が印刷したお金を基に新規国債を購入、そのお金を使って既存国債を償還する、という流れになる可能性がある。

社会がこのような流れのストレスにさらされることが容易に予見されるのであれば、構成員である個人や企業はじめとした組織は、物価上昇及び、企業側は、従業員への賃金の上昇などへの備えを急ピッチで進めておかなければならない。

そのような焦りは、市中にはあまり見られず、実態と乖離があるかもしれない。とするならば、現在できることは、各自で先読みして、家計の財務基盤を多面化するなど備えておくことくらいである。あとは気が付いている人で連帯しておくことなど。ただし、この辺りは新しい弱者はめ込みビジネスの温床ともなりそうである。

財政問題と連動して、間違いなく、医療介護福祉サービスは一時的に低下

また、医療職や介護職は多くの場合その収益や賃金の前提となるお金の流通に国の仕組みが関係している。国が点数あたりの支払いを増やすなどしない限り、実質的な収入源に耐えきれなくなった職員が他業種に流出する未来も十分に考えられる。

逆に、国債返済はじめとした財政健全化目的で、医療福祉関連の支出を減らそうとする場合、いよいよ離職転職入職者減少によるサービス事業者の減少は免れない。

そのようにならないために、財政問題はソフトランディングしなければならないフェーズにあるはずにもかかわらず、国民の間できちんとした議論になっていないのが現状である。

とすると、医療介護福祉も人から別の手段に労働力が置き換えられる、もしくは、サービス事業者主体が事業そのものを消失させることを選択するかもしれない。

そうなると、施設系よりも訪問系の需要はますます高まると思われるが、それも自費で払える顧客を対象とすることが基本となるかもしれない。

このような問題意識は、あまり社会で共有されていない。しかし、日本に残されている余力は有効に使わなければ、本質的な問題は解決しない。

増税、社会保障費の値上げ

さて、新規性や投資的取り組み、挑戦的野心的政治家の出現がないのなら、つまり惰性でクリエイティビティの低い政治が今後も継続するのであれば、今後間違いなく行われるであろうことは、増税と、社会保障費の値上げとなる。そうすれば、消費マインドは冷え込む。歴史は繰り返す。

自衛手段としては、そんな中でも消費してもらえる商品を開発することがとても大切になる。

人材育ってる?

さて、そういう商品開発や実現につながるような人間を教育できるような教育を、今の教育制度が十分に行えているだろうか。いろいろな要素がつながり循環しているが、そのことをシステム論的に扱える政治家を日本人が選択しない限りにおいて抜本的改善はありえず、時点の個人防衛や地域コミュニティの開発などを地域行政と一緒に進めていくよりほかになさそうである。

プレジデントの投稿記事の4つ目の選択肢

高齢者医療において「死は全力で回避すべきもの」と捉える限りは、コロナ禍は終わらず、現役世代の生活も苦しくなる一方だろう。国民の総意として、高齢者の肺炎死を「自然の摂理」と捉え、「延命より、安らかな最後」と解釈することが、「コロナ禍の終結」ひいては「社会保障費の健全化」への一歩となるのではないだろうか。

https://president.jp/articles/-/62145

これがなかなか難しい。

手放せない。

手放して帰れるひとは、帰る方が幸せになるような気がする。

まとめ

自分で決めて、自分で考えて、自分で対処を打っておくこと。

自分で決めて、自分で考えて、自分で対処を打っておくこと。

自分で決めて、自分で考えて、自分で対処を打っておくこと。

自分で決めて、自分で考えて、自分で対処を打っておくこと。

でもそうしながらも、しっかりと

周りの人と話し合って連携をとっておくこと。

どう生きたいかは自分で考えるが、責任は自分でとるが、他人をないがしろにしないこと。