どこの業界も一部のできる人が帳尻を合わせている

優秀な人ってある日突然いなくなるんですよね。本当に。毎回びっくりします。

まとめ

できる人がなんとかしてくれていることは、認識されないことが多い

その人がいなくなったとき、すべてが終わる

ただ、感謝を。

以下、そうならないためにとても大事なこと

前提 各自、自分自身が「できない側」と認めること

本来、これだけで文章が無限に書ける。

なので、ただ端的に。

自分自身が、仕事ができないと認めることができない人は多い。

そしてもうひとつ、出来ないと認めることができる人は強い。認めるひとは次々成長して次にいく。

できない人は、その場にたたずみ続ける。

眺めることしかできないで、その状況も理解でいないで「できる側の人」へ嫉妬する。ひどくなると攻撃する。顧客目線から見るとたまったものではない話。

でも現実としてそのような構図はあり続ける。

根本的解決としては、攻撃的ひとが、自分自身のできなさを含めて、自分自身をキチンと愛する方法を知ることにしかない。そのためにも偽りなく、出来なさを認める。これが大事。

管理職が本来やるべき仕事の話

それができない場合は、出来なさが認められるように管理者が、業務デザインできる能力が必要。組織に人間を合わせるのではなく、人間に合わせて組織をリデザインできる能力が本来は必要。

本題としての、帳尻合わせてくれる優秀な人が組織から出て行ってしまう要因

「できない人」が、直接顧客サービスに影響しない部分でローカルルールに依存してしまっていること。

だから、どこでもやっていける優秀な人は、そこじゃなくてもいいからどこかに行ってしまう。

そうして取り残された組織では、「人が定着しない」や「人が足りない」の怨嗟が渦巻く。その要因は、明らかに残された側にあるのに、そしてそのことを自覚しているからこそ、何かのせいにして自分を守る。だから成長もしない。

当然人は定着しない。少子高齢時代には、このような既存のやり方は詰むのですが、どの組織もそこまでの危機感を持っているようには感じません。

本来は10~20年後を見通したリクルートなどが重要になるのですが、取り組んでいる企業がどれくらいあるのか・・・。

大体のことはできる人が黙って何とかしてくれている

できないことをできないと認める人が多くてもそれなりに回る。

それはなぜかというと、出来る人がいるから。

できる人が、素早く正確にできることを、こなしてくれるから何とかなる。

参考:https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/2210/02/news054.html

横暴な人にはできる人を見繕い換装可能にする能力がある

よくある、ブラック企業の社長などが典型的な人物像。

人を自分の道具としてみなして、苛烈なストレスを与えているのに企業にひとが従属して働いているのはなぜか?と考えたことはありますでしょうか。

人が離れていくほどのストレスを振りまきながらも、事業や組織の中心にいる人には、アウトプットに必要な要素をそろえたり全体の絵図を整える力がある。

もちろんどんな経営者やリーダーであっても、どれほど自分自身が、優秀なところからスタートしていたとしても、ありとあらゆる場面ですべてを自分で何とかできるわけではない。

もし、口うるさいだけで、過剰な要求をするリーダーが組織に影響を与えるとしたら、それは事業拡大のフェーズの終了とともに、おそらく離職率が高くなる形で影響する。個々のプレイヤーが有能であることを背景とした組織での生産性など、よほど斬新な新規性がない限りたがかしれている。

ただ、そのような横暴は、本来圧倒的な結果か、金銭的賃金がないと成り立たない構造のはずなのに、最近はいろいろなところで散見される。単純な搾取以下の能力不足によるものであるわけですが、本当にいろいろなところに存在しています。

こういうゆがみは使う側の人間からするととてもありがたいし、起業する側からするとチャンスです。不当な対価でも、相手が納得了承すればその対価で相手の人生を拘束し生産性をささげさせることができるのですから。

裏をかえせば、使われる側人が気を付けておけばよかったりする。でもそれが難しい。自分に適切な自身がない人は自分がどれだけ優秀な人間なのかということをきちんと理解することができません。過去に具体的にその人に対して「あなたはできる人である」と切々と説き、長い時間をともにしたことがありましたが、その時は改善につながらなかったように思います。現在その人とは連絡を取ることもできていません。

はたして、雇用する側と雇用される側のそういう不均衡は、なかなかどうにもならない。「自由」ですから、となる。本質的な部分は、結局人間個人個人が持つ能力や特性による差ということになりますので、自由にふるまえば自然と差が開くので、それを問題視するのもなんだか変なのですが、そこの違和感を持つこともなく、「自由」が欲しいという人は多いです。

いつか、すべての人にとっての「自由」これを解決できるひが来ると良いと思っています。

そういうストレッサーな人のあれこれを何とかする人がいる

話を戻しますが、ストレス満載な人でも、企業や組織の真ん中に収まれるのはなぜかというはなしですが、そういう振りまいたストレスや、不具合が放置されたままだとすぐに組織や企業は行き詰まって、崩壊してしまいます。

では、じゃあなぜそういう組織がすぐになくなってしまわないのかというと、やっぱりそれをどこかしらで支えている人がいるからです。しかもそれが管理職とは限らず、末端のヒラでだったりします。というか、組織上層部がそのような問題を適切認識できない場合には、役職手当なしでそのあたりの仕事をしている場合がほとんどです。

じゃあそんな企業やめてしまえ、といわれるかもしれませんが、なぜか皆さん辞めずにしごとされています。そのモチベーションは、顧客に対する責任感だったりいろいろです。

しかし、その責任感が上と共有されていない個人依存の因子である以上、そしてそういう人がいなくなるとその組織は、いとも簡単にあっさり終わったり斜陽するので、やっぱり持続可能性をどのようにデザインするかということはとても大切だなあと思います。

人を対象にした事業ほどそうであると思われます。

平社員同士で黙って有能な仕事をしてくれる人へ、嫉妬ではなく、ただ感謝を

ここが一番大切なポイントです。

その組織を何とかしてくれている、人が、見抜けない人のほうが多いと思います。

ですから、すべての仕事仲間に感謝を持つのが一番良い解決方法だろうなと思います。

そうするためには、「嫉妬」は少し邪魔な感情になります。

できる人への嫉妬は、自分の頑張りの原動力にする以外は、手放してしまうほうが得策です。

嫉妬で転落する自分の人生 瓦解する組織

他人の足を引っ張るほうに使った瞬間から、人生の転落が始まります。

嫉妬自体は、手塚治虫もよくしていたといいますし、才能の有無とは関係ありません。

才能があろうと嫉妬することから無縁でいられない人はたくさんいます。

だから、嫉妬が悪い、という発想をする必要はないです。

嫉妬の感情エネルギーをコントロールすることができないで、適当に発散してしまうことは悪いことです。

黙って仕事をしてくれる優秀な人の存在がいなくなると、前述の通りの組織であれば、割と速い速度で崩壊します。

あなたの居場所を守ってくれているのは、あなたが嫉妬対象にしているその人である可能性が高いです。

どのような組織に属するかで、収入の具合が変わる現代社会においてはこの意味するところは大きいはずなのですが、このことがわからないままに学生時代のノリをそのままに働く人は多いのが実情かもしれません。

優秀で転職可能なはずのその人がその職場で働き続けることへのモチベーションは?

そもそもそういう人がなんでその組織に残っているのか、きちんと疑問に思ったことはあるでしょうか。

もちろん、そこには、仕事へのやりがいがあるかもしれません。

あるいは、その人自身がその組織そのものに恩義を感じているからというのがあるからかもしれません。

しかし、自分が知り合った有能で黙って仕事をしている人のほとんどすべては、それよりも顧客に対する責任感であったり、自分がいなくなったあとでどういう事態が発生するかということが容易に想像できるからでした。

大体、そうなんでは、ないでしょうか。とくに、医療福祉介護系は、やりがいというか楽しさよりも責任感みたいなもので仕事を回していることが多いかもしれません。そのようなものは何の経済的利益も生みませんが、とにかく生き様の問題になってきますので、そういう生き様を自分の意志で選択したいとおもって継続している方が多いように個人的には思います。

だってその人は、その職場じゃなくても結果を出すことが可能な程度には優秀なわけです。ストレッサーが多いならば、その職場にとどまる理由はありません。

むしろ優秀なんだから、少子社会であれば、転職すれば給料も待遇も上がるのに、そこに踏みとどまってるのはなぜでしょうか。それは、その人が優しいからか、その組織から離れられないような何らかの弱みがあるか、はたまたはその人はストレッサーに対して特に何も感じていないしそもそもが優秀だからまわりが思うほどに、頑張っているつもりもないかの、どれかなのではないでしょうか。

一番最後の人材足りえるほど優秀なひとは、正直そういう気質がないだけで能力的には起業なども十分に可能な力があると思います。なので、もし、いよいよ、となったら我慢せずに自分が自由を感じられるようにいきられる場所を探すか、どんな場所でも自分がうまくやっていけるように環境を最適化するのだと思います。

帳尻合わせをしてくれる優秀な人が組織を離れることは大部分の人にとってデメリットしかないという認識を組織に属するすべての人が共有を一つにするべき

「なんかよくわからないけどすごい人」っていませんか。

そういう人を自分の物差しで測って「なんでそういうことをするのか」といらだつことってありますよね。

でもそういう人が組織からいなくなったら、企業競争力が激減するんでしょう。

だから、そうですね。

そういう思考の次元が高い人を自分の枠組みでとらえることには何のメリットもありません。干渉せず自由にさせ、アウトプットの期限だけ区切って、適宜周知と報告をしてもらえばそれで充分として、あとは自由に帳尻あわせにいそしんでもらうことが大切なようです。

いちプレイヤーとして

嫉妬を手放して、ただ、一緒にいて仕事をしてもらえることに感謝したい。

そういうことができるかどうかも、正直人としての器を図りうる大きな尺度の一つだとおもうからです。

ただ感謝を。

そして腐らず、自分は自分にできることを、ひたすらに。

そうしてるうちに、雰囲気や空気はいくらでも変わるから。

2022年10月3日時点でぼんやり見る日本のアフターコロナ

個人的現状確認。

日本の余力はあまりない

COVID-19は、日本社会の余力を多いにそぎ落とした。

教育質の低下、若手教員の離脱、不足、寄せ集め

まず、人材育成の点で、教育機会を低下させたため、今後社会人になる人材は社会人となって求められる能力水準とのギャップにこれまで以上に苦労する可能性があるため各自対策が必要となるが、具体的な施策がどの程度打たれているかは報告が待たれるところである。

教育の方法を抜本的に変更するだけで、解決する問題はたくさんあるが、教育人材が抜本変更に耐久性がないため、進まない。

こうして既存の教育が惰性で継続されていく一方で、社会はとてつもないスピードで回るためそこから振り落とさる、人が増える可能性がある。

教育を変えられるのに、変えなかった人の罪は重いと個人的にはおもう。一方で、教育の世界に実力主義を持ち込むことの難しさは、そのうち資本主義とICTによる淘汰によって自然と消滅するのであろうけれども、そうした人たちが感じるむなしさを想うとやりきれない気持ちにもなる。

学校教育の質よりは、各家庭の教育力そのものが大いに影響する世の中になるのは間違いない。学校教育で教えきれる情報量には限界がある。そのことを前提にした教育がこれからの時代には必要になる。

少ないリソースで、すべての人をなるべく満足させることができる、より多くを生み出すにはどうするべきか?という問題解決に挑める人材を育てない教育に価値を見出すのは、ゆとりのない時代においてはなかなか難しい。

もともと、日本にはこのような傾向があった。そもそも少子高齢化社会といわれていた。

そして、確定的に少子高齢社会となった。若手から「知りません」といわれた瞬間にすべてが成り立たなくなる世の中の到来が少し早まった。そういう猶予がなくなった。

COVID-19は確実にこの傾向を強めたと、個人的には思われる。継承を悠長にやっている余力は確実になくなったと思われる。

その結果が、若手の離脱、そして、教育系の正規のルートを踏んでいない人材を教育登用するという施策に表れている。

財政問題のソフトランディングが極めて難しい問題に進化

もともと東日本大震災で、国の支出は増大している。今回のCOVID-19でやけくそのように支出を増やして、けた違いに支出が増大している。

新しいサービスを生み出すなどして、新しい経済が発生しない限り、先送りした財政問題は解決しないので、このままではおそらく、財政問題のソフトランディングは難しく、傷口を拡大しながら問題を先送りする、もしくは、現在の医療福祉サービスの維持はあきらめるフェーズがくることが予想される。

財政問題としては、単純に国が扱うことができるお金の力が低下するコトにある。

国が何かをカタチにする力を失うと、人は国にお金を払わなくなる。先人からの日本人に対する日本という国の一番の財産はあるいみ、日本人が国を信頼していることである。この信頼は、税金を払っておけばサービスをくれるという信頼である。その質に疑義はあれど、サービスが全く供給されなくなるとおもっている人はほとんどいない。今現在は。

しかし、財政問題がにっちもさっちもいかなくなった瞬間に、現在供給されているありとあらゆるサービスは停止される可能性が出現する。

その瞬間に、今とはレベルと質が違う意味で、「国は信頼を失う」

それは、国内からはもちろん国外からの信頼もであり、それによって、さらに日本円の価値が低下し、それによってさらに国にできないことが増える。

基本的にこのようなことにならにために、財政のソフトランディングが必要不可欠となるが、これが難しくなり続けている。基本的に、このような将来的な危機を見て見ぬふりすることでパニックになる可能性を低下させる選択を続けており、実際に一定の効果はある。そのために、全体として有効な手段はなく、危機感のある人が勝手にそれぞれ独自の「ノアの箱舟」を用意している。

そのワリを食うのは、いつだって、現在すでに困っているひと、なのに、ちょっと誠実さがなさすぎるのでは、と、社会全体に対して思う。

財政問題を無理に解決する方法

この度のCOVID-19対策の名目で、国庫から国債によって将来の償還を前提として放出されたコロナ対策費用は77兆円であり、これを返済する手段を検討する必要がある。有力な手段は、日本国円の価値を低下させることで、具体的には紙幣を大量流通させることで77兆円分のお金を印刷してそれによって返済することである。

国債の引き受け手に日本銀行がなりうるのであれば、日本銀行が印刷したお金を基に新規国債を購入、そのお金を使って既存国債を償還する、という流れになる可能性がある。

社会がこのような流れのストレスにさらされることが容易に予見されるのであれば、構成員である個人や企業はじめとした組織は、物価上昇及び、企業側は、従業員への賃金の上昇などへの備えを急ピッチで進めておかなければならない。

そのような焦りは、市中にはあまり見られず、実態と乖離があるかもしれない。とするならば、現在できることは、各自で先読みして、家計の財務基盤を多面化するなど備えておくことくらいである。あとは気が付いている人で連帯しておくことなど。ただし、この辺りは新しい弱者はめ込みビジネスの温床ともなりそうである。

財政問題と連動して、間違いなく、医療介護福祉サービスは一時的に低下

また、医療職や介護職は多くの場合その収益や賃金の前提となるお金の流通に国の仕組みが関係している。国が点数あたりの支払いを増やすなどしない限り、実質的な収入源に耐えきれなくなった職員が他業種に流出する未来も十分に考えられる。

逆に、国債返済はじめとした財政健全化目的で、医療福祉関連の支出を減らそうとする場合、いよいよ離職転職入職者減少によるサービス事業者の減少は免れない。

そのようにならないために、財政問題はソフトランディングしなければならないフェーズにあるはずにもかかわらず、国民の間できちんとした議論になっていないのが現状である。

とすると、医療介護福祉も人から別の手段に労働力が置き換えられる、もしくは、サービス事業者主体が事業そのものを消失させることを選択するかもしれない。

そうなると、施設系よりも訪問系の需要はますます高まると思われるが、それも自費で払える顧客を対象とすることが基本となるかもしれない。

このような問題意識は、あまり社会で共有されていない。しかし、日本に残されている余力は有効に使わなければ、本質的な問題は解決しない。

増税、社会保障費の値上げ

さて、新規性や投資的取り組み、挑戦的野心的政治家の出現がないのなら、つまり惰性でクリエイティビティの低い政治が今後も継続するのであれば、今後間違いなく行われるであろうことは、増税と、社会保障費の値上げとなる。そうすれば、消費マインドは冷え込む。歴史は繰り返す。

自衛手段としては、そんな中でも消費してもらえる商品を開発することがとても大切になる。

人材育ってる?

さて、そういう商品開発や実現につながるような人間を教育できるような教育を、今の教育制度が十分に行えているだろうか。いろいろな要素がつながり循環しているが、そのことをシステム論的に扱える政治家を日本人が選択しない限りにおいて抜本的改善はありえず、時点の個人防衛や地域コミュニティの開発などを地域行政と一緒に進めていくよりほかになさそうである。

プレジデントの投稿記事の4つ目の選択肢

高齢者医療において「死は全力で回避すべきもの」と捉える限りは、コロナ禍は終わらず、現役世代の生活も苦しくなる一方だろう。国民の総意として、高齢者の肺炎死を「自然の摂理」と捉え、「延命より、安らかな最後」と解釈することが、「コロナ禍の終結」ひいては「社会保障費の健全化」への一歩となるのではないだろうか。

https://president.jp/articles/-/62145

これがなかなか難しい。

手放せない。

手放して帰れるひとは、帰る方が幸せになるような気がする。

まとめ

自分で決めて、自分で考えて、自分で対処を打っておくこと。

自分で決めて、自分で考えて、自分で対処を打っておくこと。

自分で決めて、自分で考えて、自分で対処を打っておくこと。

自分で決めて、自分で考えて、自分で対処を打っておくこと。

でもそうしながらも、しっかりと

周りの人と話し合って連携をとっておくこと。

どう生きたいかは自分で考えるが、責任は自分でとるが、他人をないがしろにしないこと。

幸せって何か?

本日は、作業療法士中堅になってしまったひろえもん現時点での「幸せ論」について。

幸せとは笑顔で万歳したくなる状態だったり。

「幸せ」という言葉を定義する必要性

「幸せ」という言葉の持つ意味や、イメージを明確に意識することが必要不可欠。もしも、その意味を明確に意識していないと、その揺らぎにつけこむ形での、弱者はめ込みビジネスの犠牲になりかねない。

意識していれば、環境や時代背景によらず、周囲がどうであれ、自分で自分を「幸せ」に持っていくことができる。

前提1:「心地よさの認知」

自分が素敵だ、いいな、素晴らしい、こうありたい、など、「心地よさ」が存在するコト

前提2:「関連の認知」

「心地よさ」と自分が関係している状態。それを認識できる状態。

前提3:「自分の行動への認知」

自分の行動は、自分の意志で起こすことができること自覚し、心地よさと現在の自分の立ち位置を絶えず捉えながら心地よさを強める方向で、行動を起こすことができる力。

幸せになる在り方

前提を踏まえたうえで自分の味方を自分ですること。

具体的には、自分の「心地良さ」を自分にとって都合よく、現実とくっつけたり切り離したりしながら、自分が納得する方法で「心地よさ」を実現するコト。

まとめ

幸せは、自分で決めるもの。

ほかの誰も、あなたの幸せのカタチなど知らない。

阿波踊りにて、正直にコロナ感染を報告する人々

が誇らしい。です。

なぜか。

それが「真の未来志向」と感じるからです。

阿波おどりで800人超が新型コロナ感染 「マスクなしで踊る参加者も」

徳島市では、阿波おどりが先月11日の前夜祭から5日間にわたり、3年ぶりに屋外の演舞場に観客を入れて開催されました。

 実行委員会が123の団体を対象にアンケートしたところ、86の団体から回答があり、参加者3425人のうち約4分の1にあたる819人が11日から2週間の間に新型コロナウイルスに感染していたことが分かりました。

 実行委員会は「今年の結果を受け、来年に向け前向きに課題を検討していきたい」とコメントしています。

徳島市の阿波おどり 踊り手など800人余がコロナ感染

すごいのはコロナ禍で市民ベースのお祭り騒ぎをきちんとやり切ったこと

いつまでも、開催しないことは簡単で、どこも自粛をこれまでしてきました。

しかし、後から批判されるリスクをとってでも、人生に祭りは必要だということで開催しやり切ったことは素晴らしいと思います。

すばらしいのは、きちんと追跡調査をしていること

お祭りが確実にCOVID-19の感染拡大に寄与することは、これまでの新型コロナウィルスの特徴を踏まえると明らかです。

ということで、きちんと調査をすればそれなりの数の感染者数の増加傾向が表われるのは火を見るより明らかです。

それでもきちんと、祭りが終わってからも、都合の悪いデータ傾向が表れることがわかっていながら責任としての追跡調査を行っていることは素晴らしいことだな、と思いました。

感染者数よりも、死亡率と病床圧迫への影響度を明らかにしてほしい

感染者数にはそれなりのインパクトがあるため、注目を集めるためには公表もやむなしと思います。その一方で、、重要なのはそこからの重症化率と、病院の病床がどのように稼働が変化したかということではないでしょうか。

とても極端な話、踊り手が感染したのみで、その他に影響がないならば、別に800人感染し、治癒すれば全く問題ないといえます。

感染状況によって、死者数が増えたのか、それとも増えてはいたけれども市民にとって大切なお祭りが影響しているのかどうか、影響しているのなら今後の開催方法の工夫によってその影響をおさえこむことができるのか、など、きちんと分析を行う必要があると考えます。

影響度如何による場合分け。

なんとなくやってみると

社会インフラなどに対して、とても影響があった場合

社会に及ぼす悪影響があまりに強いのであれば、やはり制限には一定の正当性が発生するのではないでしょうか。

ほとんど影響がなかった

ありとあらゆる制限は、費用対効果がわるいので、すべての制限をなくしてしまいましょう、ということになるかもしれない。

影響はあったが、どの程度影響したかわからない

この場合が、一番いろいろなものごとがなあなあになってしまうのだと思いますが、それでも「まえむきに」という言葉にも見て取れるとおり、おそらく、そのような状況になったときには開催に向けて最大限努力することになるのではないでしょうか。

そのように思います。

まとめ

真の未来志向とは望みに向かってリスクを取り、説明責任をはたすことです。

今回徳島県の皆さんは、見事に阿波踊りを開催し、そのあとにも責任を持とうとする姿勢を保たれています。

このようなある程度の規模の大きさの社会実験の性質を持つイベントにおいては、正直に申告してくれる人の存在がとても重要なものになることは言うまでもありません。

それは、今後のコロナ前提社会をどのようにコントロールして、社会的なイベントを行っていくのかについて、大変に大きな貢献をすることになると思います。

暑いとか、眠たいとか、しんどいとか

書き散らしです。

直感的なもの?って

感覚や感性、即時的なもの。

ここから、どのようなパターンが想起されるかがその人らしさなんだろうなと。

たとえば、起床直後

起きた、という感覚から、次に何を得るか。

寝る前の記憶?

眠たい、という感覚?

周囲の光量?

空腹感?

気温?

これからやらなければならないこと?

これらの中身には直感的でその場限りの感覚としての情報と、寝る前からの連続性に基づく内的な情報保持に由来するものがある。

直感的なものは

まぶしい、暑い、空腹、ねむたい、などなど。

感覚由来の認知機能

「〇〇だから~しよう(したい)」の構文で描かれるこの認知は、幸福感の成り立ちにとてもたいせつなものだと思う。

他者とは独立した、自分自身という存在の在り方を記述し、把握するもので、自己認識や自己愛の基盤となる。衝動に近く、意欲の根本で、すべての活動の根拠となりうる枠組み。

「熱いから窓をあけよう」

「おなかがすいたから、ご飯を食べよう。」

のみならず

「晴れてる、うれしい」

など、結局どのような人生を送ってきたかという文脈に類するものに属する価値観であっても割と直感に近い部分の因果関係の認知がこれにあたると思う。

感情で、物事を評価するときの自分自身の重みづけについて自覚的になることができる。

外的指標ではなく、自分自身にとっての重要度、内的指標を獲得するうえで非常に重要。

構造化された認知機能

「~しなきゃ」や「~することになってる」「~するのがあたりまえ」という感覚や感性は生存確率を高めたり、日々の生活のコストを低下させて、生き残りの可能性を上げるうえで役に立つ。

「朝がきたから起きなきゃ(その後、予定があることを知覚しているから)」

「顔を洗わなきゃ(身だしなみが整っていることが他者への配慮として当然であるとみなされるコミュニティーの中の一員として自分がふるまうことを自分に期待している故)」

「仕事にいかなきゃ(社会的存在として、雇用契約を全うし、給与をえることが自分の社会的存在としての存立に不可欠であり、そうすることを周囲から期待されているという感覚の知覚ゆえ)」

ともすると、自分自身の生来からの感覚とは切り離してしまいがち、というか、切り離すことで楽をしてしまいがち。

構造化が行き過ぎると自分を見失う

「おいしいものをたべておいしいと感じたら、おいしいと言葉にしてみる」という単純なコストを払わないと、別に自分でなくてもよいという感覚は実感を帯びて立ち現れてくる。

ことに、資本主義社会×情報社会によって、各種人材も互換性を高め、経営リスクを低下させるためにこの人でなければ回らないという仕事を消すことが普通になっている。顧客利益を最大化するためには当然の措置。

そうすると、別に自分でなくても、できる仕事を自分はなんでおこなっているのだろうかやりたくもないのに、という問いが立ち現れてくる。

その問いから逃げると、自分が自分の敵になる。

その構造から逃れるもっとも単純な方法は、自分の存在を社会的あるいは生物学的に抹消することである。

ひきこもりの方や周囲の環境の劣悪さによらない孤独感のようなものが影響することでの自死にはこのような構造がある、ことがある。

「うまくやる」ことだけに焦点化しすぎて、「じぶんはこう感じる」が埋没していき、リンクが薄くなって「じぶんはこう感じる」を表に出すと「うまくいかなくなる」から、「自分はこう感じる」を出せなくなる、という構造。

そこまで徹底すれば、別に自分が存在する価値はないと感じても、不思議はない。

どんなに幸福感をえられる環境であっても関係ない。本人の内的な幸福感のセンサーがうまく働かなくなっている以上、理屈で幸福であるということがわかってても感覚で実感できない、セロトニンが出ない。

肯定感も出ない。ドーパミンで興奮しても、持続はせず、自分自身の存在定義があいまいになる。日々の情報量に押し流されて、「うまくやろう」とすればするほど「自分じしんってどんなかたちだああったかけ」と崩壊していく感じ。

そこまで徹底できる人はまれかもしれないが、確実に存在する。

それゆえに、やはり、表面上は「ちゃんとしている」から、わかる人にしかわからない。

その人たちの一部が鬱病になったり、離人症にカテゴライズされているのかもしれないと思ったりはする。

自分の存在のヨスガにできる、感覚や、それに基づく自分自身のためにする何かが不足していたり、その部分と他者の利益の交わるところをうまく探せなかったり、そうなると社会やわかりやすい何かに自分の行動原理を求めるしかなくなるという構造は大いにあり得ると思う。

自分自身を見失っていることを自覚するためには、自分自身を意識する必要がある、という矛盾のような何かが、悪循環の歯止めを難しくする。

解決するには、仲間が必要

悪循環に自分ひとりで気が付けるのには、割と根性なり認知機能がいるように思われる。途中で力尽きたり、悪循環の果てまで行きついてしまうこともあるかもしれない。

自分自身を意識できる方法としては、自分で自分を意識する以外にも、人と交わることで他者と自己という存在を言語的に定義して区別したり、そもそも、ひとの言葉によって自己を強制的に認識することがある。

「しゅみはなんですか?」

という何の気ない問いかけに即答できる人は、普段から自分のことを自分で応対しているひとだと思うし、悩むひとはおそらく自分のことを直視する機会が乏しいか、意図的にそれを避けている。

他者の存在があれば、そうした問いかけから自分自身に対して自分が敬意を払えていないという現実をとらえることが、一人の時よりもはるかにしやすい。

他人の存在は大事だし、特に、自分に対して害意を向けることのない、仲間というのは大事。

別に寂しさを感じにくい人にとっては、友達は必要ないけれど、仲間は必要だと思うのです。そのような理由から。必須です。

自衛的措置

とはいえ、すぐに仲間なんて、と思う方はやっぱり、朝起きた直後に自分がどんなことを考えているのか、これからの人生どうしたいと夜考えたとして、朝にそれがどれだけ連続したものとして自分自身の認識に反映されているかということを、意識してみるのが良いのではないでしょうか、とおもいます。

逆説的ですが、そうして、自分の感情をしっていくことに誠実になればそのうちに勝手に仲間ができてくと思います。感情回路がうまく回るようになるので。

などと、おもいます。

参考と蛇足とまとめ

友達をつくると人間強度が下がるという人もいます。フィクションですが。

人間強度って、仲間がいない方がさがりますよきっと。

多数派に巻き込まれて、自分の意見が言えない、流れについていこうとするあまり無難になってしまって自分が何もできないときがある、など、そういうのは、個人の課題であって仲間云々は関係ないともおもっておりますちなみに。

物語の進展前の前振りで、人間強度が下がるといってた上記人物は、人間関係に悩みつつ自己犠牲でいろいろ解決しつつ、友達がたくさんできます。フィクションです。

直感や感覚を誘発する言語には説得力が宿ります。それらを構造的に積み上げて、事実感を作り上げる手法は、西尾維新ならでは、勉強になります。

それはそうとして、言語すら不要の自分の感覚にもう少し鋭敏になったほうが、人類は幸せなのではなかろうかという書き散らしでした。

「助長」という言葉が本来の意味から遠ざかる。そんな現象から垣間見える、社会的集団としての人が使える言葉の複雑さの限界について

つまり、

言いたいことはひとつです。

まとめ

シンプルかつ率直でないと人は受け取らないし、つかわない。 

以上

以下当たり前のことしか書いてません。いわゆる自分の感動を自分で消化するための自己満足になります。

「助長」ということばの意味、ご存じですか?

助長、なんてことばしらねーよ、という方はブラウザバックしてググってください。

ご存じの方。

助長という言葉は、「助けのばすこと」「強化すること」という意味で使われますね?

ですよね?

え?えええ?

いやいや、ちがう、ちがう、そうじゃ、そうじゃない~??

違うそうじゃない

っていう方へ。

現在は少数派になってしまったあなたへ。

問いかけます。

ズバリ。

本当に日常生活で”そういう意味”、つまり、「もともとの意味」でこの言葉をつかうことがありますか?

あまり、ないですよね

意味は、そう、たしかにその通り。

もともとの意味は「有難迷惑」「過ぎたるは猶及ばざるが如し」「得意になってだれかのためにとやることは、実は逆効果だったりしません?しますよね?笑」etc…

非常に、強力な皮肉表現だったのですよね?

それがいったいなんで、どうしてこんなことになってしまったのでしょうか。

いつしか、全く反対の意味になってしまい、そちらが市民権を得ている。

不思議でなりません。

が、この現象にこそ、社会に起こりうる変化を知り、それを踏まえて生きていくためのヒントがたくさんあるように思います。

「助長」とこの社会を生きている、僕たち私たち

昨日のことのように思い出します。

あれは小学3年生のある日のことでした。

助長という言葉の意味が本来の意味から変わってしまったことを、小学生の国語の教科書からまなんで、へぇ、となったことを。(今の教科書がどうか知らんでございます。

その時には、「文字と違う意味とかナンセンス(現代語訳)」という感想しか持ちえませんでした。

助けると長い、なので、「助けて長くするのが普通じゃあないか」、そう思ったわけです。

それを「わざわざ、言葉の見た目と反対の意味で用いるなんて」「どうかしているわ」、そうおもったのです。

その感覚、感性って、そんなにおかしなものでしょうか。

そんなことはないでしょう。

むしろ、普通だと思います。

あれから、数十年。

今日(最初の執筆日時)、改めて「助長」という言葉と出会ったとき、びっくりしました。

そのときひろえもんに電流走る。

唐突に、理解しました。

「ああ、これは集団としての人が用いることができる言葉の意味性の限界をしめしていることばなんだ」と唐突に理解してしまいました。

何を言ってるのかわからねえと思うが、ワタシにはわかりました。

・・・・

いやいやまってください、逃げないでください。

ちゃんと説明しますから。

ひろえもん、わけのわからない表現をつかわず、に、率直にいうと、冒頭のようになります。

今の助長という言葉の意味

読んで字のごとくで、シンプルです。

グーグル先生に聞くと、シンプルに以下の回答があります。

字面が、本来内包していた、ナラティブから切り離されてしまって、ただの2文字になってしまった結果といえます。

もともとの助長という言葉の意味

上でも述べた通りに強力な皮肉表現です。

単純にグーグル先生に聞いても答えてくれませんが、下記の通りわきまえて聞けば、本来の意味を教えてくださいます。グーグル先生に感謝を。

さっきと比べて、もうめんどくさい、情報量が多い。

小学生にはなかなか理解できないものを、あえて小学生のうちに紹介するは、チャレンジングで嫌いではありません。

言葉には、その言葉が生まれるエピソードやナラティブがあるんだよ、実は、ということを伝えるいい言葉だなあと、最近は特に思う様になりました。

故事成語というやつです。

つまり、ことばは情報量を圧縮するものであって、その象徴であり、その前提となる情報の到達点として音声としての情報量が圧縮された言葉となる、ということです。

「にんげんってこういうもんだよね」「わかるわかる」という、時代を超えた共感、ウィットのようなものがあり、それを理解できることは、ある側面での人間の心理や真理をとらえることに役立つでしょう。

皮肉を以て、時代を超えた人間の普遍性を慈しむ。

何とも素敵だと思いませんか。

本当は反対の意味なのにね

「伸ばすつもりが枯らした」が、「のびるようにたすける」になるのは草。((笑)的な意味で。(笑)→大草原不可避には逆の知的センスを感じてこれまた別の勉強になるのでそれはまた別のお話)

歴史をたどれば、助長という言葉は、本来であれば、「よく考えて実行しようね?」という意味合いだったのに、人間が考えることを放棄する過程をよく表しているようです。

インテリばっかりが使っていた言葉が、なぜか一般化したのだろうと推測するのですが、その詳細については、あんまりきちんと調べようとしませんで、今日まで来ております。まあ当たらずとも遠からずでしょう。

物語り→端的な言葉 という抽象化

ところで、現在の意味での助長ということばに、旧来の意味の故事成語としての助長が駆逐された背景には、以下のような点があると考えられています。

1 小学生が習う簡単な漢字の組み合わせ

2 二文字の漢字がそれぞれシンプルな意味を持っていること

3 2文字から簡単なストーリーが想像できること

4 故事成語という成り立ちからそれが間違っていることを理解するには、故事成語の成り立ちとなる話を一般的な教養として当たり前のものとして理解できることが必要であこと

5 故事成語をお互いが知ってることが当たり前となるのが当然という特殊な知的水準を前提とする人間集団の形成は、意図してそのような人間集団を形成するより成立するはずもなく、翻って、話し手と利き手のどちらかがその水準になく故事成語的な意味で誤った運用をされることも少なくないこと

6 人間は承認欲求から、無駄にいちいち正しさをひけらかすと、社会的にめんどくさい存在であると認知されることを特殊な知的水準の人たちは察知しているため、相手がまちがっていたとしても、コストを合理的に考えるといちいち訂正しないこと

7 訂正が入らないことは、正しいことの証左であると理解することが通常の人間の枠組みであり、わざわざ自分の発言がいちいち間違っているか正しいかなどを後々思い出したり、統計を取ったり比較検討したりすることなどありえず、言ったら言いっぱなしになるのが普通である、と思ってわざわざ研鑽するひとは少ないこと。

8 めんどくせえ、シンプルいずベストぉ!!

すごくないですか?

エピソードありきで成立した言葉を、使用コミュニティが変化して、数が多いのが正義になり、意味をオーバーライドしてしまったのでしょう。

まさに「助長」。知的であろうとした結果、そうでもないという、なんと強烈な皮肉。これはつらい。でも、上記6は極めて重要なポイントなので、その皮肉はことさら言葉にして突き付けられることもなく時間の流れに流されて本人には認識の機会すら与えられず。ただし、そうこうしているうちに、世間が保証する正しさは真逆になってしまったという。これも皮肉ですね。

皮肉だらけですごいです。

このように、「助長」というこの短いことばには、語りつくせないほどに、理解とコストの関係性、共通言語としての言葉の特性など、さまざまな示唆を含みまくっており、嚙めば無限のあじわいがする言葉だと思っています。

人間なんとなく、知的であること賢いことが良いことであると思っていながら、そうはなりたくないという人間の絶妙さを非常に軽妙な表現でとらえることに成功していることばが「助長」ということばであるとおもっています。

とても人間社会の民主主義のうまくいかなさの縮図を詰め込んだような現象があって、味わい深いなあなんて気が付いて、衝撃的過ぎてめまいすら覚える今日この頃です。

人間社会の分断

さて、タイトルで述べたような、統計的に操作していない人間の集団一般的な人間の集団においては、上記の8.の特性が非常に強力に現れ、それが行き過ぎたときに「人間には知性がひつようだったのだ・・・」となるのが、人間と戦争の歴史、あるいは人間と社会福祉の歴史だと思っています。

喉元過ぎれば熱さを忘れるともよく言ったもので、人間はよく、本来の制度設計の趣旨をわすれて面倒くさがったり、できないことや不遇を何かのせいにして心理的に解決します。あのブドウは酸っぱいというウソップ物語の有名な狐さんも、本質的な問題解決から逃げているともいえるし、挑み続けて結局手に入らないというリスクから自らをとおざけることに成功しているともいえます。

状況を把握し、コントロールできるのは、偶然か、はたまたセンスか、圧倒的情報量に裏打ちされた確率を背景とした正確性か。

最近では、正確性が過剰に注目されるきらいがありますが、要するにこれも、上記の8の面倒くさがりの人間の特性によるものなのだと思います。

そうした人間の営為の積み重ねという連続性の中から、差が生まれ、その一つである資本主義社会における持つものと持たざる者の本質は、理を介して行動する者とそうでない者あるいはその背景となる認知機能の総量だと思います。

試行回数が増えれば、理を味方にしている方に、富が収束するのは自明ですよね。

故事成語の意味での「助長」という言葉、「行動は効果的にしないと、何のリターンもないどころか、損失を拡大するばかりである」という経営上の示唆も含みます。こうした示唆や世界の広がりを棄却して「助けのばす!」とだけいうのも、ステイふーりっしゅな感じがしてタートルネックとジーパンで世界をかえる感じがして、まさに、8という感じ。

その間を行ったり来たりできるように、グラデーションが本来必要で、行ったり来たりできないひとにはできる人が配慮すりゃいいのだよね、という話でもあると思います。

そして、そのグラデーションを学び取るのに、助長という言葉が本来持つ残酷さが長い年月をへてさび付いてなまくらとなって使われててもなお、わかるひとにはわかる残酷さをたたえつつ、世の中のいろいろな場面で分かってない人に使われ続けるのはすごい皮肉だなとおもうのですし、それを感じ取れるひとそうでない人を分かつものはどうしようもなく確かに存在するし、それらもまた愛おしく、それを気軽に飛び越えられる存在でありたいし、故事成語としての助長ではなく、今の意味での助長を自他にできる自分であれるように、そういうめんどくささを自分に課せる存在でありたいとねがってやみません。

はい、まんぞくしました。

書いて満足する。

言って満足する。

使ってみてしっくり来たらそれでいいじゃない。

そうして多くの人のこころを満足させるような言葉の在り方もまた、上等なものなのではないでしょうか。

そして、人間だれしもが話せばわかるという幻想にとらわれず、あるがまま、お互いの理解を尊重して認め合うことが「助長」ということばから学べる本質的なところなのではと思うのです。

めっちゃいいこと言ってますね。あはは。

これもまた「助長」

OTwiki.orgのMediawikiバージョンを1.36にバージョンアップしました。

少し前から、サーバのPHPバージョンとかmariaSQLのバージョンアップはしたりしてたんですけれでも、バックアップとったりとか、ファイルを細々動かしたりする必要があるのですこし時間がかかりました。

トータルの作業時間で見れば二時間程度なのですけれども、マニュアルを確認したりしながら慎重にやると時間がかかりますね。

コマンドライン上でファイルの圧縮解凍移動のコマンドをこれだけ頻回にぽちぽちしたのも最近あまりなかったので、ちょっとあたまがこんがらがって

mvコマンドのつもりで

rmをうって実行してしまうという比較的やべえやらかしをしてしまいました。

対象がフォルダだったので実効性がなくてことなきを得たんですが、しっかりとはっきりと頭を働かせて作業しないとヒューマンエラーは起きるということですね!勉強になりますね!(きっとまたやる)

ということで、見た目やらサービス上は特に変わったところございませんけれども、これで対応した機能もあるということなので、これから色々とまたいじっていこうと思います。

ちなみにバージョンアップの方法は、

https://www.mediawiki.org/wiki/Manual:Upgrading/ja

と、公式サイトを普通に参考にして更新しました。

前回インストールしたときには、VPSサービスのインストール支援機能を存分に活用させていただいたのですが、バージョンアップに当たってはそういうわけにもいかないので、必要なものをコピーしたり動かしたりしてせっせと準備をするのが、性に合ってなかったです。

無事に終わってほっとしております。

ではでは。

矛盾の解決に必要な次元の概念の導入の難しさ

情報を増やすという矛盾解決方法

論理の矛盾を解決法に、次元を導入する方法があります。

溺れるAさんを目の前にして、Bさんが何もしなかったとしたら、Bさんは罪に問われます。(不作為)

一方で、Bさんも、溺れていたりした時には、罪に問われることはありません。助ける余裕がないからです。

Aさんの状態という情報にたいして、Bさんがその時どうだったかという情報を付与することで、Bさんは罪に問われないわけです。

一見すると当たり前のようでいて、これは状況によってというか、前提が変われば、同じ行為をしていたとしても、評価が変わりうるという意味での矛盾が発生するわけです。

それが、矛盾と感じられないのは、Bさん自身の状態がAさんを助けることができるかどうかに大きく影響する、という感覚が前提として私たちに備わっているからと言えます。

べつの言い方をすると、これは、情報の量を増やしてやることで、分けて考えることができるということですね。

とりあえず、そういう方法があるということを認識しておくことが大切です。

なぜなら、それによって前提条件を確認することの大切さに常に思いを馳せることができるからです。

馬の顔を蹴った騎手

先に述べたように、大きな世界で矛盾することであったとしても、条件がつけばアリになることはあるのですね。

そのことを踏まえて下記の話を読んでみていただきたいのです。

競馬の話です。レースに関連して、ある騎手が、馬の顔を思い切り蹴飛ばしました。

そして、その行為について「動物虐待だ!」と非難が起こり、一部で炎上が発生しました。

さて、何もないのに馬の顔を蹴飛ばしたら、それは確かに動物虐待かもしれません。しかし、前述のように、この話を読み解くには前提となる知識が必要でした。

この馬は、砂地に顔を突っ込んでおり、窒息死や肺の中に砂を取り込んでしまい後遺症が心配される状況で一刻も早く、顔を砂地から出すことが必要であったのです。

このような情報が前提にあったとして、馬の顔を蹴った騎手の判断を、これを読んでいるあなたはどのように感じるでしょうか。

さて、なお、騎手の方に対する監督者の反応は、

市ばんえい振興課は「いかなる理由であれ認められない」として、同騎手は戒告処分。

ということです。

つまり、矛盾です。

馬が深刻な後遺症を抱えるかも知れなかった深刻な状況から馬を救出したはずの騎手が、なぜか逆に処罰されるという矛盾した状況が発生していると言えるわけですね。

この矛盾の問題を解決するには、きちんと前提条件として、命が優先される場合には、どんな手段を用いても命を救う行為を優先することにしましょう、ということが共有されていることが必要だったと言えるわけです。

感情的になると前提条件が抜け落ちる

さて、動物の顔を蹴るという一部分だけを抜き出して、そこに怒りを覚えてしまうと、それが救命の手段であったという前提条件に、自ら気づいて目を向けることは大変難しくなります。

感情的になると、善悪の判断は容易に変わってしまうことになります。

情報量が善悪の判断を本質的に左右する

ただし、善悪の判断が変わることの本質は感情的になることにあるのではありません。

その本質は、脳内に取り込んで処理する情報の量とその関連付けに左右されます。

感情的になると、扱える情報量が下がるから、判定が変わるのですね。

つまり、感情的でなくても、扱える情報量が少ない場合には、安定した信頼性の高い判断ができないということになります。

脳内で扱える情報量は一朝一夕には増えない

一方で、成長段階の人ならまだしも、情報処理能力、つまり人が単位時間あたりに脳内で扱うことができる情報量が、急激に増えることはあまり考えられません。

これは、善悪の判断を安定させることが難しい人が世の中にどうしても一定数いるということの根拠になりえます。状況や前提が、不変であることは、自由度がますます高まる現代社会においてはありえないからです。

変わり続ける前提条件や価値観を常に取り入れて、自分の中の判断材料をアップデートさせることでしか、安定し信頼性の高い判断を下すことはできません。

そのために必要最低限の情報処理能力が不足している場合には、善悪の判断も安定して行うことが難しいと考えられます。

判定や判断が困難で、矛盾や問題解決が難しい人が指導的立場になり得る社会

現代日本社会においては、ある組織のマネジメントは、その組織のマネージャーが優秀かどうかによって決定されます。

上記の競馬の管理者のように状況の整理が下手だと、保身ないし見通しの悪さによって、本来動物の命を救うという行為をした人が罰せられるという後味のわるい結果となってしまうこともあります。

こういう例はマネージャーが優秀ではない例といえます。

つまり、こういう人でも管理者に居座ってしまう可能性があるのが、現代日本社会であるといえます。

そして、その上の管理者がしっかりしていないと、全体的に滞ることになるわけですね。

学歴や年数以外の本質的なものを前提にしないとうまくいかない

上記までの話として、矛盾や問題は、次元を導入すると解決できること。その次元というのは、情報量が増えるということ。増えた情報量がうまく扱えるかどうかというのは、感情的かどうかということよりもそもそもの単位時間あたりの情報処理能力に左右されることに言及してきました。

それをふまえると、業務量やその複雑さが、すくなかったり簡単だったりすると、必要となる情報処理能力は少ないし、その逆であればどんどん問題を解決したり、まとめたり、仕組みをつくったり、判断を下したりということが必要になるわけですね。

そして、その能力というのは、学歴や年数が保証してくれるものではないのですね。

相関はするかもしれませんが、それによって検証が必要なくなるというものでもないわけです。

しかしその検証をやりきらない

しっかりと、状況証拠を集めることと、必要な投資を得るためにアクションを起こすことが大切なのはいうまでもありませんが。

まずは、しっかりと情報処理能力と業務量と質のバランスの関係について評価できるようになることが、大切と思われます。

作業療法の枠組みにとどまらず、現実社会においても普遍的な内容とおもわれます。

さもなければ、上記の騎手のように正直者が本来評価されるべき事柄で、批判者の声が大きかったり、面倒ごとを避けようとするモチベーションの結果として、全く逆の評価評定をうけるという不正義が罷り通る、温床を黙認することにつながります。

そういう状況が日本社会においては、顧客利益のために非情になりきれない日本の組織においては身内可愛さのためにありがちです。

きちんと検証し切って、判断や裁定をくだせるように、自分自身の判断力とメンタルを研磨しておくことが必要でしょう。

守りに入りすぎて、逆に状況を悪化させる人は、検証をすることをあえてさけているうちに、そもそもの検証能力が鈍ってきている人が多いです。

論理は淡々と扱う

本来たすけるべき相手を見誤らないこと、顧客利益を主たる目的に据え、中長期的視点でそこに合致しない判断や判定をする比率を下げるべく、淡々と組織を整理整頓することが大切ですし、そのために必要な前提となる情報を十分に自分の中に取り入れる学びを止めず、その結果当然導かれる答えがすでに存在する社会規範と矛盾することはよくある話です。

その時には、本来の顧客は誰なのかという大前提を、周知確認徹底すること、その組織の存在意義となっている根本の論理をしっかりと踏まえて理論武装することが大切になります。

また、そのための状況証拠を論理に基づいて淡々と収集することも大切です。

論理の骨格に感情の皮を被せていくと過剰になる

「騎手の監督者は、最低だ、命よりも自分の保身のことにしか興味がない。悲しくなる、人として恥ずかしいとおもわないのか。」

と、正論を背景として、そこに「人として」などのように感情論を纏わせて過剰に追い詰める人もいます。

個人的にはやりすぎだと思いますし、そのような言い方をされる相手も、感情的に防御反応をとるので、前提条件を十分に踏まえた論理的思考をとることが困難になります。

組織としての生産性は間違いなく低下しますので、感情に配慮するなら

「世間の批判から、馬と騎手を守ろうとしたのは立派だと思います」などのように相手を認めるところから入るがセオリーですよね。

矛盾解決は前提条件や例外で処理する

矛盾解決は、実は、難しいことはひとつもありません。私たちは普段から、矛盾解決をしています。

たとえば。

「常に、命は平等」、という建前がありますが、それが本当なら、よく美談として扱われる「自分の命を犠牲にして子供の命を守る親」などの感動系物語のテンプレートは、成立しません。立腹の対象です。命は平等なのに、誰かを犠牲にして誰かが助かるなんてまちがっていると立腹するべきです。

「親が自分の命を犠牲にしてでも、自分の子供を守ろうとするのは尊い」

という無意識の価値観は、「命は皆平等」という概念とは論理的には矛盾しないとおかしいのです。

しかし、ハリウッド映画の感動系の物語のプロットとして自己犠牲はつきものですよね。おかしいですね。という、構造論にはいやいやでも納得される人も多いのではと思います。

人間の認知は、じつは無意識的に「わたしだけはちがう」などのように自分に都合の良いように前提条件を買ってにつくって矛盾解決をする仕組みが備わっています。

上記の例では、「自ら進んで次世代や大切な人のために犠牲になる精神素晴らしい」という価値観があり、その前では「命は皆平等」という価値観は軽視される傾向にあるということですね。このように重み付けを無意識で行い条件分岐をすることで、矛盾を回避しているわけです。

私たち人間は、そのような認知を無意識・自動で行うことで、日常生活におけるストレスの量を下げるわけですね。

「人間いつ死ぬかわからない」が論理的に正しいとしつつも、「でもわたしはちがう」と無意識下で無根拠に例外処理をすることで、論理矛盾を解決するわけです。

ここが無意識なのが、差別問題などにも直結するのですが、それは別の機会に譲ります。

難しいのは矛盾解決の論理構造を意識下でつかいこなすこと

必要なものは

・感情のコントロール

・論理的思考

・そのための材料となる情報を十分に収集する能力

・上記を検証するメタ思考能力

これが全部行える人材は少ないと思われます。

またできないひとができるようになるには、相当な意識と努力が必要な場合も。それを全ての人に強いることはできないので、難しいとは言えます。

明日からできたら良いのは、自分で判断しようとすること

難しいからと思考を止めると、最初の騎手さんのような悲劇が起こり続けます。

そうならないためには、何ができるでしょうか。

優秀な人がマネージャーに収まる方向に物事を動かしていくことが大切です。

一つ前の項で述べたような素質を備えている人が、マネージャーとして腕が振るいやすいように空気感を整えることと、自分にとって都合が良いかではなく組織としての価値観に合致しているかどうかの文脈において善良かどうかを判定して、支持不支持を明確にすることができることは必要ですね。

OTwikiをリメイクしました。ゼロからのスタートです。(約3ヶ月前から)

長年放置していた、OTwikiですが、皆さんに利用してもらいたい気軽に追記してもらいたいと、フリーでリライトできるようにしていたら、文章のクオリティが酷いことになっていました。

この際なので、書くべき内容も明確にして作業療法に関係する人にも関係のない人にも使いやすくてメリットの大きい百科事典にしたいと思いました。

そしてそのためにはどうするべきかを考えました。

結論はゼロからの再スタート

その結果出した答えは、

「全て一旦リセット」

でした。

ので、記事の内容はすべて消しました。自分以外の方が編集してくださっている部分については忍びないので残そうと思いまして、そのような部分がないかどうかについて記録を調べて、保存をしています。

そのような部分については、移行できればと考えています。

目指すのは品質の高い記事

文字通りゼロからの再スタートなので、全ての記事は引き継いでいません。飾りなく、20時間くらいトータルでかけた記事も全て消しました。

記事を書くことで新たに整理されることもたくさんあると気づきました。

大切なのは、情報を常にアップデートすることです。

その点からも、中途半端なクオリティの記事に固執するのではなく、一度きれいさっぱりと消してしまうのが良いと思いました。

その代わり、リライトする記事は、全て以前の記事よりもクオリティが高いものにしたいと思います。

どのような質の高さを目指すのか改めて、言葉にして残しておこうと思います。

作業の力とメリットを全ての人が使えるようにする

読めば誰でも作業療法のエッセンスが使えるようにしたいと思います。

一年目の新人でも。

在宅で介護をしている人でも。

老人保健施設等、高齢者向けサービスを提供する施設でのレクリエーションを必要とする介護士の方にも。

そして、リハビリテーションを必要とする方自身にとっても。

もちろん作業療法士自身にとっても。

とにもかくにも、「全ての人の役に立つ」「全人類に貢献する」をモットーにします。

作業療法士だろうと、そうでないひとだろうと、喜んでもらえるような百科辞典にしていきたいと思います。

全ての人類が利用できるを目標に、作業療法のメリットを全ての人が感じられるような記事の作成を目指していきたいと思います。

OTwikiにできること

改めて、OTwikiにできることをご紹介させていただきます。

閲覧

全ての人にご覧になっていただけます。

誰でもどこでも、必要な時にお好きな端末から、必要な情報を調べることができます。

ぜひご活用ください。(とはいえ、ゼロスタートなので今現在は記事がありません。ぜひ記事編集にご協力いただければと思います。)

記事編集

全ての人が編集できるようにしています。

ただし、アカウントの作成とログインにご協力をいただくことにしています。なぜなら、スパム、広告による記事の汚染を防ぐためです。ご理解とご協力を何卒よろしくお願いいたします。

議論

記事を編集する中で、意見の対立が発生した場合は議論しながらより良い更新を模索することができます。

編集方針

OTwikiの記事の一つとして書いています。

どんどん追記していく予定です。

その他

Google Adsense(広告)を導入させていただいております。

仕事をクビになって、サイトを継続することができなくなるリスクがこの先絶対にないとは言えないと感じたためです。コロナショックで。

ご理解、ご了承、よろしくお願いいたします。

【成功例?】昨年実習指導させてもらったOTSからの貴重な意見も含めた、実習指導についての個人的ノウハウのまとめ

備忘録です。今後とも、いち作業療法士として実習生を指導させていただく機会があるので、OTSを指導する側のOTRとして言語化を試みます。

作業療法士の側に、確かな臨床技術と、「しょうがないやるかあ」くらいの最低限のモチベーションがあれば可能な方法だと思います。

まえがき

本当はちゃんと論文にして発表すればいいんでしょうけれど、面倒くさいのでネットでいいやと思いました。

ただし、自分なりに誠実に書いてます。

実習での体験はおそらく、実習生のその後の人生を大きく左右します。自分の一挙手一動が、実習生の考え方になんらかの影響を与えます。そのへんは、いち作業療法士として妥協してはいけないところだと思います。

実習生指導に死ぬほど悩んだ去年までの自分と、今回も悩むであろう今年の自分と、どうせこまることになる将来の自分と、悩みを同じくするみなさまへ、参考になりますようにという祈りを込めました。

特にコロナな日々で、なんでも密にならないように、負担が軽くなるようにという方向で物事がすすんでいくようですので、そのあたりも踏まえて実習指導していければいいなとおもっています。

筆者背景

ここに書いていくのは、もうおわかりのとおり、あくまで個人的体験談に基づく情報でn=1ですから、大したエビデンスにもなりません。

しかし、私の個人的な背景については多少説明が必要と思います。

作業療法.netの中の人、ぼくhiroemon。サラリーマンといいますか、一応組織に属して働いておりまして。いろんな案件が、天から降ってきます。

すると、時に実習生OTS指導のお鉢がまわってくるのであります。

近しい同僚には、こっそり申し上げるところなんですが、「正直、学生の実習ができるような人間ではない。」と生来の自分自身については評価を下します。

ですが、組織人の辛いところは、向いているいないにかかわらず好む、好まざるにかかわらず、実習指導をしないといけない時がくるのでございます。

なにより、学生は実習担当OTRを選べません。かわいそうに。私なんかのもとに回されて、という感じです。

本当に、日々作業療法士の卵たる、学生さん相手に一生懸命教育しようと試みる先生方には本当に頭が下がる思いです。学生時代の自分みたいな学生が来たら本当に困るなあと思うので、私に教育は無理と自負しております。無理というか。

「何がなんでも、教えてやりたいというモチベーションが低い」というのが正しいでしょうか。

ですが、一応、本人にやる気がある学生にはとことん報いてあげたいし、そうすることでOTSの成長が加速すればそれはやがて、その人が関わる患者様が高い質のサービスを提供されることにつながるし、ひいては作業療法自体の全体の質の向上につながると思っています。

作業療法士が、OTS実習生指導で特に困る状況の一般論

じゃあ、実習で作業療法士と学生とが、どんなことに困るのかということを考えて対処法も考えておけば、ある程度スムーズにこなせるのでは無いかと考えました。

上記のような感じで作業療法士として働くうちに実習生を指導する機会に恵まれることがあります。

作業療法士側が好む好まざるにかかわらず、です。

学生もいろんなひとが実習にきます。

実習をとおして成長したい人もいます。そうかと思えば、カリキュラムで仕方なくっていう人もいます。

特に、「できることなら、実習にはいきたくないけれど、合格、卒業はしたい。」という矛盾した感情図のOTSの指導はじつに大変ですね。いまの教育システム上、卒業には実習合格が必須です。

本人に実習での成長のモチベーションが全くなくて、かつ不合格を恐れて「失敗したくない」が先に立つから動けない、何か言えば言うほど、引き出そうとこちらが関わるほどに萎縮してしまうタイプの学生さん。

一般論として、作業療法士が実習場面でOTS指導する時にこまるのはこの手の学生さんだと思います。

決して素行不良というわけでも、不真面目と言うわけでもないけれど、エネルギー低めで挑戦が苦手で、動きが悪く、指導されたことを忘れがちで、処理できない課題も溜まりがち。

そういう人には指導する側の期待と要求との間のギャップでフラストレーション溜まりがち。

そういう構造が、作業療法士とOTSの間で、お互いこまるんだろうなあ、という仮定のもと、うまくいく方法を模索して、去年実践し、その結果がちゃんと出て、後のち本人に聞き取りもさせてもらえたので、一事例として報告します。

指導法は、いつでもだれでもどんな領域でもOTRがOTSの指導に使える方法が良い

細かい条件が変わるとできない指導方法なんて正直臨床しながら取り組むのは無理ですし、そのせいで発生したOTR側のストレスがOTSにいくとナンセンスです。

ですから、実習生のタイプによって指導法を変えるとかそんなめんどくさいことはできないので、指導法はだれにでも使えるものでなければならないとおもいました。

今回備忘録として残すやり方は、実際去年と今年と、その前とで実習指導のやり方は自分の中では、一貫させてますし、学生から特にそれで困るということも聞かないので、それでいいのだと思います。なによりちゃんと結果が出てます。結果については後述します。

そもそも論として、やる気が全くないOTS実習生を早めに評価、特定する

作業療法士って真面目なひとが多いので、なんともできないこともなんとかしたいと祈りがちです。

しかし、作業療法士が実習指導のモチベーションをへし折られないためには、「全くやる気がないOTS実習生の指導はしない、諦める」の線引きが大事かなと思います。実習という、目の前に貢献すべき患者様がいるような状況にもかかわらず、まったくやる気を示せない人がOTRになっても将来の患者様が困るだけなので、冷静にバッサリやるべきです。

このやる気がないというのは、本人のメリットになる要素への改善を要求に対し、改善の動きが全くみられないことです。全くみられないというのは、文字通りゼロです。改善の要求は極めて具体的でなければなりません。しかも、本人の最大努力の1〜2割くらいの力でできるものである必要があると思います。要するに割と簡単にできることを、全くやらないのであれば、やる気がないとみなすという簡単な理屈です。

我慢して最低でも2週間は様子を見たいですが、それでも上記の条件で指示を出して、行動変化が現れてこないOTSは、作業療法士に向いていません。さっさと実習中止にして、学校に送り返します。

なんとかしたいと願っても、作業療法士が臨床の場でそのような学生を相手にするのは、相当の教育的知識技術が必要です。いち作業療法士には正直臨床やりながらの二足は相当難易度高いです。

改めて、実習生OTSの実習に向けてのやる気の有無の確認方法です。

詳しくは、後述する「改善のやり方」について、きっちりと具体的に実習生OTSに説明をしておきます。マニュアルとして手渡します。いつでもその気があれば参照して、最悪、手続きで思考ゼロでもできるレベルで、動きが見られない時に「できない」という言い訳を封じるよう、「やらない」が明確となる形で渡します。

そうすれば、判別が非常に簡単になりますので、あとは説明マニュアル化した内容をを取り組む気があるかどうか、能力の有無の影響を極限まで減らした状態の課題を渡します。それでもなお、変化に向けた行動が全くできない場合には、やる気がないのだ、と判定します。とにかく、課題は実習生OTSにとって非常に簡単で「できない」のではなく「やらない、やっていないのだ」ということが明らかになるように構造化します。

いち作業療法士として、業務と並行して指導・育成できるOTS量には、どれだけ最低限の指導法でと言っても、限りがありますので指導不能の判断はしょうがないと思います。さすがにやる気ゼロの学生さんはやりようがないです。賛否あると思いますが、本当は臨床に費やすべき時間や労力をボランティアで策以上、コストパフォーマンスの良い学生に労力は温存しておくべきという考え方です。

学生の側としても、引導は実習終了ギリギリになって渡されるよりも早めのほうが納得できるのでは無いかと思います。

OTS実習生に改善の行動が見られるが、一切結果につながらない上に同じようなミスを繰り返す、学習に困難さを認める場合

作業療法士の側が何度言っても、同じミスは繰り返すわ結果にはつながらないわ、となると本人のやる気を疑うのは致し方ないと思います。が、上記のようにちゃんとやる気の有無は判別してあげるべきと思います。やる気はあってアクション起こすことができるけどうまくやるだけの学習スキルが乏しい場合もあります。やる気があるなら、実習はできるとみなします。

たとえ、実習指導側の作業療法士の言うことがうまく理解できず、誤解してしまい「わかりました」がそうでなく、同じ失敗を何度も繰り返し、根本的に解決に至れない枝葉の部分にとんでもなくたくさんの時間を費やしてしまうOTS実習生だったとしましょう。

だとしても、改善しようとして起こすアクションがあるならば、うまくできないだけでやる気はあるのだと判断して、やり方を教えるなどしてハードルを下げます。

決して、就職して使い物になるレベルまで育てることは、実習指導者の責務ではないと思います。本人に要求できる能力の量があまり多くないのに、あれもこれもと要求しても、OTS実習生の中には、おそらく何も積み重なりません。

実習を指導する作業療法士の側が要求ハードルを高いままにしてほうっておくと、実習生OTSはストレスが高い状況のままになってしまいますし、作業療法士のほうも無駄にイライラしてしまいます。

作業療法士は、そうした学習に困難さを抱えるOTSに対して多くを求めることは諦めましょう。どうせ、OTRの側にもともと大して教えるモチベーションは大きくなんてないんですから。それよりは、下記の大方針に基づいて各実習生の身の丈に応じた指導を行うべきと考えます。

大方針 背中で語って、学生に生じた疑問に答える時のみ、言葉で説明

やる気のある学生も、やる気のない学生もいます。

私のように、臨床に対するモチベーションと比べると比較的やる気のない作業療法士もいます。

では学生とOTRの一番の違いは何かというと、成長の方法と、その源となる「改善のやり方」について知っているということです。実習生OTSを指導する時に、作業療法士がやるべきことはただ一つです。それは、作業療法士になってからも、患者様にとって優秀な作業療法士という方向性に向かって成長するための「改善のやり方」とその哲学と方法について教えてあげることが一番だと思ってます。

ですが、本心といたしましては、恵まれるというよりもお鉢が回ってきたのでしゃあねえという感じです。あんまりモチベーション高くないので、ふだんから実習生さんが来た時のために準備をあれこれして備えるタイプじゃないんですよ、ごめんなさいね。

ですが、学生さんにおかれましては、どんな人間が実習指導につくかによってその後の人生が大きく変わってくるっていうのは正直あると思います。つまり、実習が自信を形成する土台となるかどうかによって、実習生やOTSであった人が、OTRとなったその後、作業療法を好きになって頑張れるかというところに大いに影響することは間違い無いと思います。

働く作業療法士のやってることをまずはそのままOTS実習生に見せる

指導する側の作業療法士がちゃんと働いていれば、それをみせるだけでよいのです。ぐだぐだと能書きを垂れる必要もありませんし、たれたところでうまくいきません。

経験の量に違いがあることを抜きにして、作業療法士がOTSにあれこれ説明してもどうせOTS実習生は消化できないからです。自分が普段やっていることを、そのまま見せるだけなら時間も手間も必要ありません。

これなら、身体障害、精神障害、老年期、発達、就労、行政、どこであっても関係ありません。作業療法士の側はちゃんと仕事をして、その仕事内容を見せるだけ。

この段階は、言葉がいらないので簡単だと思います。

実習指導作業療法士は自分の臨床を見せた後に質問があれば、背景とエビデンスを説明する

その後、実践に関して実習生OTSから質問があった時のみ、実践や介入、さらにはその背景について言語化したものを渡します。

とはいえ、指導する側の作業療法士の側としても、いつも考えてることだったりすでに知っていることだったり勉強済みのことを、聞かれた範囲で一問一答型で答えるだけなので簡単だし、簡潔です。

なおかつ、作業療法士側が説明することは、学生本人の興味関心気づき疑問をベースにしてすでに引っ掛かりがあるところの周辺についての情報なので、OTS本人の中に残りやすいのでコストパフォーマンスが良いのが最大の魅力です。実習指導で大切なのは、実習が終了したときに学生の中にどれだけの学びが残っているかで判定されるべきだと思うからです。

要するに普段の臨床の流れと同じ流れで実習指導するだけ → 簡単

実際問題エビデンスや根拠、確からしさに基づく作業療法は、普段から作業療法士ならみんなやっていますし、説明責任によって患者様相手に説明もします。そもそも、作業療法士は、今現在患者様に対して自分がやってる治療介入アプローチがどうしてそのようなものを選択しているか、なぜそれを選び取っているのかについての根拠に基づく臨床、評価介入を普段から仕事として実践しています。

ですから、あとは簡単で、実際にやって見せて、「なにか聞きたいことありますか」で、質問あれば答えるしなければそれで終わりです。作業療法士側はOTS実習生本人の質問、疑問が解決するように自分の意見を正解では無く一つの意見であることを明示した上で伝えます。もしも、質問がなければ、それ以上こちらから「質問はないのか」と問う必要もないと思います。

メリットは違いに、短時間、軽負担で実習指導が可能になる

この実習方法は、OTS実習生側に、臨床場面を五感を通して具体的に体験をしてもらいます。その体験を自分で言語化してもらうことで、OTS側の学習を効率化するのが狙いです。それが、本人疑問をもとにして説明する理由です。

実際、その方が、短時間で済みます。今時の潮流にも合致していてそのあたりの整合性も問題ありません。

やる気や能力のある人への個別フォローも十分可能

また、本人の興味関心モチベーションの高さ、技量能力に応じて量や密度を調整しながら本人に情報を渡すことが可能になるので、説明する側のOTRとしても、非常にやりやすいです。負担軽減が時代の流れとはいえ、やる気のある人の学習機会が奪われるのもかわいそうなので、その余地も残せるということでこのやり方が良いと思っています。

実習も臨床も長距離走であることを学生には伝える

ただし、大切なことは、学生に短期的なハイパフォーマンスをもとめてはいけないし、実際にそこは求めないことを言語化して伝えることです。

本人の疑問を主軸とした実習指導は実際やってみると、やる気やモチベーションを刺激しやすい手法ですが、その反面息切れを起こしてしまいかねないほどの頑張りを引き出してしまうこともあります。

本来実習とは、あくまで、今後の作業療法士人生を、OTS本人とその顧客である患者様にとって有利となるように行動できるその基礎づくりのための貴重な体験となるべきものが実習だと思います。

ですので、実習のパフォーマンスに全力投球して、振り返りの余力が残っていないようでは話になりません

そのことについては、実習の始めに言語化して伝えるようにしています。いくらその瞬間のパフォーマンスが高かろうと、積み重ねる余力が残っていなければ、長期的には、低いパフォーマンスを着実に積み重ねる人の長期的成長に必ず追い越される日がきます。

作業療法士が実習生OTSに実習中で指導のポイントにすべき3つのこと

すでに臨床経験がある作業療法士が実習中のOTSに実習指導をするうえで大切にするべきは、3つのポイントで説明できます。

①短期的パフォーマンスよりも長期的な成長が重要であることへの理解

②持続可能性な成長に必要な自発性とモチベーションを高める方法をつかませること

成長のサイクルの回し方についてやらせて体感させること

以上3つです。

①については、既に上記で述べたとおりで、積み重ね続けるほうが長期的なパフォーマンスは絶対に高いですので、着実に積み重ねることが大切と理解を促します。

②については、人から言われなくても自分で動き出せるようになるための方法をつかみましょうということで、そうするために必要な自己内省を求めます。

③については、本人の言葉でPDCAをやらせます。

めちゃくちゃ優秀なOTSの場合にのみ 完全アクティブラーンニング

要するに、本人の自律思考能力の強化の比重を極端に高めます。

即戦力育成モードとでもいいましょうか。

具体的には評価から、介入までのプロセスを完全に自己決定させます。

つまり指導者であるはずのOTRは、ほとんど説明指導しません。

何も教えない。

聞き役に徹する。

肯定と否定の代わりにこちらは、問いかけを投げ返す。方向性に関するヒントになりうる問いを投げ掛け続けるのみ。

不安定で曖昧な状況下のなかで、少しずつ曖昧さを仮定仮説に基づく実践によって取り除き、その結果さらに積み重ねた実践のみが教師という極めて実践的な内容です。

議論と反芻と推敲によってトライアンドエラーで車輪の再発明を行う感じです。

普段自分がやっている頭の中と行動原理を習熟してもらうことをイメージした内容です。

ですが、そもそもこれが実践できる大人って、そんなに多くないかなと思います。

能力云々ではなく、実践し続けることがしんどいからです。答えが明確になるかどうかわからない状況下で常自分を鼓舞し続けて取り組み続けるのは、自分自身との対話が欠かせません。

楽に生きることを肯定される世の中においては、なかなか難しいのではと思いますので、後輩にすらあまり勧めませんし、自分もメンタル落ちてる時にはしんどすぎてできません。

まして、自分の意思決定と指導者からのプレッシャーを混同しやすい実習という状況下においては、アクティブラーンニング的に勧めるには、学生が潰れないよう実習指導者側のOTRに相当な配慮が必要になると思います。

特に、学生が一人しかいない実習の時には精神的孤立感を深めてしまうリスクあると考えます。要注意です。

学生事例と結果

昨年までに受け持たせていただいたとある方ですが、上記までの方法で、実習指導を行いました。

見学実習と本人質問への回答から開始して、どの程度実習を進めるかは実習生OTSの自主性にまかせました。

たまたま、やる気と能力が非常に高い方でしたので、こちらが学生さんと関わらせていただく時間も質問量の増加や、質問の質の深さが増すに伴って自然と長くなりましたが、学生さんの主体性と能動性とモチベーションは比較的高く推移し続けたかと思います。必要以上に、こちらから与えないことは、教わる側の成長を促進することもあるなということを学びました。

教えたい欲求に任せて教えると、本来の意味で助長してしまう、かえって成長速度を低下させることにつながるのだと、そう教えてもらったように思います。

最終的には、アクティブラーンニングできる方でしたので、実習も終盤の頃、介入とレポートを考える段階に差し掛かった時には、こちらは問いかけを投げる程度で、自分で関わりその体験をもとに自分で考えて評価してもらい、その評価をもとに既存知識から仮説推論を行ってもらい、それらが正しいという仮定のもと介入をおこなってもらい、結果から有効性の判定までしてもらうという、今考えると鬼のような内容の実習でした。

もちろん、学生さんの失敗の全責任は、指導者作業療法士である自分にあるのでそのあたりの意味でも自分自身の成長にとってもよかったと感じています。

おかげさまで、無事に実習終了となり、無事卒業試験も合格し、国家試験も合格し、コロナの中でも無事に働いておられるとのことですが、正直どう思ってたのか実習終了してしばらくしてから(つまり、利害関係がなくなってから)聞いてみました。

曰く「実習の時には、自分で判断しなければならず、結果確信が持てずに困った」一方「今確かに経験が役に立つ場面も多く、肯定はできる」というありがたいお言葉をいただきました。

一銭の得にもならないのに、こうして教えてくださったことが、まずうれしかったですね。もう少し頑張ろうと思いました。

実習生OTS本人の学習効果は高い

この情報過多社会において、臨床に出てからも役立つというのはなぜでしょうか。

間違いなくそれが本人が自分で体験し、そのなかでのひっかかりを疑問という形で言葉にして発信し、そこから深まった情報をもとに行動する、その結果をもとに評価を再構成する、あるいは継続の判断をする、という改善のやり方を実践したからだと思います。

こちらが答えを提示して、トップダウンで行うだけでは、誤りなし学習だけでは、就職後の臨床の場面での役立ち度合いはあまり高くなかったのではないかと思います。

注意すべき点

同時に、いくら優秀でやる気があって実習生OTSがアクティブラーンニング的な学習スタイルができるからといって、正解不正解を全く示さないというのはやはりやりすぎだったのでは、とずっと悶々としていました。思い切って聞いてみると、じっさいそういうお言葉を頂いたので、本人の成長を阻害しない程度にもうちょっと確信の持てる要素をなんらかの形で手渡すのが心理的負担を軽減する上で大切だなあと思いました。

実習生OTSへの指導で大切にしたいことは自己教育への自発性を身につけさせること

実習中にたくさんのことを教えるよりも、自分なりに一人で勝手に成長していく方法を身につけてもらえればいいと、そう思っています。

実習中にたくさん食べさせても、自分一人で調達できるようにしておかないと結局痩せ細っていってしまう、そんなイメージです。

魚をあたえるより、取り方を教えろっていう話があったのではなかったでしょうか。それはきっと作業療法士が取り組むべき作業療法の本質の一つだと思います。

そのためには、それなりに自分自身のことを知り、見つめ直して貰う必要があるんですが、なんだかかなり長くなったので、それはまたの機会に譲ろうと思います。

そのための必要最低限の要素が、この文章の冒頭の実習生OTS本人が自分自身に行動を強いれるだけのやる気なのではと思っています。

まとめ

実習指導は本人が自分で頑張れたら評価する

それでいいし、それだけでいいと思います。

作業療法士も実習生もラクに効果的な実習ライフを