介護認定調査の書式が市区町村ごとに違う件からのデジタル庁へ「たのもー」してみる件

認定調査員の人これでよく仕事してはるわあああああ、(いらっ)っとなったので自分のための備忘録(酔)

基本的にはタイトル通り

ただですね、

腹が立つ。

必要なのは、入力されたものPCに引数として渡す仕組みなわけでしょう?

じゃあ簡略化できるじゃあないですか。

文書作成は、PCでやってるわけでしょう?

じゃあ、ウェブページで入力できるようにするか、CVS形式に変換できるようにしたらええですやん。

などなどなど。

この国って、ほんとうに脳内がお花畑だなあと、身に染みてわかったので。

どうにもならんですなあ。

デジタル庁に陳情だ

デジタル庁

送った

デジタル庁陳情後の画面

できることしかできない

できることしかできませんね。

だからこそ、できることをできるようにやるのがたいせつだとおもいます。

人に好かれる目的で「愛想笑い」し続けているなら、今すぐやめる方が作業療法士としては、みんな幸せになるかもしれない話

はじめに

見抜かれてることなんて、とうに知ってたって人も、そうでない人も。

そんなことをしても意味が無いよって話。です。

とあるカフェの女子高生の雑談から

なんでこんな話になったかって言うと、女子高生の雑談が耳に入ってきた結果です。

カフェで仕事をしてたら、声がやたらうるさくて集中力が途切れて、仕事をしてた手が止まってしまっただけなんですけどね。

ちなみに、二人とも、すごく威勢のいい感じの女の子で、それはそれは凄まじい声量で会話してたので、盗み聞きするまでもなく内容が丸聞こえだったんですが、その二人の話が聞こえてきたおかげさまでそれを聞きながらいろいろと考えさせられ、勉強になりました。

女子高生らしい色恋から、友達の評論まで話題はいろいろでしたが、その一つに自分的に気になったものがありましたので、取り上げてみたいと思います。

うむむとおもった話

こんな感じです。

「Aちゃんはいままで勉強ばっかりしてきたせいか、あんまりぶっちゃけトークができないんだけど。あたしが、話してるとき、『あはは』って笑うだけなんだよね。何も言ってこない。発信がかえってこない。」

「そりゃ、真に興味がないこと話すあたしも悪いけどさ、それで、関係性が悪くなるとか無いじゃん。別に笑わんくたって、『あー、おもんないんだな』っておもうだけ」

「無理して笑ってんじゃねーよって感じ」

って話でした。

コレに対して、ひろえもん、

「おお、すげえ。」「よく言語化できてるな」

と感じました。

話の整理

まとめるとこういう話だと思います。

登場人物は、女子高生自身(以下A)と、その女子高生の友人(以下B)
Aの話に、Bはいっつも、愛想笑い
Aとしては、そんなBの態度が不満・不快

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愛想笑いする友人Bの心理の推定

いろいろ思うところはありました。

まず、Aの語りから、Bがなぜ、愛想笑いをしているのかについて推測しました。

得られたAさん目線でのBさんの様子は以下のようなものでした。

Aいわく、

「Bさんは、勉強ができる人で、恋の話ができないひとで、つまり、自分をさらけ出すことができなくて、自信が無い人」

だ、ということでした。

Aさんの話を聞いていた印象ではありますが、Bさんは、人の特徴を具体的な場面をあげながら説明していました。人間観察が得意な様子で、この評価、多分正しいんだろうと思います。

これを前提としてBさんのことを推測します。

自信がない

自分の発言が、相手に受け入れられるかどうかが不安という仮説を考えます。

つまり、Bさんは自信が無いから、「本当の自分自身」を守るためのペルソナとして、「愛想笑い」をしているという考え方です。

相手の人となりを掴むのが下手

Aさんは、

「自分と相手の感性が違っても、気にしない」

と言っているわけで、それで友情関係には何の影響も無いと言ってるわけです。

そういうどっしりとした態度の人物を信頼して表出ができると人生生きやすくなると思います。

しかし、Bさんは話し相手がどんな人物なのかということがうまくつかめていないようです。

Aさんとしては、そんなBさんの態度を、「自分に対する不信」とさえ受け取ってる節がありました。

Bさんは、相手がどんな人物なのかを見極めるのが下手かもしれません。

育ってきた環境の違い

Bさんが今まで生活してきた文化圏においては、人の話はニコニコと聞くものだということがあったのかもしれません。

Aさんとしては、自分の思うことは素直にぶつけ合うような環境の中で育ってきたので、Bさんの態度に違和感というか、ギャップを感じているのだと思います。

「いつもニコニコ」なBの言動に対するAの心理

Aさんとしては、

「なんで自分自身を偽って笑うのか」

と感じるのが一番の不満のようでした。

Aさんは、気の置けないストレートな関係性を欲しているのかもしれません。

そうだとすると、Bの自分の本心を覆い隠しているように見える行動が全く持って不可解であり、別に本心が分かったから問いって、相手を嫌いになることなんて無いのに、むしろ逆に、自分に対して、本心を見せてこない、愛想笑いをしていると感じられる部分が、本当に気に入らない。

ということだったように思います。

Aさんが自分で言う所によると、Aさん自身はあんまり勉強をしてきた方ではないし、できるほうではないとのことでした。

それもあってかもしれませんが、Aさんの感想は、人間的でストレートな感情をそのまま表現していると思いました。素朴で、飾りげがなく、まっすぐな感想だなという風に感じました。

目線の違い

起こっている問題の根本にあるものは、求めているコミュニケーションの違いだと思います。やはり。

Aさんとしては、相手との意見の交換や、交流、率直な感想、相手がどのような人間なのかを見せてほしいという、そういう感じがしました。人間を求めている、イベントや変化を欲している。

Bさんとしては、衝突を避けることを思考しているように思います。とりあえずの愛想笑いを続けるのは、相手とぶつからないようにするためでしょう。安寧な生活、問題のない日常を求めている。

お互いに求めているものが食い違っているから、食い違ってしまっている。

まあよくある話です。

以下本題

でも、はたと思ったわけです。ここからが本題。

で、以下個人的に思ったこと。

作業療法の現場でも起こることでは?

実は就職してから、上司に言われたことなんですが。

上司に、臨床の相談で

自分が、

「こうこうこーいったシチュエーションで、失敗しないようにするには、患者様が問題にぶつからないようにするにはどうしたらいいのでしょう」

という質問をしたときに、それを一笑されて言われたことです。

「問題が起こるのってわるいことなの?」

ハッとさせられると同時に、非常に重い言葉でした。

就職後働くようになってから、しばらくたって、このことばの意味するところが非常によくわかるようになりました。

作業療法士はじめとしたリハビリテーションの仕事は、患者さまを問題から遠ざけることでは決して無いですよね。

そうではなくて、むしろ問題に直面して、その問題を、いかに協力して一緒に解決するかという視点や姿勢こそが、重要では無いでしょうか。

衝突をさけるのではなく、その衝突がどういった質のものであり、どのようなリスクを内包しているのか、どのようにすれば解決できるのかという、衝突を乗り越えて一緒になって先に進んでいくという視点が大切なのではじゃないかと思うのです。

Aさんの話を、

「うんうん」

と聞いていた自分は、かつて、作業療法の対象者に対して「愛想笑い」をしようとしていたわけです。

しかし、作業療法士として対象者から好かれることを念頭に置いて「愛想笑い」をして、解決するべき問題との衝突を避けてる暇なんてないですよね。もちろん笑顔は大切ですけれど。

Aさんが、Bさんに対して感じている不信感は、そのまま、

作業療法士 対 対象者・同僚

と置き換えても、不自然ありません。

作業療法士は、Bさんになっていないでしょうか。

作業療法士がするべきことは、その場限りの「愛想笑い」、問題を先送りすることでは無く、中期長期的視点に立ったストレートなコミュニケーションであり、それを対象者や他職種との協働によって解決することです。

おわりに

もちろん、時と場合によって、適切なコミュニケーションは異なる訳ですが、作業療法士として、という視点に立てば、いつもニコニコして寄り添っているだけでは、物足りない、という話でした。

個人的にはそういう教訓を得ました。

大事なことを学んだような気がしましたので書いてみましたが、巧くかけたかどうか。

うーん文章って、難しい。

それは、とっても作業療法だなって というエピソード「認知症のお師匠さん」

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(写真と本文は何の関係もございません。受け狙いです。以下の文章は至って真面目です。本当に。)

「認知症のお師匠さん」

というタイトルで紹介されていたのですが、かいつまんで紹介したいと思います。
ちなみに作業療法士がかかわっているのかどうかはよくわかりませんが、やってることはまさに作業療法そのものだと思います。

さて。

エピソード

主人公は認知症の88才の女性なのですが、現在自宅での生活が困難となっており、施設での生活を送っています。
しかし、週に2回、現在も踊りの教室を開くために自宅に帰っておられるそうです。
実は、この方は、20年来、舞踊の先生として活躍してこられたという経歴をお持ちの方です。

なんと、現在でも200以上の楽曲の踊りを覚えておられるそうです。
実は自分が認知症だと分かった時、この方は、教え子たちに「もう踊りはやめたい」と漏らしたそうです。
しかし、教え子たちは泉さんが踊りをやめたら、認知症の症状が進むのではないかと心配し、続けて欲しいと頼んだとのこと。
この教え子の方たちも、なんだかんだ言って、結構ご高齢だったりして、なんと60代から80代。
みなさん元気です。

作業が人に与える力

この紹介を見ていて、「作業療法ってこうだよね」と思いました。

もちろんこのような話が特になんらかのエビデンスを持つわけではありません。ひょっとすると踊りの先生はもともと踊りを継続したこととは関係なく認知症に対する抵抗力を持っていたのかもしれません。

しかし、人をエンパワメントする話であることは間違いないと思いました。

このエピソードは、とても作業療法的です。

人、場、文化、ありとあらゆる要素を含んでいて、それがひょっとするとお師匠さんの症状進行を抑えている可能性はありますし、それを抜きにしても、生きがいが保たれているというそれそのものが重要であると思います。

そういう文脈で、作業療法の実例の教科書に乗っけるべきなんじゃないかとさえ思いました。

エピソード詳細

この事例に関して、さらに詳しい情報が知りたい方はこちらから。
http://www.nhk.or.jp/seikatsu-blog/500/131650.html#more

認知症の人に作業療法ができること

認知症が進行すれば、周囲の人が本人の行動や活動を制限することも少なくありません。認知症の人が、火を使って調理をしたりすることは火災のリスクがあり、危険なのでしょうか。危険とみなされることは確かに多いかもしれません。

そのような判断を下さざるを得ない場合、たとえどれだけ料理をしたいと当事者の方が祈ったとしても、リスクが大きすぎると判断されれば、作業を制限されることになります。

このような場合の認知症の方の喪失感や、生き甲斐の創出って、本当に難しい問題だと思います。人からの協力が必要になったりする前、自分自身である程度取り組める段階から積み上げが大事なのではないでしょうか。

本当に困ることになる前に協力してくれるかもしれないだれかとしっかりと本物の関係性の構築ができることが大切だし、必要なのではないでしょうか。特に、こういった事例に触れるにつけ、そのように非常に強く思います。

「長年一緒に過ごしてきた人が、当事者を支えること」を支えられるのが作業療法士という仕事

認知症を発症された方を本当の意味で支えるのは、こうした長年積み重ねた人と人とのつながりです。

上記のエピソードでは、作業療法士は一切出てきません。問題なく当事者の方と周囲の方がうまく付き合っておられるからです。

しかし、ひょっとするとうまくいかないこともあるのではないでしょうか。上記のエピソードであれば、周囲のひとがなかなか理解しづらいような問題が発生することもあるかもしれません。

そして、その人たちが、うまく支えられるように、そっと支えるのが作業療法士の重要な役割であると思います。

また、元気なうちにいろいろな人とのつながりを大切にしておくことが、冒頭のようなエピソードが成立するための重要な要素になっていると思います。

ともすると、私たちは、普段、人とのつながりがないことなどを、つい社会のせいにしてしまいがちです。しかし、人とのつながりを大切にすることが、自分自身を大切にするということにもつながるし、本当に大切にしないといけないですね。

やはり、人は自分を支えてくれる誰かがいるから、生きていけるのだと思います。

そして、作業療法と作業療法士はその構造をうまく支えることが重要な仕事の一つなのではないかと思います。