今ならちょっぴりお安く。2014年開催のWFOTと全国学会に参加できるって知ってました?

はじめに

今度の全国学会(第48回日本作業療法学会)とWFOT(第16回世界作業療法士連盟大会)は、ヨコハマで同時開催されることになってます。

で、参加料金が非会員だと8万円するすごい学会なんです。

が、今なら学会員はその半額で参加できるってご存知ですか?

早期事前登録

そのからくりはというと、早期事前登録にあります。

ようするに、前売り券です。

2万円ほど安いんですよね。

それを買うと。

「絶対行きたい!!」と言う人にはお買い得かと思います。

詳細

詳しくは、学会のWebサイトを参照してみて下さい。

http://www.wfot.org/wfot2014/jpn/contents/reg.html

おわりに

とはいえ、確実に行けるという保証が無い以上、前売り券を買うのも結構勇気がいるんですよね。

4万円ですから。

でもなんとか、都合付けて参加したいものです。

ちなみに学生さんはたった1万円で参加できるそうですので、ぜひ前売り券買っとくと良いのではないでしょうか?

ひろえもんと「食事」の関係に見る、ニーズと人生の質(QOL)

はじめに

自分の人生の意味について考えました。

美味しいものをどれだけ食べれるかだと思いました。

そんな、ニーズとQOLのお話。

QOL

クオリティーオブライフ。

人生の質。

どうやって測定するかは一意でない。

裏を返せば、尺度はなんでもいい。

もちろん「食事」でも。

ひろえもんの人生

日常

何もかもうまく行かなくて、誰とも関わりたくない、特に何もする気が起きない、そんな日は食事が全て。

その日に何を食すかで、その日一日の評価が変わる。

美味しいものを食べれたら幸せ。

そうでなければ不幸せ。

私のQOLは、「食事」に依って作られる。

元気なときには。

誰かと一緒なら、おいしい食事はなお美味しい。

まずい食事も、笑いのたねに。

やっぱり私のQOLは「食事」によって作られる。

仕事

どんなに安くて美味しい料理も、材料が手に入れられないと作れない。

私はそのために働く。

給料日には美味しい物をたべよう。

どうも、私のQOLは「食事」に依存するらしい。

健康

たくさん美味しい物がたべたいので、極力健康でありたいと思う。

そのためには、大好きな食事の量のコントロールだっていとわない。

結局、私のQOLは「食事」に回向(えこう)する。

以上、ここまで前置き。

本題:QOLを支えるとは

OT介入時には、構造を抽象化、単純化して介入するポイントを焦点化しますよね。介入するポイントを限定しないと、限られたリソースでは介入不可能ですから。

でも安直に限定してしまうとすると、やっぱり他の大切なことを見落としてしまう可能性があると感じています。

上記のように、ひろえもんの人生を「食事」中心の価値観でとらえたならば、ひろえもんのQOLを保つには「うまいもん食わしときゃいい」となると思う。

でもそうではないんですよね。

「食事」がいくらその中核にあるといっても、そのひとの人生は「食事」だけでは豊かになりようが無いんですよね。

対象者のニーズを言い訳にして、自分が安直な介入を選択してしまわないように気をつけようと思いました。

おわりに

今回書いてみて、ひろえもんは「食事」以外のいろいろなポイントに人生の質を決定する要素を分散させないとだめだと強く感じました。

以上。

ホームレスは億万長者の夢をみるか?

はじめに

人間は、もっと夢を持つべきで、もっとバカでいいと思います。

そして、アホな妄想を山のように繰り広げ、それに浸る権利があります。

なのに、そうできないのはなぜでしょうか。

一般的な妄想力

最近友人とのみに行った時のお話。

その友人が、共通の友人と飲んでいた時のことを話してくれました。

ちなみに、その友人は女性なんですが、共通の友人である男友達と他人の恋愛についてあれこれ妄想しながら、それを肴に酒を酌み交わすんだそうです。

どうやら世間的には、このくらいの妄想力は備えていて当たり前のようです。

こどものせかい

子供の世界は、夢物語であふれています。

このあいだ知り合いの子供の、小学校1年生の女の子なんかは「大きくなったら、綿菓子になる」と満面の笑みでした。

ひろえもんは

「そう。がんばってね」

と引きつった笑みを返すのが精一杯でした。

昔から、そういう発想力が乏しい人間だったので、どうもそういう感覚についていくのが苦手なんです。

でも、同時に、いいなあと思いました。

だって、将来この子は、銀河鉄道999の哲郎のように、永遠の命を目指して綿菓子の体になるかもしれません。

この子が本気で目指せば、いつか夢は叶うと思うので、今後も応援したいと思いました。

大人の世界

一時期みんな天才的な妄想を発揮するのにどうして、「妄想力たったの5」なひとが多いのでしょう。

そして、「妄想力は50万です」っていう人がすくないのでしょうか。

思うに、中学生頃からでしょうか

「現実をみろ」

と言われるのは。

この辺りで多くの人が妄想力を失っていくのでしょう。

大人の世界は、偉い人の勘定と感情と、目の前で起こる事象の全てと、それを支配するルールや法則が全てです。

成熟した社会であればあるほど、子供の妄想が入り込む余地はあんまりないです。そうすると、突拍子もないことをしでかすひとも少なくなります。そうなると社会がつまらないものになってしまいます。

決まりきった現実が、目の前には広がります。

人間先が見えないこともストレスですが、先の決まりきった人生を歩むこともそれなりに苦痛だったり。

ましてやそれが、不遇な境遇だったりすると特に。

人間はみんな現実にギャップ萌えして生きている

意外と良くある話です。

たとえば、「いつも明るい頼れるあの人が、なんだか元気無い」とか。

きっと、多くの人が「励ましてあげたい」と思うんじゃないでしょうか。

人間は、自分のイメージと現実との間の差異に注目したり、それをおもしろがったりすることで、何らかのアクションを起こす生き物です。

この自分なりのイメージというやつが大切で、それをもとにして現実に対してどのような行動をとるかということが決定されます。

ですが、歳を経るごとにイメージが巧くなっていく人と、反対にイメージを諦めるようになる人に大きく分かれます。

駄文

にんげんはゆめをみないと生きられない動物なのに、ゆめもきぼうもない。

だからしぬんだよ。

論文とはなにか?

はじめに

STEP細胞だかなんだかが、話題ですね。最近。

話題になっているのは、その発見が世界レベルでの功績であると賞賛された論文が実は、きわめていい加減なものだったことが徐々に立証されつつあるからです。

ところで、論文とはなんでしょうか?

と自分の中で、改めて疑問に思ったので記事にしてみることにしました。

論文ってなに?

って漠然とした質問なので、少し具体化していきたいと思います。

みなさんが論文と聞いて思い浮かべるのは、どんなことでしょうか。

こんな質問を投げかけたとき、「科学論文」を思い浮かべる人がきっと多いんじゃなかろうか、と思います。

これは、科学者や研究者が、自分の学術の成果を世の中に発表したり、学問を前進させるための手段として用いるやつです。内容やその構成には、厳密な根拠と理論の提示が求められます。

やはり論文の代表格ですしね。

このような科学論文は私たちの生活にも大きな影響を与えうる物です。義務教育で使用されている教科書の中身も、もとをたどればそうした論文の上に成り立っている訳です。世の中に影響することも論文の目的の一つかもしれません。

あるいは、大学や大学院に行ったことがある方は自分が書いた論文を思い浮かべていただけたら、それが一つの答えになるのだとおもいます。研究だけでなく、教育の手段として用いられることもあるということです。

論文は誰が書く?

先ほども述べましたが、科学者や研究者、学者あるいは学生が書くことがあります。

なぜかといえば、そういった人たちにとってやはり、論文は自分の研究の成果を、世の中に広く認められるような形式で公開するための強力な手段だからです。

あるいは、大学生や大学院生が自分自身が学問を勉強してきた存在であることを証明するための手段だからです。もっとも、その論文達の多くはあんまり世の中に影響を与えるコトはないかもしれませんが。

ですが、とにもかくにも、論文を書くことによって自分が取り組んできたことを、なにかしら目に見えるような形にすることができます。そうすることで、他者とその成果を共有することが出来たり、誰かからの賞賛なり、批判なりを受けることが可能になります。

このあたりに、論文を書く意義があるのだと思います。

ですから、在野の一般人の人が、自分の趣味やなんかについて論文を書くことがあります。

あとは、政治家なんかも時折、自分のビジョンを世の中に問うために発表してますよね。

つまるところ、論文ってのは誰が書いてもいいわけです。

ちゃんとした、目的があれば。

論文は何のために書く?

正直、これはもう、決まりきっていると思っています。

非常に硬い言い方をすれば、「自分の論の正当性を他者に示すため」です。

そうすることによって、自分の研究の後押しをもらえたり、自分の考えを他の人にぶつけることによって、学問なり議論なりを前進させることができます。

あとは、大学生や院生だと、「書かないと卒業できないから」というのもあるんでしょうか?

論文いつ書くの?

いまでしょ!(もうさすがに古いですよね…)

学問の世界であれば、二番煎じに意味は無いですから、早ければ早いほど良いということになります。ですから、着想が浮かんだら、すぐに書き上げてしまうことが望ましいのではないでしょうか。

気鋭の研究者には3日に1本のペースで論文を量産している人もいるようです。書ける内容があるなら、その時々でどんどん書き進めてしまうのが良いはずです。

しかしながら、気を急いて功名心にかられると、今回のような結果になりかねませんので、自分自身くれぐれも注意が必要かなあと思います。

論文の書き方

一旦、ここまでの内容をまとめます。

論文は、誰でも書けるけれど、早ければ早い程よい、「自分の論を世の中に示すために書く」物

と、ひろえもんは考えておりますってことです。

 

正直、ひろえもんは論文書くのがめちゃくちゃ苦手意識があります。

それは、論文の形式にうまいこと自分の言葉を当てはめることが出来ないからです。

ですが、論文を発表する場所や学会によってその形式が結構決まっていたりするので、やっぱりそれにのっとって書かないと行けないんだと思います。

とはいえ、発表の場所や学会が変わると形式もいろいろと違ったりするので、そこは先輩とか、学会の運営に問い合わせたり、過去の投稿を読んでまねをするとかして身につけていくものなんだろうなあと思います。

 

おまけ:論文の活用法

既に発表されている他者や、自分の論文を多く知っていると新しい論文を書くときに少しラクが出来ます。

あとは、自分の実践の根拠にすることが出来ます。

これはどの世界でも一緒だと思います。

むろん、それは作業療法の世界でも、他の医療でもおなじで。

ですから、論文はたくさん読んで知っておくにこしたことは無いんだろうなあと思います。

抽象度の高い、コンテンツを読むのに慣れていないと、論文を読むのって結構しんどいですけれどね。

ええ、ひろえもんは論文読むのも苦手ですよ。

がんばるよ。

おわりに

繰り返しになりますが、論文というのは自分の論を世に問うための手段だとおもいます。

そのために、気にするべきこと、たとえば、形式やしきたり、ルールなどは山のようにあるはずです。

しかし、それ以上に自分がかきたいことが何なのか、自分が書こうとしていることが事実に基づく論なのかということに真摯になることが大切な気がしています。

そして、だれに読んでもらいたいのか、どんな場でその論文が消費されることを狙っているのかというあたりまで考えられるようになるといいなあと自分では思っています。

発症を確率90%以上で予想!? 認知症になりやすいかどうかがわかる血液検査が開発

はじめに

日本だけでなく世界的な問題になりつつある認知症の問題。

現在のところ、一度発症すると病状を劇的に回復する手だては見つかってい無い一方、進行を遅らせる効果のある治療法は徐々にエビデンスが確立してきています。

そこで、認知症の進行にともなって将来起こりうる問題を、発症早期からの介入という手段で防ごうという動きが活発になっています。

その流れにとって大きな助けになりうる検査が開発されたようです。

検査の内容

検査の方法としては血液を用います。

そしてその血液を調べるだけで、3年以内にアルツハイマー型認知症を発症するかどうかを、なんと90%の確率で予見できるとのことです。

米ジョージタウン大学メディカルセンターのハワード・フェデロフ(Howard Federoff)教授(神経学)は「治療計画を作ったりするときや、認知症への対処方法を変える可能性を秘めている」と声明を発表しておられるようです。

また、治療そのものにも効果をもたらす可能性にも言及されています。

初期認知症の誤解?

ところで、寝たきりなど重度に進行した認知症と対比して、物忘れなどがひどくなってきた、と感じるレベルを初期認知症、または軽度認知症と表現することがあります。

しかし、臨床的にはしっくりくるこの表現は、生理学的には大きな誤解を生んでしまっているとの論があります。

どういうことかといいますと、認知症の初期症状としての物忘れが現れる前の10年前後で、目に見える症状としてはあらわれなくても、細胞レベルでは徐々にアミロイド蛋白の沈着などの症状進行が進んでいるというのです。

認知症の治療がうまく行かない原因がこの辺りにあるのではないかと考える医療関係者も増えてきているようです。

病気の早期追跡の可能性

今回の血液検査がもしも、臨床的に実用に足る物であれば、病気に対する早期からの介入が可能になるだけでなく、ひょっとすると現在確立できていない病状進行の逆行、つまり、病気を発症する以前の状態に戻すような治療法が確立できるかもしれません。

一治療者の立場としても、ご本人の認知機能が低下するまえに今後について家族を交えながらお話ができるので、ひろえもん的にはおおいに期待しているところであります。

さらに、大それた話をするならば、この予測を前提とした行政、福祉のシステムが確立するかもしれません。(たとえば、健康診断に組み込まれるようになるとか)

そうなると、現在支援が十分に行き届いているとは言いにくい若年性認知症の人たちが、今よりも充実した支援を受けられるような社会にも変わっていくかもしれません。

というか、そういう方向に話が進んでいったらいいですね。

おわりに

ちなみに今回の血液検査で調べるのは脳の代謝物なんだそうで、その中でアルツハイマー型認知症の徴候となる物に着目したんだそうな。

こんなふうに、あたらしい検査の方法や、治療の方法がどんどん出てくることを期待せずにはいられません。