ryuchell氏の離婚発表をフラットにみる

はじめに

かなりまとまってません。思うところがたくさんありすぎます。

思考整理のためにおもいのまま、あやしうこそものぐるおしけれ。

https://geitopi.com/%E7%A0%B4%E5%B1%80%E3%83%BB%E9%9B%A2%E5%A9%9A/%E3%81%BA%E3%81%93%EF%BC%86%E3%82%8A%E3%82%85%E3%81%86%E3%81%A1%E3%81%87%E3%82%8B%E3%81%8C%E9%9B%A2%E5%A9%9A%E3%80%81%E7%90%86%E7%94%B1%E3%82%92%E8%AA%AC%E6%98%8E%E3%80%82%E5%A4%AB%E5%A9%A6%E9%96%A2/
夫妻

離婚はフラットに語り

離婚って、ネガティブなイメージで受け取られることが多い。

それは、関係性の崩壊を暗示するからではないでしょうか。

でも、新しい関係性が構築できるきっかけとなるなら、離婚はクラッシュアンドビルドの起点でしかないので、あたらしい夜明け的な意味でとらえるとむしろポジティブかもしれません。

ということで、プラスマイナスゼロでフラットに、ryuchell氏の離婚を、統一教会事件以降のこれからの世の中の在り方として考えてみたいと思います。

前提としての日本の家族観

結局日本の家族観は、

1困難な自然環境、その後は、社会環境においてまとまりや組織が作りやすい単位として家族が機能する面が大きかったこと

2自尊心を子々孫々や先祖代々に帰着する人が割合的に多いこと

3破壊的更新より、安定的継承のほうが心理的負担が少ない人が多いこと

によって成り立っている。

蛇足かつ重要事項としての日本における政治と宗教と家族観

政治的には、政治団体を支援する宗教団体の意向が反映されている可能性が、政策決定の不自然なゆがみから見て取れたが、最近の旧統一教会と政治家および政治団体との関係性によってわりと確定的になっている。

家族観を利用することで、宗教は家族単位にわかりやすい秩序のフレームワークを提供する代わりに、宗教側は家族全体を信者とすることができる。また、集団として影響しあう人々の秩序として宗教が機能する場合には、個人にとって離脱にコストが発生することを意味するため信者数の安定を得ることができる。

このような理由があるので、宗教は家族観が大事、というフレームワークを好む。これは社会の変化にストレスを感じやすい親世代以上にとてもマッチしており、そこを起点にトップダウン式に布教を展開できるので、とてもコスパが良い。

政治にとって宗教が便利なのは単に票田となるだけでなく、特定の政策を売り渡すことで安価に動員可能な人員を得ることができるからである。これによって、当落線上の候補者を宗教は制御しつつ、たとえば経済重視の政治家にとっては家族観がどうでもよいと判断すれば、伝統的家族観を擁護してくれるのであれば、あなたを無償の愛で支援いたします。とすれば、政治と宗教はWINWINとなる。これを禁じたのが政教分離の概念であるが、結局現実的にはあまり意味をなしていない概念である。といえる。

その理由は、端的に、

1宗教は、弱者はめ込みビジネスとして機能しうるので富の吸い上げ装置として政治家に利便性があり、なおかつ合法であること。

2政治は、宗教によって、簡単に変容させることができるけれども、それを表立ってやると当選できないのでじわっとやる必要があること

の2点で政治家と宗教サイドそれぞれでウィンウィンということになる。

政治家が直接、一般から広くお金を集める方法は政治献金しかないが、そこに宗教団体をカマスことによって、得られる献金の額を増やすことができる。宗教団体が運営しているフロント企業などの献金などフィルターを通して献金を増やすことができる。その原資は、宗教団体の所属信者が時に自分の生活を切り詰めたり、自分の資産の一切を売り払ったり、借金をしたりして作ってくれる。

宗教団体サイドとしては、政治が政策を、自分たちの教義に近い形で打ち出せば打ち出すほどに権威が増える。また、支援する政治家が宗教的集まりに顔を出してくれると、新規の信者を開拓するときの広告塔として使えたり、既存の信者の忠誠心を高めるための装置として用いることができる。それで、増えた信者からさらに多くの富を集約することができれば政治家も宗教団体も金銭的に儲かる可能性があるのでやめられないまらない。

道徳教育と家族観

また、道徳として家族を尊重することを一般的な秩序とすることは社会の安定や子供を安定した環境で育成することに寄与するなどの点があり、日本では、父母子供に祖父母親戚を加えた一つ屋根の下ファミリー家族観が、「ふつう」として今日受け入れられるに至っているし、そのモデルから外れるほどに、「変」とみられている。と思う。

親や兄弟、家族は大切にするべきものであるという、「あたりまえ」があるように思われる。

子供の犯罪に芸能人の親が頭を下げる日本の不思議

子供が逮捕されたとき、親である芸能人が「この度は誠に申し訳ありませんでした」と頭を下げるのが当たり前のように思われている。これは日本人が、子供の人格と親の人格を同一視しており、ある組織に所属する個人はその組織から影響を受けているに違いないという色眼鏡で見ても構わないと思っている。

しかし論理的には、子供と親は人格的に同一ではないし、子供の行動の責任は親には帰属しないはずである。なぜなら自由主義社会であり、自由の属するところは本人自身の意思を除いてほかにないから。

しかし、そういうところの切り分けができなかったり、同一視がやめられないなど頭の使い方や価値観を多様化するためのエミュレータを頭の中で動かすことが難しいひとは少なくない。

道具としての家族単位

生きていかないといけないから。

そういうものだから、

やくわりがあるから、

という必要性に基づく家族観、大変ヤバい言い方をしていたある方の言葉を借りれば「道具としての家族」観というものが、これまでの日本にはあったように思われます。オブラートにはもちろん包んだうえで別の表現に変換されていますが、本質としては「利用価値のある人間の構成単位」としての家族、という大変ドライな家族もいくら血のつながりがあろうとも実在していたという厳しい現実を遠慮なく突き上げている言葉のように思います。「道具としての家族」。やっぱり体験者経験者の言葉の表現は重たいです。

政治も宗教も家族を道具としてとらえていることが多いです。企業もそういうところがあると思います。お金が絡むといろいろゆがむのは人間だもの、という感じです。

お金があまり全面に立ちすぎると、結局家族はゆがんでいって、道具としての単位になっていってしまうようです。

それだけが言いたいがための長すぎる前置き。

家族と愛の重要性

家族も愛着がなければただの構成単位。

あるいは、かくあれかし、という宗教団体であるともいえます。

一方で人間の育成において、愛情的な感情論は家族単位の形成と実際の安定運用上きわめて重要な意味を占めるという持論があります。論理的思考だけでも人は成長できますが、多くの人とうまくつながるには、感情をきちんと開放する力が必要です。

そのような感情コントロールの力というのは、結局のところ、子供の育成において特に心理的安全性の面で大きく影響する可能性が極めて大きいです。よほど、子供の認知機能が卓越していない限り、親の一挙一同に子供の思考言動は左右され、親の感情の起伏が激しいほどに子供の日常生活上必要な思考へのエネルギーコストは高まるからです。

また、失敗は成功の基というだけあって、成功に至るには、ある程度の手数が必要です。

手数を実現するには、ある程度の失敗を許容できるメンタルが必要です。

そのメンタルの基礎となる、「自分は愛されている」「自分はここにいてもいいんだ」という安心感が、新しい行動への挑戦を保証することになります。

月並みな指摘ですが、大人になっても他人に攻撃的な方というのはこの辺りの愛着形成がやっぱりうまくいっていないのだろうなと思うのです(n=1)。現代病といえばそうかもしれないですし、人類の有史以前からのお悩みなのかもしれません。

本題としてのryuchellの離婚

結局、自己肯定の問題かつ、自己規定の問題かつ、「何が幸せなのか」という問題であって「他人からどう映るか」や「道具たり得るか」は問題でない、ということと解釈しました自分は。ryuchell&peco氏の離婚を。

言い方を変えると

「日本国の規定には当てはまらないので、婚姻関係から離脱します」

ということで、新しい家族の形を模索するそうです。それは、ryuchell氏の

離婚しても彼は彼であるようで、それを相方のpeco氏も認めており、性別を前提としない1対1の人間としての愛を以て、家族を形成していきたい、ということ。

家族単位と結婚

これより引用多発注意報。

日本の結婚制度は、そののちに子供をもうけて家が続いていくようにすることをサポートするための仕組みとして作られているので、そのほかの用途で使おうとするとうまくいかないことがある。そのため、そのほかの用途でも使えるような結婚や家族単位の在り方を探す試みをryuchell氏はしようとしているのでは、と理解する。

本人も「新しい家族の形」を追求していく、としている。

具体的には

「“夫”と“妻”ではなく、人生のパートナー、そしてかけがえのない息子の親として家族で人生をすごしていく」

ということで、あたらしい枠組みを自分でつくっていく、とクリエイティブな宣言をしているわけですね。

言い換えると、男と女という関係性を超えたパートナー、かつ自分たちの子供の親としてのロールを基本単位とした家族の形を模索していきます、ということ。

本人の言葉ではさらに詳しく

妻のpecoについて「女性を好きになることは、僕の人生の中で、初めての事」だったが「“本当の自分”と、“本当の自分を隠すryuchell”との間に、少しずつ溝ができてしまいました」といい、pecoに打ち明け「どれだけ伝えても足りないほど、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいだけど、家族として、パパとしては、何があってもこの幸せは守りたいと強く思いました」

と続くわけですね。

これは、

メディアで自分のこれまでの生き方や、“夫”としての生き方についてお話しさせていただく機会が増えていく中で

という、うそじゃあないんだけど、でもじぶんってそれだけじゃないんですが、実は。という部分の割合を黙殺できなくなったということです。

だからryuchellとして、自分を認めつつ、家族としてやっていくための自己規定や家族の形の成形をこれからもう一度やっていきたいということなんですね。

いいぞ、どんどんやられたら素敵だなあとおもいます。

奥様peco氏

率直で素晴らしいです。こういう表明ができる高潔さ非常に好きです。人間的に剛。愛に満ちている。

《正直、墓場まで持っていってほしかったと一瞬たりとも思ったことはないと言えば嘘になります》

ということで、そういうお気持ちをちゃんと世間に向けて投げかけることができることも、自分自身のそういう思いともきちんと向き合っていきますよ、という覚悟を感じるし、

わたしは何よりもまず、りゅうちぇるという人間そのものがだいすきです

たぶん一緒に生活するということの優先順位の一番はこれでいいのだと思います。

好き嫌いと一緒に過ごした時間による行程による肯定。

だから正直、墓場まで持っていってほしかったと一瞬たりとも思ったことはないと言えば嘘になります。 だけどそれ以上に、もしほんとうにりゅうちぇるがこの先何十年、おじいちゃんになるまでひとりで抱え込み続けていたらと思うとほんとうに怖いし、こうして今 生きて、勇気を振り絞ってわたしに打ち明けてくれたことに、ありがとうの気持ちでいっぱいなのです。 打ち明けてくれた瞬間、ひどいとか、最低とか、だましてたの?とか、ほんとうにそんなことは思わなくて、それはりゅうちぇるがほんとうにたくさんの本物の愛をくれたからだと思います。

こういう解釈が本当に心からできるのであれば、それはとてもクリエイティブで素晴らしいことだと思いました。本質的には2人の問題で回りが話のネタにとやかく取り上げること自体がナンセンスなのですが、

みーんな弱いし、みーんな強い!

というワードは、最強なのではないかと思いました。

2人は、2021年9月にそれまで所属していた芸能事務所を退所し、ryuchellが社長を務める事務所を設立しました。そういう意味では、ビジネスパートナーでもあるわけで、単なる家族よりもさらに深い関係です。多様な家族の在り方を示す存在として、ますますメディアでの活躍、発言が期待されま

とのことですので、

さらに家族関係が複雑な中で、彼らの子供たちが幸せに育つなら、周りがとやかく言うことはないし、二人だけで困るときには遠慮なく周りを頼ってもらいつつ、だれからも肯定されることもなくても自分たちで新しい家族の形を作っていってほしいと思います。

おわりに

あたらしい家族の形

それが、今の日本社会の停滞ムードを変化させていく一つの具体的な答えになりうると思っています。

結局新しい組織形成っていうのはだれにでもできることではなくって、それゆえに結局不合理でも今までのやり方を踏襲することになることが多いのだと思います。

そういう意味で、あたらしいありようを模索する力というのは社会を変えていく力としてみたときにきわめて重要だなあと思います。

自分でも、そこまで乗っけたら乗っけすぎかなと思いつつ、結局、でもそういうことなんだろうなと思います。これまでを尊重しつつこれからが逸脱してもそれは、自己肯定のありよう次第ということで。

政治や既存の社会制度にとらわれない幸せの形を各人それぞれが自分で幸せになれるように形作っていって下さることを祈らずにはいられません。

参考:

【全文】peco「正直、墓場まで持っていってほしかった」も「打ち明けてくれてありがとう」(デイリースポーツ) – Yahoo!ニュース

ryuchellが離婚発表 夫の「カミングアウト」を受け入れたpecoに集まる賞賛の声(SmartFLASH) – Yahoo!ニュース

できる限り日々人にやさしくありたい。~他者への危害的な意味で危ないのは、さびしいのに寂しいといえないでいる人の可能性

大阪のクリニックのビル火災のニュースは、第一報を聞いただけで胸が苦しくなりました。「またか」というやるせなさと、極端さ、予測不可能性、それゆえの対策のしようがなさ。

いろんなものが一斉に去来して、生きていくことがつらくなりました。

しかし、書きとどめておくことで解決するなにかもあるかもしれないので、気持ちを奮い起こして、今心の中にあるものを頑張ってアウトプットします。

「消えてなくなってしまいたい」という欲望について

人は、「死にたくない」「長生きしたい」と誰しもが思っています。

本当に?そうでしょうか????

あるいは、生きていることが楽しい、うれしい、喜びというより、義務感みたいになる感覚がお分かりになるでしょうか。「生きさせられる」生、という感覚とでも言いましょうか。

そうした感覚をもって生きている方方は、死にたくないから生きる、や、生きていたいから生きる、という感覚でいきているのではありません。「死ねないから仕方なく」生きている、と感じているので。

そうした感覚のしんどさをあえて最も単純化した言い方をするならば、「息をするのもしんどい」という感覚にちかいかもしれません。単純化しすぎて生ぬるいですが。本質的にはまさに、生きていることそのものが苦痛な感覚で、ただそこに生きて存在するというだけで心身にストレスを感じるのです。

この感覚は、ベッドの上であろうが、おいしいものをたべていようが関係ないのです。快刺激で上書きしようにも、その快刺激やその記憶がきちんと保持できないので、あるいは、思い出したくもない思い出ばかりが去来して、生きているだけで自分のこころがしんどくなってしまう。

「だから消えてなくなってしまいたい」「そのことで楽になりたい」

でも、死んではいけないことになっている、ないし、死んだら周囲に迷惑をかけてしまう。あるいは死ぬことはこわいけれども、もうどうにも生きていることが、あるいは生き続けることそのものが耐えられない、だからその心理的な抵抗感をやけくそ感で埋め合わせてしまいたい。面倒くさい、ないもかもどうでもいい、早く楽になりたい。

このはざまで、揺れ動くことを余儀なくされるわけです。

そして、そのようにして煮詰まった脳内からは、さまざまな想像力がうしなわれていきます。そうして、他人の痛みよりも、自分ごと、自分をうまく包摂しない周囲の環境ごと消し去ってしまいたいという欲求を抑えこむものがなくなったとき、人は自分の近くにガソリンをまいて火をつけるのだと思います。

考えてみてください。普通の人は、焼死を選べません。熱した金属に触れたときの、あの「熱い!!!」の苦痛をこれまでの人生で味わったことがあるならば、そして、その状態が全身に広がることの苦痛は、まともに考えれば正気を失わせるに十分と思います。想像を絶します。想像するだけで恐ろしくなります。

ましてや、そのような苦痛をほかのだれかにも与えてしまうかもしれない。もしそんなことになったらとおもうと、恐ろしくてたまりません。大変なことです。

しかし、その苦痛さえ、感じられなくなるほどに、脳の情報処理に偏りが出ている状態なのでしょう。そして、そのような情報処理とは、主に、悲しい、寂しい、むなしい、みじめだ、つらい、耐えがたい、面倒だななどの感情に多く割かれるのだと思います。あるいは、感情をうまく自覚してコントロールできない、そうした自らを常に責め立てる自罰的な思考があったりするのかもしれません。さらには、そうした認知のゆがみというものが、本人の中から湧き上がってきたり、環境がその人を追い込んだり、あるいはその両方があったりすると思います。

とにもかくにも、作業療法士をしていると、普通の社会ではあまり接点を持てないいろいろな方と交流させていただく機会があります。上記のような方も、世の中にはたくさんおられます。

そして、わたし自身にそういうところが全くないかというと、絶対そんなことはないとおもっています。人間だれしもがそういう「自暴自棄」スイッチを持ってると思います。そして、一旦そのようなスイッチが入ってしまうと、自分では、たてなおせなくなってしまうのです。あるいは、最初から自分ひとりでうまれて、生きてきたような感覚でふるまうことで、喪失感を無理やり埋め合わせようとして、ますます矛盾の中におぼれていってしまうのです。

そうした現象を想うとき、思い出す評論があります。

映画「ジョーカー」の主人公が表現した社会の冷やかさ

コメディアン死亡だったのにいつの間にか殺人鬼になってしまった映画のキャラクターがいます。もちろんフィクションですが。

そんあ、2020年にホアキン・フェニックスがアカデミー主演男優賞を受賞した映画「ジョーカー」の主人公「心優しいアーサー・フレック」の事を問題を起こすことでしか人とつながれない、という解説をした人がいます。岡田斗司夫さんです。彼は、「アーサー」は、社会が彼に向けたの環境の力学によって、そうならざるをえなかったと述べています。

長い動画ですが。一応リンクを張っておきます

もちろん映画「ジョーカー」はフィクションである。ゴッサムシティは実在しない。のです。

けれども、この映画は人間の心理として、憤懣やるかたなくなったり、社会とうまくつながれないと、衝動がある個人を破滅的な犯罪に駆り立てることがあることを示唆している、とおもいます。

実際、そういう人間の行動原理で起こされたと思われる犯罪のニュースはなくならないですね。

「死刑になりたかった、だれでもいいから殺せば死刑になると思った」

このような供述の事件はgoogleでざっと検索しただけで、下記のように。

京王線刺傷事件の犯人も…「人を殺して死刑になりたい」息子の“殺意”に怯える母親たち(週刊女性PRIME) – Yahoo!ニュース

平野啓一郎さんはTwitterを使っています 「「死刑になりたかった」と供述の事件。 2004年 茨木市連続ひき逃げ事件 2007年 平和記念公園殺人事件 2008年 土浦連続殺傷事件 2010年 取手駅通り通り魔事件 2012年 心斎橋通り魔事件 2014年 透析患者チューブ引き抜き事件 2015年 江戸川区女子高生殺人事件 2016年 イオンモール釧路通り魔事件」 / Twitter

「死刑になりたい」また無差別殺傷 同世代で繰り返される共通の「動機」: J-CAST ニュース【全文表示】

死刑になりたいと望んで引き起された犯罪事件の一覧 – いちらん屋(一覧屋) (ichiranya.com)

こうした、「自分が置かれた状況の理解することが困難であるか、どう解決したらわからない、もしくは解決しようとしたがうまくできなくて打ちのめされて打ちひしがれて、自暴自棄になってしまう。」人は少なくないです。

そういう人たちが世の中には必ず存在するのです。

そうした人たちに、どのようにむきあっているでしょうか。

「だれからも関係をもとめられていない」 感覚

友達でもいいし、だれでもいいから、やっぱりひとは、だれかから必要とされたいと感じている、ということだと思います。

そういう感覚が自分ではいかんともしがたい人たちが、たとえば、「さびしい」とひとに言うことでつながれると一番良いのですが、そうできない、むしろ「ほっといてほしい」というような人に、どうするのか。

普通の人は、「ほっとく」のではないでしょうか。

本人がほっといてくれというのですから。

でも真実は、それでもなお、踏み込んできてくれる誰かを待っているのだと思います。資本主義は、契約社会です。言葉が大切ですし、論理が大切です。言葉には責任がともないます。

ですが、そんな枠組みの中ではうまく生きていきにくい人たちがやっぱりいるんですよね。自分の言葉が、額面どおりの意味ではない意味でしか、口から飛び出していかない人たちがいるんですよね。

「ほっとく」と、そういうことになるのだとおもいます。

やさしさが大切

最後に、冒頭で紹介した映画「ジョーカー」の主演男優である、ホアキンの受賞時のコメントを紹介して終わりにします。

壇上に上がったホアキンは「本当に感謝していますし、自分が他の候補者よりも優れているとは思っていません。僕はすばらしい映画人生を送ることができました。なぜなら、俳優として、私たちは“声なき者”の声を代弁する機会を得ているからです。男女の平等、人種やジェンダーに対する差別、そして地球環境まで、今の世界にはまだまだ問題が山積みですが、それらは愛情や思いやりを持っていけば、解決できるのです」と想いを吐露。

【第92回アカデミー賞】主演男優賞は『ジョーカー』のホアキン・フェニックス 亡き名優に続き“ジョーカー俳優”2人目のオスカー! | cinemacafe.net

本当、

やさしさって大切にしないと。

みんな身をほろぼすよなあ、としみじみおもいます。

参考

腕利き板金工だった放火事件の容疑者 離婚後に「ひとりきりの悩み」 (msn.com)

雨がたくさん降るのはこれからの毎年のことと決めつけて、備えて生活をしないといけない

防災グッズ

毎年豪雨災害が発生

西日本豪雨災害が印象に強いですが、強い雨がふりつづいて河川のキャパシティを超えて、その水が街中に溢れるという現象が毎年のものとなっています。

以前はこれほどの雨が毎年降るということはなかったことのように思います。

私個人としては、毎年のことになりつつあるというふうに認識を改めます。

来年以降もきっと同じような現象が起こり続けるでしょう。

原因はよくわからないですが、教科書で小学生や中学生の頃に学習した内容では対応困難な状況に変化してきているように思います。

というか、災害が発生するのが普通で、その発生に備えるような生き方ができないと、何か起こった時に「自然には勝てない」と思います。

自治体も対応が困難

その度に、インフラが破壊され、復旧工事に多額の資金が必要となっています。

実際、家を立てるときに水害まで考えて家を立てる人はそれほど多くないのではないかと思います。

災害が起こりやすいところに、家がたくさんたっているけれども、これまでの雨量では災害となってこなかったということだと思います。

農業をやっているのであれば、河川氾濫の近くに家を備えることにもそれなりの経済合理性を感じるのです。しかしその跡地に高齢者向け施設を建設するのは危ないのだという認識が広がるとよいと思います。

しかし、そのような高齢者向けの施設、既に建ててしまっているところも多いので、なかなか根が深い問題だと思います。

できる人はなるべく自衛を

自衛が困難な方にリソースを配分するためには、自分で自分の身をまもれる人が自分のことを守るのはそれだけで立派な社会貢献であるという考えが広まって然るべきとおもっています。

まずは自分のことを自分でしっかりと守る。

自分の周りの大切な人を、自分でしっかりとまもれるように準備すること。

それだけで、世の中はよくなるんだというところをモチベーションにして、自分自身を鼓舞できるというのは大切な能力なのではと思います。

もっとできる人は周りの人に備えを促す

正直ちゃんと備えている人がいる自治体は、ありとあらゆる災害後の混乱に強いです。レジリエンスという言葉が流行したことも記憶に新しいですが、東日本大震災においてもてはやされた言葉です。

しかし、できる人は普段からの備えができる人、普段からのつながりができる人。

何もない時に、何かあった時の備えの大切さを説くことができる人です。

言う人によって伝わりが良かったりするのが、日本の風潮です。あの人が言うならそうしてみようと、そういうモチベーションが世の中を動かしていることも事実です。

そういう立場にある人は、その権力を自覚して平時からまわりに大切さを説く責任があるのではないでしょうか。

雨に備えて、晴れの日に傘を買う

本来であれば、これで記事が一つ書ける内容ですが簡単に書いてみます。

雨が降ったら、傘を買う

これは実は、対応能力としては下の中ですね。

雨に備えて、晴れの日に傘を買いましょう

まあ、傘を買えるお金をもっているだけましと言う意見もあるでしょうが、普通は家に傘をかって備えていて、雨が降ったとき、あるいは天気予報で雨の予報のときにはすぐに使えるようにしておくということが大切ですよね。

何かがおこってから、いま、すぐに買おうとしても傘が売り切れていることもああるかもしれません。

このエピソードからわかるのは普段からの備えが大切ということです。

普段からの備えが大切

では災害時どのようなものがあれば、助かるでしょうか。

たとえば、とりあえず、普段から生活物資の準備と買い溜めはしておこう

時間があれば準備ができて、そんなにお金もかからないですので備えをお勧めします。

よろしければ、1ヶ月分くらいインフラが止まることを想定して、ひと家族分確保しておくと良いと思います。たとえ災害が起こらなくても、他所での支援物資として消化したり、普段使いして消費することもできるので、問題ないと思います。

たとえば、とりあえず、ハザードマップくらいは頭にいれておこう

国土交通省がお洒落なサイトをつくってくれています。

https://disaportal.gsi.go.jp

各自自体もハザードマップ出してます。確認しておきましょう。

たとえば、とりあえず、車の燃料は満タンにして、土砂崩れと水没のリスクの少なそうな、安全な場所ににがす

実体験として、ここは間違いないです。スマホと充電コードと燃料満タンの車があればなんとかなります。

生命が危ないときに逃げるのはもちろん、命がたすかったあとの経済活動でも車の有無は、大きな差となって現れます。

生活物資の確保も、車がないと本当にとんでもなく大変です。

車ごと家から離れて逃げましょう。

家は動かせませんが、車は動かせます。

物流拠点に近づく方向にむけて逃げるルートを検索しましょう。

河からきょりのある、空港の近くなど、地盤の確認をして建築されていると思しき建物の近くが良いと思います。

普段から目星をつけておかないと難しいですね。

やっぱり普段から。

たとえば、とりあえず、情報インフラにアクセスする手段を検討しておこう

スマートフォンは必須です。そう言う点も考慮して業者を選びましょう。

できればすぐに持ち出せるノートパソコンは欲しいところです。パソコンだけではもちろん役に立たないので、その周辺機器もすぐに持ち出せるようにしておきましょう。

汎用的にいろいろなことに役立ちます。

あとはラジオ。スマートフォンがダメになったときに、情報を得られる大体手段があればいいですね。車があれば、ラジオは聴けるので、車があれば大丈夫と思います。

たとえば、とりあえず、家族と連絡が取れなくなった時の対処法について考えておこう

インターネット回線が死ぬということはあり得ないですが、電話回線が使えなくなる、端末が水没などして故障する、もしくは、電源が喪失して電池がなくなるなどして、連絡手段がつかえなくなる可能性があります。

そうなったときにどのように連絡を取るかをあらかじめ決めておくと心理的安心感が段違いです。

家に帰らず、安全な場所集合など簡単で絶対のルールを設定しておくと、命を無用なリスクに晒す必要がなくて良いとおもいます。

まとめ

とりあえず そなえは ふだんから。

なぜ「作業療法士でガンガンやってる人は、研修会を大切にする」のか

作業療法の世界で活躍していると目されている人は、作業療法士の本業と一緒に、研修会を主催したり参加したり、飲み会を企画したり、なんか色々やってますよね。

なんででしょう。

知り合いが増える

他の仕事でも一緒ですが、人との繋がりが活かせる仕事です。

外の人をどれくらい知っているかで、仕事の進捗が変わりますから、必然そのような場に行けるかどうかってのは非常に大きなポイントになるんだと思います。

後述しますけれど、知り合いが多いほど、その人から受ける刺激も多面的になり自分自身の成長にもつながりますし、逆に自分自身がスキルを発揮して、自分の活躍の場所を広げるきっかけを作ることにもなるのではないかと思います。

知識のアップデート

作業療法士の知識は、他の医療職がそうであるように更新しないと錆びます。

錆びるというのは、通用しなくなるということです。

以前、王道と言われていたやり方は、むしろ害のあるもので推奨されないということになることすらあります。

そういう情報は、現状研修会などで、先端の情報を持ってる人に接触しないと得難いというのが現状かもしれません。

お金になる

これは主催したり、主催者から読んでもらえる側の話になるのですけれども。

生活が成り立つまではいかないと思いますが、講演すれば謝礼がもらえるし、主催して人が集まるならば、その繋がりを生かして、新しい企画を進めたりもできるというわけです。

そのつながりで本を出版したりとかすれば、それで印税が入ってくるわけですよね。

お金ってのは、自分がやりたいことを貫くための原動力です。

やりたいことがたくさんある人は、そのことがわかっておられるのかなと思います。

自分自身という人間の器を強化する

先ほどの卒後教育の話とも一部重複するかもしれませんが、一つの職場で必死になって仕事をしていると、視野が狭窄してしまいがちです。

幅広い視点を持ったりとか、柔軟性を失わないとかいった意味での、自分自身の人間としての器をより大きなものとする、またそれを維持するためには、新しい人との出会いや、新しい事柄への挑戦というのは非常に大切です。

リハビリテーションの本質は、変化に対する挑戦であり、作業療法の本質の一つでもあります。

だからこそ、職業人としてはもちろん、さらなる人間としての成長を目指して、仕事のできる作業療法士こそ、色々なところに飛び回っておられるんだろうなと思います。

自分の知見を広める

作業療法士としての仕事で一番難しいと感じるのは、自分の治療経験や体験を一般化して、他の作業療法士にうまく伝えたり、他の職種や家族に対して、適切な深さで説明ができることです。

新卒の頃に比べれば幾分かできるようになったという自己評価ですが、それでもまだまだ、「相手目線での説明」はできていないように思います。

自分の理解を、自分の言葉で整理し、それを他者に伝える。その人から帰ってきた意見を消化して、相手に伝わるように言葉を返す。

この繰り返しの中で、新しい気づきが得られたり、自分の知見を広めることになります。

これからの作業療法士にはこの能力を徹底して強化していくことが必要なのではと感じています。

コラム やっぱり人材不足

研修会のモチベーションの話とは少し外れますけれど、やっぱり大事な話なので作業療法士の人材不足、特に外に出ていく作業療法士の数は、やはりまだまだ足りていないというふうに感じますという話を書かせてください。

なぜかといえば、自分の周囲で作業療法士の活躍を、一般の人から見聞きすることがないからです。

作業療法士という職業について知っている人は、医療関係の仕事をしたことがある人が圧倒的に多いという状況は、私が就職してからの数年間全く変わっていません。

作業療法士自体の数は増えているにもかかわらず、です。

これは、組織の後ろ盾なくとも、社会に打って出られる水準の作業療法士の数が十分でないというふうに見るのが妥当です。

であるなら、もっと作業療法士は、色々な研修会に出ていく必要があると思っています。研修会に参加する人って結構同じ顔ぶれだったりするので、いくたびに違う人がいるってなると、その研修会自体も面白いし、職場の空気感も変わるかもしれないし、作業療法業界も変わるかもしれません。

その辺、全ての作業療法士がMTDLP(生活行為向上マネジメント)なんかをうまく使って繋がれればいいと思うんですけど、どうもそうなっていないのが現実です。

これはやはりサラリーマン作業療法士が多いことと、MTDLPの学習コストが高いことにあると思います。

便利なテクノロジーがたくさんあるのですから、その辺をうまく活用して、忙しい作業療法士でも手軽で安価に勉強ができるような環境を整えることで、必要な武器をしっかりと持って自信を持って地域にうって出ることができる、そういう作業療法士が増えたらいいな、と個人的には思っております。

そのためにこのサイトを活用してもらえたらいいなというのも個人的な思いですね。

ライフワーク

研修会に参加するのが癖になっている人も、いるのではないかと思います。

抜けたくても抜けられない的な。

これも、一種の人材不足でしょうか。

 

総括

こうやってずらりと見てみると、やはり研修会への参加を検討するのは、「作業療法士として成長したい」という、何らかの思いがあるからではないかと思います。

そして、作業療法士として自信を持って活躍している人は、自信を持ってひとの集まるところに行ってますし、研修会は結局のところそのうちの一つでしかないということだと思います。

逆説的に、自信を持って作業療法士をやっていきたいと思うなら、ライフワークになるくらい、自分で研修会に関わっていくくらいのことが必要になるのかもしれません。

しかし、作業療法士として必要な技能の全てが研修会で補えると思いませんし、むしろそれらを追求するなれば、学術的な視点の外側から、作業というものをしっかりと突き詰める必要があるように思います。

コラム 作業の「底」

「底」っていうのは、基盤ですね。

いろんなところで、いろんな遊びを具体的にやっておくという経験が作業の底になると思います。

とにかく、都市部で育つと遊びの幅が狭くなりがちなので、この底をどのように固めるかってのが、作業療法士として楽しく働くための、一つの鍵になると思っています。

まとめ

研修会に行っとけば、研修会に行かないよりは、作業療法士として成長できる。

しかし、作業療法士としての成長は研修会にいくのみにあらず。

OT評価実習生:OTSにOT五年目が感じた 実習中の成長を左右する要素の「ヤバさ」

短期(評価)、長期(総合臨床実習)に関わらず、実習中の学生目線だと理解できることがあります。

一方で、経験年数が増えて、経験値もそれなりに増えると、ここ最近はじめて感じることがありました。

その2つの間のギャップの話です。

「何をしに、実習にきたの」

実習を通して、成長する学生と、

あまり変化なく帰っていく学生との間には、いろいろな違いがあります。

その違いは、普段の臨床にも通じる大切な「違い」だと思っています。

後者の学生がよく言われるのが、

「何しに来たの」

です。

これが、その理解のためのキーワードであるように感じています。

何のための実習かがわからない

「実習に行くことになっているから、実習に行く」

という学生が少なからずおります。

実習のための実習、実習が自己目的化している学生です。

こういう実習生が、上記のような質問を実習中に繰り返しぶつけられて、あまり成長なく、実習に対する傷つきだけを感じて帰っていくことが、ままあります。

そのタイプの実習生は、なぜ生まれるのでしょうか。

そしてなぜ、実習生は傷つくのでしょうか。

作業療法学生:OTS目線での実習

申し訳ないのですが、引用できる資料もないので自分語りになります。

でも、自分の学生時代、OTSのときの実習を振り返ると、その傷つきのヒントにはなると思います。

学生の頭の使い方の典型とおもうのですが、

「学校で学んだことを、臨床で生かす」

という思考回路があります。

学生の作業療法観は、授業の中の情報や、講師の話によって構成されます。

それのみによって構成されていることがほとんどではないでしょうか。

すると、学生の行動原理は、

「いままで自分が学んできたことを実践してみること」

になります。

そして、それができることによって、実習が合格となるというモデル(妄想)が頭にあります。

これが、実習の為の実習であると、臨床家のOTRのみなさまから批判されるところだと思いますが、学生の側からすると、むしろ自然ながんばり方なのではないでしょうか。

それなりに臨床経験のある作業療法士:OTR目線での実習

一方で、かつてOTSであった作業療法士:OTRの側に立つと、今、実習で学生に求めることはシンプルです。

目の前の対象者に対して、いち作業療法士、いち臨床家としての今の自分での最善を尽くすこと、です。

作業療法士として、実地で経験をかさねていくうちに、自然と評価できるようになることはたくさんあります。

それは、養成校で学ぶこともたくさんありますが、養成校で学ばない、学べないこともたくさんあります。

身体障害領域で例にとると、ポジショニングの常識も日進月歩です。

かつては、

「隙間をうめる」

がポジショニングの王道でした。

しかし、やり方をまちがえると、日々のポジショニングの積み重ねが屈曲拘縮をつくりだしてしまうということがしられるように、徐々になってきています(多分知られて来て、浸透していると信じたい)。

別の例で言えば、かつて推奨されていた、教科書にも載っているような、移乗の方法が、実は自立度の低下につながる場合もあります。

このような学びが、学校でできたか。

告白します。

私個人の経験からすると、不真面目な学生であった私はできておりませんでした。

そして、その学びは、先進的なものであればあるほどに、教科書中心の座学授業の中では決して学ぶことができない、臨床による技術的なものや、それに基づく評価であったりします。

それは、国家試験を念頭に置いたものではない、日々の臨床、実践を念頭に置いたものだからです。

作業療法に正解はありません。現在地点が人それぞれで、ゴールも人それぞれだからです。

かつての正解が、状況によっては不正解になることもありえます。

そのことを、経験値として知っている作業療法士ほど、OTSに対して、将来の臨床家として、今現在の最善をつくすことを求めますし、実習とはそのようにするべき場所だと思っています。

だからこそ、臨床家として、実習態度がどうのこうの言うわけです。

それが臨床の結果に直結することを、経験則として痛いほどわかっているからです。

つまり、作業療法士:OTR目線での実習とは、

「実習中の事象から、素直に考えて、行動すること」

だと感じていると思います。

自分はそう感じるようになってきています。

このギャップ 「ヤバい」

実習の指導は、OTSとスーパーバイザーであるOTRの間の事象なので、目指すべき場所が共有できてないとこじれます。

作業療法士の側としては、自分の目線から、上記のような学生の実習への取り組み方を見ていると、

「なにしにきたの」

となるわけで、それを学生に伝えます。

900789.png

言われたOTSは、なんで自分がそんなことを言われるのかも、わけがわからず、萎縮してしまい、その結果としてスーパーバイザーが求める実習態度から乖離していき、その度に「なにしにきたんですか」といわれるという悪循環が生じてしまいます。

その結果として、実習中の表出が制限され、なにもかわらないままに実習終了、お疲れ様でした、となるわけです。

自分の理解としてはこういうパターンは少なくないと思ってますし、間違ってないと思います。

作業療法士としての仕事時間のほんとうに貴重な時間の一部をボランティアの実習指導に費やして何も学生が成長しないままに実習終了するとか、本当に悪夢でしかないのですが、少なくないと思います。

正直、やばいなーとおもいます。

やばいなーと思いませんか。

では何でこういうことがおきるのかというと、上記を踏まえるとOTSとOTRの双方に要素がありそうです。

作業療法士の労力に見合った分、学生がたくさん学んで、成長して帰るようにするには、どうしたらよいでしょうか。

OTSは、自分の将来像を考えると幸せになれる

いろいろあるけれど、たとえば。

実習に来る前に、どんな職場働きたいのかは、なんとなくでも決めておくことです。

べつに後で変更したってかまわないので、自分はどんな領域のどんな場所で働きたいのか、それを明確にしてそれをスーパーバイザーであるOTRに伝えることです。

そして、そこで働くためには、自分はどんなことが必要と考えているので、どんな学びをその実習で得て帰りたいかということまで明確にできると、将来の自分のために動けるので、多少能動的になれるかもしれません。

自分なりに、自分自身について、実習に行く前に真剣に考えておくことが、実習前に行う準備として必要だったのかなと思います。

自分の将来像について、明確にできるといろいろ幸せになれそうな気がします。

作業療法士が学生時代の自分の体験(忘れたい?)を思い出す

本当に真剣に取り組んでる作業療法士ほど、日々の臨床がとんでもなく忙しいので、かつての自分を振り返る機会なんてありません。

今の自分の感覚や感性を基にして学生と関わるので、上記のような問題が発生するのではないでしょうか。

過去の自分を思い出してゾッとすると、目の前の学生が少しは可愛く見えるかもしれません。

いち作業療法士として学生目線をいつか忘れる恐怖

個人的な感覚ですが。

学生のことがいつかわからなくなるのが怖いです。

そのリスクは、自分が作業療法士として経験を重ね、成長するほどに高まるものだと思います。

学生のことがわからない作業療法士は、その学生の3年後を見据えた効率のよい指導や助言ができないのではないかと考えています。

後進育成のへたくそな作業療法士にはなりたくないので、いつか自分が今の自分の感覚だけに頼りすぎることが非常に恐ろしいです。

謙虚に

自分のことは棚に上げないと指導ができない場面は、確かにあります。

だからといって、それが行き過ぎて、かつての学生時代の自分の不出来と乖離したような実習目標を学生に負わせるのは、あまりにも雑な指導だなと、自分と学生とのかかわりを通じて思います。

養成校側から、よく言われる

「学生を患者様だと思って指導してください」

というのは、

「患者様に関わるときと同じくらい謙虚な気持ちで」

と自分なりに読み替えることにして、学生の成長を自分の糧にもできたら、自分はより良い作業療法士になれるかな、と考えています。

そうしておけば、学生にも謙虚になーれ、と指導しやすいです。気持ち的に。

互いを知れば「ヤバさ」は軽減できる

認知症の方への介入は、相互理解の促進にありますよね。

OTRとOTSの関係も同じではないかと思うので、この記事を書きました。

すこしでも「ヤバさ」が軽減されれば幸いです。

やり取りがしたい

こんな独善的な文章を読んでくださり、ありがとうございました。

よんでくださっている皆さんは、なにかしらおもところがあるはずです。

なにか気になる点がありましたら、LINE@をやってるので、そちらでメッセージ飛ばしていただければ、私自身の学びになりますので、よろしくお願い存じ上げます。

作業療法.netのLINE@アカウントはこちら

特に学生諸君の等身大の意見があると非常にうれしいです。

わからなさや不安があれば、質問していただければ、答えられる範囲でクローズドにやりとりします。

年取ると頭が固くなるな、と感じる今日この頃です。よろしくおねがいします。

目に見えないことを取り扱う難しさと重要性 作業療法士に求められること

ぱっと見やその瞬間の事実だけでは、うまく解決できない事柄にうまくアプローチ、介入して解決への方法を模索できることは、とても大切です。

たとえば、認知症の方の問題行動を、さまざまな文脈からとらえて、ご本人との共感をヒントにしながら、問題となる行動がなぜ起こるのかを整理することは、ご本人のQOLを向上させるだけでなく、その周囲の人たちと本人のつながりを健全に保ち続けるためにとても大切です。

こうした目に見えるところだけを基にしてアプローチしても解決しにくい問題を、目に見えない要素を加えて解決に導くことが得意な作業療法士は、本当に尊敬しています。

そしてこれは、作業療法士の重要な専門性のひとつだと思います。

「見えないこと」を根拠に行動するのは難しい

作業療法士は、目に見えないところが情報として集約できるので、具体的な提案ができます。

またまた例えば、認知症の方への周囲の人たちのかかわりを考えてみましょう。

周囲の人が認知症の方の特性がわかっているかどうかはもちろん重要なのです。

しかし、それは作業療法士の専門性として言い切ってしまってもよいくらいに、むずかしく、ハードルが高い事柄だと思います。それに、わかっちゃいるけどできないということもあるでしょう。

発達障害のお子さんと親御さんにも同じようなことが言えます。

家族などの周囲の人の言動、普通は害や悪影響よりも、メリットが大きいと思われるような言動が、本人の問題行動を引き起こしていることは、日々の臨床のなかでよく見ます。

良かれと思っての行動が、当人に対するストレスやプレッシャーとなって、二次障害を引き起こしていることもままあります。

それは、周囲の人が思うその人と、本人の人となりや個性・障害の間に大きなギャップがあるからです。

そして、それは目は見えないものであることが多いです。

たとえば、精神障害は目に見えません。

具体的に見えるのは、その人の表情、行動です。

それらを総合して、適切な判断をするには、情報や知識や経験が必要ですので、まず判断することがむずかしいです。そして、その判断をもとに実際に行動を起こせるかというと、それはさらに難しいです。

作業療法士が「可視化」することの重要性

だから、作業療法士は、

「こういう関わり方をすると、うまくいった」

という経験を周囲の方にしてもらえるような提案ができることが大切と感じています。

理由や理屈はとりあえずおいておいて、

「やり方しだいでなんとかなる」

という感覚を本人も周囲のひとも得られるような具体的提案ができると、まずまずな作業療法ができたといってよいかな、と自分自身に言い聞かせています。言い聞かせます。

だから、作業療法士は、その人の生活における困りごとを整理し、解決するための方法を提案するために、きちんとその方の目線に立って、同時に客観的に評価を行い、目に見えないことを情報化、可視化することとても重要で、それが求められていることであると思います。

求められるのは作業療法士の評価を共有すること

また、すぐに解決できなくても、状況をきちんと整理して評価を対象者の方やその周囲の方と共有する、そのこと自体の意義も大きいです。

それは、

「なんだかよくわからないけど困ってる」

という状態を整理できるだけでも、

「『わからないこと』がわからない」

という混沌とした状態を脱することができ、

目標やゴールが明確になります。

つまり、問題解決への道筋が明確になります。

「なんだか困ってる」を「ここが困ってる」へ

同じ暗闇のなかでも、真っ暗闇とトンネルのように、目指すべき明かりが見えているのとでは、人間の感じるしんどさはまったく違うものです。

骨折や麻痺などの身体的なリハビリテーションにおいても同様のはずで、

「これがしたい、だけどあれが問題だ、だからそのためのソレ(治療介入・プログラム)だ」

という説明が丁寧になされているかどうかは、回復の度合いに大きく影響すると思います。

患者様の主観としては、

「これまでどおりに、服を着ようとしたら着れない」

のであって、

「過剰努力によって連合反応が起こって、結果として重心が支持基底面から出てしまう」からでもないし、

「ギプス固定および三角巾による固定による運動制限によって、僧帽禁や広背筋などのビッグな筋が短縮して関節可動域が小さくなっている」からでもありません。

そういう、「みえない」「わからない」ところを、いわゆる専門的な知識をもとにして、どれだけ作業療法の対象者の方の主観とすり合わせていくか、問題の認識の合意に至るかということが、治療効果の有無を分けます。

そして、それがエビデンスのある作業療法につながると思います。

ようは、説明責任を果たすってことです。

コンパクトに伝える

主観とのすり合わせにおいて、専門用語を羅列してもらちがあきません。

専門用語を使わなければならない必然性もありません。

対象者の方が、理屈を感覚で理解できればよいのです。

0a48f35dd94383ce9b827ff22a97be55_s.jpg

それが可能になる程度にフラットな表現でコンパクトに伝えましょう。

そうすることで、介入の中での確認が時間をかけずにつどつどコンパクトにできます。

事象の整理は作業療法士の専門性

繰り返しになりますが、「見える化」は、作業療法士の専門性の重要な柱だと思います。

何がその役に立つのかは本当にわかりません。

自身にとって趣味や、遊びの範疇の経験が、相互理解を助けることに役立ったりします。

自分の経験をフル活用して、知ろうとすること、

普段からいろいろな経験を、自分の学びにすること、

これらが作業療法士の「見える化」をスムーズにし、仕事をよりやりがいがあって面白いものに変えてくれると思います。

キーワード「MOHO」でgoogle検索したら、OT関連じゃなかった件

あかんやろ。

MOHO大事

MOHOもとい、人間作業モデルって、作業療法士的には大事ですよね?

Model of Human Occupation ってだいじですよね?

大事でしょ?

あんまり大事じゃないかしら。

作業療法関連の概念の中では、結構重要な理論だとおもってただけに今回の検索結果は結構ショック

と、同時に結果が妥当だと思う自分も嫌い。

google検索結果

今回は、キーワード「MOHO」で普通にgoogle検索をかけました。

ふと検索したんですよ。

そして、その検索結果1ページ目は以下のような感じ。

src_moho.png

ご覧のように、1ページ目にはまったく出てこない。(2017/09/29現在)

2ページ目でようやく登場する。

これは、いかに、一般に作業療法が浸透していないかを、証明してしまっている。

そう受け取らないといけないと思いました。

危機感MAX

一般の人が検索することはまずないでしょう。

作業療法のキーワードで、どの程度の検索があるのかも微妙です。(あれも、ヒットするのは養成校の広報HPがほとんどです。インターネット検索対策をきちんとやってるサイトが多いためと思われます。)

ですが、ふと違った考えが浮かびました。

学生とか、作業療法士もひょっとして、あんまり検索してないのかなあーなんて思いました。

そもそも、人間作業モデル授業で触っただけっていう人も少なくないかもしれません。

でもそれだと、ほかの理論を学ぶときのコストも大きいし、作業療法をうまく説明できるのかも正直不安になります。

インターネット上に有意義な情報がなかったら、確かにそもそも検索する気持ちも起きんですね。

自分自身振り返ってもそうかもしれません。

MOHOの解説書きます

だから、MOHOの解説文を書くことにしました。

言い訳しておきます。

いろんなことと並行作業になるので、すぐすぐには公開できないと思います。

でも、きっとこのページを見てくださっているまじめなOTさん達や、作業療法の貴重なフォロワーの皆様におかれましては、多分、何らかの需要はあると思いますので、なるべく早く仕上げたい。

完成がいつになるかはわかりませんが、年内には書き上げたいなあ。

年末忙しくなるので、実質あと一ヶ月以内に、原稿はまとめないと年内は厳しいかもですが、ちょっとこのgoogle検索の結果はアカンと思うので、その気持ちをモチベーションにがんばります。

自分自身を追い込むために書きます。

がんばろう。

がんばれるかなぁ。

がんばります。

漫画「マギ」が、壮大な自己決定の話だった件

作業療法関係ない作業療法の記事。

漫画大好き

漫画は、経験したことないことでも、ある程度の想像の余地を残しながらわかりやすく提示してくれるのでいいですよね。

マギです

この記事は、サンデーで連載中の漫画「マギ」の壮大なネタバレが含まれているかもしれません。
コミック派の人は注意してください。
illus.png
©︎小学館 / 大高忍
本日、発売のサンデーに掲載されている「マギ」がとてもいい意味で衝撃的だったのです。
cover.png
自己決定の話を重くなく、かる〜く、でも本質を抑えて提示していて素晴らしかった。

自己決定の重要性 with 作業療法

先進的なリハビリテーションでは、当たり前に主張される「自己決定」の重要性。
特に、精神で強調されることが多いですが、作業療法やってる上では避けて通れない話題です。
それに関する本もいろいろ自分なりに読んで勉強したりとかもしてたりするんで、ちょっと詳しい自負はあるし、日々の臨床で常々ぶち当たる話題でやっぱり重要だなと思うんです。
自己決定。
自己決定重要。
これがないと、生活を見据えたリハビリテーションも、生活につながる作業療法も絶対にできないという確信があります。
なぜか、自分がやってることが自分で決めたことなら自信をもってとりくめるのです。
逆に人から言われたことの失敗は、人のせいにしがちです。成功しても、自分の自信につながらにないことも。
自己決定の重要性はなんと無く伝わるでしょうか。

自己決定の重要性を伝えるのは難しい

でも、自己決定についてのフランク(平易)な説明って難しいんです。
そもそも、自己決定って言葉がまず硬い。
ハードル高いと感じちゃう。
読んで字の通りで、自己決定とは
「自分で決める」
というそれだけのことなんですが、どうしてなかなか、
その重要性を論じる
となると難しい。

「マギ」は名著

こっからちょっと読み飛ばしていただいて構わんのですが、話変わって、あまり、そんなに名作だと思える漫画がないんですよ。最近の連載。
最近の漫画は、昔の漫画の焼き直しだったり、等身大によりすぎて何を描きたいのかがよくわからないテーマのぼやけた漫画ばっかりだったりするのです。
そんな漫画ばっかりの昨今において、ファンタジーものでここまで、普遍的かつ、重要な人間の特性を掘り下げた漫画はあんまりないと思ってます。
人間を描くのが、いちばん面白い漫画のあり方かなーと思うのですが、それができてるのが「マギ」だと思います。
少年漫画なのに、ダークですし、大人こそ読んでて刺激的だと思います。
que-12133254027.jpeg
©︎小学館 / 大高忍

ストーリー

ついでに、ストーリーも。
ファンタジーです。
アラジンとアリババというダブル主人公が冒険しながら、人間的に成長する話。
7aeaee2c_convert_20121012174908.jpg
©︎マギ製作委員会、MBS 小学館 / 大高忍
最近は、世界の破滅から世界を守るために、いろいろするという話です。
「いろいろ」は、自分で読んでください。

以下、自己決定の話とネタバレ

文章力無いので、読んで面白く無いと思います。
読み飛ばしていただいて結構です。
最近は、
神というか、世界のルールを設定している管理人と喧嘩してます。
Unknowns.jpg
©︎小学館 / 大高忍
意味不明ですね、はい。
読んでください。
で、その神が、シンドバットとダビデっていう人に書き換わってるんですが、その二人は「属性」として特異点という役割が与えられているんです。
「運命」が見える、という設定なんですね。
つまり、絶対預言者というか、「必ずこうなる」というのがわかるということです。
で、運命の言いなりになるのが嫌だっていうので、自身を特異点に設定している世界の枠組みをハックして、運命の枠組みから外れようとします。
運命をハックしたことで、「人類補完計画」が発動します。
よくある、世界から個々の人類が滅亡する流れですね。
ダビデさんの行動原理としては、鋼の錬金術師のホムンクルスのアレです。
自分が高みに登るためには、なんでも利用して、エネルギー源に変換してしまえというわけです。
で、その目論見の過程で発動した「人類補完計画」をストップさせようというのが、先々週までの流れ。
そして、その危機的状況を打破するために、一人の強力なリーダーを選出する方法論の提示があったのが先週。
ちなみに、神代理のシンドバットさんが直指名。
そのリーダーは、アリババくん。
以上がここまでのあらすじ。
ここまで読み飛ばして結構です。

以下が大事

そして今週、解答編。
強力な預言者に、リーダー指定されたアリババくん。
その指名を派手に蹴ります。
かなり、表現は変えてますが、
曰く
「もっともらしい意見だけを元にして、結論が不確定な状況で、結論決めつけてどうするの?そうならない可能性は、十分存在する」
「別の問題が起こった時に、自分で意思決定してなかったら、自分で決めなかったんだからしょうがないって思うだけでしょ」
「そろそろ、自分の言動は自分で決めません?」
「だから、リーダーなんて引き受けません」
要するに
「ちゃんと自分で決めろ」
って、主人公じゃない人々に促したところで、今週の話は終わりました。

自己決定はなぜ重要か

上記のアリババ氏の発言に、自己決定の重要性の全てが詰まっているように感じました。
結論を「偉い人とか、規則がそうだから」と飛躍させて、自分自身での決定をしないと、その人は自分で責任を取って生きるということができなくなるんですよね。
本来、人が生きるということは、自己決定の連続で、だからこそ、何か問題が起きてもその状況を自分のものとして引き受けて、新しい自己決定や行動につなげることができるんですよね。
あくまで、みんながそうというわけでなく、傾向の話ですけれど、輝いて生きてる人たちはやっぱりしてますよね、自己決定。

患者様とかに読んでほしい

作業療法士ベテランの皆様は、自己決定の重要性はわかっていながら、どうやったらそれが伝わるかに苦慮する場面もあると思います。
若い漫画好きの患者様には、わかりやすくていい教材だと思います。
患者様だけでなく、自己決定の重要性がいまひとつなひとにも是非読んでほしい。
自己決定の重要性がわからないと、人権の意味もイマイチピンとこないはずですし、でもその重要性ってイマイチわかりにくい。
わからないと、リハビリテーションや作業療法の破綻や、人権侵害にもつながる。
自分が決定することの大事さがわかれば、相手を尊重することの大切さや価値もわかりますから、人間関係ももっと円滑になるし、自分で自分の治療の選択に積極的になれるし、パターナリズムも無くなるし。
大事だなーと思います。
ファンタジーを読んでたつもりが、哲学書やら自己啓発本の中核的なエッセンスを不快感なく取り込める名著ですので、ぜひ読んでください。
あるいは、待合室に買ってください。

作業療法の自由度の話

作業療法士っていう職業は問題解決してなんぼという側面があります。

結構若手というか経験不足なうちは、なんとなくそこであせるというか、もがく気がします。

私も例に漏れず、対象者の方にとっては、大して意味のない変化を出して自己満足したりしちゃうこともあったような気がします。これが自由度の罠ですね。

自由度の罠

無意味じゃないけど、本当はもっと重要なことがあるんじゃないのっていう。

なんかやれば、なにかは必ず変わるんですから、何かを変えることが重要なのではないのです。

優先されるべきこと

何を、何のために、どのように変えるのか。

それを対象者ご本人が、どのようにうけとめるのか。

それが、一番大事なことなんですよね。

ついつい、問題解決してなんぼっていうのが、自分のなかで大きくなりすぎると、えてしてそういう臨床におちいりがちです。

手っ取り早く解決できる問題に飛びついてしまうという。

でも、そういう臨床ってほんとの意味でのリハビリテーションと違っちゃってることもあるように思います。

リハビリテーションと魚

有名な、OTの先輩方は大体知ってるエピソードなのですけれど、ごぞんじでしょうか。

「魚を与えるよりも、魚の取り方を教えよ」

魚を与えて満腹にしたら、依存が生じることもしばしばです。

お金儲けがしたいなら、それも悪くないですが、リハビリテーションがしたいなら、ちゃんと腹減ったときのコーピングをティーチングする必要がありますし、もっといえば漁獲以外の選択肢を考えられるようコーチングするべきです。

それが、ちゃんとしたリハビリテーションだし、作業療法の自由度ってそういうことのためにあるんじゃないでしょうかね。

それを、なにか結果出さなきゃ、問題解決しなきゃと、すぐに解決できる問題の解決ばかりを繰り返していたら、そりゃあ苦しくなってきませんか。

同じことの繰り返しで。

これが自由度のワナです(繰り返し)

一緒に遊んでるだけ?

作業療法士さんは遊んで点数もらえてすばらしいといわれることもあるようです。

特にベテランOTだと、はたから見ると、そばに寄り添ってるだけで何にもしてないように見える介入もあります。

さっきの魚の話になぞらえると、一緒に釣り糸を垂れてるだけという感じでしょうか。

sagyouryouhou_souji.png

っていうのも、要所要所支えてないとその人の生活やらなんやらが成り立たないという評価がきちんとあった上でほんとに要所要所しか介入しないと、一部分だけ切り取られると何もしていないように見えるんですね。

おおむね大丈夫なんだけど、不意によろけて海へ転倒転落しそうになる人とかの場合は、こけそうになったとこだけしっかりと支えればいいのです。釣竿がひいてるときとかそうかもしれません。

過剰なお手伝いは依存を作り出しかねません。

相手と対等であるためには、相手と同じように同じことをするのが一番なんですね。

そして、本人以外へ

それから、対象者の方本人に対して何かをすることだけが作業療法ではなく、釣竿使いやすい長さに調整するとか、リールは自動巻きのにするとかといった環境調整やら、つった後の魚の運搬や鮮度管理調理といった前後の連絡調整とかの段取りをするとか、そういう部分のほうが大事だったりしますよね。

それは、その人がどんな生活を送りたいと考えていて、どのような生活を目指してリハビリテーションを進めていくかによって、作業療法士がやらないといけないことは大きくかわるんで、それがいわゆる作業療法の自由度なんだと思います。

作業療法 ≒ コンサルテーション

だから、作業療法ってコンサル業とか、マネジメント業務に近い要素が多分に含まれていて、お勉強がそこそこできて、大局的に自分の業務が把握できないとこなせない仕事なのかなとおもいます。

問題解決する前に、どの問題から手をつけるのかを、対象者の方と一緒にしっかりと吟味できないとなかなかつらい仕事なのかなとも思います。

プラスアルファ、必然自分で考えることが必要になるので、そういう意味でも能力が必要です。

お給料的には絶対に割に合わない仕事です。

作業療法に完璧は定義できませんが、少なくとも自分が知ってる第一線クラスのOTさんたちは、能力に見合った給料をもらってません。ほかの職業ならもっと稼げています。

でも、あえて作業療法士やってるってのが、一番の自由度かもしれません。

そういう作業療法士さんのOTは、対象者の方にも非常に高い自由度をもたらしているように思います。

自由度を使いこなしてこそ、作業療法士ですよね。

そういう作業療法士に、私はなりたい。

こっぱずかしいことを書き連ねて、記事は以上です。

蛇足:魚の話は、実は出所不明らしいです。知ってたら教えてください。参考:http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000133786

実習という作業療法士養成課程上必須な課程の問題点

フェイスブックのほうで、下記リンクの記事シェアをしたら、珍しくたくさんのいいねがもらえた。

理学・作業療法士学生、指導役と相次ぐトラブル 養成課程・実習環境、見直しへ―くらしなび

関心がそれだけ高い問題なのだなー、と。

それもあり、改めて内容を自分のために整理する意味も含めて記事にすることに。

別にこれから実習に行く学生さんを脅すような意図はない。

状況はかなり深刻と勝手に思っている。

実習の現場で今、なにが起こっているのか。

問題

現在起こっている問題は、結局以下に集約される。

実習生が、実習でつぶれる。

シンプルに起こっていることはそれだけのことである。

figure_ojigi.png

その原因は3つある

①実習指導者の指導力不足

②学生の実力不足

③養成校の職務怠慢

この3つが、絶妙に絡み合って、実習先でつぶれる学生が続出しているように思える。

ひとつずつ見ていくと

① 実習指導者の指導力不足

実際問題として、実習生をしっかりと指導する余裕なんて、臨床にしっかりと取り組んでいる作業療法士にはあんまりない。

臨床のついでに指導する、もしくは、臨床しながら指導する。

そして、休憩時間とか、なけなしの空き時間を無理やり運用して、学生が書いたレポートを読む。

実習指導者の側に余裕がないのは、間違いない。

余裕がない中でも、人を導くことができるかどうかはよい作業療法士であるかどうかのひとつの判断材料であるとおもう。

学生の質は後述するように、芳しくないが、それを引き上げるのも、作業療法士の腕のみせどころではある。

と、思う。

そんな生易しいものじゃないけれど、人格や学習能力に問題がないのだったら、できる範囲でできるだけ伸ばして返してやるのが、できる実習指導者のあるべき姿と思ってるので、そうでない結果で学生を送り出すことが6割を超えるような指導者は、あんまり人を教えたり指導するのに向いてないかもしれない。

作業療法士向いてないかもしれない。

学生がろくでもない場合には、キチンと養成校側にその旨を伝えるのも仕事だけれど、その辺なあなあでなんのためにバイザーやってるのかわからない、そういう実習指導者もいることも事実。

②学生の実力不足

バイザーが教えてくれないと、あるいは、指示がないと実習中何をしたらよいかわかりません。

という学生が増えているが、これは学力不足というよりも社会経験の不足であり、そういう意味で実力不足が顕著である。

し、加えて、そもそも作業療法士になろうというモチベーションはあまり高くないままに、実習に来てしまう人もちらほらいる。

そして、臨床を甘く考えていたことを、いざ実習にきてみて強く突きつけられて、そこでおろおろとしてしまう人もいる。実習中に、自分が臨床を甘く見ていたことに気がついても、その後の実習で取り返すのは難しい。

臨床に見合うレベルの学生は少ない。

後述する理由で当たり前ではあるが、それで実習パスしたら、そんで国家試験に合格したら、そうしたらプロとして臨床に立つようになるわけである。

そう考えると、結構恐ろしいことだったりするので、バイザーが厳しくなるのも少しは理解してもらえるかなあどうかなあ。

実習に来ているということは、一通りの勉強は学校で終わってますよ、ということなので、学力不足は論外だし、学力をうまくいかせるように自分でなにが必要かをかんがえて動くことができることがとても大切なのだけれど、それができる学生はほとんどいない。

③養成校の職務怠慢

養成校は、学生を強く指導できないし、やる気のない学生を辞めさせることもできない。

なぜなら、学生が来ない学校はつぶれるからである。

そして、少子化によって、入学する人数自体が減少しつつある昨今においては、キチンとした指導をすることによって学生がやめるリスクをとるよりも、馴れ合いのような授業であったとしても学生に辞められないようなそういう指導をせざるをえない。

自分の指導によって学生が減少したとなれば、教職を追われることになるかもしれない。

さらにいえば、作業療法を教える作業療法士は二極化していて、ぜんぜん臨床経験ほとんどないけど研究で先生になりましたって言う人と、臨床一筋だけど論文よめませんかけませんっていう人。

その両方ができる人は少ないけれど、とくに前者の人は、いまさら臨床でがんばれないので、余計なかなか強く出ることができなかったりする。

学生が、不真面目なツケは結局のところ後のち本人に帰ってくることになるのだけれど、そうなるまえに気がつかせるのが教員の本来あるべき姿なのではないかと思うので、そういう意味では職務怠慢。

まとめ

結局のところ、誰が悪いというよりも、いろんな要因が重なって、その結果として実習生がつぶれる時代になっている。

そもそもの実習の仕組みが悪いので、たとえば医師のように、国家資格を取得した後にスーパーローテートでいろいろなジャンルのところではたらいてお給料もらいながら臨床にでるとか、そっちのほうがいい気がする。

そうじゃないと、結局学校が本人の責任を肩代わりしてしまうし、学生とバイザーの間に利害関係が強く生じてしまうので、学生のがわも指導者にしっかりとぶつかっていくことができない構造になってしまっている。

これはやっぱりよくないので、制度を変えることを考えるか、それが難しいというなら各人の不断の努力で何とかするしかないかとおもうのだが皆様いかが思われますか?