社会と作業療法と効率化を妨げるものの話

作業療法を必要とする人に作業療法を届け続けるために作業療法に必要なのは、イノベーションだと思っています。つまり、作業療法士がどの程度、何かを変えることに対して積極的になれるかどうかということです。

安定と変化のバランスが大切ですが、医療全体を見ていると安定にしがみつこうとしている嫌いがあり、作業療法士はそこでどのように振る舞うかが問われているようです。

作業療法と社会全体をぼんやりと眺めて、この記事を書いていきます。

林先生の授業の数学のはなし

東進の林先生のテレビ番組にて、「算数の入れ替えの問題」の問題について取り上げていました。

この問題は、twitterで探せば類似のものがたくさん出てきます。例えば、以下のようなものです。

で、交換法則を認めず、これが間違いになるのは、どうなのかという話は、以前世間一般で議論になりました。

これについて、いろいろな意見があると思います。

今読んでおられるあなたはどのように感じますか?

「学校の先生に習った通りに回答していないのだから減点すべき」

と感じるか、はたまた

「算数の先の数学においては、交換法則習うんだからさあ、バカみたい」

と思うかは、その人がどこに重きを置いて考えるかによると思います。

 

前者は、「悪法も法」つまり、暗黙のルールでも守らなければならないし、それが秩序であるという考えかたと言えるでしょう。

後者は、合理主義というか、論理的に正しければ、良いのではという考え方であると言えるでしょう。

要するに見ている世界も違うし、その背景にある物差しもおそらく違うのだと思います。

 

ちなみにこの番組では、世界的な数学の権威の意見を参考として、

「きちんと問題文で条件を提示していないのであれば、不正解とする合理的理由はない」

「ガウスという天才がいたが、彼は交換法則を見出して1〜100までの合計を瞬時に見抜いて見せたが、そこで交換法則を否定するような教師に指導されていたら彼の数学者としての人生はなかったかもしれない」

という方向で意見集約されていました。

上記の話は、「合理性」というものを考える上で非常に示唆に富んでいます。

合理性とは方法論の改善

アルゴリズムという言葉を聞いたことがあるでしょうか?

主にITの世界で使われる言葉かもしれませんが、「方法論」と言い換えても良いかもしれません。ようするにやり方、方法です。

同じ結果を得るために、様々なやり方がある、そのやる方のことをアルゴリズムと言います。

先ほどのガウスの逸話でいえば、

1〜100の合計を計算する方法は、

一から順番に100まで足す

1+2+3+4+5+6+・・・・+99+100

101掛ける50

という方法の2つのアルゴリズムがあります。

お分かりのように、そのどちらを用いるかによって、結果を得るために必要な時間が大きく異なるはずです。

多くの人は足し算の処理を頭の中で100回繰り返すの時間に比べると、一回の掛け算を頑張る方が早く計算の結果を得ることができるでしょう。

 

これは、和の交換法則が成り立つという前提と同じものが複数個あるなら積として扱えるという知識があるがゆえにできる、スムーズな回答なのです。

で、この方法にバツをつける学校の先生がいるということが問題視されているわけです。

「学校で習っていないことをするのはけしからん」ということですね。

しかし、習っていようがいまいが、賢い人は、合理的な考え方をしますし、結果が同じならば、低コストな方を選びます。それが、のちの選択肢の幅を広げる方向に影響すること、つまり自分の人生をより豊かにすることに直結することを理解しているからです。

スムーズなのはずるいか

不思議なことにこうしたスムーズな解法は賞賛されるか、非難されるかという真逆の評価を受けることになるのです。

率直に、スムーズで素晴らしいと褒められる場合もあれば、逆に正攻法ではなくてずるい、手を抜いているという評価を受けることもあるということです。

前者は合理的感性であり、短い時間で多くの成果をあげることは素晴らしいですねという感覚ですね。

後者は、自分が持っている文化的社会的公正さのイメージにそぐわないので、好ましくないと感じるという人間的な感覚でしょう。自分は真面目にやってるのに、少ない労力でズルをしているというそういう感覚です。要するに嫉妬です。

これはもう、どう感じるかという世界の問題です。

その人が、どのように感じてどのように行動するかというのは自由です。

その結果も自業自得です。

結果を引き受けさえすれば、どちらのやり方であっても問題はありません。時間をかけて愚直にやるからこそ見える景色や学びというものも、間違いなく存在するからです。特に、結果が全てではない、過程が大切であるという視点においては間違いなくそうです。

ずるいかずるくないかというのは、議論のポイントがずれています。

本当に問うべきなのは、自分もそうしたいのか、そうでないか、ということです。

合理化を非難する文化に負けないことが大切

だからこそ、大した考えもなく感覚で合理化を否定する文化に安易に迎合するべきではないと考えます。

「エクセルのマクロを使って仕事をしたら、上司に理不尽に叱責された」

というのは、エクセルが仕事に使われるようになって以来の、あるあるネタでもう使い古されてしまって、未だにそんなことあるんだなーというレベルですけれど、作業療法士の世界でも、本質的にそういうところはあるかもしれません。

「時間をかけて、みっちり丁寧にやらないと、そこに愛はない」

みたいな。

でも、結局のところ、作業療法の対象者の方が求めていることに何がマッチするのかという、そういうシンプルな話だと思っています。対象者の方が愛を求めておりそれを充足することが、治療効果を大きくするのであれば、愛を追求するのも悪くないでしょう。

反対に、対象者の方が結果を求めているのなら、別にどれだけの時間がそこに費やされるか、どれだけ作業療法士が時間をかけて関わるかなんて関係ないわけです。

そういう人に対して、作業療法士が不必要なまでに長い時間関わり続けることには、違和感を感じます。

先のエクセルの話でいえば、短い時間で、大きな成果を出しているのに、それを非難するのは、機械化することで自分の仕事が奪われると考える人がいるからですし、単位時間当たりでの仕事量があまりに違うと、自分の仕事の価値が相対的に低下することを知っているからです。

このようなマインドのもと、同調圧力で、意味のない長時間作業療法と称して、対象者への関わりを継続するような関わり方をしているのであれば、それらは改めて行かないといけないと思います。

日本は医療費がただでさえ足りないということになっておりますので、本当に必要な人に必要なだけの資源を届けるという視点においては、ここは非常に重要なポイントです。

「マクロ」は、すべからく全ての作業療法士が使いこなせるようにならなければなりません。全ては、顧客である作業療法の対象者の方の利益を最大化しつつ、組織の利益にもそこそこ貢献することで、作業療法の持続可能性を高めるためです。

ずるいだの何だの言っている余裕はこれからのこの国にはありえないのですが、そこも、視野の違いだと思います。直近のことの方が気になる人もいれば、長期的な先のことを踏まえて今のことを考えるべきだという人もいます。

いわゆる合理的な人は後者であり、のちへの影響を考慮して現在の振る舞いを考えたり、またそれを実行に移したりします。

作業療法士はリハビリテーションの仕事であり、評価し目標を設定し、対象者の方に変化を迫る仕事です。その作業療法士が、自分自身を変えられないのは、作業療法士という存在の信用問題に関わると思っています。作業療法は、もっと合理化できるところはどんどんためらわずに変えていかなればならないでしょう。

ためらいが生じるのは、自分自身の「面倒だ」という気持ちと、その変化を良しとしない人からの反対を想定することによると思います。ですが、本当に価値があることであれば、その価値を理解できない人に関わる労力を使ってもったいことになるよりは、共感を得てくれる味方を増やすべきで、そうなるためには自分自身がどんどん変わっていく必要があります。

作業療法士は他人を変えることが仕事です。自分自身を変えることができないで、何を変えることができるでしょうか。合理化を非難する文化が確かにあることは認めつつも、今後を見据えて必要な変化であればそれを最後まで押し通すべきでしょう。

また、作業療法士の背景がどうとか、そんなことは、対象者の人には関係ない話で、対象者の方が本当に望んでいることはなんなのか、どうしたいのか、どのようにいきたいと願っているのか、本当に大切にするべきはそちらですから、やるべきと考えるなら遠慮なく、端折って合理化を進める利点はあると思います。

組織の秩序は何のため

往々にして合理化を妨げる要因となるのが、所属する組織のルール、つまり秩序です。

組織の秩序というと、雲をつかむみたいな話になりますが、私見としては、どのように人を動かすかということに尽きると思います。

つまり、組織に所属する人が、どのような考えや動機付けのもとで、どのように行動し、それがどのように必要とする成果に結びついているのか。

そういう視点で、人をどのように動かすかということにおいて、重要になるのが組織の秩序ということになると思います。

お分かりのようにこれは、合理主義者の視点であります。

逆に文化的社会的公正さの感覚から見ると、多数の人間がそれなりに折衝してみんなでやっていければそれでいいじゃないという感じになります。能力や生産性や成果に関係なく、組織に長く所属している人がより多くの給料をもらえるという年功序列型の会社組織の秩序も、そこに多くの人が公正さを感じており、納得のもとで働いていたからこそ、あり得た仕組みということになります。

ともあれ、組織の秩序は人を集団に縛り付けるため、もしくは集団に属する人に一定の方向性を与えることで目的の成果を揚げやすくするために存在します。

前者は、家の門限であり、国の戸籍システムなどが該当するでしょう。

後者は、道路交通法であり、国民皆保険制度でありましょう。

このような組織の秩序の働きを、組織のリーダーがうまく知覚し、活用できているかどうかを、作業療法士は敏感に感じ取らなければなりません。

つまり、上記2つのどちらの文脈で、組織の秩序を運用しようとしているのか、を理解しようとしなければならないということです。

合理性に乏しい組織であればあるほどに、「昔からこうだから」という意味もわからぬままに継承した無意味な文化が溢れかえっているはずですので、すぐにわかると思います。

大切なのは、自分が納得してその組織に所属しているのかどうかということになると思います。納得していないのなら、組織の秩序に働きかけるか、その組織から抜けることを考えましょう。

イノベーションに対抗する文化

合理性が文化や人に受け入れられるかどうかは、結局のところ、その社会がどの程度の変化を許容できるのかということにかかっています。

大相撲の話でいえば、横綱かくあれかし、という話です。

白鵬の相撲の取り方は、勝つための合理的な相撲です。相手をどのようにすれば負かすことができるかどうかに特化した相撲の取り口です。

しかし、相撲協会としてはそうした相撲は横綱らしくないから控えるべきであるという話になるそうです。相手の挑戦を受けてどっしりと組み相撲で戦わなければ、横綱の品格に欠けるというのです。

これはつまり、どういうことかというと、今の大相撲には白鵬のような強さを追求する相撲を受け入れるだけの度量、器量がないということです。相撲に勝利するにはという飽くなき探究の姿勢を持って横綱の品格とすることは、できないということです。

あれだけ相撲に対して、真面目に真摯に取り組んでいる力士は他にないと思うので、個人的には十分に横綱の品格を讃えているといって良いのではと思うのですが、相撲協会はそういう考えにはなれないということです。

一体それのどこが問題かというと、新しい価値を認められない組織は、変われない組織になります。変われない組織には、変われない人間が依存しやすいような組織の秩序が出来上がり、風通しが悪くないり、世間一般とのズレが次第に大きくなっていきます。

相撲でいえば、先輩からの暴力は指導であり、うちうちで解決すれば良いだろう、外に話すようなことではない、という話になります。

日本の法律に触れているのであれば、公に裁判までするべき話のはずなのですが、どうも、風通しが一旦悪くなると、組織というのはとことんまで腐りきってしまうようです。

作業療法士の世界も、医療の世界もそうですが、人材の流動性が低い組織においては離職率を下げるための試みが、却ってある世代の退職を促してしまっている、つまり離職率を上げている可能性すらあります。

そういう組織は、昨今の大相撲と一緒です。事故が起きれば隠蔽するし、物言えぬ人にどのような対応をしているかはお察しの通りです。

人材に流動性が乏しく、優秀な人材を外部から迎えたところで、何も変わらないという事態が起こることもしばしばです。また優秀な人材を、すぐに手放してしまうこともあります。

こうした組織において、変化を起こそうとする人間は敵です。

どんなに良い結果をもたらすイノベーションであったとしても、既存の秩序やそれを元にして成り立っている文化にあだなす害のある存在ということになります。

そんなゾンビのような組織は、早いところ絶滅すればいいと思うのですが、文化的社会的公正さの感覚に基づく組織は緩やかに衰退しながら意外と長生きです。もっとも所属している組織の構成員の表情は、どこか覇気に欠けますし、仕事をしていて楽しそうではありません。

そんな組織には存在意義を感じることができないのは私だけでしょうか。

コラム 変化耐性のはなし

自分が変われないから、変わったことをして結果を出す人を攻撃する人がいます。

ひとえに変化に対する耐性が低いからですが、それで他人を攻撃するのはナンセンスです。

なぜなら、変われないものが変われるものに変化しないことを強要するのは、変化することを強要されても文句は言えんと思うのです。

以上です。

組織の合理性追求と障害者就労の矛盾

ここまで書いて、一つ重要なことをまたここで書きます。

組織の構成員を純粋に成果で測るとしましょう。

つまり、成果を出す人間は雇用され続け、成果に乏しい人間はリリースされるというそいう組織が出来上がります。

医療や福祉の世界においては、そのような成果主義を導入することで、顧客である対象者に対して、より良いサービスを提供し、より良い結果を対象者に受け取ってもらうことができるでしょう。

そのためには、徹底して合理性を追求し無駄を省くことが重要です。なぜなら、日本の医療福祉介護の世界にはお金の余裕がないからです。

これを突き詰めると、例えば能力の乏しい作業療法士や成果の出せない作業療法士はお休みをもらうことになり、雇い続けてもらうこともできなくなるでしょう。つまり、成果の出せない人間はいらないというわけです。

一方で、障害者の方の就労においては、何も成果だけを以って就労できるできないを決めるわけではないですし、じゃあ医療介護福祉の分野においてもやっぱり働く側も合理性ばっかりを追求するのもなんか違うんでないのという、そういった感覚とはやはり矛盾するところがあると思います。

また、合理化をすすめたからといって、全ての問題が解決できるというものでもないことを感じさせてくれる矛盾でもあります。

大変でも、作業療法の合理化は必要

なぜなら、持続可能性がピンチだからです。

作業療法は無くても死にません。

資源やリソースが減れば、当然生存に関わることが最優先です。

 

そんな状況の中で、作業療法を必要としている人に、ちゃんと作業療法士が作業療法をリーチするためには、作業療法をもっともっと洗練して、短い期間でより多くのより良い変化をもたらすことができるようにしていくことが必要であり、それはまさに合理化のプロセスそのものであるといえます。

よって、作業療法には合理化が 必要であり、そのためには、作業療法士がまずは自分の頭を柔らかく保つと同時に、新しいものを厭わず、かといって周囲の評判を必要以上に気にせず、矛盾を飲み込めるだけの大きな視点を持って、いろいろな表現を行なっていくことが、これからの作業療法士には必要なのだろうと思います。

感情論と合理性をうまく統合できるか、その矛盾を相克できるかどうかは、作業療法が今後もっと進化していくための鍵になるようです。そのためには、作業療法士がもっと、自分のスキルを増やすことに貪欲であり続けること、そしてそのための正当な対価を組織に要求するだけの図太さを身につけ、組織に対する発言力やら影響力を強化することなどが必要かもしれません。

いずれにせよ、合理化をズルいなんていってる作業療法士はいないと信じたいです。

まとめ

合理的になれるかどうかは、

違うものを同じと見れるかどうか

新しいものを受け入れることができるかどうか

矛盾から、新しい到達点を見いだすことができるかどうか

 

 

今こそ、作業療法士が苦手な「お金の話」をしよう

作業療法士って、お金の話は、積極的にはしません。そこには色々な理由があると多います。そもそも、作業療法の世界がそういう業界じゃないですから、お金の追求は別にいいかな、という人が長く続ける職業という感じです。

でも「お金がない」という作業療法士が多いのもまた事実です。

そういう意味で、「お金の話」が苦手な作業療法士が多いと思ってますが、それもまた程度問題で、作業療法士として対象者の利益の最大化を考えるときに、やっぱり直視しないといけない現実としてのお金の話ってのはあると思うので、そんなことを書いてきます。

お金は何かを実現するためのパワー

なぜお金が重要なのかという話に、作業療法士はもっと注目するべきです。ここをないがしろにするから、いつまでたっても自分がやりたい作業療法ができないのかなあ、という場合を目にすることがありますから、最初に書いておきたいと思います。

お金は、やりたいことをやるための力になってくれます。つまり、自己実現の後ろ盾になってくれるのがお金ということになります。

「お金がなくても、物事を動かすことはできるじゃないか」

そういうご意見もあろうかと思います。

しかし、そういう人は、悩んでないのでこの記事にもあまり注目しないと思います。色々な人を巻き込んで、人を動かす力があれば、お金は必要ないからです。

しかし、それは新しいビジネスを自分で生み出す力以上の能力、特に瞬発力が必要で、お金で物事を動かすよりもはるかにハイレベルな実践が必要です。

つまり難易度でいうと

お金の力を介在させないで事象を動かす > お金を後ろ盾にして事象を動かす

であるということです。

作業療法士は、事象を変化させることによって世の中に貢献するのが仕事ですので、お金の持つパワーをどれだけ認識できているのかというのは、大きな視点での変化を捉えることができるかどうかに大きく影響するでしょう。

作業療法士の給料の決まり方

ということで、いきなりですが、お給料の決まり方です。

一応根拠はあるんですがぶっ飛ばして、結論だけ書きます。

作業療法士の給料は、保険などの点数から稼いできた額の約3分の1です。

真面目に臨床やっても、適当に臨床やっても単価に影響はない(!)ので、単位数をたくさん稼ぐ作業療法士の給料はいいです。

だから、交通事故の事故後後遺症のリハビリをやってて、それもガンガン単位を稼いでるようなところでもない限り、今後、保険点数をあてにするビジネスモデルの中で働く作業療法士の給与は、低下はしないまでも横ばいで、上がっていくことはありません。

作業療法士の生涯年収

ざっくり、作業療法士の税金や保険料さっ引かれる前の年間の給与の平均は400万円です。

そのように仮定して、22歳から定年65歳まで働くとすると、43年働くわけで、

生涯の給与は

400 × 43 万 =  17200万円

ということですね。

ここに退職金を加算したいところですが、どうせ大した金額じゃないと思われるので、

サラリーマンとしての作業療法士の生涯年収は、2億円もいかない

ということになります。

コラム サリーマンの生涯年収の平均

上記の額を多いと見るか少ないと見るかの議論はさておいて、参考となる比較対象の資料を提示しておきますね。

男性

中卒:2億0060万円
高卒:2億2090万円
専門・短大卒:2億2880万円
大卒:2億8510万円
平均退職年齢までの生涯年収の平均(退職金含む)

男性

中卒:2億2280万円
高卒:2億4490万円
専門・短大卒:2億5520万円
大卒:3億2030万円

https://gukkin222.com/archives/6392より

この資料を信じるなら、大卒作業療法士の生涯年収は、中卒者の生涯年収とトントン、もしくはそれ以下ということになりますね。

信じるか信じないかは、あなた次第です。

お金が欲しければ、転業しよう

現実の話をしなければなりません。

サラリーマン作業療法士は、稼げません。

例えば、どれだけ、良い作業療法をしても、点数は同じです。

この辺りで心がおれる、心優しく真面目な作業療法士を何人か見てきました。

給料の多寡に関わらず、いい臨床をしてればそれでいいと思うのですが、やはりメンタルにくるものがあるようです。「正直者がバカをみる」のはやはり人のやる気を著しく低下させますね。

しかし、上記のようなそもそものお金の流れを知っていれば、サラリーマン作業療法士という職業がお金を手にするには向いていない仕事なのは明らかなのです。

作業療法士という仕事の枠組みとシステムには、いい臨床をする作業療法士にインセンティブが働くようなデザインが欠如しているからです。

また、お金の流れもへんちくりんです。

商取引における対価としての金銭の流れは

顧客 →  提供する側

ですが、作業療法士においては、医療保険だと

顧客3割 →  病院など  →  レセプト → 保険7割 → 病院 → 作業療法士

という金銭の流れです。

顧客の支払ったお金が、作業療法士の手元にいくまでに、工程があるのがお判りいただけると思います。

これは、普通のビジネスの世界では、例えば営業・セールスの仕事をしている場合には、良い仕事をしていれば売り上げに応じて給与が変動するのが当たり前ですが、良い仕事をしてもそれが給与の上昇に直結しないことを意味しています。

作業療法士はこのような業界構造の中で働いていると言って良いと思います。

コラム ダイレクトな支払いにすれば色々捗る

上記のような問題は、お金の流れが複雑だから発生する話なのですから、シンプルにしてしまえば解決する問題です。

乱暴な話、もとより作業療法士の給与は、稼いだ点数の約3割なのだから、

顧客3割 → 作業療法士

となるような仕組みにしてしまえば、おそらく作業療法士のレベルやら水準やらは恐ろしいスピードで高まると思うのです。

その方が、国家財政にも優しいですしね。

もっともそうすると、倒産する病院や関連組織が大量発生することになるでしょう。ポジティブに捉えると、医療・社会保障の設計には無駄や改善の余地が含まれているという希望と見ることもできますね。

お金が欲しいという気持ちに蓋をしない

またまた、話は変わりますが、「お金が欲しい」と思うならその気持ちを作業療法士はもっと大切にするべきです。

その気持ちに蓋をして頑張り続けるのは、本当に精神衛生上良くないです。

「お金が欲しい」と感じるなら、そのためにしっかりと行動をしましょう。結果に繋がらなくても、そうやってやってみたことが自身の作業療法の幅を広げることに必ず繋がってきます。

更に言えば、もしあなたが作業療法士として良い仕事ができる頭があれば、やり方次第で本業以外で、色々な手段でお金が稼げる時代です。

「作業療法の仕事は素敵だけど、経済的に厳しいから続けられない」という事態になって、それが作業療法の対象者の方の不利益に繋がる可能性も軽減することができる可能性を考えると、作業療法士はもっと「お金が欲しい」という気持ちがあるならそれを大切にするべきだと思います。

特に、「先が見えない」と言ってる若手作業療法士においては特にそう言えると思います。先が見えないなら、自分の気持ちに基づいて、先を作っていくべきではないでしょうか。

受け身では、作業療法の世界も尻すぼみですし、お金の流れがない業界はやっぱり外から見て元気がないですし、お金好きな面白い人がよってこないですし、「お金が欲しい」を大切にすることによる、作業療法の対象者の方のメリットにもっと焦点を当てても良いと思います。

お金に縛られると、組織に縛られるのはなぜか

今度は、組織レベルのお金の話です。日本の組織の多くは、お金で成り立っています。また、存続可能性の高い組織には、ちゃんとしたお金の流れが確立しています。

ところで、先日、やばい組織の話を書きました。

いち作業療法士として、危険だと思う医療・介護・福祉の組織

どうしてこういう組織が生まれるかというと、組織を構成する人間のうち、その組織に依存する人間の割合が一定を超えるからです。

その依存とは、

居場所的な理由と、

もう一つ

金銭的な理由

があります。

居場所的な理由

狭い地域のコミュニティのようなものの延長線上に成り立っている組織には、居心地の良さを優先して合理性を犠牲にしている面があります。

お金の周りが悪くても組織が存続できるという、経営者からするとありがたい組織でもあり、所属する側からしても根本的変化がないので、安心感があります。

一方で人材の流動性が低下しがちで、フットワークが軽い優秀な人が流れ込んでくる可能性は下がりますし、時代の変化についていけない組織になる傾向が強いです。中小企業だけでなく、最近大企業でも挑戦や変化を嫌う雰囲気のところはあります。

先輩後輩などの縦の秩序が行き過ぎると、こういう組織になりがちです。

金銭的理由

安定して低賃金でも払ってもらえる方が安心という、そういう理由です。

主には実力的に、転職が不安だったり、近くにより良い職場が無い都市部じゃ無い場所に住んでいたりということになろうかと思います。

組織に縛られているようで実は依存しているのですが、なぜ依存するかというと、組織にお金の流れを委ね切ってしまうからです。それは、労働組合とかまた別のお話ですね。

作業療法士が転職できない、転職しないから

上記2つ「居場所」「金銭面」の理由から、組織に縛られ、お金に縛られしている作業療法士は多いでしょう。

つまり、労働市場において重用されるだけの実力をプレゼンできないので転職した時に、今と同じ待遇を得られる保証がないと感じていると、そういうやばい組織でもしがみつきたくなるということです。

自分の生活はもちろん、家族の生活がかかってると、なおのことです。

ぶっちゃけ時間もありません。

ですが、より良い待遇を求めて作業療法士が転職市場に果敢に挑戦するというのは正直ありだと思いますし、むしろこれから必要になってくる作業療法士の実力の一つなのではないかと思っています。

作業療法士が副業しないから

臨床の幅が広がったり、作業療法士として将来ご飯が食べられなくなった時に備えることができます。

その保険があると、心安く、やるべきと思うことに注力できます。

それが証拠にと言いますか、あくまで私見なんですけど、

「やめざるを得なくなったとしても、アレがあるから大丈夫」

という作業療法士の先生方はやっぱりご活躍される傾向にあると思います。

腹をくくって、作業療法に腰を据えることができるからでしょう。

若手作業療法士は、これから一生作業療法士するならその辺リスクテイクの方法の一つとして考えておくことが必要と思います。

中途半端にお金がモチベーションの作業療法士は今後割と大変な思いをすると思う

作業療法士で、「お金が得られないので夢が無い」と1000万円以上稼ぎたいからとサラリーマン作業療法士に別れを告げた人がいます。

同じ思いのまま、中途半端にサラリーマン作業療法士を続けても、これまで書いてきたように作業療法士はお金になりません。

確かに作業療法士の資格は手に職ですし、資格で食いっぱぐれない職業であることもまちがいありません。

しかし、「仕事がしたい」という気持ちがないと絶対に割に合わない仕事です。

中途半端にお金をモチベーションにして作業療法士を続けても良いことはありません。作業療法士やるなら、糊口をしのぐだけじゃもったいないですし、作業療法士がダラダラとお金のために仕事をすることはともすると作業療法対象者に多大なる不利益を与える構造に加担することにもつながりかねないことを心の何処かに置いておくことが必要と思います。

まとめ

もし、作業療法士を一生やるなら、

今後のお金の問題は

今避けて通れない。

デイケア送迎問題について特に関心がなかった自分を恥じた

昨日のNHKのニュースで、デイケアなどの施設への送迎車の事故が増加傾向にあるというニュースを見ました。

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事故の増加は単純に、不注意の増加というわけではなく、送迎車自体の増加に比例しているかもしれないので、どこまで予防対策に力をいれるのかは難しい問題だと、思いながら見て、

「いやいやちょっとまてよ」

と。

そういう問題が発生していること自体全然知らなかったというか、思い至らなかった自分自身に愕然としました。

大きな事業所の例しか頭の中になかったので、そういうことになったんだとおもいます。

年間160万人が利用するという送迎車。

今後、高齢者の単純増加や、さらなる高齢化の進行によって、利用者はますます増えることでしょう。

国としては、医療費のコストカットを叫ぶ一方でそういうところにどのように資金を投下するつもりなのか、注目です。

また、知り合いの作業療法士の方にデイケアではその辺どのようになってるのか、ちょっと聞いてみるつもりです。

病院に入る前の段階をどれだけ長く続けることができるのかというのは、作業療法士的にすごく大切な話題ですよね。

そのボトルネックともいうべき問題ですので、また注目していきたいとおもいます。

ソース:

大手企業が使ってるビジネスの世界のノウハウは作業療法でもつかえるかも?

もちろん、マイナーチェンジやカスタマイズは必要だとおもいますけれど。

でも、正解の確かめ様のないフィールドで結果を出す為のノウハウってのは

ビジネスの世界にはたくさん在って

それってきっと、

答えの無い世界で日々もがいているわれわれ作業療法士にも

きっと役に立つ物なのではないかと思うのです。

たとえば、トヨタのカイゼン方式、

あるいはセブンイレブンのアルバイト教育システム

非常に参考になるなとおもいます

最近良く話題になる「PCDAサイクル」についてもそうですよね。

これって、作業療法士が普段業務中にやってることだったりします。

自分たちがやってることと、

世間一般のビジネスマンがやってること

共通点が見つかれば、説明もしやすいと思いませんか。

ビジネスモデルとか、

ミニマルな経営学とか

そういう一見取っ付きにくそうなところにも

作業療法に役立つ内容が転がってるのではないでしょうか?

最近の若いコ中心の介護職のあり方に思うこと

搾取だよね

搾取という言葉がきつければ、一方的に使われてるだけだよね

「若いコがいずれ主体的に動けるようになる」という観点での、教育的視点を盛り込んだ職場ってまだまだ少ないよね

その子達が気にするのは、その日一日の決められた作業の流れであったり、職場での上下関係で。

そこに患者様はいないよね。

そういう人が多いから、

本当に介護職がやりたくて就職した人も心が折れてっちゃってるよね。

まさに悪循環。

なんだか、昔のブルーカラーと同じ構造

世の中は繰り返すとはよくいったもので

日々の仕事をこなすだけでその人自身の成長をサポートするような

そういう仕組みが少ない

本当に優秀な人たちは、枠を飛び出して独立してしまって

やる気はあるのにどうしたらいいのかわからない人たちがやさぐれて

結果

現場に、士気も理念もモラルも不足気味だよね

大局的にみたらもしかしたら作業療法士もそうなのかもしれないけれど、

でもうちの職場の話でいったらば、

先輩達は若い自分たちに積極的に介入してくれてる

関わる側も、関われる側もストレスになるかもしれないのにあえてそうしてくれてるのは

主体的に動けるようになることが患者様に利することだから。

介護職のアイデンティティは、どこにあるのかという

そういう教育が浸透しないのは、

その場の空気がそうさせるのか

それともはたまた病院という箱がそうさせるのか

それとも、国家の枠組みがそれをよしとしてるのか

あるいは、社会の無関心にこそ原因があるのか。

いまの介護職のお世話になりたいかというとあんまりそういう気はしない

もっと、カリスマといわれる介護職の人たちの実践や理念や行動が

若い人たちにも浸透するような

教育機会だったり、仕組みづくりだったり

そういうのが必要なんじゃないかなあ

そう強く思うところです。

まあ、経営者的な視点からみると、現場の人間は使いやすい方がいいから

現状そうなってるのは、分からんでも無いんですが。

おーい、若者諸君

使われてるだけで満足かい

ひろえもんは、現状に不満ですよ。

経営的な「ムダ」と医療職である作業療法の持続可能性についての考察 その1

はじめに

「ムダ」をはぶくことによって効率を向上させることには大きなメリットがあるけれども、方法によっては顕在化しないリスクを抱え込むことになるのではないでしょうか。

そんな発想がおりてきたのでちょっとメモ。(のつもりが、書いてるうちに溢れてきて、長文に。読んでくださるみなさま、大変ありがとうございます…。

「「ムダ」の盲目的削減は、作業療法にとっては、必ずしも良いこととは言えないかも。」というアイディアとその理由について書いてます。

あらためて前置き

一般的に、ムダを省くことは仕事の生産性を向上させることに繋がると考えられています。それゆえ、企業の意思決定を行う経営者、あるいは会社組織の保有者である株主などからは、「ムダ」の削減が推奨されます。

たとえば、トヨタの「カイゼン」などが有名です。

では、医療職である作業療法に、その枠組みを持ってくると果たしてどうなるのかというアイデアがこの記事の出発点です。

昨今、うるさいくらいに利益追求を求められる現代社会において、作業療法もそのしがらみを逃れられないわけでして、病院経営と利益追求と作業療法のバランスを考えてみようとしたときに、いい題材なんじゃない?と思ったわけです。

カイゼンとは

本題に入る前に、カイゼンについての確認です。

カイゼンとは普段行っている業務の内容を、見直して、価値を生み出さない動きを減少させる考えとその実践のことです。

世界的な企業となったトヨタ自動車が、生産性を高めるために運用している手法として有名になりました。

カイゼンは、まさに、究極の利益追求のための手法といえます。

想定される結果

さて、カイゼンを行うと、その結果としてどんな効果が得られるでしょうか。

一般的には、業務に必要ない動きが減少し、生産結果に本当に必要な動きのみが追求されることによって、短時間かつ少ない労力で、実践前と同等あるいはそれ以上の成果を継続的に出すことが出来るようになると言われています。

これがカイゼン方式導入を薦める際によく語られる利点です。

今回の話の本質は、「利点だけに注目が集まりすぎではないでしょうか?」ってことと同じです。実は。

カイゼン的手法の落とし穴

このような手法による利点は、製造業の企業には非常に相性が良いです。

販売まで含めると話が複雑化するのですが、製造工程だけに的を絞って考えてみるとわかりやすいはずです。

製造業では、価値が単位時間当たりの質と量によって生まれます。

つまり、たとえば一年間で顧客が満足できる高品質な製品を安定してたくさん作り販売できる体制を整えることに価値があるわけです。

一方で、サービス業にこれを当てはめるとどうなるでしょうか?

実はそれを地でやろうとしているコンビニエンスストアが日本でありました。

導入したその後をきちんとフォローできていないので詳しい結果は参照していません。ですので憶測ですが、多分経営者サイドが狙ったほどの効果はなかったのではないでしょうか。

なぜなら、サービス業というのは基本的に、その質を高めようとすると結果として多様化することになり、画一化することによってかえって顧客離れを招く結果になることが多いからです。

サービスを利用する側の人間の心の機微をとらえて、それにふさわしい言動が行えるかどうかは、サービス業全般の「価値」にあたる部分といってよいのではないでしょうか。

とすると、必然カイゼン方式が不向きなことがお分かりいただけると思います。

不向きな理由は、カイゼン方式が「手順を結果に対して簡略化、簡素化することによって最短手順で結果を生み出すこと」を指向するプロセスであり、結果として顧客への対応を画一化、限定してしまうからです。

そして、このことが、サービス業である医療、ひいては作業療法にもあてはまるのではないかと思うのです。

他業種にみる効率化による歪み

サービス業にて、「ムダ」削減を徹底追及した例を見てみたいと思います。

わかりやすい例として、昨今ニュースで取り上げられることもあった、牛丼チェーン店のすき家や、ワタミグループなどを見てみたいと思います。

これらの企業は、時給を上げたのに求人に人が集まらないことがニュースになりました。

これらの業種は食品の仕入れや、利用顧客像、提供・接客の手順などを画一化することによって、低コストでのサービス提供を可能にしていました。

そして、低コストでそれなりのサービスや食事ができるという点で、サービスを提供される側の顧客から歓迎され、利用する人の数が増えたことによって利益が増加するというモデルで成長をしてきました。

しかしながら、問題がおこっています。なぜでしょうか。

それは本来抽象化するべきでない要素を抽象化していることによって、本来かけるべきコストが省かれてしまっているからと考えられます。

具体的には、外食産業を利用する実際の顧客は、一人ひとり嗜好が違えば感性もことなるものです。画一化された接客をしていても、きっと満足度は高まらず経営サイドが求める業績は達成できません。多種多様である顧客を満足させるために現場に要求されるコストは、経営サイドの見積もりよりもはるかに大きなものがあるはずです。

短時的な利益の追求を、画一化によって積み重ね達成した結果として、それが長期的かつ構造的なゆがみを生じ、いくら時給を積んだとしても仕事を選べる能力のある人々から選ばれない原因となっているようです。

このように外食産業においては、労働者の求人問題という形で、歪みが顕在化したわけです。

そして、この構造は医療職にも同様にみられるものです。とりわけ、これから保険点数がガンガン削られていく時代な流れがあるわけでして、この歪みは外食産業よりもっとひどいことになっていくかもしれません。

まとめ

先に述べたように、製造業にとってカイゼン方式(画一化による利益追求)は非常に相性が良いです。

それは、「ムダ」を質と量につながるかどうかという視点で、判断しやすいからです。

そして、そのような業種にとっては、画一化された尺度によって「ムダ」を省くことで生産性の向上を図る手法は非常に力を発揮します。

逆に、サービス業では人間の心理が価値の判断に大きくかかわるため、何が有効で、何が無効かという判断を直観的かつ客観的に行うことが困難です。

このことに鈍感だと先の外食産業での例にあるように、短期的な利益を追求していたはずが、いつのまにか長期的な損失を生むシステムになっていたという矛盾が生じてしまうわけです。

とりわけ、人間の心理を対象とするような仕事では、長期的な仕事においては最初無価値や無意味・無駄に見えた事柄が、後で重要な価値を持つようになったり、価値が発見されるということはよくあることです。

このように、画一化をするということは、ある結果に対する最短を選択するための手法としては非常に強力かつ有用なものですが、コンサルティングやマネジメントなど自分で問題を設定し、それを解決するための手順を決定する必要がある仕事においては、愚の骨頂とさえいえるのではないでしょうか。

おわりに

というわけで、作業療法には「徹底したカイゼン方式」は不向きです。

なぜなら、作業療法はこれから生活行為向上「マネジメント」を推進していくわけでして。結果として生じる画一化が、問題解決のために使えるコストや選択肢を制限することになり、それが中長期的な損失につながる可能性が高いからです。

画一化によって、短期的な利益の向上が認められるかもしれませんが、そのシステムは往々にして長続きしません。

長続きしないと、生活や実践に根付かないので、リハビリテーションとしてはナンセンスですよね。

導入する際には、どんな結果を追求したいのかというポイントを絞る必要性がありそうです。

「ムダ」と中長期の実践の関係について、書ききらなかったので、今度はそこらへんをちょっと書いてみたいと思います。

らしくもなく長々と書いてしまいました。

長文を読んでいただきありがとうございました。

介護病棟および老人保健施設とマンパワーの問題の根本的解決法は無いんじゃないかという

はじめに

結論としては、「量が質」だが、量が増えることは無い、という話。

長いですし要領を得ないので、要点だけ読みたい人は、下記の「現場のマンパワーが不足する本質」だけ読んでみて下さい。

就職してから、精神科だけでなく老人保健施設系への関わりもできました。

働く中で、社会的な構造の問題で、今の方法では今後必ず対応困難になるという思いを強くしたので、その解決法を思案してみました。

しかしながら、解決が出来そうにないという考えに至りましたので、そんな考えになった考えの道筋を書いてみたいとおもいます。

ちなみに、この文章は、誰かに否定してもらう事を期待して書いている文章です。

割と。

認知症と精神病院

認知症の症状は、正常発達した知能の低下と言われます。

その症状は大きく中核症状と周辺症状の二つに分類されます。

二つの症状が進行し社会での生活が困難になると、患者さんとして精神病院に入院することになります。

病院に入院すると、基本的には薬物療法とか作業療法にて加療を行いながら、入院の直接的な原因となった症状の緩和や環境や人的資源、社会的な資源の調整などが行われます。

ある程度、病院が問題ないと、医師や家族が判断した時点で自宅や施設へ退院となります。

寝たきりの発生

認知症が進行すると出来ない事が増えます。

認知症の症状として徘徊などを思い浮かべられるかもしれませんが、次第にそういったものも消失し、やがては無為自閉的な傾向が強まり、自発的な表出が見られなくなっていきます。

つまり、日常生活に多くの促しが必要になっていきます。

その促しが十分に行われず、あるいは促しの量が現実的に困難な程度になると、必要以上の介護が行われるようになり、結果として活動量がどんどん狭まります。

そして、その先には、寝たきりの生活が待っています。

認知症になったからといって、必ずしも寝たきりの段階に至るとはかぎりませんが、そうでない場合と比べると最後に寝たきりに至る可能性は高いと考えます。

必要な資源の試算

ここで、生活のほぼ全てに介助が必要なレベルの患者様ばかりが入院されている病院、あるいは病棟を想定してみたいと思います。

そういった病院あるいは病棟はまれかもしれませんが、高齢者がふえ、認知症がふえる日本社会においては、これからどんどん増えていく事でしょう。

簡単のため病床数50床としたいとおもいます。

そして、人件費を社会保険料などもトータルして1人頭以下のように仮に考えてみます。

介護士 20万円 /月人

看護師 25万円 /月人

医師 100万円 /月人

んで、病棟に介護士が5人、看護師が5人、医師が1人で回すとすると、ひと月あたり最低でも325万円ものお金が必要になる計算です。

と、すると患者様一人当たりに換算すると、最低でも約6万円のお金が必要になることになります。

これからたとえば、65歳以上の認知症有病率が10%で、そのうちの半分が寝たきりになったとすると2050年には、

4000万人 × 0.1 × 0.5  = 200万人

んで、1人が最低6万として

200万人 × 6万円 = 1200億円

が月々必要な計算になります。

2050年の働き盛り世代は3000万人とすると

1200億円 ÷ 3000万人 = 4000円

を月々負担すれば良い事になります。

あれ?

意外と行けそうですね。

んでも無理な現実

色々なコストを省きに省いてのこの結果でさえ、4000円と考えるのが妥当です。

土台無理な試算を行った結果でも4000円は必要ということです。

実際、病棟スタッフがそんなに少ない訳はなくて、ひと病棟あたり、看護介護合わせると質的に十分な医療を行う為には、20人は必要です。(算定上は必要ありませんが。

そこまで雇わないにしても、職員は、労働基準法上公休と有休の消化が必要ですから、のべ人数の1.5倍の人数を雇用する必要があります。

さらに、医師不足の昨今ですので、も少し高そうです。

さらに病院側は、年金や社会保険料などの国に納めるお金の分もコストに含める必要があります。

それらは本人と折半なので、さらに1.5倍くらいすればいいでしょうか?

なので、ざっと計算すると

4000円 × 1.5 × 1.5 = 9000円

ですね。

でもホントは、職員のおボーナスとかも計算しないといけないので、もっとふえます。

12000円くらいでしょうか?

で、さらに、マンションで言うところの共益費というか、維持管理費用が必要です。

これが意外とするので18000円くらいでしょうか。

施設の増築や、地域支援のあたらしい拠点を作る為の設備投資も必要かもしれません。

21000円。

さらに、経営サイドへの報酬。

26000円。

とまあ、いろいろあります。

利用者サイドの不利益に繋がっている部分に関しては、国が積極的に監査をいれてって欲しいなあと思うところではありますが、現状のシステムだとたぶん1人あたり40000円でもキツいとおもいます。

経営者の立場になると

そこの実際の理念がどうかというところに大きく左右されることは間違いないです。

お金儲けが好きな人が経営しているのか、医療を全うするところに力を注いでいるのかという、その理念の違いが大きいです。

利益追求にいとまがない病院の場合は、まず人件費を削ります。

病棟には算定基準というものがありまして、職員の人数がそれを満たしていさえすれば算定ができるので、できるだけその人数ぎりぎりでまわせるほうが、経営者としては美味しい訳です。

お金儲けは悪いことではないですが、そちらに偏りすぎるとスタッフが疲弊してモチベーションが低下し、結果として質が下がります。

仕事の絶対量にたいして、マンパワーが不足しているので、個人がどれだけ100%の力を出しても追いつかないからです。

ですので、その病院や介護施設の質を見るには、算定基準よりも多い人数が働いているかどうかが一つ有効な基準として使えると思っています。

優秀な経営者とは

お金が自在にコントロール出来る人だと言えるとおもいます。

そして、お金儲けに力を注いでいる経営者は、お金をたくさん持っているのでその能力が高いです。

結果として、優秀な経営者に占めるお金儲け優先理念の経営者の割合はどうしても高くなる傾向にあるのではないでしょうか。

つまり、全国的には私立の施設であれば、お金儲けを考える経営者の方が割合的に高い方が自然です。

コレは、ある種、日本が資本主義社会として成立している以上、仕方の無いことです。

現場のマンパワーが不足する本質

以上から

1.寝たきりの人が増えるので需要が増加すること

2.利潤追求の経営者が世の大勢を占めること

という二つの理由で、現場のマンパワーは不足します。

構造の概要はこうです。

需要は高いので、その気になれば病院や老健のベッドは常に満床にできます。

その一方で、経営者は病棟あたり、もしくは施設あたりの人間を必要最低限にとどめます。

結果として、質は低下しますが、1の理由から需要が過剰な状況なので、質の低下に関係なく顧客は確保できます。

さらにその結果として、経営者はそのまま必要最低限の状態を維持します。

つまり現場のマンパワーの慢性的な不足が持続します。

以上が本質です。

おわりに

これは、国が医療と福祉の充実を民間の力を借りて行っている以上、どうしても避けられない現象だなあと思います。

唯一できることがあるとすれば、算定上必要な人員の数を今よりも増加させることかもしれません。

そうすれば、経営者サイドとしてはマンパワーの確保に動かざるをえません。

しかし、それをすると人員が確保できずにつぶれてしまう病院がたくさん出てくることになるはずです。

先に述べたように、国は、民間に頼っているという構造があるので、強気にはでれないはずです。

となるとやはり、根本的な解決法は存在しないのではないかと思います。