COVID-19が5類になるとどんな事が起こるのか

重要そうな話題があると、一応ピックアップして継続記載してきましたが、今回の話題はどう取り扱ったらいいのか、正直にわからないので、自分の勉強のために、自分の疑問に対する一問一答形式で情報を整理してみます。

そもそも5類ってなんだ

5類は、日本の「感染症法(通称)」上の分類。

感染症法については下記参照。

感染症法 – 作業療法大百科事典OtWiki

5類変更のメリットはなに?

行動制限が緩和される。いろいろな方が「自分ではどうしようもない理由で、それぞれがやりたいことができない」という作業剥奪の状態が解消される

一般国民からすると、唯一にして最大のメリット。

作業剥奪については、下記参照。

作業剥奪 – 作業療法大百科事典OtWiki

いろいろな成長機会を、COVID-19以前と比べるとどうしても制限されていた若い世代の人たちからすると、今よりはやりたいことがやりやすい環境になっていくと思われる。

企業活動は活発化するか?

社会経済活動の基本は、それを求める人の存在、つまり需要があるかどうか。

やりたかったけど、なかなかできなかったことをやれるようになる人が増えると、その余裕をねん出するために、代替サービスを利用したり、より多くの時間働こうとするようになる。

人間の活動が、社会の中で比較的活発になれば、時間上の制約などの要素からいろいろな需要が生まれてくるので、GDP値は向上するものと思われる。そうなると、その需要に対応する消費を自社の売り上げにつなげたいと、意欲的に考える企業活動は、ある程度活発化すると思われる。

財政再建につながるか?

そう祈るよりほかにない。

昨今日本では、大した儲けもないのに、脱原発してみたり、コロナ対策費用を打ち出したり、補助金乱発してみたり、お金がないので国債を印刷して、そうしたら国債のイールドカーブがゆがんでるものだから2023年1月26日現在、ヘッジファンドなんかにいろいろな揺さぶりをかけられているこの状況で、日銀総裁の任期がどうやらこうやら。

ウクライナとロシアの戦争によって、エネルギー安全保障問題は、より切迫感のある問題になっている。貿易赤字の大きな要因となっていて、円安を大いに誘発した。それがさらに赤字を生み出し・・・という、財政的にパッ、とするニュースがない中で、企業活動が活発化するということになれば、税収は増えるし、エネルギー価格が高騰している中において高まっているスタグフレーションリスクを後退させることができる。

スタグフレーションは、本当にヤバいし、もし財政再建できないと過去のイギリスのように現実化してしまうリスクが高まるので、景気回復からの財政再建につながることを祈るしかない。

スタグフレーションについては、下記参照。

スタグフレーション – 作業療法大百科事典OtWiki

年金制度や保険制度は維持できるか?

年金制度も保険制度も、金融商品としては多少質は悪くなった。けれども、公的保険に関しては5類になると保険制度からの支出は減る。将来世代の方のことを想えば、そして制度維持にとっては、悪い話ではない。

年金制度に関しては、正直平均寿命に与えるインパクトがあるかないかということになり、おそらくみんななんだかんだでおおよそお元気に過ごされるので、制度維持はできるけれども、将来それのみで生活できるほどではない、ということになろうかと思う。

そもそも、たかだか2類から5類になることが、そこまでのインパクトを持つようなものでもなく、根本的に出生率が改善しないと、難しい。

出生率は改善するか?

戦後の日本みたいなベビーブームはおそらく来ないが、後述するようにマスクをしなくてよくなった、ということになれば、それが一定数に、「春」を運んでくる可能性は無きにしも非ず。

2023年1月26日現在でも、家庭内ではしていないという家がほとんどだろうし、そのあたりの影響を受けるのは、学生さんや、企業活動をする人々、はたまはた商業活動中の接客など、ということになろうか。

何とも言えない。

そのほかのメリットは何?

受け入れができる可能性のある医療機関が増える。

現在、受け入れをしている医療機関は、受け入れ態勢を整えるため、相応の配慮が必要になる。

すべての医療機関で受け入れが可能になるため、ひっ迫度の軽減が期待される。ただし、現実問題としては、「受け入れ拒否する」かどうかは各医療機関にゆだねられており、帰って受け入れ拒否が増えるのではないかとの懸念が払しょくできない。

ほかにはどんな変更点があるの?

マスク着用の見直しが検討されている。おそらく、「日常を取り戻す」という政治的メッセージ、雰囲気作りが大きい。

2023年1月26日現時点でも、屋外でマスクをする必要性はないが、している人がほとんどである。心理的な問題もあるだろう。

ただし、屋内外で都度、つけたり外したりということを意識して徹底できる人は少ないと思われるので、みんなが外すようになると、これまでの傾向と同様のことが起こる前提立てば、感染は当然拡大することになる。

なぜ政府は5類に位置づけ変更することにしたの?

5類にしてほしい、という要望は、もともと経済団体の意向・要望にあった。(https://www.keidanren.or.jp/speech/kaiken/2022/0714.html)

感染対策などで財政支出は増えているが、経済活動が縮小したままでは、財政財源問題が一向に改善する糸口が見えない(https://www.mof.go.jp/zaisei/current-situation/situation-comparison.html)

日本円建ての国債であるからして、紙幣を印刷しさえすれば直接の財政破綻はない。けれども、それを行う時点で日本人が世界から相対的に価値が認められていなければ、日本円は紙くずになる。

概要は、下記に詳しい。

https://www.nhk.or.jp/politics/articles/feature/94518.html

5類にするにあたっての行動制限に関するデメリットはなに?

病院や介護施設といった、感染症対策最前線に要求される行動制限と、市中の人々の行動制限が大きく異なることになる。作業剥奪の乖離が大きくなる。これは、職員目線では、転職すれば解決する。そのため、現在の給与水準では、一定程度の能力水準を超える職員の確保がますます難しくなる。

行動制限の乖離については、下記を参照のこと。

COVID-19#支援者側の作業剥奪-作業療法大百科事典OtWiki

そのほかのデメリットは?

保健所が介入しての調整業務をおこなう法的根拠がなくなる。現実問題発生する患者数がそうそう急には変わらないので、患者になったときの立場としては、最悪、入院先を自分で探す必要性が出てくる。

また、公費で負担されている医療費やワクチン接種に関する自己負担が発生する。

ので、受診控えが発生して、死亡するひとが増えたり、ウイルスが変異して感染力が向上かつ強毒性となったタイミングで再び、爆発的に流行して、医療リソースを逼迫する・・・かもしれない。

空港などでの検疫体制はどうなるの?

2023年1月26日現在において、現状、日本に入国するためには、「ワクチン3回接種」か「72時間以内の陰性証明書」が必要。

全ての外国人の新規入国について、日本国内に所在する受入責任者による入国者健康確認システム(ERFS)における申請を求めないこととなることに加えて、外国人観光客の入国について、パッケージツアーに限定する措置も解除されました。

令和4年10月11日午前0時(日本時間)より、オミクロン株(B.1.1.529 系統の変異株)が支配的となっている国・地域(「水際対策強化に係る新たな措置(27)」(令和4年2月24日)における「オミクロン株以外の変異株が支配的となっていることが確認されている国・地域」以外の国・地域)からの全ての帰国者・入国者について、原則として、入国時検査を実施せず、入国後の自宅又は宿泊施設での待機、待機期間中のフォローアップ、公共交通機関不使用等を求めないこととなりました。また、全ての帰国者・入国者について、世界保健機関(WHO)の緊急使用リストに掲載されているワクチンの接種証明書(3回)または出国前72時間以内に受けた検査の陰性証明書のいずれかの提出が求められることになりました。

新型コロナウイルス感染症に関する水際対策の強化に係る措置について-外務省

その法的根拠となっているのが、「感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律(平成10年法律第114号)抄」「検疫法(昭和26年法律第201号)抄」を、指定感染症に準用することに寄っている。

詳細は下記参考

日本における水際対策–作業療法大百科事典OtWik

5類となたとして、仮に指定感染症解除、となると、現在行われている水際対策を行う根拠がなくなり、空港等での検疫は行えない。

国外から、新しい強毒性の株がやってきたとしても、気が付いた時には国内に蔓延している状態を想定する必要がある。

2023年1月26日現在の今後の予定は?

2023年1月20日の首相会見では、今年の春にということで、検討中。早ければ同27日にでも、日程が正式に発表される。予定。

そもそももっと前から5類へという話があったんでは?

はい、ありました。ちゃんと動画がのこってます。

つまり、一年以上前から、そういう話はちゃんとあったんですが、課題は明確に筋道をつけられないまま時間ばかりを浪費してしまったようです。

ryuchell氏の離婚発表をフラットにみる

はじめに

かなりまとまってません。思うところがたくさんありすぎます。

思考整理のためにおもいのまま、あやしうこそものぐるおしけれ。

https://geitopi.com/%E7%A0%B4%E5%B1%80%E3%83%BB%E9%9B%A2%E5%A9%9A/%E3%81%BA%E3%81%93%EF%BC%86%E3%82%8A%E3%82%85%E3%81%86%E3%81%A1%E3%81%87%E3%82%8B%E3%81%8C%E9%9B%A2%E5%A9%9A%E3%80%81%E7%90%86%E7%94%B1%E3%82%92%E8%AA%AC%E6%98%8E%E3%80%82%E5%A4%AB%E5%A9%A6%E9%96%A2/
夫妻

離婚はフラットに語り

離婚って、ネガティブなイメージで受け取られることが多い。

それは、関係性の崩壊を暗示するからではないでしょうか。

でも、新しい関係性が構築できるきっかけとなるなら、離婚はクラッシュアンドビルドの起点でしかないので、あたらしい夜明け的な意味でとらえるとむしろポジティブかもしれません。

ということで、プラスマイナスゼロでフラットに、ryuchell氏の離婚を、統一教会事件以降のこれからの世の中の在り方として考えてみたいと思います。

前提としての日本の家族観

結局日本の家族観は、

1困難な自然環境、その後は、社会環境においてまとまりや組織が作りやすい単位として家族が機能する面が大きかったこと

2自尊心を子々孫々や先祖代々に帰着する人が割合的に多いこと

3破壊的更新より、安定的継承のほうが心理的負担が少ない人が多いこと

によって成り立っている。

蛇足かつ重要事項としての日本における政治と宗教と家族観

政治的には、政治団体を支援する宗教団体の意向が反映されている可能性が、政策決定の不自然なゆがみから見て取れたが、最近の旧統一教会と政治家および政治団体との関係性によってわりと確定的になっている。

家族観を利用することで、宗教は家族単位にわかりやすい秩序のフレームワークを提供する代わりに、宗教側は家族全体を信者とすることができる。また、集団として影響しあう人々の秩序として宗教が機能する場合には、個人にとって離脱にコストが発生することを意味するため信者数の安定を得ることができる。

このような理由があるので、宗教は家族観が大事、というフレームワークを好む。これは社会の変化にストレスを感じやすい親世代以上にとてもマッチしており、そこを起点にトップダウン式に布教を展開できるので、とてもコスパが良い。

政治にとって宗教が便利なのは単に票田となるだけでなく、特定の政策を売り渡すことで安価に動員可能な人員を得ることができるからである。これによって、当落線上の候補者を宗教は制御しつつ、たとえば経済重視の政治家にとっては家族観がどうでもよいと判断すれば、伝統的家族観を擁護してくれるのであれば、あなたを無償の愛で支援いたします。とすれば、政治と宗教はWINWINとなる。これを禁じたのが政教分離の概念であるが、結局現実的にはあまり意味をなしていない概念である。といえる。

その理由は、端的に、

1宗教は、弱者はめ込みビジネスとして機能しうるので富の吸い上げ装置として政治家に利便性があり、なおかつ合法であること。

2政治は、宗教によって、簡単に変容させることができるけれども、それを表立ってやると当選できないのでじわっとやる必要があること

の2点で政治家と宗教サイドそれぞれでウィンウィンということになる。

政治家が直接、一般から広くお金を集める方法は政治献金しかないが、そこに宗教団体をカマスことによって、得られる献金の額を増やすことができる。宗教団体が運営しているフロント企業などの献金などフィルターを通して献金を増やすことができる。その原資は、宗教団体の所属信者が時に自分の生活を切り詰めたり、自分の資産の一切を売り払ったり、借金をしたりして作ってくれる。

宗教団体サイドとしては、政治が政策を、自分たちの教義に近い形で打ち出せば打ち出すほどに権威が増える。また、支援する政治家が宗教的集まりに顔を出してくれると、新規の信者を開拓するときの広告塔として使えたり、既存の信者の忠誠心を高めるための装置として用いることができる。それで、増えた信者からさらに多くの富を集約することができれば政治家も宗教団体も金銭的に儲かる可能性があるのでやめられないまらない。

道徳教育と家族観

また、道徳として家族を尊重することを一般的な秩序とすることは社会の安定や子供を安定した環境で育成することに寄与するなどの点があり、日本では、父母子供に祖父母親戚を加えた一つ屋根の下ファミリー家族観が、「ふつう」として今日受け入れられるに至っているし、そのモデルから外れるほどに、「変」とみられている。と思う。

親や兄弟、家族は大切にするべきものであるという、「あたりまえ」があるように思われる。

子供の犯罪に芸能人の親が頭を下げる日本の不思議

子供が逮捕されたとき、親である芸能人が「この度は誠に申し訳ありませんでした」と頭を下げるのが当たり前のように思われている。これは日本人が、子供の人格と親の人格を同一視しており、ある組織に所属する個人はその組織から影響を受けているに違いないという色眼鏡で見ても構わないと思っている。

しかし論理的には、子供と親は人格的に同一ではないし、子供の行動の責任は親には帰属しないはずである。なぜなら自由主義社会であり、自由の属するところは本人自身の意思を除いてほかにないから。

しかし、そういうところの切り分けができなかったり、同一視がやめられないなど頭の使い方や価値観を多様化するためのエミュレータを頭の中で動かすことが難しいひとは少なくない。

道具としての家族単位

生きていかないといけないから。

そういうものだから、

やくわりがあるから、

という必要性に基づく家族観、大変ヤバい言い方をしていたある方の言葉を借りれば「道具としての家族」観というものが、これまでの日本にはあったように思われます。オブラートにはもちろん包んだうえで別の表現に変換されていますが、本質としては「利用価値のある人間の構成単位」としての家族、という大変ドライな家族もいくら血のつながりがあろうとも実在していたという厳しい現実を遠慮なく突き上げている言葉のように思います。「道具としての家族」。やっぱり体験者経験者の言葉の表現は重たいです。

政治も宗教も家族を道具としてとらえていることが多いです。企業もそういうところがあると思います。お金が絡むといろいろゆがむのは人間だもの、という感じです。

お金があまり全面に立ちすぎると、結局家族はゆがんでいって、道具としての単位になっていってしまうようです。

それだけが言いたいがための長すぎる前置き。

家族と愛の重要性

家族も愛着がなければただの構成単位。

あるいは、かくあれかし、という宗教団体であるともいえます。

一方で人間の育成において、愛情的な感情論は家族単位の形成と実際の安定運用上きわめて重要な意味を占めるという持論があります。論理的思考だけでも人は成長できますが、多くの人とうまくつながるには、感情をきちんと開放する力が必要です。

そのような感情コントロールの力というのは、結局のところ、子供の育成において特に心理的安全性の面で大きく影響する可能性が極めて大きいです。よほど、子供の認知機能が卓越していない限り、親の一挙一同に子供の思考言動は左右され、親の感情の起伏が激しいほどに子供の日常生活上必要な思考へのエネルギーコストは高まるからです。

また、失敗は成功の基というだけあって、成功に至るには、ある程度の手数が必要です。

手数を実現するには、ある程度の失敗を許容できるメンタルが必要です。

そのメンタルの基礎となる、「自分は愛されている」「自分はここにいてもいいんだ」という安心感が、新しい行動への挑戦を保証することになります。

月並みな指摘ですが、大人になっても他人に攻撃的な方というのはこの辺りの愛着形成がやっぱりうまくいっていないのだろうなと思うのです(n=1)。現代病といえばそうかもしれないですし、人類の有史以前からのお悩みなのかもしれません。

本題としてのryuchellの離婚

結局、自己肯定の問題かつ、自己規定の問題かつ、「何が幸せなのか」という問題であって「他人からどう映るか」や「道具たり得るか」は問題でない、ということと解釈しました自分は。ryuchell&peco氏の離婚を。

言い方を変えると

「日本国の規定には当てはまらないので、婚姻関係から離脱します」

ということで、新しい家族の形を模索するそうです。それは、ryuchell氏の

離婚しても彼は彼であるようで、それを相方のpeco氏も認めており、性別を前提としない1対1の人間としての愛を以て、家族を形成していきたい、ということ。

家族単位と結婚

これより引用多発注意報。

日本の結婚制度は、そののちに子供をもうけて家が続いていくようにすることをサポートするための仕組みとして作られているので、そのほかの用途で使おうとするとうまくいかないことがある。そのため、そのほかの用途でも使えるような結婚や家族単位の在り方を探す試みをryuchell氏はしようとしているのでは、と理解する。

本人も「新しい家族の形」を追求していく、としている。

具体的には

「“夫”と“妻”ではなく、人生のパートナー、そしてかけがえのない息子の親として家族で人生をすごしていく」

ということで、あたらしい枠組みを自分でつくっていく、とクリエイティブな宣言をしているわけですね。

言い換えると、男と女という関係性を超えたパートナー、かつ自分たちの子供の親としてのロールを基本単位とした家族の形を模索していきます、ということ。

本人の言葉ではさらに詳しく

妻のpecoについて「女性を好きになることは、僕の人生の中で、初めての事」だったが「“本当の自分”と、“本当の自分を隠すryuchell”との間に、少しずつ溝ができてしまいました」といい、pecoに打ち明け「どれだけ伝えても足りないほど、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいだけど、家族として、パパとしては、何があってもこの幸せは守りたいと強く思いました」

と続くわけですね。

これは、

メディアで自分のこれまでの生き方や、“夫”としての生き方についてお話しさせていただく機会が増えていく中で

という、うそじゃあないんだけど、でもじぶんってそれだけじゃないんですが、実は。という部分の割合を黙殺できなくなったということです。

だからryuchellとして、自分を認めつつ、家族としてやっていくための自己規定や家族の形の成形をこれからもう一度やっていきたいということなんですね。

いいぞ、どんどんやられたら素敵だなあとおもいます。

奥様peco氏

率直で素晴らしいです。こういう表明ができる高潔さ非常に好きです。人間的に剛。愛に満ちている。

《正直、墓場まで持っていってほしかったと一瞬たりとも思ったことはないと言えば嘘になります》

ということで、そういうお気持ちをちゃんと世間に向けて投げかけることができることも、自分自身のそういう思いともきちんと向き合っていきますよ、という覚悟を感じるし、

わたしは何よりもまず、りゅうちぇるという人間そのものがだいすきです

たぶん一緒に生活するということの優先順位の一番はこれでいいのだと思います。

好き嫌いと一緒に過ごした時間による行程による肯定。

だから正直、墓場まで持っていってほしかったと一瞬たりとも思ったことはないと言えば嘘になります。 だけどそれ以上に、もしほんとうにりゅうちぇるがこの先何十年、おじいちゃんになるまでひとりで抱え込み続けていたらと思うとほんとうに怖いし、こうして今 生きて、勇気を振り絞ってわたしに打ち明けてくれたことに、ありがとうの気持ちでいっぱいなのです。 打ち明けてくれた瞬間、ひどいとか、最低とか、だましてたの?とか、ほんとうにそんなことは思わなくて、それはりゅうちぇるがほんとうにたくさんの本物の愛をくれたからだと思います。

こういう解釈が本当に心からできるのであれば、それはとてもクリエイティブで素晴らしいことだと思いました。本質的には2人の問題で回りが話のネタにとやかく取り上げること自体がナンセンスなのですが、

みーんな弱いし、みーんな強い!

というワードは、最強なのではないかと思いました。

2人は、2021年9月にそれまで所属していた芸能事務所を退所し、ryuchellが社長を務める事務所を設立しました。そういう意味では、ビジネスパートナーでもあるわけで、単なる家族よりもさらに深い関係です。多様な家族の在り方を示す存在として、ますますメディアでの活躍、発言が期待されま

とのことですので、

さらに家族関係が複雑な中で、彼らの子供たちが幸せに育つなら、周りがとやかく言うことはないし、二人だけで困るときには遠慮なく周りを頼ってもらいつつ、だれからも肯定されることもなくても自分たちで新しい家族の形を作っていってほしいと思います。

おわりに

あたらしい家族の形

それが、今の日本社会の停滞ムードを変化させていく一つの具体的な答えになりうると思っています。

結局新しい組織形成っていうのはだれにでもできることではなくって、それゆえに結局不合理でも今までのやり方を踏襲することになることが多いのだと思います。

そういう意味で、あたらしいありようを模索する力というのは社会を変えていく力としてみたときにきわめて重要だなあと思います。

自分でも、そこまで乗っけたら乗っけすぎかなと思いつつ、結局、でもそういうことなんだろうなと思います。これまでを尊重しつつこれからが逸脱してもそれは、自己肯定のありよう次第ということで。

政治や既存の社会制度にとらわれない幸せの形を各人それぞれが自分で幸せになれるように形作っていって下さることを祈らずにはいられません。

参考:

【全文】peco「正直、墓場まで持っていってほしかった」も「打ち明けてくれてありがとう」(デイリースポーツ) – Yahoo!ニュース

ryuchellが離婚発表 夫の「カミングアウト」を受け入れたpecoに集まる賞賛の声(SmartFLASH) – Yahoo!ニュース

できる限り日々人にやさしくありたい。~他者への危害的な意味で危ないのは、さびしいのに寂しいといえないでいる人の可能性

大阪のクリニックのビル火災のニュースは、第一報を聞いただけで胸が苦しくなりました。「またか」というやるせなさと、極端さ、予測不可能性、それゆえの対策のしようがなさ。

いろんなものが一斉に去来して、生きていくことがつらくなりました。

しかし、書きとどめておくことで解決するなにかもあるかもしれないので、気持ちを奮い起こして、今心の中にあるものを頑張ってアウトプットします。

「消えてなくなってしまいたい」という欲望について

人は、「死にたくない」「長生きしたい」と誰しもが思っています。

本当に?そうでしょうか????

あるいは、生きていることが楽しい、うれしい、喜びというより、義務感みたいになる感覚がお分かりになるでしょうか。「生きさせられる」生、という感覚とでも言いましょうか。

そうした感覚をもって生きている方方は、死にたくないから生きる、や、生きていたいから生きる、という感覚でいきているのではありません。「死ねないから仕方なく」生きている、と感じているので。

そうした感覚のしんどさをあえて最も単純化した言い方をするならば、「息をするのもしんどい」という感覚にちかいかもしれません。単純化しすぎて生ぬるいですが。本質的にはまさに、生きていることそのものが苦痛な感覚で、ただそこに生きて存在するというだけで心身にストレスを感じるのです。

この感覚は、ベッドの上であろうが、おいしいものをたべていようが関係ないのです。快刺激で上書きしようにも、その快刺激やその記憶がきちんと保持できないので、あるいは、思い出したくもない思い出ばかりが去来して、生きているだけで自分のこころがしんどくなってしまう。

「だから消えてなくなってしまいたい」「そのことで楽になりたい」

でも、死んではいけないことになっている、ないし、死んだら周囲に迷惑をかけてしまう。あるいは死ぬことはこわいけれども、もうどうにも生きていることが、あるいは生き続けることそのものが耐えられない、だからその心理的な抵抗感をやけくそ感で埋め合わせてしまいたい。面倒くさい、ないもかもどうでもいい、早く楽になりたい。

このはざまで、揺れ動くことを余儀なくされるわけです。

そして、そのようにして煮詰まった脳内からは、さまざまな想像力がうしなわれていきます。そうして、他人の痛みよりも、自分ごと、自分をうまく包摂しない周囲の環境ごと消し去ってしまいたいという欲求を抑えこむものがなくなったとき、人は自分の近くにガソリンをまいて火をつけるのだと思います。

考えてみてください。普通の人は、焼死を選べません。熱した金属に触れたときの、あの「熱い!!!」の苦痛をこれまでの人生で味わったことがあるならば、そして、その状態が全身に広がることの苦痛は、まともに考えれば正気を失わせるに十分と思います。想像を絶します。想像するだけで恐ろしくなります。

ましてや、そのような苦痛をほかのだれかにも与えてしまうかもしれない。もしそんなことになったらとおもうと、恐ろしくてたまりません。大変なことです。

しかし、その苦痛さえ、感じられなくなるほどに、脳の情報処理に偏りが出ている状態なのでしょう。そして、そのような情報処理とは、主に、悲しい、寂しい、むなしい、みじめだ、つらい、耐えがたい、面倒だななどの感情に多く割かれるのだと思います。あるいは、感情をうまく自覚してコントロールできない、そうした自らを常に責め立てる自罰的な思考があったりするのかもしれません。さらには、そうした認知のゆがみというものが、本人の中から湧き上がってきたり、環境がその人を追い込んだり、あるいはその両方があったりすると思います。

とにもかくにも、作業療法士をしていると、普通の社会ではあまり接点を持てないいろいろな方と交流させていただく機会があります。上記のような方も、世の中にはたくさんおられます。

そして、わたし自身にそういうところが全くないかというと、絶対そんなことはないとおもっています。人間だれしもがそういう「自暴自棄」スイッチを持ってると思います。そして、一旦そのようなスイッチが入ってしまうと、自分では、たてなおせなくなってしまうのです。あるいは、最初から自分ひとりでうまれて、生きてきたような感覚でふるまうことで、喪失感を無理やり埋め合わせようとして、ますます矛盾の中におぼれていってしまうのです。

そうした現象を想うとき、思い出す評論があります。

映画「ジョーカー」の主人公が表現した社会の冷やかさ

コメディアン死亡だったのにいつの間にか殺人鬼になってしまった映画のキャラクターがいます。もちろんフィクションですが。

そんあ、2020年にホアキン・フェニックスがアカデミー主演男優賞を受賞した映画「ジョーカー」の主人公「心優しいアーサー・フレック」の事を問題を起こすことでしか人とつながれない、という解説をした人がいます。岡田斗司夫さんです。彼は、「アーサー」は、社会が彼に向けたの環境の力学によって、そうならざるをえなかったと述べています。

長い動画ですが。一応リンクを張っておきます

もちろん映画「ジョーカー」はフィクションである。ゴッサムシティは実在しない。のです。

けれども、この映画は人間の心理として、憤懣やるかたなくなったり、社会とうまくつながれないと、衝動がある個人を破滅的な犯罪に駆り立てることがあることを示唆している、とおもいます。

実際、そういう人間の行動原理で起こされたと思われる犯罪のニュースはなくならないですね。

「死刑になりたかった、だれでもいいから殺せば死刑になると思った」

このような供述の事件はgoogleでざっと検索しただけで、下記のように。

京王線刺傷事件の犯人も…「人を殺して死刑になりたい」息子の“殺意”に怯える母親たち(週刊女性PRIME) – Yahoo!ニュース

平野啓一郎さんはTwitterを使っています 「「死刑になりたかった」と供述の事件。 2004年 茨木市連続ひき逃げ事件 2007年 平和記念公園殺人事件 2008年 土浦連続殺傷事件 2010年 取手駅通り通り魔事件 2012年 心斎橋通り魔事件 2014年 透析患者チューブ引き抜き事件 2015年 江戸川区女子高生殺人事件 2016年 イオンモール釧路通り魔事件」 / Twitter

「死刑になりたい」また無差別殺傷 同世代で繰り返される共通の「動機」: J-CAST ニュース【全文表示】

死刑になりたいと望んで引き起された犯罪事件の一覧 – いちらん屋(一覧屋) (ichiranya.com)

こうした、「自分が置かれた状況の理解することが困難であるか、どう解決したらわからない、もしくは解決しようとしたがうまくできなくて打ちのめされて打ちひしがれて、自暴自棄になってしまう。」人は少なくないです。

そういう人たちが世の中には必ず存在するのです。

そうした人たちに、どのようにむきあっているでしょうか。

「だれからも関係をもとめられていない」 感覚

友達でもいいし、だれでもいいから、やっぱりひとは、だれかから必要とされたいと感じている、ということだと思います。

そういう感覚が自分ではいかんともしがたい人たちが、たとえば、「さびしい」とひとに言うことでつながれると一番良いのですが、そうできない、むしろ「ほっといてほしい」というような人に、どうするのか。

普通の人は、「ほっとく」のではないでしょうか。

本人がほっといてくれというのですから。

でも真実は、それでもなお、踏み込んできてくれる誰かを待っているのだと思います。資本主義は、契約社会です。言葉が大切ですし、論理が大切です。言葉には責任がともないます。

ですが、そんな枠組みの中ではうまく生きていきにくい人たちがやっぱりいるんですよね。自分の言葉が、額面どおりの意味ではない意味でしか、口から飛び出していかない人たちがいるんですよね。

「ほっとく」と、そういうことになるのだとおもいます。

やさしさが大切

最後に、冒頭で紹介した映画「ジョーカー」の主演男優である、ホアキンの受賞時のコメントを紹介して終わりにします。

壇上に上がったホアキンは「本当に感謝していますし、自分が他の候補者よりも優れているとは思っていません。僕はすばらしい映画人生を送ることができました。なぜなら、俳優として、私たちは“声なき者”の声を代弁する機会を得ているからです。男女の平等、人種やジェンダーに対する差別、そして地球環境まで、今の世界にはまだまだ問題が山積みですが、それらは愛情や思いやりを持っていけば、解決できるのです」と想いを吐露。

【第92回アカデミー賞】主演男優賞は『ジョーカー』のホアキン・フェニックス 亡き名優に続き“ジョーカー俳優”2人目のオスカー! | cinemacafe.net

本当、

やさしさって大切にしないと。

みんな身をほろぼすよなあ、としみじみおもいます。

参考

腕利き板金工だった放火事件の容疑者 離婚後に「ひとりきりの悩み」 (msn.com)

雨がたくさん降るのはこれからの毎年のことと決めつけて、備えて生活をしないといけない

防災グッズ

毎年豪雨災害が発生

西日本豪雨災害が印象に強いですが、強い雨がふりつづいて河川のキャパシティを超えて、その水が街中に溢れるという現象が毎年のものとなっています。

以前はこれほどの雨が毎年降るということはなかったことのように思います。

私個人としては、毎年のことになりつつあるというふうに認識を改めます。

来年以降もきっと同じような現象が起こり続けるでしょう。

原因はよくわからないですが、教科書で小学生や中学生の頃に学習した内容では対応困難な状況に変化してきているように思います。

というか、災害が発生するのが普通で、その発生に備えるような生き方ができないと、何か起こった時に「自然には勝てない」と思います。

自治体も対応が困難

その度に、インフラが破壊され、復旧工事に多額の資金が必要となっています。

実際、家を立てるときに水害まで考えて家を立てる人はそれほど多くないのではないかと思います。

災害が起こりやすいところに、家がたくさんたっているけれども、これまでの雨量では災害となってこなかったということだと思います。

農業をやっているのであれば、河川氾濫の近くに家を備えることにもそれなりの経済合理性を感じるのです。しかしその跡地に高齢者向け施設を建設するのは危ないのだという認識が広がるとよいと思います。

しかし、そのような高齢者向けの施設、既に建ててしまっているところも多いので、なかなか根が深い問題だと思います。

できる人はなるべく自衛を

自衛が困難な方にリソースを配分するためには、自分で自分の身をまもれる人が自分のことを守るのはそれだけで立派な社会貢献であるという考えが広まって然るべきとおもっています。

まずは自分のことを自分でしっかりと守る。

自分の周りの大切な人を、自分でしっかりとまもれるように準備すること。

それだけで、世の中はよくなるんだというところをモチベーションにして、自分自身を鼓舞できるというのは大切な能力なのではと思います。

もっとできる人は周りの人に備えを促す

正直ちゃんと備えている人がいる自治体は、ありとあらゆる災害後の混乱に強いです。レジリエンスという言葉が流行したことも記憶に新しいですが、東日本大震災においてもてはやされた言葉です。

しかし、できる人は普段からの備えができる人、普段からのつながりができる人。

何もない時に、何かあった時の備えの大切さを説くことができる人です。

言う人によって伝わりが良かったりするのが、日本の風潮です。あの人が言うならそうしてみようと、そういうモチベーションが世の中を動かしていることも事実です。

そういう立場にある人は、その権力を自覚して平時からまわりに大切さを説く責任があるのではないでしょうか。

雨に備えて、晴れの日に傘を買う

本来であれば、これで記事が一つ書ける内容ですが簡単に書いてみます。

雨が降ったら、傘を買う

これは実は、対応能力としては下の中ですね。

雨に備えて、晴れの日に傘を買いましょう

まあ、傘を買えるお金をもっているだけましと言う意見もあるでしょうが、普通は家に傘をかって備えていて、雨が降ったとき、あるいは天気予報で雨の予報のときにはすぐに使えるようにしておくということが大切ですよね。

何かがおこってから、いま、すぐに買おうとしても傘が売り切れていることもああるかもしれません。

このエピソードからわかるのは普段からの備えが大切ということです。

普段からの備えが大切

では災害時どのようなものがあれば、助かるでしょうか。

たとえば、とりあえず、普段から生活物資の準備と買い溜めはしておこう

時間があれば準備ができて、そんなにお金もかからないですので備えをお勧めします。

よろしければ、1ヶ月分くらいインフラが止まることを想定して、ひと家族分確保しておくと良いと思います。たとえ災害が起こらなくても、他所での支援物資として消化したり、普段使いして消費することもできるので、問題ないと思います。

たとえば、とりあえず、ハザードマップくらいは頭にいれておこう

国土交通省がお洒落なサイトをつくってくれています。

https://disaportal.gsi.go.jp

各自自体もハザードマップ出してます。確認しておきましょう。

たとえば、とりあえず、車の燃料は満タンにして、土砂崩れと水没のリスクの少なそうな、安全な場所ににがす

実体験として、ここは間違いないです。スマホと充電コードと燃料満タンの車があればなんとかなります。

生命が危ないときに逃げるのはもちろん、命がたすかったあとの経済活動でも車の有無は、大きな差となって現れます。

生活物資の確保も、車がないと本当にとんでもなく大変です。

車ごと家から離れて逃げましょう。

家は動かせませんが、車は動かせます。

物流拠点に近づく方向にむけて逃げるルートを検索しましょう。

河からきょりのある、空港の近くなど、地盤の確認をして建築されていると思しき建物の近くが良いと思います。

普段から目星をつけておかないと難しいですね。

やっぱり普段から。

たとえば、とりあえず、情報インフラにアクセスする手段を検討しておこう

スマートフォンは必須です。そう言う点も考慮して業者を選びましょう。

できればすぐに持ち出せるノートパソコンは欲しいところです。パソコンだけではもちろん役に立たないので、その周辺機器もすぐに持ち出せるようにしておきましょう。

汎用的にいろいろなことに役立ちます。

あとはラジオ。スマートフォンがダメになったときに、情報を得られる大体手段があればいいですね。車があれば、ラジオは聴けるので、車があれば大丈夫と思います。

たとえば、とりあえず、家族と連絡が取れなくなった時の対処法について考えておこう

インターネット回線が死ぬということはあり得ないですが、電話回線が使えなくなる、端末が水没などして故障する、もしくは、電源が喪失して電池がなくなるなどして、連絡手段がつかえなくなる可能性があります。

そうなったときにどのように連絡を取るかをあらかじめ決めておくと心理的安心感が段違いです。

家に帰らず、安全な場所集合など簡単で絶対のルールを設定しておくと、命を無用なリスクに晒す必要がなくて良いとおもいます。

まとめ

とりあえず そなえは ふだんから。

社会と作業療法と効率化を妨げるものの話

作業療法を必要とする人に作業療法を届け続けるために作業療法に必要なのは、イノベーションだと思っています。つまり、作業療法士がどの程度、何かを変えることに対して積極的になれるかどうかということです。

安定と変化のバランスが大切ですが、医療全体を見ていると安定にしがみつこうとしている嫌いがあり、作業療法士はそこでどのように振る舞うかが問われているようです。

作業療法と社会全体をぼんやりと眺めて、この記事を書いていきます。

林先生の授業の数学のはなし

東進の林先生のテレビ番組にて、「算数の入れ替えの問題」の問題について取り上げていました。

この問題は、twitterで探せば類似のものがたくさん出てきます。例えば、以下のようなものです。

で、交換法則を認めず、これが間違いになるのは、どうなのかという話は、以前世間一般で議論になりました。

これについて、いろいろな意見があると思います。

今読んでおられるあなたはどのように感じますか?

「学校の先生に習った通りに回答していないのだから減点すべき」

と感じるか、はたまた

「算数の先の数学においては、交換法則習うんだからさあ、バカみたい」

と思うかは、その人がどこに重きを置いて考えるかによると思います。

 

前者は、「悪法も法」つまり、暗黙のルールでも守らなければならないし、それが秩序であるという考えかたと言えるでしょう。

後者は、合理主義というか、論理的に正しければ、良いのではという考え方であると言えるでしょう。

要するに見ている世界も違うし、その背景にある物差しもおそらく違うのだと思います。

 

ちなみにこの番組では、世界的な数学の権威の意見を参考として、

「きちんと問題文で条件を提示していないのであれば、不正解とする合理的理由はない」

「ガウスという天才がいたが、彼は交換法則を見出して1〜100までの合計を瞬時に見抜いて見せたが、そこで交換法則を否定するような教師に指導されていたら彼の数学者としての人生はなかったかもしれない」

という方向で意見集約されていました。

上記の話は、「合理性」というものを考える上で非常に示唆に富んでいます。

合理性とは方法論の改善

アルゴリズムという言葉を聞いたことがあるでしょうか?

主にITの世界で使われる言葉かもしれませんが、「方法論」と言い換えても良いかもしれません。ようするにやり方、方法です。

同じ結果を得るために、様々なやり方がある、そのやる方のことをアルゴリズムと言います。

先ほどのガウスの逸話でいえば、

1〜100の合計を計算する方法は、

一から順番に100まで足す

1+2+3+4+5+6+・・・・+99+100

101掛ける50

という方法の2つのアルゴリズムがあります。

お分かりのように、そのどちらを用いるかによって、結果を得るために必要な時間が大きく異なるはずです。

多くの人は足し算の処理を頭の中で100回繰り返すの時間に比べると、一回の掛け算を頑張る方が早く計算の結果を得ることができるでしょう。

 

これは、和の交換法則が成り立つという前提と同じものが複数個あるなら積として扱えるという知識があるがゆえにできる、スムーズな回答なのです。

で、この方法にバツをつける学校の先生がいるということが問題視されているわけです。

「学校で習っていないことをするのはけしからん」ということですね。

しかし、習っていようがいまいが、賢い人は、合理的な考え方をしますし、結果が同じならば、低コストな方を選びます。それが、のちの選択肢の幅を広げる方向に影響すること、つまり自分の人生をより豊かにすることに直結することを理解しているからです。

スムーズなのはずるいか

不思議なことにこうしたスムーズな解法は賞賛されるか、非難されるかという真逆の評価を受けることになるのです。

率直に、スムーズで素晴らしいと褒められる場合もあれば、逆に正攻法ではなくてずるい、手を抜いているという評価を受けることもあるということです。

前者は合理的感性であり、短い時間で多くの成果をあげることは素晴らしいですねという感覚ですね。

後者は、自分が持っている文化的社会的公正さのイメージにそぐわないので、好ましくないと感じるという人間的な感覚でしょう。自分は真面目にやってるのに、少ない労力でズルをしているというそういう感覚です。要するに嫉妬です。

これはもう、どう感じるかという世界の問題です。

その人が、どのように感じてどのように行動するかというのは自由です。

その結果も自業自得です。

結果を引き受けさえすれば、どちらのやり方であっても問題はありません。時間をかけて愚直にやるからこそ見える景色や学びというものも、間違いなく存在するからです。特に、結果が全てではない、過程が大切であるという視点においては間違いなくそうです。

ずるいかずるくないかというのは、議論のポイントがずれています。

本当に問うべきなのは、自分もそうしたいのか、そうでないか、ということです。

合理化を非難する文化に負けないことが大切

だからこそ、大した考えもなく感覚で合理化を否定する文化に安易に迎合するべきではないと考えます。

「エクセルのマクロを使って仕事をしたら、上司に理不尽に叱責された」

というのは、エクセルが仕事に使われるようになって以来の、あるあるネタでもう使い古されてしまって、未だにそんなことあるんだなーというレベルですけれど、作業療法士の世界でも、本質的にそういうところはあるかもしれません。

「時間をかけて、みっちり丁寧にやらないと、そこに愛はない」

みたいな。

でも、結局のところ、作業療法の対象者の方が求めていることに何がマッチするのかという、そういうシンプルな話だと思っています。対象者の方が愛を求めておりそれを充足することが、治療効果を大きくするのであれば、愛を追求するのも悪くないでしょう。

反対に、対象者の方が結果を求めているのなら、別にどれだけの時間がそこに費やされるか、どれだけ作業療法士が時間をかけて関わるかなんて関係ないわけです。

そういう人に対して、作業療法士が不必要なまでに長い時間関わり続けることには、違和感を感じます。

先のエクセルの話でいえば、短い時間で、大きな成果を出しているのに、それを非難するのは、機械化することで自分の仕事が奪われると考える人がいるからですし、単位時間当たりでの仕事量があまりに違うと、自分の仕事の価値が相対的に低下することを知っているからです。

このようなマインドのもと、同調圧力で、意味のない長時間作業療法と称して、対象者への関わりを継続するような関わり方をしているのであれば、それらは改めて行かないといけないと思います。

日本は医療費がただでさえ足りないということになっておりますので、本当に必要な人に必要なだけの資源を届けるという視点においては、ここは非常に重要なポイントです。

「マクロ」は、すべからく全ての作業療法士が使いこなせるようにならなければなりません。全ては、顧客である作業療法の対象者の方の利益を最大化しつつ、組織の利益にもそこそこ貢献することで、作業療法の持続可能性を高めるためです。

ずるいだの何だの言っている余裕はこれからのこの国にはありえないのですが、そこも、視野の違いだと思います。直近のことの方が気になる人もいれば、長期的な先のことを踏まえて今のことを考えるべきだという人もいます。

いわゆる合理的な人は後者であり、のちへの影響を考慮して現在の振る舞いを考えたり、またそれを実行に移したりします。

作業療法士はリハビリテーションの仕事であり、評価し目標を設定し、対象者の方に変化を迫る仕事です。その作業療法士が、自分自身を変えられないのは、作業療法士という存在の信用問題に関わると思っています。作業療法は、もっと合理化できるところはどんどんためらわずに変えていかなればならないでしょう。

ためらいが生じるのは、自分自身の「面倒だ」という気持ちと、その変化を良しとしない人からの反対を想定することによると思います。ですが、本当に価値があることであれば、その価値を理解できない人に関わる労力を使ってもったいことになるよりは、共感を得てくれる味方を増やすべきで、そうなるためには自分自身がどんどん変わっていく必要があります。

作業療法士は他人を変えることが仕事です。自分自身を変えることができないで、何を変えることができるでしょうか。合理化を非難する文化が確かにあることは認めつつも、今後を見据えて必要な変化であればそれを最後まで押し通すべきでしょう。

また、作業療法士の背景がどうとか、そんなことは、対象者の人には関係ない話で、対象者の方が本当に望んでいることはなんなのか、どうしたいのか、どのようにいきたいと願っているのか、本当に大切にするべきはそちらですから、やるべきと考えるなら遠慮なく、端折って合理化を進める利点はあると思います。

組織の秩序は何のため

往々にして合理化を妨げる要因となるのが、所属する組織のルール、つまり秩序です。

組織の秩序というと、雲をつかむみたいな話になりますが、私見としては、どのように人を動かすかということに尽きると思います。

つまり、組織に所属する人が、どのような考えや動機付けのもとで、どのように行動し、それがどのように必要とする成果に結びついているのか。

そういう視点で、人をどのように動かすかということにおいて、重要になるのが組織の秩序ということになると思います。

お分かりのようにこれは、合理主義者の視点であります。

逆に文化的社会的公正さの感覚から見ると、多数の人間がそれなりに折衝してみんなでやっていければそれでいいじゃないという感じになります。能力や生産性や成果に関係なく、組織に長く所属している人がより多くの給料をもらえるという年功序列型の会社組織の秩序も、そこに多くの人が公正さを感じており、納得のもとで働いていたからこそ、あり得た仕組みということになります。

ともあれ、組織の秩序は人を集団に縛り付けるため、もしくは集団に属する人に一定の方向性を与えることで目的の成果を揚げやすくするために存在します。

前者は、家の門限であり、国の戸籍システムなどが該当するでしょう。

後者は、道路交通法であり、国民皆保険制度でありましょう。

このような組織の秩序の働きを、組織のリーダーがうまく知覚し、活用できているかどうかを、作業療法士は敏感に感じ取らなければなりません。

つまり、上記2つのどちらの文脈で、組織の秩序を運用しようとしているのか、を理解しようとしなければならないということです。

合理性に乏しい組織であればあるほどに、「昔からこうだから」という意味もわからぬままに継承した無意味な文化が溢れかえっているはずですので、すぐにわかると思います。

大切なのは、自分が納得してその組織に所属しているのかどうかということになると思います。納得していないのなら、組織の秩序に働きかけるか、その組織から抜けることを考えましょう。

イノベーションに対抗する文化

合理性が文化や人に受け入れられるかどうかは、結局のところ、その社会がどの程度の変化を許容できるのかということにかかっています。

大相撲の話でいえば、横綱かくあれかし、という話です。

白鵬の相撲の取り方は、勝つための合理的な相撲です。相手をどのようにすれば負かすことができるかどうかに特化した相撲の取り口です。

しかし、相撲協会としてはそうした相撲は横綱らしくないから控えるべきであるという話になるそうです。相手の挑戦を受けてどっしりと組み相撲で戦わなければ、横綱の品格に欠けるというのです。

これはつまり、どういうことかというと、今の大相撲には白鵬のような強さを追求する相撲を受け入れるだけの度量、器量がないということです。相撲に勝利するにはという飽くなき探究の姿勢を持って横綱の品格とすることは、できないということです。

あれだけ相撲に対して、真面目に真摯に取り組んでいる力士は他にないと思うので、個人的には十分に横綱の品格を讃えているといって良いのではと思うのですが、相撲協会はそういう考えにはなれないということです。

一体それのどこが問題かというと、新しい価値を認められない組織は、変われない組織になります。変われない組織には、変われない人間が依存しやすいような組織の秩序が出来上がり、風通しが悪くないり、世間一般とのズレが次第に大きくなっていきます。

相撲でいえば、先輩からの暴力は指導であり、うちうちで解決すれば良いだろう、外に話すようなことではない、という話になります。

日本の法律に触れているのであれば、公に裁判までするべき話のはずなのですが、どうも、風通しが一旦悪くなると、組織というのはとことんまで腐りきってしまうようです。

作業療法士の世界も、医療の世界もそうですが、人材の流動性が低い組織においては離職率を下げるための試みが、却ってある世代の退職を促してしまっている、つまり離職率を上げている可能性すらあります。

そういう組織は、昨今の大相撲と一緒です。事故が起きれば隠蔽するし、物言えぬ人にどのような対応をしているかはお察しの通りです。

人材に流動性が乏しく、優秀な人材を外部から迎えたところで、何も変わらないという事態が起こることもしばしばです。また優秀な人材を、すぐに手放してしまうこともあります。

こうした組織において、変化を起こそうとする人間は敵です。

どんなに良い結果をもたらすイノベーションであったとしても、既存の秩序やそれを元にして成り立っている文化にあだなす害のある存在ということになります。

そんなゾンビのような組織は、早いところ絶滅すればいいと思うのですが、文化的社会的公正さの感覚に基づく組織は緩やかに衰退しながら意外と長生きです。もっとも所属している組織の構成員の表情は、どこか覇気に欠けますし、仕事をしていて楽しそうではありません。

そんな組織には存在意義を感じることができないのは私だけでしょうか。

コラム 変化耐性のはなし

自分が変われないから、変わったことをして結果を出す人を攻撃する人がいます。

ひとえに変化に対する耐性が低いからですが、それで他人を攻撃するのはナンセンスです。

なぜなら、変われないものが変われるものに変化しないことを強要するのは、変化することを強要されても文句は言えんと思うのです。

以上です。

組織の合理性追求と障害者就労の矛盾

ここまで書いて、一つ重要なことをまたここで書きます。

組織の構成員を純粋に成果で測るとしましょう。

つまり、成果を出す人間は雇用され続け、成果に乏しい人間はリリースされるというそいう組織が出来上がります。

医療や福祉の世界においては、そのような成果主義を導入することで、顧客である対象者に対して、より良いサービスを提供し、より良い結果を対象者に受け取ってもらうことができるでしょう。

そのためには、徹底して合理性を追求し無駄を省くことが重要です。なぜなら、日本の医療福祉介護の世界にはお金の余裕がないからです。

これを突き詰めると、例えば能力の乏しい作業療法士や成果の出せない作業療法士はお休みをもらうことになり、雇い続けてもらうこともできなくなるでしょう。つまり、成果の出せない人間はいらないというわけです。

一方で、障害者の方の就労においては、何も成果だけを以って就労できるできないを決めるわけではないですし、じゃあ医療介護福祉の分野においてもやっぱり働く側も合理性ばっかりを追求するのもなんか違うんでないのという、そういった感覚とはやはり矛盾するところがあると思います。

また、合理化をすすめたからといって、全ての問題が解決できるというものでもないことを感じさせてくれる矛盾でもあります。

大変でも、作業療法の合理化は必要

なぜなら、持続可能性がピンチだからです。

作業療法は無くても死にません。

資源やリソースが減れば、当然生存に関わることが最優先です。

 

そんな状況の中で、作業療法を必要としている人に、ちゃんと作業療法士が作業療法をリーチするためには、作業療法をもっともっと洗練して、短い期間でより多くのより良い変化をもたらすことができるようにしていくことが必要であり、それはまさに合理化のプロセスそのものであるといえます。

よって、作業療法には合理化が 必要であり、そのためには、作業療法士がまずは自分の頭を柔らかく保つと同時に、新しいものを厭わず、かといって周囲の評判を必要以上に気にせず、矛盾を飲み込めるだけの大きな視点を持って、いろいろな表現を行なっていくことが、これからの作業療法士には必要なのだろうと思います。

感情論と合理性をうまく統合できるか、その矛盾を相克できるかどうかは、作業療法が今後もっと進化していくための鍵になるようです。そのためには、作業療法士がもっと、自分のスキルを増やすことに貪欲であり続けること、そしてそのための正当な対価を組織に要求するだけの図太さを身につけ、組織に対する発言力やら影響力を強化することなどが必要かもしれません。

いずれにせよ、合理化をズルいなんていってる作業療法士はいないと信じたいです。

まとめ

合理的になれるかどうかは、

違うものを同じと見れるかどうか

新しいものを受け入れることができるかどうか

矛盾から、新しい到達点を見いだすことができるかどうか

 

 

差別とは、その感情

ネット上で、とんねるずのキャラクターが差別的だと話題になっていた件について、マイノリティーの当事者のミッツマングローブ氏がコメントを寄せているのを見つけました。

差別を考える上で大切なことが書かれていたので、紹介します。

表面的な配慮は窮屈さを増すだけで、無意味

セクシュアルマイノリティーを茶化すようなキャラクターをとんねるずの石橋氏が演じていたことが世間的にバッシングされていました。

一昔前であれば、問題になっていなかったことなので、社会の関心が高まってきているのはいいことだなと思います。

ただ、そこでとまってしまっている人も多いのではないかと思うのです。

大切なのは、

「茶化しちゃだめよ」

といって、タブーにすることではなく、当事者の人が本当はどう感じているかに思いをはせ続けること、興味を持ち続けることが大切です。

「あなたはこういう人だよね」

と、興味があって、適切な距離感で関わり続けることができるならば、差別なんて起こりえませんからね。

配慮をしていますという仮面をかぶって、

実は遠ざけているだけの人は

実際、世の中に多いと思います。

精神障害者の方、認知症の方、知的障害のある方への社会としての遇し方を見るにつけ、

配慮という名の隔離が行われているのではないかと、

猜疑心にさいなまれることこの上ありません。

表面的な配慮をする人たちに囲まれて、互いが揚げ足取り合うだけの社会に、快適さがあるでしょうか?

当事者の方たちは、そんなことより、自分たちが「普通」に暮らせる社会になることを望んでおられるようにおもいます。

そして、そのために普段からの不断の、不特定多数の方々からのかかわりやら支援を望んでおられます。

「普通」を本当の意味で保障するためには、言葉面のその先こそが必要です。

ミッツマングローブ氏の言葉の引用

そのことを的確に表現しておられたので、引用しますと

過剰なほどの自重と、善意という名の偏見に塗れ、いよいよ日本も行間や心の読めない単細胞国家になってしまった……。そんな気さえします。差別や区別にも『分別』があって然るべきでしょう。『分別』というのは、無数のグラデーションの中で、その都度その都度『判断』をすることです。それが道徳であり、秩序なのだと思います。

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週刊朝日より引用

大切なのは、自分の頭で考えること

どうにも、オーバーラップしたので自白しますと、一時期はやった「障がい者」議論は、とてもとても、こっけいにみえました。

障害者という言葉に、いったいどんな感情を乗せているのでしょうね、漢字一文字にこだわる人たちは、と思いました。正直。

いや、当事者の方がそこの議論を活発にされるのは当然のことだと思います。自分自身を規定する表現ですから。

だがしかし、その周囲の人間が、「配慮」と称して、不必要なまでに騒ぎ立てているように感じられてしまい、そのことが、自分の中での違和感として残っているのだと思います。

だって、表記が変わったからといって、音・読みは変わらないわけで、つまり、そういうつもりで、そういう感情でその単語を自分の言葉として発している時点で、表記を変えたところで何の意味もないと思うからです。

そう、結局は性根の問題です。

どういうつもりで、その言葉を発するかということです。

事実は事実

個人的には、

障害者とは、

「いきづらさが比較的多い人」

という意味です。

事実です。

逆に、身体に欠損があろうと、思考力が不十分だろうと、いきづらさがない人は、障害者ではありません。

そういう理解です。

これは、単なる事実だと思います。

そこに不必要な感情を勝手に付加するから、話がややこしくなるのではないでしょうか?

たとえば、「デブ」が悪口だと思う人は、そこに差別意識があることに気がついてほしいです。

本来は単なる事実の指摘なのに、なぜそれが悪口になるのか。

それは、

言う側の人間が、言われる側の人間に対して攻撃的な意図をもって発言する

からであり

言われる本人が、自分自身の体脂肪率の高さに差別的な意識を持っている

からです。

体脂肪率が高いことが、その人個人のマイナス評価に直結するのは、感情論がそこにあるからです。それは、もっと普段から意識されるべきことです。

なぜなら、人間の社会は感情論でモノゴトを進められることが、割と多くあり、その感情論が差別意識を生み出す温床だからです。

また、侮蔑的なニュアンスや、別称としての使用などをする人は、表現を変えたところで存在し続けます。実は、まさにそういう人たちにどこまで付き合っていくかとか、そういう問題でもあるようです。言葉狩りという言葉がもてはやされた時期もありました。

いずれにしろ、差別というのは、その本質は、言葉ではなく、それを発する人間の

「つもり」

なり

「性根」

なり

「立場」

なりによって、文脈として発生する要素のようです。

まとめると

表面上は当たり障りがなくても、本心ではすごい差別意識をもってる人は少なくないです。

嫌悪感を理性でコントロールしているだけで、一皮向けば、

「自分とあのひとは違う」

という感情に左右されることは、珍しいことではありません。

障害者の方に向けられる差別は、ときとして信じがたいものがあります。

他者に対して、どうしたらそのように悪意をぶつけることができるのかと、訝りたくなることが世の中には多いです。

一方で、

「それって差別じゃなくて、事実では」

ということを、周囲が差別だのなんだのと騒ぎたてて、ことさらに問題を大きく見せようとしていることもあります。

表面上の表現に振り回されると本質が見えなくなります。

余計な感情論が、自体をよりややこしく見えにくいものに変えてしまいます。

差別意識は人間である以上、よっぽど精神的な修行をしないと取り去ることはできません。

差別意識がない人間はいますが、生来の性格だったり育ってきた環境がそうさせるもので、ある程度大人になってしまってから理性的に修正をかけるのは本当に膨大なコストが必要になります。

しかし、差別は、その多くは、自然な感情の流れの結果として無意識的に行ってしまうものです。

だからこそ、その場その場での分別というか、配慮について常に考えて更新し続けることが唯一の、差別に対抗できる手段なのではないかと思います。

精神障害領域の作業療法においては、対象者の方を中心とした自他の差別意識による問題は頻発します。

そんなこんなを考えたときに、ミッツさんの言葉は本質をよく捕らえているなーと思ったのでご紹介がてら記事といたしました。

まとめ

常に考えることが、差別に対抗する唯一の手段なのではないか

デイケア送迎問題について特に関心がなかった自分を恥じた

昨日のNHKのニュースで、デイケアなどの施設への送迎車の事故が増加傾向にあるというニュースを見ました。

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事故の増加は単純に、不注意の増加というわけではなく、送迎車自体の増加に比例しているかもしれないので、どこまで予防対策に力をいれるのかは難しい問題だと、思いながら見て、

「いやいやちょっとまてよ」

と。

そういう問題が発生していること自体全然知らなかったというか、思い至らなかった自分自身に愕然としました。

大きな事業所の例しか頭の中になかったので、そういうことになったんだとおもいます。

年間160万人が利用するという送迎車。

今後、高齢者の単純増加や、さらなる高齢化の進行によって、利用者はますます増えることでしょう。

国としては、医療費のコストカットを叫ぶ一方でそういうところにどのように資金を投下するつもりなのか、注目です。

また、知り合いの作業療法士の方にデイケアではその辺どのようになってるのか、ちょっと聞いてみるつもりです。

病院に入る前の段階をどれだけ長く続けることができるのかというのは、作業療法士的にすごく大切な話題ですよね。

そのボトルネックともいうべき問題ですので、また注目していきたいとおもいます。

ソース:

大阪都構想は社会の断絶の象徴かもしれない

17日を通して、大阪でとある選挙がありました。

そして選挙の結果、大阪の2重行政解消の切り札であった大阪都構想は頓挫しました。

いち作業療法士としてショックだったわけ

ショックでした。

実は、結構関心度たかかったのです。

ひろえもん的に、この選挙は「将来と今のどちらを優先するか」という捉え方の選挙だったのですが、やっぱり人間ってそうそう変われるものでもないんだなあということを痛感させられました。

それがやっぱり普通なんだよなあということを再確認した気分でした。

感じた世代間の断絶

同時に、高齢者と働き盛り・子育て世代と、20歳代の若者の間には大きな溝があるように思いました。

相互にお互いの気持ちがわからないというか、繋がらないというか。

特に高齢者と、その他の世代では大きな隔たりがあって、それが今回の選挙の結果にも色濃く影響したのかなあと思いました。

政治や社会における投資や選択が、あまりに軽い

将来よりも今という選択は、悪くはありません。

が、それは、自分で自分のケツを拭ける間の特権だと思います。

そもそも、今の社会に閉塞感を感じている若者が多いのは、きっと、将来性のない政策が多いからではないでしょうか。

日本は未だに世界的水準から見れば金持ちですが、以前と比べると相対的にはそうでもないのではないでしょうか。

それを改善するには、集約と投資が欠かせないと思うのです。

人材の格差

それから、世代の断絶のツケとしての若者世代平均の打たれ弱さが深刻です。

高齢者は若者に希望が託せません。

働き盛り世代は、板挟みです。

こんな世の中に誰がした。

我々ですね。

マネジメント層の人材不足も深刻です。

人生の厳しさを知っている大人はもっと独善的でいて、それと同時にもっと博愛主義でなければならないのではないかと思います。

さらに話は変わりますが、自分自身を含めて、日本という国は子供っぽい人が多いなあとおもいます。

本当の大人は一握りだけ。

それは、いまも昔も変わらないのでしょうか?

昔を知らないのでなんとも言えません。

でも子供っぽい人が目についてやたらと印象に残ります。

大人な人はみんな都会に行ってしまうからかもしれません。

未来志向の重要性をもっと語りたい

さて、話が大きく逸れましたが、今の市民の関心は自分が払う税金の量と受けられるサービスのみで、財源と政策ではないんだなあ、将来よりも今なんだなあということを再確認しました。

ああ、そういう意味で、やっぱり将来のビジョンを明確にビシッと語れて、明確に人を動かすことができるリーダーが必要だなあと思いました。

いまの社会はひょっとすると、人間の機能をはるかに超えた自由度を人間に与えすぎるのかもしれません。

改めていち作業療法士として

いち作業療法士の視点としてみると、やっぱりいろんな人と人を繋げられるような存在でなければいけないなあと思いました。

やはり今回の選挙の結果の背景には世代間の断絶とか、貧困差なんてものが背景にあると思うからです。

あとは、作業療法士の給料もその大半は保険から出ているわけで、ここに個人的には非常に大きな危機感を感じています。

なぜなら、財源は次第に確保できなくなっていく可能性が高いからです。

いずれ保険のシステムも変わっていくでしょうし。

まとめ

そのためにも、削っていいところは削って整理しないといけないステージに日本は突入していると思うのですが、どうもこの認識は社会に共通したものでもないようです。

いろいろな意味で試金石のような選挙でしたが、気づいた時にはどうにもならない状況、という社会にならないことを祈るばかりです。

豊かな社会は、きっと「誰かのために」の積み重ねから

人が喜ぶことをする人が沢山いる社会は、沢山の人を喜ばせるポテンシャルを持っている。

たとえば、誰かのために美味しいものを作りたいという思いを持った人が沢山いる社会。

そこでは、沢山の人が彼らの作った料理を楽しむことができ、笑顔になれる可能性が高い。

「情けは人のためならず。」という言葉があります。

それも間違いではないとおもいますが、やはり行動原理が「利」のみに偏っているような気がしてしまいます。

それとは違う、「仁」や「義」を重んじるような人が沢山増える社会は、きっと過ごしやすい社会なんだろうなと思います。

自分のことを自分が気にしなくてもいい。

自分のことは周りが面倒見てくれる。

自分は相手のことだけを考えていれば、周囲が自分の事はなんとかしてくれる。

だれも守りに入らなくてすむそんな社会。

みんな外向きで、誰かのため、何かのためにみんなが何かをする世界。

それはきっと、活気があって、みんなが「元気だ」と思えるような世界。

そんな社会を作っていくために、作業療法士や作業療法は何ができるだろう。

もし、そんな社会が作れたら。

「他人のために」

が巡り巡って、自分のためになる。

あれれ

そしたら、自然と

「情けはひとのためならず。」

作業療法士が地域に出るための作業療法士自身の課題

作業療法士はもっと地域に出ないといけないと言われていますが、なんとなく難しく考える必要はないのかなと思ったので、自然に地域に出るにはどうしたらいいかをイチ作業療法士が考えてみました。

地域行事への参加率を振り返る

みなさま、近所や地域の活動にどの程度参加しておられますでしょうか?

もちろん、職場のつながりでもかまいません。

個人単位でのつながりでも構いません。

たとえば、町内会での活動にどの程度関心を持っているでしょうか。

ひろえもんはいわゆるゆとり世代で、地域の活動にもあまり関心を持たないままに成人した人間です。自分では自分をそのように評価しています。

そして、地域のボランティアや、教室などの活動に出るようになったのは、就職してからで職場での働き方に大きな影響を受けていることは間違いありません。

地域行事へ参加してよかったこと

学生時代は、あまりボランティアに対して積極的ではありませんでした。

しかし参加してみないとわからないことはたくさんあると感じました。

地域での具体的な活動に参加する中で、地域社会や文化のレベルで、具体的に見えてきた課題や「こうなったらいいのにな」という希望などもでてきました。

病院で働きたい人の方が多い?

まだまだ、病院ではたらく作業療法士の割合が高いと言われています。

これは、病院の作業療法士が足りないことも一つ大きな理由です。

つまり、病院が求人を出すこと、それに応じる作業療法士が多いことが病院で働く作業療法士の割合が高い状態を作り出しているのではないかと思います。

それ自体は、良い悪いというものでもありません。

強いて言えば、作業療法士の数が絶対的なニーズに対して不足していることが問題といえると思います。

そこには給与面的なものもあろうかと思いますし、病院という比較的安定的な枠組みで働きたいと考える作業療法士の方が多いということかもしれません。

働く場所の偏りは、ちょっと問題

しかし、このまま作業療法士を病院が抱え込んでいる現状が継続し続けるのは問題だと思います。将来的には、作業療法士は対象者の生活の場で働く存在になっていかないといけないのではないかと思っています。

それは、色々な作業療法士の先輩方も言われているように、作業療法士の仕事の内容は生活の場でこそ輝くものであると思うからです。

作業療法士の働き方が生む結果を最大化するためには、地域で働く方がより合理的ではないかと思うのです。

自分の住んでる地域に関心を持とう

より多くの作業療法士が地域で働くようになるための最大のポイントなんでしょうか。

それはは、作業療法士一人一人が自分が居住する地域に、具体的なレベルでの関心が持てるかどうかだと思います。

生活の場とは、単に家の中だけのことをさすのではなく、その人が住んでいる地域を含んだひろいものです。

そして、リハビリテーション職として、その人が復権する場所はどこのどういう場所なのかということについては、プロフェッショナルとして強く関心を持たなければいけないと思っています。

病院にいるのみでは見えないことが、確かにあるということ

とはいえ、病院で働いていると、院内での仕事に追われてなかなか外に目を向けることが難しいのも事実です。

この現状をなんとかしないといけないというのが、現代の作業療法士に科せられた大きな課題であると思っています。

作業療法についての知識や経験を深めるうちに、「地域いいなー」とおもっておられるOTRの皆様におかれましては、ご自身の経験を、是非地域での活動にも活かしていただきたいと思います。

また、OTSの皆様も自分の学校や故郷を取り巻く環境をボランティア活動やそれに類する活動を通してしり、得たことをどんどん発信して、いろいろ問題提起をしていただきたいなと思います。

たぶんその積み重ねが、作業療法士が地域に出て行けてない現状を少しずつ打破していくことに繋がっていくのではないでしょうか。

参考書籍

なお、以下の書籍が、一歩を踏み出す手助けになるのではないかと思うので、なんとなく紹介します。

参考:1%の力