COVID-19が5類になるとどんな事が起こるのか

重要そうな話題があると、一応ピックアップして継続記載してきましたが、今回の話題はどう取り扱ったらいいのか、正直にわからないので、自分の勉強のために、自分の疑問に対する一問一答形式で情報を整理してみます。

そもそも5類ってなんだ

5類は、日本の「感染症法(通称)」上の分類。

感染症法については下記参照。

感染症法 – 作業療法大百科事典OtWiki

5類変更のメリットはなに?

行動制限が緩和される。いろいろな方が「自分ではどうしようもない理由で、それぞれがやりたいことができない」という作業剥奪の状態が解消される

一般国民からすると、唯一にして最大のメリット。

作業剥奪については、下記参照。

作業剥奪 – 作業療法大百科事典OtWiki

いろいろな成長機会を、COVID-19以前と比べるとどうしても制限されていた若い世代の人たちからすると、今よりはやりたいことがやりやすい環境になっていくと思われる。

企業活動は活発化するか?

社会経済活動の基本は、それを求める人の存在、つまり需要があるかどうか。

やりたかったけど、なかなかできなかったことをやれるようになる人が増えると、その余裕をねん出するために、代替サービスを利用したり、より多くの時間働こうとするようになる。

人間の活動が、社会の中で比較的活発になれば、時間上の制約などの要素からいろいろな需要が生まれてくるので、GDP値は向上するものと思われる。そうなると、その需要に対応する消費を自社の売り上げにつなげたいと、意欲的に考える企業活動は、ある程度活発化すると思われる。

財政再建につながるか?

そう祈るよりほかにない。

昨今日本では、大した儲けもないのに、脱原発してみたり、コロナ対策費用を打ち出したり、補助金乱発してみたり、お金がないので国債を印刷して、そうしたら国債のイールドカーブがゆがんでるものだから2023年1月26日現在、ヘッジファンドなんかにいろいろな揺さぶりをかけられているこの状況で、日銀総裁の任期がどうやらこうやら。

ウクライナとロシアの戦争によって、エネルギー安全保障問題は、より切迫感のある問題になっている。貿易赤字の大きな要因となっていて、円安を大いに誘発した。それがさらに赤字を生み出し・・・という、財政的にパッ、とするニュースがない中で、企業活動が活発化するということになれば、税収は増えるし、エネルギー価格が高騰している中において高まっているスタグフレーションリスクを後退させることができる。

スタグフレーションは、本当にヤバいし、もし財政再建できないと過去のイギリスのように現実化してしまうリスクが高まるので、景気回復からの財政再建につながることを祈るしかない。

スタグフレーションについては、下記参照。

スタグフレーション – 作業療法大百科事典OtWiki

年金制度や保険制度は維持できるか?

年金制度も保険制度も、金融商品としては多少質は悪くなった。けれども、公的保険に関しては5類になると保険制度からの支出は減る。将来世代の方のことを想えば、そして制度維持にとっては、悪い話ではない。

年金制度に関しては、正直平均寿命に与えるインパクトがあるかないかということになり、おそらくみんななんだかんだでおおよそお元気に過ごされるので、制度維持はできるけれども、将来それのみで生活できるほどではない、ということになろうかと思う。

そもそも、たかだか2類から5類になることが、そこまでのインパクトを持つようなものでもなく、根本的に出生率が改善しないと、難しい。

出生率は改善するか?

戦後の日本みたいなベビーブームはおそらく来ないが、後述するようにマスクをしなくてよくなった、ということになれば、それが一定数に、「春」を運んでくる可能性は無きにしも非ず。

2023年1月26日現在でも、家庭内ではしていないという家がほとんどだろうし、そのあたりの影響を受けるのは、学生さんや、企業活動をする人々、はたまはた商業活動中の接客など、ということになろうか。

何とも言えない。

そのほかのメリットは何?

受け入れができる可能性のある医療機関が増える。

現在、受け入れをしている医療機関は、受け入れ態勢を整えるため、相応の配慮が必要になる。

すべての医療機関で受け入れが可能になるため、ひっ迫度の軽減が期待される。ただし、現実問題としては、「受け入れ拒否する」かどうかは各医療機関にゆだねられており、帰って受け入れ拒否が増えるのではないかとの懸念が払しょくできない。

ほかにはどんな変更点があるの?

マスク着用の見直しが検討されている。おそらく、「日常を取り戻す」という政治的メッセージ、雰囲気作りが大きい。

2023年1月26日現時点でも、屋外でマスクをする必要性はないが、している人がほとんどである。心理的な問題もあるだろう。

ただし、屋内外で都度、つけたり外したりということを意識して徹底できる人は少ないと思われるので、みんなが外すようになると、これまでの傾向と同様のことが起こる前提立てば、感染は当然拡大することになる。

なぜ政府は5類に位置づけ変更することにしたの?

5類にしてほしい、という要望は、もともと経済団体の意向・要望にあった。(https://www.keidanren.or.jp/speech/kaiken/2022/0714.html)

感染対策などで財政支出は増えているが、経済活動が縮小したままでは、財政財源問題が一向に改善する糸口が見えない(https://www.mof.go.jp/zaisei/current-situation/situation-comparison.html)

日本円建ての国債であるからして、紙幣を印刷しさえすれば直接の財政破綻はない。けれども、それを行う時点で日本人が世界から相対的に価値が認められていなければ、日本円は紙くずになる。

概要は、下記に詳しい。

https://www.nhk.or.jp/politics/articles/feature/94518.html

5類にするにあたっての行動制限に関するデメリットはなに?

病院や介護施設といった、感染症対策最前線に要求される行動制限と、市中の人々の行動制限が大きく異なることになる。作業剥奪の乖離が大きくなる。これは、職員目線では、転職すれば解決する。そのため、現在の給与水準では、一定程度の能力水準を超える職員の確保がますます難しくなる。

行動制限の乖離については、下記を参照のこと。

COVID-19#支援者側の作業剥奪-作業療法大百科事典OtWiki

そのほかのデメリットは?

保健所が介入しての調整業務をおこなう法的根拠がなくなる。現実問題発生する患者数がそうそう急には変わらないので、患者になったときの立場としては、最悪、入院先を自分で探す必要性が出てくる。

また、公費で負担されている医療費やワクチン接種に関する自己負担が発生する。

ので、受診控えが発生して、死亡するひとが増えたり、ウイルスが変異して感染力が向上かつ強毒性となったタイミングで再び、爆発的に流行して、医療リソースを逼迫する・・・かもしれない。

空港などでの検疫体制はどうなるの?

2023年1月26日現在において、現状、日本に入国するためには、「ワクチン3回接種」か「72時間以内の陰性証明書」が必要。

全ての外国人の新規入国について、日本国内に所在する受入責任者による入国者健康確認システム(ERFS)における申請を求めないこととなることに加えて、外国人観光客の入国について、パッケージツアーに限定する措置も解除されました。

令和4年10月11日午前0時(日本時間)より、オミクロン株(B.1.1.529 系統の変異株)が支配的となっている国・地域(「水際対策強化に係る新たな措置(27)」(令和4年2月24日)における「オミクロン株以外の変異株が支配的となっていることが確認されている国・地域」以外の国・地域)からの全ての帰国者・入国者について、原則として、入国時検査を実施せず、入国後の自宅又は宿泊施設での待機、待機期間中のフォローアップ、公共交通機関不使用等を求めないこととなりました。また、全ての帰国者・入国者について、世界保健機関(WHO)の緊急使用リストに掲載されているワクチンの接種証明書(3回)または出国前72時間以内に受けた検査の陰性証明書のいずれかの提出が求められることになりました。

新型コロナウイルス感染症に関する水際対策の強化に係る措置について-外務省

その法的根拠となっているのが、「感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律(平成10年法律第114号)抄」「検疫法(昭和26年法律第201号)抄」を、指定感染症に準用することに寄っている。

詳細は下記参考

日本における水際対策–作業療法大百科事典OtWik

5類となたとして、仮に指定感染症解除、となると、現在行われている水際対策を行う根拠がなくなり、空港等での検疫は行えない。

国外から、新しい強毒性の株がやってきたとしても、気が付いた時には国内に蔓延している状態を想定する必要がある。

2023年1月26日現在の今後の予定は?

2023年1月20日の首相会見では、今年の春にということで、検討中。早ければ同27日にでも、日程が正式に発表される。予定。

そもそももっと前から5類へという話があったんでは?

はい、ありました。ちゃんと動画がのこってます。

つまり、一年以上前から、そういう話はちゃんとあったんですが、課題は明確に筋道をつけられないまま時間ばかりを浪費してしまったようです。

エビデンスベースではROM-exは拘縮に対する関節可動域の改善に寄与してるかどうかは一切不明という論文が存在する

たまには、ちゃんと臨床の役に立つ記事を書かないといけないかなと思って、書いてみます。

なかなか刺激的な記事内容と思います。

タイトルのような結論、つまり

「他動的なROM訓練は拘縮に対する関節可動域を明確に改善しなかった」

を述べた論文がありますのでご紹介します。

この論文のエビデンス力はかなり高いです。

翻訳しながら、論文を読み解いてみたので、自分の備忘録のために書いております。

ストレッチ・他動的ROM-exは神経学的・非神経学的な拘縮の治療および予防に有効か

この論文の問いは、

ストレッチは神経学的・非神経学的な拘縮の治療および予防に有効か

です。

ようするに、関節可動域の改善を目的とした他動的ROM-ex・ストレッチに意味はあるのかと言うことです。あくまで関節可動域改善に寄与するかという意味で、ですが。

結論 「明確な成果は不明」

他動的ROM-exで、成果らしい成果はないということが、論文のメタアナリシスによって報告されました。むしろ、副作用があるとな。副作用の詳細は、元の論文読んでみてください。

以上です。

但書

ただし、下記のように無意味だ、効果はないと断定した書き方はされていないようです。効果の検討の余地についても書かれています。

諦めずに頑張る余地は一応残されていますが…どうでしょう

今後の研究によって本レビューの結果が変わる可能性は低い。しかし、他の介入と併用したストレッチの効果を検討することには価値があるかもしれない。例えば、運動訓練やボツリヌス毒素を用いた神経疾患者へのストレッチの効果などである。また、長時間(例えば数年)のストレッチの有効性を具体的に検討する価値があるかもしれません。また、特に重度の拘縮を発症するリスクが非常に高い人(外傷性脳障害者など)における拘縮予防のためのストレッチの有効性をさらに検討する価値があるかもしれません。

このコクラン系統的レビューの結果は、理学療法士が長年にわたって行ってきた基本的な仮定に反するものであり、理学療法の専門家にとって挑戦的なものである。すなわち、ストレッチは拘縮の治療や予防に有効であるということである。しかし、現在では、ストレッチが関節可動性に臨床的に意味のある効果を持たないこと、また、これらの結果は様々なサブグループ分析にも頑健であることがエビデンスとして証明されています。しかし、これらの結果を何ヶ月も何年も定期的に行われているストレッチに適用する前に、注意が必要である。また、長時間のストレッチの有効性は不明である。

作業療法.netがhttps://reader.elsevier.com/reader/sd/pii/S1836955317300280?token=231984AF1F1C85C61738EC723DFEBED53EF15D8FB277016AF54823FEAAD871411BD1D239090B3C3EB7219700F6ABD512をDeepLで翻訳

「他動的ROM-exには明確な効果を認めません」をどう読み解くか

他動的ROMが全く無意味とは思いません。精神的な指示の意味において。ですが、身体障害の改善目的でなんとなくやるだけでは、コストパフォーマンスは悪いと読み解くべきと思います。

銀行がROM-exを関節可動域改善を成果指標とした事業に投資してくれるかという観点で物事を考えると、多分資金出してくれないとおもいます。

今現在、国はROM-exを関節可動域改善のために実施する療法士の働きに、お金を出してくれています。

この論文のメッセージを改めて整理すると

拘縮患者の関節可動域改善にストレッチは正直明確な効果がみられない

ただし長期的継続的に続けるストレッチの無効性は証明できない

つまり

もしROM-exストレッチを始めるなら、結果がでるまで継続してやり続けてようやく結果が出るかもしれないし出ないかもしれない

ということです。

まとめ

ストレッチや他動ROM-exには明確な改善効果を示すエビデンスがありません

リソース

Stretch for the treatment and prevention of contracture: an abridgedrepublication of a Cochrane Systematic Review

関節可動域の拡大や維持を主目的としてROM-ex・ストレッチを行うことは、短期的な場合には改善効果がほとんど期待できないので意味性は薄い

個人的意見

徒手的訓練、他動的ROM -exは、ちゃんと、触診や仮説検証をきっちりとやって、ターゲットとなる筋肉を明確にした上で、ちゃんと行えば効果はあると感じています。逆に、漫然とやっても効果は全く期待できないとも思います。

また、対象者の方の認知機能が与える影響は大きいと思います。実際、認知機能が低下した方に対して、ROM-exをやって改善がみられることはほとんどありませんでした。私個人が関わった症例様では、2例改善が見られましたが、大多数は改善が見られていません。

このように、どのような合併症のある方にたいして、どんな介入をするかで結果や成果は変わるだろうと思うのですが、一応エビデンスはないと言うことで、もし今後ROM-exやるときには、謙虚にやりたいと思います。

社会と作業療法と効率化を妨げるものの話

作業療法を必要とする人に作業療法を届け続けるために作業療法に必要なのは、イノベーションだと思っています。つまり、作業療法士がどの程度、何かを変えることに対して積極的になれるかどうかということです。

安定と変化のバランスが大切ですが、医療全体を見ていると安定にしがみつこうとしている嫌いがあり、作業療法士はそこでどのように振る舞うかが問われているようです。

作業療法と社会全体をぼんやりと眺めて、この記事を書いていきます。

林先生の授業の数学のはなし

東進の林先生のテレビ番組にて、「算数の入れ替えの問題」の問題について取り上げていました。

この問題は、twitterで探せば類似のものがたくさん出てきます。例えば、以下のようなものです。

で、交換法則を認めず、これが間違いになるのは、どうなのかという話は、以前世間一般で議論になりました。

これについて、いろいろな意見があると思います。

今読んでおられるあなたはどのように感じますか?

「学校の先生に習った通りに回答していないのだから減点すべき」

と感じるか、はたまた

「算数の先の数学においては、交換法則習うんだからさあ、バカみたい」

と思うかは、その人がどこに重きを置いて考えるかによると思います。

 

前者は、「悪法も法」つまり、暗黙のルールでも守らなければならないし、それが秩序であるという考えかたと言えるでしょう。

後者は、合理主義というか、論理的に正しければ、良いのではという考え方であると言えるでしょう。

要するに見ている世界も違うし、その背景にある物差しもおそらく違うのだと思います。

 

ちなみにこの番組では、世界的な数学の権威の意見を参考として、

「きちんと問題文で条件を提示していないのであれば、不正解とする合理的理由はない」

「ガウスという天才がいたが、彼は交換法則を見出して1〜100までの合計を瞬時に見抜いて見せたが、そこで交換法則を否定するような教師に指導されていたら彼の数学者としての人生はなかったかもしれない」

という方向で意見集約されていました。

上記の話は、「合理性」というものを考える上で非常に示唆に富んでいます。

合理性とは方法論の改善

アルゴリズムという言葉を聞いたことがあるでしょうか?

主にITの世界で使われる言葉かもしれませんが、「方法論」と言い換えても良いかもしれません。ようするにやり方、方法です。

同じ結果を得るために、様々なやり方がある、そのやる方のことをアルゴリズムと言います。

先ほどのガウスの逸話でいえば、

1〜100の合計を計算する方法は、

一から順番に100まで足す

1+2+3+4+5+6+・・・・+99+100

101掛ける50

という方法の2つのアルゴリズムがあります。

お分かりのように、そのどちらを用いるかによって、結果を得るために必要な時間が大きく異なるはずです。

多くの人は足し算の処理を頭の中で100回繰り返すの時間に比べると、一回の掛け算を頑張る方が早く計算の結果を得ることができるでしょう。

 

これは、和の交換法則が成り立つという前提と同じものが複数個あるなら積として扱えるという知識があるがゆえにできる、スムーズな回答なのです。

で、この方法にバツをつける学校の先生がいるということが問題視されているわけです。

「学校で習っていないことをするのはけしからん」ということですね。

しかし、習っていようがいまいが、賢い人は、合理的な考え方をしますし、結果が同じならば、低コストな方を選びます。それが、のちの選択肢の幅を広げる方向に影響すること、つまり自分の人生をより豊かにすることに直結することを理解しているからです。

スムーズなのはずるいか

不思議なことにこうしたスムーズな解法は賞賛されるか、非難されるかという真逆の評価を受けることになるのです。

率直に、スムーズで素晴らしいと褒められる場合もあれば、逆に正攻法ではなくてずるい、手を抜いているという評価を受けることもあるということです。

前者は合理的感性であり、短い時間で多くの成果をあげることは素晴らしいですねという感覚ですね。

後者は、自分が持っている文化的社会的公正さのイメージにそぐわないので、好ましくないと感じるという人間的な感覚でしょう。自分は真面目にやってるのに、少ない労力でズルをしているというそういう感覚です。要するに嫉妬です。

これはもう、どう感じるかという世界の問題です。

その人が、どのように感じてどのように行動するかというのは自由です。

その結果も自業自得です。

結果を引き受けさえすれば、どちらのやり方であっても問題はありません。時間をかけて愚直にやるからこそ見える景色や学びというものも、間違いなく存在するからです。特に、結果が全てではない、過程が大切であるという視点においては間違いなくそうです。

ずるいかずるくないかというのは、議論のポイントがずれています。

本当に問うべきなのは、自分もそうしたいのか、そうでないか、ということです。

合理化を非難する文化に負けないことが大切

だからこそ、大した考えもなく感覚で合理化を否定する文化に安易に迎合するべきではないと考えます。

「エクセルのマクロを使って仕事をしたら、上司に理不尽に叱責された」

というのは、エクセルが仕事に使われるようになって以来の、あるあるネタでもう使い古されてしまって、未だにそんなことあるんだなーというレベルですけれど、作業療法士の世界でも、本質的にそういうところはあるかもしれません。

「時間をかけて、みっちり丁寧にやらないと、そこに愛はない」

みたいな。

でも、結局のところ、作業療法の対象者の方が求めていることに何がマッチするのかという、そういうシンプルな話だと思っています。対象者の方が愛を求めておりそれを充足することが、治療効果を大きくするのであれば、愛を追求するのも悪くないでしょう。

反対に、対象者の方が結果を求めているのなら、別にどれだけの時間がそこに費やされるか、どれだけ作業療法士が時間をかけて関わるかなんて関係ないわけです。

そういう人に対して、作業療法士が不必要なまでに長い時間関わり続けることには、違和感を感じます。

先のエクセルの話でいえば、短い時間で、大きな成果を出しているのに、それを非難するのは、機械化することで自分の仕事が奪われると考える人がいるからですし、単位時間当たりでの仕事量があまりに違うと、自分の仕事の価値が相対的に低下することを知っているからです。

このようなマインドのもと、同調圧力で、意味のない長時間作業療法と称して、対象者への関わりを継続するような関わり方をしているのであれば、それらは改めて行かないといけないと思います。

日本は医療費がただでさえ足りないということになっておりますので、本当に必要な人に必要なだけの資源を届けるという視点においては、ここは非常に重要なポイントです。

「マクロ」は、すべからく全ての作業療法士が使いこなせるようにならなければなりません。全ては、顧客である作業療法の対象者の方の利益を最大化しつつ、組織の利益にもそこそこ貢献することで、作業療法の持続可能性を高めるためです。

ずるいだの何だの言っている余裕はこれからのこの国にはありえないのですが、そこも、視野の違いだと思います。直近のことの方が気になる人もいれば、長期的な先のことを踏まえて今のことを考えるべきだという人もいます。

いわゆる合理的な人は後者であり、のちへの影響を考慮して現在の振る舞いを考えたり、またそれを実行に移したりします。

作業療法士はリハビリテーションの仕事であり、評価し目標を設定し、対象者の方に変化を迫る仕事です。その作業療法士が、自分自身を変えられないのは、作業療法士という存在の信用問題に関わると思っています。作業療法は、もっと合理化できるところはどんどんためらわずに変えていかなればならないでしょう。

ためらいが生じるのは、自分自身の「面倒だ」という気持ちと、その変化を良しとしない人からの反対を想定することによると思います。ですが、本当に価値があることであれば、その価値を理解できない人に関わる労力を使ってもったいことになるよりは、共感を得てくれる味方を増やすべきで、そうなるためには自分自身がどんどん変わっていく必要があります。

作業療法士は他人を変えることが仕事です。自分自身を変えることができないで、何を変えることができるでしょうか。合理化を非難する文化が確かにあることは認めつつも、今後を見据えて必要な変化であればそれを最後まで押し通すべきでしょう。

また、作業療法士の背景がどうとか、そんなことは、対象者の人には関係ない話で、対象者の方が本当に望んでいることはなんなのか、どうしたいのか、どのようにいきたいと願っているのか、本当に大切にするべきはそちらですから、やるべきと考えるなら遠慮なく、端折って合理化を進める利点はあると思います。

組織の秩序は何のため

往々にして合理化を妨げる要因となるのが、所属する組織のルール、つまり秩序です。

組織の秩序というと、雲をつかむみたいな話になりますが、私見としては、どのように人を動かすかということに尽きると思います。

つまり、組織に所属する人が、どのような考えや動機付けのもとで、どのように行動し、それがどのように必要とする成果に結びついているのか。

そういう視点で、人をどのように動かすかということにおいて、重要になるのが組織の秩序ということになると思います。

お分かりのようにこれは、合理主義者の視点であります。

逆に文化的社会的公正さの感覚から見ると、多数の人間がそれなりに折衝してみんなでやっていければそれでいいじゃないという感じになります。能力や生産性や成果に関係なく、組織に長く所属している人がより多くの給料をもらえるという年功序列型の会社組織の秩序も、そこに多くの人が公正さを感じており、納得のもとで働いていたからこそ、あり得た仕組みということになります。

ともあれ、組織の秩序は人を集団に縛り付けるため、もしくは集団に属する人に一定の方向性を与えることで目的の成果を揚げやすくするために存在します。

前者は、家の門限であり、国の戸籍システムなどが該当するでしょう。

後者は、道路交通法であり、国民皆保険制度でありましょう。

このような組織の秩序の働きを、組織のリーダーがうまく知覚し、活用できているかどうかを、作業療法士は敏感に感じ取らなければなりません。

つまり、上記2つのどちらの文脈で、組織の秩序を運用しようとしているのか、を理解しようとしなければならないということです。

合理性に乏しい組織であればあるほどに、「昔からこうだから」という意味もわからぬままに継承した無意味な文化が溢れかえっているはずですので、すぐにわかると思います。

大切なのは、自分が納得してその組織に所属しているのかどうかということになると思います。納得していないのなら、組織の秩序に働きかけるか、その組織から抜けることを考えましょう。

イノベーションに対抗する文化

合理性が文化や人に受け入れられるかどうかは、結局のところ、その社会がどの程度の変化を許容できるのかということにかかっています。

大相撲の話でいえば、横綱かくあれかし、という話です。

白鵬の相撲の取り方は、勝つための合理的な相撲です。相手をどのようにすれば負かすことができるかどうかに特化した相撲の取り口です。

しかし、相撲協会としてはそうした相撲は横綱らしくないから控えるべきであるという話になるそうです。相手の挑戦を受けてどっしりと組み相撲で戦わなければ、横綱の品格に欠けるというのです。

これはつまり、どういうことかというと、今の大相撲には白鵬のような強さを追求する相撲を受け入れるだけの度量、器量がないということです。相撲に勝利するにはという飽くなき探究の姿勢を持って横綱の品格とすることは、できないということです。

あれだけ相撲に対して、真面目に真摯に取り組んでいる力士は他にないと思うので、個人的には十分に横綱の品格を讃えているといって良いのではと思うのですが、相撲協会はそういう考えにはなれないということです。

一体それのどこが問題かというと、新しい価値を認められない組織は、変われない組織になります。変われない組織には、変われない人間が依存しやすいような組織の秩序が出来上がり、風通しが悪くないり、世間一般とのズレが次第に大きくなっていきます。

相撲でいえば、先輩からの暴力は指導であり、うちうちで解決すれば良いだろう、外に話すようなことではない、という話になります。

日本の法律に触れているのであれば、公に裁判までするべき話のはずなのですが、どうも、風通しが一旦悪くなると、組織というのはとことんまで腐りきってしまうようです。

作業療法士の世界も、医療の世界もそうですが、人材の流動性が低い組織においては離職率を下げるための試みが、却ってある世代の退職を促してしまっている、つまり離職率を上げている可能性すらあります。

そういう組織は、昨今の大相撲と一緒です。事故が起きれば隠蔽するし、物言えぬ人にどのような対応をしているかはお察しの通りです。

人材に流動性が乏しく、優秀な人材を外部から迎えたところで、何も変わらないという事態が起こることもしばしばです。また優秀な人材を、すぐに手放してしまうこともあります。

こうした組織において、変化を起こそうとする人間は敵です。

どんなに良い結果をもたらすイノベーションであったとしても、既存の秩序やそれを元にして成り立っている文化にあだなす害のある存在ということになります。

そんなゾンビのような組織は、早いところ絶滅すればいいと思うのですが、文化的社会的公正さの感覚に基づく組織は緩やかに衰退しながら意外と長生きです。もっとも所属している組織の構成員の表情は、どこか覇気に欠けますし、仕事をしていて楽しそうではありません。

そんな組織には存在意義を感じることができないのは私だけでしょうか。

コラム 変化耐性のはなし

自分が変われないから、変わったことをして結果を出す人を攻撃する人がいます。

ひとえに変化に対する耐性が低いからですが、それで他人を攻撃するのはナンセンスです。

なぜなら、変われないものが変われるものに変化しないことを強要するのは、変化することを強要されても文句は言えんと思うのです。

以上です。

組織の合理性追求と障害者就労の矛盾

ここまで書いて、一つ重要なことをまたここで書きます。

組織の構成員を純粋に成果で測るとしましょう。

つまり、成果を出す人間は雇用され続け、成果に乏しい人間はリリースされるというそいう組織が出来上がります。

医療や福祉の世界においては、そのような成果主義を導入することで、顧客である対象者に対して、より良いサービスを提供し、より良い結果を対象者に受け取ってもらうことができるでしょう。

そのためには、徹底して合理性を追求し無駄を省くことが重要です。なぜなら、日本の医療福祉介護の世界にはお金の余裕がないからです。

これを突き詰めると、例えば能力の乏しい作業療法士や成果の出せない作業療法士はお休みをもらうことになり、雇い続けてもらうこともできなくなるでしょう。つまり、成果の出せない人間はいらないというわけです。

一方で、障害者の方の就労においては、何も成果だけを以って就労できるできないを決めるわけではないですし、じゃあ医療介護福祉の分野においてもやっぱり働く側も合理性ばっかりを追求するのもなんか違うんでないのという、そういった感覚とはやはり矛盾するところがあると思います。

また、合理化をすすめたからといって、全ての問題が解決できるというものでもないことを感じさせてくれる矛盾でもあります。

大変でも、作業療法の合理化は必要

なぜなら、持続可能性がピンチだからです。

作業療法は無くても死にません。

資源やリソースが減れば、当然生存に関わることが最優先です。

 

そんな状況の中で、作業療法を必要としている人に、ちゃんと作業療法士が作業療法をリーチするためには、作業療法をもっともっと洗練して、短い期間でより多くのより良い変化をもたらすことができるようにしていくことが必要であり、それはまさに合理化のプロセスそのものであるといえます。

よって、作業療法には合理化が 必要であり、そのためには、作業療法士がまずは自分の頭を柔らかく保つと同時に、新しいものを厭わず、かといって周囲の評判を必要以上に気にせず、矛盾を飲み込めるだけの大きな視点を持って、いろいろな表現を行なっていくことが、これからの作業療法士には必要なのだろうと思います。

感情論と合理性をうまく統合できるか、その矛盾を相克できるかどうかは、作業療法が今後もっと進化していくための鍵になるようです。そのためには、作業療法士がもっと、自分のスキルを増やすことに貪欲であり続けること、そしてそのための正当な対価を組織に要求するだけの図太さを身につけ、組織に対する発言力やら影響力を強化することなどが必要かもしれません。

いずれにせよ、合理化をズルいなんていってる作業療法士はいないと信じたいです。

まとめ

合理的になれるかどうかは、

違うものを同じと見れるかどうか

新しいものを受け入れることができるかどうか

矛盾から、新しい到達点を見いだすことができるかどうか

 

 

今こそ、作業療法士が苦手な「お金の話」をしよう

作業療法士って、お金の話は、積極的にはしません。そこには色々な理由があると多います。そもそも、作業療法の世界がそういう業界じゃないですから、お金の追求は別にいいかな、という人が長く続ける職業という感じです。

でも「お金がない」という作業療法士が多いのもまた事実です。

そういう意味で、「お金の話」が苦手な作業療法士が多いと思ってますが、それもまた程度問題で、作業療法士として対象者の利益の最大化を考えるときに、やっぱり直視しないといけない現実としてのお金の話ってのはあると思うので、そんなことを書いてきます。

お金は何かを実現するためのパワー

なぜお金が重要なのかという話に、作業療法士はもっと注目するべきです。ここをないがしろにするから、いつまでたっても自分がやりたい作業療法ができないのかなあ、という場合を目にすることがありますから、最初に書いておきたいと思います。

お金は、やりたいことをやるための力になってくれます。つまり、自己実現の後ろ盾になってくれるのがお金ということになります。

「お金がなくても、物事を動かすことはできるじゃないか」

そういうご意見もあろうかと思います。

しかし、そういう人は、悩んでないのでこの記事にもあまり注目しないと思います。色々な人を巻き込んで、人を動かす力があれば、お金は必要ないからです。

しかし、それは新しいビジネスを自分で生み出す力以上の能力、特に瞬発力が必要で、お金で物事を動かすよりもはるかにハイレベルな実践が必要です。

つまり難易度でいうと

お金の力を介在させないで事象を動かす > お金を後ろ盾にして事象を動かす

であるということです。

作業療法士は、事象を変化させることによって世の中に貢献するのが仕事ですので、お金の持つパワーをどれだけ認識できているのかというのは、大きな視点での変化を捉えることができるかどうかに大きく影響するでしょう。

作業療法士の給料の決まり方

ということで、いきなりですが、お給料の決まり方です。

一応根拠はあるんですがぶっ飛ばして、結論だけ書きます。

作業療法士の給料は、保険などの点数から稼いできた額の約3分の1です。

真面目に臨床やっても、適当に臨床やっても単価に影響はない(!)ので、単位数をたくさん稼ぐ作業療法士の給料はいいです。

だから、交通事故の事故後後遺症のリハビリをやってて、それもガンガン単位を稼いでるようなところでもない限り、今後、保険点数をあてにするビジネスモデルの中で働く作業療法士の給与は、低下はしないまでも横ばいで、上がっていくことはありません。

作業療法士の生涯年収

ざっくり、作業療法士の税金や保険料さっ引かれる前の年間の給与の平均は400万円です。

そのように仮定して、22歳から定年65歳まで働くとすると、43年働くわけで、

生涯の給与は

400 × 43 万 =  17200万円

ということですね。

ここに退職金を加算したいところですが、どうせ大した金額じゃないと思われるので、

サラリーマンとしての作業療法士の生涯年収は、2億円もいかない

ということになります。

コラム サリーマンの生涯年収の平均

上記の額を多いと見るか少ないと見るかの議論はさておいて、参考となる比較対象の資料を提示しておきますね。

男性

中卒:2億0060万円
高卒:2億2090万円
専門・短大卒:2億2880万円
大卒:2億8510万円
平均退職年齢までの生涯年収の平均(退職金含む)

男性

中卒:2億2280万円
高卒:2億4490万円
専門・短大卒:2億5520万円
大卒:3億2030万円

https://gukkin222.com/archives/6392より

この資料を信じるなら、大卒作業療法士の生涯年収は、中卒者の生涯年収とトントン、もしくはそれ以下ということになりますね。

信じるか信じないかは、あなた次第です。

お金が欲しければ、転業しよう

現実の話をしなければなりません。

サラリーマン作業療法士は、稼げません。

例えば、どれだけ、良い作業療法をしても、点数は同じです。

この辺りで心がおれる、心優しく真面目な作業療法士を何人か見てきました。

給料の多寡に関わらず、いい臨床をしてればそれでいいと思うのですが、やはりメンタルにくるものがあるようです。「正直者がバカをみる」のはやはり人のやる気を著しく低下させますね。

しかし、上記のようなそもそものお金の流れを知っていれば、サラリーマン作業療法士という職業がお金を手にするには向いていない仕事なのは明らかなのです。

作業療法士という仕事の枠組みとシステムには、いい臨床をする作業療法士にインセンティブが働くようなデザインが欠如しているからです。

また、お金の流れもへんちくりんです。

商取引における対価としての金銭の流れは

顧客 →  提供する側

ですが、作業療法士においては、医療保険だと

顧客3割 →  病院など  →  レセプト → 保険7割 → 病院 → 作業療法士

という金銭の流れです。

顧客の支払ったお金が、作業療法士の手元にいくまでに、工程があるのがお判りいただけると思います。

これは、普通のビジネスの世界では、例えば営業・セールスの仕事をしている場合には、良い仕事をしていれば売り上げに応じて給与が変動するのが当たり前ですが、良い仕事をしてもそれが給与の上昇に直結しないことを意味しています。

作業療法士はこのような業界構造の中で働いていると言って良いと思います。

コラム ダイレクトな支払いにすれば色々捗る

上記のような問題は、お金の流れが複雑だから発生する話なのですから、シンプルにしてしまえば解決する問題です。

乱暴な話、もとより作業療法士の給与は、稼いだ点数の約3割なのだから、

顧客3割 → 作業療法士

となるような仕組みにしてしまえば、おそらく作業療法士のレベルやら水準やらは恐ろしいスピードで高まると思うのです。

その方が、国家財政にも優しいですしね。

もっともそうすると、倒産する病院や関連組織が大量発生することになるでしょう。ポジティブに捉えると、医療・社会保障の設計には無駄や改善の余地が含まれているという希望と見ることもできますね。

お金が欲しいという気持ちに蓋をしない

またまた、話は変わりますが、「お金が欲しい」と思うならその気持ちを作業療法士はもっと大切にするべきです。

その気持ちに蓋をして頑張り続けるのは、本当に精神衛生上良くないです。

「お金が欲しい」と感じるなら、そのためにしっかりと行動をしましょう。結果に繋がらなくても、そうやってやってみたことが自身の作業療法の幅を広げることに必ず繋がってきます。

更に言えば、もしあなたが作業療法士として良い仕事ができる頭があれば、やり方次第で本業以外で、色々な手段でお金が稼げる時代です。

「作業療法の仕事は素敵だけど、経済的に厳しいから続けられない」という事態になって、それが作業療法の対象者の方の不利益に繋がる可能性も軽減することができる可能性を考えると、作業療法士はもっと「お金が欲しい」という気持ちがあるならそれを大切にするべきだと思います。

特に、「先が見えない」と言ってる若手作業療法士においては特にそう言えると思います。先が見えないなら、自分の気持ちに基づいて、先を作っていくべきではないでしょうか。

受け身では、作業療法の世界も尻すぼみですし、お金の流れがない業界はやっぱり外から見て元気がないですし、お金好きな面白い人がよってこないですし、「お金が欲しい」を大切にすることによる、作業療法の対象者の方のメリットにもっと焦点を当てても良いと思います。

お金に縛られると、組織に縛られるのはなぜか

今度は、組織レベルのお金の話です。日本の組織の多くは、お金で成り立っています。また、存続可能性の高い組織には、ちゃんとしたお金の流れが確立しています。

ところで、先日、やばい組織の話を書きました。

いち作業療法士として、危険だと思う医療・介護・福祉の組織

どうしてこういう組織が生まれるかというと、組織を構成する人間のうち、その組織に依存する人間の割合が一定を超えるからです。

その依存とは、

居場所的な理由と、

もう一つ

金銭的な理由

があります。

居場所的な理由

狭い地域のコミュニティのようなものの延長線上に成り立っている組織には、居心地の良さを優先して合理性を犠牲にしている面があります。

お金の周りが悪くても組織が存続できるという、経営者からするとありがたい組織でもあり、所属する側からしても根本的変化がないので、安心感があります。

一方で人材の流動性が低下しがちで、フットワークが軽い優秀な人が流れ込んでくる可能性は下がりますし、時代の変化についていけない組織になる傾向が強いです。中小企業だけでなく、最近大企業でも挑戦や変化を嫌う雰囲気のところはあります。

先輩後輩などの縦の秩序が行き過ぎると、こういう組織になりがちです。

金銭的理由

安定して低賃金でも払ってもらえる方が安心という、そういう理由です。

主には実力的に、転職が不安だったり、近くにより良い職場が無い都市部じゃ無い場所に住んでいたりということになろうかと思います。

組織に縛られているようで実は依存しているのですが、なぜ依存するかというと、組織にお金の流れを委ね切ってしまうからです。それは、労働組合とかまた別のお話ですね。

作業療法士が転職できない、転職しないから

上記2つ「居場所」「金銭面」の理由から、組織に縛られ、お金に縛られしている作業療法士は多いでしょう。

つまり、労働市場において重用されるだけの実力をプレゼンできないので転職した時に、今と同じ待遇を得られる保証がないと感じていると、そういうやばい組織でもしがみつきたくなるということです。

自分の生活はもちろん、家族の生活がかかってると、なおのことです。

ぶっちゃけ時間もありません。

ですが、より良い待遇を求めて作業療法士が転職市場に果敢に挑戦するというのは正直ありだと思いますし、むしろこれから必要になってくる作業療法士の実力の一つなのではないかと思っています。

作業療法士が副業しないから

臨床の幅が広がったり、作業療法士として将来ご飯が食べられなくなった時に備えることができます。

その保険があると、心安く、やるべきと思うことに注力できます。

それが証拠にと言いますか、あくまで私見なんですけど、

「やめざるを得なくなったとしても、アレがあるから大丈夫」

という作業療法士の先生方はやっぱりご活躍される傾向にあると思います。

腹をくくって、作業療法に腰を据えることができるからでしょう。

若手作業療法士は、これから一生作業療法士するならその辺リスクテイクの方法の一つとして考えておくことが必要と思います。

中途半端にお金がモチベーションの作業療法士は今後割と大変な思いをすると思う

作業療法士で、「お金が得られないので夢が無い」と1000万円以上稼ぎたいからとサラリーマン作業療法士に別れを告げた人がいます。

同じ思いのまま、中途半端にサラリーマン作業療法士を続けても、これまで書いてきたように作業療法士はお金になりません。

確かに作業療法士の資格は手に職ですし、資格で食いっぱぐれない職業であることもまちがいありません。

しかし、「仕事がしたい」という気持ちがないと絶対に割に合わない仕事です。

中途半端にお金をモチベーションにして作業療法士を続けても良いことはありません。作業療法士やるなら、糊口をしのぐだけじゃもったいないですし、作業療法士がダラダラとお金のために仕事をすることはともすると作業療法対象者に多大なる不利益を与える構造に加担することにもつながりかねないことを心の何処かに置いておくことが必要と思います。

まとめ

もし、作業療法士を一生やるなら、

今後のお金の問題は

今避けて通れない。

いち作業療法士として、危険だと思う医療・介護・福祉の組織

お金儲けは必要ですが、行き過ぎると、不幸を振りまく存在になります。作業療法士の多くが働く、医療・介護・福祉の領域においてもそれは同様です。そういう危ない組織の見分け方を書きます。

あくまで、一個人の見解ですが、個人的な経験を共有して、ほかの人からの意見ももらいたいなと思って、いち作業療法士としての見解を書いていきたいと思います。

人の出入りが激しいのに、良い評判を聞かない会社

これは鉄板です。間違いありません。

見知った範囲の病院にしろ、施設にしろ、行政の委託にしろ、当てはまります。

ですので、これは間違いない法則だと思います。

人がたくさん入って、たくさんやめていくというだけでは、「ヤバい」とは思いません。いつでも求人があるからといって、ヤバい組織とは限らないと思います。なぜなら、その組織の要求水準が高くて、ついてこられなくてやめていく人が多いだけかもしれないからです。

例えば、プロ野球などの業界や、ファームと言われるようなコンサルタントの会社などは、たくさん優秀な人が入って、たくさんやめていきます。そういう組織は、悪い評判もありますが、反面良い評判もあるはずです。

しかし、良い評判が伝え聞こえてこない組織は本当に大変です。

「忙しいし、現場をなんとも思ってないかも」

そう考えることができるからです。

ですから、ヤバいのは、たくさん人がやめていくのに、いい評判が全くない組織です。

組織に属する前に、できる範囲で、できる限りの情報収集して良い評判が一つでも得られるかどうかというのは、大きなポイントだと思います。

未来を語れない上司

これは、組織に属してみないとわからないことではありますが、直近の上司と最高レベルの意思決定権を持つ人の振る舞いが組織の優劣を判断する大きな材料になります。

両方、いまいちだと思ったら転職を考えましょう。

一番わかりやすい判断材料としては、トップレベルの上司が3年後、5年後、10年後、20年後のビジョンを語れないともうアウトです。

それもなしに、来年のことを語っているトップは結局のところ何もわかっていないのと同じと判断されても仕方がないのだろうなと思います。

何が正しいかなんて誰にもわかるはずはない、というのは、確かにそうです。

しかし、それでも「こうなっていたい」「こういうポジションを占めたい」という欲求を持ったリーダーがいない組織は、よほど恵まれた人材がいないとただの烏合の集になってしまいがちです。社会貢献のできない組織は、ただの金儲け団体になってしまいがちです。

恵まれた人材も、その力を発揮しきることなく、時間ばかりを浪費してしまうことになるでしょう。

ましてや末端社員が方向性のマネジメントができるわけもないので、病院だったらドクターやら、院長、法人の理事・役員・理事長、株式会社なら株主様がどういう方向性やビジョンを持ってるのかを見抜こうとする努力は必要かなと思います。

変わろうとしない中堅以上、お局様

昔に固執して、いろいろな人のやる気を削ぐ人がいるとまずいです。

若手がどんどんやめていきます。

あるいは、働く若手が仕事に一生懸命にならなくなります。

そういう人に対して、人事権のある人物がきちんと権限を行使できない組織は、ダメな組織です。

経営者と繋がりがあるとかなんとかで、グダグダしている組織は最悪ですね。馴れ合いと忖度で、合理性のない組織が出来上がります。

勉強しない若手

専門職として、必要最低限のことは学校で学ぶとして、それでは全然足りないのにもかかわらず、全くその必要性を感じない若手ばかりの職場はアウトです。

そういう人が、将来役職について組織がまともに回るはずがありません。

まさに泥舟なので、沈む前に他の船にうつるなり、自分で泳げるように泳ぎの練習をするなりしておきましょう。

対象者不在の組織理論

これが最悪の組織です。

顧客からの意見をないがしろにする組織は、だめダメです。

利益優先の組織は、国とか保険とか制度ばかりをみて、対象者の結果に責任を持つことは二の次だったりします。

最悪です。

自分が、そういう組織のお客になってみるのが一番手っ取り早いのですが、できればそういう情報収集をしてみていただければなと思います。

まとめ

結局、人がしっかりとしていれば、組織はしっかりするもの

作業療法士はそこをみぬかなきゃ

2017年の末、日本の作業療法(OT)は割と崖っぷちだと思う13の理由

今年までの経験の作業療法の上っ面で、若手風情がわかったようなことを勘違いして書いた記事です。ご無礼仕ります。

先が見えないと言う若い作業療法士が多すぎる

作業療法(OT)が発展するためには、若い作業療法士が、どの程度活躍できる余地があるかが大切だと思っています。

就職して3年すると、その仕事がどんな仕事なのかが見えてくるものです。

日本全体がそうですし、どの企業も将来が見えないので、作業療法だけがそうと言うわけではありませんが、しかし、3年勤めて作業療法がよくわからないと言う作業療法士多すぎませんか。

将来が見えないという作業療法士が多すぎませんか。

若い作業療法士も、将来に向かって自分でアクションを起こしていくことが必要だと思います。

そして、その仕事をより多くの仲間と共有する取り組みを始めるべきだと思います。

しかし、そうはなっていない。

そうなる気配がない。実際に始まっている取り組みが、若手の作業療法士に届いていない。

作業療法の臨床に限界を感じて教育へ行く人が少なくない

作業療法士のうち、教育を志す人の全員がそうではないことは断っておきます。自分の作業療法の研究のために、教育機関に身を置く人もいるでしょう。

しかし、能力の高い作業療法士がこぞって教育に行くのを見るとなんだかなあと言う気持ちになります。

作業療法士のキャリアプランとして、一番儲かり安定していて、将来性が見えるのが教育ってなっちゃってるのも大きいかもしれません。

しかし、業界の構造としてはよろしくないと思います。

人材の交通整備が必要です。

しかし、そのようにはなっていない。

作業療法士の多くが働く病院のパイは縮小する

作業療法士は、病院で働いている人が多いです。

一方で医療保険も介護保険も、生活保護も、今後社会の中の労働人口が減少するので、削られることになると思います。

給料は絶対に増えないので、そのへんは多くの人がなんとなく重怠い雰囲気を感じているところなのかもしれません。

業界全体としては、病院勤務の人が多いので、あんまり元気がなくなって行くかもしれませんねん。

作業療法を必要とする人は、必ずいるにもかかわらず、です。

新しい提案をできる人が少ない

若い作業療法士も、中堅の作業療法士も、リスクテイクするのが難しい。

安定志向ではイノベーションは起こりようがありません。

危機的状況をなんとかすることができるのは、イノベーションだけです。

イノベーションとは新しい仕組みや人のライフスタイルを作り出すような新しい提案のことです

サラリーマンとして働いているのみでは、新しい挑戦は難しいと思います。

その挑戦は、新しい提案を社会に行うこととセットですが、その余裕がないように見えます。あるいは、作業療法士には血の気が足りないのでしょう。優しいですから。

ITへの依存が低い

作業療法士を結婚を境としてやめる人もいます。

そして、別の仕事をする人も。

残念なのは、積極的にやめる人よりも、後ろ向きな理由でやめる人がいることです。燃え尽き症候群と、職場の人間関係を理由とさるる人が多いですよね。

前者は、とにかく忙しさ。

書き物とか、書類とか、そう言う仕事で、疲弊する人が多すぎる気がします。

できること、仕事量、マンパワーに対して、実際の仕事が膨大であるならば、優先順位をつけて、できる限りITにぶん投げて本質的な仕事に集中することが必要だと思います。

本来的にやるべき仕事は、対象者の方の生活をより良くする可能性に賭けることであり、その他は本来オプションですから、自動化できるものはどんどん自動化するべきです。

後者は、職人気質がいきすぎてたりする場合でしょう。

「上の人が言うから、何も言えない」につながるリスクがあります。

これでは、作業療法対象者の利益を優先できないと思います。

若手のやりがいを削ぐ要因の最大のものがここにあると感じています。

組織の風通しを適度に良くするには、号令が重要ですし、合理化も必要でしょう。

そして、そのためのツールとして、ITは非常に強力なツールです。

資源の再利用性が低い

具体性が高いと言うことは、再利用性が高まれば、勝負ができると言うことです。

資源の再利用性が高まれば、大きなコストカットにつながり、顧客である作業療法対象者の利益が増えると思います。

子育て世代が仕事を気楽にできない

作業療法士は、女性の割合が多いのですが、仕組みが女性向きじゃない。

女性のライフスタイルに合ってない。

女性の感性に合ってない

であるからして、

作業療法士の前に立つ女性が育成されない

女性の割合が多い組織なのに、上に立つための技術やスキルを身につけている女性が少ない。

トリッキーでユニークな男性ばかりが目につく現状。

パイオニアクラスの面白い女性の作業療法士はたくさんいるのです。

その先生がたのせいで、ハードルが上がりきってしまっているのかもしれません。くぐればいいのにね、

堅実な現場の結果が、きちんと上に上がっていかないことが、その原因ではないかと思います。堅実な結果を出している作業療法士はたくさんいるでしょう。それをきちんと表現することが十分でないと思っています。

そして、自己主張をすることは、悪いことではないのですが、性分ではないのでしょう。何分にも「人の組織」には合わない性分ということです。

作業療法士は言葉で語るより、背中で語る方が得意なので、そこをもっと補うような何かがあればいいのです。

「それ」がないのです。

現状、仕組みとして、学会発表という仕組みがあります。

が、そのためのコストも捻出が難しいというのが、今を生きる女性作業療法士の実際なのでしょう。

この辺の支援がないのがヤバいですよね。

今の作業療法は複雑すぎる

世の中がシンプルであれば、作業療法はシンプル。

今の世の中は、情報量が増えてどんどん複雑になる。

作業療法が世の中に焦点化しすぎれば、作業療法に必要なコストは際限なく上昇して行くことでしょう。

そうなれば、再現性はどんどん低下して行くこととなります。

学習コストが高いと、新しい人材は育ちませんゆえ、結構深刻な問題なり。

人間の本質は変わらない

焦点を当てるべきは、人間とはどう言う生き物なのかと言うプリミティブなところと言うところは、作業療法の原点とも言うべきところで、ぜったに動かしてはいけないところだと思います。

結局のところ、そこから意識が遠のいていると、作業療法は力を失うでしょう。

エビデンスとは、何に対するエビデンスなのか、そこが人間の本質に結びついていないと、作業療法はとんでもない危機に瀕する、でしょう。

確かに、社会経験の少ない新人類が、作業療法士になると色々大変なので、上の世代の中堅作業療法士はつくづくそんな世代だなあと思いますが、それでも人間の本質は変わらないと言うことを若手が悟るまで粘り強く育てるしかないでしょう。

作業療法のエビデンスは一定の複雑さよりもシンプルにはならない

これは、作業療法にとって一番致命的なところでしょう。

作業療法に関わる多くの人が感じているところではないでしょうか。

観測も記録も、分析も一筋縄ではいかない。

因果関係はおろか、相関関係の証明にすら、非常に多くのコストを必要とする。

さらに、そうして時間をかけて出したエビデンスを理解するにも、一人一人に多くのコストを必要とする。

この仕組みをなんとかしないと、いけないと思います。

ここがなんとかできることが、作業療法を次のステージに進めるポイントになると考えています。

作業療法が変われる兆候がない

作業療法は、もっと劇的に変わらなければならないと思います。

それは、今後社会が劇的に変わって行くからです。

しかし、人間の根源的なもの、感情や情緒にスポットライトを当てつづける不断の試みこそが作業療法には必要です。

変化と堅持の、そのバランスがうまく取れないで苦しんでいるのが今の作業療法です。

だからこそ、今の作業療法のより良い変化に向けた歩みは、もっと加速しなければなりません。

作業療法士が「時代の次の先」を読めない

作業療法は、

今、この時点と

作業療法の対象となる方が観ることができる少し先の未来を

取り扱う

とするならば、作業療法士の仕事はそのさらに先の未来を読み解くことが、専門職としての責務なのではないかと思います。

これから、未来は変わり続けるでしょう。

どんな風に変わるでしょうか?

例えば、いずれ、車の自動運転が当たり前になる世の中がくるでしょう。

自助具は、当たり前のように生活を自在に変えるでしょう。

おそらく、義手や義足の方が、人間の手足よりも便利になる世の中がくるでしょう。

そんな未来で、作業療法士ができる、仕事は、かなりたくさん増えるでしょう。

しっかりと作業療法士が将来を見据えた勉強や研究を重ねて行くことができれば、です。

そう言う勉強がシンプルにできるようになれば、

そして、そういう未来がいずれの現実のものとなると、

そのように思います。

そういう勉強が次の時代を形作る原動力となると確信しています。

しかし、あまねく日本中でそのような勉強ができるようなインフラが整っていないことが、最も

「やばいな」

と思いマす。

まとめ

逆に、上記の理由をなくせば、

作業療法の未来は明るい。

それに気づく人が増えれば、

作業療法の対象者の方の利益は増える。

それが、大事なこと、です。

 

来る年はそのための1年としたいと思います。

リハビリテーションはお手伝いじゃない 作業療法にも通じる人助けの奥義と 人助けがテーマの漫画「スケットダンス」最終巻より

(2020/07/06  割と大幅加筆修正)

作業療法士の語る「リハビリテーション」はなかなか理解されないことが多いです。でも、同じ意味を「すっ」と言ってる漫画のセリフがあるのでご紹介します。

というわけで、この記事には、まんが「スケットダンス」最終巻の壮大なネタバレが含まれています。

もし、出来れば、このスケットダンスという漫画、素敵なので、一巻から、最終巻まで自分で読んで、噛み締めていただきたいので、読むつもりがある人は、そっとブラウザバックしてください。

前置き 実体験した過剰なお手伝いを医師から提案された件

まずは、作業療法の対象者の方と一緒に作業療法中に、とあるドクターの先生から、言われた衝撃的な一言の話から入りたいと思います。

その発言とは、

「なんでやってあげないの?やってあげる方が親切だよね」

という一言。

人助けに関する見解の相違を感じた瞬間でした。

患者様が、貼り絵をやっていたのですが、確かに作業ペースはお世辞にも早いとは言えず、その先生がやれば10ぷんくらいで終わる内容に30分以上の時間をかけて取り組まれていた場面でした。その方は手伝って欲しいとも、もうやりたくないとも一言も言われていませんでしたし、むしろ楽しそうに黙々と取り組まれていました。

その時は、正直かなり戸惑いながら、「どうしようかな」と思いながら、リハビリテーションとはという話をその先生とすり合わせる作業をしました。

ぶっちゃけ、

先生それをやっちゃあ、リハビリテーションとしちゃあおしまいでしょう。

ということがありました。ご説明したら、納得はしていただけましたが、リハビリテーションの構造は継続的に説明しないといけなくてそのコストが都度発生すると、改めて確認することになりました。

困ってるのになんで代わりにやってあげないの? という呪い

リハビリテーションの現場を他職種が見た時に、

困ってるんだから、代わりにやってあげないの?

とか

ともすると、

なんで意地悪するのさ?

なんてニュアンスで、尋ねられることもあったりします。最近は、おそらく協会レベルの認識がかわってきたのでほとんど言われることがなくなってきたのですが、それでも、そのあたりは世の中の雰囲気に影響を受ける部分ですし、リハビリテーション・作業療法を語るのは難しいです。

飢えてる人に食べ物を与えるのは正しいか

スケットダンスはもうしばらくお待ちください。

たとえ話をひとつ。

先ほどの話ですが、つまり、いち作業療法士としては、直接的な対処療法は、個人的には緊急的なもので、状態安定したらすぐにやめるべきと感じています。

無用な援助の継続は、本人能力の低下に直結するからです。

とある小説に

『食べてない人に

「人はパンのみに生きるにあらず」

って言っても

うるせえ馬鹿ってなもんだろ』

という、一節がありまして、妙に気に入っているのですが、これは対処療法の重要性を端的に表現しています。対処療法は極めて有力な選択肢の一つです。

一方で、飢えてない人物にいつまでもパンを低コストで供給するのは違うだろ、って思うのです。それは、その人が、自分で自分の人生を管理する力を奪うことにつながるからです。

飢えている人には、自分でパン、もしくはそれに代わる食べ物を自らゲットする能力を身につけてもらうことが、その人の生活の豊かさを増やすことになります。

作業療法における支援の量も、評価の元に、適切な量と質で提供されないと、無用な依存を引き起こしてしまったり、逆に栄養失調を引き起こしてしまうことになります。

リハビリテーションとは、再構築である

そもそも作業療法は、リハビリテーションの方法論の一つです。ですから、リハビリテーションの枠組みを踏まえて、勝負しなければならないと思います。

つまり、その人の人生の復権に貢献しないことがらを、「手助け」と称して実行していても、それはもはや作業療法とは呼べない、別の何かということです。

それは人生の再構築とも呼べる過程の一旦であると思います。その人の人生を再構築する手助けをするのが、リハビリテーションであり、作業療法と考えます。

作業療法と人助け

繰り返しになりますが、作業療法士は、ある面では確かに「人助け」を行う仕事です。

しかし、直接的な援助をいつまでも質と量を調整せずに、供給し続けてはいけないということです。

なぜなら、当事者である作業療法の対象者が、「じぶんでできるようになる」、つまり、主体的に選択、行動、決定が行えるよう支援するのが作業療法士という仕事だからです。

ですから、生活の再構築の支援を行う作業療法士は、支援とは何か、作業療法における「人助け」とは何かを理解していなければなりませんし、それを対象者や家族、他職種と共有しておく必要があります。

漫画 「スケットダンス」最終巻における人助け

お待たせしました。スケットダンスです。この漫画のセリフが、リハビリテーションにおける人助けの根本を表現していると確信します。

ちなみに、冒頭でも多少触れましたが、スケットダンスという漫画は、高校生三人組が、いろんな問題に面白おかしく時にはシリアスに挑むなかでの、成長を描いた学園ものです。シリアス回は、いろいろと考えさせてくれる漫画だったので結構好きで、連載中から読んでおりました。

その中でも、特に感銘を受けたのが、最終巻で、主人公が自分の人助け観を語る場面でした。

それが、学園理事長から「人助け」とはなにか、と問われての以下のセリフになります。

©︎篠原健太/集英社

「理解者になること

乗り越えることは 変わることじゃなくていい

その人が 今いる位置を認めて 愛しいと思えるように

背中を押すこと」

どうでしょうか。

私個人は、初めて読んだ時に、ああ、その通りだな、と思いました。うまく言うものだなあと思いました。

このセリフは、まさに作業療法とか、リハビリテーションの理念そのまんまです。いろいろな要素を内包しています。支援する側とされる側が互いを対等な存在と感じないと、なかなか理解できないでしょう。その意味で、微妙なニュアンスをうまく伝えうる貴重なセリフだと思います。

冒頭の医師とのやり取りにこのセリフを当てはめると見えてくるものが今回伝えたかったことです

冒頭エピソードを少し振り返ってみたいと思います。

対象者さんが大切にしていたことは、「やってる、やれてる感覚」とそれを実現しつつある自分自身という存在なんですよね。決して、貼り絵がクオリティ高く仕上がることでも、ラクに出来上がることでもないんですよね。

いまの自分ができる精一杯を取り組んでいる自分自身を肯定する力こそが、作業療法対象者の主体性であり、それをそっと支えるのがリハビリテーションないし、作業療法士の仕事なのではないでしょうか。

人助けとは

「理解者になること

乗り越えることは 変わることじゃなくていい

その人が 今いる位置を認めて 愛しいと思えるように

背中を押すこと」

作業療法士にできる手助け

本人ができることを本人がやって、本人がそれでいいと思えるように支援・応援することが作業療法士の仕事と思います。

極論、方向性が正しいのであれば、直接的な介入がなくても、ちょっとした声かけを適切なタイミングで適切な量と質で行うことで、その人の支援が完結するかもしれません。

©︎篠原健太/集英社

いわゆる勇気づけってやつですね。

足りないのはもちろんいけないし、支援しすぎるのはもっとよくない。

だから作業療法士は、専門職なんですよね。その量的質的コントロールが職人技だから需要があるのだと思います。

ほんとうのところは、作業療法士なんていう職業がなくても、困っている人の周りのひとが「大丈夫だよ」とちょっと応援してあげて、本人も「ありがとうでももうちょっと頑張ってみるね」と、その相互作用でいけたら一番いいんです。作業療法士なんていらない世の中が一番いいんです。

世の人がみんなそれに代わる行為を日々行うことができるのが一番望ましいと思ってます。

でも現実はそうじゃないから、その辺はわきまえて作業療法士として対象者の方にできることをやり過ぎないようにやっていくことが大切だなーと思ってます。

ということで、以上スケットダンスから教わった「人助け」の極意でした。

蛇足

その他にも、作業療法士として参考になるなあと思った内容はたくさんあります。

たとえば、最終巻で、主人公たちが文化祭の出し物を考えるシーンがあります。そのシーンでの、やり取りや思想はまさにユニバーサルデザインを体現しています。

みんなが、個性を発揮して参加できるためにはどうしたらいいか、そのためのありようはどうあるべきかと知恵をしぼる。決してシンプルなだけでは実装が難しいため、このコストを現実では渋るんだよなあと、でも大事なんだよなあ、改めて痛感するいいお話です。

そのあとの、スイッチのあれこれとかも感動的なんで、最初から最後まで、ぜひ全巻読んでいただきたい。スケットダンス。

子宮頸がんワクチン問題と「医学的な真実が殺される」社会で作業療法士をやってるということ

作業療法士は、日本では医療職に分類されますが、医療関係の情報の取り扱いの闇というか難しさを感じる「子宮頸がんワクチン問題」、ご存知でしょうか?

医師でジャーナリストの村中璃子氏が、ネイチャー誌などが選出するジョン・マドックス賞の今年の受賞者に決定したことを知り、追加で関連情報を知れば知るほどに、衝撃を受けたので記事にしました。

先進国である日本の、医療情報の扱いの質には、こんなに低い面もあるんだよ、っていうところを感じていただければ幸いです。

2017年12月17日 追記:最後に新しい記事へのリンクを追加してます。

子宮頸がんワクチン問題のここがヤバい

「科学的正しさ」が、国などの大きな組織・団体に黙殺されてしまったことです。

加えて、医療に関係する情報を受け取る側が、何を信じたらいいかわからなくなる点です。多くの人が、テレビでやってる情報は正しいと思う日本の世の中なのに、その信頼を裏切るような情報がテレビで提供されていた、と言い切ってしまって良いと思います。

この2点は、情報がスピーディーかつ大量に消費される世の中の宿痾とも言えるのではないかと思います。この問題意識は、もっと世の中から重要なものとみなされる必要があると思っています。

そもそも子宮頸がんワクチン問題

ここでいう、子宮頸がんワクチン問題とは、以下のようなものです。

そもそも、子宮頸がんには様々な原因があることを前提として、そのうちの80%以上は2つの型のヒトパピローマウィルスの感染によるものと言われています。

こうした子宮頸がんを予防するには、上記のウィルスに効果のある子宮頸がんワクチンの投与が安全かつ有効だというのが科学的意見です。

しかし、「子宮頸がんワクチンの使用によってけいれんや歩行障害、神経性の副反応が出る」という趣旨の反ワクチン運動がメディアに取り上げられ、日本政府はその主張に根拠がないと認めながらも、子宮頸がんワクチンの投与に及び腰になってしまったということがこの問題です。

このように、

子宮頸がんワクチンのリスクが過剰に強調されたが故に、

子宮頸がんワクチンが投与されていれば、本来子宮頸がんにならなかった女性が子宮を失い、

その人に本来生まれているはずの子供が失われる

というなかなかショッキングな事態が、

「国の政策によって」

引き起こされているのでは、という問題

です。

村中璃子氏の仕事

前述のような状況に強烈な違和感を感じたのが、医師でありジャーナリストの村中璃子氏でした。

子宮頸がんワクチン副作用の研究の過程で、不正があったことを指摘し、理路整然と、反ワクチン運動への反論を行いました。

その過程で、名誉毀損で不正な研究を行った科学者に訴えられるなどしながら、間違いを科学的な視点で正した功績が認められ、あの著名な科学雑誌ネイチャー誌などが選出するジョン・マドックス賞の今年の受賞者に決定しました。

コラム 「報道しない自由」を行使する日本のメディア

筆者は、ネットの情報から、今年のジョンマドックス賞について知りました。

しかし、大手のメディアでは、あまり報じられているところを見ていないです。

同じ違和感を感じているネット上の意見を見ましたが、ジョン・マドックス賞という有意義な賞を受賞したことを、もっと、日本のメディアは日本の医療情報に責任を感じるのであれば、大々的に報じるべきだと思います。

今回のことで、今の日本のメディアに正しい情報を広めることを期待してはいけないということを学びました。ある意味で、誤報を流してしまったということを認めてでも、きちんとした情報を流そうという姿勢が欲しかったです。

そうなると、ネットを使って情報収集した方が、まだ検証することを心の片隅に意識してるという面で、積極的でいいのかなと思います。

作業療法も科学性大事

リハビリ界隈にて、ある組織で大御所さんとかベテランさんの発言が影響力が強くて、科学性が失われてしまう現象と今回の件が重なりました。

心は大切です。

それを前提として、科学性を本当に大切にできているか、をきちんと問い直す時期にリハビリテーション、作業療法の世界もきてると思います。

今回のことを教訓として、作業療法士の世界にも必要になってることはなんでしょうか?

論理的思考の強化

論理的思考能力はいわゆる「できる」人たちが共通して獲得している能力ですし、科学を支える根底です。

情緒を使いこなすには、確かな論理的思考が必要です。

実践と同時に検証研究ができる環境設定

AIとかビッグデータとかを活用するのが普通になってる世の中です。

普通の臨床で、研究できるような枠組みを発明することも必要かなと思います。

実際の関わりと、その結果の相関や因果関係を検証できる仕組みの導入が作業療法の世界全体に必要になっていると思います。

作業療法士の学術的な知識技能の向上

作業療法士で学術的な分野で活躍している人は、同じ顔ぶれの人が多いです。

これは、臨床しながら研究するのが大変だからということに加えて、学術的な内容をきちんと理解するには、臨床とはまた別の能力が必要になるからだと思います。

まず必要なのは、作業療法士一人一人が研究の内容を検証できる能力を獲得していることだと思います。

そして、自分の臨床を学術的かつ科学的に説明するためには、どのようにすればそれが可能なのかということを学んでいく必要があるのだと思います。

発信能力の強化

作業療法士一人が、その治療方法や主義の有効性を認識していたとしても、それを周囲と共有することができなければ、本当は解決することができたはずの世の中や組織の課題を解決することができないということになります。

そうならないためには、科学的に正しいことを、きちんと周囲に対して説明することができ、広げることができることが必要です。

人と繋がることができ、作業療法士としての自分の意見に耳を傾けてもらうことができるような自分であること、そのためにも、情報を科学的に検証する能力を獲得する努力が必要だと思います。

疑うこと

偉い先生が言うから、

科学者が言うから、

映像があるから、

本当に正しいのか、

書籍になっているから本当に正しいのか

いろんなツールが安価に使えるようになってるんだから、

車輪の再発明するくらいの気持ちで、

疑って、試して、

「ああ、ほんとだ」

と思えることが一番必要かなと思います。

誰かが言ってることを鵜呑みにするんじゃなくて、

覚悟を持って、その情報に相対することが必要だと思います。

自分で考えて自分で決める

作業療法士として、一番大切なのはここだと思います。

お金儲けの現実といろんなバランスを取るためには、作業療法士に一番必要な能力は、心情と科学性を踏まえて、自分でしっかりと考えることだと思います。

安直な感情に惑わされず、社会とその問題解決にとって本当に必要なことを提供できることが、作業療法士が本当の意味で社会貢献できる唯一の方法論だと思います。

周囲からどれだけ圧をかけられても、貫けるだけの村中璃子氏のような強さを作業療法士一人一人が獲得するには、本当の意味で「自分で考えて自分で決める」と言うことが必要になると思います。

今も将来も大切にする

今をごまかして、将来を台無しにする無責任を、リハビリテーションと称してやってるとしたら最低なので、一作業療法士としては、そのようなことがないようにしたいと思います。戒め。

まとめ

いち作業療法士として、

「正しいこと」は、科学的に自分で見極めるべし。

参考:

https://www.buzzfeed.com/jp/satoruishido/hpv?utm_term=.xaeNn45GK#.wsxzKWamg

http://blogos.com/article/264220/

http://www.sankei.com/premium/news/171216/prm1712160022-n1.html

OT評価実習生:OTSにOT五年目が感じた 実習中の成長を左右する要素の「ヤバさ」

短期(評価)、長期(総合臨床実習)に関わらず、実習中の学生目線だと理解できることがあります。

一方で、経験年数が増えて、経験値もそれなりに増えると、ここ最近はじめて感じることがありました。

その2つの間のギャップの話です。

「何をしに、実習にきたの」

実習を通して、成長する学生と、

あまり変化なく帰っていく学生との間には、いろいろな違いがあります。

その違いは、普段の臨床にも通じる大切な「違い」だと思っています。

後者の学生がよく言われるのが、

「何しに来たの」

です。

これが、その理解のためのキーワードであるように感じています。

何のための実習かがわからない

「実習に行くことになっているから、実習に行く」

という学生が少なからずおります。

実習のための実習、実習が自己目的化している学生です。

こういう実習生が、上記のような質問を実習中に繰り返しぶつけられて、あまり成長なく、実習に対する傷つきだけを感じて帰っていくことが、ままあります。

そのタイプの実習生は、なぜ生まれるのでしょうか。

そしてなぜ、実習生は傷つくのでしょうか。

作業療法学生:OTS目線での実習

申し訳ないのですが、引用できる資料もないので自分語りになります。

でも、自分の学生時代、OTSのときの実習を振り返ると、その傷つきのヒントにはなると思います。

学生の頭の使い方の典型とおもうのですが、

「学校で学んだことを、臨床で生かす」

という思考回路があります。

学生の作業療法観は、授業の中の情報や、講師の話によって構成されます。

それのみによって構成されていることがほとんどではないでしょうか。

すると、学生の行動原理は、

「いままで自分が学んできたことを実践してみること」

になります。

そして、それができることによって、実習が合格となるというモデル(妄想)が頭にあります。

これが、実習の為の実習であると、臨床家のOTRのみなさまから批判されるところだと思いますが、学生の側からすると、むしろ自然ながんばり方なのではないでしょうか。

それなりに臨床経験のある作業療法士:OTR目線での実習

一方で、かつてOTSであった作業療法士:OTRの側に立つと、今、実習で学生に求めることはシンプルです。

目の前の対象者に対して、いち作業療法士、いち臨床家としての今の自分での最善を尽くすこと、です。

作業療法士として、実地で経験をかさねていくうちに、自然と評価できるようになることはたくさんあります。

それは、養成校で学ぶこともたくさんありますが、養成校で学ばない、学べないこともたくさんあります。

身体障害領域で例にとると、ポジショニングの常識も日進月歩です。

かつては、

「隙間をうめる」

がポジショニングの王道でした。

しかし、やり方をまちがえると、日々のポジショニングの積み重ねが屈曲拘縮をつくりだしてしまうということがしられるように、徐々になってきています(多分知られて来て、浸透していると信じたい)。

別の例で言えば、かつて推奨されていた、教科書にも載っているような、移乗の方法が、実は自立度の低下につながる場合もあります。

このような学びが、学校でできたか。

告白します。

私個人の経験からすると、不真面目な学生であった私はできておりませんでした。

そして、その学びは、先進的なものであればあるほどに、教科書中心の座学授業の中では決して学ぶことができない、臨床による技術的なものや、それに基づく評価であったりします。

それは、国家試験を念頭に置いたものではない、日々の臨床、実践を念頭に置いたものだからです。

作業療法に正解はありません。現在地点が人それぞれで、ゴールも人それぞれだからです。

かつての正解が、状況によっては不正解になることもありえます。

そのことを、経験値として知っている作業療法士ほど、OTSに対して、将来の臨床家として、今現在の最善をつくすことを求めますし、実習とはそのようにするべき場所だと思っています。

だからこそ、臨床家として、実習態度がどうのこうの言うわけです。

それが臨床の結果に直結することを、経験則として痛いほどわかっているからです。

つまり、作業療法士:OTR目線での実習とは、

「実習中の事象から、素直に考えて、行動すること」

だと感じていると思います。

自分はそう感じるようになってきています。

このギャップ 「ヤバい」

実習の指導は、OTSとスーパーバイザーであるOTRの間の事象なので、目指すべき場所が共有できてないとこじれます。

作業療法士の側としては、自分の目線から、上記のような学生の実習への取り組み方を見ていると、

「なにしにきたの」

となるわけで、それを学生に伝えます。

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言われたOTSは、なんで自分がそんなことを言われるのかも、わけがわからず、萎縮してしまい、その結果としてスーパーバイザーが求める実習態度から乖離していき、その度に「なにしにきたんですか」といわれるという悪循環が生じてしまいます。

その結果として、実習中の表出が制限され、なにもかわらないままに実習終了、お疲れ様でした、となるわけです。

自分の理解としてはこういうパターンは少なくないと思ってますし、間違ってないと思います。

作業療法士としての仕事時間のほんとうに貴重な時間の一部をボランティアの実習指導に費やして何も学生が成長しないままに実習終了するとか、本当に悪夢でしかないのですが、少なくないと思います。

正直、やばいなーとおもいます。

やばいなーと思いませんか。

では何でこういうことがおきるのかというと、上記を踏まえるとOTSとOTRの双方に要素がありそうです。

作業療法士の労力に見合った分、学生がたくさん学んで、成長して帰るようにするには、どうしたらよいでしょうか。

OTSは、自分の将来像を考えると幸せになれる

いろいろあるけれど、たとえば。

実習に来る前に、どんな職場働きたいのかは、なんとなくでも決めておくことです。

べつに後で変更したってかまわないので、自分はどんな領域のどんな場所で働きたいのか、それを明確にしてそれをスーパーバイザーであるOTRに伝えることです。

そして、そこで働くためには、自分はどんなことが必要と考えているので、どんな学びをその実習で得て帰りたいかということまで明確にできると、将来の自分のために動けるので、多少能動的になれるかもしれません。

自分なりに、自分自身について、実習に行く前に真剣に考えておくことが、実習前に行う準備として必要だったのかなと思います。

自分の将来像について、明確にできるといろいろ幸せになれそうな気がします。

作業療法士が学生時代の自分の体験(忘れたい?)を思い出す

本当に真剣に取り組んでる作業療法士ほど、日々の臨床がとんでもなく忙しいので、かつての自分を振り返る機会なんてありません。

今の自分の感覚や感性を基にして学生と関わるので、上記のような問題が発生するのではないでしょうか。

過去の自分を思い出してゾッとすると、目の前の学生が少しは可愛く見えるかもしれません。

いち作業療法士として学生目線をいつか忘れる恐怖

個人的な感覚ですが。

学生のことがいつかわからなくなるのが怖いです。

そのリスクは、自分が作業療法士として経験を重ね、成長するほどに高まるものだと思います。

学生のことがわからない作業療法士は、その学生の3年後を見据えた効率のよい指導や助言ができないのではないかと考えています。

後進育成のへたくそな作業療法士にはなりたくないので、いつか自分が今の自分の感覚だけに頼りすぎることが非常に恐ろしいです。

謙虚に

自分のことは棚に上げないと指導ができない場面は、確かにあります。

だからといって、それが行き過ぎて、かつての学生時代の自分の不出来と乖離したような実習目標を学生に負わせるのは、あまりにも雑な指導だなと、自分と学生とのかかわりを通じて思います。

養成校側から、よく言われる

「学生を患者様だと思って指導してください」

というのは、

「患者様に関わるときと同じくらい謙虚な気持ちで」

と自分なりに読み替えることにして、学生の成長を自分の糧にもできたら、自分はより良い作業療法士になれるかな、と考えています。

そうしておけば、学生にも謙虚になーれ、と指導しやすいです。気持ち的に。

互いを知れば「ヤバさ」は軽減できる

認知症の方への介入は、相互理解の促進にありますよね。

OTRとOTSの関係も同じではないかと思うので、この記事を書きました。

すこしでも「ヤバさ」が軽減されれば幸いです。

やり取りがしたい

こんな独善的な文章を読んでくださり、ありがとうございました。

よんでくださっている皆さんは、なにかしらおもところがあるはずです。

なにか気になる点がありましたら、LINE@をやってるので、そちらでメッセージ飛ばしていただければ、私自身の学びになりますので、よろしくお願い存じ上げます。

作業療法.netのLINE@アカウントはこちら

特に学生諸君の等身大の意見があると非常にうれしいです。

わからなさや不安があれば、質問していただければ、答えられる範囲でクローズドにやりとりします。

年取ると頭が固くなるな、と感じる今日この頃です。よろしくおねがいします。

キーワード「MOHO」でgoogle検索したら、OT関連じゃなかった件

あかんやろ。

MOHO大事

MOHOもとい、人間作業モデルって、作業療法士的には大事ですよね?

Model of Human Occupation ってだいじですよね?

大事でしょ?

あんまり大事じゃないかしら。

作業療法関連の概念の中では、結構重要な理論だとおもってただけに今回の検索結果は結構ショック

と、同時に結果が妥当だと思う自分も嫌い。

google検索結果

今回は、キーワード「MOHO」で普通にgoogle検索をかけました。

ふと検索したんですよ。

そして、その検索結果1ページ目は以下のような感じ。

src_moho.png

ご覧のように、1ページ目にはまったく出てこない。(2017/09/29現在)

2ページ目でようやく登場する。

これは、いかに、一般に作業療法が浸透していないかを、証明してしまっている。

そう受け取らないといけないと思いました。

危機感MAX

一般の人が検索することはまずないでしょう。

作業療法のキーワードで、どの程度の検索があるのかも微妙です。(あれも、ヒットするのは養成校の広報HPがほとんどです。インターネット検索対策をきちんとやってるサイトが多いためと思われます。)

ですが、ふと違った考えが浮かびました。

学生とか、作業療法士もひょっとして、あんまり検索してないのかなあーなんて思いました。

そもそも、人間作業モデル授業で触っただけっていう人も少なくないかもしれません。

でもそれだと、ほかの理論を学ぶときのコストも大きいし、作業療法をうまく説明できるのかも正直不安になります。

インターネット上に有意義な情報がなかったら、確かにそもそも検索する気持ちも起きんですね。

自分自身振り返ってもそうかもしれません。

MOHOの解説書きます

だから、MOHOの解説文を書くことにしました。

言い訳しておきます。

いろんなことと並行作業になるので、すぐすぐには公開できないと思います。

でも、きっとこのページを見てくださっているまじめなOTさん達や、作業療法の貴重なフォロワーの皆様におかれましては、多分、何らかの需要はあると思いますので、なるべく早く仕上げたい。

完成がいつになるかはわかりませんが、年内には書き上げたいなあ。

年末忙しくなるので、実質あと一ヶ月以内に、原稿はまとめないと年内は厳しいかもですが、ちょっとこのgoogle検索の結果はアカンと思うので、その気持ちをモチベーションにがんばります。

自分自身を追い込むために書きます。

がんばろう。

がんばれるかなぁ。

がんばります。